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衝撃の事実!!「立皇太子儀」は近世まで紫宸殿前庭で行われていた ──『帝室制度史』を読む 前編 [御代替わり]

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衝撃の事実!!「立皇太子儀」は近世まで紫宸殿前庭で行われていた
──『帝室制度史』を読む 前編
《斎藤吉久のブログ 令和2年3月31日》
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4月に予定される「立皇嗣の礼」の儀礼が立儲令附式(明治42年)とはかなり相違点があるというお話をしてきました。「賢所大前において」(立儲令第4条)行われる神事から宮殿での無神論的儀礼となり、賢所での儀式は「国の行事」(国事行為)ではなく、「皇室行事」となりました。

 【関連記事】「立皇嗣の礼」=国事行為を閣議決定。もっとも中心的な宮中三殿での儀礼は「国の行事」とはならずhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-24
 【関連記事】明治の「立儲令」と来月の「立皇嗣の礼」は何が違うのか?https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-29

戦後の政教分離原則を基準とする、「国の行事」=無宗教儀式=宮殿、「皇室行事」=宗教儀礼=賢所という対立の図式はいつ、どのようにして生まれたのでしょうか。


▽1 明治の立儲令こそ非「慣例」的

政教分離原則に基づいて、「国の行事」(または「国の儀式」)と「皇室行事」とに二分され、片や「国の行事」は無宗教儀式とされ、片や宗教儀礼は「皇室行事」とするという二分方式の考え方は、平成および令和の御代替わりでも見られたことでしたが、発生はもっと遡れます。

皇居の奥深い聖域・賢所大前での結婚の儀を「国の儀式」(天皇の国事行為)と法的に位置づけ、したがって宮中祭祀はすべて「皇室の私事」と位置づける戦後の法解釈を一気に打破した一大画期と一般に評価されるのは昭和34年の皇太子御成婚ですが、じつはこれもまた、ほかならぬ二分方式でした。

ただこのときは、宗教儀礼か否かではなく、中心儀礼である「結婚の儀」「朝見の儀」「宮中祝宴の儀」が「国の儀式」とされ、ほかの諸儀式は皇室行事とされました。

 【関連記事】「国の行事」とされた今上陛下「結婚の儀」──歴史的に考えるということ 6https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-05-19

「従前の例に準じて」とする昭和22年5月の依命通牒第三項に従うなら、行事の全体が「国事」とされるべきで、二分方式は不要のはずです。なぜ二分しなければならないのか、依命通牒に基づかない無宗教的「国の行事」はいつ始まったのか、前回は、同27年の独立回復後最初の「国事」となった継宮明仁親王(いまの太上天皇)の立太子礼にその兆しが見えることを、当時の国会議事録から明らかにしました。

 【関連記事】中曽根議員は立太子礼「国事」論を主張し、宇佐美次長は「神道との訣別」を明言した占領末期の国会審議https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-30

答弁に立った宇佐美毅宮内庁次長(のちの長官)は二分方式を説明するなかで、皇室の「慣例」「慣習」とは別に「国事としての儀式」を行う旨、明言しました。宇佐美もしくは宮内庁の判断は、皇太子を立てる皇室の儀式は賢所において神道的に行われるのが慣例(伝統)だったという歴史理解が前提です。一般の理解も同様でしょう。

ところが意外なことに、この理解はどうも間違いのようなのです。少なくとも立太子礼に関して、皇室の「慣習」は必ずしも「神道」的ではなく、明治の立儲令がむしろ非「慣例」的らしいのです。

そのように言える根拠は、「国家神道」時代と一般に考えられている昭和12年から20年にかけて、御下賜金をもとに、帝国学士院が編纂した『帝室制度史』全6巻にあります。第4巻の「第二章皇位継承 第四節皇嗣 第一款皇嗣の冊立」に、「立皇太子儀」はかつて紫宸殿前庭で行われたと明記しています。賢所で宗教的に行われる立太子礼は昭和天皇に限られるということでしょうか。驚くべき事実です。

以下、さっそく『帝室制度史』の記述を読んでみます。なお読者の便宜を考慮し、適宜編集してあります。私のコメントも加えてあります。原文をお読みになりたい方は国立国会図書館デジタルコレクションでどうぞ。〈https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1241593


▽2 天皇の「宣命」から皇嗣の「宣明」へ

第四節皇嗣 第一款皇嗣の冊立(『帝室制度史第四巻』199ページから)
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「皇嗣は天皇在位中にこれを選定冊立したまふことを恒例とす。『日本書紀』神武天皇42年正月の条に『皇子神渟名川耳(かむぬなかわみみ)尊(綏靖天皇)を立て、皇太子となす』と見えたるをはじめ、歴代天皇はおおむねその例によりたまへり」

『帝室制度史』は「皇太子」とせず、「皇嗣」と表現しています。現行皇室典範も「皇嗣が即位」です。秋篠宮は「皇太子」ではなく、「皇嗣」とされています。慣例優先か、あるいは法律用語優先なのか。

「皇嗣の冊立ありたるときは、その皇嗣が皇子または皇孫なると、皇兄弟またはその他の皇親なるとを問はず、これを皇太子と称す。冊立によりて皇嗣たる身位はじめて定まり、皇太子の称またはじめてこれに伴ふ。ときとしては、皇弟を立てて皇嗣としたまふ場合に、とくに皇太弟と称したまへる例あり」

秋篠宮は「皇太弟」でもいいはずですが、そのようには称されません。やはり皇室典範の法律用語が優先された結果でしょうか。

「皇太子は『ヒツギノミコ』と訓めり。あるいは東宮または春宮と称す。けだし御在所の称より出でたるなり。そのほか儲君、儲二などの別称あり」

「皇太子の冊立にあたり、とくに詔したまへることの国史に見えたるは、『日本書紀』継体天皇の条に、皇子勾大兄(まがりのおおえ。安閑天皇)を皇太子となしたまふにあたり、『よろしく春宮を処し、朕を助け仁を施し、吾を翼し闕を補し』と詔したまへる旨を記せるを最初とす。
『続日本紀』聖武天皇の条にも、皇子の誕生にあたり、『新誕皇子、宜立為皇太子、布告百官、咸令知聞』と詔したまへる旨見えたり。されど当時はいまだ一定の成例をなすにはいたらざりしが、光仁天皇以後は、皇太子の冊立にあたり詔をもって天下に宣示したまふことが、定例となすに至れり」

立儲令では天皇が賢所で勅語を述べられましたが、今回の「立皇嗣宣明の儀」では、宮殿で天皇の「おことば」に続いて皇嗣の「おことば」、さらに総理大臣の寿詞が続くことになっています。天皇による「宣命」ではなく、皇嗣の「宣明」に改変されています。

最大の問題は儀礼の中身ですが、長くなりますので、次回に譲り、今日はこの辺で。


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中曽根議員は立太子礼「国事」論を主張し、宇佐美次長は「神道との訣別」を明言した占領末期の国会審議 [御代替わり]

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中曽根議員は立太子礼「国事」論を主張し、宇佐美次長は「神道との訣別」を明言した占領末期の国会審議
《斎藤吉久のブログ 令和2年3月30日》
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公益財団法人モラロジー研究所の皇室関係資料ポータルサイト「ミカド文庫」は、「立太子礼」について「明治42年(1909)の『立儲令』に基づき、大正5年(1916)に迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)が、また昭和27年(1952)に継宮明仁親王(のちの今上天皇)が、さらに平成3年(1991)浩宮明仁親王(現皇太子殿下)の立太子の儀が行われた」と説明しています〈http://mikado-bunko.jp/?p=714〉。

執筆者はテレビの歴史番組でお馴染みの久禮旦雄・京都産業大学准教授(法制史)のようですが、じつに不正確です。敗戦による法制度改革の歴史が完全に見落とされています。

戦後、新憲法の施行に伴い、皇室令は全廃され、旧皇室典範を頂点とする宮務法の体系がすべて失われました。それなのに、いまの太上天皇や今上天皇の立太子礼が明治の立儲令に基づいて行われるわけがありません。法制史家としてはあまりに初歩的なミスです。

それならば、古来の立太子礼の形式を近代法として整備したはずの立儲令は戦後、どのように扱われるようになったのでしょうか。


▽1 昭和27年の立太子礼がすでに「人前式」だった

前回まで、明治の立儲令附式と4月に予定される秋篠宮親王の「立皇嗣の礼」は中身が異なるということをお話ししました。昭和22年5月の宮内府長官官房文書課長の依命通牒は「従前の例に準じて」(第三項)とありますから、立儲令附式に準じて今回も行われていいはずですが、そうはなっていません。

 【関連記事】「立皇嗣の礼」=国事行為を閣議決定。もっとも中心的な宮中三殿での儀礼は「国の行事」とはならずhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-24
 【関連記事】明治の「立儲令」と来月の「立皇嗣の礼」は何が違うのか?https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-29

儀式が非宗教化されている実態から察すれば、気の早い人はGHQの神道圧迫政策がいまに及んで、いよいよ浸透してきたと思うかもしれませんが、違います。

じつは昭和27年4月の主権回復から約半年後の同年11月10日、継宮明仁親王(いまの太上天皇)の成年式と同時に行われた立太子の礼が、今回と同様、すでにして人前式だったのです。

既述した久禮准教授の解説は完全な間違いだと分かりますが、それはともかくなぜそのようなことが起きたのか。当時の日本政府は占領下にあっても「いずれきちんとした法整備を図る」が方針だったと聞きますし、であればこその依命通牒だったはずです。

 【関連記事】「昭和天皇の忠臣」が語る「昭和の終わり」の不備──永田忠興元掌典補に聞く(「文藝春秋」2012年2月号)https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-02-01-1?1585484598

昭和20年12月のいわゆる神道指令は明らかに神道を狙い撃ちするものでしたが、22年5月施行の日本国憲法は「法の下の平等」「信教の自由」をうたっています。宮中祭祀は「皇室の私事」という法的位置づけながら、占領中も皇室祭祀令附式に準じて継続してきました。

占領後期になると、「神道指令」の解釈・運用は「国家と教会の分離」に変わり、26年6月の貞明皇后大喪儀は皇室喪儀令に準じて行われました。占領軍はこのとき宮内官僚に「国の経費であっても、ご本人の宗教でやってかまわない」と語ったといいます。同10月には吉田首相の靖国神社参拝が認められています。神道指令発令当時の占領前期とは雲泥の差で、しかも独立回復後は神道指令は失効しました。

 【関連記事】終戦後、天皇の祭祀はどのように存続し得たか──歴史的に考えるということ 3https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-04-29-1?1585536198
 【関連記事】占領後期に変更された「神道指令」解釈──歴史的に考えるということ 4https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-05-05
 【関連記事】「準国葬」貞明皇后大喪儀から「国事」皇太子御成婚まで──歴史的に考えるということ 5https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-05-12?1585536855


▽2 「賢所での儀式」と「国事としての儀式」との分離

継宮明仁親王(いまの太上天皇)の立太子礼はなぜ「人前式」に改変させられたのか、国会議事録に理由の一端が記録されていますので、ご紹介します。

昭和27年4月末日の占領解除が目前に迫った2月22日、衆院予算委員会第一分科会で、皇室費が議題となりました。質問に立ったのは弱冠33歳、野党民主党の中曽根康弘議員(のちの首相)です。当時は吉田茂自由党政権で、中曽根は反吉田の急先鋒でした。〈https://kokkai.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=101305266X00319520222&page=1&spkNum=0¤t=2
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中曽根はまず、立太子式の時期について質問します。答弁するのは宇佐美毅宮内庁次長(のちの長官)でした。

「皇太子殿下は昨年十二月、成年に達せられ、成年式と立太子式の挙行を準備してきたが、貞明皇后の崩御(26年5月)で延期になった。大体今秋挙行の見込だが、決定を見ていない」

中曽根が「成年式と立太子式と同時に挙行するのか。それとも別々にか。今秋とは大体何月ごろか」と重ねて問うと、宇佐美は「あまり時をあけずに、おそらく十月前後」と答えます。実際には、成年式、立太子礼は11月に、同日に行われました。

次に中曽根は経費について問い、宇佐見が「約四百五十万円ばかり」と答え、その内容について説明したあと、いよいよ本論の立太子礼の具体的な方法論へと質疑が進みます。中曽根は立太子式の規模、「皇室の御慣例の神式」なのか、あるいは京都でやるのかと畳みかけます。

これに対する宇佐美の答弁が注目されます。

「従前と異なり、立太子式、成年式の法律的な根拠はできていない。ただ慣習によつて行われることとなる。場所は東京で、皇居内と考えられる。従前は賢所で儀式が行われたが、現行憲法下では『天皇の私事』となったので、国事としての儀式は、別に国事として行われるという考え方に進んでいる」

法律的にいえば、戦前の立儲令は廃止されましたが、依命通牒に従い、「従前の例に準じて」行われるべきところですが、当時の宮内庁は「慣習によって」と表現し、賢所での祭儀とは別に「国事としての儀式」を新たに検討しているというわけです。

背後には当然、憲法の政教分離問題があります。平成の御代替わりで浮かび上がった「国の行事」と「皇室行事」との分離方式が占領末期のこの時期すでに政府内で検討されていたことになります。もしかして貞明皇后の大喪儀でも同様だったのでしょうか。だとすると、依命通牒とは何だったのか。『関係法令集』に掲載され、宮中祭祀厳修の根拠とされてきたのは間違いないのです。


▽3 無神論儀礼への歩みが始まっていた

議論すべきなのは、「慣習」であり、「国事」です。そして中曽根は問いただします。「立太子の式は国家的な祝典で、日本国の象徴と将来なられる方の式だから、当然、国事だと思う。もう少し御説明を願いたい」

宇佐美は答えます。「立太子礼と成年式は、国事として行う。従つて、従前の賢所での、伝統ある神道形式を持つものは、陛下の私的な行事になる。国として行うものは、それらと離して行われる」

ここには宮中祭祀は神道という特定の宗教儀礼だと頑なに信じ込む旧態依然たるドグマが潜んでいます。天皇の祭祀は宗教儀礼とは異なる国家儀礼であり、だからカトリックは戦前から信徒に参加を認めてきたことを助言する宗教学者などはいなかったのでしょうか。日本国憲法が国家に宗教的無色中立性を要求しているわけでもないでしょうに。

 【関連記事】憲法は政府に宗教的無色性を要求していない──小嶋和司教授の政教分離論を読むhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-10-16-1
 【関連記事】御代替わり諸儀礼は皇室の伝統と憲法の理念を大切に ──朝日新聞の社説「憲法の理念に忠実に」を批判するhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2018-02-19

宇佐美は明確に「二分方式」を示しました。中曽根が賢所での儀式についての具体的な説明を求めると、「従前の祭祀令、成年式令等において行われ、いわゆる裝束をつけられ、神前で行われる。あるいは御劍を授けられ、あるいは冠を加えられるという、古来の式をとつている。国事として考えられるものは、従前のものと切り離して考えていく」と伝統儀礼からの訣別をきっぱり断言するのでした。

とすると、古来、もっとも中心的な壺切御剣の伝進などは「国の行事」ではなく、「皇室の私事」として行われることになります。ならば、「従前」と異なる新例の「国の行事」とはいかなる内容になるのか、中曽根はさらに問いかけます。

「たとえば神道の儀式をやり、国家の代表者を参列させて御祝典申し上げ、その後に饗宴をおやりになるのか。それともモーニング・コートか何かを着て、国家の代表者を交えて普通の儀式をあげるのか」

宇佐美の答えは「まだ審議中」というものながら、政教分離原則厳守への決意を表明するものでした。「この形式が初めてですので、決定に至つてませんが、神道と混淆するような形は避けなければならない。国事として行われるものは、国の代表の方が集まり、行われるのではないか」

このあと中曽根は「立太子の式は国家的な式典」だから「国家の特別祝日」とすべきだ、皇太子がラジオを通じて国民に直接お言葉を述べられれば親しみが湧くなどと提案し、そのあと天皇神格化への危惧について展開します。中曽根の質問はのちの「タカ派」のイメージとは異なるリベラルな立場から、吉田総理を批判し、明治憲法を批判し、いわゆる「開かれた皇室」への期待を述べるのですが、省略します。

私はこれまで、「従前の例に準じて」とする依命通牒第3項によって宮中祭祀が守られ、のちに昭和50年8月15日の宮内庁長官室会議で解釈・運用が変更され、祭祀改変が進んだと理解し、書き続けてきましたが、主権回復の前にすでに依命通牒は反故にされ、無神論的国家儀礼への歩みが始まっていたのかもしれません。

当面は「宮中祭祀は皇室の私事」という解釈でしのぎ、いずれきちんとした法整備を図る、というのが政府の方針だったとの当時の高官たちの証言は、もしかしてリップサービスに過ぎなかったのでしょうか。


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明治の「立儲令」と来月の「立皇嗣の礼」は何が違うのか? [御代替わり]

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明治の「立儲令」と来月の「立皇嗣の礼」は何が違うのか?
《斎藤吉久のブログ 令和2年3月29日》
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4月に予定される「立皇嗣の礼」で中心となるのは19日の「立皇嗣宣明の儀」「朝見の儀」と21日の「宮中饗宴の儀」の3つです。いずれも「国の儀式」として皇居宮殿で挙行される予定でしたが、新型コロナウイルスの感染拡大で「宣明の儀」は参列者の規模を縮小することとなり、「饗宴の儀」は「取り止め」となりました。〈https://www.kantei.go.jp/jp/singi/gishikitou_honbu/kaisai.html

3月24日付け当ブログでは、今回の「立皇嗣の礼」が明治の「立儲令」を踏襲するものとはなっていないことを指摘し、存在が広く知られていないと思われる立儲令とその附式をご紹介しました。
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 【関連記事】「立皇嗣の礼」=国事行為を閣議決定。もっとも中心的な宮中三殿での儀礼は「国の行事」とはならずhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-24

何が違うのか、簡単におさらいすると、立儲令では「立太子の礼は附式の定むるところにより、賢所大前においてこれを行ふ」(第四条)とされ、大前で天皇、皇太子が拝礼し、勅語のあと壺切御剣が授与されたのですが、今回はそうではなく、宮殿で国民の代表者たちの前で宣明の儀(国の儀式)が行われ、これとは別に、同じ宮殿内で御剣親授の儀式(皇室行事)が行われたあとに三殿に謁する儀が行われるという形式になっています。

また、三殿に「奉告」の儀は「親告」の儀となり、「参内朝見の儀」は「朝見の儀」に改称されました。立儲令には「皇太后に朝見の儀」の規定がありましたが、今回、「太上天皇(上皇)に朝見の儀」というものは行われません。

さらにいえば、日本古来の神事というものは、神前に食を捧げて祈り、神人共食の食儀礼によって完結されますが、今回は国民との直会の機会が失われることとなりました。

ご承知のように、現行憲法が施行された昭和22年5月に宮内府長官官房文書課長名による依命通牒が発せられ、「從前の規定が、廢止となり、新しい規定が、できていないものは、從前の例に準じて、事務を処理すること」(第3項)とされており、いまも「廃止の手続きは取られていない」(平成3年、宮内庁高官国会答弁)そうですから、廃止された立儲令はまだしも、その附式に準じて粛々と行われていいはずです。

 【関連記事】政府は戦後の重大な歴史にフタをしている──検証・平成の御代替わり 第6回https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-10-05-1?1585477525
 【関連記事】「昭和天皇の忠臣」が語る「昭和の終わり」の不備──永田忠興元掌典補に聞く(「文藝春秋」2012年2月号)https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-02-01-1?1585484598
 【関連記事】宮中祭祀を「法匪」から救え──Xデーに向けて何が危惧されるのか。昭和の失敗を繰り返すなhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-02-01?1585484494
 【関連記事】依命通牒の「廃止」をご存じない──百地章日大教授の拙文批判を読む その2https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-02-11-1?1585484907
 【関連記事】昭和22年の依命通牒は「廃止」されていない?──昭和の宮中祭祀改変の謎は深まるばかりhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-01-26-1

しかし、そうなっているようには見えません。それはなぜなのか、といえば、憲法の政教分離規定への配慮であることは明らかですが、いつ、どういう経緯で、そのような変化が生じたのかです。

ここでは真相に立ち入ることはせず、前々回、掲載した立儲令およびその附式との対比ができるように、官邸のサイトに載る式典実施連絡本部の資料および宮内庁発表の資料から4月19日の儀式に関する細目の主な部分を抜き出してみます。〈https://www.kantei.go.jp/jp/singi/gishikitou_honbu/dai5/gijisidai.html〉〈https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/shiryo/tairei/gijishidai-020324.html


1、神宮に奉幣の儀

皇大神宮
豊受大神宮

神宮の祭式による。

このときの服装は、勅使が衣冠単、勅使随員が衣冠単、出仕が雑色


2、賢所皇霊殿神殿に親告の儀

賢所の儀

4月19日午前8時,御殿を装飾する。
午前8時45分,大礼委員が休所に参集する。
次に親王,親王妃,内親王及び女王が賢所参集所に参集される。
次に天皇,皇后が綾綺殿にお入りになる。
次に天皇に御服を供する(侍従が奉仕する。)。
次に天皇に御手水を供する(侍従が奉仕する。)。
次に天皇に御笏を供する(侍従が奉仕する。)。
次に皇后に御服を供する(女官が奉仕する。)。
次に皇后に御手水を供する(女官が奉仕する。)。
次に皇后に御檜扇を供する(女官が奉仕する。)。
次に御扉を開く。この間,神楽歌を奏する。
次に神饌及び幣物を供する。この間,神楽歌を奏する。
次に掌典長が祝詞を奏する。
次に大礼委員が着床する。
次に親王,親王妃,内親王及び女王が参進して幄舎に着床される。式部官が誘導する。
午前9時,天皇がお出ましになる。掌典長が前行し,侍従が御剣を捧持し,侍従が随従する。
次に天皇が内陣の御座にお着きになる。侍従が御剣を奉じて簀子に候する。
次に天皇が御拝礼になり,御告文をお奏しになる(御鈴を内掌典が奉仕する。)。
次に天皇が御退出になる。前行及び随従は,お出ましのときと同じである。
次に皇后がお出ましになる。掌典長が前行し,女官が随従する。
次に皇后が内陣の御座にお着きになる。女官が簀子に候する。
次に皇后が御拝礼になる。
次に皇后が御退出になる。前行及び随従は,お出ましのときと同じである。
次に親王,親王妃,内親王及び女王が拝礼される。
次に大礼委員が拝礼する。
次に幣物及び神饌を撤する。この間,神楽歌を奏する。
次に御扉を閉じる。この間,神楽歌を奏する。
次に各退出する。

このときの服装は、天皇が御束帯(黄櫨染御袍)、皇后が御小袿・御長袴、侍従が衣冠単、女官が袿袴、掌典長,掌典次長,掌典及び楽長が祭服、内掌典が衣袴,袿袴、掌典補及び楽師が祭服、出仕が麻浄衣


皇霊殿の儀
神殿の儀

賢所の儀に倣う(御鈴の儀はない。)。


3、神武天皇山陵に奉幣の儀

4月19日午前8時,陵所を装飾する。
午前10時,勅使が参進して着床される。
次に神饌を供する。この間,楽を奏する。
次に掌典が祝詞を奏する。
次に幣物を供する。
次に勅使が拝礼の上,御祭文を奏される。
次に幣物及び神饌を撤する。この間,楽を奏する。
次に各退出する。

このときの服装は、勅使が衣冠単、勅使随員が衣冠単、掌典が祭服、掌典補及び楽師が祭服、出仕が雑色


4、昭和天皇山陵に奉幣の儀

4月19日午前8時,陵所を装飾する。
午前10時,勅使が参進して着床される。
次に神饌を供する。この間,楽を奏する。
次に掌典が祝詞を奏する。
次に幣物を供する。
次に勅使が拝礼の上,御祭文を奏される。
次に幣物及び神饌を撤する。この間,楽を奏する。
次に各退出する。

このときの服装は、勅使が衣冠単、勅使随員が衣冠単、掌典が祭服、掌典補,楽師が祭服、出仕が雑色


5、立皇嗣宣明の儀

午前10時40分,参列者が宮殿の春秋の間に参集する。
午前10時45分,皇嗣,皇嗣妃,親王,親王妃,内親王及び女王が皇族休所に参集される。
午前10時55分,参列者が正殿松の間の所定の位置に列立する。式部官が誘導する。
次に親王,親王妃,内親王及び女王が正殿松の間に入られ,所定の位置に着かれる。式部官が誘導する。
次に皇嗣,皇嗣妃が正殿松の間に入られ,所定の位置に着かれる。皇嗣職大夫が前行し,皇嗣職宮務官長及び皇嗣職宮務官が随従する。
午前11時,天皇,皇后が正殿松の間にお出ましになる。式部官長及び宮内庁長官が前行し,侍従長,侍従,女官長及び女官が随従する。
次に天皇のおことばがある。
次に皇嗣,皇嗣妃が御前に参進され,敬礼される。
次に皇嗣がおことばを述べられる。
次に皇嗣,皇嗣妃が所定の位置に戻られる。
次に内閣総理大臣が御前に参進し,寿詞を述べる。
次に天皇,皇后が御退出になる。前行及び随従は,お出ましのときと同じである。
次に皇嗣,皇嗣妃が退出される。前行及び随従は,入られたときと同じである。
次に親王,親王妃,内親王及び女王が退出される。
次に参列者が退出する。

このときの服装は、天皇が御束帯(黄櫨染御袍)、皇后が御小袿・御長袴、皇嗣が束帯(黄丹袍)、皇嗣妃が小袿・長袴、宮内庁長官,侍従長,侍従,皇嗣職大夫,皇嗣職宮務官長,皇嗣職宮 務官(男子)及び式部官長が衣冠単、女官長,女官及び皇嗣職宮務官(女子)が袿袴


6、皇嗣に壺切御剣親授

4月19日午前11時25分,天皇が鳳凰の間にお出ましになる。侍従が前行し,侍従長,侍従が壺切御剣を奉持して随従する。
次に皇嗣が御前に参進される。皇嗣職大夫が随従する。
次に侍従長が壺切御剣を御前に進める。
次に天皇のお言葉がある。
次に天皇が壺切御剣を皇嗣にお授けになる。
次に皇嗣が壺切御剣を皇嗣職大夫に渡される。
次に皇嗣が退出される。皇嗣職大夫が壺切御剣を奉持して随従する。
次に天皇が御退出になる。侍従が前行し,侍従長及び侍従が随従する。

このときの服装は、天皇が御束帯(黄櫨染御袍)、皇嗣が束帯(黄丹袍)、侍従長,侍従,皇嗣職大夫,皇嗣職宮務官が衣冠単


7、賢所皇霊殿神殿に謁するの儀

賢所の儀

4月19日午前11時35分,御殿を装飾する。
午後0時20分,大礼委員が休所に参集する。
次に親王,親王妃,内親王及び女王が賢所参集所に参集される。
次に皇嗣,皇嗣妃が綾綺殿にお入りになる。
次に皇嗣に儀服を供する(皇嗣職宮務官が奉仕する。)。
次に皇嗣に手水を供する(皇嗣職宮務官が奉仕する。)。
次に皇嗣に笏を供する(皇嗣職宮務官が奉仕する。)。
次に皇嗣妃に儀服を供する(皇嗣職宮務官が奉仕する。)。
次に皇嗣妃に手水を供する(皇嗣職宮務官が奉仕する。)。
次に皇嗣妃に檜扇を供する(皇嗣職宮務官が奉仕する。)。
時刻,御扉を開く。この間,神楽歌を奏する。
次に神饌及び幣物を供する。この間,神楽歌を奏する。
次に掌典長が祝詞を奏する。
次に大礼委員が着床する。
次に親王,親王妃,内親王及び女王が参進して幄舎に着床される。式部官が誘導する。
午後0時35分,皇嗣,皇嗣妃が参進される。掌典長が前行し,皇嗣職宮務官が壺切御剣を奉じ,他の皇嗣職宮務官が随従する。
次に皇嗣,皇嗣妃が内陣の座に着かれる。皇嗣職宮務官が壺切御剣を奉じて外陣に候し,他の皇嗣職宮務官が簀子に候する。
次に皇嗣,皇嗣妃が拝礼される。
次に皇嗣,皇嗣妃が退出される。前行及び随従は,参進のときと同じである。
次に親王,親王妃,内親王及び女王が拝礼される。
次に大礼委員が拝礼する。
次に幣物及び神饌を撤する。この間,神楽歌を奏する。
次に御扉を閉じる。この間,神楽歌を奏する。
次に各退出する。

このときの服装は、皇嗣が束帯(黄丹袍)、皇嗣妃が小袿・長袴、皇嗣職宮務官が衣冠単,袿袴、掌典長,掌典次長,掌典及び楽長が祭服、内掌典が衣袴,袿袴、掌典補及び楽師が祭服、出仕が麻浄衣


皇霊殿の儀
神殿の儀

賢所の儀に倣う。


8、朝見の儀

午後4時15分,皇嗣,皇嗣妃が皇族休所に参集される。
午後4時30分,天皇,皇后が宮殿の正殿松の間にお出ましになる。式部官長及び宮内庁長官が前行し,侍従長,侍従,女官長及び女官が随従する。
次に皇嗣,皇嗣妃が御前に参進され,皇嗣が謝恩の辞を述べられる。式部官長が誘導する。
次に天皇のおことばがある。
次に皇嗣,皇嗣妃が皇后の御前に参進され,皇嗣が謝恩の辞を述べられる。
次に皇后のおことばがある。
次に皇嗣,皇嗣妃が所定の席に着かれる。
次に皇嗣が御前に参進される。
次に天皇が皇嗣に御盃をお授けになる。侍従が奉仕する。
次に皇嗣が皇后の御前に参進される。
次に皇后が皇嗣に御盃をお授けになる。女官が奉仕する。
次に皇嗣が席に戻られる。
次に皇嗣妃が御前に参進される。
次に天皇が皇嗣妃に御盃をお授けになる。侍従が奉仕する。
次に皇嗣妃が皇后の御前に参進される。
次に皇后が皇嗣妃に御盃をお授けになる。女官が奉仕する。
次に皇嗣妃が席に戻られる。
次に天皇,皇后が御箸をお立てになり,皇嗣,皇嗣妃がこれに倣われる。
次に天皇,皇后が皇嗣,皇嗣妃に御禄をお授けになる。侍従長が皇嗣に伝進する。女官長が皇嗣妃に伝進する。
次に皇嗣,皇嗣妃が御前に参進され,拝謝される。
次に皇嗣,皇嗣妃が皇后の御前に参進され,拝謝される。
次に皇嗣,皇嗣妃が席に戻られる。
次に天皇,皇后が御退出になる。前行及び随従は,お出ましのときと同じである。
次に皇嗣,皇嗣妃が退出される。

このときの服装は、男子燕尾服、女子はローブデコルテ、勲章着用

以上、引用終わり。


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櫻井よしこさん、守られるべき天皇の伝統とは何ですか。祭祀の本質とは何ですか? [女系継承容認]

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櫻井よしこさん、守られるべき天皇の伝統とは何ですか。祭祀の本質とは何ですか?
《斎藤吉久のブログ 令和2年3月28日》
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▽1 河西准教授の「2.5代」象徴天皇論

前々回、河西秀哉准教授の「愛子さま天皇」容認論には皇室伝統の祭祀への眼差しが欠けていると指摘しました。126代続いてきた男系継承主義は天皇が公正かつ無私なる祭りをなさることと不可分一体のはずです。だとするなら、皇室の歴史と伝統を無視したネオ天皇制に変革しようという革命思想ならいざ知らず、祭祀を一顧だにしない皇位継承論はナンセンスといわざるを得ません。

 【関連記事】天皇の祭祀を完全無視する河西秀哉准教授の「愛子さま天皇」容認論https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-21

といっても、判断材料として取り上げたのは文春オンラインのインタビュー記事〈https://bunshun.jp/articles/-/15522〉だけですから、サンプリングの誤謬という危険性はあり得ます。というわけで、本来ならすべてのご著書や文献を精査すべきですがそうもいかないので、河西さんの処女作『「象徴天皇」の戦後史』を紐解いてみることにしました。

すると、案の定でした。河西さんは、のっけから「日本国憲法第一条は次のように規定されている」(「はじめに」)と書き出し、現行憲法をスタート地点に置いて、大真面目に天皇論を進めています。

第一章は「昭和天皇退位論」、第二章は「天皇、『人間』となる」という具合で、明治以後の近代天皇と戦後の現代天皇との対比が河西さんの問題関心のすべてであって、126代の歴史的天皇にはまるで関心がないかのようです。

「神聖にして侵すべからず」から「象徴」に変わり、「神の子孫」が「人間」となったことを歴史学的に、近代史研究として考察はしても、古代から天皇統治の意義に基づいてスメラギ、スメラミコトと呼ばれたことには言及しない、というより、歴史家でありながら、天皇が長い歴史のなかでどういう存在だったのか、には関心がないのでしょうか。

 【関連記事】「人間宣言」とは何だったのか by 佐藤雉鳴 ──阪本是丸教授の講演資料を読む 前編https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2018-07-28
 【関連記事】〈前史〉敗戦から平成の御代替わりまで 1──4段階で進む「女性宮家」創設への道https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2017-09-18

ここでは詳しく内容を検討することはしませんが、2.5代、あるいはせいぜい4.5代の天皇研究しかなさらない研究者に、126代の天皇のあり方を問うこと自体、間違っているのではありませんか。河西さんを起用した編集者はどうお考えですか。


▽2 祈りと血統との関係について櫻井さんの説明がない

しかし河西さん本人や、河西さんを取り上げた編集者を問いただしたところで、大して意味はありません。保守派の知識人とてたいてい似たようなものだからです。たとえば櫻井よしこさんです。

河西さんのインタビューが文春オンラインに載ったその日、ジャーナリスト・櫻井よしこさんのインタビュー「悠仁さまを”差し置く”ことで起こる順位逆転の危険性」がほかならぬ同オンラインに掲載されました。

保守主義の立場から皇位継承問題に真正面から取り組んでおられるのは敬意を表さねばなりませんが、結局、天皇とは何だったのか、が河西さんと同様に、少なくとも私には見えてきません。皇位の本質論を抜きにして現象的な継承論を論じても仕方がありません。櫻井さんにとって、守られるべき皇位の本質とは何でしょうか。

櫻井さんの結論はむろん男系継承固守であり、旧宮家復帰です。

「私の立場は、女系天皇と女性宮家の創設には反対、何らかの形での旧宮家の皇籍復帰は賛成、というものです」と最初に明言しています。問題はその根拠です。

櫻井さんは河西さんとは異なり、126代祭り主天皇に言及しています。

「国民の幸せと、国家の安寧のために、さらに世界の平和のために祈り、言葉だけでなく行動でもお示しになってきたのが、歴代の天皇です。そのような価値観を、政治的権力とは無縁のお立場でずっと引き継いでこられた。そうした歴代天皇が同じお血筋で連綿とつながっています」

櫻井さんは、祈り、行動するのが天皇の原理であり、それがひとつの血統でつながってきたと指摘しています。

「国民と国家の安寧のために祈る純粋無垢な存在として、126代も男系男子で続いてきた万世一系の天皇の歴史を、無条件で私たちはありがたいと感じ、一度も断絶することなく受け継がれてきたお血筋だからこそ、皆が納得するのではないでしょうか」

ひとこと申し上げるなら、天皇は古来、祈る王であり続けていますが、行動は別でしょう。御所を離れ、行動する天皇となったのは近代です。それはともかくとして、天皇の祈りと男系主義とはいかなる関係にあるのか、ここでは説明されていません。


▽3 具体的で説得力がある旧皇族復籍論

櫻井さんのインタビューは、このあとテーマが「なぜ女系天皇ではいけないのか」に変わり、否認論を展開されます。

歴史に女性天皇の「前例」があることについて言及し、「たとえば推古天皇はなぜ天皇となられたのか」と発問して、「男系男子がいなかったからではなく、逆に多すぎてどなたを天皇にすべきか、争いが起きそうになって誰も反対できなかった皇后が即位した」と説明しているのは、興味深く読みました。

そのうえで「当時と現在は正反対です。男系男子が少ない現在、女性天皇を認めれば、あるいはそのままその方が天皇であり続け、お子さまも天皇になられるということになりかねません。すると、そこで女系天皇になり、天皇家が入れ替わることになります」と解説しています。「女性天皇は女系天皇につながる可能性がある」からで、仰せの通りです。

さらに櫻井さんは具体論として、いわゆる「愛子天皇」論へ話を進めます。「直系の悠仁さまを差し置いて」「順番が逆転してしまう危険性」や、女系容認が「秋篠宮殿下と悠仁親王殿下を廃嫡することになる」ことも指摘しています。いずれも正しい指摘で、「女系天皇論者は認識しているのか」と訴えることも忘れていません。まったくその通りです。

このあとインタビューは「女性宮家」創設論への反対意見が述べられ、「皇族の方々の数をふやし、悠仁さまをはじめ、現在の皇室を支えていく体勢作りが必要」だからと、「GHQによって無理やり臣籍降下させられた11宮家」の皇籍復帰を提示しています。

「元皇族の方々が皇籍に復帰するとしても、この世代の方々は決して天皇にはならない」
「皇族に復帰なさった旧宮家の方たちがお役に立つのは、悠仁さまに男のお子様が生まれない、ずっと先のことで、この方々はその間に皇族として国民に馴染んでいかれる」
「統計学的に見て、天皇家以外に4宮家があれば、男系男子でつないでいくことが可能」
「お子様がない宮家や断絶しそうな宮家の家族養子となって継ぐなど、いろいろな方法がある」
「絶対に男子を産まなければいけないというプレッシャーの中、悠仁さまに嫁ぐ女性が現れるのかという危惧もやわらぐ」

以上の指摘は具体的で、説得力があります。


▽4 男系派完敗の理由を謙虚に検証してほしい

最後に櫻井さんは安易な女系継承容認論に警鐘を乱打しています。

「深く考えたいものです。そして気づきたいものです。女系を主張すれば廃嫡を意味するということに。女性天皇を認めれば、女系も認めざるを得なくなるということに。それは、今の日本国の天皇の在り方とは本質的に異なる天皇が誕生することを意味し、これから何百年も皇室を存続させることは非常に難しくなると思います。
 間違った方向へいかないためには、中途半端はやめて、すなおに男系男子の天皇に限るほうがいいのです。日本の伝統を守るには、堂々と王道をいけばいいと思います」

まったくその通りで、目前の危機を煽り、古来、男系で継承されてきた大原則を一変させるような革命論は慎むべきなのです。皇室には皇室固有のルールがあるのであり、国民が勝手に変えるべきではありません。

であるならばなおのこと、なぜ皇位は男系なのか、126代祭り主天皇論の立場から、現代人が納得できるように説明されて然るべきです。平成10年ごろの世論調査では女帝容認は5割弱程度でしたが、いまや8割にまで激増しました。調査手法の問題はさておき、男系派の完敗です。敗北の理由を保守派は謙虚に検証しなければなりません。

 【関連記事】女系は「万世一系」を侵す──「神道思想家」葦津珍彦の女帝論https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1998-12-01

私は以前、平成24年の皇室制度有識者ヒアリングに出席された櫻井さんの発言を取り上げました。櫻井さんは宮中祭祀こそもっとも重要な天皇の御公務であり、国事行為と位置づけるべきだとの意見を述べておられました。

これに対して、天皇の祭祀をいかなるものとお考えか、と批判させていただきました。祭祀を御公務ではないと切り捨てた、女帝容認論者の園部逸夫内閣参与に猛然と反論された櫻井さんでしたが、櫻井さんの祭祀論は祭祀の内容、意義について言及しているわけではなく、本質論がまったく欠落していたからです。

残念なことに、8年前と同じことがいまも続いているのではありませんか。祭祀が重要なのはもちろんですが、観念論に陥り、天皇の祭祀とは何かを深く考察しないなら、祭祀を一顧だにしない女系継承容認派の河西さんと大して変わらない議論になってしまいます。それでは男系派の支持は得られても、河西さんら女系容認派を説得し、納得させ、男系派に変えていくことはできないでしょう。

 【関連記事】祭祀を国事行為と定義する前に──「祈りの存在」の伝統とは何か? 3https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2017-06-06
 【関連記事】「祭祀は御公務にはなっておりません」 ──「祈りの存在」の伝統とは何か? 4https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2017-06-07
 【関連記事】神道学者も政府も大嘗祭=「稲作儀礼」 ──「祈りの存在」の伝統とは何か? 5https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2017-06-08


斎藤吉久から=当ブログ〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/〉はおかげさまで、so-netブログのニュース部門で、目下、ランキング10位。アメーバブログ「誤解だらけの天皇・皇室」〈https://ameblo.jp/otottsan/〉でもお読みいただけます。読了後は「いいね」を押していただき、フォロアー登録していただけるとありがたいです。また、まぐまぐ!のメルマガ「誤解だらけの天皇・皇室」〈https://www.mag2.com/m/0001690423.html〉にご登録いただくとメルマガを受信できるようになります。

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「立皇嗣の礼」=国事行為を閣議決定。もっとも中心的な宮中三殿での儀礼は「国の行事」とはならず [御代替わり]

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「立皇嗣の礼」=国事行為を閣議決定。もっとも中心的な宮中三殿での儀礼は「国の行事」とはならず
《斎藤吉久のブログ 令和2年3月24日》
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政府は今日の閣議で、来月に予定される「立皇嗣の礼」のうち、「立皇嗣宣明の儀」と「朝見の儀」について、天皇の国事行為として行うことを決定しました。〈https://www.kantei.go.jp/jp/tyoukanpress/202003/24_a.html


▽1 国民を前にして伝進される壺切御剣

先々月末、1月29日に開かれた宮内庁の大礼委員会では、以下のような関連行事が予定されていました。◎が国の行事、○が皇室行事とされています。〈https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/shiryo/tairei/pdf/shiryo020129-4.pdf

○4月15日 神宮神武天皇山陵昭和天皇山陵に勅使発遣の儀(宮殿)
○4月19日 神宮に奉幣の儀(神宮)
○同日 賢所皇霊殿神殿に親告の儀(宮中三殿)
○同日 神武天皇山陵に奉幣の儀(神武天皇山陵)
○同日 昭和天皇山陵に奉幣の儀(昭和天皇山陵)
◎同日 立皇嗣宣明の儀(宮殿)
○同日 皇嗣に壺切御剣親授(宮殿)
○同日 賢所皇霊殿神殿に謁するの儀(宮中三殿)
◎同日 朝見の儀(宮殿)
○同日 一般参賀(記帳。皇居等)
◎4月21日 宮中饗宴の儀(宮殿)
○4月23日 神宮御参拝(神宮)
○4月27日 神武天皇山陵御参拝(神武天皇山陵)
○5月8日 昭和天皇山陵御参拝(昭和天皇山陵)

先週18日に政府は饗宴の儀の中止を決めていますので、2つの行事のみが「国の行事」とされることとなりました。

換言すれば、もっとも中心的な宮中三殿での「賢所皇霊殿神殿に親告の儀」「賢所皇霊殿神殿に謁するの儀」は「国の行事」とはならず、「皇室行事」として行われることが確定したことを意味します。「国の行事」とされるのは、あえていうなら、付随的な行事のみです。壺切御剣の伝進を中核とする立太子の礼はかつては皇祖を祀る賢所大前で行われるものでしたが、いまは主権者たる国民を前にして行われるべきものに変質しています。


▽2 依命通牒が廃止されていないなら

背景にはいうまでもなく、憲法の政教分離原則への厳格主義的な法的判断があります。一連の御代替わり行事全体に対する政府の対応と同じです。なぜ「国の行事」と皇室行事に二分されなければならないのでしょう。布教の概念も信者もいない宮中祭祀の厳修が国民の信教の自由を侵すはずもないでしょうに。

 【関連記事】御代替わり諸行事を「国の行事」とするための「10の提案」https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2018-06-10

ご承知のように、日本国憲法施行に伴い、旧皇室令は全廃されたものの、宮内府長官官房文書課長名による依命通牒によって、「從前の規定が、廢止となり、新しい規定が、できていないものは、從前の例に準じて、事務を処理すること」(第3項)とされ、宮中祭祀などは存続してきました。

平成の御代替わり直後、宮内庁高官が国会答弁で、依命通牒は「廃止の手続きが取られていない」ことを明言していますから、立儲令(明治42年2月)は廃止されているにしても、その附式に準じて粛々と行えないものでしょうか。占領中でさえ、貞明皇后の大喪儀は皇室喪儀令に準じて行われたではありませんか。

今回の御代替わり全体がそうでしたが、政府は皇室の儀礼に干渉しすぎではありませんか。政府が皇室の宗教的儀礼に口を差し挟むことこそ政教分離原則に反しませんか。もしダメだというのなら、弥縫策ではなく、改めて宮務法の体系を作り直したらどうでしょう。

 【関連記事】依命通牒の起案書 ──なぜ有識者に意見を求めるのか? 2https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2017-07-19
 【関連記事】依命通牒の全文──なぜ有識者に意見を求めるのか? 4https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2017-07-21
 【関連記事】「廃止の手続きを取っていない」──なぜ有識者に意見を求めるのか? 5https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2017-07-22

最後に、ご参考までに立儲令本文および附式を引用します。なお原文は正字カタカナ混じりですが、読者の便宜に考慮し、書体を変え、ひらがな混じりに改めるなど、適宜編集してあります。原典は国会図書館デジタルコレクションにあります。〈https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10213280


立儲令
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第一条 皇太子を立つるの礼は勅旨により、これを行ふ
第二条 立太子の礼を行ふ期日は宮内大臣、これを公告す
第三条 立太子の礼を行ふ当日、これを賢所、皇霊殿、神殿に奉告し、勅使をして神宮、神武天皇山陵ならびに先帝の山陵に奉幣せしむ
第四条 立太子の礼は附式の定むるところにより、賢所大前においてこれを行ふ
第五条 立太子の詔書はその礼を行ふ当日、これを公布す
第六条 立太子の礼、訖(おは)りたるときは、皇太子、皇太子妃とともに賢所、皇霊殿、神殿に謁す
第七条 立太子の礼、訖りたるときは、皇太子、皇太子妃とともに、天皇、皇后、太皇太后、皇太后に朝見す
第八条 立太子の礼、訖りたるときは、宮中において饗宴を賜ふ
第九条 前各条の規定は皇太孫を立つるの礼にこれを準用す

附式

立太子の式(立太孫の式、これに準す)

 賢所、皇霊殿、神殿に奉告の儀
当日早旦、御殿を装飾す
時刻、宮内高等官着床
 ただし服装、大礼服。関係諸員(式部職、掌典部、楽部職員を除く)また同し
次に御扉を開く
 この間、神楽歌を奏す
次に神饌(式目ときに臨みこれを定む。以下、神饌または幣物につき別に分注を施さざるものにはみなこれに倣ふ)を供す
 この間、神楽歌を奏す
次に掌典長、祝詞を奏す
次に天皇御代拝(侍従奉仕、衣冠単)
次に皇后御代拝(女官奉仕、袿袴)
次に諸員拝礼
次に神饌を撤す
 この間、神楽歌を奏す
次に御扉を閉つ
 この間、神楽歌を奏す
次に各退下

 神宮に勅使発遣の儀
 山陵に勅使発遣の儀
 山陵に奉幣の儀
以上、その儀、皇室祭祀令附式中各その式のごとし

 神宮に奉幣の儀
その儀、神宮の祭式に依る

 賢所大前の儀
時刻、文武高官、有爵者ならびに夫人および外国交際官ならびに夫人、朝集所に参集す(召すべき者はときに臨みこれを定む)
 ただし服装、男子は大礼服〈白下衣袴〉。正装正服服制なき者は通常礼服。女子は大礼服。関係諸員〈式部職掌典部、楽部職員を除く〉また同じ
次に皇太子、皇太子妃、綾綺殿に参入す
次に天皇、皇后、綾綺殿に渡御
次に天皇に御服(御束帯黄櫨染御袍)を供す(侍従奉仕)
次に天皇に御手水を供す(同上)
次に天皇に御笏を供す(同上)
次に皇后に御服(御五衣、御唐衣、御裳)を供す(女官奉仕)
次に皇后に御手水を供す(同上)
次に皇后に御檜扇を供す(同上)
次に皇太子に儀服(束帯黄丹袍、未成年なるときは闕腋袍、空頂黒幘)を供す(東宮侍従奉仕)
次に皇太子に手水を供す(同上)
次に皇太子に笏を供す(同上)
次に皇太子妃に儀服(五衣、唐衣、裳)を供す(女官奉仕)
次に皇太子妃に手水を供す(同上)
次に皇太子妃に檜扇を供す(同上)
 この間、供奉諸員(宮内大臣、侍従長、式部長官、侍従、皇后宮大夫、東宮大夫、東宮侍従、東宮主事、女官)、服装を易ふ(男子は衣冠単、女子は袿袴)
次に式部官前導、諸員参進、本位に就く
次に御扉を開く
 この間、神楽歌を奏す
次に掌典長、祝詞を奏す
次に式部官、警蹕を称ふ
次に天皇出御
 式部長官、宮内大臣、前行し、侍従、剣璽を奉し、侍従長、侍従、侍従武官長、侍従武官、御後に候し、親王、王、供奉す
次に皇后出御
 皇后宮大夫、前行し、女官、御後に候し、親王妃、内親王、王妃、女王、供奉す
次に天皇、内陣の御座に著御、侍従、剣璽を外陣御座の傍に奉安し、簀子に候す
次に皇后、内陣の御座に著御、女官、簀子に候す
次に天皇御拝礼、御告文を奏す(御鈴、内掌典奉仕)
次に皇后御拝礼
次に天皇、皇后、外陣の御座に移御
次に皇太子、外陣に参入し、内陣に向て拝礼し、御前に参進す
 東宮大夫、前行し、東宮侍従長、東宮侍従、東宮武官長、東宮武官、後に候す
次に皇太子妃、外陣に参入し、内陣に向て拝礼し、皇太子の掖座に著く
 東宮主事、前行し、女官、後に候す
次に侍従長、壺切御剣を御前に奉る
次に勅語あり、壺切御剣を皇太子に授く
次に皇太子、壺切御剣を奉し(東宮侍従捧持)、皇太子妃とともに簀子に候す
次に親王、親王妃、内親王、王、王妃、女王、拝礼
次に天皇、皇后、入御
 供奉、出御のときのごとし
次に皇太子、皇太子妃退下
 供奉、参進のときのごとし
次に諸員拝礼
次に幣物神饌を撤す
 この間、神楽歌を奏す
次に御扉を閉つ
 この間、神楽歌を奏す
次に各退下
 (注意)皇太子、襁褓にあるときは、女官これを抱く。以下これを倣ふ

 賢所皇霊殿神殿に謁するの儀(賢所大前の儀に続てこれを行ふ)
時刻、御扉を開く
 この間、神楽歌を奏す
次に神饌幣物を供す
 この間、神楽歌を奏す
次に掌典長、祝詞を奏す
次に皇太子、内陣に参進
 式部長官、東宮大夫、前行し、東宮侍従、壺切御剣を奉し、東宮侍従長、東宮侍従、東宮武官長、東宮武官、後に候す
次に皇太子妃、内陣に参進
 東宮主事、前行し、女官、後に候す
次に皇太子著座、東宮侍従、壺切御剣を奉し、外陣に候す
次に皇太子妃著座、女官、外陣に候す
次に皇太子、皇太子妃、拝礼、訖て退下
 供奉、参進のときのごとし
次に幣物神饌を撤す
 この間、神楽歌を奏す
次に御扉を閉つ
 この間、神楽歌を奏す
次に各退下

 参内朝見の儀
時刻、皇太子(正装)、皇太子妃(大礼服)、参内
 ただし関係諸員服装、男子は大礼服正装正服、女子は大礼服(以下、服装に付き、別に但し書きを置かざるものは本儀に同し)
次に皇太子、皇太子妃、便殿に参入す
次に天皇(御正装)、皇后(御大礼服)、正殿に出御
次に式部長官、前導、皇太子、皇太子妃、御前に参進、恩を謝す
次に勅語あり
次に皇后、懿旨あり
次に皇太子、皇太子妃、御掖座に著く
次に御臺盤を立つ
次に御饌御酒を供す
次に天皇、皇后、御盃を皇太子、皇太子妃に賜ふ
次に御箸を立つ
次に侍従長、御禄を皇太子、皇太子妃に伝進す
次に女官、御禄を皇太子、皇太子妃に伝進す
次に皇太子、皇太子妃、拝謝す
次に天皇、皇后入御
次に皇太子、皇太子妃退下

 皇太后に朝見の儀(太皇太后に朝見の儀、これに準す)
時刻、皇太子(正装)、皇太子妃(大礼服)、皇太后の本宮に行啓
次に皇太后(御大礼服)、正殿に出御
次に式部長官、前導、皇太子、皇太子妃、御前に参進、恩を謝す
次に懿旨あり
次に女官、御禄を皇太子、皇太子妃に伝進す
次に皇太子、皇太子妃、拝謝す
次に皇太后入御
次に皇太子、皇太子妃、退下

 宮中饗宴の儀
その儀、ときに臨み、これを定む

以上、引用終わり。


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天皇の祭祀を完全無視する河西秀哉准教授の「愛子さま天皇」容認論 [女系継承容認]

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天皇の祭祀を完全無視する河西秀哉准教授の「愛子さま天皇」容認論
《斎藤吉久のブログ 令和2年3月21日》
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愛子内親王殿下が18歳になられたのは昨年12月1日。翌日、文春オンラインに『【”愛子天皇”は是か非か】「強行すれば、愛子さまと悠仁さまの”人気投票”になりかねない」』と題する河西秀哉・名古屋大学大学院准教授(歴史学)のインタビュー記事が載った。〈https://bunshun.jp/articles/-/15522

河西さんといえば、『近代天皇制から象徴天皇制へ』などの著書で知られる新進気鋭の皇室研究者である。どんな皇位継承論を展開しているのか興味を持って読んでみたら、案の定、古来、皇室第一の務めとされてきた祭祀論が欠落していた。これではしょうがない。

以前から何度も指摘してきたように、小泉総理の私的諮問機関・皇室典範有識者会議の報告書(平成17年11月。https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/houkoku/houkoku.html)は、「はじめに」で、さまざま天皇観があるからさまざまな観点で検討した、世論の動向に配慮した、と謳い、他方で、肝心な、天皇=祭り主とする皇室古来の天皇観はまったく考慮しなかった。

 【関連記事】削減どころか増えている陛下のご公務──皇室典範有識者会議報告書を読み直す その2https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2009-04-07?1584693188
 【関連記事】混迷する「女性宮家」創設論議の一因  ──古代律令制の規定を読み違えている?https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-03-18

これが混乱した議論の原因であり、その結果が「皇位継承資格を女子や女系の皇族に拡大することが必要」(結び)とする結論であった。皇室伝統の祭り主天皇観は考慮せず、移ろぎやすい国民意識を優先すれば、何が起きるか、容易に分かりそうなものだが、同じ論理構造が皇室の歴史に詳しいはずの河西さんにもうかがえる。残念である。


▽1 明治時代こそ女帝論議が沸騰した

編集部の問題関心はずばり『最大の焦点は「女性天皇」「女系天皇」を認めるか否か』だが、これに対して河西さんは、過去の歴史にない女系継承容認のみならず、長子優先主義への転換を主張している。

『女性天皇に国民の8割が賛成している』というわけだが、ご主張の『最大の理由』は『現実』主義である。

『少子化の流れの中で、女性が何人も子供を産むことが難しい時代に、男子だけで家系を紡いでいくのは非現実的だからです』

しかし、はたしてそうなのか、一般社会の少子化の現実を皇室に当てはめるのは決して論理的ではない。しかも、女帝否認の根拠が『家父長制が社会に色濃く残り、天皇が軍隊の長であった明治時代の名残』と分析し、『戦後までなんとなく続いてきてしまった制度が破綻したのが現在の状況』と解釈するのは正しいとは思えないし、したがって、『現代の社会にあった、より「民主的」な形にすべき』との主張には賛成できない。

明治の時代を家父長制の時代と見るのは個人の自由だが、ほかならぬ明治の時代にこそ女帝論議が沸騰したのではないか。近代を否定して、『民主的』な現代の皇室のあり方を求めるのではなく、126代続いてきた皇室の歴史と伝統を検討しようとしないのはなぜだろうか。

 【関連記事】女系は「万世一系」を侵す──「神道思想家」葦津珍彦の女帝論https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1998-12-01
 【関連記事】基本を忘れた女系継承容認論──小嶋和司教授の女帝論を読むhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-12-31
 【関連記事】どうしても女性天皇でなければならないのか。男系を固守することは不正義なのか。なぜ男系の絶えない制度を考えようとしないのか?https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-02-09

つぎに河西さんは、『平成』以後の皇室の変化を見定めようとする。キーワードは『近しさ』と『道徳性』である。しかしこれも違う。


▽2 「近しい」「道徳性」への疑問

『昭和天皇まで「権威」というべき存在だったのが、平成の天皇からは国民に寄り添い、触れ合うことが期待されるようになった。先日の即位のパレードでも、観衆が躊躇することなく写真を撮ろうと両陛下にスマホを向けていましたが、いまや皇室と国民は、そんな「近しい」関係になった』

『天皇に「道徳性」が特に求められるようになった。平成の天皇と皇后は、ご高齢にもかかわらず被災地を訪問されるなど、一生懸命に活動しているお姿に高い支持があった。国民の象徴としての内実を変化させて、いまの皇室があるのです。こうした活動がなければ、いまの空前とも言えるような、人々からの尊敬や共感を集める皇室はなかった』

『天皇という存在は「近しく」「道徳性」のあるということが重要なのであって、天皇が必ずしも男性である、男性から血を継いでいなくてはならないという必要はないのではないか』

以前は、明治になって天皇は可視化されたという説がまことしやかに唱えられていたが、否定されている。平安時代、京の人々は御代替わりの御禊を見物していたし、江戸時代には即位礼拝観のチケットが配られていたことが分かっている。むしろ明治になって天皇は遠い存在となり、いまは元に戻ったともいえる。

また、天皇はご公務をなさる社会活動家ではないし、そうあってはならない。先帝は宮内庁が流行らせようとした「平成流」を否定している。

 【関連記事】「大嘗祭は第一級の無形文化財」と訴えた上山春平 ──第2回式典準備委員会資料を読む 13https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2018-07-16
 【関連記事】かつて御代替わりは国民の間近で行われた ──第2回式典準備委員会資料を読む 14https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2018-07-23
 【関連記事】江戸時代、庶民に公開された天皇の御即位行事https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2006-11-19
 【関連記事】「文藝春秋」が問題提起する「平成が終わる日」──なぜ「ご公務」に振り回されなければならないのかhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-12-10-1
 【関連記事】「平成皇室論」などあり得ない───ご即位20年記者会見を読むhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2009-12-01-1


▽3 なぜ祭り主天皇論を検討しないのか

被災者に寄り添い、犠牲者を悼む『道徳性』は平成以後の特徴ではない。古代から一貫して続く皇室の伝統である。そしてその背後にあるのが天皇の祭祀である。

河西さんの女帝論には、少なくともこのインタビューでは、祭祀論が抜けている。だから安易に男系主義を否定することになるのではないか。

順徳天皇「禁秘抄」の冒頭に「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」とあるように、歴代天皇は公正かつ無私なる祭祀を行うことを第一の務めとされた。だからこそ、王朝の変更をもたらす女系継承の容認はあり得ないのである。

 【関連記事】女系継承は天皇の制度といえるのか──皇室典範有識者会議を批判するhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2005-12-01
 【関連記事】宮中の祭儀──いつ、誰が、どこで、いかなる神を、どのようにまつるのかhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-04-01-2

河西さんはこのあと、長子継承の方がスムーズだとか、旧宮家の復帰は道徳性に疑問があるとか、過去の女性天皇は「中継ぎ」ではなく「人物本位」で選ばれたという議論を展開している。

皇室には皇位継承に関する皇室のルールがある。皇位はあくまで血統原理に基づくのであり、有徳者や有能者が継承するわけではない。なぜ河西さんは皇室に固有の天皇論について検討しないのだろう。宮中祭祀廃止論を唱えたのは原武史さんだが、河西さんの天皇論には最初から祭祀の存在がない。

河西さんがお勧めの「ざっくばらんな議論」はまだしも、非歴史的、非学問的議論はいかがなものか。

 【関連記事】宮中祭祀を廃止せよ?https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2008-04-15
 【関連記事】宮中祭祀の破壊は繰り返されるのかhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2008-05-29


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男系主義の根拠が理解できない。園部逸夫vs御厨貴「週刊朝日」対談が示してくれた現代知識人のお寒いレベル [皇位継承]

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男系主義の根拠が理解できない。園部逸夫vs御厨貴「週刊朝日」対談が示してくれた現代知識人のお寒いレベル
《斎藤吉久のブログ 令和2年3月8日》
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「週刊朝日」(電子版。AERA dot.)3月2日号に、皇位継承問題に関する園部逸夫氏と御厨貴氏の対談が載っています。園部氏は小泉内閣時の皇室典範有識者会議の座長代理、元最高裁判事、法律家。御厨氏は公務負担軽減有識者会議(「生前退位」有識者会議)の座長代理、元東大教授、政治学者。現代日本を代表する、とくに皇室問題に詳しいと思われる知識人同士の対話です。

前編の『安倍政権が「愛子天皇論」を封印!? 皇位継承議論に「40年はやらない」の声』と後編の『天皇「男系派」の根拠はあいまい? 皇位継承問題は今後どうなる』を合わせて量的には分厚い内容ですが、ほとんど中身らしいものはなく、肩透かしを喰らったような印象を受け、ため息が出ます。

なぜそう思うのか、おふたりの発言を拾いながら、検討します。


▽1 議論のすり替え

対談は前編では、まず皇位継承論議に関する最新の動きについて、御厨氏が解説します。菅官房長官の「『立皇嗣の礼』のあとに具体的な論議を行う」との発言は「実は否定の意味」で、「40年はやらない」。「総裁任期は21年9月で終わる。皇室典範改正など新しいことに手をつける気はない」というわけです。

ここまでは腰の重い安倍政権への批判姿勢を鮮明にする、いわばプロローグで、このあと編集部が「上皇直系の内親王は3方」と仕向けて、ようやく本論が始まります。

園部:女性皇族は、結婚によって民間に出る以上、数の減少を止めるには、「女性宮家」創設の議論は避けられない。
御厨:どうも政権は、皇族の減少がギリギリに追い込まれるまで何もせず、最後に、「エイヤッ」とやってしまおうと思っている節がある。

ご両人は女系継承容認、「女性宮家」創設が好ましいと最初から思い込んでいるようですが、なぜでしょう。対談はこれまでの経緯を振り返ります。

園部:野田内閣は、12年秋に論点整理をまとめた。しかし、「女性宮家」に、皇室に「誰かわからない人」が入ってくる可能性があるということで反発が強く、結局お蔵入りしてしまった。あれだけエネルギーをかけて論議したにもかかわらず、非常にもったいない。

野田内閣時の有識者ヒアリングでは、女性皇族の婚姻後の身分問題を検討する目的は、(1)皇室の御活動の安定的維持と(2)天皇皇后両陛下の御負担の軽減にありました。野田内閣参与の園部氏もくどいように、そう説明していたはずですが、この対談では見事に皇位継承問題にすり替えられています。

というより、本当の目的が皇位継承問題であることを、野田政権も園田氏もずっと隠蔽し、誤魔化してきた。ついにいまになって隠しきれず、本音が出たのでしょうか。ご公務問題なら、ご公務の件数を思い切って軽減すれば済むことです。「女性宮家」は明らかに論理の飛躍です。憲法は天皇は国事行為のみを行うと定めているはずです。ご公務に明確な法的根拠はありませんから、なおのことです。

 【関連記事】〈短期集中連載〉「女性宮家」創設賛否両論の不明 第3回──月刊「正論」25年2月号掲載拙文の転載https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-02-03-1
 【関連記事】支離滅裂なり!! 「女性宮家」創設の「論点整理」──変質した制度改革の目的意識https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-10-14-1


▽2 皇室のルールを完全無視

対談は「女性宮家」創設反対論批判に展開し、眞子さま問題に言及します。

御厨:「旦那さんは誰?」という警戒は、「女性宮家」でも「女性天皇」でも起こる。「男系派」は、男性が皇室に入ることを非常に嫌う。
園部:眞子さまの交際問題では、一番まずいのは、国民の皇室への尊敬と敬愛の念を失ってしまうということだ。皇族の人数を保つ策として「女性宮家」をつくろうと言っていたのに、「どうぞ、早くご結婚なさって」という声につながりかねない。

両氏とも婚姻相手の個性が問題の原因と捉えていますが、矮小化です。女性宮家創設を認め、女系継承に道を開くことは、古代から続く皇統の変更をもたらす。それは許されないというのが反対論の最大の理由です。

最高裁判事や東大教授を務めた日本を代表する知識人にそれが分からないはずはないでしょうに。あまつさえ、皇統の変更など別段構わないとお考えなのか、男系継承を完全に拒否しています。というより、はじめから皇室のルールなど眼中にないのでしょう。

「女性天皇・女系天皇への途を開くことが不可欠」と結論づけた皇室典範有識者会議報告書が、「はじめに」で、さまざまな天皇観があるから、さまざまな観点で検討したと説明しつつ、それでいて、もっとも肝心な、皇室自身の天皇観、皇室にとっての継承制度という視点、すなわち天皇は古来、公正かつ無私なる祭り主であるという観点を完全に無視していたことを思い出させます。

 【関連記事】混迷する「女性宮家」創設論議の一因──古代律令制の規定を読み違えている?https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-03-18?1583650057

御厨:この流れになると、「旧皇族の復帰」という声も出てくる。適齢期の男性がいるならば、「女性天皇」や「女性宮家」のお相手に、という話だ。
園部:今は完全な民間人として暮らす方たちが皇室に戻るとなると、ご本人たちがそんな生活を望むのかという問題もある。加えて、ひとりでも復帰の前例ができれば、「血がつながっている」ことを論拠にして、どの範囲まで手が挙がるかわからない。
御厨:もうひとつ、いま議論が進まない背景には、アクションを起こせば、強い抵抗を受けるという現状がある。

歴史を振り返れば、26代継体天皇は先代武烈天皇の姉妹を皇后とし、119代光格天皇は先代後桃園天皇の皇女を中宮とされたのであり、その逆ではありません。そんなことはご両人には釈迦に説法でしょうに、それでも過去の歴史にない「女性宮家」創設や女系継承に一心不乱に挑もうとするのはなぜですか。

皇室は日本の歴史そのものです。歴史を無視し、歴史を変えようとすれば、「強い抵抗」かを受けるのは当然ではないですか。


▽3 陳腐な男女平等論

ところが、お二人はそうは考えようとしません。後編の冒頭で園部氏が言い放ちます。

園部:有識者会議で議論はし尽くしているから、問題はやるかやらないか。政府であれ野党であれ、天皇問題に手を突っ込むと、散々攻撃されるから嫌がっているだけ。
 しかし、手をつけないと、刻一刻と皇統が衰退へと向かう。改革と議論を攻撃する人たちは、本当に皇室の未来を保とうとしているのか。

それほどの危機感があるなら、男系男子の絶えない制度をなぜ模索しようとしないのでしょう。危機を煽って、一気に女系継承に突き走るのは論理的とはいえません。

園部:男尊女卑の価値観が残るなかで、「女性宮家」や「女性・女系天皇」について話し合うのは、なかなか困難だろう。

男女平等問題ではないことはこれまで何度も何度も言及してきました。過去に女性天皇が存在しないのではありません。夫があり、妊娠中、子育て中の女性天皇が存在しないのです。女性ならば、民間出身であっても皇后となり、摂政ともなれます。これは男女差別でしょうか。

そして対談はいよいよ核心に迫ります。

御厨:男系男子でなければ「困る」の根拠がいまいち明確でない。「皇統は男系で続いてきたから男系であるべき」以上の根拠が出ない。
園部:例えば、日本の皇室が範としてきた英国王室に君臨するのは、エリザベス女王だ。英国は、日本では想像できないほど厳格な階級社会だ。だけど、階級の頂点に位置する王室のトップが女性であることを、英国民は受け入れている。
 これは王室を継ぐのは、「血筋の近さ」であって、男であるか女であるかは重要ではないことを証明している。

お二人は政府の有識者会議などに関わり、多くの資料に目を通しているはずですが、どうやら基本中の基本をご存知ないようです。座長代理を務めるような御仁にそんなことがあるんでしょうか。まったくの驚きです。

明治の時代には女帝容認は火急の案件でしたが、否定されました。なぜなのか、近代史を学んだことがないのでしょうか。ヨーロッパの王室なら王族同士が婚姻し、女王即位の後は王朝が交替します。だからこそ、明治人はヨーロッパ流の継承制度を学ばなかったのではないのですか。

 【関連記事】女系は「万世一系」を侵す──「神道思想家」葦津珍彦の女帝論https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1998-12-01
 【関連記事】基本を忘れた女系継承容認論──小嶋和司教授の女帝論を読むhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-12-31

このあと対談は、男系主義は政府が受け入れているだけで、国民の大半は女性天皇を容認している(園部氏)。時代は変わっているが、典範改正は安倍政権の次の政権でも無理だろう(御厨氏)、などという政局論が続いています。

結局、いみじくもタイトルに示されている「男系主義の根拠」こそが問われているのに、歴史論的に深めることもせず、あるいはできずに、陳腐な男女平等論で終わっています。政府の有識者会議の議論なるものはこの程度だったのでしょうか。背筋が寒くなる思いがします。

最後に蛇足ながら、こんなお寒い日本の知識人のレベルを白日のもとに晒してくれた「週刊朝日」編集部に心から感謝したいと思います。これではまともな議論が期待できるはずもないことがよくよく分かります。


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天皇とは何だったのか。どこへ向かうのか。肝心なことを伝えないお誕生日会見報道 [皇室報道]

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天皇とは何だったのか。どこへ向かうのか。肝心なことを伝えないお誕生日会見報道
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先月23日は今上天皇の60歳のお誕生日でした。皇位継承後はじめての天皇誕生日で、昭和天皇以来、恒例となっているお誕生日会見で何を語られるのか、注目が集まりました。

昭和、平成とは異なり、いまや完全なネット社会で、会見の模様は宮内庁ほか各メディアが全文を、動画も含めて、サイトに掲載するようになりました。〈https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/30

しかし、新聞・テレビの報道は字数の制限がありますから、当然、部分的な要約にならざるを得ません。会見の質疑応答はきわめて多岐にわたり、盛り沢山で、それだけに報道する側の問題関心のポイントが浮き彫りになります。

そしてやっぱり肝心なことが読者には伝わらないという結果を招いているようです。天皇とは何だったのか、皇室はどこへ向かおうとしているのか、です。


▽1 象徴天皇像の追求

朝日新聞(電子版。以下同じ)は、『天皇陛下「もうではなくまだ還暦」 即位後初の誕生日』(長谷文、中田絢子記者)、『天皇陛下、言葉ににじむ理想 これまでの会見を振り返る』(同)を載せています。

前者は『象徴天皇としての今後について「研鑽を積み、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、象徴としての責務を果たすべくなお一層努めてまいりたい」と言及。「憲法を遵守し、象徴としての務めを誠実に果たしてまいりたい」とも語った』と、現行憲法下での象徴天皇像を追求されることを表明されたことになっています。

後者では、即位後のご感想、御代替わり儀礼についてのお考え、家族について、皇室の現状について、など各テーマを取り上げてご発言を要約し、さらに過去のご発言と比較するというきめ細かい報道に努めています。

そして、『国民と共にある皇室――。理想とする皇室像について問われるたび、陛下は同じ言葉を繰り返した』『この考えの原点となったのが、20代半ばに約2年間留学で滞在した英国だ』『皇太子として最後の会見(2019年2月)では「国民の中に入り、国民に少しでも寄り添う」ことを大切にしたいと決意を述べた』と結んでいます。

記事には事実として間違いはありません。けれども重大な一点が抜けています。朝日の記事では今上天皇が憲法を最高法規とする象徴天皇像を追求するご決意を述べられたかのように読めますが、事実は違います。

今上は会見の冒頭から、『上皇陛下のお近くで様々なことを学ばせていただき』『歴代の天皇のなさりようを心にとどめ』と仰せになり、『上皇上皇后両陛下』を何度も繰り返されました。憲法への言及は第2問への返答の最後に行われています。記事には「上皇」「歴代」はありません。悠久なる伝統の継承が無視されているのです。


▽2 単純な護憲派ではない

平成の時代にも同じような報道がありました。陛下や皇太子殿下(今上天皇)のご発言の一部を取り上げ、まるで護憲派政党のシンパでもあるかのように持ち上げ、改憲勢力を牽制する文字通り、錦の御旗に利用したのです。政治的、恣意的です。

 【関連記事】護憲派の「象徴」に祭り上げられる皇室──部分のみ報道するメディアhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2014-03-02

たとえば、太上天皇は平成21年11月、御即位20年の記者会見で、「長い天皇の歴史に思いを致し,国民の上を思い,象徴として望ましい天皇の在り方を求めつつ,今日まで過ごしてきました」とお答えになっています〈https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h21-gosokui20.html〉。

今上天皇も、皇太子時代から機会あるごとに、皇室の伝統と憲法の規定の両方を追い求めることを表明してこられました。たとえば、平成26年、54歳のお誕生日には次のように語られました。

『公務についての考えにつきましては,以前にも申しましたけれども,過去の天皇が歩んでこられた道と,天皇は日本国,そして国民統合の象徴であるとの日本国憲法の規定に思いを致して,国民の幸せを願い,国民と苦楽を共にしながら,象徴とはどうあるべきか,その望ましい在り方を求め続けるということが大切であると思います』〈https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/kaiken/kaiken-h26az.html

太上天皇も今上天皇も、単純な護憲派ではないのです。

朝日新聞の長谷、中田両記者には、皇室をどうしても護憲派に仕立て上げなければならない特別の事情がおありなのでしょうか。

といっても朝日の報道ばかりを責め立てられません。読売は『「象徴の道、始まったばかり」…天皇陛下60歳に』、毎日は『天皇陛下60歳誕生日「憲法順守し、象徴としての務めを誠実に果たす」』(高島博之記者)、日経も『「象徴の務め、誠実に」天皇陛下会見全文』と似たり寄ったりだからです。


▽3 皇室とメディアとの隔たり

産経だけは少し違い、「天皇誕生日 国民も心一つに歩みたい」と題する【主張】(社説)を掲げ、『広く国民のことを思い、寄り添われる姿は、……昭和天皇から上皇陛下へと引き継がれ、今上陛下が間近で学ばれてきた皇室の伝統である』『(天皇は)数多くの宮中祭祀で、日本と国民の安寧や豊穣を祈られている』と古来の伝統を継承する皇室の姿に言及しています。

しかし産経とて、太上天皇、今上天皇が以前から繰り返し、皇室の伝統と憲法の理念の両方を追求されると表明されていることを指摘しているわけではありません。

天皇とは何だったのか。いかにあるべきなのか。その認識には、皇室とメディアとの間には大きな隔たりがありそうです。

太上天皇、今上天皇にとっては、憲法が規定する国事行為だけを行うのが象徴天皇ではありません。各紙が言及する象徴天皇もまた、被災地で被災者を励まされるなど、国事行為以外の象徴行為を行う天皇なのですが、メディアにとってはあくまで憲法的あり方にとどまっています。しかし皇室にとっては、古来、国と民のために私なき祈りをひたすら捧げてこられた祭り主天皇の発展形なのでしょう。公正かつ無私なる祭り主であり続けることが天皇の天皇たる所以なのです。

各紙の優秀な記者の方々はどうかそこに気づいてほしいと思います。いまやネットの時代で、誰もが一次情報にアクセスできるようになりました。部分的で偏った報道は簡単に見破られてしまいます。


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