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昭和50年8月15日、天皇は祭祀大権を奪われ、そして歴史的混乱が始まった。──APA「真の近現代史観」落選論文 [天皇・皇室]

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昭和50年8月15日、天皇は祭祀大権を奪われ、そして歴史的混乱が始まった。
──令和2年APA「真の近現代史観」落選論文
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1 その日、毎朝御代拝の祭式が変更された

 昭和50年8月15日、宮内庁長官室で会議が開かれた。「議事録はない」(宮内庁)から、誰が何を話し合ったのか、詳細は不明だが、関係者の日記やOB職員の証言で概要を知ることはできる。すなわち、宮内官僚による、天皇の聖域である宮中祭祀の祭式の、にわかな変更の決定であり、その意味するところは天皇のあり方に関わる歴史的変革であった。

 入江相政侍従長(肩書きは当時。以下同じ)は日記に、「長官室の会議。神宮御代拝は掌典、毎朝御代拝は侍従、但し庭上よりモーニングで」とメモ書き風に書き込んだ(『入江相政日記 第5巻』朝日新聞社、1994年)。

 卜部亮吾侍従の日記には、その翌日、「伊勢は掌典の御代拝、畝傍(神武山陵)は侍従、問題の毎朝御代拝はモーニングで庭上からの参拝に9月1日から改正の由」とある(『卜部亮吾侍従日記 第1巻』朝日新聞社、2007年)。最大のテーマは毎朝御代拝の祭式改変だったことが分かる。

 実際の変更は9月1日からだった。『昭和天皇実録 第十六』(宮内庁監修、2018年)は「御代拝方法の変更」の見出しで、次のように説明している。

「この日より、毎朝および旬祭の御代拝方法が改められる。
 従来、毎朝および旬祭の御代拝は、侍従が浄衣を着用の上、殿上拝礼により奉仕していたが、今後は、御代拝侍従の服装はモーニングとし、御代拝は庭上拝礼による奉仕に改め、各御殿の正面木階下正中において拝礼することとする。
 ただし、雨天の場合は神楽舎において各御殿を拝礼する。
 また服装の変更に伴い、御代拝侍従の乗用車両にも変更があり、これまで吹上御所から賢所までの往復には馬車を使用していたところ、この日以降は自動車を使用することとする」

 殿上から庭上、装束から洋装、馬車から自動車へという劇的変更は、側近の記録から、長官室会議の決定によることが明らかだが、『実録』はその経緯について言及せず、理由についても説明がない。宮内庁は真相を秘している。

 それなら何が起きたのか。宮内庁OBは当時の生々しい状況を記憶している。

 天皇の祭祀などの法的根拠となっていた「皇室令及び附屬法令廢止に伴い、事務取扱に關する通牒」(昭和22年5月。以下、依命通牒)が、職員必携の『宮内庁関係法規集』から突如、「破棄」され、そして祭式が一変したというのである。宮中祭祀に携わる職員たちの間に大きな衝撃が走ったのはいうまでもない(「『昭和天皇の忠臣』が語る『昭和の終わり』の不備」=「文藝春秋」2012年2月号。聞き手は斎藤吉久)。

 単に祭祀の形式が変更されたのではない。天皇の祭祀大権と法的解釈・運用の大問題だった。


2 国と民を統合する天皇の祭祀

 天皇の祭祀には少なくとも千数百年以上の長い歴史と重みがある。

 京都御所の拝観コースを進んでいくと、紫宸殿の裏手に、東面する寝殿造の清涼殿が見えてくる。紫宸殿と並ぶ儀式用御殿であり、日常の御殿としても使用された(宮内庁HP)。

 正面向かって左、目と鼻の先に、白く浮かび上がった石灰壇が見える。きわめて特殊な構造で、地面から漆喰を塗り固め、板床の高さまで盛り上げてある。庭上下御といって、天皇は国と民のために地面にまで降りられ、へりくだって祈られるという意味がある。

 平安時代、宇多天皇に始まり、以降、一日も欠かさず、祈りは捧げられた。石灰壇御拝と呼ばれる(八束清貫「皇室祭祀百年史」=『明治維新神道百年史 第1巻』神道文化会、1984年所収)。

 天皇の祈りは国と民を統合する公正かつ無私なる祈りである。

 古代律令には「およそ天皇、即位したまはむときはすべて天神地祇祭れ」(神祇令。『律令』日本思想大系新装版、岩波書店、1994年)とある。古代の日本は氏族社会であり、各氏族にはそれぞれの氏神があった。民には氏神のほかに祈りの対象はない。しかし天皇は違う。

 皇室第一の重儀とされる新嘗祭は皇祖神のみならず、民が信仰するあらゆる神を祀り、祈りが捧げられる。天皇一世一度の大嘗祭もむろんである。天神地祇すべてを祀り、祈るのは天皇だけである。

 天皇の祈りは国と民のために捧げられる。天皇はスメラミコトであり、天神地祇を祀り、「国中平かに安らけく」(「後鳥羽院宸記」建暦2年10月25日条に引用された大嘗祭の申し詞。『皇室文学大系 第4輯』列聖全集編纂会編、1979年)と祈られ、国と民をひとつに統合する。公正無私なる祭り主ゆえに天皇無敵とされた。

 祭祀は天皇第一のお務めだった。

 順徳天皇の『禁秘抄』は冒頭に「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす。旦暮(あさゆう)、敬神の叡慮、懈怠なし」とある(読みは関根正直『禁秘抄釈義 上巻』明治34年による)。

 後水尾天皇は皇子への手紙に、『禁秘抄』を引用して、「敬神を第一に遊ばすこと、ゆめゆめ疎かにしてはならない。『禁秘抄』の冒頭にも、およそ禁中の作法は、まず神事、後に他事……」と書かれ、心得を示された(辻善之助『日本仏教史 近世篇之2』岩波書店、1953年など)。

 歴代天皇は国民統合の祭祀を最重要のお務めとして継承された。


3 依命通牒第3項が守った伝統

 明治になり、都は東京に遷り、明治4年10月、毎朝御拝は、天皇に代わり側近の侍従に賢所で拝礼させる毎朝御代拝となった。石灰壇は御所には設けられなかった。

 この年、行われた大嘗祭について、『明治天皇紀 第2』(宮内庁編、1969年)は、「いまや皇業、古に復し、百事維れ新たなり。大嘗の大礼を行うに、あに旧慣のみを墨守し有名無実の風習を襲用せんや」と批判し、「偏に実際に就くを旨」として整備されたと、数頁にわたって詳説している。

 明治人の現実主義、合理主義が天皇の祭祀を近代化させたということか。しかしそれから百年後、昭和50年の未曾有の変革はこれとは一線を画する。明治の天皇は近代君主、そして立憲君主となられたが、歴史的な祭り主であり続けた。しかし昭和天皇の側近は国民統合の祭り主を否定したのである。

 戦後の昭和22年5月、日本国憲法の施行に伴い、皇室令は全廃された。皇室祭祀令の廃止で、天皇の祭祀は明文法的根拠を失った。宮中祭祀に携わる掌典職は内廷の機関となり、職員は天皇の私的使用人の立場になった。祭祀存続の危機である。

 しかし同日に発出された依命通牒によって、伝統は辛うじて守られた。依命通牒第3項には「從前の規定が廢止となり、新らしい規定ができていないものは、從前の例に準じて、事務を處理すること」(情報公開によって入手した起案書)とある。

 前出の宮内庁OBは、「当時は占領期です。昭和20年暮れにGHQが発令した、いわゆる神道指令は『宗教を国家から分離すること』を目的とし、駅の門松や神棚までも撤去させるほど過酷でしたから、皇室伝統の祭祀を守るため、当面、『宮中祭祀は皇室の私事』という解釈でしのぎ、いずれきちんとした法整備を図る、というのが政府の方針でした」と説明している(前掲インタビュー)。

 天皇の祭祀はこうして占領中も存続した。それどころか、占領後期になると、神道指令の「宗教と国家の分離」は「宗教教団と国家の分離」に解釈が変更され、昭和26年6月の貞明皇后の御大葬は旧皇室喪儀令に準じて行われ、国費が支出され、国家機関が参与した。

 しかしその後も、宮中祭祀が「皇室の私事」という法解釈から脱却することはなく、あまつさえ占領前期への揺り戻しが起きた(拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』2009年など)。


4 依命通牒「破棄」の真相

 複数の宮内庁OBによれば、昭和50年8月15日の宮内庁長官室会議のあと、庁内に指示がまわった。バインダー式だった『宮内庁関係法規集』から昭和22年の依命通牒を外せというのである。依命通牒第3項は宮中祭祀存続の命綱だったから、掌典職にとっては寝耳に水の衝撃で、職員たちは依命通牒の「破棄」ときわめて深刻に捉えた。そして実際、毎朝御代拝の祭式は一変した。

 しかしじつのところ、依命通牒は「破棄」されてはいない。しかも毎朝御代拝は、旬祭も同様だが、明治41年公布の皇室祭祀令附式には規定がない。つまり依命通牒とは直接の関係はない。どういうことなのか。

 平成3年4月25日の参院内閣委員会で、答弁に立った宮尾盤次長は「(依命通牒は)現在まで廃止の手続はとっておりません」と明言している。答弁の要点は、(1)依命通牒は新憲法施行当時の宮内府内部の文書であること、(2)廃止の手続きは取られていないので、文書はいまも生きていること、の2点である。しかしこれはおかしい。

 第一に、依命通牒は行政官庁の命令に基づき、補助機関が発する通達であり、昭和22年5月の宮内府長官官房文書課発45号、高尾亮一課長名による依命通牒は、各部局長官に対して通達されたのであって、宮内府内部の事務処理の考えを宮内府内部に向けて発したのではない。

 第二に、依命通牒がもし生きているのなら、昭和50年9月1日以降、天皇の祭祀はいかなる法的根拠に基づいて変更されたのか。宮内庁関係者しか手にしないような「法規集」に、なぜ記載されないことになったのか。

 謎を解くカギは、同じ委員会での秋山收内閣法制局第二部長の答弁だ。

「皇室の行います儀式とか行事につきましては、憲法あるいはその他の規定に違反しない限りは、法令上の根拠がなくても皇室がその伝統などを考慮してこれを行っても現行憲法上何ら差し支えないものでございまして、お尋ねの通牒は3項、4項をあわせ読めば、現行憲法及び法令に違反しない範囲内において従前の例によるべしという趣旨でありますので、憲法上特段問題はない」

 依命通牒第4項には「前項の場合において、從前の例によれないものは、當分の内の案を立てゝ、伺いをした上、事務を處理すること」とある。第3項と第4項をあわせ読んで、政教分離に違反する部分については改める、という判断を、昭和50年当時の当局者は採ったことになる。

 だから、宮尾答弁のように、依命通牒は「廃止」の手続きはとらない。したがって効力はいまも続いているということになる。

 しかしそれは、「新しい規定ができていないもの」について、「従前の例に準じて事務を処理」しないことであって、「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」(第3項)と定める依命通牒を、みずから反故にしたのであり、事実上、「廃止」したのと同じことではないのか。

 要するに、宮内庁高官は昭和50年に、密室で、依命通牒の解釈・運用を変更したのである。理由は憲法の政教分離主義にあることは無論である。占領後期になってGHQが打ち捨てた絶対分離主義への先祖返りであり、天皇の聖域への側近の政治介入は政教分離に違反する大きな矛盾でもあった。

 結局、古来の祭り主天皇は否定され、宗教の価値を認めているはずの日本国憲法の規定に基づいて、非宗教的な象徴天皇へと変質させられたのである。皇室祭祀令に記載のない毎朝御代拝および旬祭の御代拝の変更は、そのための一里塚ではなかったか。明文法ならいざ知らず、慣習法に基づく祭式の変更は容易だっただろう。


5 歴史から逸脱する象徴天皇

 前掲の宮内庁OBによれば、昭和40年代の庁内には、「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」(憲法第20条第3項)と定める政教分離規定を、字義通り解釈・運用する考え方が、まるで新興宗教と見まごうほどに蔓延し、側近たちは祭祀から遠のき始めていたという(前掲インタビュー)。

 たとえば、以前なら、行幸の日程は祭祀と重ならないよう配慮されたが、古来の祭祀優先主義は無遠慮に破られ、逆にいわゆる御公務が優先されるようになった。

 そして昭和天皇の晩年、祭祀の簡略化が起きた。平成の御代替わりには、大嘗祭が行われるかどうかが大問題になった。政教分離の絶対主義が御代替わりに大きな影を落とし、諸儀礼は国の行事と皇室行事とに無残に引き裂かれた。

 祭祀簡略化は平成の時代にも繰り返された。御公務御負担軽減策で御公務は減るどころか逆に増え、祭祀のお出ましばかりが激減した。そして令和の御代替わりは平成と同様に非宗教化された。前代未聞の「退位の礼」が創作され、譲位と践祚は分離され、代始改元は退位記念改元に変質し、大嘗宮は角材、板葺で設営された(前掲拙著など)。

 それだけではない。

 平成8年、政府・宮内庁は皇位継承制度の検討を非公式に開始し、やがて女性天皇容認ならいざ知らず、過去に例のない女系継承をも容認するに至った。皇室典範有識者会議の報告書は「女性天皇・女系天皇への途を開くことが不可欠」と明記する(官邸HP)。

 そしていま、女系継承容認は後戻りできない段階に来ている。世論調査では、国民の8割以上が女帝を容認している(森暢平「女性天皇容認! 内閣法制局が極秘に進める。これが『皇室典範』改正草案」=「文藝春秋」平成14年3月号、「女性・女系天皇、『容認』2年前に方針、政府極秘文書で判明」=「産経新聞」平成18年2月17日など)。

 日本国憲法に基づき、国事行為のみを行う非宗教的な象徴天皇が天皇の本質であるならば、男系継承にこだわる必要はない。首相を任命し、法律を公布し、国会を召集するのに男女の別はあり得ない。しかし天神地祇を祀り、祈る、公正かつ無私なる祭り主こそが天皇であり、そこに永遠の価値を見出すなら、結論は変わり得る。男系主義の根拠はほかにあり得ない。天皇観の相克である。

 かつてアインシュタインは警告している。自然との共生が日本人の国民性を形成し、天皇制をも生んだと見抜いた天才は、他方で、伝統と西洋化の狭間で揺れる日本の近代化の苦悩を察知していた。

 来日中に綴った「印象記」には、「西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでいる」日本に理解を示しつつ、「生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらを純粋に保って、忘れずにいて欲しい」とある(『アインシュタイン、日本で相対論を語る』杉本賢治編訳、2001年など)。

 美しく、ときに荒ぶる自然と共生してきた日本人は、その自然観に基づく、多神教的、多宗教的文明を創りあげ、天皇制という国民統合のシステムをも編み出した。多様なる民を多様なるままに統合するのが天皇であり、そのための祭祀であった。

 しかしいま、憲法第一主義によって祭祀の歴史的価値は否定され、非宗教的象徴天皇制への変質が進んでいる。目の前で進行する過去の歴史にない女系継承容認=「女性宮家」創設論議はその結果ではないか。アインシュタインの警告はいまや現実となった。


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