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川瀬さん、今城女官はなぜ「魔女」呼ばわりされなければならなかったのですか? [宮中祭祀]


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川瀬さん、今城女官はなぜ「魔女」呼ばわりされなければならなかったのですか?
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産経新聞が毎週末、川瀬弘至『昭和天皇実録』取材班キャップによる、意欲的な超長期連載「特集・昭和天皇の87年」を掲載しています。7月5日は第240回「宮中のあつれき─皇居に魔女が現れた?! 女官追放と皇后の涙」でした。〈https://special.sankei.com/a/society/article/20200705/0001.html

川瀬さんによると、昭和天皇は晩年に腰を痛められた香淳皇后を誰よりも労わられ、生涯、夫婦愛に変わりはなかったが、一方、側近の入江相政侍従長らは皇后への配慮に欠け、軋轢を生んだ。その典型が「魔女騒動」だと書いていますが、重要なポイントを読み違えているように私には思われてなりません。

川瀬さんが参考資料に挙げている河原敏明さんの「昭和天皇を苦悩させた宮中『魔女追放事件』の真実」(『現代』平成11年1月号所収)と同様、昭和40年代以降、宮中を大きく揺るがしていた祭祀簡略化問題への追究が十分ではないと思われるからです。入江の皇后への「気遣い」不足程度のこととは私には到底、思えません。

河原さんは祭祀簡略化問題への視点が欠けていました。川瀬さんは祭祀簡略化には言及しながら、関連性の探究が不十分です。

 【関連記事】入江侍従長の祭祀簡略化工作と戦い敗れた女官──河原敏明「宮中『魔女追放事件』の真実」を読むhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2016-07-03


▽1 『入江日記』に引きずられている

川瀬さんは『入江日記』を引用し、昭和40年代前半に「魔女」(今城誼子女官)が登場し、入江らと対立したことを取り上げています。

最初は男子禁制の剣璽の間に侍従が無断で入ったことで、宮中のしきたりに厳しい今城さんが猛抗議します。

川瀬さんが書いているように、44年に入江が侍従長に昇格すると、今城さんとの対立は決定的になりました。入江が進める宮中祭祀の簡略化に対して、厳格派の今城さんが黙っているはずはないからです。

川瀬さんは、今城さんが規律や慣例を重視したことが、ほかの女官や侍従らの反感を買ったのではないか。今城が香淳皇后に重用されたため、嫉妬も渦巻いたことだろう。入江と宇佐美毅長官は今城追放を画策し、昭和天皇も賛同した、と書いていますが、そうなのでしょうか。

入江が今城さんを魔女呼ばわりしたのは事実ですが、ほかの女官から反感を買ったとは聞きません。むしろ信望が厚かったと私は宮内庁OBから聞いています。逆に、入江の方が評判が悪いのです。川瀬さんは入江の日記に引きずられていませんか。

入江と今城さんは堂上家の出身で、出自も似ています。祭祀嫌いの入江にとって、今城さんは目障り以外の何ものでもなかったのでしょう。だから「魔女」呼ばわりしたのです。

川瀬さんのいう、昭和天皇の「賛同」も怪しげです。争わずに受け入れるのが天皇の至難の帝王学だからです。入江日記には入江が画策する祭祀簡略化に天皇が賛同したかのような記述が見受けられますが、逆に抵抗の跡もはっきりと読み取れます。入江は死後、多くの人が読むことを意識して、白を黒と書いていると私は確信しています。


▽2 祭祀簡略化工作の一環

結局、川瀬さんの考察からは、今城さんがなぜ「魔女」呼ばわりされなければならなかったのか不明です。私が拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』(並木書房)で取り上げた、入江や富田朝彦長官による祭祀簡略化・改変の本質も見えてきません。したがって、宮中を揺るがした「軋轢」の核心も見えません。

川瀬さんは、拙著はもちろん、今城さん追放事件について書いた拙文も、取り上げていません。

川瀬さんは最後に、「天皇は古来、「国平らかに民安かれ」と祈る祭祀王であり、宮中祭祀は皇室の存在理由そのものといえる。入江らには理解できなかったようだが」と書いていますが、なぜ入江には理解できなかったとお考えなのでしょうか。

万年ヒラの侍従だった入江の祭祀嫌いと加齢による暴走こそ、「魔女」追放=祭祀簡略化工作の本質だと私は考えていますが、いかがでしょうか。今城女官追放は祭祀簡略化の一環だったのです。


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「行幸啓すべて見送り」で問われる天皇統治の本質。ご公務主義でいいのか [天皇・皇室]

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「行幸啓すべて見送り」で問われる天皇統治の本質。ご公務主義でいいのか
(令和2年7月5日)
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新型コロナの影響で、全国植樹祭など「四大行幸啓」がすべて今年は見送られることとなりました。戦後初の事態です。〈https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200704/k10012496881000.html

天皇・皇后による恒例の地方ご訪問ほか皇室のご活動は、国民との深い信頼関係を築いてきた象徴天皇制の第一の基礎である、と考えるなら、戦後天皇制のあり方を左右するきわめて大きな問題といえます。

とくに、ここ数年の皇室制度改革のテーマは、陛下(先帝)はご多忙だから御負担軽減が求められるという認識が大前提でした。来年以降、どんな対策が採られるのかわかりませんが、たとえばオンラインでのご臨席に代わるなど、ご活動のお出ましが減るのなら、近年の議論は振り出しに戻らざるを得ないはずです。「女性宮家」創設も不要となります。

 【関連記事】社会的に活動なさるのが天皇ではない──『検証「女性宮家」論議』の「まえがきにかえて」 4https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2017-04-27

そうなると、これはチャンスです。20数年続いている女系継承容認=「女性宮家」創設論の混乱から、一歩ひいて、頭を冷やして、126代続く天皇とはもともと何だったのか、天皇統治の本質を再確認する好機となり得ます。


▽1 皇室の近代化とは何だったのか

天皇の行動主義は明治に始まりました。けっして戦後の象徴天皇制の専売特許ではありません。行幸啓がすべて見送られるという今回の現実が問いかけているのは、戦後の象徴天皇のあり方ではなく、近代の行動主義的天皇のあり方なのでしょう。皇室の近代化とは何だったのかです。

それまで薄化粧をされ、御簾に隠れて端坐されていた天皇は近代君主、立憲君主となり、ときに軍服を召されるまでになりました。明治天皇は何度も地方を巡幸され、「聖蹟」は史跡と位置づけられました。戦後復興の出発点となった昭和天皇の地方巡幸をはじめとして、平成、令和と続く戦後の行幸、行幸啓は近代の産物です。

 【関連記事】皇祖と民とともに生きる天皇の精神──宮廷行事「さば」と戦後復興https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1998-06-08-2

たとえば、北海道に巡幸された明治天皇は、石狩地方で苦労の末、はじめて稲作を成功させた中山久蔵の自宅(駅逓)をご休憩所とされました。それまで稲作が禁止されていた北の大地はそれ以降、農業政策の大転換が図られ、いまや北海道は新潟と並ぶ米どころです。行幸は政策転換の狼煙でした。

 【関連記事】北海道・寒地稲作に挑んだ人々──なぜ米を選んだのか?https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1996-07-15-2

戦後、昭和天皇はしばしば火山噴火や水害などの被災地を訪問されました。お見舞いと励ましは今上にも引き継がれていますが、それらは行政にとってはいわば安全宣言の機能を果たすものでした。天皇の行動主義は行政の機能を補完、補強し、ときには後始末の役割を担っています。

天皇は行政にとってきわめて便利な存在で、だから鳩山内閣の「ゴリ押し会見」も強行されました。いまや天皇は事実上、内閣の下位に位置する名目上の国家機関に成り下がっています。そういうご公務主義天皇でいいのか、ということです。

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▽2 米と粟を捧げる祭祀

葦津珍彦は、日本人の国体意識は多面的、多元的で、それらが天皇制を支えていると分析しています。桃の節句に内裏雛を飾る文化、私の田舎のようにお妃さまが養蚕と機織を教えてくれたと信じてきた地域の信仰は、国事行為やご公務をなさる特別公務員としての天皇とは異質です。しかしそれらが歴史的な天皇制を総合的に支えてきたのです。

 【関連記事】葦津珍彦の天皇論に学ぶ?──竹田恒泰の共著『皇統保守』を読むhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2016-04-10

天皇は神勅に基づき国家を統治する、あるいは憲法に則って国事行為をなさるという演繹的な天皇ではなくて、多様なる民の多様なる天皇意識に根づいた天皇のあり方というものがあるのでしょう。たぶんそれが、戦後、等閑視されている、126代続いてきた祭り主天皇というものではないのでしょうか。

天神地祇をまつり、米と粟を捧げて祈る天皇と多様なる民の多様なる天皇意識とはたぶん同時並行の関係にあるはずです。平成、令和と、非宗教的な政教分離政策のもと、御代替わりの宗教的儀礼を「国の行事」として行うことを避けただけでなく、皇室の伝統に不当に介入した、後世に恥じる政策は改められるべきではありませんか。


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