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近世における皇室と幕府と神社の制度 by 阪本是丸 ──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 4 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月14日)からの転載です

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近世における皇室と幕府と神社の制度 by 阪本是丸
──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 4
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▽1 信長・秀吉・家康と神社

 織田信長、そして豊臣秀吉の出現によって、ようやく長い戦乱の時代にも「天下統一」による平和な社会への兆しが見え、日本の歴史は確実に新しい時代へと動きつつあった。いわゆる織豊時代は短期間ではあったが、それまでの中世的社会を大きく変換させ、約二百年にも亘る「封建時代」の幕開けを準備した時代であった。

 神道と神社の歴史も、織豊時代の到来によって一大画期を迎えた。

 このことについて、近代における「神道史学」を樹立したと評価される近代切っての神道史学者宮地直一は、「戦国の末期に出でて覇業を樹てし織田氏と、その後を承けて之を完成せし豊臣氏との二代は、その間三十年の短日月に過ぎざりしも、後に徳川氏の巧妙なる政策を産むに至らしめし準備の期に属し、その史上に於ける価値や甚だ軽からざるなり。」と述べている。

 次いで、信長、秀吉の伊勢神宮など神社に対する「敬神」の念があったことを指摘しつつも、秀吉が旧来の有力神社・社家の勢力を削ぐ政策を採ったことを、筑前・宗像社、肥後・阿蘇社を例に挙げて論じ、これを一種の「政教分離策」としている。

 そして、この「政教分離策」は土地制度の変革に明瞭に示され、「由来久しき庄園の制も亦事実上その終を告げて、近代の知行制度に地位を譲」ったことにより、旧来の社寺の政治的社会的勢力は大幅に低下することになったと宮地は述べている。(『神祇史綱要』明治書院、大正八年)

 信長、秀吉の出現によって、神社の制度は大きく変容を余儀なくされ、その実力は昔日の比ではなくなったのであるが、他方では神道・神社の新しい在り方を齎した。その象徴が「英雄」を祀る神社 (霊廟)の出現であり、豊国廟や東照宮※の創建・建立がそれである。

※幕末の慶応元年二月、孝明天皇は徳川家康三百五十回遠忌に際して奉幣され、宣命を認めておられる。その宣命には家康の功績を称え、「天皇朝廷が宝位動き無きこと・文教倍盛・武運長久」をお祈りになる文言が認められている。
 家康の式年の遠忌 (「祭礼乎修行」である!)ですら孝明天皇は大切にされたのであり、神武天皇以来の歴代に対する「追孝の叡慮」が皇霊祭祀として神式で執行されたとしても何ら不自然ではないだろう。

(1)豊国廟の建立と退転
慶長三年(1598) 豊臣秀吉死去。
同四年 方広寺東方阿弥陀雅峰西麓に廟所仮殿完成、遺骸を山頂に埋葬。廟所を方広寺の鎮守とし、後陽成天皇から「豊国大明神」と神位正一位を贈られる。
同九年 秀吉七回忌に際し、盛大な臨時大祭を執行。
※豊国社社務には吉田兼見、神主にはその孫萩原兼従が就任し、その弟梵舜は神宮寺の社僧となった。社領は一万石、社域は二十万坪と盛大・栄華を極めたが、元和元年(1615)に豊臣氏が滅亡してからは社殿の方広寺移転、社殿大破、修理不許などにより、明治維新に際して再興されるまで退転したままであった。

(2)東照宮の建立
元和二年(1616) 徳川家康死去。遺言により久能山に神葬、翌年「東照大権現」の神号が贈らる。次いで翌年日光山に社殿を造営、遺骸を日光山に移して正遷官を執行。
寛永十二年(1635) 家光により大造営が行われる。
正保二年(1645) 後光明天皇の宣旨により東照社を東照宮と改称。
同三年 臨時奉幣使が差遣され、以後「日光例幣使」として幕末に至る。
明暦元年(1655) 輪王寺宮門跡創設、後水尾天皇皇子尊敬(守澄)親王が上野と日光の門主として下向。以後、慶応三年の最後の宮門跡能久親王まで続いた。
※宮地直一は日光東照宮建立と家光の大造営の意義について、以下のように特筆大書している(前掲『神祇史綱要』)。
「そもそも本社の創立は平々坦々たる三百年の治下に於て、最も目醒ましき唯一の事件なり。山水の景勝と相俟ちて建築の秀麗華美を極めたる、朝幕の待遇の鄭重にして上下の畏敬したる、将たその経済上他に冠絶せる位置に居る等、之を何れの点よりするも他に比儔(人偏に壽)あるを見ざるなり。
 蓋しこの事たる豊國廟の故事に倣つて起り、秀吉の遺策をして果を結ばしめし感なきに非ずと雖も、かく全力を尽くして経営せられたる未曾有の壮観に対しては、自から人心も吸引せられ、諸侯も威圧せられしなるべく、以て三代将軍の敬虔なる真情に伴ふ政策の一端をも窺知するに足るものあるべし」


▽2 朝儀復興・神社政策をめぐる朝廷と幕府

 後陽成天皇から後水尾天皇 (上皇)の時代は、徳川幕府もようやく安定期に入り、天皇・朝廷との安定的関係を模索した時期であったが、それはあくまでも幕府主導による朝廷統制を主眼とする関係の構築であった。禁中並公家諸法度の制定はその具体的政策であった。

 幕府は二代将軍秀忠の女(むすめ)和子を後水尾天皇に入内させ女御・皇后としたが、後水尾天皇は未だ三十半ばの在位二十年足らずでその所生の興子内親王(明正天皇)に譲位し(寛永六年)、幕府(武家)の朝廷統制に対する抗議の意思を表明したことは良く知られている。

 しかし、 天皇の真意・意図はともかくとして、中世以来衰微していた天皇・朝廷が幕府の存在によつて安定したことは朝廷自身も認めざるを得ない事実であり、元和三年に徳川家康に「東照大権現」の神号を贈り、「天下昇平・海内静謐」を祈願した。

 以降、朝廷と幕府は持ちつ持たれつの関係で推移したが、結果的には天皇・朝廷の権威が幕府の権力を凌駕して明治維新に至ったことはいうまでもなかろう。

 いずれにせよ、以後の朝幕関係の推移を考える上で、八十五歳という当時としては稀な長寿を保った後水尾天皇(上皇)の存在意義は大きかったと言えよう。

 因みに、稀と言えば、後水尾天皇の皇子女のうち明正(第二皇女)・後光明(第四皇子)・後西(第人皇子)・霊元(第十九皇子)の四人の各天皇が即位しているというのも稀有であるが (通算在位約六十年)、いずれの天皇も文化・学芸に長じ、朝儀復興にも尽力していることは周知の事実であるが、ここでは省略に従う。

(1)禁中並公家諸法度の制定(元和元年。1615)
1条 天皇の務めは第一に学問をすること、
2条 親王の座位は太政大臣・左右大臣の下とすること、
3条 清華家の大臣辞任後の座位、
4条・5条 三公・摂関の任免、
6条 女縁養子の禁止、
7条 武家官位を公家当官の外とすること、
8条 改元のこと、
9条 天皇以下公家の礼服のこと、
10条 公家諸家の昇進のこと、
11条 公家の罪刑のこと、
12条 名例律による罪の軽重のこと、
13条 摂家・宮門跡の座位、
14条・15条 僧正・門跡等の叙任、
16条 紫衣勅許の制限、
17条 上人号の制限
一 天子御藝能之事。第一御學問也。不學則不明古道。而能致太平者未有之也。貞観政要明文也。寛平遺誡雖不究経史。可誦習群書治要云々。和歌自光孝天皇未絶。雖為綺語。我國習俗也。不可棄置云々。所載禁秘抄。御修學専要侯事。

(2)後水尾天皇(上皇)と「敬神」
一、敬紳は第一にあそはし候事候條、努々をろそかなるましく候、禁秘抄発端の御詞にも、凡禁中作法、先神事、後に他事、旦暮敬神之叡慮無解怠と被遊候歟、佛法又用明天皇信しそめさせ給候やうに、日本紀にも見え候へは、すておかれたく候 (「後水尾上皇宸筆教訓書」)
一、禁中は敬神第一の御事侯へは、毎朝の御拝、御私の御懈怠、且以不可有之事 (同上)
※後水尾天皇は、慶長元年(1596)に後陽成天皇の第三皇子として誕生。同十六年(1611)即位、寛永六年(1629)紫衣事件を契機に譲位し、明正天皇(女帝・第二皇女)が即位。同二十年、後光明天皇即位 (第三皇子)、明暦二年(1656)後西天皇即位(第七皇子)、寛文三年 (1663)霊元天皇即位 (第十八皇子)、延宝八年(1680)崩御。

『後水尾院当時年中行事』
「順徳院の禁秘抄、後醍醐院の仮名年中行事などいひて、禁中のことどもかかせ給へるものあり。 寔(まこと)に末の亀鑑也。
 されど此頃のありさまに符合せず。其ゆゑいかなれば、世くだり時うつり、且は應仁の乱より諸國の武士おのれおのれ力をあらそひて、社領、寺領、公私の所領を押領する事、かぞふるにいとまあらず。
 これより此方、宮中日々に零落して、ことごとく保元建武のむかしに似るべくもあらず。……御禊大嘗會其外の諸公事も次第に絶えて、今はあともなきが如くになれば、再興するにたよりなし。
 何事も見るがうちにかはり行く末の世なれば、せめて衰微の世のたたずまひをだに、うしなはでこそあらまほしきに、それだに亦おぼつかなくなりもてゆかん事のなげかしければ、見て知り、聞きて知る人の、たどたどしき事にはあらねど、思ひ出づるにしたがひて、書きつけ侍りぬ。うとき人には、ゆめゆめ見せしむまじきものにこそ。」(序)
「四月朔日……此月諸社の祭多けれど、今は然せる神事も無し。後奈良院御記天文の頃等迄は、日吉の祭の神事なり等見えたれど、此頃は紳事の沙汰も無し。賀茂の祭の日は社司共葵を献ず。葵七葉を連ねて、桂の枝に付けて簾の壺に挿す也。一?に二處づつ懸くるなり。
 五月八日 今宮の祭なれば、安家物忌の符を進上す。
 六月七日 祇園會なれば安家の物忌の符を進上す。」(上)
「一 禁秘抄賢所云、白地以神宮並内侍所方不為御跡云々。今以堅守らるる一ヶ條也。
 一 佛神に供したる物参らず。」(下)

(3)中絶祭祀の再興
正保四年(1647) 伊勢例幣使再興(前年に日光例幣使)
延宝七年(1679) 石清水社放生会再興
貞享四年(1687) 東山天皇大嘗祭再興(次の中御門天皇は不執行)
元禄七年(1694) 賀茂祭再興
元文三年(1738) 桜町天皇大嘗祭、以後、今上天皇に至る。
同五年(1740) 天皇親祭新嘗祭
延享元年(1744) 上七社(伊勢・石清水・賀茂下上。松尾・平野・稲荷・春日)奉幣再興、宇佐・香椎奉幣再興

(4)諸社蒲宜神主法度の制定(寛文五年。1665)
一 諸社之禰宜神主等、専学神祇道、所其敬之神体、弥可存知之、有来神事祭礼弥可勤之、向後於令怠慢者、可取放神職事
一 社家位階従前々以伝奏遂昇進輩者、弥可為其通事
一 無位之社人、可着白張、其外之装東者、以吉田之許状可着事
一 神領一切不可売買事 附、不可于質物事
一 神社小破之時、其相応常々可加修理事、附、神社無懈怠掃除可申付事
 右条々可堅守之、若違犯之輩於有之者、随科之軽重可沙汰者也


▽3 吉田家の神社・神職支配

 室町時代末期の吉田兼倶以来、吉田家は神祇伯家白川家と共に「神祇道の家元・神祇管領長上」として明治維新まで全国の神社の上に君臨した。殊に、上記「諸社禰宜神主法度」の発布以降、その勢力を増大させ、しばしば白川家と争った。

 吉田家はその神道思想や活動をめぐって近世には毀誉褒貶の著しい家であるが、全国各地の神社・神主を天皇・朝廷と結び、天皇尊崇の念を普及させた功績は大いに評価されて然るべきであろう。

(1)神道裁許状・宗源宣旨
・武州入間郡川越村氷川明神之禰宜山田丹後掾久次 恒例之神事参勤之時 可着風折烏帽子狩衣者 神道裁許之状如件
  寛文元辛丑年間八月十九日
神道管領長上卜部朝臣兼連
・宗源 宣旨
 正一位氷川明神
     武州入間郡川越町
右奉授極位者 神宣之啓状如件
  享保元年八月十六日 神部伊岐宿禰宜
神祇道管領勾当長上従二位卜部朝臣兼敬
・武蔵国一宮氷川大明神之巫女墨田 恒例之神事神楽等勤仕之時 可着舞衣者 神道裁許之状如件
  延宝四年五月廿二日
神祗長上

(2)吉国家執奏による天皇宣旨
・延宝四年、氷川女体社神主武笠豊良に風折烏帽子・狩衣の裁許状
・宝永三年、嘉隆が東山天皇より従五位下、丹波守の宣旨を受けている。
・武州足立郡氷川神社之神主佐伯嘉隆 今度丹波守従五位下 勅許 冥加之至也 弥国家安泰之御祈祷不可有怠慢者 神道啓状如件
  宝永三年四月三日
    神祗道管領長上従二位卜部朝臣
・宝永三年四月九日付けで、嘉隆は吉田家家老に宛てて「今度以御執 奏 丹波守従五位下首尾能 勅許 冥加之至奉存候」と御礼言上している。

(3)吉国家以外の公家による執奏
・全国の神社の多くは吉田家や白川家の支配下にあったが、これ以外の有力大社など少数の神社は諸公家が執奏していた。例えば、宇佐八幡宮は鳥丸家、石清水八幡宮は廣橋家、出雲大社は柳原家、香取神宮は一条家など (『雲上便覧大全』、慶応四年)。
 しかし、明治維新に際して新政府の神祇事務局は慶応四年(明治元年)三月十八日「神社執奏支配之儀自今於神祇事務局取扱被 仰出候間執奏之儀被止候事 但神宮賀茂伝奏此迄通之事」と達し、同十九日には諸公家に対し「是迄諸神社執奏被成来之御家来より其社名御書記し来る二十二日限り弁事局へ御申達被下度事 但別当之神社も不洩様御申達被申候事」と達した。これによって、吉田家等による全国の社寺支配は終止符を打ち、神仏分離政策とともに近世の神社制度は崩壊したのであった。

(4)幕末期神社における「神仏併存」状態
・石清水八幡宮、北野天満宮等の宮寺は勿論の事、近世の多くの神社は所謂「神仏習合」の形態・状況にあり、多くの神社に神宮寺等があって別当・社僧なども奉仕していた。
 明治元年十月に明治天皇が行幸・親祭された武蔵一宮氷川神社も同様で、元禄頃には岩井、東角井・西角井の社家の他に、一寺四院(観音寺・大聖院・愛染院・宝積院・常楽院)があり、社領は300石であった。
 その内訳は、125石が修理料、40石が本地堂灯明料、75石が社家(25石づつ)、60石が供僧(観音寺20石、他は10石づつ)であった。
 因みに、石清水社の「神号」は「八幡大菩薩」が一般的であったが、社名に関しては「石清水八幡宮」と記される場合もあった。
※京都廬山寺蔵の後伏見天皇の元亨元年十月四日の石清水社への「宸筆御願文案」には、「かけまくもかしこきいはし水のくわう(皇)」大神のひろまへに、おそれみおそれみも申したまはくと申、胤仁わが神ながれをうけて、あまつ日つぎいまにたへず、そ(祖)王のしやうちやく(正嫡)として」云々とある。
「神が主、仏が従」であることは歴代天皇の「大御心」としての大原則であり、まず七社(伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日)が先であり、七寺(仁和寺・東大寺・興福寺・延暦寺・園城寺・東寺・広隆寺)が後なのである。(つづく)


[講演者プロフィール]
阪本是丸(さかもと・これまる) 昭和25年生まれ。國學院大學神道文化学部教授。専門は近代神道史、国学。著書に『明治維新と国学者』『国家神道形成過程の研究』など

 以上は、平成29年9月22日に埼玉県神社庁で開かれた明治天皇御親祭150年記念研修会の発表用レジュメです。ご本人の了解を得て転載しました。読者の便宜に配慮し、小見出しを付けるなど、多少、編集してあります。
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