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「現神」としての歴代天皇の敬神 by 阪本是丸 ──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 3 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月11日)からの転載です

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「現神」としての歴代天皇の敬神 by 阪本是丸
──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 3
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▽1 もしも神仏判然令がなかったら

 約百五十年前の明治維新によって日本の政治・経済・社会・文化・宗教などあらゆる分野・側面で大きな変革がなされたことは疑間の余地がない。それは我が神社や神道にとっても例外ではないことは今更いうまでもない。

 だが、だからといって近世と近代は切断されて非連続の日本の国家・社会が出来上がったというわけでは勿論ない。

 確かに、神社から仏教的要素が消滅し、別当や社僧などの僧形奉仕者もいなくなるなど、一見するところ、明治維新以前と以後では神社の形態ひとつ取っても大きな断絶があるようにと思える。

 歴史にもしもは禁物とされるが、もしも明治初年の神仏判然令が新政府から出されていなければ、今のような神社の姿でなかったと考えることは可能であろう。だが、問題とすべきは、神仏判然・神仏分離は何も神社から仏教的要素さえ排除すれば足りるといった単純な理由から行われただけのものなのか、ということである。

 もしそうであるならば、明治維新以降昭和二十年までの神社の国家管理時代は消滅したのだから、一私法人たる宗教法人として明治維新以前の姿に戻ることは可能であるし、そうしたいのならすれば良いだけの話である。

 かく言えば、身も蓋もないような話に聞こえるかもしれないが、それで良いのだという人には、恐れ多くも天皇・皇室もそうなさるべきだと言うべきだろう。


▽2 「百二十代」と記された光格天皇の宸翰

 前近代の天皇・皇室が神仏ともに大事にされたことは常識に属するが、だからといって、それを神仏習合であり、まして神仏混清の状態が当たり前とされていたわけではなかろう。

 今の皇室に直接繋がり、しかも「譲位」をなされた最後の天皇である光格天皇も「何分自身を後にし、天下萬民を先とし、仁慈・誠仁の心、朝夕昼夜に不忘却時は、神も佛も、御加護を垂給事」、あるいは「神も佛も大慈悲の御事」云々と認められており、あたかも神仏同等に敬する叡慮であるように見える (寛政十一年七月二十八日「後櫻町天皇の御教訓に奉答の宸翰御消息」)。

 しかしその全文を読むならば、「か様に大めで度事有之候も、ひとへに神々の御加護」、「敬神・正直・仁慈を第一にいたし候へば、何事も安穏の道理に候」とある。

 また別の「後櫻町天皇の御教訓に奉答の宸翰御消息」には、「扨賀茂臨時祭の事に付、……此議私十六七歳の時より、臨時の祭、再興いたし度物と、兼々申居候事にて候、賀茂再興候へば、石清水も同事に候、……所司代も上り候うへ、ゆるゆると談じ候はば、外之事とちがいちがい、宗廟敬紳の事候へば、いかやふとも、申方有之べき義と存じまいらせ候」などとある。

 このように、既に賀茂社、石清水社の恒例祭祀再興がされてはいても、平安時代以来の 伝統ある両社の臨時祭再興をも念じておられる (詳細は「賀茂石清水雨社臨時祭御再興の宸翰御趣意書」に認められており、それには自分が即位出来たのも「誠に神明・社稷の擁護蔭福なり。然らば則ち偏に神事を再興するを以て先務と為す」とある。またその最後には「百二十代 (御花押)」とある。)。


▽3 皇祖皇宗の末裔としての自覚

 以上ざっと記したように、前近代の天皇・朝廷が神仏共に敬されたことは事実であるが、それは決して同等でもなければ、況や神仏習合・神仏混清と呼べるようなものではない。

 神武天皇以来百二十代であるという光格天皇の自覚が必然的に「敬神」の念の具現である祭祀の最重要性を齎したのであり、それは歴代天皇による日本の国柄 (国体)の再確認の産物でもあった。

 その近世の端緒ともいうべきが後陽成天皇であり、近世における文芸復興の先駆けとなった天皇であったことは良く知られている事実であり、『日本書紀』など所謂慶長勅版の刊行もその証左である。

 前にも触れたように、その後陽成天皇もさまざまな震翰に「従神武百數代末孫和仁」、 「従神武天皇百數代末孫太上天皇」と宸翰等に認めておられるように、自分は皇祖皇宗の末裔としての天皇であるとの意識が強烈に存したのである。

 この意識があればこそ、前記したように後代の光格天皇が「百二十代」と記されたのである (因みに、現在では光格天皇は第百十九代の天皇であるが、当時は『本朝皇胤紹胤録』などで神武天皇以来第百二十代の天皇とされていた)。

 こうした神武天皇以来の「現神」として日本の国をしろしめすのが「祭」であり「政」であるとの信念は脈々と継承されて、幕末維新期の孝明天皇、明治天皇へと至るのである。

 故に、近代の国家祭祀の形成・構築もこの歴史を抜きにしては語れないのであるが、その詳細な過程についてはここでは省略する。


▽4 近世における神道研究の成果

 やや唐突かつ端的に言うならば、古代の神道 (だけではないが)の基本的史料・丈献が存在し、またそれを巧究する人物がいなければ現代の神道に関する研究も有り得なかった、とまでは言わないが、その進展ははるかに時間がかかっていただろう。

 この意味を余りにも無視している、というより考えもしない研究者が少なからず存在する。要するに、現代の神道研究も、そして現代の「神社」や「祭祀」があるのも近世があってこそ、という簡単な歴史的事実が蔑ろにされているのではないのか。

 例えば、以下のように自問したとき、どのような自答が出来るだろうか。

[思想面]本居宣長がいなかったら、『古事記』は今のように親しみある古典として存在していたであろうか。

[制度面]現代でも神社本庁が神社祭祀で最も重要な恒例の大祭と規定している例祭・祈年祭・新嘗祭の原型が古代にあるとしても(神祇官の職掌・神祇令の規定・延喜式等の細則)、 それが大事であることを認識し、後世の人々にも認識させた史料・資料は何時の時代の誰によって「共通の史料・資料」として今日に残されていたのだろうか。

 以上の仕事を成し遂げ、我々にその成果を残してくれた時代は「近世」であり、その時代に生きた様々な人々の「御蔭」なのである。

 無論、それらも中世以前の人々の努力の結晶があればこそであるが、中世から近世への転換には一朝にしてそれを破壊することも可能であった時代があったことは忘れるべきではない。

 その忘れてはならないことを自覚し、それを「当時」に活かすことに努力した人々がいた時代、それが「近世」なのである。

 明治維新以来の神道もこれを抜きにしては語れない。以下は、「近世」における神道に係るほんのスケッチであるが、少しは参考に供するものと思慮して敢えて備忘として記したものである。


[講演者プロフィール]
阪本是丸(さかもと・これまる) 昭和25年生まれ。國學院大學神道文化学部教授。専門は近代神道史、国学。著書に『明治維新と国学者』『国家神道形成過程の研究』など

 以上は、平成29年9月22日に埼玉県神社庁で開かれた明治天皇御親祭150年記念研修会の発表用レジュメです。ご本人の了解を得て転載しました。読者の便宜に配慮し、小見出しを付けるなど、多少、編集してあります。

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