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近代化で大規模化した大嘗宮 ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 5 [大嘗祭]

以下は『誤解だらけの天皇・皇室』メールマガジン(2019年10月10日)からの転載です。

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近代化で大規模化した大嘗宮
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 5
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『大嘗会便蒙』上巻 元文3年大嘗会

▽5 大嘗祭の期日、大嘗宮の規模

ア、大嘗会の期日

 さて、大嘗会の当日は、いつも霜月下の卯の日に定まっていて、もし卯の日が3つあれば、中の卯の日を用いられる。今年(元文3年)は霜月19日丁卯に当たっている。

(斎藤吉久注=今回は11月に卯の日が3回あり、中の卯の日の14日の夜から大嘗祭が予定されています。
 ただし、これは前回も同様ですが、太陽暦(グレゴリオ暦)の月と陰暦(太陰太陽暦。天保暦)の日を組み合わせた変則的な期日設定の結果で、このためさまざまな不都合が生まれています。神饌の稲は極早稲しか対応できず、干し柿作りはたいへんな苦労を強いられるそうです。
 明治5年の改暦で、翌年以降、毎年の新嘗祭は11月23日に固定されています。一方、平成の大嘗祭は22日でした。それらより約10日早いのですから、現場の混乱は必至でしょう。もし月も陰暦にするなら、12月20日が陰暦11月の下の卯の日に当たります)


イ、設営

 まず、当日の4、5日以前までに、修理職の役人が大嘗宮を作り畢(おわ)る。
大嘗宮地図@大嘗会便蒙@御大礼図譜.png
(斎藤吉久注=儀式によれば、10月になって用材を準備し、大嘗祭当日の7日前に造営に着手、5日間で完成させたようです。在満のころは少し違うようです。
 近代になる、大嘗宮が大規模化し、さらに日数がかかるようになりました。今回は7月着工、今月末に完成の予定と伝えられます)


ウ、全体の規模

 その作り様は、まず、紫宸殿の南の庭に、東西16間、南北10間(斎藤吉久注=1間が6尺=1・8メートルとすると28・8×18メートル)の柴垣を作りめぐらす(昔の垣は東西21丈4尺、南北15丈(斎藤注=1丈が3メートルとすると64・2×45メートル)である)。

(斎藤吉久注=紫宸殿南庭は東西約60×南北40メートルの広さがあります。そのなかに柴垣がめぐらされ、大嘗宮が建てられました。在満によると、儀式のころに比べると、桜町天皇の大嘗宮はこぢんまりしています。
 明治以降、巨大化した大嘗宮は紫宸殿南庭では納まらず、近代法による最初の大嘗祭となった大正の大嘗宮は、京都・仙洞御所の北側を新たに切り開き、東西60間、南北60間を板垣で囲い、そのなかにさらに東西40間、南北30間を柴垣で区切ったなかに、悠紀殿・主基殿が建てられました(岩井利夫『大嘗祭の今日的意義』昭和63年)。
 今回も、前回より8割程度に縮小されるとはいえ、東西89・7×南北88・15×1・1メートルの外周垣で敷地が設定され、そのなかに東西58・1×南北40・85×高さ1・1メートルの柴垣がめぐらされます(昨年12月の宮内庁大礼委員会資料)。
 近代以後、大嘗宮が大規模化した原因について、岩井利夫・元毎日新聞記者は、近代化で、国の威信を世界に示す必要があっことを指摘しています。
 もっと具体的にいえば、参列する皇族用の小忌幄舎や招待者用の幄舎が設けられるからです。参列しても祭祀は直接は見られません。天皇の祭祀は拝観を予定していません。晩秋の夜間の神事です。「秘儀」だからです。
 屋外の幄舎は暗いし、寒いでしょう。内外から高齢の要人を招くなら、大嘗宮の付属施設ではなく、宮殿内に席を設け、ビデオで解説するなどの便宜を図ったらどうでしょうか。
 近代以前の回立殿、悠紀殿、主基殿、膳屋の基本構造だけなら、京都の紫宸殿南庭とはいわないまでも、東京の皇居宮殿東庭で十分行えるはずです。
 大正の大嘗祭に事務方として携わった柳田国男は、「およそ今回の大嘗祭のごとく、莫大の経費と労力を給与せられしことは、まったく前代未聞とこと」と批判していますが、現代にも通じます)


エ、柴垣

 垣の高さは6尺ばかり。柴は内の方は北山柴、外の方は萩の柴、いずれも2たけである。竹で押縁(おしぶち)をし、縄で横に5ところを結う。4方角に皮付きの桧の副え柱がある。その柱を柴で太く包み、上の方を開き、すそ細に作る。

 前日になって、椎の枝を垣一面にさしめぐらす。これを椎の和恵(わえ)という。

(斎藤吉久注=前回、今回とも1・1メートルで低くなっています。参列者から見やすいようにという無用の配慮でしょうか)


オ、皮付きの鳥居

 垣の四方にくの木の皮付きの鳥居を立てる。ただし、南北の鳥居は垣の中央にあり、南北の鳥居は中央より少し南へ寄せる。

 鳥居の幅は4つとも8尺ずつ、高さは南西東の3方は一の笠木の下端より9尺、北のばかりは二の笠木の下端より9尺である。そうでないと渡御のとき、御菅蓋がつかえるため、あとから改められた(貞観のころの門は高さが1丈2尺、広さ1丈2尺である。延喜にいたって、4つとも高さ9尺、広さ8尺となった)。


カ、屏籬

 また、西東の鳥居の外に一間ほど置いて、南北2間の袖垣を立てる(これを屏籬という。昔は長さ2丈5尺あった)。垣の作り様は四方の垣に同じ。垣の南北の端には副え柱がある。これも柴で太く包む。四方の垣の角と同じである。


キ、開き戸

 また、四方の鳥居に開戸がある。これも同じく柴で作り、割竹で縁を四方に回し、表裏よりも筋交いに綾杉のように当て、かんぬきは松の皮付き、藤でからくり差し込み(昔の扉はシモト(木偏に若)で作った)。いずれも外締めである。


ク、もうひとつの鳥居

 また、柴垣の内、東西南北の中央に当たり、東西へくぐれる鳥居を1つ立てる。これもくの木で作る。高さ、幅ともに南西東の鳥居と同じである。ただ、1間半余ずつ柴垣を立てる(昔はこの垣は長さ南北10丈のうち、南の端に小門を開き、門より北に9丈、南に1丈あって、中央に門はなかった)。


ケ、もうひとつの屏籬

 その垣の南北のはずれに、各1間ほどの柴垣を、東西の行に立てる(これも屏籬という。昔は2丈あった)。その東西のはずれの柱は、柴にて包む。総じて、垣の作り様は四方の柴垣と同じである。

 次回は、悠紀殿と主基殿です。


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