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新元号発表は践祚に、改元は即位礼に合わせては? ──近世後期以降、践祚即改元は大正と昭和のみ [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月22日)からの転載です

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新元号発表は践祚に、改元は即位礼に合わせては?
──近世後期以降、践祚即改元は大正と昭和のみ
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 次の御代替わりをめぐって、混乱した議論が続いているようです。こんどは改元です。

 政府は来年5月1日、皇太子殿下の即位(践祚)にあわせて改元することとし、国民生活への影響を考慮して、1か月前に新元号を公表する予定ですが、これだと御代替わりに伴う代始改元の主体性に疑問が生じてきます。

 それで新元号の発表も即位(践祚)に合わせるべきだという議論が浮上しています。

 歴史的に見ると、明治の皇室典範には「践祚の後、元号を建て」(第12条)という条文がありましたが、戦後、一般法と位置づけられた皇室典範には元号に関する定めがありません。元号法(昭和54年)には「元号は政令で定める」とあるばかりで、改元の主体が天皇なのか、政府なのか、不明確です。

 議論が混乱するさらなる要因は、コンピュータ社会の到来です。今回、御代替わりをめぐる政府の情報はネット上に公開されています。

 改元を公的に伝える官報も、いまやネット上に掲載されます。「天皇践祚の後は直ちに元号を改む」(登極令第2条)とするのは、システム変更上、無理があります。

 政府が1か月前の公表を予定しているのは、1か月の準備期間があれば十分対応できるという判断があるからでしょう。知人のSEたちも同様でした。

 とするならば、現実的に考えて、践祚即改元という大正以後のあり方へのこだわりを放棄せざるを得ないのではないでしょうか。元号法に基づく平成の改元も践祚即改元ではなく、翌日改元でした。元号法は「直ちに」とは定めていないのです。

 もっといえば、歴史的に考えれば、代始改元が践祚後、直ちに行われたことはないのではありませんか。参考までに、以下、江戸後期の御代替わりについてまとめてみることにします。

 結論をいうなら、践祚後、直ちに改元されたのは大正と昭和のみです。近世においては即位から1年以上もたってのちに代始改元がしばしば行われています。

 近代以後の一世一元の制にならうとしても、践祚即改元の形式に固執する必要はありません。践祚の日に新元号を公表し、即位の礼に合わせて施行すれば、平安期に確立されて以後、踏襲され、30年前に失われてしまった践祚と即位の区別を明確化し、回復させることもできるのではありませんか。


○第115代桜町天皇(中御門天皇第一皇子)
(1)先帝崩御or譲位 享保20(1735)年2月1日に中御門天皇が33歳で譲位。来月21日と御治定
(2)践祚 享保20年3月21日(1735/4/13)、土御門内裏にて。15歳
(3)代始改元 享保21年4月28日(1736/6/7)、享保21年を元文元年に改む=践祚の翌年

○第116代桃園天皇(桜町天皇第一皇子遐仁親王)
(1)先帝崩御or譲位 延享4年5月2日(1747/6/9)、土御門内裏にて受禅
(2)践祚 譲位即践祚、6歳
(3)代始改元 延享5(1748)年7月12日、寛延に改元=践祚の翌年

○第117代後桜町天皇(桜町天皇第二皇女智子内親王)
(1)先帝崩御or譲位 宝暦12年7月12日(1762/8/31)に崩御。発表なし。遺詔により践祚の儀治定す
(2)践祚 宝暦12(1762)年7月27日=先帝崩御の5日後、異母弟桃園天皇の遺詔を受け。小御所にて。22歳
(3)代始改元 宝暦14(1764)年6月2日、明和に改元=践祚の翌々年

歴代天皇の御代替わり(江戸後期〜現代)01.png


○第118代後桃園天皇(桃園天皇第一皇子英仁親王)
(1)先帝崩御or譲位 明和7年5月2日(1770/5/23)譲位。来年4月即位の旨御治定あり
(2)践祚 譲位即践祚(11歳)
(3)代始改元 明和9(1772)年11月16日、明和9年を安永元年に改む=践祚の2年後

○第119代光格天皇(閑院宮典仁親王第六皇子師仁親王→践祚後に兼仁)
(1)先帝崩御or譲位 安永8年10月29日(1779/12/6)崩御=その後同11月9日(12/16)まで先帝在位が続いた
(2)践祚 安永8年11月25日(1780/1/1。9歳)。御諱を兼仁と改む。関白九條尚實を摂政となす
(3)代始改元 安永10年4月2日(1781/4/25)、天明に改元=即位礼の4か月後

○第120代仁孝天皇(光格天皇第四皇子=恵仁親王)
(1)先帝崩御or譲位 文化14(1817)年3月22日に譲位。清涼殿にて
(2)践祚 譲位即践祚。17歳
(3)代始改元 文化15(1818)年4月22日、文政に改元=践祚の13か月後。即位礼の翌年

歴代天皇の御代替わり(江戸後期〜現代)02.png


○第121代孝明天皇(仁孝天皇第四皇子統仁親王)
(1)先帝崩御or譲位 弘化3年1月26日(1846/2/21)崩御。関白太政大臣鷹司政通を摂政に準ず
(2)践祚 弘化3年2月13日=先帝崩御の20日後、15歳
(3)代始改元 弘化5年2月28日(1848/4/1)に嘉永と改元=即位礼の翌年

○第122代明治天皇(孝明天皇第二皇子睦仁親王)
(1)先帝崩御or譲位 慶応2年12月25日(1867/1/30)に崩御
(2)践祚 慶応3年1月9日(1867/2/13)に践祚の儀(14歳)=先帝崩御の半月後、14歳
(3)代始改元 慶応4年9月8日(1868/10/23)。元日に遡って適用=践祚の1年8か月後。即位礼の翌月

○第123代大正天皇(明治天皇第三皇子嘉仁親王)
(1)先帝崩御or譲位 明治45(1912)年7月30日に崩御
(2)践祚 崩御即践祚、32歳
(3)代始改元 践祚当日、大正と改元

○第124代昭和天皇(大正天皇第一皇子裕仁親王)
(1)先帝崩御or譲位 大正15(1926)年12月25日に崩御。葉山御用邸にて
(2)践祚 崩御即践祚、葉山御用邸、25歳
(3)代始改元 践祚当日、昭和に改元

歴代天皇の御代替わり(江戸後期〜現代)03.png


○第125代今上天皇(昭和天皇第一皇子明仁親王)
(1)先帝崩御or譲位 昭和64(1989)年1月7日に崩御
(2)践祚 崩御即践祚、55歳
(3)代始改元 践祚の翌日、平成に改元

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 以上、宮内庁所蔵『天皇皇族実録』をもとにまとめました。「斎藤吉久のブログ」には、ほかのデータを加えたうえ、一覧表にして掲載します。
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