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明治以後は行われない石清水、賀茂両社への奉幣 ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 4 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年10月7日)からの転載です

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明治以後は行われない石清水、賀茂両社への奉幣
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 4
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『大嘗会便蒙』上巻 元文3年大嘗会

▽4 由の奉幣

 次に、(よし)の奉幣ということがある。

 由とは大嘗会を行われるべき由である。奉幣とは幣帛を神に奉られる儀であり、これは今年この月(斎藤吉久注=元文3年11月)、下の卯の日に、大嘗会を行われるべき由を、伊勢、石清水、賀茂の3社へ、勅使をもって告げられることである。

(斎藤吉久注=明治の登極令では、「即位の礼および大嘗祭は秋冬の間においてこれを行う。大嘗祭は即位の礼を訖(おわ)りたるのち続いてこれを行う」(第4条)、「即位の礼および大嘗祭を行う期日、定まりたるときは、これを賢所、皇霊殿、神殿に奉告し、勅使をして神宮、神武天皇山陵ならびに前帝4代の山陵に奉幣せしむ」(第7条)と定められていました。
 荷田在満の時代と異なり、即位の礼と大嘗祭がセットになっています。また、宮中三殿への奉告、伊勢の神宮および山陵への奉幣の二段構えとなり、いわゆる国家神道の時代とされるころながら、皇室の社である伊勢の神宮はまだしも、石清水八幡宮や賀茂神社への奉幣は行われなくなり、代わって山陵へ勅使が差遣されることになったのは注目されます。
 前回も今回も、登極令の方式が踏襲されています)

 この儀は、霜月上旬のうちに日を選ばれる。今年は3日を用いられる。これには陣の座の儀、神祇官の儀として、同日に両度の儀式がある。

 陣の座の儀は、上卿以下が、紫宸殿の西廊、右近の陣の座に著いて、3社の使いを定められるのである。また内記に命じて、3社の宣命を作らせて奏聞し、これを清書させるなどする儀式である。

 この儀がおわって、すぐに神祇官代の儀がある。

 神祇官代には、今日の東山、神楽岡の八神殿(吉田の社の近所にある。今の人は、あるいは誤って八神殿を吉田の社と思う人がいる)のあたりを用いる。

 その儀は、先行事の弁使以下が、ここで3社の幣物を包み、上卿も、陣の座の儀が終わってすぐにここに来て、3社の宣命を、3社の使いたちに渡し、すなわち御幣もここよりたつことである。

 これは昔は、神祇官の官舎で行われたことだが、いまは神祇官がないので、神楽岡の八神殿のあたりを、神祇官の代わりと見立てて、このことがあるのである。

 八神殿は昔、神祇官にあったからである。

(斎藤吉久注=明治の登極令附式では、神宮、神武天皇山陵ならびに前帝4代の山陵に勅使を発遣する儀式について、「11月」との規定はありません。陣の座の儀と神祇官の儀の区別もありません。
 登極令附式では、勅使発遣の儀は「御殿」で行われることとされています。宮中八神殿からの歴史の継承を考えるなら、宮中三殿の神殿で行われるべきでしょうが、宮中三殿での期日奉告と重なるからでしょうか。
 発遣の儀は、附式では、御殿が装飾されたのち、大礼使、高等官、式部官、内閣総理大臣が参加し、天皇が出御して行われることと定められています。
 今回は、昨年11月の発表によると、宮中三殿への期日の奉告は「11月」ではなく5月8日に行われ、神宮や山陵への勅使の発遣は、同じ日に、宮殿で行われることとされました。神宮および山陵への奉幣は2日後の10日に予定されました。
 報道によれば、宮中三殿での期日奉告の儀には、安倍総理が参列したと伝えられます)


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都人が見物に押しかけた御禊も今は昔 ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 3 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年10月7日)からの転載です

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都人が見物に押しかけた御禊も今は昔
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 3
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『大嘗会便蒙』上巻 元文三年大嘗会

▽3 御禊と忌火の御飯

 つぎに御禊(ごけい)ということがある。

 禊も「はらえ」と読み、祓と同じ儀だが、天子などには禊といい、つねの人には祓という。これも荒見河祓と同じ意味で、天子はこれより清浄になさるために、これまでの汚穢を祓い清めようと御禊をなさるのである。

 11月朔日から大嘗祭の散斎であるため、10月末に行われる。今年(元文3年)は29日である。昔は川辺に行幸があり、行われたのだが、後世は略せられ、清涼殿の昼御座(ひのおまし)に出御なさって行われる。

 その儀は庭上に御贖物御麻を案に載せておき、宮主(みやじ)がこれを奉る。御贖物は御巫が取り次ぎ、中臣女がこれを奉る。御麻は祭主が取り次いで、中臣女がこれを奉る。天子がこれを撫でられ、御息を吹きかけて、返される。その次に、関白にも贖物を手渡され、関白も祓いをなさる。昔は、このとき公卿以下も同じく祓をすることが江次第に見える。いまはそうではない。

(斎藤吉久注=菅原孝標女の『更級日記』に「初瀬詣で」のくだりがあります。
 永承元(1046)年10月25日は、ちょうど後冷泉天皇の御禊が行われる日で、世間は大騒ぎでした。近親の人たちも「御一代一度の見物で、地方の人も集まってくる。初瀬詣で(奈良の長谷寺参詣)なんていつでもできる」と猛反対し、夫の橘俊通だけが「いかにもいかにも、心にこそあらめ」と許してくれたのでした。
 この文章によって、加茂川で行われる御禊を京都周辺の人々が見物しに殺到したことが分かります。
 しかし応仁の乱で大嘗祭は途絶え、江戸期に復活してのちも、かつてのように川辺で行われることはなかったのでした。
 明治の登極令には、御禊の定めそれ自体がありません。
 前回の御代替わりでは、政府の求めに応じて皇位継承儀礼について意見を述べた上山春平元京大教授(哲学)が、御禊見物に京都中の人が葵祭のときのように押しかけたと繰り返し指摘していたことが思い出されます)

 次に、忌火の御飯(おんいい)を捧げることがある。(下図は『御大礼図譜』(大正4年)に全文引用された『大嘗会便蒙』の挿絵)
忌火御飯の図@大嘗会便蒙.png

 忌火は斎火であり、これは11月朔日、この日から大嘗会の散斎であるがゆえに、前日までの火を捨て、あらためて清き火で御飯を捧げるのである。その火が改められる初めて御膳であるがゆえに陪膳(はいぜん)の仕様以下、いつものように略儀ではなくして、本式にするのである。

 ただし、これは大嘗祭の前に限られたことではなく、中古までは毎年6月、11月、12月の朔日に、かならずこれを捧げた。

 これはみな、その月に格別の御神事があるために、その月の朔日に火を改めるからである。

 その儀は、清涼殿の大床子の前に台盤を立て、その上に御膳を供する。まず4種といって、酢塩酒醤を供え、つぎに御薬として、薄鰒、干鯛、鰯、鯵を供え、つぎに御汁物とて、ワカメの汁を供える。

 右のように、供え終わったうえに、出御があり、御膳にお着きになり、御箸を取られ、御飯に突き立てられるばかりにて、入御なさる。そのあと御膳を撤するのである。

(斎藤吉久注=明治の登極令には、忌火の御飯についての記述は見当たりません。
 荒見河の祓い、御禊と同様、失われたということでしょうか。在満が解説した重要儀礼のいくつかが歴史に埋もれてしまったのはなぜでしょう)

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