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悠紀殿の神饌御親供は「神秘」にして語られず ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 12 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年10月17日)からの転載です。

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悠紀殿の神饌御親供は「神秘」にして語られず
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 12
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『大嘗会便蒙』下 大嘗会当日次第

▽12 悠紀殿の神饌御親供は「神秘」にして語られず

ム、近衛将、剣璽を捧げ、嘗殿の四面の簀子に候し、中臣、忌部、御巫、猿女ら、鳥居内に跪き、主殿、燭を執り、階下に候す

 これは天子が大嘗宮に到りたもうたときのことである。ゆえに貞享(斎藤吉久註=東山天皇の大嘗祭)の次第には、首に「到大嘗宮」の4文字があって聞こえやすい。

 嘗殿西面簀子は西の方の縁である。悠紀殿のときも、主基殿のときも、各その西の方の入口の、左右の縁の上に候せられる。

 その宝剣を捧げるのは北の方で、神璽を捧げるのは南の方にあって、階下は南階下である。天子が宮内におられる間、主殿の官人は始終、燭を取って、階下にいるのである。


メ、悠紀嘗殿に御す。大嘗宮の北門ならびに悠紀殿の西を経て、南面戸より入らしめ、大蔵の宮内、掃部、車持、子部、笠取等、鳥居の外に出でて、関白、便所に候す

 この道筋は、上の布単を敷くところに、委(くわ)しく書いたごとくである。南面の戸は、南向きの入口である。「関白、便所に候す」というのは、定まった座の形式がないがために、こうはいっても、貞享のときの摂政も、このたびの関白も、大嘗宮の外陣の西壁の下に、畳一畳を敷く。ここに東面して著座しなさるのである。


モ、小忌群官、各著座。大臣は南鳥居の内の東辺に西面す、納言以下は同鳥居の外の西面に北上す

 この座どもは、昔はみな幄中にあった。いまは幄を略されている。あらかじめ簀薦のうえに畳を敷いて設けておく。

 右大臣は南の鳥居の内の東辺に、渡御の道の布単から少し南に西面して著座される。大炊御門大納言は南の鳥居の外の東辺に西面して著座される。東面に東園中納言、その南に松木宰相中将が並び座される。ただし、この3人の座は右大臣の座の巡からはやや東に当たって、これを設ける。


ヤ、近代、弁、少納言、外記、史ら、これに著せず

 基本は弁以下も著座することから、小忌郡官であっても、右に見た4人ばかり著かれるのである。


ユ、次に開門、伴、佐伯、大嘗宮の南門を開く。次に大忌の公卿、庭中の版位に就く。南鳥居の外、異位重行。拍手訖(おわ)りて復座

 この版位は、上に見た、式部が設けた版位である。大忌の公卿が初著座されたところから少しばかり北に進んで、版位のもとにつくのである。

「異位重行」という並び方は、貞観儀式、西宮記以下に見えるけれども、近代、用いられるのは、後の成恩寺関白の説のように、大臣の後ろに3納言、その後ろに三位の中納言、その後ろに四位の宰相が列し、二位の中納言は大納言の末に少し退いて列し、三位の宰相は中納言の末に少し退いて列する。

 しかしこれは、大勢が列するときのことであって、ここの大忌の公卿はただ2人なので、清閑寺中納言、二位の中納言であるために、醍醐大納言の西の方に少し退いてつかれるだけである。

 拍手は2つずつ拍つだけである。このときの拍手は4つずつ8度、あわせて1人の拍手の数は32である。これを八平手という。

 大忌の公卿は、版のもとに就き、跪いて笏を差しはさみ、拍手しおわって、小拝して、本の座に復される。


ヨ、亥の一の刻、御膳を供す
神饌物之図1@大嘗会便蒙@御大礼図譜.png
神饌物之図2@大嘗会便蒙@御大礼図譜.png
 これすなわち、上に見た、神祇官の悠紀の膳屋で料理した神膳であって、これより前に東の鳥居の内柴垣の下に八脚の案を立てて、そのうえに運び、並べ置いて、それから悠紀の殿内へ供するのである。

 その儀は、伴造が火矩を取って前行し、卜部ならびに高橋、安曇の、内膳司、造酒司、主水司などがこれに預かる。

 その供する次第は、神秘であって、語られないので、いまの様は知ることがないが、貞観儀式、江次第などに詳しく見えているので、大して変わることはないだろう。

(斎藤吉久註=荷田在満が、大嘗祭の祭式について最大限に詳述しているのに、神饌御親供、御告文奏上、御直会についてはほとんど説明らしきものがないのは、秘儀としていかに強く認識されているかが分かります。まさに「凡そ神国の大事ハ大嘗会也。大嘗会の大事ハ神膳に過たることハなし」(一条経嗣「応永大嘗会記」応永22年)なのです。
 これに対して、昭和天皇の即位礼・大嘗祭についてまとめた『昭和大礼要録』(大礼記録編纂委員会、昭和6年)には、以下のようにさらに詳しく記述されています。
「晩秋の夜気身に迫るの時 陛下にはただ1人内陣の中、半帖のみを敷かれたる御座の上に厳然として端座あらせらる。燈籠の火影ほの淡く、神厳の気自ら乾坤に満つ。
 神食薦以下の女官、相次いで外陣に参入し、蚫汁漬を執れる掌典以下順次簀子に進み、捧持せる神饌を女官に伝えて本の所に復す。女官は受くるに随ひて、後取女官に傅へ、後取女官は之を陪膳女官に進め、陪膳女官すなはち進みて之を陛下に供し奉れば、畏くも神前に御親供あらせらる。
 御親供訖らせ給へば、御拝礼の後、御告文を奏し給ふ。時に8時40分。此の瞬間こそ、大嘗宮の儀のうちにも最も崇厳なる御時刻と申し奉るべく、御親ら大祀を行はせ給ひ大孝を申べさせ給ふ大御心、大神の感応、如何にましまさむ。
 次に御直会の儀に移る。即ち神に捧げ給へると御同様の御食・御酒を 陛下御躬らきこしめし給ふなり。此等の御食・御酒こそ、神々の威霊と大御宝の至誠との凝り成せる悠紀斎田の斎米もて造られしなれ」
 また、前回、宮内庁がまとめた『平成大礼記録』(平成6年)では、次のように記録されています。
「同(斎藤吉久註=午後)7時06分、天皇陛下が内陣の御座にお着きになった。掌典長および掌典次長が外陣に参入して内陣の御幌外左右に候し、侍従長は外陣に参入して東方に候した。この間、式部官の合図により、参列の諸員は起立した。
 海老鰭盥槽の掌典が簀子に進み、これを両采女に伝え、所定の位置に復した。陪膳采女および後取采女が御刀子筥及び御巾子筥とともに海老鰭盥槽を奉じて内陣に参入した。多志良加の掌典が簀子に進み、これを後取采女に伝え、後取采女は陪膳采女に伝え、陪膳采女が御手水を供した。掌典が簀子に進み、陪膳および後取の采女から多志良加および海老鰭盥槽を受けて所定の位置に復した。
 神食薦以下の采女8人が外陣に参入した。蚫汁漬を執る掌典以下が簀子に進み、これを外陣の采女に伝えた。采女は神饌等を後取采女に伝え、同采女はこれを陪膳采女に伝えた。
 天皇陛下が神饌を御親供になった。
 同8時39分30秒、天皇陛下が御拝礼になり、御告文をお奏しになった。この間、式部官の合図により、参列の諸員は起立した。
 次に御直会の儀があった」
 昭和、平成の記録とも、在満にもまして詳しいのに、もっとも中心的な神饌御親供については、具体的な説明らしきものが欠けています。神饌の御食は、昭和の場合は米としか書いてありません。平成は言及がありません)


ラ、四の刻、これを撤す

 天子が供し畢(おわ)られて、外陣の屏風の内に入り、休息され、四の刻にいたって撤しなさる。


リ、宮主、采女等、その儀に従う

 宮主は、いまの宮主は吉田神祇権少副兼成がこれを勤めるべきだが、今日はあまりに近い勤めなので、地下の人を用いがたいことから、吉田神祇権大副兼雄卿が宮主代としてこれを勤められる。

 采女は代とともに6人が出仕して役送を勤め、外に1人が内侍をもって代とし、内陣の供神の御手伝いを勤められる。

 宮主も采女も供するとき、撤するとき、ともに預かり勤められるのである。


ル、次に回立殿に還御す。その儀は初めのごとし

 御道筋は初めの道を用いなさる。御路の間、前行の大臣以下、御後ろの関白まで出御のときのようにする。今年はこの還御は子の刻すぎにおよび、これから左の儀式は準じて刻限が遅れたのである。


 次回は主基殿のお出ましです。


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