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齊藤教授さま、現代皇室の史的検証の枠組みを誤っていませんか? 期待はずれの御代替わり論のなぜ [御代替わり]


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齊藤教授さま、現代皇室の史的検証の枠組みを誤っていませんか? 期待はずれの御代替わり論のなぜ
(令和2年12月29日)
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資料を整理していたら、政教関係を正す会の会報が出てきました。目を引いたのは、「近代皇室制度と現代の御代替わり」と題する齊藤智朗・國學院大学教授の発表です。

昨年、令和元年8月29日に都内で開催された研究会の発表をまとめ直した記録でした。先帝から今上へと皇位が継承されて4か月、即位の礼、大嘗祭まで3か月を切ったタイミングで企画された神道学者の発表内容に、いやが上にも期待が高まります。

しかし会報の発行は、驚くなかれ、丸一年後の今年8月31日付。せっかくの企画なのに、編集があまりにも遅すぎませんか。これでは目の前の御代替わりに影響力を示すことなどとうてい無理でしょう。文字通り、後の祭りです。


▽1 「法規が一切ない」のではない

とはいえ、ともかく中身を読もうとページをめくり、結局、私は期待を裏切られることになりました。

発表のタイトルはすでに示したとおりで、「近代」と「現代」の比較を目的としているようです。千年を優に超える皇室の長い歴史から今回の御代替わりを考察しようとしているのではないということでしょうか。なぜ150年の歴史に限定して考察しなければならないのか、私には不明です。

「はじめに」の冒頭で、齊藤教授は、今回の御代替わりが「皇室典範特例法」に基づくこと、約200年ぶりの、憲政史上初となる「譲位による御代替わり」であることを指摘していますが、のっけから間違っていませんか。

いみじくも特例法が「退位」と銘打っているように、政府は「譲位」を否定し、避けています。政府にとっては「譲位による御代替わり」ではなく、「退位による御代替わり」であることこそが今回の御代替わりの最重要ポイントの1つであるはずなのに、教授は「譲位」「譲位」と続けています。失礼ながら、本質が見えていないということではありませんか。

もっと致命的なのは、戦後の重要な歴史がまったく無視されていることです。つまり、教授は前回の御代替わりについて、次のように述べています。

「30年前の御代替わりは、現行の日本国憲法および皇室典範のもとでなされた最初の御代替わりである……近代皇室制度、とくに明治皇室典範や登極令をはじめとする御代替わりに関する制度が占領期に廃止されて、以後、今日まで御代替わり、とくにその諸儀式の内容や詳細について定めた法規が一切ない状況のなかで、平成の御代替わりに伴う儀式が滞りなく行われた」

そのうえで、今回の御代替わりは平成の前例を踏襲することが閣議決定され、一方、「譲位」による御代替わりは近現代の皇室制度では予期されていないから、近代とも異なる、前回とも異なるものとなることが予想されるとして、変更点の検証を試みようとするのです。

つまり、教授の発想では「近代」と「現代」とは逆接関係にあります。しかし、私の読者ならすでにお気づきでしょうが、この教授の理解は正しくありません。少なくとも皇室の諸儀礼においては、「近代」と「現代」は順接なのです。

たしかに敗戦後、皇室典範は改正され、一法律となり、また日本国憲法施行に伴って登極令のみならず皇室令はすべて廃止されましたが、諸儀式に関する「法規が一切ない」のではありません。「近代」と「現代」をつなぐ法的基準がたしかにあるのです。教授はそれを見落とし、したがって史的検証の前提となる思考の枠組みを誤ってしまったのです。皇室の「近代」と「現代」の微妙な法的な関係を教授はまったく理解していないのです。


▽2 依命通牒の解釈・運用が変更された

日本国憲法および現行皇室典範の施行当日、つまり昭和22年5月3日付で、宮内府長官官房文書課長名による依命通牒が出され、その第3項「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて、事務を処理すること(例、皇室諸制典の附式 皇族の班位等)」によって、たとえば宮中祭祀はほぼ従来どおり存続することになりました。

宮中祭祀に携わる人たちなら常識のはずですが、もしかして神道学(近代神道史)を専攻する國學院大教授ともあろうお人が知らないのでしょうか。信じがたい気がします。本気で「法規がない」と仰せなら、反天皇の立場に立つらしい宗教学者や皇室研究家などが「宮中祭祀は法的裏付けがない」「戦後も温存された」などと放言しているのとあまり代わり映えしません。

教授の言う「滞りなく」とは、諸儀礼が大枠で登極令に準じて行われたことを意味するのでしょうが、登極令が廃止され、「法規がない」のに、どうして登極令に準じた御代替わりが執り行われ得るのでしょうか。何かほかに法的根拠があるはずだとは想像なさらないのでしょうか。日本は古来、法治国家なのです。「法規が一切ない」なんてあるはずがないのです。そうは思われないのでしょうか。

御代替わりの歴史を正しく検証しようというのなら、「法規がない」なかで、諸儀礼がどのように「変更」されたかではなくて、逆に、法的基準があるのにもかかわらず、何がどのように変更されたか、なぜ変更されなければならなかったのかを検証すべきではないでしょうか。そこに神道学者の役割があるはずです。

たとえば教授は、「2 全体的な変更点」で、近代では「践祚」の語が使われたが、戦後は「法規がない」ため使われなくなったと指摘していますが、そうではなくて、依命通牒があるのにもかかわらず、登極令附式に定められる「践祚ノ式」が「剣璽渡御ノ儀」という宗教的儀礼を含むことを政府が嫌った結果、践祚の儀はズタズタにされたということでしょう。

皇室典範改正が議論されていた昭和21年当時、金森徳次郎大臣は、改正案には「践祚」という文字は消えたけれども中身に変更はない、即位礼の中身に変更はないという趣旨の答弁をしていますが、いまの政府は、「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」とを対立的にとらえ、皇室の伝統行事を伝統のままに行うことは現行憲法の趣旨に反すると考え、国の行事と皇室行事とを二分し、そして「践祚後朝見ノ儀」は「朝見の儀」となったのです。

なぜそのようにしたのか。現行憲法の政教分離原則にこだわるあまり、平安期以来の践祚と即位の分離という大原則を失ったばかりではありません。依命通牒の解釈・運用を大きく変更させた結果であると指摘するのが、國學院で教鞭を執る神道学者のあるべき姿勢であり、「正す会」の趣旨にかなうことではないでしょうか。

教授は「おわりに」で、「平成の御代替わりは、大枠は明治皇室典範や登極令に準拠しつつも、変更点も数多く、近代皇室制度の転換を表すものだった」と振り返り、「今回はさらなる大幅な修正をもたらすもの」と指摘し、「現代の登極令を整備する必要がある」と結論づけています。

これには心から同意しますが、そのためには、あらためて戦後史をより正確に検証する必要があります。そうでなければ、学問的検証といいつつ、単に政府の政策を追認するだけで満足することになるでしょう。そうはならないよう、齊藤教授の奮起を心から期待します。


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「斎藤吉久のブログ」令和2年閲覧数ランキング・トップ10 [天皇・皇室]


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「斎藤吉久のブログ」令和2年閲覧数ランキング・トップ10
(令和2年12月27日)
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今年もあと数日となりました。
ここ数年は御代替わりを中心に書いてきたつもりです。書きたいテーマはあれど、書き足りないことの方が多かったように思います。どの程度、読んでくださる方の心に届いたのか、心許ない限りです。
さて、以下は今年の閲覧数ランキング・トップ10の記事です。評価は読者の方々にお任せします。


1位 男系主義の根拠が理解できない。園部逸夫vs御厨貴「週刊朝日」対談が示してくれた現代知識人のお寒いレベル(3月8日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-08

2位 天皇制をやめるんですか──伊藤智永・毎日新聞編集委員の皇室記事を読んで(1月5日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-01-05

3位 どうしても女性天皇でなければならないのか。男系を固守することは不正義なのか。なぜ男系の絶えない制度を考えようとしないのか?(2月9日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-02-09?1609042422

4位 「皇統は一系にして分かつべからず」とは男系継承固持にほかならない(5月17日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-05-17?1609042126

5位 男系継承派と女系容認派はカインとアベルに過ぎない。演繹法的かつ帰納法的な天皇観はなぜ失われたのか(4月5日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-04-05

6位 皇兄弟による皇位継承は過去に24例。次の御代替わりは異例にあらず(5月24日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-05-24

7位 神社本庁創立の精神からほど遠い「金刀比羅宮の離脱」(6月21日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-06-21

8位 椎名さん、逆に人材不足でしょ。葦津珍彦のように後進を育成する人がいないのです(5月31日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-05-31?1609041949

9位 眞子内親王の皇籍離脱をけしかける登誠一郎元内閣外政審議室長の不遜。安倍総理の次は秋篠宮親王に直言。女性天皇・女系継承容認へまっしぐら(1月26日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-01-26

10位 「皇統は男系に限る」と断言しつつ、根拠は神勅と歴史以外に見当たらない『帝室制度史』(5月10日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-05-10?1609042245


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先帝「テニスコートの恋」と眞子内親王「ICUの恋」との雲泥の差。変質した宮内庁 [眞子内親王]

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先帝「テニスコートの恋」と眞子内親王「ICUの恋」との雲泥の差。変質した宮内庁
(令和2年12月20日)
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8年前、J-CASTニュースに「『テニスコートの恋』の真相」と題する、佐伯晋・元朝日新聞記者の記事が載った。佐伯さんは昭和6年生まれ、朝日新聞でお妃選びの取材を担当し、社会部長、取締役、専務を歴任。先月、老衰で亡くなったとの訃報が伝えられた。記事は「テニスコートの恋」の取材ノートが元になっている。「責任をもって調整、アレンジされた恋愛結婚だ」というのが佐伯さんの結論だ。〈https://www.j-cast.com/2012/05/14128824.html?p=3

世間では、先帝陛下の御結婚が自由な恋愛の結果であるかのように信じられている。その現代の伝説はその後の皇族方の御結婚にも大きく影響を与えている。今上陛下も皇太弟殿下も民間人との恋愛結婚を選ばれた。そして眞子内親王殿下の御結婚をも左右することとなった。

しかし先帝陛下の御結婚は純粋な恋愛だったのか。疑り深い私はどうも腑に落ちない。たとえば御用邸のある葉山が舞台なら分かるが、軽井沢に御用邸はない。なぜテニスなのかも、これもよく分からない。そもそも当時の宮内庁が自由な恋愛を認めるはずもないと考えるのが常識的な見方というものだろう。

週刊朝日オンラインが昨年4月、先帝陛下と皇太后陛下のキューピッド役を務めたという織田和雄さんのインタビュー記事を載せた(聞き手は上田耕二記者)。織田さんの父・幹雄さんはオリンピック三段跳びの金メダリストで、朝日新聞に入社し、のちに早稲田大学教授ともなった。和雄さんは次男で、先帝陛下とは学習院時代からテニスを通じて交流があった。しかし記事にはなぜ軽井沢のテニスコートなのか、まったく説明がない。〈https://dot.asahi.com/wa/2019042700002.html?page=1

けれども佐伯さんの回想を読んで、なるほどと思った。そしてますます現代の皇室がおいたわしく思われてならなくなった。藩屏による必要なお膳立ても調整も感じられないからである。浮かび上がってくるのは官僚の責任逃れと底知れぬ脱力感である。


▽1 恋愛説を国会で否定した宮内庁長官

佐伯さんの記事をもとに、出会いから御成婚までを時系列で振り返ってみたい。

1955年 お妃選びが本格化。旧華族中心に選考が進む
1957年8月 軽井沢テニスコートでの出会い。お膳立てではなく偶然だった。恋に落ちたわけでもない
9月 宮内庁首脳が聖心女子大などの女子大数校と複数の名門女子高校に、極秘で推薦依頼を開始。聖心の場合、推薦の筆頭が正田美智子さんだった。独自調査が始まり、民間に調査対象が広がった
10月 東京・調布で2回目のテニス。黒木従達・東宮侍従が美智子さんをお誘いするよう水を向けたのだった
1958年1月 旧華族のK嬢が選外に。松平信子・常磐会会長が今度は旧華族のH嬢を検討するよう提案
2月 皇太子殿下に黒木侍従が「正田さんを調べてみるよう小泉信三さんにお願いしたらどうですか」と助言か
同月 皇太子殿下が選考首脳の小泉信三の勧めで南麻布のテニスクラブに入会
3月 皇太子殿下の御学友の紹介で、美智子さんが同じテニスクラブに入会
3月3日 小泉邸で首脳会議。K嬢断念の正式決定とH嬢を調べることが決まる。小泉が美智子さんを候補とするよう提案し了承される
4月初旬 旧華族で候補だったH嬢が選考からはずれる
5月2日 宇佐美毅・宮内庁長官邸での会議で、美智子さんへのお妃候補一本化がほぼ決まる
9月18日 黒木従達・東宮侍従が、美智子さんの実家の正田家へ皇太子さまによる求婚のご意思を伝える
10月26日 美智子さんが外遊から帰国
11月3日 正田家が箱根のホテルで家族会議
11月5日夜 黒木侍従を正田家に遣わし、誠意に満ちたお言葉を伝えさせる
11月12日 皇太子殿下が3時間半かけて秩父宮妃らに御説明
11月13日 正田家が小泉信三に正式に受諾を伝える
11月27日 皇室会議。御婚約発表
1959年2月6日 宇佐美長官が衆院内閣委員会で、「世上で一昨年あたりから軽井沢で恋愛が始まったというようなことが伝えられますが、その事実は全くございません」と「恋愛説」を否定
4月10日 御成婚。結婚の儀


▽2 守旧派を切り崩す切り札

宇佐美長官が国会で「軽井沢で恋愛が始まったという事実はまったくない」と恋愛説を完全否定しているにも関わらず、「テニスコートの恋」説が広まったのはなぜか。それは時代性と関わる。〈https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=103104889X00519590206¤t=1

佐伯さんの説明では、昭和30年ころといえば、皇族の恋愛結婚なんてそんなはしたないと考えられていたし、民間出身のお妃には否定的な考えが根強かった。女子学習院OGで組織される常磐会が隠然たる発言権を持っていて、宮内庁内にも人脈が根を張っていた。常磐会の会長は秩父宮雍仁親王妃勢津子殿下の母・松平信子さん(鍋島直大侯爵の四女。松平恒雄参院議長夫人)だった。

であればこそ、旧華族出身者がお妃選びの候補とされた。しかし新しい時代となり、経済的に困窮する旧華族もあり、拝辞する候補もいた。旧華族がリストから次々と消えていき、民間に候補者を探さざるを得なかった。

正田美智子さんが最有力候補として浮上したとき、選考首脳たちは事前に情報が漏れることを恐れた。大騒ぎになることは目に見えていた。そこで一計を案じ、常磐会の松平会長らが推す旧華族出身のK嬢の線で進んでいることを強調しつつ、黒木東宮侍従らは南麻布のテニスクラブを出会の場と定め、交際を深められるようお膳立てしたのだった。クラブは選考首脳・小泉信三邸のそばだった。

民間からのお輿入れを拒否する守旧派を打ち崩す切り札は、皇太子殿下が恋愛してくださることだった。選考首脳たちはそのためのお膳立てを極秘に重ねていった。最後は皇太子殿下が時間をかけて秩父宮妃を説得された。それだけ、民間人女性が皇室に入ることは敷居の高いことだったのである。

そこが現代とまったく違うところである。それなら現在はどうであろうか。


▽3 繰り返される傍観者の無責任

事実とは異なるはずの「テニスコートの恋」伝説が一般社会と同様に、皇室にもすっかり浸透してしまったかのようである。かつては「国家」と書いて「ミカド」と読んだ。「おおやけ」とは皇室を意味し、「天皇に私なし」とされたが、いまや天皇・皇族は私人化している。藩屏がいないからだ。

宮内庁はかつては陛下に仕える家族的組織だったというが、いまや他省庁出身者の寄せ集めで、皇族方の御結婚を親身になってアレンジしようとする幹部たちを見出すことは不可能だろう。隠然たる勢力を誇った常磐会も同様で、先帝御成婚の轍を踏むことはあり得ないのではないか。

そして「ICUの恋」事件が生まれたのであろう。西村泰彦宮内庁長官は「海の王子」側に「説明責任」を要求している。当然ではあるが、内定までに宮内庁が行ったであろう身辺調査が明らかに不十分だったことの「責任」は不問なのだろうか。3年前、山本信一郎長官は「立派な方」と会見で述べ、先帝陛下は御裁可になったと伝えられる。「海の王子」への要求は責任逃れではないのか。

私は傍観者の無責任を痛感する。内親王殿下の婚姻に深く心を痛めているのは、本来、口を挟むべき立場にない国民である。逆に皇室を支えるべき立場の長官らには責任観念が感じられない。

私が不快感を禁じ得ないのは、同様の無責任が繰り返されているからだ。

先帝陛下の御在位20年のころ、宮内庁は御公務御負担軽減策を実施したが、御公務の件数は減るどころか逆に増えた。文字通り激減したのは天皇第一のお務めと歴代が信じ、実践してこられた宮中祭祀のお出ましだった。宮内庁の御負担軽減策は見事に失敗したのに、誰も責任を取ろうとはしなかった。

それどころか御負担軽減には女性皇族が婚姻後も陛下の御公務を分担していただく必要があるという理屈で検討が始まったのが、いわゆる「女性宮家」創設だった。しかし歴史にない「女性宮家」創設は天皇の歴史を一変させる女系継承容認の隠れ蓑であるという疑いが晴れない。「ICUの恋」への国民の心配もそこにある。

言い出しっぺと目される元侍従長は旧伯爵家の出身で、曽祖父は宮内大臣を務めたらしいが、皇室の伝統と権威を守り抜こうというお考えはお持ちでないのだろうか。なぜ男系の絶えない制度を模索せず、逆に男系主義を破棄しようとするのか。宮内庁の変質をつくづく思う。


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西村長官さま、小室家の説明責任要求の前に、宮内庁自身の責任が問われるのでは? [眞子内親王]


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西村長官さま、小室家の説明責任要求の前に、宮内庁自身の責任が問われるのでは?
(令和2年12月13日)
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西村宮内庁長官が10日の定例会見で、眞子内親王殿下との御結婚について数々の批判があることについて、「説明責任を果たすべき」と、お相手の小室圭さん側に説明を求めたという。

とうとうここまで来たのかと嫌がうえにも重苦しい思いに駆られる異例の要請だが、事ここに至った経緯とことの重大さを思えばこれも当然なのだろう。

ただ、どうにも腑に落ちないのは、宮内庁自身の責任が曖昧にされているように思えてならないことである。


▽1 風岡、山本の歴代長官は知らなかったのか

眞子内親王殿下と小室圭さんの御結婚話は、平成29年5月のNHKのスクープに始まる。

同年秋以降に予定されていたという内定発表は前倒しされ、9月3日、山本長官は会見で「ご結婚のお相手としてふさわしい誠に立派な方」と小室さんを評した。おふたりの記者会見が設定され、陛下(先帝)の御裁可も得られていると伝えられた。結婚の儀は翌年秋との見通しが示され、国民の祝福ムードも高まった。

ところがである。ほどなくして、スキャンダルな情報が次から次へ、これでもかと溢れてきて、空気は完全に一変した。とうとう予定されていた納采の儀は延期され、今日に至っている。

そこで、きわめて疑問に思われるのは、宮内庁の情報力である。

陛下が御裁可になったということは、宮内庁による事前の身体検査に小室さんは合格していたということになる。けれども、その後のメディア報道で簡単につき崩されてしまった。宮内庁の情報収集力が話にならないほど、お粗末だったことになる。

馴れ初めは8年前の平成24年らしい。ちょうど風岡次長が長官に昇格したころということになる。次長は山本前長官である。

おふたりはデートを重ね、1年後には小室さんがプロポーズしたという。おふたりの行動は、警護する皇宮警察が知らなかったはずはない。しかし小室家の闇までは知らなかったということだろうか。そんなことがあり得るのだろうか。

もし宮内庁が小室家のスキャンダルを掴んでいたなら、婚約内定会見などあり得なかったろう。むろん陛下の御裁可はいうまでもない。問われているのは、小室さん側ではなくて、宮内庁ではないのか。


▽2 藩屏がいない皇室

風岡長官は建設省の出身で、国交省事務次官を務めたあと、宮内庁次長となり、羽毛田長官退任のあと長官に昇格した。山本次長は自治省出身の総務官僚で、とくに選挙に詳しく、内閣府事務次官まで務め上げている。とすれば情報分野に疎いということは考えにくい。だとすれば、なぜこんな前代未聞の醜聞に立ち至ったのだろう。

皇太弟はここ数年、お誕生日の会見で、宮内記者会の質問攻勢を受けている。年に一度のお祝いの日のはずなのに、さぞかし気が重いことだろうと拝察される。おいたわしい限りである。

その責任は間違いなく宮内庁にある。皇室を支えるべき立場にありながら、逆に権威を貶めているということにならないか。内親王はけっして私人ではないし、内親王の婚姻は私事ではない。ところが現実には、天皇・皇族方は限りなく個人化している。支えるべき藩屏がいないからだ。

結果として、皇室の権威はどんどん失墜していく。古来、皇室を戴く日本という国の名誉もまた同様である。皇室批判はタコが身を食うのに似る。宮内庁の罪はまことに重いといわねばならない。けっして小室さん側に責任を押し付けて済むことではない。

おりしも「皇女」制度というものの検討が始まったらしい。天皇・皇室の歴史と伝統からすれば、ヒメミコ=皇女であり、内親王ならいざ知らず、臣籍降嫁した女王に「皇女」の地位を与えることなどまったくあり得ない。悠久なる歴史がまったく無視されている。

しかし歴史からの逸脱はいまに始まったことではない。

宮内庁は20年以上も前から、皇室の歴史にない「女性宮家」創設、女系継承の容認を進めてきたことが分かっている。今回の御代替わりでは、譲位と践祚が分離され、代始改元は退位記念の改元となり、大嘗宮は角柱、板葺きになるなど、やりたい放題だった。そんな謀叛の集団と化したような宮内庁に、小室さん側に正常化を要求する資格があるようには思えないのである。


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儀礼から見た内親王殿下の御結婚。皇室親族令の附式から考える [眞子内親王]


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儀礼から見た内親王殿下の御結婚。皇室親族令の附式から考える
(令和2年12月6日)
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内親王が婚姻なさるとき、どのような儀礼が行われるのか、皇室親族令の附式から考えてみます。

皇室親族令は皇室の婚姻、家族関係を規定する皇室令で、明治43年に制定されました。ほかの皇室令と同様、昭和22年5月3日の日本国憲法施行とともに廃止されましたが、関係する新たな規定は作られていません。

したがって、同日に宮内府長官官房文書課長名で発せられた依命通牒の第3項「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」により、その附式に準じて、このたびの眞子内親王の御結婚も進められるものと普通なら予想されます。

ただし、実際はどうなるのかどうかです。なお、皇室親族令の原文は国会図書館のデジタルコレクションで、いつでも誰でも閲覧可能です。〈https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/988396?contentNo=8


▽1 詳細を定める附式

皇室親族令は68条に及ぶ本則のほかに附式があり、附式は「第一編 婚家の式」と「第二編 誕生の式」に区分されています。第一編はさらに「第一 大婚式」「第二 皇太子結婚式(皇太孫結婚式これに準ず)」「第三 親王結婚式(王結婚式これに準ず)」「第四 内親王、臣籍に嫁する場合における式(女王、臣籍に嫁する場合における式これに準ず)」に分かれます。

婚家にあたつて、実際、どのような儀礼が行われるのか、この附式に詳細が決められています。

天皇の結婚を大婚といいますが、大婚の場合は、皇室の聖域たる宮中三殿、皇祖神を祀る伊勢の神宮、初代神武天皇を祀る御陵などが会場となり、祭祀にはむろん、皇族方のほか、宮内大臣、侍従長、式部官長、掌典長らが最高位の正装で参与します。

具体的にみると、大婚では、賢所に成約奉告の儀、皇霊殿神殿に成約報告の儀が行われたのち、神宮および山陵に勅使が発遣され、奉幣の儀が行われ、このあと納采の儀、后氏に勲章並びに御剣を賜うの儀、告期の儀、御書を賜うの儀があり、賢所皇霊殿神殿に立后奉告の儀、后氏入第の儀、賢所大前の儀のあと、皇霊殿神殿に謁するの儀、皇太后に謁するの儀、天皇皇后朝賀を受くるの儀、大床子供膳の儀、三箇夜餅の儀、宮中饗宴第一日、第二日の儀、宮中夜宴の儀、神宮に謁するの儀、神武天皇山陵並びに先帝先后の山陵に謁するの儀と続きます。

皇太子結婚式の場合は、賢所皇霊殿神殿に成約奉告の儀のあと、神宮、山陵に勅使が発遣され、奉幣が行われ、そのあと納采の儀、勲章を賜うの儀、贈剣の儀、告期の儀があり、賢所皇霊殿神殿に結婚奉告の儀、妃氏入宮の儀、賢所大前の儀、皇霊殿神殿に謁するの儀と続き、参内朝見の儀、皇太后に朝見の儀、供膳の儀、三箇夜餅の儀、宮中饗宴の儀、神宮神武天皇山陵並びに先帝先后の山陵に謁するの儀が行われます。

親王の場合は、納采の儀、告期の儀、后氏入第の儀、賢所大前の儀、皇霊殿神殿に謁するの儀、参内朝見の儀、皇太后に朝見の儀と続きます。天皇、皇太子の場合とは大きく異なり、かなり簡略化されていることが分かります。


▽2 清子内親王の結婚式は帝国ホテルで

眞子内親王のように、内親王が臣籍に嫁する場合における式は、納采の儀、告期の儀、賢所皇霊殿神殿に謁するの儀、参内朝見の儀、皇太后に朝見の儀、内親王入第の儀と続くと規定されています。

親王と同様に簡略化されているだけではありません。内親王の結婚の儀は賢所大前では行われません。それでも結婚の礼を行う前に、内親王は賢所皇霊殿神殿に謁し、かつ天皇、皇后、太皇太后、皇太后に朝見することとされています(皇室親族令27条)。

結納に当たる納采の儀は、配偶者側の親族のお使いが正装の上、幣贄を持参し、内親王の殿邸を訪れて行われます。告期の儀も、同様に、配偶者側のお使いが正装の上、内親王の殿邸で行われます。

明治の皇室典範は内親王の婚家は皇族もしくは華族しか想定していませんでしたから、お使いを務めるのは華族の親族でした。

戦後、臣籍に嫁した内親王は昭和天皇の第3皇女・和子内親王(昭和25年。配偶者は元公爵家の鷹司平通)、第4皇女・厚子内親王(同27年。配偶者は元公爵家の池田隆政)、第5皇女・貴子内親王(同35年。配偶者は旧伯爵家の島津久永)などの例があります。昭和天皇の皇女のお相手はいずれも旧華族です。

先帝の第1皇女・清子内親王の御結婚は平成17年で、配偶者となったのはまったくの民間人でした。このため従兄弟が使いとなり、場所も宮殿で納采の儀が執り行われました。今回はどうなるのでしょうか。

賢所皇霊殿神殿に謁するの儀は、内親王が三殿の外陣で拝礼するもので、配偶者は登場しません。内親王は五衣唐衣裳に正装し、他家へ嫁ぎ、姓が変わる前に皇祖神ほか神々へのお別れのご挨拶を申し上げるのです。

入第の儀はやはり配偶者の使いが内親王の殿邸を訪れて、お迎えに上がるという儀式です。

皇太子、皇太孫、親王、王の結婚の礼は、附式の定むるところにより賢所大前において行うと皇室親族令23条は定めていましたが、内親王の結婚の儀の場合、賢所大前では行われません。配偶者が三殿に上るということはありません。

15年前の清子内親王の場合、結婚式が帝国ホテルの一室に皇祖神を祀り、旧皇族が斎主を務めて、執り行われたことは記憶に新しいところです。眞子内親王のときはどうなるのでしょう。


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