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中曽根議員は立太子礼「国事」論を主張し、宇佐美次長は「神道との訣別」を明言した占領末期の国会審議 [御代替わり]

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中曽根議員は立太子礼「国事」論を主張し、宇佐美次長は「神道との訣別」を明言した占領末期の国会審議
《斎藤吉久のブログ 令和2年3月30日》
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公益財団法人モラロジー研究所の皇室関係資料ポータルサイト「ミカド文庫」は、「立太子礼」について「明治42年(1909)の『立儲令』に基づき、大正5年(1916)に迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)が、また昭和27年(1952)に継宮明仁親王(のちの今上天皇)が、さらに平成3年(1991)浩宮明仁親王(現皇太子殿下)の立太子の儀が行われた」と説明しています〈http://mikado-bunko.jp/?p=714〉。

執筆者はテレビの歴史番組でお馴染みの久禮旦雄・京都産業大学准教授(法制史)のようですが、じつに不正確です。敗戦による法制度改革の歴史が完全に見落とされています。

戦後、新憲法の施行に伴い、皇室令は全廃され、旧皇室典範を頂点とする宮務法の体系がすべて失われました。それなのに、いまの太上天皇や今上天皇の立太子礼が明治の立儲令に基づいて行われるわけがありません。法制史家としてはあまりに初歩的なミスです。

それならば、古来の立太子礼の形式を近代法として整備したはずの立儲令は戦後、どのように扱われるようになったのでしょうか。


▽1 昭和27年の立太子礼がすでに「人前式」だった

前回まで、明治の立儲令附式と4月に予定される秋篠宮親王の「立皇嗣の礼」は中身が異なるということをお話ししました。昭和22年5月の宮内府長官官房文書課長の依命通牒は「従前の例に準じて」(第三項)とありますから、立儲令附式に準じて今回も行われていいはずですが、そうはなっていません。

 【関連記事】「立皇嗣の礼」=国事行為を閣議決定。もっとも中心的な宮中三殿での儀礼は「国の行事」とはならずhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-24
 【関連記事】明治の「立儲令」と来月の「立皇嗣の礼」は何が違うのか?https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-29

儀式が非宗教化されている実態から察すれば、気の早い人はGHQの神道圧迫政策がいまに及んで、いよいよ浸透してきたと思うかもしれませんが、違います。

じつは昭和27年4月の主権回復から約半年後の同年11月10日、継宮明仁親王(いまの太上天皇)の成年式と同時に行われた立太子の礼が、今回と同様、すでにして人前式だったのです。

既述した久禮准教授の解説は完全な間違いだと分かりますが、それはともかくなぜそのようなことが起きたのか。当時の日本政府は占領下にあっても「いずれきちんとした法整備を図る」が方針だったと聞きますし、であればこその依命通牒だったはずです。

 【関連記事】「昭和天皇の忠臣」が語る「昭和の終わり」の不備──永田忠興元掌典補に聞く(「文藝春秋」2012年2月号)https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-02-01-1?1585484598

昭和20年12月のいわゆる神道指令は明らかに神道を狙い撃ちするものでしたが、22年5月施行の日本国憲法は「法の下の平等」「信教の自由」をうたっています。宮中祭祀は「皇室の私事」という法的位置づけながら、占領中も皇室祭祀令附式に準じて継続してきました。

占領後期になると、「神道指令」の解釈・運用は「国家と教会の分離」に変わり、26年6月の貞明皇后大喪儀は皇室喪儀令に準じて行われました。占領軍はこのとき宮内官僚に「国の経費であっても、ご本人の宗教でやってかまわない」と語ったといいます。同10月には吉田首相の靖国神社参拝が認められています。神道指令発令当時の占領前期とは雲泥の差で、しかも独立回復後は神道指令は失効しました。

 【関連記事】終戦後、天皇の祭祀はどのように存続し得たか──歴史的に考えるということ 3https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-04-29-1?1585536198
 【関連記事】占領後期に変更された「神道指令」解釈──歴史的に考えるということ 4https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-05-05
 【関連記事】「準国葬」貞明皇后大喪儀から「国事」皇太子御成婚まで──歴史的に考えるということ 5https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-05-12?1585536855


▽2 「賢所での儀式」と「国事としての儀式」との分離

継宮明仁親王(いまの太上天皇)の立太子礼はなぜ「人前式」に改変させられたのか、国会議事録に理由の一端が記録されていますので、ご紹介します。

昭和27年4月末日の占領解除が目前に迫った2月22日、衆院予算委員会第一分科会で、皇室費が議題となりました。質問に立ったのは弱冠33歳、野党民主党の中曽根康弘議員(のちの首相)です。当時は吉田茂自由党政権で、中曽根は反吉田の急先鋒でした。〈https://kokkai.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=101305266X00319520222&page=1&spkNum=0¤t=2
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中曽根はまず、立太子式の時期について質問します。答弁するのは宇佐美毅宮内庁次長(のちの長官)でした。

「皇太子殿下は昨年十二月、成年に達せられ、成年式と立太子式の挙行を準備してきたが、貞明皇后の崩御(26年5月)で延期になった。大体今秋挙行の見込だが、決定を見ていない」

中曽根が「成年式と立太子式と同時に挙行するのか。それとも別々にか。今秋とは大体何月ごろか」と重ねて問うと、宇佐美は「あまり時をあけずに、おそらく十月前後」と答えます。実際には、成年式、立太子礼は11月に、同日に行われました。

次に中曽根は経費について問い、宇佐見が「約四百五十万円ばかり」と答え、その内容について説明したあと、いよいよ本論の立太子礼の具体的な方法論へと質疑が進みます。中曽根は立太子式の規模、「皇室の御慣例の神式」なのか、あるいは京都でやるのかと畳みかけます。

これに対する宇佐美の答弁が注目されます。

「従前と異なり、立太子式、成年式の法律的な根拠はできていない。ただ慣習によつて行われることとなる。場所は東京で、皇居内と考えられる。従前は賢所で儀式が行われたが、現行憲法下では『天皇の私事』となったので、国事としての儀式は、別に国事として行われるという考え方に進んでいる」

法律的にいえば、戦前の立儲令は廃止されましたが、依命通牒に従い、「従前の例に準じて」行われるべきところですが、当時の宮内庁は「慣習によって」と表現し、賢所での祭儀とは別に「国事としての儀式」を新たに検討しているというわけです。

背後には当然、憲法の政教分離問題があります。平成の御代替わりで浮かび上がった「国の行事」と「皇室行事」との分離方式が占領末期のこの時期すでに政府内で検討されていたことになります。もしかして貞明皇后の大喪儀でも同様だったのでしょうか。だとすると、依命通牒とは何だったのか。『関係法令集』に掲載され、宮中祭祀厳修の根拠とされてきたのは間違いないのです。


▽3 無神論儀礼への歩みが始まっていた

議論すべきなのは、「慣習」であり、「国事」です。そして中曽根は問いただします。「立太子の式は国家的な祝典で、日本国の象徴と将来なられる方の式だから、当然、国事だと思う。もう少し御説明を願いたい」

宇佐美は答えます。「立太子礼と成年式は、国事として行う。従つて、従前の賢所での、伝統ある神道形式を持つものは、陛下の私的な行事になる。国として行うものは、それらと離して行われる」

ここには宮中祭祀は神道という特定の宗教儀礼だと頑なに信じ込む旧態依然たるドグマが潜んでいます。天皇の祭祀は宗教儀礼とは異なる国家儀礼であり、だからカトリックは戦前から信徒に参加を認めてきたことを助言する宗教学者などはいなかったのでしょうか。日本国憲法が国家に宗教的無色中立性を要求しているわけでもないでしょうに。

 【関連記事】憲法は政府に宗教的無色性を要求していない──小嶋和司教授の政教分離論を読むhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-10-16-1
 【関連記事】御代替わり諸儀礼は皇室の伝統と憲法の理念を大切に ──朝日新聞の社説「憲法の理念に忠実に」を批判するhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2018-02-19

宇佐美は明確に「二分方式」を示しました。中曽根が賢所での儀式についての具体的な説明を求めると、「従前の祭祀令、成年式令等において行われ、いわゆる裝束をつけられ、神前で行われる。あるいは御劍を授けられ、あるいは冠を加えられるという、古来の式をとつている。国事として考えられるものは、従前のものと切り離して考えていく」と伝統儀礼からの訣別をきっぱり断言するのでした。

とすると、古来、もっとも中心的な壺切御剣の伝進などは「国の行事」ではなく、「皇室の私事」として行われることになります。ならば、「従前」と異なる新例の「国の行事」とはいかなる内容になるのか、中曽根はさらに問いかけます。

「たとえば神道の儀式をやり、国家の代表者を参列させて御祝典申し上げ、その後に饗宴をおやりになるのか。それともモーニング・コートか何かを着て、国家の代表者を交えて普通の儀式をあげるのか」

宇佐美の答えは「まだ審議中」というものながら、政教分離原則厳守への決意を表明するものでした。「この形式が初めてですので、決定に至つてませんが、神道と混淆するような形は避けなければならない。国事として行われるものは、国の代表の方が集まり、行われるのではないか」

このあと中曽根は「立太子の式は国家的な式典」だから「国家の特別祝日」とすべきだ、皇太子がラジオを通じて国民に直接お言葉を述べられれば親しみが湧くなどと提案し、そのあと天皇神格化への危惧について展開します。中曽根の質問はのちの「タカ派」のイメージとは異なるリベラルな立場から、吉田総理を批判し、明治憲法を批判し、いわゆる「開かれた皇室」への期待を述べるのですが、省略します。

私はこれまで、「従前の例に準じて」とする依命通牒第3項によって宮中祭祀が守られ、のちに昭和50年8月15日の宮内庁長官室会議で解釈・運用が変更され、祭祀改変が進んだと理解し、書き続けてきましたが、主権回復の前にすでに依命通牒は反故にされ、無神論的国家儀礼への歩みが始まっていたのかもしれません。

当面は「宮中祭祀は皇室の私事」という解釈でしのぎ、いずれきちんとした法整備を図る、というのが政府の方針だったとの当時の高官たちの証言は、もしかしてリップサービスに過ぎなかったのでしょうか。


斎藤吉久から=当ブログ〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/〉はおかげさまで、so-netブログのニュース部門で、目下、ランキング10位。アメーバブログ「誤解だらけの天皇・皇室」〈https://ameblo.jp/otottsan/〉でもお読みいただけます。読了後は「いいね」を押していただき、フォロアー登録していただけるとありがたいです。また、まぐまぐ!のメルマガ「誤解だらけの天皇・皇室」〈https://www.mag2.com/m/0001690423.html〉にご登録いただくとメルマガを受信できるようになります。

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