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眞子内親王殿下の婚姻について『皇室制度史料』から考える [眞子内親王]

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眞子内親王殿下の婚姻について『皇室制度史料』から考える
(令和2年11月30日)
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今日は皇太弟殿下のおめでたいお誕生日です。御年55歳となられました。

ところが、なんとも気が重くなるニュースが早朝から飛び込んできました。10日前に行われたお誕生日会見で、数年来、メディアを色々と賑わせてきた眞子内親王殿下の婚姻を、殿下は「認める」とはっきり仰ったというのです。

宮内庁のサイトに載る会見では、今月13日に発表された内親王殿下の文書に関連して、皇嗣職大夫が「(両殿下が)お二人のお気持ちを尊重された」と説明したことの意味を宮内記者会が確認しようとしたのに対して、殿下は「それは結婚することを認めるということです」と言明されました。さらに殿下は言葉を継いで、「これは憲法にも結婚は両性の合意のみに基づいてというのがあります」とも語られました。〈https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/39


▽1 厳格に父系の皇族性を要求する皇位継承原理

しかし憲法が定める「両性の合意」は「国民の権利」であり、内親王の婚姻は一般国民のそれとは本来的に異なるものです。それだからこそ議論が百出してきたのは殿下もよくよくご存知のはずでしょう。憲法を根拠とせざるを得ないというところに、嫌が上にも苦渋のご決断ぶりが拝察されます。

ここではあらためて皇室の歴史を振り返り、内親王の婚姻について、皇位継承問題にも踏み込んで、考えてみることにします。資料となるのは宮内庁書陵部が編纂した『皇室制度史料 皇族』(昭和58-61年)その他です。

まず、基本の基本となる皇族の呼び方と範囲です。

『皇室制度史料』は、皇族について、古代律令では、皇兄弟、皇子は親王、皇孫、皇曾孫、皇玄孫は王と称され、皇族(皇親)とされた。女子は内親王、女王と表記されたと説明しています。これが明治になって大きく様変わりします。

明治の皇室典範では、皇太后や皇后、皇太子妃なども皇族とされました。昭和22年制定の現行皇室典範も、皇族の範囲について、この考え方を踏襲しています。

つまり、近代以後、民間出身の「みなし皇族」も皇族となり、その結果、君臣の別が曖昧になったということです。皇太后や皇后が陛下、皇太子以下の皇族が殿下の敬称を用いられるようになったのも明治以後のことです。民間出身でも皇后ともなれば陛下と尊称されることとなったのです。

近世までは、臣家の女子は皇族に嫁しても皇族とはならなかったのが、明治の皇室典範では逆に皇族に列せられることとなりました。他方、皇族女子は近世までは降嫁ののちも内親王を称しましたが、明治の皇室典範では皇籍を離れることとされました。現行皇室典範も「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」(12条)と定めています。

これについて、伊藤博文の『帝国憲法義解』は、「臣籍に嫁したるものは皇族の列にあらず」「異姓の臣籍」と説明しています。

しかし一方で、旧典範は臣籍降嫁後も特旨によって、内親王、女王を称することができると定めていました。ただし、『帝国憲法義解』は、あくまで特旨によって授けられる尊称であって、身分ではないと強調しています。現行典範にはこの規定はありません。だから「皇女」創設論も浮上してきたのです。

男女によって違いがあるのは、憲法学者の小嶋和司・東北大教授(故人)が指摘した、厳格に父系の皇族性を要求する古来の皇位継承原理がその根拠となるのでしょう。母系の継承は認められません。したがって眞子内親王は、婚姻後は当然、皇籍を離脱し、皇族ではなくなります。お相手の民間人が皇族となり得ないのは言わずもがなです。


▽2 民間に婚家を求め、勅許に依らない戦後の婚姻

次は、そのことと関連する、目下、最大のテーマとなっている皇族の婚家、配偶です。

皇族の婚家については、『皇室制度史料』によると、古代律令制以前は、皇族男子の配偶は必ずしも皇族とは限らなかったのに対して、皇族女子は皇族に嫁するのが常例だったようです。

律令制の時代になると、皇親男子の場合、とくに制約はなかったようですが、女子の場合は四世以上が臣家に嫁することは認められなかったのでした。とはいえ、時代が下がるにつれ、皇親女子の婚家の対象は徐々に拡大し、内親王が臣家に嫁する例も開かれていきました。それでも江戸末期まで10数例を数える内親王降嫁はほとんどが摂関家、徳川家に嫁したものでした。

明治の皇室典範では「皇族の婚嫁は同族、または勅旨によりとくに認許せられたる華族に限る」(39条)と制限を明確にしました。前掲『帝国憲法義解』は、上古以来の歴史を斟酌しつつ、「貞淑を択ぶの道を広むる」「名門右族を択ばん」と説明しています。一般民が対象ではありません。

ところが、逆に現行典範では制限が失われました。先帝も今上も皇太弟も民間に婚家を求められました。そして清子内親王も眞子内親王もです。

かつては婚家に関する勅許があり、『皇室制度史料』によると、明文的史料はないものの、江戸時代には勅許および幕府の許諾を得るものとされていました。明治の典範は「勅許による」(40条)と明記しました。しかし、現行典範は「立后及び皇族男子の婚姻は、皇室会議の議を経ることを要する」(10条)と記するのみで、しかも皇族女子に関する規定はありません。混乱は必至です。

内親王の婚姻に天皇が関与することも、現行典範には規定がありません。旧典範は、天皇が皇族を「監督」(35条)すると定めていましたが、現行制度では天皇は皇室会議の議員にもなっていません。「勅許」どころではありません。であればなおのこと、眞子内親王の婚姻について、先帝がいかに心配されたか、想像に難くありません。

前掲『帝国憲法義解』は、「勅許による」とする理由は「至尊監督の大権により、皇族の栄誉を保たしめんとなり」と説明していますが、君臣の別が曖昧になり、「法の下の平等」という観念が浸透している現在、「皇族の栄誉」をいかに保つか、保てるのか、がまさに問われています。

『皇室制度史料』は皇籍復帰についても説明していますので、最後に蛇足ながらふれます。

いったん臣籍降下された皇族の皇籍復帰は、天武天皇の皇曾孫・和気王、聖武天皇の皇女・不破内親王などいくつかの事例があります。しかし明治40年の皇室典範増補で、「皇族の臣籍に入りたるものは皇族に復することを得ず」とされました。

昭和22年の現行皇室典範では皇室会議の議により皇籍離脱が可能とされ、実際、同年10月には11宮家の皇族51人が皇籍を離脱しましたが、これは「大戦後の国情による特殊な例」と『皇室制度史料』は解説しています。

『皇室制度史料』によると、後嵯峨天皇の皇孫・源惟康、後深草天皇の皇孫・源久良以後、江戸末期まで皇籍復帰の実例はありません。皇位継承問題が国民的課題となったいま、新たな皇籍復帰がもたらされるのかどうか。それは旧皇族なのか、それとも臣籍降嫁した内親王・女王なのか。はたまたほかに、皇位継承のウルトラCが見出せるのかどうか。私はむしろ典憲体制の改革による伝統の回復をこそ望みます。


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