SSブログ

来月8日に立皇嗣の礼。儀礼の主体は誰なのか? [御代替わり]


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
来月8日に立皇嗣の礼。儀礼の主体は誰なのか?
(令和2年10月25日)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


新型コロナ感染拡大の影響で延期されていた秋篠宮文仁親王殿下の立皇嗣の礼が、いよいよ来月11月8日に執り行われることが最終的に決しました。今月8日の閣議で日取りが決定され、宮内庁は先週21日、大礼委員会を開き、関連行事の詳細を決めました。〈https://www.kantei.go.jp/jp/singi/gishikitou_iinkai/dai11/gijisidai.html〉〈https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/shiryo/tairei/gijishidai-021021.html

すでに書いてきたように、今日の立皇嗣の礼は、古来の伝統的形式とも、明治の立儲令(明治42年)に規定されたものとも異なる、現行憲法に基づくところの、まったくの新例です。次の皇位継承者を決めているのはいったい誰なのでしょうか。


▽1 非宗教儀礼回帰の意味

伝統的な皇太子冊立の儀礼は、紫宸殿の前庭で、親王以下百官を前にして、天皇が宣命大夫に立太子の宣命を代読させるというものでした。貞観儀式には「立皇太子儀」として定められ、近世までこれが続きました。中世以後は壺切の御剣が皇太子冊立にあたって授けられることとなりましたが、むろん主体は天皇です。

これが明治の立儲令では、儀式が一変します。立太子の礼は賢所大前に儀場が変わり、天皇、皇太子が拝礼し、勅語ののち、御剣が授与されることとなりました。非宗教的な儀礼から、宗教的な儀礼へと変化したことになります。ただ、主体が天皇であることは変わりません。

ところが、戦後はふたたび非宗教儀礼へと回帰するのですが、それだけではありません。

今回は、場所は宮殿に変更され、国民の代表者を前にして、宣明の儀が「国の行事」として行われ、そのあと同じく宮殿で、御剣親授の儀式が「皇室行事」として行われたのち、三殿に閲するの儀が行われるという順序になっています。

立皇嗣の趣旨はかつては天皇が皇嗣を選定冊立することにありましたが、いまは「文仁親王が皇嗣になられたことを広く国民に明らかにし、内外の代表が寿ぐ儀式」と閣議決定されています。宣明の儀の主体は天皇なのか、皇嗣なのか、必ずしも明確ではありません。天皇による皇嗣冊立なのか、それとも国民の代表者による国会が冊立するのでしょうか。


▽2 皇室の伝統はどこへ

「賢所での儀式=天皇の私事」と「宮殿での儀式=国の行事」の分離方式は昭和27年の立太子式でも見られたことですが、宮殿への儀場変更は古来の伝統回帰というより憲法の政教分離原則への非宗教的配慮です。

ここには現代の皇位継承の儀礼と同様の論理構造があります。

古くは神籬を立てて、神前で行われていた即位儀礼は、大陸との交流に影響され、大極殿という唐風の宮殿で行われるようになり、国風の儀式は大嘗祭として伝えられることとなりました。

明治になると、唐風が廃され、即位礼と大嘗祭として整備されますが、戦後は宗教性を物差しにして「国の行事」と「皇室行事」とに分裂させられ、国風の大嘗祭は「国の儀式」から外されました。

皇位継承と同様、立皇嗣の礼のあり方を定める法的ルールは戦後70年以上たっても、作られてはいません。とすれば、昭和22年5月の依命通牒第3項に基づいて、「従前の例に準じて事務を処理する」、つまり立儲令の附式に準じて挙行していいはずですが、そうはなっていません。

昭和34年の皇太子御成婚では、もっとも重要な賢所大前の結婚の儀が「国の儀式」(「国の行事」ではない)と閣議決定されましたが、50年8月15日の宮内庁長官室会議で依命通牒の解釈運用は変わりました。今回、もっとも重要なはずの賢所への奉告はむろん、「国の行事」とはされません。

戦後30年の間に何度も政策変更があり、そしていまなお、皇位継承という国にとっての最重要事項について、法的あり方がいまもって固まっていないというのはきわめてきびしい現実です。皇室の伝統はどこへ行ったのか、私は長嘆息を禁じ得ません。


 【関連記事】即位式、3度の変遷。仏式が神式化したのではない──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 3〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2017-10-12
 【関連記事】「立皇嗣の礼」=国事行為を閣議決定。もっとも中心的な宮中三殿での儀礼は「国の行事」とはならず〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-24
 【関連記事】明治の「立儲令」と来月の「立皇嗣の礼」は何が違うのか?〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-29
 【関連記事】中曽根議員は立太子礼「国事」論を主張し、宇佐美次長は「神道との訣別」を明言した占領末期の国会審議〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-30
 【関連記事】衝撃の事実!!「立皇太子儀」は近世まで紫宸殿前庭で行われていた──『帝室制度史』を読む 前編〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-31
 【関連記事】キリスト教的な「立儲令」はどのようにして生まれたのか?──『帝室制度史』を読む 後編〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-04-01
 【関連記事】「立皇嗣の礼」の延期は大前に奉告されるのか。蔑ろにされる皇祖神の御神意〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-04-12
 【関連記事】壺切御剣が殿下のおそばにない──ふたたび考える「立皇嗣の礼」の延期〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-04-19
 【関連記事】皇兄弟による皇位継承は過去に24例。次の御代替わりは異例にあらず〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-05-24
 【関連記事】昭和50年8月15日、天皇は祭祀大権を奪われ、そして歴史的混乱が始まった。──令和2年APA「真の近現代史観」落選論文〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-10-22

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。