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昔も今も2段階で決められる斎田 ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 2 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年10月6日)からの転載です

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昔も今も2段階で決められる斎田
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 2
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『大嘗会便蒙』上巻 元文三年大嘗会

▽2 国郡卜定と荒見河の祓い

 まず国郡卜定ということがある。これは悠紀(ユキ)主基(スキ)の国郡を、何の国、何の郡と卜い定める儀式である。

 悠紀とは日本紀の私記に、「いわいきよまわる」の意味の言葉といわれる。だが、「いつき」ということばでもあろうか。主基とは次という意味で、悠紀に次いでものいみする意味である。

 さて、悠紀に当たった国の、悠紀に当たった郡、主基に当たった国の、主基に当たった郡、両郡の稲を用いられる。そのため前ひろに占い定められるのである。

(斎藤吉久注=米とともに捧げられる粟については言及されていません)

 これは8月のうちに日を選び、定められる。今年(斎藤吉久注=元文3年)は28日に行われる。

 その儀は、紫宸殿の西の方に廊下があり、これを軒廊(こんろう)というのだが、ここに神祇官の官人が連なり座し、そのなかで卜部が両人で亀甲を焼き、その亀の焼け具合で、悠紀は何の国、何の郡、主基は何の国、何の郡と定めるのだ。

 昔は数国数郡の名を書き立てて、その中から占ったのだが、中古以来、国には定まりがあり、悠紀はかならず近江国を用い、主基は丹波国と備中国とをかわるがわる用いた。郡は一国に二郡ずつを書き立て、そのなかで一郡を占い定めるのである。

 このたび(斎藤吉久注=桜町天皇の大嘗祭)は、悠紀は近江国滋賀郡、主基は丹波国桑田郡に定められた。

 この卜定が過ぎて、以後、六条宰相の中将有起卿を兼近江権守とし、岩崎右官掌紀氏信を近江権大掾として、このほかに池尻右衛門権佐栄房(よしふさ)は最初から兼近江介である。したがってこの3人を悠紀国司として、前後ともにことに預かっている。

 また、広橋左大弁宰相兼胤朝臣を兼丹波権守とし、正親町右中将実連朝臣を兼丹波介とし、庭田右衛門大尉紀氏房を兼丹波権掾として、この3人を主基国司として、同じくことに預かっている。

 また、抜穂使として、鈴鹿右近、土山駿府守武屋の両人が近江国滋賀郡松本村へ下り、鈴鹿内膳、高島右京大夫源蕃信の両人が丹波国桑田郡鳥居村へ下り、おのおのそのところに到りて、田を卜い定める。これを大田という。その田にできた稲を撰子稲という。

(斎藤吉久注=明治42年の登極令では、「大嘗祭の斎田は京都以東以南を悠紀の地方とし、京都以西以北を主基の地方とし、その地方はこれを勅定す」(第8条)、「悠紀主基の地方を勅定したるときは、宮内大臣は地方長官をして斎田を定め、その所有者に対し、新穀を供納するの手続きをなさしむ」(第9条)などと定められていました。
 国ではなく、地方と呼び方が変わりましたが、二段構えで斎田が決定されるのはいまも変わりません。
 一方、点定の儀の祭場は、京都の時代とは、当然、変化しています。
 京都時代には軒廊で亀卜が行われましたが、登極令の附式では斎田点定の儀が、大礼使高等官が出席し、宮中三殿の神殿内で神事を行うことが定められました。
 今回は、報道によれば、5月13日に、宮中三殿の神殿前で斎田点定の儀が行われ、亀卜の結果、悠紀地方に栃木県、主基地方には京都府が選定されましたが、この報道は不正確のようです。前回も同様ですが、神殿での神事があり、亀卜それ自体は神殿前の庭に設けられた斎舎で行われたということのようです。
 賢所ではなく、神殿である点は注目されます。
 さらに9月18日になって、宮内庁式部職は悠紀斎田が栃木県高根沢大谷下原、主基斎田が京都府南丹市氷所新東畑の水田に決定したことを発表しています。
 少なくとも在満の時代とは時期に相違があります。前回は2月下旬に悠紀地方・主基地方が決まり、斎田決定の発表は9月25日でした。斎田はすでに決まっていましたが、反対派によるゲリラ活動などがあり、きびしい情報管理が行われていました)

 次に、荒見河(あらみがわ)の祓ということがある。

 これは大嘗会に奉仕する行事の弁使ら、これまでの、かりそめに犯した、軽い罪咎を祓い捨てて、これより清浄にする儀である。

 大嘗会の散斎は11月朔日からだが、行事の弁使はまず、これまでの罪咎を祓い、汚穢を除かんがために、9月晦日に河祓をするのである。

 すべて祓いは水辺で行われ、すなわち贖物(あがもの)として人形(ひとかた)をつくり、これにわが罪咎をうつし、河水に流し捨て、あとの残らないようにすることである。

 昔、荒見河というのはどの流れなのか分からない。いまの祓いは、京の西北に紙屋川というのがあり、いまの人は「かい川」と呼んでいる。この川の高橋というところで祓いが行われるが、名目では荒見河祓といわれる。

 その儀は、川端に幄を建て、悠紀主基の行事の弁使、中臣卜部が著座し、弁使が大麻を撫でて息をかけ、卜部がその大麻を地に突き立て、祝詞を読み、祓いをなし、贖物を流しまつるのである。

(斎藤吉久注=明治の登極令本文および附式にはこの祓いに関する定めはありません。理由は分かりませんが、失われたのです)

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