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眞子内親王殿下の婚姻について『皇室制度史料』から考える [眞子内親王]

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眞子内親王殿下の婚姻について『皇室制度史料』から考える
(令和2年11月30日)
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今日は皇太弟殿下のおめでたいお誕生日です。御年55歳となられました。

ところが、なんとも気が重くなるニュースが早朝から飛び込んできました。10日前に行われたお誕生日会見で、数年来、メディアを色々と賑わせてきた眞子内親王殿下の婚姻を、殿下は「認める」とはっきり仰ったというのです。

宮内庁のサイトに載る会見では、今月13日に発表された内親王殿下の文書に関連して、皇嗣職大夫が「(両殿下が)お二人のお気持ちを尊重された」と説明したことの意味を宮内記者会が確認しようとしたのに対して、殿下は「それは結婚することを認めるということです」と言明されました。さらに殿下は言葉を継いで、「これは憲法にも結婚は両性の合意のみに基づいてというのがあります」とも語られました。〈https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/39


▽1 厳格に父系の皇族性を要求する皇位継承原理

しかし憲法が定める「両性の合意」は「国民の権利」であり、内親王の婚姻は一般国民のそれとは本来的に異なるものです。それだからこそ議論が百出してきたのは殿下もよくよくご存知のはずでしょう。憲法を根拠とせざるを得ないというところに、嫌が上にも苦渋のご決断ぶりが拝察されます。

ここではあらためて皇室の歴史を振り返り、内親王の婚姻について、皇位継承問題にも踏み込んで、考えてみることにします。資料となるのは宮内庁書陵部が編纂した『皇室制度史料 皇族』(昭和58-61年)その他です。

まず、基本の基本となる皇族の呼び方と範囲です。

『皇室制度史料』は、皇族について、古代律令では、皇兄弟、皇子は親王、皇孫、皇曾孫、皇玄孫は王と称され、皇族(皇親)とされた。女子は内親王、女王と表記されたと説明しています。これが明治になって大きく様変わりします。

明治の皇室典範では、皇太后や皇后、皇太子妃なども皇族とされました。昭和22年制定の現行皇室典範も、皇族の範囲について、この考え方を踏襲しています。

つまり、近代以後、民間出身の「みなし皇族」も皇族となり、その結果、君臣の別が曖昧になったということです。皇太后や皇后が陛下、皇太子以下の皇族が殿下の敬称を用いられるようになったのも明治以後のことです。民間出身でも皇后ともなれば陛下と尊称されることとなったのです。

近世までは、臣家の女子は皇族に嫁しても皇族とはならなかったのが、明治の皇室典範では逆に皇族に列せられることとなりました。他方、皇族女子は近世までは降嫁ののちも内親王を称しましたが、明治の皇室典範では皇籍を離れることとされました。現行皇室典範も「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」(12条)と定めています。

これについて、伊藤博文の『帝国憲法義解』は、「臣籍に嫁したるものは皇族の列にあらず」「異姓の臣籍」と説明しています。

しかし一方で、旧典範は臣籍降嫁後も特旨によって、内親王、女王を称することができると定めていました。ただし、『帝国憲法義解』は、あくまで特旨によって授けられる尊称であって、身分ではないと強調しています。現行典範にはこの規定はありません。だから「皇女」創設論も浮上してきたのです。

男女によって違いがあるのは、憲法学者の小嶋和司・東北大教授(故人)が指摘した、厳格に父系の皇族性を要求する古来の皇位継承原理がその根拠となるのでしょう。母系の継承は認められません。したがって眞子内親王は、婚姻後は当然、皇籍を離脱し、皇族ではなくなります。お相手の民間人が皇族となり得ないのは言わずもがなです。


▽2 民間に婚家を求め、勅許に依らない戦後の婚姻

次は、そのことと関連する、目下、最大のテーマとなっている皇族の婚家、配偶です。

皇族の婚家については、『皇室制度史料』によると、古代律令制以前は、皇族男子の配偶は必ずしも皇族とは限らなかったのに対して、皇族女子は皇族に嫁するのが常例だったようです。

律令制の時代になると、皇親男子の場合、とくに制約はなかったようですが、女子の場合は四世以上が臣家に嫁することは認められなかったのでした。とはいえ、時代が下がるにつれ、皇親女子の婚家の対象は徐々に拡大し、内親王が臣家に嫁する例も開かれていきました。それでも江戸末期まで10数例を数える内親王降嫁はほとんどが摂関家、徳川家に嫁したものでした。

明治の皇室典範では「皇族の婚嫁は同族、または勅旨によりとくに認許せられたる華族に限る」(39条)と制限を明確にしました。前掲『帝国憲法義解』は、上古以来の歴史を斟酌しつつ、「貞淑を択ぶの道を広むる」「名門右族を択ばん」と説明しています。一般民が対象ではありません。

ところが、逆に現行典範では制限が失われました。先帝も今上も皇太弟も民間に婚家を求められました。そして清子内親王も眞子内親王もです。

かつては婚家に関する勅許があり、『皇室制度史料』によると、明文的史料はないものの、江戸時代には勅許および幕府の許諾を得るものとされていました。明治の典範は「勅許による」(40条)と明記しました。しかし、現行典範は「立后及び皇族男子の婚姻は、皇室会議の議を経ることを要する」(10条)と記するのみで、しかも皇族女子に関する規定はありません。混乱は必至です。

内親王の婚姻に天皇が関与することも、現行典範には規定がありません。旧典範は、天皇が皇族を「監督」(35条)すると定めていましたが、現行制度では天皇は皇室会議の議員にもなっていません。「勅許」どころではありません。であればなおのこと、眞子内親王の婚姻について、先帝がいかに心配されたか、想像に難くありません。

前掲『帝国憲法義解』は、「勅許による」とする理由は「至尊監督の大権により、皇族の栄誉を保たしめんとなり」と説明していますが、君臣の別が曖昧になり、「法の下の平等」という観念が浸透している現在、「皇族の栄誉」をいかに保つか、保てるのか、がまさに問われています。

『皇室制度史料』は皇籍復帰についても説明していますので、最後に蛇足ながらふれます。

いったん臣籍降下された皇族の皇籍復帰は、天武天皇の皇曾孫・和気王、聖武天皇の皇女・不破内親王などいくつかの事例があります。しかし明治40年の皇室典範増補で、「皇族の臣籍に入りたるものは皇族に復することを得ず」とされました。

昭和22年の現行皇室典範では皇室会議の議により皇籍離脱が可能とされ、実際、同年10月には11宮家の皇族51人が皇籍を離脱しましたが、これは「大戦後の国情による特殊な例」と『皇室制度史料』は解説しています。

『皇室制度史料』によると、後嵯峨天皇の皇孫・源惟康、後深草天皇の皇孫・源久良以後、江戸末期まで皇籍復帰の実例はありません。皇位継承問題が国民的課題となったいま、新たな皇籍復帰がもたらされるのかどうか。それは旧皇族なのか、それとも臣籍降嫁した内親王・女王なのか。はたまたほかに、皇位継承のウルトラCが見出せるのかどうか。私はむしろ典憲体制の改革による伝統の回復をこそ望みます。


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「女性宮家」「皇女」創設ではなくて、御公務御負担軽減に失敗し、皇室の伝統を破る宮内庁・外務省の責任を問え [皇女]

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「女性宮家」「皇女」創設ではなくて、御公務御負担軽減に失敗し、皇室の伝統を破る宮内庁・外務省の責任を問え
(令和2年11月29日)
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政府が「皇女」なる制度の創設を検討していると伝えられます。報道では、「皇室の公務の負担を軽減するため、結婚で皇室を離れた女性皇族に『皇女』という呼称で国家公務員として公務を続けてもらう案」などと説明されています。

女性皇族が婚姻し、皇籍を離脱することで、いわゆる御公務の担い手が減少することが予想されることから、御公務の維持のために、批判の多い「女性宮家」創設ではない新たな提案が政府内に浮上してきたということでしょうか。

しかし、これはきわめておかしな話です。いままで何度も申し上げてきたことですが、議論の前提となっている「御公務」についての検討が完全に抜け落ちているからです。天皇・皇族の「御公務」とは何か、つまるところ天皇とは何か、という大命題を曖昧のまま素通りしているのです。


▽1 失敗を問わず、原因を追究しない

これまでの経緯を振り返ると、先帝陛下がご高齢となり、御公務の御負担を軽減すべきだという議論が現れたのは平成10年代末のことでした。渡邉允侍従長ら側近から再三、促されたものの、陛下は固辞されました。

実際に軽減策が採られるようになったのは御在位20年を過ぎてからで、陛下が「在位20年が過ぎたら」と仰せになったのと、にわかにご健康問題が表面化したことが契機となりました。平成20年11月のことでした。

しかし御公務の日数は減るどころか逆に増え、文字通り激減したのは、歴代天皇が第一のお務めと信じ、実践してこられた宮中祭祀のお出ましでした。

つまり、宮内庁による御負担軽減は見事に失敗したのです。けれども、誰も責任を取ろうとはしません。官僚もメディアも、なぜ失敗したのか、原因を探ろうともしませんでした。

そして、官僚たちは反省のハの字もなく、大胆にも皇室制度改革に乗り出したのです。女性皇族が婚姻後、皇籍離脱する現行制度では「皇室の御活動」が安定的に維持できない、御公務御負担を軽減できないというのがその言い分です。

その後、平成24年、民主党政権は、過去の歴史にない、いわゆる「女性宮家」創設に向けて、有識者ヒアリングを実施しました。会議名は「皇室制度に関する」で、園部逸夫参与はヒアリングの趣旨を「御負担軽減」と繰り返し説明していました。ところが、「論点整理」ではテーマがすり替わり、皇族女子の臣籍降下で皇室の御活動が維持できなくなるなどと訴えています。


▽2 内輪の「拝謁」を御公務と強弁する官僚たち

情けないことに、有識者ヒアリングで皇室の御活動に関する具体的な議論を挑む識者は皆無でした。ようやく「論点整理」ではじめて具体的な中身について取り上げられたのですが、天皇の御公務と皇族の活動が一緒くたにされていました。支離滅裂です。

そして「まとめ」はこう結論づけました。

「象徴天皇制度の下で、皇族数の減少にも一定の歯止めをかけ、皇室の御活動の維持を確かなものとするためには、女性皇族が一般男性と婚姻後も皇族の身分を保持しうることとする制度改正について検討を進めるべきであると考える」〈https://www.kantei.go.jp/jp/singi/koushitsu/pdf/121005koushitsu.pdf

まさにこれが「女性宮家」であり、そして今回、浮上した「皇女」制度なるものへつながっています。両者の違いは皇統譜の記載の有無。皇室を利用する官僚の企ては変わりません。

「論点整理」の資料には天皇・皇族方の「御活動」が解説され、財団法人などの「総裁職など」が列記されています。しかし鳥類保護連盟や発明協会は民間組織であり、その総裁職は陛下の御公務ではありません。皇族方が陛下の御負担軽減のためにその地位にあるわけでもありません。

多くは名誉職ですからかりに空席になって不都合が生じたとしても、民間で考えれば済むことです。「女性宮家」や「皇女」にお出ましいただく必要はありません。

問題は議論の前提となっている、天皇のご多忙のほんとうの原因は何かです。平成の時代、宮内庁がもっとも気にしていたのは春秋の叙勲に伴う「拝謁」でした。そして、御公務御負担軽減策にもかかわらずいっこうに減らなかったのが、ほかならぬ宮内庁内人事異動者の内輪の「拝謁」であり、外務省関連の赴任大使の「拝謁」でした。

御負担軽減の最大の阻害要因はまぎれもなく官僚社会なのです。皇室のご活動を維持するために、やれ「女性宮家」創設だ、「皇女」創設だと騒ぎ立てることはまったくの筋違いです。

まずは宮内庁と外務省の責任を問わねばなりません。官僚たちの都合で126代続いてきた皇室の伝統が破られるのは本末転倒というべきです。


【関連記事】「きめ細かい調整・見直し」が実施されていたら──ご公務ご負担軽減を検討しなかった有識者会議? 7〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2017-06-12-1?1606625084
【関連記事】もっぱら「退位」を検討した「負担軽減」会議の矛盾──有識者会議の最終報告書を読んで〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2017-04-23
【関連記事】御負担軽減のネックは官僚社会!?──減らない庁内人事異動者と赴任大使の拝謁〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-09-30-1?1606625792
【関連記事】陛下の御公務をなぜ女性皇族が「分担」しなければならないのか──皇室典範改正、制度改革がどうしても必要なのか〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-09-23-1
【関連記事】天皇陛下をご多忙にしているのは誰か──祭祀が減り、公務が増える。それは陛下のご意志なのか(「文藝春秋」平成23年4月号)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-04-01-2
【関連記事】これ以上、負担軽減するつもりはない──ご公務への固い決意を示された陛下〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2010-12-27-1?1606630273
【関連記事】「皇室制度改革」、大いに異議あり──すり替えと虚言を弄する政府の「女性宮家」創設〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-10-21
【関連記事】支離滅裂なり!! 「女性宮家」創設の「論点整理」──変質した制度改革の目的意識〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-10-14-1
【関連記事】とうとうゼロになった宮中祭祀のおでまし〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2009-09-08-2?1606629687
【関連記事】宮中祭祀を蹂躙する人々の『正体』──「ご負担軽減」の嘘八百。祭祀を簡略化した歴代宮内庁幹部の狙いは何か(「正論」平成21年9月号から)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2009-09-01-2


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「皇太子を望まれなかった」? 皇太弟は何をお悩みなのか、『帝室制度史』から読み解く [御代替わり]

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「皇太子を望まれなかった」? 皇太弟は何をお悩みなのか、『帝室制度史』から読み解く
(令和2年11月23日。新嘗の祭りの日に)
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新型コロナの影響で延期されていた「立皇嗣の礼」が今月8日、挙行された。次の皇位継承者が名実ともに確定される国家的慶事であるが、まさにその当日、あたかも冷水を浴びせるかのようなコメント記事が朝日新聞に掲載された。なんと皇太弟ご本人が「皇太子を望んでいない」というのだから穏やかではない。〈https://www.asahi.com/articles/ASNC853WTNB6UTIL032.html

コメントを寄せたのは、女性天皇・女系継承容認派として知られる御厨貴・東大名誉教授、御公務御負担軽減に関する有識者会議の元座長代理である。

御厨氏によれば、「今回の立皇嗣の礼は異例」だという。「これまで立太子の礼は、次の天皇を可視化させる儀式だったが、今回は違う」「秋篠宮さまは天皇陛下の弟で同世代なので、次の天皇という確定的な見方はできない」と仰せで、さらに以下のような爆弾発言も飛び出した。

「(有識者会議の)途中で政府高官から、秋篠宮さま自身が『皇太子の称号を望んでおらず、秋篠宮家の名前も残したい意向だ』という趣旨の説明があり、皇位継承順位第1位の皇族であることを示す『皇嗣』という称号に落ち着いた。秋篠宮さまの真意は今も分からない」

つまり、殿下の立皇嗣の礼は次の皇位継承者を名実ともに確定させるものではないということになる。気の早い人たち、とくに女系継承の望みを捨てていない方たちは当然、浮き足立つことになる。

しかし、皇嗣は皇太子ではないという理屈は成り立たないのではないか。少し文献を紐解けば一目瞭然だと思う。むしろ私は、弟宮への継承を阻もうとする女系派の印象操作を疑う。


▽1 御厨東大名誉教授は『帝室制度史』をご存じない?

第一に、前にも書いたように、皇太子と皇嗣が違うなどということはない。

『帝室制度史』(帝国学士院編纂、昭和12-20年)は、全6巻すべてが「第1編 天皇」に当てられ、「第2章 皇位継承」の「第四節」は「皇太子」ではなくて「皇嗣」とされている。本文には以下のように書かれてある。

「皇嗣は天皇在位中にこれを選定冊立したまふことを恒例とす」
「皇嗣の冊立ありたるときは、その皇嗣が皇子または皇孫なると、皇兄弟またはその他の皇親なるとを問はず、これを皇太子と称す」

つまり、歴史上、皇嗣=皇太子であり、皇太弟も皇太子なのであって、御厨氏の言うような理屈は成り立たない。御厨氏はむしろ政府高官に『帝室制度史』を示し、意味がないと諭すべきではなかったか。

『帝室制度史』はまた、反正天皇以来、「皇兄弟の皇位を継承したまへるもの、合はせて24例に達せり」(第3巻)、「時としては、皇弟を立てて皇嗣としたまふ場合に、とくに皇太弟と称したまへる例あり」(第4巻)と述べている。

さらに『帝室制度史』は驚くべきことに、一款を立てて「皇嗣の改替」にまで言及し、さまざまな理由から「ひとたび皇嗣冊立のことありて後も…遂に皇位に即きたまふに至らざりしこと、その例少なしとせず」と記述している。

皇太子ではなく皇嗣だから、次の天皇に確定したわけではないという論理は成り立たないことが理解される。御厨氏は『帝室制度史』はご存知ないのだろうか。


▽2 明治の皇室典範制定による「重要な変革」

朝日新聞の報道を狼煙の合図に、案の定、女性天皇、女系継承容認派が蠢き出したらしい。その1人が皇室研究家の高森明勅氏である。あまり他人の文句は言いたくないが、あえて書くことにする。

高森氏は、デイリー新潮の記事のコメントでは、「皇嗣は、現時点で皇位継承順位が第1位であることを意味する。従って、立皇嗣の礼は、次の天皇を確定する場ではない」とはっきり断言している。〈https://www.dailyshincho.jp/article/2020/11110558/?all=1

しかし既述したように、少なくとも『帝室制度史』は、皇嗣は皇太子にあらず、などとは書いていない。皇室研究家として著名な高森氏がまさか『帝室制度史』を知らないはずはない。デイリー新潮の記事の誤りかとも思ったが、自身のブログにも同様に書いてある。〈https://www.a-takamori.com/post/201113

とすると、皇嗣は皇太子にあらずとする根拠がほかにあるのだろうか。立皇嗣の礼は天皇の名で、国の行事として行われ、そのことは賢所大前にも奉告されたが、神ならぬ人間がこれを否定し、暫定的だと断定する根拠はどこにあるのか。

御厨氏は「殿下が皇太子の呼称を固辞された」とも語っているが、そうだとして、殿下は何をお悩みなのか。ふたたび『帝室制度史』をめくってみると、興味深い記述があることに気づかされる。

『帝室制度史』は近代以降、皇室典範の制定で、「皇嗣の冊立」が4つの点で、「重要な変革」を遂げたと指摘している。すなわち、以下の4点である。

1、皇嗣は冊立ではなくて、法によって一定に定まることとなった。皇太子不在の場合は儲嗣たる皇孫を皇太孫とすることと規定された。

2、旧制では皇嗣冊立ののち皇太子の称号が授けられたが、新制では儲嗣たる皇子は生まれながらにして皇太子と称されることとなった。

ここまでは容易に理解される。注目すべきなのは、このあとである。

3、旧制では皇太子の称号は必ずしも皇子に限らなかった。しかし新制では皇太子の称号は儲嗣たる皇子に限られる。儲嗣たる皇孫の場合は皇太孫と称される。皇兄弟その他の場合は特別の名称を用いない。

4、旧制では立太子の儀によって皇嗣の身分が定められた。しかし、新制では立太子礼は皇嗣の身分にあることを天下に宣示し、祖宗に奉告する儀礼である。傍系の皇族が皇嗣にあるときはこの儀礼は行われない。


▽3 『帝室制度史』の中身を熟知するがゆえに?

少なくとも御厨氏が『帝室制度史』を知らないだろうことは想像にかたくない。日本国憲法を唯一の根拠とする非宗教的な象徴天皇論者には、126代で紡がれてきた皇位継承の歴史など関心がないからである。知る必要がないからである。

しかし、ご本人に確認することは不可能だが、殿下は『帝室制度史』の存在をすでにご存知で、内容を十分に把握しておられるのではないかと私は拝察する。

殿下は「次男坊」としてお生まれになり、青年期までは「気楽な弟君」として過ごしてこられたのだろう。しかし兄君はご結婚も遅く、皇子は生まれなかった。よもやご自身が次の皇位継承者になるとは予想もしなかったのではないか。青天の霹靂である。

次の世代の皇位継承者がいないとの危機感に後押しされて、殿下は高齢を押して男子をもうけられたが、そのことは傍系への皇位継承を一段と推し進めることとなった。兄君との仲も詮索されることとなり、さぞやおツラい胸中であろう。

『帝室制度史』には、皇太子の称号は皇子に限られ、皇兄弟には特別の名称を用いない。傍系の皇嗣は立太子礼は行わない、と記される。殿下の「固辞」の理由はここにあるのではないか。

問題は、殿下の真意を捻じ曲げ、我田引水的に利用しようとする女性天皇・女系継承容認論者の存在なのであろう。もともとが現実主義の固まりだろうから、陛下が、そして殿下が皇祖神の大前で祈りを捧げたことの重みなど、一顧だにしないに違いない。

さて今日は、殿下にははじめて、神嘉殿の殿内で新嘗祭を奉仕される。これまでは幄舎での御拝礼のみだった。皇室第一の重儀を、兄君のおそば近くでお務めになることは、御感慨も一入かと拝察される。


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朝日新聞が「立皇嗣の礼=憲政史上初」を強調する隠れた思惑 [御代替わり]


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朝日新聞が「立皇嗣の礼=憲政史上初」を強調する隠れた思惑
(令和2年11月9日)
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新型コロナの影響で延期されていた秋篠宮文仁親王の「立皇嗣の礼」は8日、中心的儀礼である宣明の儀が行われました。殿下は名実ともに皇太弟となられ、悠仁親王までの皇位継承の流れがこれで確定することとなりました。

さて、それはそれとして、このたびの立皇嗣の礼に関する報道で少し気になることがありましたので、書こうと思います。それは朝日新聞などのメディアが今回の「立皇嗣の礼」を「憲政史上初」「史上初」と大仰に強調していることです〈https://www.asahi.com/articles/ASNC83JV0NC6UTIL03L.html〉〈https://www.tokyo-np.co.jp/article/66810〉。

私にはその意味がいまひとつ分かりません。皇太弟の存在が近代以降なく、「立皇嗣の礼」という名称が初めてだという単純なことなのか、それとも「立皇嗣の礼」の中身が過去の立太子礼とは異なるという史的検証を踏まえてのことなのか。「上皇さまの退位に伴い、憲政史上初めて」「前例のない儀式」(朝日)という説明は少なくとも私には意味不明です。

むしろ私には、こうした報道が「皇嗣は皇太子ではない」「立太子礼ではない」と声を張り上げているようにも聞こえます。素直に皇太子冊立を喜ばずに、女性皇太子冊立の可能性はまだ十分あるというニュアンスで、女性天皇・女系継承容認論者を焚き付ける隠れた思惑があるのではありませんか。

その証拠に、朝日新聞は同じ日に、女系継承容認派の御厨貴・東大名誉教授を登場させ、「秋篠宮さまが次の天皇として即位するという確定的な見方はできない」と語らせ、晴れのお祝いに冷水を浴びせかけています〈https://digital.asahi.com/articles/ASNC853WTNB6UTIL032.html?iref=pc_ss_date〉。


▽1 皇太弟は皇太子である

歴史を振り返れば、譲位が制度上、否認されることになったのは明治以後だなどということはいまどき誰でも知っています。126代続いてきた皇統のなかで、皇太弟の存在は24例もあります。

『帝室制度史』(第4巻、帝国学士院編纂、昭和15年)は「皇太子」ではなく「皇嗣」と総称し、皇弟を皇太子に立てる場合、とくに「皇太弟」と称することがあると説明していますが、「皇太弟」は「皇太子」ではないなどと否定しているわけではありません。

とすれば、今回も「皇太弟」冊立の「立太子の礼」で良かったのではありませんか。そうすれば、「史上初」などと振りかぶる必要もなかったでしょう。平成までの前例を踏襲すれば、それで足りたのです。

実際、「史上初」どころか、私にはまったくの前例踏襲のように見えます。不思議なことに、朝日新聞は「史上初」といいつつ、一方では「平成の『立太子の礼』を参考にした」と説明しています。首尾一貫しません。

具体的に式の中身を見てみると、すでに書いてきたように、今回の「立皇嗣の礼」は古来のやり方とも近代の方法とも違っています。朝日新聞はなぜそこを伝えようとしないのでしょう。

まず貞観儀式(平安前期)です。

『帝室制度史 第4巻』によると、近世まで行われた皇太子冊立の儀礼は、屋外の紫宸殿前庭で、親王以下百官が参列し、天皇が宣命大夫に宣命を宣せしめるというもので、中世以後はさらに壺切御剣を授ける儀礼が加わりました。

朝日新聞は今回の「立皇嗣の礼」について、「平安時代の儀礼をほぼ踏襲」とも説明していますが、正確とは言えません。似ているのはせいぜい皇族や政府要人を前にして執り行われたことぐらいです。壺切御剣の伝進は今回は別の儀礼として行われています。

まったく違うのは、かつては天皇の御意思が法でした。近代以後は皇室典範が皇位継承の根拠ですが、現行の典範は皇室の家法ではなく、国会が制定する一法律にすぎません。


▽2 宗教儀礼化した近代の立太子礼

むろん近代の立太子礼とも異なります。

明治42年制定の立儲令では、まず宮中三殿への天皇・皇后の奉告が御代拝で行われます。紫宸殿前庭で親王以下百官の前にしての儀礼ではなく、宮中三殿での宗教的儀礼に大変革されたのです。

次いで伊勢神宮、山陵に勅使が発遣され、奉幣が行われます。中心となる儀礼は賢所大前の儀で、天皇の親祭が行われ、両陛下の拝礼、勅語ののち壺切御剣が伝進されました。そのあと皇太子が三殿に謁し、さらにそのあと朝見の儀、饗宴の儀が行われることとされました。

天皇は親王以下百官に対してではなく皇祖神に対して、宣命大夫ではなく天皇みずから御告文を奏されることと大きく趣旨が変わったのです。

その後、実際はどうだったのか、Wikipediaに詳細が載っています。さすがです。時代は大きく変わりました。大手メディアより、情報が豊富です。

昭和天皇の「立太子の式」は大正5年11月、立儲令のままに行われたようです。

先帝の場合は昭和27年11月、成年式と同時に行われました。あらかじめ天皇・皇后が挙式を賢所大前に親告し、立太子宣制の儀は仮宮殿・表北の間で、宮内庁長官が宣明を読み上げ、皇太子が両陛下に拝礼、総理が寿詞を述べたようです。

敗戦後、昭和22年5月に新憲法が施行され、同時に立儲令など皇室令は全廃されています。占領は終わり、神道指令は効力を失いましたが、立儲令に代わる法的ルールはありません。とすれば、依命通牒第3項に基づいて、「従前の例に準じて事務を処理すること」、すなわち立儲令の附式に準じて、立太子礼が執り行われていいはずですが、そうはなっていません。なぜそうしなかったのか。

むしろ古来の伝統である貞観儀式に準じて、宮殿で、政府要人を前に、宣明を側近に代読させるという形式に一変しています。今回の立皇嗣の例のあり方にもつながっている、この変革をもたらしたのは何か、「新憲法下での政教分離原則に従い」と説明する報道もありますが、明治を超えて平安期にまで歴史を逆転させた要因はそれだけでしょうか〈https://www.sankei.com/life/news/201108/lif2011080011-n1.html〉。


▽3 平成の立太子礼を踏襲

今上の場合は平成3年2月でした。あらかじめ勅使の発遣が行われ、当日は天皇が三殿に親告し、続いて立太子宣明の儀が宮殿・松の間で行われました。天皇が宣明を読み上げ、皇太子のお言葉があり、総理が寿詞を述べました。

先帝のときは宮内庁長官が宣明を代読しましたが、今上の場合は天皇みずから宣明を読み上げるかたちに変わりました。なぜ変更されたのでしょう。総理が寿詞を述べるのは前例踏襲です。

さらに続いて、儀場が変わり、鳳凰の間で、壺切御剣が天皇から皇太子に親授され、そのあと皇太子が三殿に拝礼し、朝見の儀、饗宴の儀と続きました。

宣明の儀と壺切御剣の親授式が分離するのは、昭和天皇のときからなのか、それとも先帝のときからなのでしょうか。

今回は、まずあらかじめ伊勢神宮に勅使が発遣され、当日は天皇・皇后が宮中三殿の内陣で拝礼され、皇族が幄舎で拝礼されました。神武天皇陵、昭和天皇陵に奉幣の儀が行われ、宮殿・松の間で立皇嗣宣明の儀が行われました。

そのあと鳳凰の間で、壺切御剣が親授され、さらに皇嗣が三殿に謁したのち、朝見の儀が行われました。当初予定された饗宴の儀は取りやめとなりました。

蛇足ながら、毎日新聞によると、壺切御剣は「昨年9月に陛下の側近から秋篠宮さまに手渡される行事が行われ、翌月の『即位礼正殿(せいでん)の儀』の際に帯剣した」ようです。何のことはない、即位礼の前に殿下に伝進され、「普段は宮内庁が管理している」のです〈https://mainichi.jp/articles/20201108/ddm/041/040/073000c〉。とすると、今回の壺切御剣の親授式とはいったい何のためのものなのでしょう。

結局のところ、今回の立皇嗣の礼は、「平安期の踏襲」というより、まさに「平成の踏襲」といえます。したがって戦後の立太子礼を踏襲する「立皇嗣の礼」を「史上初」と大袈裟に報道することには無理があります。朝日新聞ほかの誇大なニュースには何か特別の意図があるのでしょうか。


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皇太后陛下「発熱を押しての明治神宮御参拝」は美談か? 御代拝制度の復活を望む [天皇・皇室]



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皇太后陛下「発熱を押しての明治神宮御参拝」は美談か? 御代拝制度の復活を望む
(令和2年11月6日)
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明治神宮は今年、鎮座100年を迎えた。先月31日から大祭が5日間にわたって執り行われ、これに先立って28日午前には天皇・皇后両陛下ならびに太上天皇・皇太后両陛下がそれぞれ参拝された。同日午後には秋篠宮同妃両殿下が参拝された。

太上天皇・皇太后両陛下にはご高齢を押しての御参拝で、とくに皇太后陛下には白内障などの手術後の経過の思わしくないなか、さらに発熱の症状を押しての参拝とも伝えられる。

それだけ御参拝への強いご意思がおありだったのだろうと拝察される。


▽1 女官の御代拝で足りる

しかし本来的にはそうした御参拝があるべきことなのかどうか。昭和の40年代まで行われていたように、御代拝ではいけないものなのだろうか。

現代では天皇が皇后を伴って、各地を行幸なさることは当たり前のように考えられている。だからコロナ禍でにわかに自由にならなくなると、逆に大問題であるかのように騒ぎ出す人たちもいる。けれども長い皇室の歴史から考えれば、天皇が御所を離れて御幸なさるのはけっして普通のこととはいえない。

天皇のマツリゴトはシラスことがその本質とされた。シラスとは知ることであって、民の喜びのみならず、悲しみ、苦しみを知り、共有することであったという。そのため、天皇に代わって目となり、耳となる側近の存在は重要であつた。

いまは交通手段が古代とは比べものにならないほど発展しており、天皇がみずから国民と親しく接し、交流することは可能である。明治以後、行動主義を身につけられた天皇だが、コロナ禍の時代はむしろ側近の機能をあらためて思い出させてくれる。

今回、皇太后陛下のご体調が優れないというのであれば、側近の女官に御代拝を命じれば済むことではなかっただろうか。


▽2 御代拝制度を勝手に廃止した宮内庁

前例はいくらでもある。入江日記を読めば、「皇后さまお風邪。御代拝」という記述が何回も出てくる。香淳皇后が風邪を召されたため、代わって女官が三殿にお参りしたのである。それは異例のことではないし、ご不例とあればむしろ神事は避けられるべきなのである。そもそも祭祀の主体は天皇であって、皇后ではない。

ところが、昭和天皇の側近たちは、憲法の政教分離を持ち出して、御代拝の制度を勝手に廃止してしまった。その結果、平成の時代になると、経緯を何も知らない人たちが「皇太子妃のお詣りがない」と理不尽な攻撃を加えたのだった。

いまからでも遅くはない。御代拝制度の復活をつよく促したい。発熱を押してのご参拝は美談とは言いがたい。


【関連記事】「しらす」政治と「うしはく」政治──天皇統治の本質(「神社新報」平成11年11月8日号)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1999-11-08
【関連記事】資料編・昭和の宮中祭祀簡略化──側近の日記から〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2008-05-05?1604631213
【関連記事】不正確な宮内庁の祭祀情報──誰が妃殿下を苦しめているのか〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2008-06-17
【関連記事】一面的な谷沢永一先生の雅子妃批判──「WiLL」掲載論考の問題点〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2008-10-14?1604627543
【関連記事】「しらす」と「うしはく」──なぜレーヴェンシュタインを引用するのか 4〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2017-06-25

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「文化の日」とは何だったのか? 伝統と近代の微妙な関係への自覚 [天皇・皇室]

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「文化の日」とは何だったのか? 伝統と近代の微妙な関係への自覚
(令和2年11月4日)
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昨日は11月3日。いまは「文化の日」である。陛下は皇居・宮殿で文化勲章親授式に臨まれた。

いまは、というのは、以前は違うからだ。祝日法で「文化の日」が定められたのは昭和23年7月である。それなら、その前はどうだったのか、少し整理してみたい。


▽1 GHQが同意した「11月3日」の祝日化

なぜ「11月3日」が「文化の日」の祝日とされたのか。「もともとは明治天皇の誕生日(明治節)だった」と気の早い人は言いたがる。しかしちょっと待ってほしい。物事には順序がある。

戦後の歴史で考えると、11月3日は日本国憲法が公布された日であった。昭和21年11月3日に公布され、その半年後、22年5月3日に憲法が施行された。5月3日は「憲法記念日」とされた。

なぜ「5月3日」なのか。なぜ「11月3日」だったのか。キリの良い日には見えない。国会議事録にはそれらしい理由が見当たらない。だが、Wikipediaには興味深い情報が載っている。

当初は11月1日に新憲法公布、5月1日に施行のスケジュールの予定だったらしい。しかしそれでは施行日がメーデーと重なってしまう。そこで直前になって、5月3日に変更されたというのである。

参議院側は憲法発布の11月3日を「憲法記念日」とすることを強行に主張した。しかしGHQが拒絶した。「11月3日」へのこだわりの理由は分からないが、GHQの方はどうやらかつての「明治節」を嫌ったらしい。

一方、衆議院は施行日の5月3日を「憲法記念日」とすることに同意したことから、参議院は立場を失ってしまう。そこでGHQは11月3日を「別の記念日にしたら」と和解策を提示した。で、結局、「文化の日」が定められたという。そしてこの祝日法の制定によって、昭和二年勅令第二十五号が定めていた「明治節」は廃止された。

面白いのは、「明治節」を強く嫌っていたはずのGHQが「11月3日」の祝日化に同意したことである。

占領前期と占領後期では、たとえば宗教政策にしても大きな違いがあるが、23年ごろにはすでに変化が生まれているということがこれで推測できる。つい2年前には苛烈な、いわゆる神道指令が発令されたのにである。政策の早期転換の背景に何があるのだろうか。歴史の謎だろう。

もし明治節を徹底して嫌うなら、たとえば12月1日憲法公布、6月1日施行とし、12月1日を憲法記念日と定めることだって可能なはずである。そうはならずに、「11月3日」の明治節は「文化の日」として残ったのである。GHQが明治節を奪ったかのような俗説は当たらない。

祝日法では「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日とされている。趣旨がいまひとつわかりづらい。モヤモヤ感があるのは、制定に至る紆余曲折のせいだろうか。


▽2 誕生日を祝うキリスト教文化の影響

さて、明治節である。明治節とは何だったのか。

明治天皇の偉業を記念して、「明治節」が定められたのは、昭和2年3月だった。その背後には制定を望む国民運動の熱心な展開があったことが知られている。

「11月3日」は既述したように明治天皇の誕生日だった。いや、明治天皇がお生まれになったのは、正確には「11月3日」ではない。正しくは嘉永5年の「9月22日」である。当時は太陰太陽暦だった。明治5年の改暦で、太陽暦すなわちキリスト教のグレゴリオ暦に代わり、「11月3日」とされた。

だから明治元年の布告では、「9月22日」に「天長節」を祝うこととされていた。改暦の翌年、「11月3日」が「天長節」となり、「年中祭日祝日」のひとつに定められ、休日となった。41年制定の皇室祭祀令には、天長節祭が小祭として位置付けられた。

つまり、近代の欧米化が「11月3日」を選ばせたのである。日本古来の伝統ではない。

もともと天子の生誕日を祝う「天長節」は古代中国の文化である。8世紀、玄宗皇帝の時代には祝い事が行われ、日本でも同じ8世紀、光仁天皇の祝宴が開かれたらしい。

しかし中国も日本も、誕生日を祝う慣習が古くからあったわけではない。日本では大晦日に歳神を迎え、人々はいっせいに歳をとった。近代以降も満年齢と数え年が共存し、それが戦後までしばらく続いたのである。けれども学校や家庭でお誕生日会が催されるようになり、誕生日の個人化が浸透したのだろう。キリスト教文化の土着化ということだろうか。

古くは、天皇から民草に至るまで、個人的な祭日といえば、亡くなった日を記念するものだった。明治天皇の「天長節」が「明治節」となり、やがて「文化の日」に変容していった近現代の歴史には、キリスト教文化の強い影響が背後にうかがえる。

しかしそのことは何ら驚くに値しない。日本の皇室こそは古来、海外文化移入のセンターとして機能してきたからである。水田稲作、漢字、仏教などその例は枚挙にいとまがない。そして日本の近代化の先頭に立たれたのが明治天皇であった。そしてアジアで最初の近代国家が生まれたのである。


▽3 保守派は自画像を正確に描けているのか

明治45年7月に明治天皇が亡くなり、大正天皇が皇位を継承された。当然、天長節は、大正天皇の誕生日である8月31日に変更された。

その一方で、明治天皇の誕生日ではなく、崩御日である7月30日(本当はその前日だった)は、宮中祭祀の世界では、明治天皇祭(先帝祭)という祭日となった。先帝祭は天皇みずから祭典を行う大祭であった。

大正15年12月に今度は大正天皇が亡くなる。すると、7月30日は明治天皇をしのぶ先帝祭としてはなくなり、先帝以前三代の例祭として、親祭のない小祭として斎行されることとなった。

明治が遠くなり、明治が消えていくのは忍びがたい。そういう国民の熱い思いが、昭和2年3月に実現させたのが明治節で、明治天皇の誕生日がこれに当てられた。皇室祭祀令が改正され、宮中三殿で明治節祭が執り行われることとされた。四方節、紀元節、天長節、明治節は四大節と呼ばれた。

このとき崩御日ではなく、誕生日の「11月3日」が選ばれたのも、やはり近代化の結果ということだろうか。

蛇足ながら、「昭和の日」制定にも同様のパターンが見受けられる。法制化は保守派勢力の強力な国民運動の成果だが、大行天皇の誕生日を国民的祝日とする考え方はけっして日本古来の伝統とはいえない。つまり、日本の保守派は、民族の伝統を追求したのではなくて、近代化によって、欧米の文化を受肉化した結果として、「明治節」や「昭和の日」を制定させたといえる。

問題は日本の保守派が、日本の伝統と近代の微妙に錯綜した関係をどこまで自覚しているか、である。もしも正確な自画像を描けずに、伝統重視を叫びつつ、非伝統主義に傾くなら、たとえば、いま目の前に突き付けられた皇位継承問題も、歴史と伝統の真髄を見失った、不本意な解決で終わるだろう。


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「愛子さま天皇」待望を煽る? 「週刊朝日」の御厨貴×岩井克己Zoom対談 [皇位継承]


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「愛子さま天皇」待望を煽る? 「週刊朝日」の御厨貴×岩井克己Zoom対談
(令和2年11月3日)
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▽1 正統右翼の政府・宮内庁批判

「正統右翼」といわれる不二歌道会(福永武代表)の政府・宮内庁批判が止まりません。

機関紙「道の友」10月号の巻頭言は、宮内庁が高さ2メートルの江戸城天守閣の模型を東御苑に設置したことを取り上げ、税金1億円を使ってなぜ作ったのかまったく不明、そんなムダ金があるなら大嘗宮をなぜ茅葺にしなかったか、宮内庁には国体観念の喪失が甚だしい、とけんもほろろです。

また機関誌「不二」は、中曽根元総理の内閣・自民党合同葬が神嘗祭当日に設定されたことをテーマとし、国民こぞって奉祝すべき日に弔旗の掲揚を求める無神経さに戦慄さえ覚える、元号問題・大嘗宮茅葺問題にも通じる国体観念の喪失がその根源にある、ときびしく批判しています。

さすがは正統的民族派の面目躍如というべきでしょう。堂々とした正論を臆せずに表明していることに敬意を表します。


▽2 立皇嗣の礼を前にあり得るのか

これに対して、アカデミズムとジャーナリズムの無様さを公にしているのが、御厨貴・東大名誉教授と岩井克己・朝日新聞元編集委員との「週刊朝日」のZoom対談です(11月6日号からの抜粋。構成は同誌の永井貴子記者。https://dot.asahi.com/wa/2020102900039.html?page=1)。

この対談で唯一面白いのは、皇位継承・「女性宮家」創設問題に関連して、御厨さんが『世論調査では、「愛子天皇」賛成の声が高い』と指摘したのに対して、岩井さんが『宮内庁の幹部と話をしても、「一刻も早く女性・女系天皇の容認を」「愛子さまを天皇に」という声は聞こえてこない』と応えていることです。

記事の最後は『宮内庁幹部の中には、「今は愛子さまを天皇に、という人は宮内庁にも官邸にもひとりもいない」と明言する人もいます』という岩井さんの発言で終わっています。そもそも記事のタイトル自体が『「愛子さまを天皇に」は宮内庁から聞こえてこない?朝日新聞元編集委員が明かす』です。

宮内庁内を取材した岩井さんも、記事をまとめた編集者も、庁内から「愛子さま天皇」待望論が聞こえてこないことが、意外であり、もしかしてご不満なのでしょうか。立皇嗣の礼を目前にして、次か、あるいはその次の天皇が「愛子さまであってほしい」という声が上がるものなのでしょうか。常識的に考えて、あり得ないとはお思いにならないのでしょうか。それとも待望論を煽っているのでしょうか。


▽3 科学者=「前衛」の時代錯誤

おりしもちまたでは、日本学術会議の新会員任用をめぐって、混乱が続いています。科学者は社会をリードする「前衛」だなどと叫び立てる政治家もおられるようですが、時代錯誤も甚だしいというべきです。いまや国民の半数が高等教育を受けるご時世です。サラリーマンがノーベル賞を受賞する時代なのです。

知識人、専門家の存在はむろん重要ですが、国民の知的レベルが以前とは違って格段に上がっている現代において、よほどの天才ならともかく、知性の相対的低下をアカデミズムもジャーナリズムもよく肝に銘ずるべきではありませんか。そうでないから、わけ知りげな雑誌記事が生まれ、学術会議狂想曲が展開されるのでしょう。


【関連記事】女系は「万世一系」を侵す──「神道思想家」葦津珍彦の女帝論〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1998-12-01
【関連記事】女系継承は天皇の制度といえるのか──皇室典範有識者会議を批判する〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2005-12-01
【関連記事】朝日新聞のマッチ・ポンプ──岩井克己記者の宮中祭祀観を批判する〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2010-11-07-1
【関連記事】基本を忘れた女系継承容認論──小嶋和司教授の女帝論を読む〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-12-31
【関連記事】ねじ曲げられた前侍従長の提案──岩井克己朝日新聞記者の「女性宮家」論を読む〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-01-02
【関連記事】風岡宮内庁長官はなぜ退任したのか ──新旧宮内庁長官会見を読む〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2016-10-02
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