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価値多元主義の潮流に逆行 ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」10 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年9月1日)からの転載です

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価値多元主義の潮流に逆行
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」10
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 今回の御代替わりについて、政府は、「憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の伝統等を尊重」「平成の前例踏襲」という「基本方針」を示しているが、既述したように、さまざまな不都合が指摘される。

 それらが「1強」と呼ばれる保守長期政権によって招来されていることに、私は長嘆息を禁じ得ない。敗戦後、社会党政権下でさえ、天皇の祭祀は粛々と行われていたのに、である。

 なぜこんなことが起きるのか。

 けれども、今回の御代替わりについて、本質的議論を加えるべき時機はもはや逸している。戦後70年間、本格的議論ができなかったことが返す返すも悔やまれる。

 皇室のあるべき儀礼とはいかなるものか、あるべき天皇制とはどのようなものか、国の法体系とはどのようにあるべきか、将来に向けた、抜本的な検討が求められていると思う。

 アメリカでは2001年の9・11同時多発テロの3日後、ワシントン・ナショナル・カテドラルで犠牲者追悼のミサが行われ、各宗教の代表者が祈りを捧げた。03年のスペース・シャトル「コロンビア号」の事故でも、同様に多宗教的儀礼がここで行われた。

 同聖堂は国家が祈りを捧げる「全国民の教会」とされ、100年余の歴史を誇る。大統領就任ミサを始め、しばしばホワイト・ハウスの依頼でミサが行われ、現職ならびに歴代大統領ほか政府高官らが参列し、費用は政府が実費を負担しているという。

 カテドラル関係者は「儀式は当然、宗教的だ。祈りは宗教的行為以外の何ものでもない」と明言するが、政教分離原則に違反するとは考えられていない。政教分離主義の源流とされるアメリカは、みずからの宗教的伝統に従って、国事を執り行っている。

 キリスト教世界では大航海時代とはうって変わり、とくに第2バチカン公会議以降、多宗教的、多元的な価値を積極的に認めるようになっている。ローマ教皇は何度もイスタンブールのブルーモスクで和解と平和の祈りを捧げている。

 しかし、宗教の平和的共存、価値多元主義の容認は、むしろ日本の天皇制こそその先駆けではなかったか。「およそ天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇祭れ」(神祇令)とされ、歴代天皇は稲作民の稲と畑作民の粟による儀礼を継承し、国と民のために祈りをつむぎ続けてこられた。

 天皇の祭りこそは信教の自由を保障するものだろう。なぜ一神教世界由来の政教分離の対象とされなければならないのだろうか。

 ところが現代の日本人には問題意識が乏しい。私たちは近代化の末に、文明の多元的価値を見失っている。そればかりでなく、世界の価値多元主義的潮流に逆行している。天皇とは何だったのか、私たちはいま一度、謙虚に問い直すべきではなかろうか。(終わり)

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