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回立殿は板葺き、膳屋はプレハブの異常 ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 7 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年10月12日)からの転載です

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回立殿は板葺き、膳屋はプレハブの異常
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 7
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『大嘗会便蒙』上巻 元文3年大嘗会

▽7 回立殿、膳屋その他

ト、回立殿
大嘗宮地図@大嘗会便蒙@御大礼図譜.png
 さて、紫宸殿の東庭、内侍所の西の方、少し北に寄って、回立殿を建てる。これは大嘗宮に渡御なさるとき、まずこの殿に渡御があり、御湯を召され、御装束を改めなさるところである。

ナ、回立殿の建て様

 建て様は、南北3間、東西5間(昔は長さ4丈、広さ1丈6尺だった)。ただし、西の方3間を1間とし、これにはそのなか2間四方に畳を敷き、東の方2間を1間として、これは竹簀子である。

 その2間の界は、南北3間のうち、なかの1間は開き戸2枚で、南と北との1間ずつの張り出し、近江表にぬきを入れることは大嘗宮と同様である。


ニ、回立殿の柱

 柱の立て様は、みな1間ずつの間で、4面合わせて16本あり、2間の界に2本、あわせて柱数18本である。


ヌ、回立殿の縁、階段

 四方に縁はない。南面西から第4の柱と、第5の柱との間、1間に箱段を付けて、渡御のときに降りられる道とする。北面、西より第2の柱と、第3の柱との間は、1間は御茶湯所との界となる。

 同じく第3の柱と、第4の柱との間は、1間に箱段を付け、御茶湯所へ下がる道とする。西面、南第2の柱の南から、第3の柱の少し北までは、1丈の間に、紫宸殿寄りの橋廊下を取り付ける。


ネ、回立殿の壁、開き戸

 さて、四方に壁はない。近江表を当て、皮付きの松の木でぬきを入れる。ただし、南面西から第2の柱と第3の柱との間は、1間は2枚の開き戸である。また第4の柱と第5の柱との間は、1間も2枚の開き戸で、かんぬきは内締めである。

 また東面は幅3間のうち、なかの1間の間と、北面西から第3の柱と第4の柱との間は1間と、西面3間のうち、なかの1間の間と3所ともに2枚の開き戸で、かんぬきは外締めである。


ノ、回立殿の天井、屋根

 殿のうちは、天井はみな近江表である。屋根は苫葺きで、桁行が東西5間、梁行が南北3間である。

(斎藤吉久注=今回、宮内庁は屋根を苫葺きではなく、板葺きとすることを決めています)


ハ、回立殿の廊下その他

 さて、18間廊下の中央に、回立殿の西から、第2の柱から第4の柱までの間に当たって、2間の間は、御廊下を取り放し、回立殿の北の端から18間、廊下の北の端まで、南北3間半、東西2間のうち、土間に板を敷き、そのうえに畳を敷き、苫葺きの屋根をかけ、そのうち南の方2間四方は御茶湯所とし、近江表で東西を囲む。

 ただし、外の方は板囲いである。北の方の2間に、1間半のところはただ北の方、小御所への通い道である。その西北の隅に、西の方、御廊下へあがるべき箱段を付ける。


ヒ、紫宸殿から回立殿まで

 さて、紫宸殿の東の縁の、東南の隅の少し北より、回立殿の西表、中央より南へ少し寄ったところまでに、筋交いに橋廊下をかける。長さ7間半、幅は1丈ある。南北両方、近江表で囲い、竹と松の皮付きとで押縁をうち、屋根は苫葺き、垂木駒居はみな竹である。


フ、回立殿東側・西側の板囲いその他

 さて、回立殿の東の方、1間余も東へ寄せて、北は18間廊下まで、南は大嘗宮の北の柴垣の通りまでに、板囲いを建てる。その板囲いの南の端に、東の方から入るべき入口を付ける。

 そのところより柴垣の東北の角までに、また板囲いをめぐらせる。また、紫宸殿の西より、第2の柱の通りに当たり、北は紫宸殿の縁のもと、南は大嘗宮の北の柴垣までに、また板囲いを建てる。


ヘ、悠紀の膳屋

 また月華門の南の廊を、近江表で囲いめぐらし、悠紀の膳屋とし(昔の悠紀、主基の膳屋は柴垣の内にあった)、悠紀の神膳をここで料理する。

 その膳屋の東南の隅に、長さ南北2間、幅1尺5寸の棚を作る。割竹を釘にして打ち付けるのである(昔の棚は*(木偏に若)でつくる)。棚の高さは土間から2尺余り、供神のものは、盛り立てて、この棚の上に置くのである。

 その棚のある通りには、外の方、筵囲いの上に、椎の葉を当て、割竹で押縁を二通り当てる。

(斎藤吉久注=宮内庁は今回、木造ではなく、組み立て式建物への変更を決めました。異常です)


ホ、主基の膳屋

 また、月華門と宜陽殿との間の廊を、同じく近江表で囲い隠し、主基の膳屋とし、主基の神膳を、このところで料理する。

 この膳屋には竹棚はない。


マ、膳屋の開き戸

 2つの膳屋はともにそれぞれその西南の隅に、西の方より入るべき開き戸がある。竹の折り戸の両面から近江表を当てたのを、縄で結びつけておくのである。


ミ、御行水の釜

 また月華門の北の廊の内に、御行水の湯を沸かす釜を置く。釜の座は3尺ばかりで、四方の廊の柱に、近江表を当てて、囲いめぐらし、3尺ずつの腰板を当てる。ただし、ここは主殿寮の役人が作る。

 総じて、大嘗会について、新たに作られる所が昔は夥しいことで、書き連ねるべきことではない。いま作られる所は大略、以上である。

(斎藤吉久注=大嘗宮の構造について、ここまで詳しい資料は、私は読んだことがありません。戦前・戦後を通じてもっとも偉大な神道思想家といわれる今泉定助が、大正天皇の即位礼・大嘗祭を目前に編述した『御大礼図譜』(池辺義象との共編。大正4年8月)の付録に、この書を活字に直して全文引用したのには意味があることでした。
 ただ、凡例に、大嘗祭が戦国乱世以後、中絶し、徳川時代に再興したのではあるけれど、古儀を遵奉していることは『大嘗会便蒙』を読めば分かると指摘する一方で、斎田点定について、上古は全国から卜定されたのを、中古以来は国を限り、郡のみを卜定されていたが、明治以降、これを改め、大正以後は京都の東西に悠紀主基を卜定されることになったと解説しているだけなのは十分とはいえません。
 端的にいって、大嘗宮の規模拡大について、今泉はどう考えていたのでしょうか。
 宮内庁の大礼委員会は、大嘗宮の規模や形態について歴史的な変遷があり、近代以降、大正・昭和に定型化され、前回は昭和の大嘗宮に準拠したと理解し、そのうえで今回、屋根や柱の変更を決めています。
 大礼委員会は「儀式の本義に影響のない範囲」「建設コストの抑制にも留意」と説明していますが、過去の歴史にない変更はあり得ないのではありませんか。荷田在満ならどう思うでしょう。
 最後に蛇足ながら、在満の『大嘗会便蒙』上巻は大嘗会の歴史、斎田点定、荒見河の祓御禊、由の奉幣、大嘗宮の設営などについて説明していますが、一条兼良『代始和抄(御代始鈔)』(寛正2年)に解説されている抜穂標山についての言及がありません。
 明治の登極令では民衆との接点が生まれる荒見河の祓、御禊、標山が失われ、その一方で、登極令では大嘗祭前日の鎮魂式が規定されています。既述したように、登極令以後、石清水、賀茂社への奉幣はなくなり、山陵への勅使参向に代わりました。その背後に何があるのでしょう)

 次回から『大嘗会便蒙』下巻を読みます。


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