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政府の「期待」に応えて余りある有識者ヒアリング ──第2回式典準備委員会資料を読む 12 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月1日)からの転載です

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政府の「期待」に応えて余りある有識者ヒアリング
──第2回式典準備委員会資料を読む 12
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 有識者ヒアリングの批判を続けます。ヒアリングの第3問は「平成の御代替わりに際して行われた式典に対する評価、見直すべき事項」でした。


▽1 石原元副長官の非宗教主義

 まず、石原信雄元内閣官房副長官です。

 石原氏は「前例踏襲が基本」だと宣言しています。30年前のキーパーソンですから、そう答えるのは当然で、理解できますが、御代替わりの諸儀式が「国の行事」と「皇室行事」とに二分されたこと、平安以来の「践祚」の概念が失われたことなど、さまざまな不都合があったことへの自覚と反省が感じられないのは残念です。

 践祚の式について、注目したいのは、古来、皇室第一のお務めとされてきた宮中祭祀を一顧だにしない非宗教主義、非伝統主義です。

 石原氏は、「剣璽等承継の儀と即位後朝見の儀では、中1日を空けたが、これは、御喪儀等の準備があったからであり、今回はそのような事情にないのだから、日を空ける必要はないのかもしれない」と述べています。

 光格天皇から仁孝天皇への御代替わりでは、「今日より三箇日内侍所神饌供進」(「寛宮御用雑記」)と記録され、文化14年3月22日の践祚の日から賢所で神事が行われたことが分かります。国事中の国事なれば当然です。

 旧登極令(明治42年)は第1条に賢所の儀、皇霊殿神殿に奉告の儀について規定し、その附式には「三日間、之を行フ」と定められていました。大正、昭和の御代替わりはむろん、これに基づいて行われています。

 平成の御代替わりでは、昭和天皇が亡くなったあと、1時間半後に賢所の儀が行われ、3日間、斎行され、3日目の日に朝見の儀が執り行われました。皇祖神への挨拶が済んでから、国民の代表者とお会いになるのが順序でしょう。

 しかし石原氏の説明によれば、30年前の御代替わりは、御大葬の準備のための現実的対応に過ぎなかったというのですから、驚きです。ほんとうなのでしょうか。

 当時のことを知る関係者によれば、違うといいます。朝見の儀に携わる担当者と御大葬関係の担当者は異なる。担当が異なるのだから、「中1日を空ける」という対応との関連性はあり得ないと説明しています。ご高齢の石原氏の記憶は正確なのでしょうか。

 前回は、昭和22年5月の依命通牒第3項に基づき、登極令附式を準用して、践祚3日目に朝見の儀が行われたのでしょう。石原氏が「前例踏襲」を仰せなら、「日を空ける必要はない」はあり得ず、賢所の儀などへの配慮は不要だという姿勢は改められるべきです。

 ただ、正確にいえば、登極令附式には「賢所の儀ののち」とは規定されていません。それでも大正、昭和の御代替わりでは3日間の賢所の儀ののち朝見の儀が行われ、先例が踏襲されてきたのです。


▽2 園部元最高裁判事の歴史への無関心

 園部逸夫元最高裁判事の発言で注目されるのは2点です。

 まず、朝見の儀です。石原氏と同様、「その後の日程も勘案し、剣璽等承継の儀と同日に行われることがふさわしいのではないか」と仰せです。

 園部氏は法律家だそうですが、前回はなぜ3日目だったのか、その法的根拠はどこにあるのか、ご存じないのではありませんか。依命通牒の存在、登極令の中身、古来の皇室の歴史について、まったく関心がおありでないのではありませんか。

 2つ目は、御代替わりに伴う剣璽渡御です。

 園部氏は「今回の御退位に伴う御即位の際の剣璽等承継の儀は、新天皇が御即位の当日、新天皇主宰の国の儀式として、前天皇(上皇)が御臨席されることなく行われることがふさわしい」と述べています。

 200年前の光格天皇から仁孝天皇への譲位では、宮内省がまとめた実録によれば、文化14年3月22日に清涼殿で、光格天皇の譲位の宣命が宣読され、その瞬間に皇太子は践祚され、そののち剣璽は渡御しています。

 園部氏のいう「新天皇主宰の国の儀式」とは、国の行事=国の儀式=国事行為という発想でしょうが、剣璽渡御の主宰者は、歴史的観点でいえば、皇祖神でしょう。

 御代替わりの諸儀礼をバラバラにして法的位置づけを考えようとするから、混乱が生じるのでしょう。ましてや今上天皇の御臨席がない剣璽渡御などあり得ないと私は思います。


▽3 所名誉教授の非歴史主義

 3人目は所功京産大名誉教授です。いつものことながら、歴史家らしからぬ意見が開陳されています。注目すべきところだけ取り上げます。

 1点目は、皇室典範に記される「即位の礼」全般についてですが、「前例と同じく、『剣璽等承継の儀』と『即位後朝見の儀』及び本格的な『即位礼』を含み、いずれも新天皇の国事行為として実施できる」と仰せです。

 前回の問題点の1つは、平安期以来の践祚と即位の区別が失われたことです。現行皇室典範には「践祚」の用語がありません。

 であればなおのこと、歴史家ならば、践祚と即位の歴史的区別を説明し、践祚の儀の復活を訴えるべきでしょうに、所氏はそうはなさいません。皇室の歴史ある用語の使用を訴えようともなさいません。「女性宮家」「生前退位」などと同様です。

 2点目は、践祚の式です。所氏は、「即位後朝見の儀は剣璽等承継の儀の後、5月2日の昼間がふさわしい」と仰せです。

「前例と同じく」と仰せなら、践祚3日目になるはずですが、なぜ践祚の翌日なのか、少なくとも政府発表の資料には根拠が説明されていません。歴史的解説も抜けています。

 さらに、「即位後朝見の儀が午前中ならば、同日午後、新天皇と新皇后の両陛下が、長和殿のベランダへ出られ、参賀の国民に挨拶されるような新儀も加えて頂きたい。また後日、お揃いで宮内記者会の人々と即位後初の会見も実現してほしい」とも仰せですが、践祚と即位の違いをお忘れではないでしょうか。

「剣璽等承継の儀と即位後朝見の儀は当座の小規模な即位式であるから」という説明がありますが、宮中三殿で斎行される賢所の儀や皇霊殿神殿に奉告の儀については、歴史家として意見をお述べにならなかったのでしょうか。

 3点目は法的位置づけですが、退位の儀、退位後朝見の儀、剣璽等承継の儀、即位後朝見の儀、即位の礼、祝宴は、「天皇の国事行為(国の儀式)でなければならない。しかし、大嘗祭は平成2年と同様、『皇室の公的行事』として厳粛に実施されたい」と述べています。

 皇室研究家であり、法制史家であるならば、御代替わり全体が国事そのものであると訴えるべきではないでしょうか。「国の行事」とはいかなるものであるべきか、豊富な知識と深い見識をもって語られるべきではないでしょうか。


▽4 本郷教授も非歴史主義

 最後は、本郷恵子東大史料編纂所教授です。2点だけ指摘します。

 1点は、「前例踏襲」です。

 本郷氏は「新天皇に関わる平成の儀式は、基本的に踏襲して良いものと思われる」と仰せですが、歴史家であるなら、践祚と即位の歴史的区別の喪失、立法者の想定とかけ離れた「即位の礼」のあり方など、指摘してほしかったと思います。

 2点目は、太上天皇についてです。

 本郷氏は、「太上天皇については、太政官制度上の明確な位置付けがなく、譲位後に行われる儀式に出席するということはなかった。今回も、ご高齢の陛下のご負担を考えれば、皇位継承関連儀式への上皇としてのご出席は必要ではないと思われる」と述べていますが、歴史の理解は正確でしょうか。

 光格天皇についていえば、『光格天皇実録』によれば、文化14年3月22日の譲位ののち、次のように記録されています。めぼしいところのみ抜き出します。

文化14年3月24日、太上天皇の尊号を受けさせらる。この日、吉書御覧あり。
文化14年9月21日、仁孝天皇、即位の礼を行はる。よって禁裏に御幸あらせらる。
文化14年11月23日、御代始の御能御覧のため、禁裏に御幸あらせらる。
文化15年正月1日、四方拝、出御あらせらる。朝餉において御歯固を行はる。
文化15年正月18日、和歌御会始を行はる。出御、御製あらせらる。
文化15年2月20日、和歌当座御会始を行はる。出御あらせらる。
文化15年4月22日、改元定院奏あり。弘御所に出御あらせらる。
文政元年11月10日、禁裏に御幸あらせられ、仁孝天皇に大嘗会神饌の御伝授あらせらる。
文政元年11月21日、大嘗祭なり。よって禁裏に御幸あらせられ、悠紀殿に渡御あらせらる。

 このほか禁裏への行幸、諸社への参拝などがたびたびあったことが宮内省がまとめた実録に記載がありますが、「皇位継承関連儀式への上皇としてのご出席は必要ではない」と判断される根拠は何でしょうか。

 前回も申し上げましたように、皮肉を込めていえば、この有識者ヒアリングは、非宗教主義、非伝統主義の立場を取る政府にとって、きわめて好都合な人選であり、4人の方々は政府の期待に十二分に応えられたことが分かります。
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