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御神座、御座を誰がどのように設えるのか ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 8 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年10月13日)からの転載です。

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御神座、御座を誰がどのように設えるのか
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 8
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『大嘗会便蒙』下

大嘗会当日次第

▽8 明け方から始まる祭祀

ア、平明、中臣、大嘗の宮殿および門を祭る

 平明は卯の刻に用いられる。中臣は祭詞のことに預かる職である。今度は藤波三位和忠卿が勤められる。大中臣氏だからである。

 大嘗宮殿を祭られるのは、大殿祭といって、殿中に禍がないように、屋船久々遅命(やふねくくのちのみこと)、屋船豊宇気姫命(やふねとようけひめのみこと)に。大宮売命(おおみやのめのみこと)を取りそえて祭られる。

 また、門を祭られるのは、御門祭といって、荒ぶるものが入り来たるのを防ぎたまうために、櫛磐牖命(くしいわまどのみこと)、豊岩牖命(とようけまどのみこと)を祭られる儀である。

 中古までは、毎年6月12月に、大殿御門の祭りがあった。いまの代は絶えたのだろうか。つねには聞かなくなった。また、この祭りは大嘗の当日ではなく、寅の日以前に行われることとみられる。


イ、兵庫寮、神楯戟を大嘗宮の南門の東西に立てる。各1枚1竿

 兵庫寮は武器を司るがゆえに、楯戟を立てる。今度は川越兵庫頭賢兼がこれを励む(昔は石上榎井両氏の人が内物部を率いて、これを立てた。兵庫寮は預からなかった)。

 神楯は長さ3尺ばかり、広さ1尺2寸ばかり。頭は闕たるがごとくで、とがったところが3つばかり出ている。裏の方に執っ手がある。表裏ともに黒塗りである(昔の楯は、岳も長く、幅も広く、数も南北門で4枚あった。後世は略されて、南門にばかり2枚をおく)。

(斎藤吉久注=荷田在満が要所要所で、昔の大嘗祭との相違点を細かく指摘していることは注目されます。そしてそのことが公卿たちの反感を招き、在満が幕府から閉門を命じられる一因ともなったのでした)

 神鉾は、柄の太さが7寸、廻りは黒塗り。鍔には金箔を貼る。鍔の下に大和錦のひれがある。ひれの末が3つに裂けて、3つともその端がとがっている。この鉾は大嘗宮の南門の外の東西に、ひと竿ずつ地に突き立てる(昔はこの鉾が8本だった)。

 は鉾の外の方に一枚ずつ表を外の方になして、柴垣に立てかけておく。


ウ、次に伴、佐伯各1人、南門の左右の外腋の胡床に分かれて著く

 伴、佐伯は、氏の名が昔からこのような大儀には、伴氏と佐伯氏と、大門を開閉することである。中古まで両氏の人が多かった。いまは両氏ともに少しだけ残っているため、代わりに他氏の人を用いられる。こんど、伴氏の代わりには榊原右衛門大志和気董正、佐伯氏の代わりには岩崎右官掌紀氏信がこれを勤める。

 胡床は腰をかけるものである。伴氏の胡床は、南門の外の左の方にあって西面し、佐伯氏の胡床は右の方にあって東面する。ただし、両人とも、少し南へ曲げて向かう。正確に東西には向かわない。


エ、次に、式部、大忌の版位を南門の外庭に設ける

 式部は礼儀を司る官であるがゆえに、版位を設けることを役とする。今度は、宗岡式部少丞経重がこれを勤める。

 大忌とは大斎である。大嘗につき斎戒する。諸司のうち、厳密に斎戒するのを小忌といい、大概に斎戒するのを大忌という。

 昔は諸司百官のうち、卜にあたって神事に預かるものは小忌であり、そのほかはみな大忌であった。いまはただその風を残して、小忌の公卿何人、大忌の公卿何人と定められる。このたびは、大忌の公卿は、醍醐大納言兼潔卿、清閑寺中納言秀定卿の両人である。

 版位とは、版は札である。位は場所である。

 これは朝廷で、何ごとにつけ儀式が行われ、庭上に大勢が列立するとき、広いところだから、その出仕する人の心に任せて列立すれば、その場所がよろしくないから、それ以前にここに何位の立つべき場、ここに何官の立つべき場という印に札を置く。その札を範囲ともいい、版とだけともいう。

 昔の版位は、大きさが7寸四方、厚さ5寸と儀制令に見られるが、いまはやや大きく見える。ここに設ける版位は、下に見える大忌の公卿の初の座より進み、拍手する場所の印に、南門の外に置くのである。


オ、大臣、打拂筥を取り参上す

 これより下6箇条は、大嘗宮の内をしつらう所作である。

 打拂筥とは、打拂の布といって、神座を拂う料の布を入れた柳筥である。大臣は、これを大嘗宮まで持参なさるだけである。


カ、次に参議、弁、坂枕を舁く
大嘗宮内図@大嘗会便蒙.png

 坂枕というのは、大嘗宮神座の八重畳の下に敷く枕である。これまた参議と弁とこれを舁いて、大嘗宮まで持参するだけである。


キ、次に侍従、内舎人、大舎人ら、神座、御座等を舁き参入

 侍従は石井侍従行忠朝臣、内舎人は西村飛騨守則貞、大舎人は荒木大舎人少丞高橋栄庸、これを勤める。

 神座は1丈2尺の畳、9尺の畳、6尺の畳、八重畳などである。御座は主上の御座の半畳である。これまたいずれも大嘗宮まで持参するだけである。


ク、次に掃部、殿内に入り、これを供す

 掃部は座を布き、席を設ける役なので、これを供するのである。当日、出仕するのは、押小路掃部頭師守、清水掃部助藤原利音、平岡掃部少丞藤原俊方の3人である。

 これは上に見た大臣以下の持参するものを飾り設えるのである。

 まず神座は内陣の中央に1丈2尺の畳を敷き、そのうえに6尺の畳を、たてに2畳ずつ二重かさねて、4畳敷く。この4畳の内、南の方の2畳には、白布の裏がある。そのうえに9尺の畳を敷く。この畳はこれより下の畳と南の端をそろえて敷くので、北の方は3尺あくことになる。そのあいたところに、6尺の畳の上に錦の御沓1足を北面に置く。

 この9尺の畳は、昔は7畳を重ねて敷き、そのうち1畳を少し東の方に引き出して、その引き出したところに打拂の筥を置くとあり、貞享には、ただ4畳かさね、そのうち上の2畳に白裏をつけ、下の2畳を少し東へ引き出して、その引き出したところの南の端から、すこし北の所に打拂の布を置かれ、筥はその東に畳を離れて、置かれる。

 このたびも貞享のようなのか、神秘なので、その役人が語らないので、詳らかではない。

 この9尺の畳の上、南の端に坂枕を敷いて、そのうえに9尺の八重畳を敷いて、これを神座とする。すべて畳は白縁である。

 また御座は神座の東、八重畳の中央から北の方へ寄せて巽向に半畳を敷く。神座、御座のしつらい様は、悠紀の御殿にひととおりかくの如しで、また主基の御殿にもひととおりかくの如しで、少しも変わることはなく、ふたとおり設けるのである。

 次回は回立殿から。

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