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個人商店と株式会社の狭間──現代の皇室が抱える矛盾 [天皇・皇室]

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個人商店と株式会社の狭間──現代の皇室が抱える矛盾
《斎藤吉久のブログ 令和元年12月31日》
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一昨日の29日、たいへん考えさせられる記事が共同通信(47 NEWS )から配信された。大木賢一記者による「新天皇が見せた『重大な変化』とは 上皇の前例踏襲せず 国との関係性に影響?」〈https://this.kiji.is/582556828454388833?c=39546741839462401〉である。

記事は、9月に秋田で開かれた海づくり大会で、皇位継承後はじめてご臨席になった今上天皇が、国歌斉唱の際に皇后陛下とともに、「示し合わせたかのようにくるりと後ろを向いた」。先帝の時代にはなかった「異変」だ、と指摘している。

記者たちを驚かせた「令和流」について、宮内庁は「国民を大切に思い、共に歩むという点では、上皇ご夫妻と変わらないだろう」と取材に答えたというのだが、識者たちは違う。


▽1 君が代に背を向け、国旗を仰ぐ

「日の丸を背負って君が代を受け止める」という先帝の前例を踏襲しない、「君が代に背を向ける」今上天皇の「重大な変化」について、「国民と同じ視線と立場で共に国に敬意を表した」(河西秀哉准教授)、「国の最上位の公共性を表示する国旗に、陛下は公共性の究極の体現者として、敬意を表された」(高森明勅氏)、「涙が出る。今現在はたまたま自分が国を預かっているという認識の表れ」(八木秀次教授)とそれぞれに評価する研究者もいる。

その一方で、「国民の国への過剰な帰属意識を誘う危険もある」(原武史教授)、「右派を利することにもなりかねないそうした行動は自重すべきだ」(池田直樹弁護士)と警戒する人たちもいる。その背後にはいうまでもなく、「君が代は国民を戦争に動員するものとして歌われた歴史がある」(河西准教授)との見方がある。

些細なことのようにも見える変化を、大木記者が「重大」と捉えるのは、日の丸・君が代問題の悩ましさがあり、「国と天皇との関係性」を変えるかもしれないと考えるからだが、私にはむしろ現代天皇制が抱える矛盾を浮き彫りにしているように感じられた。それは大木記者の事実認識と識者たちの反応のなかに見え隠れしている。

まず事実を振り返ると、大木記者によれば、先帝は皇后とともに式典の国歌斉唱で参列者の方を向いたままだったが、今上は皇后とともに後ろを向き、国旗を振り仰いだとされている。この「異変」に大木記者ほか取材記者らが注目し、そして研究者たちは国旗を仰ぎ見られた事実に着目している。

ここで気づかされるのは、大木記者も教授たちも、先帝および今上天皇の行為が個人もしくは皇后との共同による行為と判断されていることである。天皇はかつてのような藩屏に囲まれた存在ではなく、いわば個人商店であり、そして上御一人ではなく、つねに「両陛下」と呼ばれる、いわば一夫一婦天皇制が標準であることが暗黙の前提となっている。

そうだとして、一方では日本国憲法の国民主権主義下での象徴天皇制という枠組みのなかでは、天皇の地位は主権の存する国民の総意に基づくのであり、であれば、天皇の個人的もしくは皇后との共同的行為がいわば株式会社の株主とされている国民の絶対的支持を得られるかどうかが問われることになる。

大木記者の記事はこのような問題意識から生まれたものと思われる。


▽2 天皇は「個人」でいいのか

しかし、あらためて見直すと、事実は大木記者の理解と少し異なるように思う。つまり、側近の関わりが見逃されているのである。

共同通信のサイトに載る画像をよく見ると、2年前の福岡大会で、先帝は皇后とともに参列者の方を向いたままだが、かたわらの側近もまた同様に国旗を仰いではいない。他方、今年の秋田大会では、今上も皇后も、そして側近も同様に後ろを向いている。国旗を仰いでいるのは今上と皇后だけではない。

つまり、先帝、今上ともに、天皇個人の判断もしくは皇后との二人三脚ではなく、側近との何らかの打ち合わせがあり、そのうえでの統一行動であることが容易に推測される。

大木記者の記事によると、今上は皇太子時代から「後ろを振り返っている」という。とすれば、「前例を覆した」のではなく、皇太子時代の「踏襲」といえる。側近の侍従職は東宮侍従からの持ち上がりだろうから、今上にとっては「異変」ではない。大木記者は、今上が皇后に「目配せした」ことをもって、「重大な変化」への意気込みであるかのように匂わせているが思い込みではなかろうか。

問題は側近の関わり具合であろう。

大木記者の記事に見られるように、平成も令和も、現代の天皇は間違いなく個人商店化している。支える藩屏の不在は昭和の時代から指摘されている。大木記者のような指摘が当然だとすれば、側近は事前によくご相談申し上げるべきだろう。ただし、的確な輔弼が可能かどうか。

天皇のお言葉は、かつての宣命や勅語とはまるで違い、現代では個人の言葉に変わっている。今回の御代替わりは先帝のビデオ・メッセージに始まるが、あのお言葉には文章が飛んでいる箇所があり、明らかに第三者による推敲の跡が見受けられる。とはいえ、もともと専門の職掌の作成ではないだろう。200年前の光格天皇の譲位の宣命が文章博士によって書かれたのとは、まったく異なる。

藩屏を失い、個人としてお言葉を述べ、行動される。せいぜい皇后だけが唯一無二の協力者であるという個人商店化した現代の天皇にとって、国民の総意に基づくとする皇位を揺るぎなきものとなるためには、究極のポピュリズムを演じなければならないということにはならないか。

他方、国民からすれば、個人化した皇室はアイドルか、個人崇拝の対象となりかねない。事実、メディアは動物園を視察する殿下やダンス好きの内親王を話題にし、国民の関心を煽っている。それは「天皇に私なし」とされる、126代続いてきた皇室の歴史と伝統の対極にある。

天皇は個人でいいのか、大木記者はそこを取り上げてほしい。そして識者たちも考えてほしい。



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少し見えてきた非宗教的な昭和天皇「大喪の礼」の経緯──皇室の伝統を無視する政教分離厳格主義者たちの創作 [御代替わり]

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少し見えてきた非宗教的な昭和天皇「大喪の礼」の経緯
──皇室の伝統を無視する政教分離厳格主義者たちの創作
(2019年12月30日)
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一昨日、時事通信が、昭和天皇の大喪の礼に関する、興味深い記事を配信しました。昭和57年に外務省が宮内庁と極秘に協議していた。外務省外交資料室が秘密指定を解除した記録から明らかになった、というのです。〈https://sp.m.jiji.com/article/show/2320998

記事によると、その経緯は以下のようなものでした。

昭和57年6月 宮内庁は外務省に対して、在英、西ドイツ、フランス、ユーゴの各公館長宛てに、当該国元首の葬儀の内容について調査することを依頼した。他方、外務省儀典官室では、英国のジョージ6世、スウェーデン国王、現職大統領で死去したケネディ、チトーの国葬を調査するとともに、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、大平正芳といった歴代首相の葬儀も参考にすることを決めた
同年秋ごろ 西田誠哉儀典長の指示で、ごく少数の間で作業が開始された
同年12月はじめ 外務省出身の安倍勲式部官長らとともに、勝山亮宮内庁審議官と協議した。このとき勝山氏は、皇室典範の規定に基づき「大喪の礼」を行う、国葬になるとの見通しを示し、「大正天皇の時の例にならう」とも述べた


▽1 なぜ伝統が否定されるのか

記事から浮かび上がってくるのは、(1)外務省、宮内庁は皇室典範に記された「大喪の礼」を、皇室の歴史と伝統に基づく儀礼とは必ずしも理解していないこと。(2)基準とすべき先例を、国内より海外の元首や現代の首相の公葬に求めたこと、(3)宮内庁内には大正天皇大喪儀を先例として踏襲する考えがあったこと、です。

126代続いてきた皇室には膨大な儀式の体系がありますが、官僚たちは皇室の伝統を軽視して、むしろ海外に学ぶ新例を開こうとしたのでしょうか。昭和天皇崩御のあと、斂葬の儀で装束を着るという伝統派の職員が提出した計画書に、「時代錯誤」「日本の恥」と怒り狂った宮内庁幹部がいたという話を思い出します。

ともかく、戦後何十年もの間、皇位継承の重要事について具体的なあり方を検討してこなかった政府が、昭和天皇の最晩年になってようやく重い腰を上げたのです。昭和天皇は昭和62年4月、お誕生日の宴会の儀で御体調を崩され、9月には開腹手術を受けられました。翌年6月に宮内庁次長ほかによる幹部会が設けられ、7月には藤森昭一長官が準備指令を出しました。泥縄です。

以前、「文藝春秋」に書いたように、戦前は憲法と同格の皇室典範を頂点とする宮務法の体系があり、天皇の大喪儀については皇室喪儀令およびその附式(大正15年)に具体的かつ詳細な規定がありました。

ところが、戦後、皇室典範は改正され、新憲法の公布に伴って皇室令は全廃されました。依拠すべき具体的な定めを失ったのです。〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-04-17-1https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-04-17-1〉〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-04-22-1

だから、外務省も宮内庁も振り出しにもどって、大喪儀のあり方を模索するほかはない、と考えたのでしょうか。しかしそれは誤った判断ではなかったでしょうか。

第一に、戦後の皇室典範の立法者たちは「大喪の礼」を新例とは考えていないと推定されます。むしろ皇室伝統の形式による大喪儀の諸儀礼を意味していると考えるのが妥当です。というのも、皇室典範改正案として帝国議会に提出された確定案は、「大喪の礼」が一つの儀式(the Rite)ではなく、複数形の諸儀礼(the Rites)として表現されているからです。皇室儀礼の体系に変更はないという趣旨の議会での答弁がされているからです。

また、「文藝春秋」のインタビューで永田さんが述べているように、皇室の儀礼の伝統は皇室令の廃止後、宮内府長官官房文書課長による依命通牒第三項によって、「從前の規定が廢止となり、新らしい規定ができていないものは、從前の例に準じて、事務を處理すること」とされ、かろうじてながら存続しています。祭祀令は廃止されたけれども、祭祀令の附式は生き残ったのです。

この依命通牒はその後も廃止されていません。だからこそ、貞明皇后の御大喪は26年6月、占領中で神道指令が効力を有しているにもかかわらず、旧皇室喪儀令に準じて行われ、国費が支出され、国家機関が参与しました。昭和34年の皇太子御成婚の結婚の儀は賢所大前で、天皇の国事行為として行われています。


▽2 参加を強制しなければ済む

依命通牒は生きている、と平成になって宮内庁幹部が国会答弁しています。とすれば、皇室喪儀令の附式に準じて、昭和天皇の大葬儀は行われるべきでした。しかしそうはならず、「大喪の礼」なる新例が開かれ、皇室行事の斂葬の儀と分離・ドッキングして行われました。そして静謐なる祭儀の途中に、鳥居や大真榊を取り外す無様なドタバタ劇が演じられました。

原因は政教分離であり、宮中祭祀や神道にだけは厳しい政策の二重基準です。昭和50年8月15日に宮内庁が長官室会議で、政教分離の厳格主義を採用することに改め、皇室儀礼の非宗教的改変を密室で断行したのがそもそもの始まりです。宮内庁や外務省が国内ではなく海外の例を参考に「大喪の礼」の挙行を模索したのは、当然の成り行きだったでしょう。

神道指令下の占領中でも、社会党政権下でも、側近の侍従による御代拝が粛々と行われたのに、公務員が祭祀に関わることはまかりならんとにわかに解釈運用を一変させた法的根拠が明らかにされるべきです。

最後に蛇足ながら申し上げると、かつては大喪儀に際して「大喪使」という特別の官制が臨時に設けられました。明治30年の英照皇太后の場合は、宮内省達で宮中に設置され、長官には皇族が親任されました。同45年の明治天皇崩御に際しては、勅令で大喪使官制が裁可公布され、大喪使が宮中に設置され、総裁には皇族が勅命されることとされました。

そして大正15年10月の皇室喪儀令です。崩御の公告、追号の勅定広告、廃朝、大喪使設置などが定められました。大正天皇崩御の日に勅令で公布された大喪使官制は、大喪使は内閣総理大臣の管理に属し、総裁は皇族から勅定されるとされました。皇室喪儀令の附式は第一編大喪儀、第二編皇族喪儀からなり、第一編第一の天皇大喪儀には殯宮移御の儀、追号奉告の儀、陵所地鎮祭の儀などが細かく定められています。

現代の官僚たちはなぜ大喪使という特別組織を立てようとしないのでしょう。そうすれば、宮内庁職員が日常業務をこなしながら皇位継承儀礼に携わる業務の過酷さを回避できるはずです。政府が直接関わるという形式も避けられたはずです。皇室典範は「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」と定めているだけなのです。

東日本大震災の追悼式は毎年、政府主催で行われます。兵庫県の阪神大震災追悼式典は県などの主催です。前者は行政が直接関わり、後者は実行委員会方式で、民間組織も加わっています。犠牲者の追悼は明らかに宗教行為ですが、いずれも政教分離違反とはされません。兵庫では毎回、キリスト教の宗教音楽が演奏されますが、違憲との批判はありません。

それなのになぜ皇室の宗教伝統は重視されないのですか。参列を強制しなければ済むことでしょうに。時事通信の記事にある昭和50年代の宮内庁にはまだ大正天皇の先例に学ぼうとする幹部がいたようですが、外務省OBが中枢を占めるいまの宮内庁に伝統重視を期待するのは無理なのでしょうか。


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皇室の伝統破壊を記載する皇統譜──保守派人士たちはなぜ怒らないのか [御代替わり]

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皇室の伝統破壊を記載する皇統譜
──保守派人士たちはなぜ怒らないのか
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一連の御代替わりの儀礼がすべて終了した。報道によると、宮内庁は27日夕刻、今上天皇のために新調された大統譜に「即位」のことを記載した。

毎日新聞電子版には喜屋武真之介氏撮影による画像が7枚載っている。真新しい大統譜(天皇・皇后の皇統譜)は和綴で、表紙には「第百二拾六代 大統譜」と楷書で記されている。

中の記載は漢字カタカナ混じりである。歴史仮名遣いで、句読点はない。2枚目と3枚目の写真は同じページを写しているが、撮影の角度が異なる。前ページからの続きなのだろうか、次のように文章が途中から始まっている。


▽1 政教分離の厳格主義の結果

「ビ同日皇太子徳仁親王皇位継承ノ公告ニ依リ登録ス
(平成参拾壱年四月参拾日ノ翌日カラ令和ト改元サル)[注=「令和」にはカタカナで「レイワ」とルビがある]
 令和元年拾弐月弐拾七日
  宮内庁長官 西村泰彦
  書陵部長 坂井孝行
令和元年五月壱日剣璽等承継ノ儀及ビ即位後朝見ノ儀ヲ行フ
右令和元年五月弐拾弐日ノ公告ニ依リ登録ス
 令和元年拾弐月弐拾七日
  宮内庁長官 西村泰彦
  書陵部長 坂井孝行
令和元年拾月弐拾弐日即位礼正殿ノ儀ヲ行フ
右令和元年九月弐拾六日ノ公告ニ依リ登録ス
 令和元年拾弐月弐拾七日
  宮内庁長官 西村泰彦
  書陵部長 坂井孝行
令和元年拾壱月拾四日及ビ拾五日大嘗祭ヲ行フ
右令和元年五月八日ノ公告ニ依リ登録ス
 令和元年拾弐月弐拾七日」

126代というからには皇位が初代神武天皇から続いていることを政府は認識していることになるが、改元は4月30日の先帝退位の翌日からであり、5月1日に剣璽等承継の儀及び即位後朝見の儀が挙行されたという記録は、逆に126代続く皇室の歴史と伝統の断絶を皇統譜に刻み付けるものとなった。

前回の改元は先帝崩御の翌日で、まだしも代始め改元の形式だったが、今回はいわば退位記念改元であり、いみじくも皇統譜にそのことが記録された。

また、平安時代に践祚と即位が区別されたのを、政府は前回の御代替わりで、法律から「践祚」が失われたことを理由に践祚の概念を失わせ、今回は3日間の賢所の儀のあとに行われるべき朝見の儀を践祚当日に挙行させたのである。前回も今回も剣璽渡御とは呼ばれない。

目的は宗教性の排除で、政教分離の厳格主義の結果である。憲法は宗教の価値を認めているのにである。歴史ある皇室の祭祀の意味が理解できないからである。政教分離訴訟が影を潜めている状況を評価する保守主義者がいるが、話は逆だろう。


▽2 長期保守政権下での大義なき変革

4枚目の写真は先帝の大統譜であろうか、次のように記載されている。

「 宮内庁長官 西村泰彦
  書陵部長 坂井孝行
平成参拾壱年四月参拾日限リ退位ス
令和元年五月壱日上皇トナル
右令和元年五月壱日ノ公告ニ依リ登録ス
 令和元年拾弐月弐拾七日
  宮内庁長官 西村泰彦
  書陵部長 坂井孝行」

「退位」とあるのは特例法が根拠である。政府は「譲位」を認めていない。「上皇トナル」も同様である。「上皇」は尊称ではない。かつては「太上天皇」の尊号は新帝から贈られたが、いまは国民の代表者が作る法律が根拠である。200年前の光格天皇の場合、仁孝天皇に譲位されたのは文化14年3月22日、太上天皇の尊号が贈られたのは翌々日の24日であった。

皇室の原理は伝統と革新であり、変革が必ずしも悪いことではないが、何のために変えるのか、大義名分が不明といわざるを得ない。大義名分なき変革は伝統の破壊そのものである。戦前戦後を通じて最長の保守政権下で、皇室の伝統の破壊が行われたことにあらためて長嘆息を禁じ得ない。保守派人士たちはなぜ怒りの声を上げないのだろうか。政府にとっての皇室の歴史とはけっして126代のそれではないことを知るべきだ。

先月だったか、討論会で、前回の御代替わりを振り返り、大嘗祭が挙行できたことを相変わらず勝ち誇る法学者がいた。挙行が危ぶまれた最重要儀式が行われたことは間違いなく成果だが、30年後のいまもなお、やったやったで終始するのは知性的とはいえない。むしろこの間の知的停滞こそがさんざんな御代替わりの遠因であることを、この識者を見て痛感したものである。

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やはりそうだったか、令和大嘗宮の違和感 ──宮内庁さま、経費節減はまだしも政教分離違反では? [大嘗祭]

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やはりそうだったか、令和大嘗宮の違和感
──宮内庁さま、経費節減はまだしも政教分離違反では?
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前から気になっていたことがありました。大嘗宮周辺の地面の色です。

遠目で見ると廻立殿と大嘗宮の周りだけが白く見えます。プレハブ幄舎の屋根のように、白いビニールを敷いたのか、まさかそんなことはないだろうと疑っていました。

それで方々に話を聞いてみたところ、前回同様、細かい白い砂(砂利)を敷いたというのです。もともと芝生があったところなどは、「歩くとフワフワする」ようです。

でもヘンなんです。中途半端なんです。白砂の部分が一部に限られているのです。で、やっぱりそうだったんです。


▽1 一部にしか白砂利がない

前回はどうだったのか、工事に関わったという社寺建設業者のサイトを見ると、幄舎のビニール屋根の違和感は同じですが、地面はというと、外周垣まで一面に白砂利が敷き詰められていることが分かります。
http://www.daibun.co.jp/photo/work-h02-2.html

それなら、今回はどうなのでしょう。

大嘗宮の儀の前日に撮影されたという新聞掲載の画像を見ると一目瞭然ですが、板葺屋根の違和感だけではありません。幄舎のほか膳屋や斎庫その他に、無機的なビニール屋根が侵食しています。そして地面です。

柴垣内すなわち悠紀殿と主基殿および廻立殿の周辺だけに限定して白砂利が敷かれているようで、柴垣の外すなわち膳屋や幄舎周辺は色違いの砂利になっています。違和感を覚えざるを得ないのはそのためです。自然な統一感がないのです。
https://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2019110902000269.html

政府は前例踏襲を基本方針の1つに掲げたはずですが、それならばなぜ全面に白砂利を敷かなかったのでしょう。

都立図書館に木子文庫があります。明治の初期に宮中の作事に関わった宮大工で、帝国大学で教鞭をとったこともある木子清敬さんの関係資料が所蔵され、そのなかに明治の大嘗宮の透視図があります。
https://intojapanwaraku.com/travel/48605/

これを見ると、今回と基本構造が酷似していることが分かります。近代の巨大化した大嘗宮の原型なのでしょう。

かつては紫宸殿の南庭に建てられたのが大嘗宮です。南北40メートル、東西60メートルに収まっていたということです。いまはほぼ2倍の1ヘクタールあります。

巨大化の原因は幄舎です。もともと人に見せることを予定しない大嘗宮の儀なのに、1000人にも及ぶ内外の要人を参列させようとしたからです。欧米諸国と張り合おうとした結果でしょう。


▽2 皇居宮殿東庭では駄目なのか

明治22年の皇室典範では即位礼、大嘗祭は京都で行うこととされました。現行の皇室典範ではそれはありません。皇位継承儀式は都で行うことが原則であるなら、皇居宮殿東庭に大嘗宮を建てることは不可能でしょうか?

幄舎を建てないなら4500坪の広さは十分のはずです。問題は全面に敷かれた安山岩の石畳です。一時的に撤去するか、土砂を敷き入れるか、対策が必要です。

もし可能なら、参列者は寒くて暗い屋外の幄舎ではなく、宮殿内でビデオ解説を見ながら大嘗宮の儀の進行を見守ることになるでしょう。少なくとも外周垣の外はアスファルトむき出しという無粋な光景は避けられるのではないでしょうか?

ちなみにですが、砂利というのは、1立米あれば5センチの厚みで20平米に敷くことができるようです。とすると、1ヘクタール=10000平米なら、500立米で足ります。仮に1立米1万円でも、500万円です。実際はもっと安いし、3センチの暑さなら33平米に敷けます。大嘗祭が済めば再利用も可能でしょう。
http://www.takagikenzai.com/syouhin_tuti.htm

大嘗祭は宗教儀式だというのが政府の見解で、だから政教分離の観点から、国の行事ではなく、皇室行事とされました。それなのに、経費節減を口実に、やれ茅葺ではなく板葺だ、なんだと不当に介入することは、それこそ政教分離違反ではないでしょうか。裁判をも辞さないと構えているキリスト者たちなどは、ぜひ政府を批判してほしい。

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