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「愛子さま天皇」か旧皇族復帰か、皇位継承問題を単純化する現代人の3つの病理 [皇位継承]


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「愛子さま天皇」か旧皇族復帰か、皇位継承問題を単純化する現代人の3つの病理
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さて、今日は三題噺を書きます。無機質論的な議論への違和感、性急に解決法を求める悪癖、議論の主体の不在の3つ。ひとまとめにするなら、現代人の病理というようなものでしょうか。


▽1 Y染色体の維持が目的ではあり得ない

皇位継承問題に関する最近の議論を眺めていて、唐突ながら、思い出したことがあります。韓国宮廷料理研究の第一人者で、韓国の人間国宝・黄慧性(ファン・ヘソン。故人)さんの鋭い指摘です。

 【関連記事】相次いで亡くなった日韓の架け橋https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2006-12-26?1587866321

以前、韓国文化専門家の友人の案内でソウルを旅したとき、かつて朝鮮神宮が鎮まっていた南山の頂上にある韓国宮廷料理専門店で、夜の宴がありました。主賓は友人が「母」と慕う黄さんでした。黄さんの存在なくして韓国宮廷料理研究はなく、このお店の存在も同様でした。

このとき優雅なチマチョゴリを召した黄さんが教えてくれた、もっとも心に残っているお話は、「最近の研究者は栄養学的な視点ばかりで宮廷料理を研究したがる」というじつに興味深い指摘でした。

宮廷料理は朝鮮半島全域から食材が集められ、調理されます。国王1人では食べ切れるはずもない数々の料理がテーブルに並ぶのですが、それは国王の食事が実際に食べるというより、国王が全国土を支配するという、儒教的な精神と不可分一体の儀礼だからなのでした。

ところが、最近の研究者たちは、精神的側面には見向きもせず、やれタンパク質がどうだ、ビタミンがどうだという議論に終始し、満足している。それでは宮廷料理を理解することにはならないだろうというのが黄さんの嘆きでした。三大栄養素などを摂取することが国王の食事ではないからです。無機質的レベルに還元して、儒教精神に立脚する韓国王制を理解することはできないからです。

最近の皇位継承論議にも似たようなところがあります。たとえば男系固持派の八木秀次さんが言い出したY染色体論です。多くの男系派の心を捉えていますが、皇位が男系男子で継承されてきたのなら、男子の性染色体が受け継がれるのは理の当然とはいえ、男系による皇位の継承はY染色体の維持が目的ではあり得ません。

要は生物学的に理解が早いということであって、あくまで結果に過ぎません。逆にY染色体の維持が目的なら、遺伝子操作でもいいのか、という極論も成り立ちます。天皇は遺伝子の塊ではないのです。

以前、雑誌「正論」に書きましたが、大和言葉の「ち」(地、血など)にはAとBとをつなぎ、どこまでも続いていくという意味があります。また、「ち」は「し」(霊)と同義であり、血統=霊統なのだといわれます。霊統たる皇統はY染色体で説明できるでしょうか。

 【関連記事】伝統主義者たちの女性天皇論──危機感と歴史のはざまで分かれる見解(「論座」平成16年10月号から)https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2004-10-01
 【関連記事】女系継承は天皇の制度といえるのか──皇室典範有識者会議を批判する(「正論」平成17年12月号から)https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2005-12-01
 【関連記事】もっと聞きたい、園部参与との丁々発止──八木秀次教授の「女性宮家」ヒアリングを読むhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-08-05-1

男系継承にどのような深い基本的理念が込められているのか、天皇統治の歴史的あり方そのものが深く探求されないのなら、韓国宮廷料理研究が栄養学的分析に留まっているのと大して変わらないことになりませんか。逆に、男女平等の普遍的原則を掲げる女系継承容認派の方が、はるかに理念的であるのはなんと皮肉なことでしょう。男系派こそ理念的であるべきなのに。

 【関連記事】憲法の原則を笠に着る革命思想か。ジェンダー研究者の女性天皇論を読むhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-02-22


▽2 当事者たる皇室が蚊帳の外に置かれる論外

じゃあ、どうするのか、反論がすぐさま聞こえてきそうです。

そうなのです。現代人は自分では考えずに、まるで水道の蛇口をひねるかのように、スマホの画面をタップするかのように、すぐに、簡単に、しかもタダで、他人から答えを引き出そうとします。2つ目の問題はそれです。

必要なのは結論だけで、思考の過程は問われませんから、即答を渋ると、動きの悪いPCのように、途端に嫌われます。Twitterのように、短文で、右が左かという単純な議論がウケることになります。自分の好みに合わないなら、即座に捨てられます。

案の定、皇位継承問題は「愛子さま天皇」を認めるか、旧皇族の復帰かという二者択一の議論となってきました。選択肢はほかにないのでしょうか。

3つ目の問題として、なんとも恐ろしいことに、議論の主体となるべき皇室の姿がどこにも見当たりません。皇室問題なのに当事者たる皇室が排除されています。まったくあり得ません。

今回の議論は平成8年ごろ、宮内庁内で非公式の検討が開始されたというのが起点でした。やがて公式研究に代わり、有識者会議なども開かれましたが、皇族方の意見は一切排除されました。羽毛田長官が異論を述べる寛仁親王の口封じをしたことは記憶に新しいところです。論外です。

 【関連記事】〈第1期〉「皇統の危機」を背景に非公式研究開始 ──4段階で進む「女性宮家」創設への道https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2017-09-23
 【関連記事】皇統を揺るがす羽毛田長官の危険な〝願望〟(「正論」平成21年12月号から)https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2009-12-01-2

つまり、政府・宮内庁が20数年、研究と議論の対象としてきたのは、126代の皇位継承ではなく、2.5代の皇位継承なのです。国事行為のみ行うのが天皇なら、男女の別は当然、問われません。「世襲」なら男でも女でもいいという結論になります。

憲法の国民主権主義に立脚する象徴天皇の法的地位は、あくまで国民の総意に基づくのであって、したがって皇族方が議論に参加することは許されません。天皇は国政に関する権能を有しないというのが憲法の規定であり、憲法こそ最高法規です。

そして、案の定、保守派と革新派、女帝容認派と否認派が入り乱れて、甲論乙駁の論争が展開されています。議論の中心であるべき皇室はむろん徹頭徹尾、蚊帳の外です。

皇室の伝統が大切だと訴える男系派なら、判断は皇室にお任せすべきだと主張してもいいはずなのに、どうもそうはなりません。国民主権の考え方や憲法第一主義に誤りがあると指摘する憲法学者がいてもいいはずなのに、改憲論といえば9条のテニヲハを変えるぐらいの議論しか聞こえてきません。国家百年の計、千年の計に立つ議論ができないのです。

 【関連記事】百年の計に耐えうる運動を ──依命通牒の「廃棄」をご存じない? 7https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2017-08-20

国民主権論に立ち、国民的議論を煽る女系容認派に、同じ土俵に引き込まれ、引きずられて、ピエロのごとく踊らされっ放しなのが、いまの男系派の悲しき実態です。

言論は自由ですから、議論は大いにあっていいでしょうが、より本質的で、客観的で、建設的で、慎重な、そしてけっして感情的にならない、「君子の論争」が心から望まれます。そして最後の結論は、国民が出すのではなく、皇室のご判断を仰ぐべきであって、そのための国民的論争であるべきだろうと私は考えますが、いかがでしょうか。

 【関連記事】女系は「万世一系」を侵す───「神道思想家」葦津珍彦の女帝論(「論座」1998年12月号特集「女性天皇への道」から) https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1998-12-01
 【関連記事】天皇制をやめるんですか──伊藤智永・毎日新聞編集委員の皇室記事を読んでhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-01-05
 【関連記事】どうしても女性天皇でなければならないのか。男系を固守することは不正義なのか。なぜ男系の絶えない制度を考えようとしないのか?https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-02-09


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壺切御剣が殿下のおそばにない──ふたたび考える「立皇嗣の礼」の延期 [御代替わり]

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壺切御剣が殿下のおそばにない──ふたたび考える「立皇嗣の礼」の延期
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今日予定されていた秋篠宮文仁親王の「立皇嗣の礼」の諸儀礼が、新型コロナウイルス対策に伴い、秋以降に延期されました。前回、取り上げた通りです。

 【関連記事】「立皇嗣の礼」の延期は大前に奉告されるのか。蔑ろにされる皇祖神の御神意https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-04-12

殿下はすでに皇室典範特例法の施行によって、昨年5月1日午前0時をもって「皇嗣」となられています。「国権の最高機関」とされる国会の定める法律によって、「皇嗣」としての法的地位が得られたのですが、今回の「延期」は、皇室の原理である「祭祀優先」主義との矛盾をさらに拡大させているのではないか、というのが私の指摘です。

分かりづらいところがあったように思われますので、もう一度、考えてみます。


▽1 「およそ禁中の作法は神事を先にす」

かつては天皇の御意向が法とされ、勅旨による儀式が最重要視されました。皇位の継承では、紫宸殿で天皇の宣命が宣せられた瞬間に皇太子は新帝となり、そののち剣璽は動座されました。そして皇嗣は、天皇が詔を宣することで皇太子が立てられ、壺切御剣が伝進されたのです。

 【関連記事】「貞観儀式」の「譲国儀」を訓読する ──第2回式典準備委員会資料を読む 6https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2018-04-30
 【関連記事】キリスト教的な「立儲令」はどのようにして生まれたのか? ──『帝室制度史』を読む 後編https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-04-01

明治になり、アジア諸国のなかで、近代法をいち早く導入したのがわが国ですが、大正の御代替わりは微妙でした。

明治の皇室典範は「天皇崩ずるときは皇嗣すなわち踐祚し、祖宗の神器を承く」(第10条)と規定し、登極令は「天皇践祚のときはすなわち掌典長をして賢所に祭典を行わしめ」(第1条)と定めていましたが、明治天皇崩御の正確な日時は7月29日午後10時43分で(『昭和天皇実録』)、これでは賢所大前の儀式が間に合いません。

結局、崩御の公式時刻が2時間後の翌日午前0時43分に延期され、深夜1時に賢所の儀と剣璽渡御の儀が同時に執行されたのでした(官報号外)。「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」(順徳天皇『禁秘抄』)の精神を優先するため、現実主義的対応策が講じられたということでしょう。

戦後の神道指令発令以後、宮中祭祀は「皇室の私事」に貶められましたが、宮内庁関係者によれば、それでも皇室では「神事優先」の原則が守られてきたと聞きます。たとえば行幸の日程が旬祭などの祭祀と重なる場合、行幸の日取りが変更されたのでした。

昭和天皇が行幸先で賢所の方角をたいへん気にされたという逸話が残されていますが、それは「白地(あからさまにも)神宮ならびに内侍所の方をもって御跡(みあと)となしたまはず」(ゆめゆめ伊勢神宮や賢所に足を向けてはならない)が禁秘抄の教えだからです。

古来、歴代天皇は祭祀を第一のお務めとされましたが、昭和40年代に祭祀嫌いの入江相政が侍従長となり、さらに無神論者の富田朝彦次長が登場して、宮内庁それ時代が一変し、「祭祀優先」は崩れていったのです。(詳しくは拙著をお読みください)

 【参考文献】拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E7%A5%88%E3%82%8A%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%B0%A1%E7%95%A5%E5%8C%96%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%8B-%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%90%89%E4%B9%85/dp/4890632395
 【関連記事】「昭和天皇の忠臣」が語る「昭和の終わり」の不備──永田忠興元掌典補に聞く(「文藝春秋」2012年2月号)https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-02-01-1


▽2 皇室の伝統を蔑ろにする保守長期政権の皮肉

平成の御代替わりではさまざまな不都合が起き、令和の御代替わりでも同様のことが繰り返されました。無神論的な政教分離の厳格主義が背景にあることはもちろんです。皇室の伝統重視を基本方針のひとつとしたはずなのに、実際は皇室の宗教的儀礼に不当に介入したのです。それが「一強」とされる保守長期政権の皮肉な実態です。

 【関連記事】宮中祭祀を「法匪」から救え──Xデーに向けて何が危惧されるのか。昭和の失敗を繰り返すなhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-02-01

たとえば賢所の儀です。

皇室の「神事優先」の大原則からいえば、昨年5月1日午前0時をもって皇位が継承されるということなら、前日の夕刻、もしくは当日未明に賢所大前の儀式が行われるべきです。しかし、実際はあろうことか、「退位」と「即位」が分離され、即位(践祚)を奉告する「賢所の儀」は最後まで時刻の決定が遅れたうえに、践祚から10時間半遅れ、宮殿での剣璽等承継の儀と同じ、当日午前10時30分挙行となりました。むろん御代拝でした。

 【関連記事】賢所の儀は何時に行われるのか? ──いつまでも決まらない最重要儀礼https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-01-20

今回の「立皇嗣の礼」では、宮殿での「宣明の儀」(国の行事)は「文仁親王殿下が皇嗣となられたことを公に宣明されるとともに、これを内外の代表がことほぐ儀式」(官邸の式典委員会資料)〈https://www.kantei.go.jp/jp/singi/gishikitou_iinkai/dai9/gijisidai.html〉とされ、4月19日午前11時開始とされました。

他方、「天皇が立皇嗣の礼を行うことを奉告される」儀式である「賢所皇霊殿神殿に親告の儀」(皇室行事)は2時間前の同日午前9時挙行とされました。〈https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/shiryo/tairei/pdf/shiryo020324-2.pdf

宮中三殿で「親告」があり、そののち宮殿で「宣明」が行われるという順序は「祭祀優先」の原則にかなっているようにも見えますが、法的な冊立からはすでに1年近くも経過しているのです。そして新型コロナウイルス感染拡大防止のため、さらに少なくとも半年遅れることとなったのです。この間、壺切御剣は殿下のおそばにないことになります。

むろんウイルス感染拡大防止は現実問題として重要ですが、「神事を先にす」という皇室の原理が蔑ろにされていることはほとんど間違いありません。問題は歴史と伝統ある宮中の儀礼と近代法制との関係であり、もはや弥縫策ではなく、総合的に再検討すべき時期に来ているのではないかと私は思います。

皇祖のみならず天神地祇を祀る公正かつ無私なる天皇の祭祀への偏見があるとすればなおのことです。そうでなければ、国の行事と皇室行事を分離する必要はないからです。皇室を大切に思う保守派こそ声を上げるべきではないでしょうか。


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「立皇嗣の礼」の延期は大前に奉告されるのか。蔑ろにされる皇祖神の御神意 [御代替わり]


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「立皇嗣の礼」の延期は大前に奉告されるのか。蔑ろにされる皇祖神の御神意
《斎藤吉久のブログ 令和2年4月12日》
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新型コロナウイルス感染症の感染拡大を封じ込めるため、政府は緊急事態宣言を発出しました。10日の持ち回り閣議では、19日に挙行予定だった「立皇嗣の礼」を「延期する方向で調整」されることが決まりました。今後の予定については、菅官房長官が「感染症の収束状況を踏まえ、式典委員会を開催をし、改めて検討する」と閣議後の会見で語っています。〈https://www.kantei.go.jp/jp/tyoukanpress/202004/10_a.html

他方、宮内庁は、報道によれば、「(宮中祭祀など)関連する皇室行事も調整が必要」との判断で、陛下や殿下にはすでに経緯を報告済みだと伝えられます。「(挙行は)早くても秋以降」とされます。

そこで「立皇嗣の礼」について、おもに2つの視点から考えてみたいと思います。1つは政府の決定と神前での祭祀との関連について、もう1つはすでに定まっている「皇嗣」という法的地位の今後について、の2点です。

「愛子さま天皇」待望論がこのところの新型コロナ感染拡大の影響からかカゲを潜めていますが、なかには公然と、皇位継承順位第1位の秋篠宮文仁親王や同2位の悠仁親王を押し除けて、愛子内親王の即位を望む声も聞かれます。

皇室典範特例法の施行に伴い、すでに法的に定まっている皇位継承順位を変更できるし、変更すべきだという主張ですが、そんな権利が国民にあるのでしょうか。


▽1 法的冊立から1年半後の「親告」

最大のポイントは、皇祖神と天皇(皇位)と国民(憲法)とのギクシャクした関係です。

開闢以来、天皇がこの国の統治者であるのは皇祖天照大神の委任(ことよさし)によるものであるというのが古典的な解釈ですが、無宗教的な現代人の感覚では理解しづらいものとなっています。

現行憲法は第1条で「天皇の地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」と明記しています。まるで人気投票まがいに、国民が無遠慮に、国の根幹に関わる皇位継承に介入するのは理由のないことではありません。言論の自由は法的に認められています。

太子を立てることは古来、天皇のご意思に基づく専管事項でした。『帝室制度史 第4巻』(昭和15年)には「皇嗣は天皇在位中にこれを選定冊立したまふことを恒例とす」「光仁天皇以後は、皇太子の冊立にあたり詔をもって天下に宣示したまふことが、定例となすに至れり」(第1編天皇 第2章皇位継承 第4節皇嗣)とあり、立儲令(明治42年)には「第1条 皇太子を立つるの礼は勅旨により、これを行ふ」と明記されていました。

かつては天皇のご意思が法であり、勅旨によって儀式を行い、詔を宣することで皇太子が立てられました。しかし現行憲法下では、先の改元がそうであったように、国民主権主義に基づくところの政府が権限を握っています。立太子は儀式ではなく、法に基づきます。今回の「延期」も決定権は陛下にはありません。

今回の「延期」がなければ、15日の勅使発遣の儀に始まり、19日の当日に伊勢の神宮には奉幣、宮中三殿には親告、神武天皇山陵および昭和天皇山陵には奉幣が行われ、そののち宮殿で「立皇嗣宣明の儀」が行われるという予定でした。

 【関連記事】「立皇嗣の礼」=国事行為を閣議決定。もっとも中心的な宮中三殿での儀礼は「国の行事」とはならずhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-24
 【関連記事】明治の「立儲令」と来月の「立皇嗣の礼」は何が違うのか?https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-29

殿下の「皇嗣」としての法的地位は昨年5月1日に定まっています。ほぼ1年後に「立皇嗣の礼」が設定されたのは、一連の御代替わり儀礼が終わり、落ち着いた時期で挙行されるのがふさわしいと考えられたからです。しかし「秋以降」の「延期」となれば、もっとも肝心な皇祖神や歴代天皇へのご挨拶は法的冊立から1年半も遅れることになります。

今回の御代替わりでは「国の行事」最優先でスケジュールが決められ、皇室にとってもっとも重要であるはずの「賢所の儀」についての決定は最後の最後まで先延ばしされ、結局、践祚から10時間半遅れの神事が行われました。しかも御代拝でした。

 【関連記事】賢所の儀は何時に行われるのか? ──いつまでも決まらない最重要儀礼https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-01-20
 【関連記事】「皇室の伝統」は国民主権主義と対立するのか ──朝日新聞の「新元号」関連企画を読むhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-04-21

そうさせた主因は憲法の非宗教的な解釈・運用にあります。憲法は宗教的価値を否定しているわけではないのに、「神事を先にす」(禁秘抄)の大原則が歪められているのです。今回の「延期」は賢所にいつ奉告されるのでしょうか。それともしないのでしょうか。

 【関連記事】憲法は政府に宗教的無色性を要求していない──小嶋和司教授の政教分離論を読むhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-10-16-1


▽2 日常化する臣下の謀反

『帝室制度史第4巻』は、いみじくも「皇嗣の改替」(第4節第2款)について取り上げています。歴史上の事例がそれだけ多くあるからです。しかし、だからといって今回も「陛下の次は」という展開にはならないし、なるべきではないと思います。
『帝室制度史第四巻』表紙@NDL

『制度史』を読んでみると、「改替」には3つのパターンがあることが分かります。薨去、辞退、廃太子の3つです。

「ひとたび皇嗣冊立のことありてのちも、あるいは天皇在位中に皇太子薨去したまひしにより、あるいは皇太子にみづから皇嗣たることを辞したまひしにより、あるいは皇太子に重大の事故あり、勅旨をもって皇嗣たることを廃したまひしにより、つひに皇位に即きたまふにいたらざりしこと、その例すくなしとせず」

『制度史』は具体的な事例を挙げています。まず皇太子の薨去です。

「天皇在位中に皇太子の薨去ありしは、推古天皇の皇太子厩戸豊聡耳皇子、白河天皇の皇太弟実仁親王は、その例なり」

「天皇崩御ののち、皇太子皇位に即きたまふに至らずして薨去ありしは、応神天皇の皇太子菟道稚郎子、允恭天皇の皇太子木梨軽皇子は、その例なり」

薨去後の対応はどうなるのでしょう。

「皇太子薨去により、さらに皇嗣の冊立ありしは、持統天皇称制中に皇太子草壁皇子薨じ、天皇即位ののち、草壁皇子の御子珂瑠(文武天皇)を皇太子となしたまひ、聖武天皇の皇太子某皇子薨じて、皇女阿倍(孝謙天皇)を皇太子となしたまひ、醍醐天皇の皇太子保明親王薨じて、その御子慶頼王を皇太子となし、慶賴王薨じて、さらに皇子寛明親王(朱雀天皇)を皇太子となしたまひしがごときこれなり」

『制度史』が以下のように、立太子に介入した臣下の謀反について言及しているのは注目されます。

「また後醍醐天皇ははじめ後二条天皇の皇子邦良親王を皇太子となしたまひしが、その薨ずるに及び、後伏見天皇の皇子量仁親王(光厳院)を皇太子となしたまひ、次いで元弘の変後、皇子恒良親王を皇太子となしたまひしが、足利尊氏の叛により、親王は北国に赴き、天皇は吉野に遷幸したまひ、親王の足利氏のために幽せられて薨ずるに及び、さらに皇子義良親王(後村上天皇)を皇太子となしたまひしがごときは、特異の事例なり」

『制度史』は「特異の事例」と表現していますが、現代では、首相の私的諮問機関が皇族方の意見に耳を傾けないどころか、側近中の側近である宮内庁長官までが反対する皇族の口封じをし、「女性天皇・女系天皇への途を開くことが不可欠」との報告書が書かれるまでに、「謀反」が日常化しています。世も末というべきです。

 【関連記事】皇統を揺るがす羽毛田長官の危険な〝願望〟(「正論」平成21年12月号から)https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2009-12-01-2


▽3 皇祖神の御神意のままに

皇嗣改替の2番目の類型は皇太子の辞退です。

「皇太子みずから皇嗣たることを辞したまひ、よりて皇嗣の改替ありしは、天智天皇の皇太弟大海人皇子(天武天皇)の辞退により大友皇子(弘文天皇)を皇太子となしたまひ、淳和天皇の皇太子恒世親王の辞退により、正良親王(仁明天皇)を皇太子となしたまひ、後一条天皇の皇太子敦明親王の辞退により、敦良親王(後朱雀天皇)を皇太子となしたまひしがごときこれなり」

過去には複雑な事情から辞退というケースがあったのでしょうか。戦後、ある宮様が皇籍離脱の発言をされたことがあり、最近もイギリス王室の騒動に関連してメディアに取り上げられましたが、あまり知られていないのは、そのときある神社人から猛抗議され、それ以後、一切沈黙されたという事実です。

やれ皇族にも基本的人権があるとかないとか、法律論が世間では交わされていますが、その場合、126代続く皇位の前提であり、歴代天皇が重視してこられた皇祖神の神勅は蔑ろにされてもいいということでしょうか。

最後は廃太子です。

「ときとしては、皇太子に重大の事故ありたるため、廃太子のことありたる例もなきにあらず。
孝謙天皇は皇太子道祖王の陰従のゆゑをもって廃してこれを諸王となし、大炊王(淳仁天皇)を立てて皇太子となしたまひ、光仁天皇は皇太子他戸親王の母后井上内親王の大逆のゆゑをもって廃してこれを庶人となし、山部親王(桓武天皇)を立てて皇太子となしたまひ、桓武天皇は皇太子早良親王の藤原種継暗殺のことに座するのゆゑをもって廃してこれを淡路島に遷し、安殿親王(平城天皇)を立てて皇太子となしたまひ、嵯峨天皇は皇太子高岳親王の藤原薬子の乱に座するのゆゑをもってこれを廃し、道康親王(文徳天皇)を立てて皇太子となしたまひしがごときこれなり」

『制度史』が解説しているのはあくまで天皇による廃太子です。天皇の専管事項なら当然です。ところが今日では、国民による議論が沸騰しています。あまつさえ「陛下の御学友」を自称する元同級生が「廃太子論」を書き、大新聞の子会社が出版するという前代未聞の事件も起きています。

 【関連記事】1 これがご学友の皇室論か──橋本明「廃太子論」を読むhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2009-08-04-1
 【関連記事】橋本明さんの見かけ倒し、西尾幹二先生のお門違い───「WiLL」10月号の緊急対談を読むhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2009-09-01

「廃太子」は極端ですが、皇位継承に口出しする権利が本来、国民にあるのでしょうか。皇祖神の御神意にゆだね、皇室のルールに従うということではいけないのでしょうか。それとも陛下に皇太弟の廃太子を要求するつもりですか。


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男系継承派と女系容認派はカインとアベルに過ぎない。演繹法的かつ帰納法的な天皇観はなぜ失われたのか [皇位継承]

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男系継承派と女系容認派はカインとアベルに過ぎない。演繹法的かつ帰納法的な天皇観はなぜ失われたのか
《斎藤吉久のブログ 令和2年4月5日》
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秋篠宮文仁親王殿下の「立皇嗣の礼」が19日に行われます。むろん殿下は昨年4月末日の皇室典範特例法施行に伴い、すでに「皇嗣」の地位にあります。令和の次の天皇は殿下に決定済みなのであり、皇統は弟宮に移ることが法的に決しています。これを公式に「宣明」されるのがこの儀式です。

ところがこの期に及んでもなお、「陛下の次は愛子さまに」という期待の声があとを断ちません。皇室伝統の男系継承主義に反し、秋篠宮親王、悠仁親王を差し置いて、皇室のルールではなく民意を根拠として、愛子内親王の皇位継承を敢行しようとする気運の背景には何があるのでしょうか。20年前はたかだか5割弱の女帝容認でしたが、いまや8割にも及んでいます。男系派は押される一方です。

男系固守と女帝容認とは正反対のはずです。しかしじつのところ両者は親を同じくするカインとアベルではないのかと私は疑っています。それは論理構造が演繹法的で、共通しているからです。

演繹法は現代人には分かりやすいですが、古来の演繹法的かつ帰納法的な天皇意識とは論理的に異なることになります。女系派ならいざ知らず、男系派が演繹法のみに固執するかぎり、神が異なる一神教同士のように対立が先鋭化するだけでなく、皮肉なことに、対立する女帝派の演繹法的論理を後押しするオウンゴールを蹴り続ける矛盾を犯すことになります。女系派の圧勝はその結果でしょうか。

うまく説明できるかどうか不安ですが、今日はそのことを書きます。


▽1 男系派と女系派それぞれの論理

男系継承固守派は皇室の「歴史と伝統」を根拠としています。皇祖神の存在がまずあり、『古事記』『日本書紀』などの古典があり、天壌無窮の神勅ほか三大神勅による国体論が導かれ、初代神武天皇以来、男系で継承されてきた万世一系の皇統史が強調されます。

櫻井よしこさんや竹田恒泰さんのように天皇の祭祀に注目される方々もおられます。明治以前は御所に内侍所があり、東京奠都後は宮中三殿が置かれることとなりました。宇多天皇以後、歴代天皇は雨の日も風の日も、国と民のために祈る石灰壇御拝を欠かされず、近代以後は側近による毎朝御代拝に変わったものの、いまもその祈りは続いています。
(画像は京都御所・清涼殿の石灰壇)
京都御所・清涼殿の石灰壇

承久の変の前夜、順徳天皇が書かれた『禁秘抄』の冒頭には「およそ禁中の作法は神事を先にす」とあり、古来、天皇の公正かつ無私なる祈りが天皇第一のお務めとして、126代続く、男系によって切れ目なく継続してきた価値を男系派は重視しています。

つまり、皇祖神→天孫降臨神話→宮中祭祀→男系固守という論理の流れになります。江戸時代に興ったという国学の論理もおおむね同様で、国学、神道学を学んだ人たちの多くはこの論理で男系継承を強く支持することになります。

 【関連記事】櫻井よしこさん、守られるべき天皇の伝統とは何ですか。祭祀の本質とは何ですか?https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-28
 【関連記事】過去の遺物ではなく時代の最先端を行く天皇 ──竹田恒泰氏の天皇論を読む 番外編https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2016-05-22

一方、女系容認派が依拠する第一の論拠は日本国憲法です。天皇の地位は主権者である国民の総意に基づいています。天皇は憲法に基づいて、国事行為のみを行う「象徴」という位置づけになっています。

象徴天皇はまた行動する天皇であり、被災者に寄り添い、非命の犠牲者に祈りを捧げるなどの御公務によって国民の絶大な信頼と支持を得ています。国事行為や御公務をなさるのに男女の区別はあり得ません。新しい2.5代天皇論の考え方です。渡邉允元侍従長や河西秀哉准教授などはこの立場になります。

論理構造とすれば、憲法→象徴天皇論→国事行為・御公務→女帝容認という流れです。

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▽2 いずれも古来の天皇観とは異なる

論理はそれぞれ成り立ちます。いずれも大前提となる神の存在があり、神の言葉があり、経典と教えがありますが、出発点となる神は異なります。片や皇祖神、片や憲法典、これでは議論は噛み合いません。いずれも一神教のドグマに陥っているからです。「あなたには私のほかに神があってはならない」(モーセの十戒)という一神教の原理からすれば、他者の存在を肯定することは許されません。

しかも先帝は「大行天皇の御遺徳に深く思いをいたし……日本国憲法を守り」(「即位後朝見の儀」のおことば。平成元年1月9日)と明言され、今上も「上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し……憲法にのっとり」(同。令和元年5月1日)などと、皇室の伝統と憲法の原理の両方を尊重することを宣言しておられますから、話は複雑です。男系派も女系派もそれぞれが錦の御旗を手にしたつもりになり、議論はますます対立的になります。

けれども、私はどちらも間違っていると考えています。スメラギ、スメラミコトと称された古来の伝統的天皇観はもっと違うと思うからです。現行憲法を神とする女帝容認論が126代天皇の存在を前提としていないのは明らかですが、皇祖神を原点とする男系派の論理もまた、国と民をひとつに統合する機能を天皇第一の務めと考える古来の天皇観とは必ずしも一致しないと思うからです。

女帝どころか、歴史にない女系継承まで容認した平成17年の皇室典範有識者会議は、「伝統」の尊重を基本的視点の1つに置きましたが、それはあくまで日本国憲法を第一の神とする戦後60年の象徴天皇制度の「伝統」でした。「さまざまな天皇観があるから、さまざまな観点で検討した」(「はじめに」)といいつつ、神代にまで連なる皇室の天皇観は顧みられず、皇族方の意見に耳を傾けることもしませんでした。その結果が「女性天皇・女系天皇への途を開くことが不可欠」(「結び」)という結論でした。

 【関連記事】削減どころか増えている陛下のご公務──皇室典範有識者会議報告書を読み直す その2https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2009-04-07

もう一方の男系派はどうでしょう。皇祖神の存在を前提とし、皇室の古い伝承に基づいた論理からすれば、一見すると皇室の天皇観とぴったり合致しているように見えます。しかし違うのです。古来、民衆の側にさまざまな帰納法的天皇観があり、その多様性を容認しつつ、全体的に国と民をひとつに統合する天皇の機能が見落とされているからです。天皇統治は一神教ではなく、多神教原理に支えられてきたことが忘れられているのです。


▽2 土着的民衆の側の多様な天皇観との共存

皇室の伝統的天皇観とはいかなるものなのか、あらためて考えてみます。

古来、皇祖神の神勅に基づく演繹法的な天皇観が記録され、伝えられてきたことは誰でも知っています。同時にその一方で、土着的民衆の側の多様なる、帰納法的天皇観の存在が認められます。

この両者のダイナミックな併存こそ、皇室の、そして日本人のごく普通の精神的伝統なのだと思いますが、いまは見失われかけています。神棚に神宮大麻と氏神様の神札を納めて祈る信仰形式どころか、神棚自体を失っているのが現代の日本人です。代わりに近代主義を神と祀り、男系派も女系派も、キリスト教神学並みの演繹法的論理に走り、その結果、日本人の精神的伝統から逸脱していくのです。

たとえば私の郷里では古来、養蚕と機織が暮らしの中心でしたが、その技術は崇峻天皇の妃から直接、教えられたと伝えられ、妃を大神として祀る神社が地域に点在しています。滋賀県湖東地域の山中には木地師たちの根源地があり、横挽きの轆轤を発明したと伝えられる惟喬親王を租神として祀る壮麗な神社が集落ごとに建てられています。

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皇祖天照大神の存在を原点とし、神勅を根拠とする天皇論あるいは国体論は江戸期の国学者たちが始めたもので、明治維新の精神ともなりましたが、その一方で皇祖神を出発点としない多様な天皇意識、信仰が各地の地縁共同体や職能集団に伝えられています。しかし、いまは忘れられています。

面白いことに、新たな神も生まれています。「関東最古の大社」といわれる埼玉・久喜市の鷲宮神社は「アニメの聖地」とされ、アニメファンが多数、参拝するようになりました。お宮の祭神論、由緒からは「アニメ」はあり得ず、キリスト教的な発想なら「異端」のはずですが、日本人はそうは考えません。逆に積極的に受け入れられています。

東京・乃木坂の乃木神社も同様です。明治天皇に殉じた乃木希典将軍夫妻の御霊(みたま)が祀られるお宮ですが、いまやアイドルを目指すギャルたちの聖地です。拝殿横には「乃木坂46のオーディションに受かりますように」と書かれた祈願の絵馬を何枚も見ることができます。祭神とアイドルグループには直接のつながりはありませんが、素朴な祈りを拒むものはありません。

祀られた神の側の論理とは別に、祈る側の心理が、より高いレベルで統合され、総合的により大きな日本人の精神世界が形成されています。天皇という存在もまた同様ではなかったでしょうか。国と民の統合者という意味で、スメラギ、スメラミコトと呼ばれてきたのはそのためでしょう。


▽3 女帝容認派が8割を占める理由

皇室には皇室の物語があり、それらは記紀をはじめとする古典に記録されていますが、民の側には民の側の多様な天皇意識や信仰があり、それらを一段と高いレベルで、多神教的に、価値多元主義的に、多様なるままに統合する機能が天皇にはあります。

それが皇祖神のみならず天神地祇を祀り、米のみならず粟をも捧げて祈る天皇の祭祀なのだと思います。「およそ天皇、即位したまはむときはすべて天神地祇祭れ」(神祇令)とされてきたこと、「稲の祭り」ではないということが重要なのだと思いますが、なかなか理解されません。

 【関連記事】天皇はなぜ「米と粟」を捧げるのか? ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」4https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-07-21

男系継承固守派は大雑把にいうと国学や神道学の流れを汲んでいますが、神道学者は天皇の祭祀の詳細に通じているとは限らないし、庶民の信仰を明らかにしてきたのは神道学ではなくて、民俗学です。男系派は天皇の祭祀を「稲の祭り」と信じ込み、「米と粟」に注目する知識人もその意味を追究し切れずにいます。一神教的理解に留まっているのです。

まして女帝容認派には古来の歴史、祖先の存在、地域の文化への眼差しが最初から欠けています。宮中祭祀廃止論を唱えた原武史教授が、故郷意識を喪失した親の代からの転勤族だったのは典型的です。彼らだけではありません。いまやほとんどの日本人が遊牧民化しています。「祖先」「伝統」「故郷」はもはや死語です。天皇を身近に感ずる、暮らしに密着した、土着の天皇意識が失われているのです。

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世論調査で女帝容認が8割を占めるに至ったのはその結果でしょう。祖先を失い、故郷を失い、信仰を失い、歴史を失い、バラバラの個人に分裂し、世界を彷徨う現代人にとっての天皇とは、憲法に書かれた天皇であり、メディアに映る行動する天皇でしかありません。男系継承の歴史的意味などを理解できる前提を失っているのです。日本人は変わってしまったということでしょうか。

皇室にとっては天皇は126代の存在ですが、現代日本人には2.5代の天皇にしか見えません。そのなかで皇位を継承していく天皇の苦悩はいかばかりかと拝察されます。せめて男系派の奮闘を祈ります。


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キリスト教的な「立儲令」はどのようにして生まれたのか? ──『帝室制度史』を読む 後編 [御代替わり]

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キリスト教的な「立儲令」はどのようにして生まれたのか?
──『帝室制度史』を読む 後編
《斎藤吉久のブログ 令和2年4月1日》
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▽1 戦前を無批判に肯定するのか、そうでないのか

今回の御代替わりを方向付けた皇室典範特例法が成立したのは3年前の平成29年6月9日でした。その翌日が戦後唯一の神道思想家・葦津珍彦先生の没後25年の命日で、ごく親しい門人10人ほどが墓前に集まり、故人を偲びました。お詣りのあとの直会の席で、日本会議の中心的人物が披露した思い出話が、耳にこびり付いて離れません。

日本会議の中枢には生長の家出身の活動家が少なくないようです。その人もその1人で、ン十年前の学生のころ、鎌倉の先生宅を数人で訪ねました。そのとき先生は、戦前を無批判に肯定するのか、そうでないのか、はっきりしなさいと迫ったらしいのです。

葦津先生といえば、戦後の神社本庁創立や剣璽御動座復古、靖国神社国家護持運動などを主導した民族派の重鎮ですから、戦前を手放しで肯定し、戦前に回帰することを主張していると思い込む人もいます。かく言う私もそうでした。しかし、じつは違います。青年期に東條内閣の統制政策と真っ向から対決し、朝鮮独立運動家の呂運亨を支援していたとあれば、単純な戦前礼賛とはひと味もふた味も違って当然です。

 【関連記事】朝鮮を愛した神道思想家の知られざる軌跡──大三輪長兵衛、葦津耕次郎、珍彦の歩みhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1999-04-01
 【関連記事】近代の肖像 危機を拓く 第444回 葦津珍彦(2)──敗戦の危機が生んだ「神道の社会的防衛者」https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-03-02?1585709410

葦津先生との会談のあと、生長の家の学生グループは戦前礼賛派と非礼賛派とに分裂したと日本会議のメンバーは先生のありし日を懐かしみ、苦笑いしていました。

日本の近代化は「諸事、神武創業之始ニ原(もとづ)キ」(王政復古の大号令)をスローガンに始まりましたが、復古より、むしろ欧化主義が社会を席巻しました。伝統主義と近代主義が複雑に絡まりながら進んできたのが日本近代史の真相でしょう。その結末が敗戦だとしても、単純に白だ黒だと決め付けることはできません。

近代の皇室制度改革もその例に漏れることはないでしょう。前回も取り上げた明治42年の立儲令は、古来、紫宸殿前庭で行われていた立皇太子儀の伝統を踏襲するものではなく、逆に古式を打破し、宮中三殿の神事に一変させたのです。神道儀礼=伝統ではありません。


▽2 神事からの解放は意外や伝統回帰?
『帝室制度史第四巻』表紙@NDL

前置きはそのぐらいにして、前回に引き続き、『帝室制度史 第4巻』第二章第四節第一款「皇嗣の冊立」を読み進めます。〈https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1241593

 【関連記事】衝撃の事実!!「立皇太子儀」は近世まで紫宸殿前庭で行われていた ──『帝室制度史』を読む 前編https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-31

前回は、古来、皇嗣の冊立において天皇が詔し、天下に宣示されたのが、立儲令では賢所での勅語に変わり、いまは皇嗣の「宣明」に変更されていることなどを指摘しました。『帝室制度史』は具体的な儀礼の中身を説明します。
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「皇太子冊立の儀礼については、貞観儀式には、『立皇太子儀』としてその次第を記せり。その儀は紫宸殿の前庭においてこれをおこなひ、親王以下百官参列し、宣命大夫をして宣命を宣せしめたまふ。
立太子の宣命は『天皇詔旨勅命を(スメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲ)、親王(キミタチ)、諸臣(オミタチ)、百官人等(モモツツカサノヒトタチ)、天下公民衆聞食止宣(アメノシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノル)、随法爾可有伎政止志氐(ノリノママニアルベキマツリゴトトシテ)、其親王立而皇太子止定賜布(ソレノミコヲタテテヒツギノミコトサダメタマフ)、故此之状悟天(カレカクノサマサトリテ)、百官人等仕奉礼止詔天皇勅命乎(モモノツカサノヒトタチツカヘマツレトノリタマフスメラガオホミコトヲ)、衆聞食止宣(モロモロキコシメサヘトノル)』とあり、この宣命の儀は永く踏襲せられて、近世に至るまで皇嗣冊立の儀典の中枢をなせり。
立太子の当日、または後日ならずして、東宮奉仕の職員を補任し、また拝観、節会のことあり、日を隔てて立太子の由を山陵に告げたまふ」

貞観儀式の定めに従い、近世まで続いた慣習は、紫宸殿前庭で宣命大夫に宣命を代読させるというものでしたが、立儲令では場所は賢所に変わり、内陣で天皇が御告文を奏され、そのあと外陣で勅語を述べられ、皇太子に御剣が授けられました。

今回の「宣明の儀」では、宮殿で天皇の「おことば」に続いて皇嗣の「おことば」、さらに総理大臣の寿詞が続くことになっています。神事からの解放は意外にも伝統回帰ともいえます。また、山陵への奉幣は日を隔てず、同じ日に行われます。

「中世以後、皇太子には壺切の御剣を授けたまふ。壺切の御剣は、はじめ藤原基経の家に伝へ、基経これを宇多天皇に献じ、天皇これを当時皇太子に在しし、醍醐天皇に授けたまひ、醍醐天皇は延喜4年2月、皇子明親親王を立てて皇太子となしたまふにあたり、これを授けたまひしに始まり、爾来歴代皇太子の冊立にあたり、護身の御剣として、これを授けたまふの例をなし、もって今日に及べり」

御剣の授与は立儲令では大前の儀と一体で、勅語のあと授けられましたが、今回は宣明の儀とは切り離され、引き続いて独立の儀式として、皇室行事として行われます。


▽3 古例が近代化で一変

このあと『帝室制度史』は、南北朝以降、儀式が300年間断絶したこと、天皇在位中の皇太子冊立という常例がときに破られた歴史などを解説したあと、最後に明治の改革についてまとめています。

「皇室典範の制定せららるに及び、新たに皇位継承の順位を一定したまふとともに、『儲嗣たる皇子を皇太子とす。皇太子あらざるときは儲嗣たる皇孫を皇太孫とす』と規定し、また皇太子、皇太孫を立つるときは、当日詔書をもってこれを公布したまふことを定め、立太子、立太孫の礼については、中古以来の皇太子冊立の儀を参酌し、立儲令により詳細にこれを定めたまへり。これにより皇嗣に関する上代以来の制度は、くさぐさの点において重要なる変革ありたり」

『帝室制度史』の編纂は錚々たる知識人が関与していたようですが、彼らは明治の皇室典範制定によって古来の制度が近代化し、一変したことをはっきりと認識しています。具体的には……。

「その諸点をあぐれば、旧制においては、皇嗣は冊立によりはじめて定まりしに対し、新制においては、皇嗣は冊立によらず、法定の順位に従い当然に定まること、その1なり」

変革の第一は近代法が継承の基準となったことです。

「旧制においては、皇太子の称は皇嗣の冊立によりはじめて授けられしに対し、新制においては、儲子たる皇子は生まれながら皇太子と称したまふこと、その2なり」

今回は生まれながらということではありませんが、秋篠宮は立皇嗣の礼を前にしてすでに「皇嗣」と呼ばれています。

「旧制においては、皇太子の称は必ずしも皇子に限らざりしに対し、新制においては、皇太子の称はもっぱら儲嗣たる皇子にかぎり、皇孫(皇曾孫、皇玄孫などまた同じ)の儲嗣たる場合は、とくに皇太孫と称し、皇兄弟その他の皇族の儲嗣たる場合は、特別の名称を用ひざること、その3なり」


▽4 近代化とは何だったのかを解くカギ

「旧制においては、立太子の儀は、これによりはじめて皇嗣たる身位を定むるものなりしに対し、新制においては、立太子または立太孫の礼は、すでに皇太子または皇太孫たる皇子または皇孫の皇嗣たる地位に在すことを天下に宣示し祖宗に奉告したまふ儀礼にして、傍系の皇族の皇嗣たる地位に座す場合は、この儀礼を行はせられざること、その4なり」

古来は親王以下百官を前に、天皇が詔して皇太子を冊立することだったのに対して、近代においては法的にすでに皇太子の地位にあることを内外に示し、かつ皇祖に奉告する儀礼に変わったというのが『帝室制度史』の理解ですが、2つの機能をさして広くもない「賢所大前の儀」に押し込めることになったのはなぜでしょうか。

もしかして、欧米列強に対抗する目的で、ウエストミンスター寺院での戴冠式などヨーロッパの王室儀礼に倣った欧化主義ということでしょうか。伝統的というより、むしろキリスト教的な立儲令の諸儀礼はどのようにして生まれたのか。それこそ近代化とは何だったのかを解く鍵がそこから見えてくるはずですが、手がかりとなる資料は残念ながらいま手元にはありません。

それなら戦後のスタイルは何に由来するのか。日本古来の伝統を引き継ぐのなら、大前での親告の儀と宮殿での宣明の儀とを分ける戦後の二分方式の方が伝統にかなっているようにも見えます。しかし、両者を政教分離原則によって「皇室行事」と「国の行事」に色分けし、さらに宣明の儀と御剣親授を分離させるのは古来の伝統ではなく、明治の欧化主義に似た、一神教世界由来の政教分離主義でした。

皇室の儀礼は近代以後、一貫して、一神教世界からの暴風に曝され、弄ばれ続けているように私には見えます。


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