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大嘗祭に携わる官人たちの今昔 1 ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 9 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年10月14日)からの転載です

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大嘗祭に携わる官人たちの今昔 1
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 9
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『大嘗会便蒙』下 大嘗会当日次第

▽9 大嘗祭に携わる官人たちの今昔 1

ケ、次に中臣、忌部各1人、縫殿大蔵等の官人を率いて、衾単を悠紀殿に置く。主基もこれに同じ。内蔵の官人を率いて、御服二襲絹の御*(巾ヘンに僕のつくり)頭を回立殿に置き奉る
回立殿内図@大嘗会便蒙@御大礼図譜.png

 中臣が当日、出仕するのは、藤波三位和忠卿、伊勢大宮司長矩の両人である。いずれも大中臣氏だからである。

 忌部も中臣と同じく、祭礼のことに預かる役である。昔は忌部氏の人が多かった。いまは大方消えたために、他氏の人を代わりに当てる。このたび忌部代として出仕するのは、伏原右兵衞権佐宣條、行事官神祇大祐紀春清の両人である。

 縫殿は衣服を司る役であるため、衾単のことに預かるのである。このたび縫殿の官人は深井縫殿大丞橘蕃術(しげみち)、大蔵の官人は清水大蔵少丞藤原利尹がこれを勤める。御衾御単はいずれも生(すずし)である。御衾は八重畳の上にのべ敷いて、御単は御衾の上、南の端のところにたたみて置く。

 内蔵は御服を司る役で、このたびは内蔵寮の年預出納(ねんよしゅっとう)右近将監職甫がこれを勤める。

 御服は白生(しろすずし)の御祭服と白御下襲を一襲として、悠紀の御殿に御せらるるときの料の一襲、主基の御殿へ御せらるるときの料の一襲、あわせて二襲である。

 絹の御*(巾ヘンに僕のつくり)頭というのは、*(巾ヘンに僕のつくり)頭はかんむりである。つねの御冠は羅で包み、菱をとじ付けて、有文のよしである。絹の御*(巾ヘンに僕のつくり)頭は絹で包み、菱のとじ付けはない。神事であるがゆえに、無文を用いなさる。

 この御服は回立殿内の南辺にあり、西の中央に当たって、一襲ずつ並べておく。御冠は柳筥にすえて、御服の西に並べておくのである。


コ、次に、神祇官1人が、神服(かんはとり)の宿禰を率い、入りて、繪服(にぎたえ)の案を悠紀殿の神座の上(ほとり)へ奠く。主基も是に同じ。忌部2人が入りて、麁服(あらたえ)の案を同座の上へ奠く。主基もこれに同じ。

 繪服、麁服ともに、ここは神服なるがゆえに、神祇官忌部がこれにあずかる。神服の宿禰は姓氏の名で、古来、神服を織ることを業とする家である。いまはこの姓の人はいないので、他氏の人を代わりに立てる。このたびの神服宿禰代は小野主計大丞紀氏兼がこれを勤める。

 繪服は「にぎたえ」と訓ずる。「にぎ」は和なる儀、「たえ」は絹布の総名で、「にぎたえ」はすなわち絹の古名である(昔は、このにぎたえは必ず神服が織ったものを用いた)。麁服は「あらたえ」と訓ずる。「あら」は麁悪の儀で、「あらたえ」はすなわち布の古名である(昔は、このあらたえは必ず阿波国忌部が織ったのを用いた)。

 このにぎたえ、あらたえは、各竹のひげこに入れ、四角に龍眼木(さかき)の葉をさして、八脚の案にのせる。これを繪服案、麁服案という。神座上は神席のほとりである。うえではない。この2つの案は神座の北辺、左右に分かち置く。繪服の案は西にあり、麁服の案は東にある。

(斎藤吉久註=麁服はふつうは麻の織物といわれますが、在満は単に「布」としか説明していません)


サ、次に、神祇官、内膳膳部等を悠紀の膳屋に率い、神饌を料理する

 内膳は御膳を司る官であるがゆえに、神膳を料理する。昔は、内膳官は高橋氏と安曇(あずみ)氏と、両氏からこれに任じた。その後、安曇氏が絶え、高橋氏ばかりになって、両氏がそろわないので、高橋氏が伴氏のうちの人を安曇氏代とした。

 このたびは高橋氏内膳は浜島内膳奉膳(ぶぜん)等清(ともきよ)がこれを勤め、安曇氏内膳は石塚左近伴嘉亭がこれを勤める。

 膳部は内膳に属する職であり、俗にいう料理人である。膳屋の作り様は、上に記した。

 神饌は神膳というのと同じで、供神のものである。御飯、米御粥、の御粥、和布羹、鮮物4種、干物4種がある。

(斎藤吉久注=荷田在満が、国郡卜定のくだりでは米のみで、粟について言及しなかったのに、ここでは大嘗祭の神饌に米と粟があると解説していることが注目されます)


シ、主殿寮、忌火をもって燈燎を両院に設ける。おのおの2燈2燎

 主殿寮は燈燭を司る燭であるので、燈燎を設ける。このたび出仕するのは小野主殿権助重威、小野主殿少丞職秀の両人である。

 忌火は斎火であって、別段の火があるわけではない。新たに火を鑽って、大嘗宮にともすがゆえに忌火というのである。

 燈燎とは、燈はとみし火で、燎はたき火であるが、このところでは大嘗宮のうちの北の端にある黒木の燈楼をさして燈といい、中央にある白木の燈台をさして燎というとも見える。

 両院は悠紀殿と主基殿とである。一院に2燈2燎ずつ、両院で4燈4燎、あわせてともし火の数は8つである。

 昔の燈は、布で燈柱とした。いまはそうではない。


ス、伴、佐伯、門部を率い、庭燎を南門外に設ける

 伴、佐伯は、上に述べた、胡床に著いた両人である。門部は衛門府の下に属し、御門を守る者である。

 この庭火は、大嘗宮の南門の外、正面に1カ所にこれを置く。伴と佐伯と、おのおの設けるのではない。また昔は、門部8人で、この火をたいた。いまは2人で焚くのである。


セ、主殿寮、大忌の御湯を供す

 湯沐のことも主殿寮の役である。大忌の御湯とは、大忌の意味は上に註したごとしである。御斎戒が重いがゆえに、御湯をたびたび召される。そのまず一度召される湯を、大忌の御湯と名づけ、のちに両度召されるのを小忌の御湯と名づけているだけである。


 次回は新帝のお出ましまでです。

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