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アメリカが見た鏡のなかの「軍国主義」 ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」7 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年8月10日)からの転載です

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アメリカが見た鏡のなかの「軍国主義」
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」7
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 近代化の道をひた走った末に、日本はほとんど世界を相手に戦争し、ポツダム宣言を受け取れ、敗戦国となった。尊い人命が数多く失われ、国土は焦土と化した。宣言の受諾を国民に伝える詔書には「五内爲ニ裂ク」と無念が表明されている。

 日本に降伏を迫るポツダム宣言には、「軍国主義」「世界征服」の言葉が登場する。

「われらは、無責任なる軍国主義が世界より駆逐せらるるに至るまでは、平和、安全および正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるをもって、日本国国民を欺瞞し、これをして世界征服の挙に出ずるの過誤を犯さしめたる者の権力および勢力は、永久に除去せられざるべからず」(日本語訳文の原典は漢字片仮名交じり)

 この「軍国主義」「世界征服」とは、具体的に何を指すのだろう。

 戦中からアメリカは、「国家神道」が「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉で、靖国神社がその中心施設であり、教育勅語が聖典だと考えたという。なぜそう考えたのか。
教育勅語@官報M231031

 たとえば、日米開戦後、アメリカ陸軍省が製作した、新兵教育、戦意昂揚のための「Why We Fight」シリーズというプロパガンダ映画がある。「最高傑作」とも評価される一連の作品の多くを手がけたのはフランク・キャプラである。生涯に3度のアカデミー賞を受賞し、アカデミー会長をも務めた名匠であった。

 キャプラが最後に監督し、製作されたのが「Know Your Enemy ; Japan」(1945年)である。キャプラは「敵国」日本の何を、「軍国主義」と考えたのだろうか。

 実写フィルムを巧みにつないだ約60分の映画には、神道、日本軍、天皇、八紘一宇、靖国神社などをキーワードにして、日本の「軍国主義」の残忍さ、妖怪ぶりが描かれている。そのなかでも、とくに注目されるのは「田中メモランダム(田中上奏文)」である。「世界征服の原案・設計図」として真正面から取り上げられている。

「田中上奏文」は、昭和2年に、田中義一首相が昭和天皇に、「世界征服」の手順を極秘で報告した、とされるもので、日本では当初から偽書と一蹴され、今日、歴史的評価はほぼ定まっているが、当時のアメリカでは事実と信じられたらしい。

 皇祖神を絶対化し、「現人神」天皇のもと、侵略地に次々と神社を建て、新たな国民にも参拝させ、学校では教育勅語を奉読させ、急速に領土を拡大していった「八紘一宇」の勇猛は、キリストの教えとローマ教皇の勅書に基づき、異教世界を侵略し、異教徒を殺戮、異教文明を破壊した大航海時代以降のキリスト教世界の暗黒史と二重写しだ。

「教育勅語」の一節「之を中外に施して悖らず」は「日本でも外国でも間違いがない道だ」と解釈されており、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(新約聖書)というキリストの言葉とダブって聞こえても不思議はない。

 たとえば、占領軍の教育・宗教を担当したCIE(民間情報教育局)の政策に大きな役割を果たしたR・K・ホールは、教育勅語が「国家神道の神聖な教典」であったと理解していたという(貝塚茂樹『戦後教育改革と道徳教育問題』、2001年)。

 とすれば、一神教的に擬せられた近代日本とあくまで一神教的なキリスト教世界との軍事対決は避けられず、一神教的「国家神道」は主たる攻撃目標に設定されざるを得ない。彼らはまるで鏡に映る自分に戦いを挑んだかのようである。

 それは多神教文明と一神教文明の衝突ではなくて、一神教と一神教の対決だった。

 靖国神社は占領軍内部では爆破焼却の噂がもっぱらだったという。アメリカは、靖国神社の宮司らが世界征服戦争を実際に陰で操っている、と本気で考えていたらしい。

 キリスト教世界では、絶対神と救世主イエスの存在があり、聖書があり、聖職者がいて、教会がある。同様に、日本の「国家神道」もまた、皇祖神と天皇、教育勅語、神道家たち、靖国神社があると見えたのだろうか。

 皇祖天照大神は至高至貴ながら絶対神ではない。神道には布教の概念すらない。宮中祭祀には教義も教団もない。しかし文部省編纂の『国体の本義』(昭和12年)には「天皇は現御神であらせられる」と明記された。天皇は個人崇拝ではないし、昭和天皇は神格化を嫌っておられたのに、である。

 欧化思想の席巻を憂える明治天皇の思召しに始まった教育勅語の作成は、井上毅らによって、非宗教性、非政治性、非哲学性が追求された。しかし、完成後は教育勅語それ自体が政治主導で神聖化され、宗教的扱いを受けることとなった。ドイツ留学から帰国したばかりの哲学者・井上哲次郎による解説本作成は、国民教育の必要性を強く訴えるものとなっており、明治天皇ご自身、不満を示されたが、叡慮は反故にされた。

 文部省は教育勅語の神聖化をさらに進め、御真影とともに教育勅語の謄本を納める奉安殿の設置が全国展開された。当初の目的と構想を外れ、のちに教育勅語は「国家神道」の聖典として批判されこととなり、敗戦後は国会で排除・失効確認がなされるのである。

 ところが、戦後の嵐は瞬く間にやんだ。占領後期になると、「国家神道」敵視は急速になりを潜め、神道形式による松平参院議長の参院葬、皇室喪儀令に準じた貞明皇后大喪儀、吉田茂首相による靖国神社参拝さえ認められた。靖国神社は爆破焼却どころか、宗教法人として存続した。

 渦中のGHQ職員はのちに、占領軍の宗教政策が厳格主義から限定主義(教会と国家の分離)に変更されたことを公にしているが、いつ、だれが、なぜ変更したのかについては明らかにされていない(ウイリアム・ウッダード「宗教と教育──占領軍の政策と処置批判」=国際宗教研究所紀要4、昭和31年12月)。

 この政策変更は「国家神道」をめぐる最大のテーマであり、歴史の謎である。もしや彼らは自分たちが幻影を見ていたことに気づいたからではあるまいか。(つづく)


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