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訳知り顔の「神聖天皇」批判を批判する by 阪本是丸 ──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 1 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月7日)からの転載です

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訳知り顔の「神聖天皇」批判を批判する by 阪本是丸
──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 1
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 平成二十八年人月八日、天皇陛下は「退位 (譲位)の意向が強く滲み出ている」とされる「おことば」を、国民に向けて発表された。それから一年有余が経ち、すでに(平成30年)六月には「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」も成立、公布された。

 一部の報道によれば、政府はこの九月中にもこの法律の施行日 (退位期日)を政令で定める方針とのことであつたが、現時点 (九月十八日現在)では政府に特段の動きはない。その動きについては、ここで触れるつもりはないが、既に神社界からも特例法を前提とする改元を含む一連の譲位 (退位)関係の行事・儀式の具体案も提示されている (神社新報社内に設置された「時の流れ研究会」の見解が九月十一日付けの神社新報号外に掲載されている)。

 本研修会では、この一年間の政府や民間、特に神社界の「譲位 (退位)」 をめぐる動きについて触れる余裕はないが、明治天皇の武蔵一宮氷川神社御親祭に象徴されるように、時恰も明治維新百五十年を迎える秋(とき)に際し、小生の前口上として「特例法」制定の決定的な契機となった「おことば」から受けた小生個人の想いを吐露することにする。


▽1 来たるべきときがきた

 小生が「おことば」を拝して、瞬時に想起したのが、これは幕末維新期をも含む「近代」及び現時点までに至る皇室制度の抜本的見直しを示唆されているのではないのか。だとするならば、戦後もなお実質的には存在し、機能してきた近代的皇室祭儀 (祭祀のみではない)をはじめとする近代の神宮・神社の総合的体系的祭儀制度の根本的再検討の必要性を迫るものではないのか、ということであつた。

 率直な感想は、とうとう来るべき事態が到来したのだ、に尽きる。

「譲位(退位)は光格天皇以来二百年振り」などという、これまではほとんどの国民が知る由もなかった歴史的事柄が報道・流布された。これを契機に、長い天皇制の歴史からいえば「譲位」が当たり前のものであつたのであり、譲位を否定した終身在位制はたかだか二百年、しかも明治の皇室典範制定の際に伊藤博文が「譲位」の採用案を一蹴して決まった制度に過ぎない、とさも訳知り顔の論が噴出したのである。

 だが、小生に言わせれば「象徴天皇制」とて、たかが七十年の制度ではないか。年月の長短で歴史的価値判断を加味するのなら、「神仏習合は千年以上続いた、それに対して神仏分離はたかだか百五十年」、と同じ論理である。

 五十年以上の昔、「明治百年にかけるか、戦後二十年にかけるか」といった踏み絵的二者択一の議論があったが、天皇制度の問題を戦前の「神聖天皇制」か、戦後の「象徴天皇制」かに大別してその採否を追る論法が今般の「譲位」問題に関連して声高に出現している (片山杜秀・島薗進『近代天皇論──「神聖」か、「象徴」か』、集英社新書、2017年1月、等)。


▽2 「上からのナショナリズム」

 とりわけ、以下に引用するような物言いが「おことば」を一種の「権威」として語られる時、改めて小生なりの「応答」をしておく必要性を痛感する (実際にはこの四十年近くやってきたつもりではあるが、如何せん非力であったことは慙愧に耐えない)。

島薗 戦前の国体論が国家神道と不可分の関係にあり、神的な由来をもつ神聖天皇への崇敬を求めるものだったことを思い起こせば、こうした文脈で「国体」が、宗教的な意味を含んで語られていることは明らかです。
 つまり、神話的な始原に遡る神的天皇という宗教的観念です。生前退位を認めないと主張する論者たちは、生前退位が天皇の神聖性を脅かすという理由に重きを置き、そう主張しているのです。
 彼らは戦後の天皇が神聖性を薄めて、国民とともにある人間君主であることが、まちがったことだと考えているのです。

片山 有識者会議のヒヤリングで櫻井氏が「求められる最重要のことは、祭祀を大切にしてくださるという御心の一点に尽きる」と述べたこととも一致しますね。

島薗 そうです。彼らの主張は、尊い「国体」を護るという神聖国家の信念に基づいています。ただ、祭祀を大切にするのが伝統だと言っても、戦前にあった一三の皇室祭祀のうち一一は明治期につくられたものです。つまり新しい伝統をフィクションとして創造した「上からのナショナリズム」です(前掲書)。


 今更、この程度の対話本にむきになることはないと悩みもし、躊躇もするが、本発表も「阪本の単なる想い付きのアジテーション」と思われるのも癪なので、多少の学問的批判を加えておく。

 島薗氏は「神話的な始原に遡る神的天皇という宗教的観念です。生前退位を認めないと主張する論者たちは、生前退位が天皇の神聖性を脅かすという理由に重きを置き、そう主張している」と述べている。



▽3 学問的根拠なき思いつき

 同書によれば、そうした主張の代表者は加瀬英明、櫻井よしこ、小堀桂一郎などの各氏であるらしいが、小生に言わせれば「生前退位 (譲位)」を「認める。認めない」の話ではない。

 そもそも「譲位」制度であれ、「終身在位」制度であれ、少なくとも近世に入ってからの最初の天皇とされる後陽成天皇の後水尾天皇への譲位の宣命においても大宝(養老)以来の「明神(現神)と大八洲国所知す天皇」云々の定型文言(公式令詔書式)は使用されていたのである。

 後陽成天皇が後水尾天皇に譲位された時の慶長十六年二月の宣命にも「現神と大八洲國所知す天皇」云々とあり(慶長十六年二月)、またそれに対応して後水尾天皇は「天照坐皇太神の廣前に恐み恐みも申賜はくと申す」と、後陽成天皇の譲位を受けての即位の由を伊勢の神宮に奉告・奉幣されて「寳位無動・天下昇平・海内静謐」をお祈りになつている。

 このように、「譲位」されようがされまいが、天皇であるかぎり天皇は「現神(あきつみかみ)として大八洲国をしろしめされている」という観念は少なくとも近世においても一貫した「観念」である。

「生前退位を認めないと主張する論者たちは、生前退位が天皇の神聖性を脅かすという理由に重きを置き、そう主張しているのです」との島薗の物言いは、こうした歴史的背景を無視している。

 因みに、近世初の女帝であった明正天皇の後光明天皇への譲位の際の宣命 (でさえ)も「現神止大八洲國所知須倭根子天皇我詔良麻止勅命乎」とあるのを知っている者にとっては、「戦前の国体論が国家神道と不可分の関係にあり、神的な由来をもつ神聖天皇への崇敬 を求めるものだったことを思い起こせば」などという言は学問的根拠を欠いた単なる想い付きとしか評しようがない。


▽4 古来の山陵祭祀があったればこそ

 次に、「祭祀を大切にするのが伝統だと言っても、戦前にあった一三の皇室祭祀のうち一一は明治期につくられたものです。つまり新しい伝統をフィクションとして創造した『上からのナショナリズム』です」という指摘について。

 島薗氏が言う十三の祭祀とは、明治四十一年に制定された皇室祭祀令でいう大祭の、(1)元始祭 (一月三日)、(2)紀元節祭 (二月十一日)、(3)春季皇霊祭 (春分日)、(4)春季神殿祭 (春分日)、(5)神武天皇祭 (四月三日)、(6)秋季皇霊祭 (秋分日)、(7)秋季神殿祭 (秋分日)、(8)神嘗祭 (十月十七日)、(9)新嘗祭 (十一月二十三日・二十四日)、(10)先帝祭(毎年崩御日に相当する日)、(11)先帝以前三代の式年祭(崩御日に相当する日)、(12)先后の式年祭 (崩御日に相当する日)、(13)皇妣たる皇后の式年祭 (崩御日に相当する日)を指す。

 確かに、これら十三の大祭のうち、(8)の神嘗祭と(9)の新嘗祭を除けば、他の十一の大祭は「明治期につくられたもの」であり、そのうちの大半を占める(3)(5)(6)(10)(11)(12)(13)の七つの祭祀は皇霊祭祀系統であり、(1)は皇位の大本、(2)は神武天皇創業、(4)(7)は天神地祇に関する祭祀である。

 幕末期の孝明天皇の御世の年中行事を記した勢多章甫の『嘉永年中行事』に記載・説明されている祭祀と比べるならば、誰しもがその「前近代」と「近代」の相異に気付くであろうことは確かである。

 だが、皇霊祭祀系統について簡単にいうならば、歴代の天皇を葬る山陵での祭りについては、律令制時代にも治部省諸陵司 (みささぎのつかさ)で「正一人。掌らむこと、陵の霊祭らむこと」とあり、また延喜式の諸陵寮では神代三陵を筆頭に初代神武天皇以来の山陵等が記載され、「凡毎年十二月奉幣諸陵及墓」と規定されている(荷前の奉幣)。

 この律令や延喜式に規定された山陵での皇霊祭祀が存在したからこそ、近世における山陵調査・復興運動や幕末期の山陵修造事業が遂行されたのであり、結果的には近代的な皇霊殿・山陵での皇霊祭祀として形成されたとするのが歴史的展開であったと考えるべきである。


▽5 天皇の祭祀に何の不都合があるのか

 初代の天皇である神武天皇関係の(2)及び(5)の祭祀にしても、この歴史的背景・脈絡を無視しては語れないだろう。

 そのことは、近世最後の天皇であり、近世から近代への橋渡しをされたといっても過言ではない孝明天皇の文久三年(1963)二月の「神武天皇山陵修造の宣命」を見れば明らかなことであり、前記『嘉永年中行事』だけでは決して読み取れない歴史的展開の実態が窺えよう。

 そこには 「天皇我詔旨良麻止掛巷母畏伎畝火山東北陵爾申給波久止申須高天原爾事始給比志神漏岐神漏美乃命持氐吾皇御孫尊乃長御代乃遠御代止天津日嗣乎彌継継爾所知食来斯御代乃中爾波甚伎世乃乱逆毛有氐諸陵寮乃官人毛何時志加絶果氐」云々とあるように、元始祭や神武天皇関係祭祀に直結する思想・観念を示す語句が鏤められている。

 こういつた思想・観念が近世を通してますます強化・普及し、その具現化としての近代皇室祭祀へと結実したのである。

 これをして、島薗氏はいとも簡単に「新しい伝統をフィクションとして創造した『上からのナショナリズム』です」と一蹴しているが、だとするならば後陽成天皇も慶長二年 (1597)の時点で「仮名文字遣」の奥書に「慶長二稔孟子春下澣 従神武百数代末孫和仁 廿七歳」などとは認められなかった筈である。

 たとえ島薗氏が近代の皇室祭祀を「フィクション」と言おうとも、今なお御不例などがない限り、今上天皇は元始祭や皇霊祭、神殿祭を親祭されているし、平成二十七年の神武天皇二千六百年式年祭の山陵の儀でも拝礼・御告文を奏されている。

 これが歴代天皇の大御心を体してのことであることはいうまでもなかろう。そこに天皇の神聖かつ象徴的なお姿を拝することに何の不都合があるというのだろうか。


▽6 補注「現神と大八洲國所知す天皇」

 天皇を「明神。現神。現御神」(あきつみかみ)と形容することは孝徳天皇大化元年七月の高麗使への詔に見える。

 その後天武天皇十二年正月の「天瑞に依り大赦及び課役免除の詔」の「明神御大八洲日本根子天皇勅命者(あきつみかみとおほやしましろしめすやまとねこすめらみことのおほみことのりにませ)」、あるいは文武天皇元年八月の「即位宣命」などに使用されて以来、明治天皇までの即位などの宣命に一貫して用いられてきた。

 慶応四年八月の明治天皇即位の際の宣命にも、「現神と大八洲國所知す天皇が詔旨らまと宣ふ勅命を、親王、諸臣、百官等、天下公民衆聞食と宣ふ (あきつみかみとおほやしまくにしろしめすすめらがおほみことらまとのりたまふおほみことを、みこたち、おみたち、もものつかさびとたち、あめのしたのおおみたからもろもろきこしめせとのりたまふ)」とある。

 また即位の際のみならず、前記したように譲位の宣命においても「現紳と大八洲國所知す天皇」云々の定型文言は使用されていた。

 このように、天皇が「神聖」視されたのは何も近代天皇制において始まったわけではない(むしろ、大正天皇や昭和天皇の即位式の勅語に見られるように、「現神」等の使用から「惟神の宝詐」など「惟神」の語の採用に注目すべきである)。

 因みに、帝国憲法第三条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」の規定を以て、天皇=神聖=神 (現御神、現人神)とされたと理解する向きがあるが、憲法義解に「君主は固より法律 を敬重せざるべからず而して法律は君主を責問するの力を有せず獨不敬を以て其の身體を 干涜すべからざるのみならず併せて指斥言議の外に在る者とす」とあるように、当時の君主国に一般的であった君主に関する規定の踏襲にすぎない。

 無論、この定説的な法解釈が昭和十年の天皇機関説問題・国体明徴運動以降に退けられて「天皇現人神 (あらひとがみ)」 説の根拠とされたことがあったことは事実である。

 しかし、戦後においても上田賢治氏が本居宣長の「さて人の中の神は、先かけまくもかしこき天皇は、御世々々みな神に坐すこと、申すもさらなり」(『古事記伝』三)を引用して、「天皇は文字通り、民族国家の理想を体現なさる御存在であり、常に我が国の歴史を負ふて、私なく、国の政事を知らし、祭祀に仕へ奉られる御存在なのである。現御神にあられずして、他にいかなる申し上げやうがあるだらうか」と述べている (『神道神学』神社新報社、平成二年)。

 この上田氏の指摘は今日においてはますます深刻に考えるべき課題であると思慮するものである。(つづく)


[講演者プロフィール]
阪本是丸(さかもと・これまる) 昭和25年生まれ。國學院大學神道文化学部教授。専門は近代神道史、国学。著書に『明治維新と国学者』『国家神道形成過程の研究』など

 以上は、平成29年9月22日に埼玉県神社庁で開かれた明治天皇御親祭150年記念研修会の発表用レジュメです。ご本人の了解を得て転載しました。読者の便宜に配慮し、小見出しを付けるなど、多少、編集してあります。
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政府の「期待」に応えて余りある有識者ヒアリング ──第2回式典準備委員会資料を読む 12 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月1日)からの転載です

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政府の「期待」に応えて余りある有識者ヒアリング
──第2回式典準備委員会資料を読む 12
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 有識者ヒアリングの批判を続けます。ヒアリングの第3問は「平成の御代替わりに際して行われた式典に対する評価、見直すべき事項」でした。


▽1 石原元副長官の非宗教主義

 まず、石原信雄元内閣官房副長官です。

 石原氏は「前例踏襲が基本」だと宣言しています。30年前のキーパーソンですから、そう答えるのは当然で、理解できますが、御代替わりの諸儀式が「国の行事」と「皇室行事」とに二分されたこと、平安以来の「践祚」の概念が失われたことなど、さまざまな不都合があったことへの自覚と反省が感じられないのは残念です。

 践祚の式について、注目したいのは、古来、皇室第一のお務めとされてきた宮中祭祀を一顧だにしない非宗教主義、非伝統主義です。

 石原氏は、「剣璽等承継の儀と即位後朝見の儀では、中1日を空けたが、これは、御喪儀等の準備があったからであり、今回はそのような事情にないのだから、日を空ける必要はないのかもしれない」と述べています。

 光格天皇から仁孝天皇への御代替わりでは、「今日より三箇日内侍所神饌供進」(「寛宮御用雑記」)と記録され、文化14年3月22日の践祚の日から賢所で神事が行われたことが分かります。国事中の国事なれば当然です。

 旧登極令(明治42年)は第1条に賢所の儀、皇霊殿神殿に奉告の儀について規定し、その附式には「三日間、之を行フ」と定められていました。大正、昭和の御代替わりはむろん、これに基づいて行われています。

 平成の御代替わりでは、昭和天皇が亡くなったあと、1時間半後に賢所の儀が行われ、3日間、斎行され、3日目の日に朝見の儀が執り行われました。皇祖神への挨拶が済んでから、国民の代表者とお会いになるのが順序でしょう。

 しかし石原氏の説明によれば、30年前の御代替わりは、御大葬の準備のための現実的対応に過ぎなかったというのですから、驚きです。ほんとうなのでしょうか。

 当時のことを知る関係者によれば、違うといいます。朝見の儀に携わる担当者と御大葬関係の担当者は異なる。担当が異なるのだから、「中1日を空ける」という対応との関連性はあり得ないと説明しています。ご高齢の石原氏の記憶は正確なのでしょうか。

 前回は、昭和22年5月の依命通牒第3項に基づき、登極令附式を準用して、践祚3日目に朝見の儀が行われたのでしょう。石原氏が「前例踏襲」を仰せなら、「日を空ける必要はない」はあり得ず、賢所の儀などへの配慮は不要だという姿勢は改められるべきです。

 ただ、正確にいえば、登極令附式には「賢所の儀ののち」とは規定されていません。それでも大正、昭和の御代替わりでは3日間の賢所の儀ののち朝見の儀が行われ、先例が踏襲されてきたのです。


▽2 園部元最高裁判事の歴史への無関心

 園部逸夫元最高裁判事の発言で注目されるのは2点です。

 まず、朝見の儀です。石原氏と同様、「その後の日程も勘案し、剣璽等承継の儀と同日に行われることがふさわしいのではないか」と仰せです。

 園部氏は法律家だそうですが、前回はなぜ3日目だったのか、その法的根拠はどこにあるのか、ご存じないのではありませんか。依命通牒の存在、登極令の中身、古来の皇室の歴史について、まったく関心がおありでないのではありませんか。

 2つ目は、御代替わりに伴う剣璽渡御です。

 園部氏は「今回の御退位に伴う御即位の際の剣璽等承継の儀は、新天皇が御即位の当日、新天皇主宰の国の儀式として、前天皇(上皇)が御臨席されることなく行われることがふさわしい」と述べています。

 200年前の光格天皇から仁孝天皇への譲位では、宮内省がまとめた実録によれば、文化14年3月22日に清涼殿で、光格天皇の譲位の宣命が宣読され、その瞬間に皇太子は践祚され、そののち剣璽は渡御しています。

 園部氏のいう「新天皇主宰の国の儀式」とは、国の行事=国の儀式=国事行為という発想でしょうが、剣璽渡御の主宰者は、歴史的観点でいえば、皇祖神でしょう。

 御代替わりの諸儀礼をバラバラにして法的位置づけを考えようとするから、混乱が生じるのでしょう。ましてや今上天皇の御臨席がない剣璽渡御などあり得ないと私は思います。


▽3 所名誉教授の非歴史主義

 3人目は所功京産大名誉教授です。いつものことながら、歴史家らしからぬ意見が開陳されています。注目すべきところだけ取り上げます。

 1点目は、皇室典範に記される「即位の礼」全般についてですが、「前例と同じく、『剣璽等承継の儀』と『即位後朝見の儀』及び本格的な『即位礼』を含み、いずれも新天皇の国事行為として実施できる」と仰せです。

 前回の問題点の1つは、平安期以来の践祚と即位の区別が失われたことです。現行皇室典範には「践祚」の用語がありません。

 であればなおのこと、歴史家ならば、践祚と即位の歴史的区別を説明し、践祚の儀の復活を訴えるべきでしょうに、所氏はそうはなさいません。皇室の歴史ある用語の使用を訴えようともなさいません。「女性宮家」「生前退位」などと同様です。

 2点目は、践祚の式です。所氏は、「即位後朝見の儀は剣璽等承継の儀の後、5月2日の昼間がふさわしい」と仰せです。

「前例と同じく」と仰せなら、践祚3日目になるはずですが、なぜ践祚の翌日なのか、少なくとも政府発表の資料には根拠が説明されていません。歴史的解説も抜けています。

 さらに、「即位後朝見の儀が午前中ならば、同日午後、新天皇と新皇后の両陛下が、長和殿のベランダへ出られ、参賀の国民に挨拶されるような新儀も加えて頂きたい。また後日、お揃いで宮内記者会の人々と即位後初の会見も実現してほしい」とも仰せですが、践祚と即位の違いをお忘れではないでしょうか。

「剣璽等承継の儀と即位後朝見の儀は当座の小規模な即位式であるから」という説明がありますが、宮中三殿で斎行される賢所の儀や皇霊殿神殿に奉告の儀については、歴史家として意見をお述べにならなかったのでしょうか。

 3点目は法的位置づけですが、退位の儀、退位後朝見の儀、剣璽等承継の儀、即位後朝見の儀、即位の礼、祝宴は、「天皇の国事行為(国の儀式)でなければならない。しかし、大嘗祭は平成2年と同様、『皇室の公的行事』として厳粛に実施されたい」と述べています。

 皇室研究家であり、法制史家であるならば、御代替わり全体が国事そのものであると訴えるべきではないでしょうか。「国の行事」とはいかなるものであるべきか、豊富な知識と深い見識をもって語られるべきではないでしょうか。


▽4 本郷教授も非歴史主義

 最後は、本郷恵子東大史料編纂所教授です。2点だけ指摘します。

 1点は、「前例踏襲」です。

 本郷氏は「新天皇に関わる平成の儀式は、基本的に踏襲して良いものと思われる」と仰せですが、歴史家であるなら、践祚と即位の歴史的区別の喪失、立法者の想定とかけ離れた「即位の礼」のあり方など、指摘してほしかったと思います。

 2点目は、太上天皇についてです。

 本郷氏は、「太上天皇については、太政官制度上の明確な位置付けがなく、譲位後に行われる儀式に出席するということはなかった。今回も、ご高齢の陛下のご負担を考えれば、皇位継承関連儀式への上皇としてのご出席は必要ではないと思われる」と述べていますが、歴史の理解は正確でしょうか。

 光格天皇についていえば、『光格天皇実録』によれば、文化14年3月22日の譲位ののち、次のように記録されています。めぼしいところのみ抜き出します。

文化14年3月24日、太上天皇の尊号を受けさせらる。この日、吉書御覧あり。
文化14年9月21日、仁孝天皇、即位の礼を行はる。よって禁裏に御幸あらせらる。
文化14年11月23日、御代始の御能御覧のため、禁裏に御幸あらせらる。
文化15年正月1日、四方拝、出御あらせらる。朝餉において御歯固を行はる。
文化15年正月18日、和歌御会始を行はる。出御、御製あらせらる。
文化15年2月20日、和歌当座御会始を行はる。出御あらせらる。
文化15年4月22日、改元定院奏あり。弘御所に出御あらせらる。
文政元年11月10日、禁裏に御幸あらせられ、仁孝天皇に大嘗会神饌の御伝授あらせらる。
文政元年11月21日、大嘗祭なり。よって禁裏に御幸あらせられ、悠紀殿に渡御あらせらる。

 このほか禁裏への行幸、諸社への参拝などがたびたびあったことが宮内省がまとめた実録に記載がありますが、「皇位継承関連儀式への上皇としてのご出席は必要ではない」と判断される根拠は何でしょうか。

 前回も申し上げましたように、皮肉を込めていえば、この有識者ヒアリングは、非宗教主義、非伝統主義の立場を取る政府にとって、きわめて好都合な人選であり、4人の方々は政府の期待に十二分に応えられたことが分かります。
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