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《再掲》「米と粟の祭り」──多様なる国民を統合する新嘗祭 [宮中祭祀]


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《再掲》「米と粟の祭り」──多様なる国民を統合する新嘗祭
(令和3年11月23日、勤労感謝の日)
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本日夕刻から、陛下は宮中の奥深い神域・神嘉殿で、皇祖神ほか天神地祇を祀り、新穀を供し、みずから食される新嘗祭を親祭されます。陛下がなさる新嘗祭とはいかなる祭りなのか、以下、斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2007年11月20日号)号から転載・再掲します。


▽1 見落とされている粟の存在

毎年11月23日の夜に宮中で行なわれる新嘗祭、あるいは天皇が天皇となって初めて行なう大嘗祭という神事で、天皇がみずから神々にささげ、そのあとご自身で召し上がるのは、一般には米の新穀といわれています。しかし、じつはそうではなく、米と粟の二種類の穀物の新穀であり、米だけではありません。

にもかかわらず、大嘗祭も新嘗祭も一般には「稲の祭り」といわれ、大嘗祭に用いる米を納めるために選ばれる農家は「大田主」と呼ばれ、重んじられるのに、粟を納める農家は「大田主」とは呼ばれません。実際の神事において、どちらが重要というわけではないようですが、粟の存在はしばしば見落とされています。

研究者も稲にばかり注目し、なぜ米といっしょに粟が捧げられるのか、ほとんど研究らしいものが見当たりませんが、奈良・平安のころ、民間には粟の新穀を神々に捧げる祭りが行なわれていたのは事実のようです。古い書物にそのような記録があるからです。


▽2 かつては粟の新嘗があった?

各地方の情報を集めた書物を地誌といい、日本最初の地誌として奈良時代に元明天皇の命でまとめられた風土記が知られています。その中で現在の茨城県について伝えている「常陸国風土記」に、母神が子供の神々を訪ね歩く筑波郡の物語が載っていて、「新粟の新嘗」「新粟嘗」という言葉が登場します。

日が暮れたので富士山の神さまに宿を請うと、「新嘗のため、家中が物忌みをしているので、ご勘弁ください」と断られたのに対し、筑波山の神さまは「今宵は新嘗だが、お断りもできまい」と大神を招き入れた、というのです。

ここから、このころの新嘗祭は村をあげて心身をきよめ、女性や子供は屋内にこもって、神々との交流を待ち、ふだんならもてなす客人を家中に入れることさえはばかったことが分かります。

それなら文中に出てくる「新粟の新嘗」「新粟嘗」とは何でしょう。たとえば「日本古典文学大系」では、この「粟」に「脱穀しない稲実」と注釈が加えられていますが、どう見ても疑問です。

「粟」はあくまで「粟」であって、ある民間の研究者が解説するように「宮中祭祀としての新嘗祭は、民間の素朴な新嘗が母体になっていると考え、宮中新嘗祭における粟は、その残影として理解することは無理であろうか」という問いかけの方が素直な理解ではないでしょうか。


▽3 祭りの霊力で国民をまとめてきた天皇

それでは、なぜ米と粟をささげるのでしょう。

民俗学の第一人者、近畿大学の野本寛一教授は、筆者の取材にこう答えています。

「天神地祇に米と粟をささげる新嘗祭、大嘗祭の儀礼は、米の民である稲作民と粟の民である畑作民をひとつに統合する象徴的儀礼として理解できるのではないか」

野本教授は『焼畑民俗文化論』で、水田稲作以前の民が粟や芋を栽培していたこと、この畑作文化は民俗学の先駆者である柳田国男が提唱した、東南アジア島嶼地域に連なる「海上の道」をたどって伝来したこと、を説明しています。

天皇にとってもっとも重要な神事である新嘗祭、大嘗祭は、「稲の祭り」だけではなく、稲作儀礼と畑作儀礼という淵源の異なるふたつの儀礼の複合と理解されます。

天皇は政治力でも、軍事力でもなくて、祭りを通じて、祭りの持つ霊的な力によって、文化的に多様な国と民をひとつにまとめることを務めとされてきた、ということが浮かび上がってきませんか。


参考文献=『風土記』(日本古典文学大系2、岩波書店、昭和33年)、落合偉洲「新嘗祭と粟」(「神道及び神道史」国学院大学神道史会、昭和50年7月所収)、野本寛一『焼畑民俗文化論』(雄山閣出版、1984年)など


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皇室におけるラブ・マリッジとアレンジド・マリッジ──額田王から「ICUの恋」まで [眞子内親王]

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皇室におけるラブ・マリッジとアレンジド・マリッジ──額田王から「ICUの恋」まで
(令和3年11月20日、土曜日)
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▽1 額田王と大海人皇子の問答歌の真相

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

誰もが知る万葉集の代表歌のひとつである。作者の額田王は古代の皇族で、大海人皇子(40代天武天皇)の妃である。「袖を振る」は古い求愛表現である。大海人皇子による次の歌と対になっていて、「蒲生野問答歌」と呼ばれる。

紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも

「袖振る」に対して「人妻」とは聞きづてならない。題詞には「(38代天智)天皇が蒲生野で狩りをされた時に額田王が作った歌」とある。天智天皇と天武天皇は34代舒明天皇と宝皇女(35代皇極天皇、重祚して37代斉明天皇)を父母とするご兄弟で、額田王をめぐって三角関係にあった、とかつては解釈されてきた。

だが、そもそも歌は相聞歌ではなく、雑歌に分類されており、恋の歌とはされていない。国文学者の池田彌三郎は、宗教的な宮中行事の際に催された宴席で、大海人皇子が無骨な舞を舞ったのを才女の額田王が「袖振る」とからかい、これに対して皇子が四十路の額田王を「にほへる妹」としっぺ返しした、と理解した(『萬葉百歌』1963年)。今日ではこれが定説化しているという。

しかしそれでも、宝塚歌劇団の「あかねさす紫の花」(1976年初演)などは逆に、文字通りの「万葉ロマン」と解して、再演を続けている。「律令国家形成の立役者となった中大兄皇子、大海人皇子という才気溢れる二人の兄弟が、女流歌人・額田女王を巡って繰り広げる愛憎劇」と説明されている。

万葉集だけではない。古代の貴族社会のラブロマンスは「世界最古の長編小説」とされる『源氏物語』にも描かれ、現代に伝えられている。王朝文学に描かれたラブロマンスは、民衆の熱烈な憧れとして続いている。そして、現代の「テニスコートの恋」や「ICUの恋」とも繋がっているのだろう。


▽2 インド人たちに笑われた日本人の「恋愛」

バングラデシュという国の孤児院を支援するため同国に通っていたころ、南東部のチッタゴン丘陵地帯にチャクマと呼ばれる東アジア系の少数民族が居住していて、「日本人と同じように嬥歌(かがい。歌垣)の文化を持っている」と聞かされ、驚いたことがある。

男女が山に登り、恋の歌を歌い合い、求婚するというのである。まさに万葉集に収められた古代日本の相聞歌を彷彿とさせる。

しかしバングラデシュでは、チャクマは少数派である。

バングラデシュは世界最大級のムスリム人口を抱える国で、男女の区別が宗教的にはっきりしている。だから、戸外で女性を見かけることはまずない。

厳格なイスラム教徒が多い地方に行くと、どうしても外出が必要なときは女性は黒づくめのブルカ姿になる。物珍しく思って、不用意にカメラを向けようものなら、身の危険を覚悟しないといけない場合もあると聞いた。

ダッカのような大都会では、夕暮れ時に若いカップルを、数少ないデートスポットで見かけたが、あくまで最近の現象らしい。公衆の面前で仲良くしすぎるのはご法度で、警察に注意されることもあるという。結婚は当然、親同士が決めることになる。

同じころ、南インドのカリカットに足を伸ばしたら、思いがけず、ヒンドゥー教徒の結婚式に招待された。みんながみんな着飾った華やかな席に、ラフなスタイルの日本人がカメラを片手に、しかも招待者として、いきなり現れたのだから、否が応でも目立ち、質問攻めにされた。

とりわけ若い女性たちの関心は結婚で、「日本人はどうやって相手を見つけるの?」などと無邪気に聞くから、「恋愛(love marriage)と見合い(arranged marriage)と半々かな」と適当に答えたら、いっせいに笑われた。「私たちは親が決めるの。それがいちばん幸せなのよ」と真顔で応じるのを見て、宗教と文化の違いを思い知らされた。

インド世界と日本とでは愛のかたちが違う。


▽3 明治の近代化が契機

千葉大学の江守五夫名誉教授(民俗学)によると、日本人の婚姻習俗には次のようないくつかの類型があるという(『婚姻の民俗』1998年)。

(1)南方系の一時的訪婚
(2)北方系の嫁入婚
(3)玄界灘型嫁入婚
(4)北陸型嫁入婚

柳田国男は古代には妻訪婚が支配的だったが、中世武家社会に嫁入婚が形成されたと説き、かつてはこれが通説だった。しかし、嫁入婚がすべて妻訪婚から変化したとする一元的な通説には疑問がある、と江守氏は述べている。

むろん「親が決める」婚姻がすべてではない。かつての日本では、祭りや盆踊りなどは男女の交歓の場であった。

以前、東京・川の手の社家出身者から興味深い思い出を聞いたことがある。彼女が子供のころ、お宮の周りは水田や蓮田が一面に広がっていた。街灯もなく、夜は闇に包まれる。盆踊りのお囃子が聞こえると、どこからとなく若い男女が集まってくる。懐中電灯などはないから、代わりに蛍を捕まえて、和紙にくるみ、耳にさす。闇夜にかすかな灯りが動いていくのはじつに優雅で、美しい。

「お母さん、私もやってみたい」とねだると、母親に「あれは下々のすることです」とたしなめられた。何十年も前の思い出を笑いながら私に聞かせてくれたものだ。

神社のお祭りや盆踊りは、むろんいまも続いているが、もはや愛の交歓の場ではなくなっている。というより、日本人の愛のかたちが、少なくとも表向きはずいぶんと変わってしまったように見える。それはいつ、なぜなのか。

江戸の町は女性の人口比率が低かったといわれる。当然、チョンガが多く、遊郭が発達した。湯屋(銭湯)は混浴(入込湯)で、老中松平定信は風紀の乱れを理由に「入込湯厳禁」の御触れを出した。しかし御触れは守られず、混浴禁止がきびしく守られるようになったのは明治以後らしい。近代化、すなわち欧米のキリスト教文化の影響である。

お堅いイメージの伊勢神宮のお膝元にも、かつては遊郭があった。江戸中期には参宮街道沿いに妓楼70軒が軒を連ねたらしい。遊女の数は1000人に及び、三大遊郭のひとつに数えられた。いまでは想像もつかない。

いま宇治橋を渡り、内宮の宮域に入ると不自然なほど、芝生の西洋風庭園が広がっている。江戸期には神職の自宅や茶屋などが立ち並んでいたのを、明治になり撤去させられたという。神聖さを増すための明治の改革によるものだが、以前の茶屋は名物餅を提供するだけの単なる休憩所だったのかどうか。古社と花街とは古来、深い関係が指摘される。


▽4 キリスト教が変え、キリスト教が変わる

民俗学者の瀬川清子・大妻女子大学教授は、男女の出会いに関する、戦前の興味深い逸話を記録している。

長崎・五島列島には「若衆宿」の風習があったのだが、ある島では学校の校長が「娘宿」の解散を命じた。これに対して生徒たちが強く抵抗したというのである。「娘宿が無くなったら、私たちは結婚できない。どうやって相手を見つければいいのか?」。娘宿は相手を観察し、吟味する大切な場だった。それで1年後には復活したという。

明治の学校教育は欧化主義そのものだった。その背景にはキリスト教主義があり、教師はいわば宣教師であった。この島ではキリスト教的結婚観との相剋が起き、日本的結婚観に対して変更を求め、この場合は敗れたのである。

同様にキリスト教の影響から変更を要求され、そして実際、変質させられた祭礼もある。たとえば東京・府中市の大国魂神社の例大祭「くらやみ祭」である。かつては夜間、文字通りの漆黒の闇の中で行われ、男女の出会いの場でもあったが、明治になって改められた。

それでも、地方の古いお宮には、奉納された陰陽石がそのまま境内の片隅に残されていることがある。多産や豊穣を祈願する大らかな生殖器崇拝をいまに伝えている。

いや、それどころか、川崎市・若宮八幡宮の境内社・金山神社(かなまらさま)の祭り「かなまら祭」などは年々、熱気を帯びている。昭和50年代に始まった新しい行事だが、男根神輿の渡御には横須賀の基地などから外国人たちが数多く参加する。

性を神聖なものとみる素朴な信仰は世界に共通している。古くはヨーロッパにもあったが、キリスト教の浸透で廃れてしまったらしい。日本ではキリスト教の影響で歪められたとはいえ、根強く残っている。そして逆に、いまや欧米人が強い関心を示している。「自由」は近代の概念のはずだが、日本の古代にこそ「自由」はあった。


▽5 オモテの世界とオクの世界

さて、長々と書いてきたのは、結局、何を言いたいのかといえば、日本人のなかで評価が大きく分かれる眞子元内親王殿下の「ICUの恋」である。内親王殿下の「自由恋愛」を強く拒絶する人が多い一方で、逆に支持者が少なくないのは、なぜなのか。

それは、おそらく現代日本人のなかに、皇室への強い憧れとともに、古代からの自由な「愛のかたち」が静かに受け継がれているからではないだろうか。愛は永遠なのである。

他方で、欧米のメディアなどに支持が多いのは、キリスト教的個人主義の伝統に加えて、逆に清教徒的な禁欲主義がもはや過去のものとなっているからではないかと私は疑っている。欧米人たちも変わったのである。

その意味では、日本人の結婚事情を笑ったインド人たちが、内親王殿下の「ICUの恋」をどう見ているのか、ぜひ聞いてみたいものだと思う。

ただ、強く注意を喚起しなければならないのは、日本の皇室の場合、「天皇無私」の伝統を崩してはならないことだ。額田王は天武天皇の妃だが、天武天皇の皇后はあくまで鸕野讃良皇女(持統天皇)である。問答歌はあくまでも余興なのである。

以前、書いたように、太上天皇の「テニスコートの恋」は側近たちによってアレンジされたものであったが、自由恋愛のように信じられてきた。その影響はいまに及び、今上天皇は皇太子時代、将来、皇后となるべき女性に「僕が一生全力でお守りします」と仰せになり、ハートを射止められた。「学習院の恋」「ICUの恋」にも影響は続いている。

オクの世界ならそれでもかまわない。けれども、オモテはそうではないし、そうであってはならない。天皇に「私」があってはならないからだ。「天つ神の御心を大御心として」(本居宣長『直毘魂』)、すなわち公正かつ無私が天皇の大原則だからである。自由恋愛ではすまない。元内親王殿下がいつの日か、そのことを理解してくださるかどうか。


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「男系男子」継承の理由が説明されない。だからアメリカ人にも理解されない [眞子内親王]


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「男系男子」継承の理由が説明されない。だからアメリカ人にも理解されない
(令和3年11月14日、日曜日)
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誰でも一度は聞いたことがある、ABBAの代表曲「ダンシング・クイーン」には、1976年6月に結婚されたスウェーデンのカール16世グスタフ国王の結婚披露宴で初披露されたというユニークな歴史がある。

王妃となった女性は第二次大戦中のドイツ生まれで、その父親はドイツ人、しかもナチス党員だったというので、とくにユダヤ人たちからは歓迎されなかった。しかし王室は「王妃の父親は王族ではない」として「ノーコメント」を貫いた。さすがの見識である。

ところが日本では、それが感じられない。


▽1 一貫しない「私人」の論理

たとえばNHKである。御結婚で皇籍を離れられた眞子元内親王殿下の渡米について、しつこいほどの報道が続いている。まるでストーカーである。

昨日の夕刻は「あす午前 日本を出発 アメリカへ」と伝え、今日は朝から「きょう日本を出発しアメリカへ」(8時15分)、「羽田空港に到着 このあとアメリカへ出発」(8時51分)、「アメリカに向けて日本を出発」(11時5分)とたたみかけている。

民間人になられた元内親王を、なぜそこまで執拗に追いかける必要があるのか。そして宮内庁もまたしかりである。

報道によれば、西村泰彦長官は11日の定例会見で、小室圭氏のNY州司法試験不合格について、「とくにコメントすることはございません」としながらも、「次回、頑張ってもらいたい」と述べたという。社交辞令では済まされない。

今回の御結婚は徹頭徹尾、「ICUの恋」の成就のため「私人」の立場が貫かれた。それゆえに皇室伝統の儀礼も一時金支給も避けられた。宮内庁もノータッチの姿勢を保ったはずである。それならなぜスウェーデン王室のように、「ノーコメント」で済ませないのか。記者がネチネチと質問したとしても、「民間人」のプライバシーに踏み入る必要はない。

それでも立ち入るというのなら、御結婚について十分な身辺調査を怠った責任を、宮内庁はあらためて問われなければならない。いま佳子内親王殿下の警護が厳格化されていると伝えられるのは、宮内庁自身、遅まきながら、責任を自覚してのことではないか。宮内庁は元内親王を、完全には「私人」と見なしていない。論理が一貫していない。


▽2 アメリカ人が感じる「民間人」「ジェンダー」への違和感

それなら、新生活が始まるアメリカでは、御結婚はどう受け止められているのか。

目に止まったのは、FNNの中川眞理子NY支局特派員による「小室眞子さんの結婚を報じた米メディア『民間人』と『ジェンダー』に微妙な温度差」と題する記事である。

中川記者によると、御結婚はアメリカでも関心が高いらしい。そしてメディアの報道には「コモナー(民間人)」「ジェンダー」の2つの用語が頻出すると指摘している。

まずは「民間」への違和感である。中川記者の解説では、王室のないアメリカ人は、「すべての人は平等」と考える。英語で「私はコモナーです」と言えば、必要以上に自身を卑下しているように聞こえる。だから「コモナー」はめったに使われない。それなのに今回の結婚報道では、この単語のオンパレードだというのだ。

もうひとつは「ジェンダー」。NBCに寄稿したコーネル大准教授の記事の見出しは、「プリンセス・マコのコモナーとの結婚は、皇室を滅ぼしうる、性差別を示唆している」と痛烈に批判したと伝えている。

アメリカのメディアが驚きをもって報じているのは、「日本では女性に皇位継承権がないこと(+女性皇族の減少)」と「結婚によって皇室を離れること」の2点だという。

中川記者の記事は、イギリス王室では結婚によって王族の立場を離れることはない。だから、日本では女性皇族が結婚によって皇籍を離脱し「民間人」、すなわち「コモナーになる」ことに驚いたのではないかと説明している。

NYタイムズは「世論の感情を逆なでしたのは、海外で生活をするという二人の決断だったかもしれない。お姫さまは皇室を出たあとも、伝統的な慣例に従うことを求められている」と書いている。日本の伝統と文化を受け継ぐ皇室や皇族に対する日本国民の反応が、閉鎖的で古くさいものに見えてしまうのかも知れないと中川記者の解説は続く。


▽3 欧米から批判される謂れはない

中川記者は、アメリカのメディアが、「日本人にとっては別次元」であるはずの「職業や居住の選択肢が限られるなど皇族に課せられた様々な制約と、日本社会における男女不平等の問題」が焦点になっていると指摘し、だから、海外で理解されるには、「日本国内で女性皇族の減少や皇位継承権など皇室の将来について議論を尽くし、男女平等な社会の実現に向けて努力していくことが必要だろう」と訴えるのである。

中川記者の結論は常識的で批判には値しないが、「微妙な温度差」どころではない歴史的事実について、何点か指摘しておきたい。

まず、皇子が親王と呼ばれ、皇女が内親王と称されるのには古代律令に規定があり、皇女にも皇位継承権があったことである。歴史上、8人10代の女性天皇がおられ、最初の女帝・推古天皇は593年の即位であった。イギリスに最初の女王が誕生したのは16世紀のことである。男女平等の観点で単純に比較するなら、日本の方がはるかに進んでいた。

内親王に皇位継承権が認められなくなったのは、近代である。明治憲法は「皇男子孫の継承」、皇室典範は「男系男子の継承」を定めている。むろん理由がある。近代化すなわち欧化主義の影響であろう。いまさら欧米から批判される謂れはない。

近代天皇制の大きな特徴のひとつに、終身在位制の採用がある。譲位は制度として否認された。となると当然、女性天皇は否定される。なぜなら、女帝擁立はほかに男子が見当たらない状況なのであって、それでもなお女帝が即位されるなら、皇統は女系化するからだ。

イギリス王室なら、父母の同等婚、女帝即位後の王朝交替という二大原則から、王朝名が変わり、新たな父系継承が始まる。王位の断絶ということはない。女王の王配をヨーロッパ各王室に求めることもできる。しかし皇室はそうはいかない。

蛇足だが、イギリス王室はじめ、ヨーロッパ王室では王族同士の婚姻という大原則は崩れてしまった。もはや参考になるものではない。

古代の日本なら皇族同士の婚姻しか認められなかった。時代とともに拡大したが、明治においても内親王の婚家は華族までとされた。戦後は「民間人」にまで広がったが、内親王が「民間人」と結婚され、そしてもし皇位が継承されるなら、古来、男系で継承されてきた皇位は終わりを告げることになる。だから、甲論乙駁の議論が続くのである。


▽4 日本人自身が変わってしまった

現行憲法はGHQによる「押し付け憲法」ともいわれる。占領軍の置き土産だが、憲法学者の小嶋和司先生が指摘しているように、皇位継承の男系主義について、GHQ内で批判があったとは聞かない。つまり、是認されたということになる。

日本国憲法は「皇位の世襲」を定め、現行皇室典範は「男系男子の継承」を規定している。憲法はむろん男女平等を定めているが、皇位継承とはそもそも次元が異なる。国民の平等原則を皇室に持ち込むのは論理矛盾というものだ。占領軍も理解していたに違いない。

「皇室を滅ぼす」のは「性差別」ではなくて、むしろ「ジェンダー」の方だろう。中川記者はアメリカ人たちにそのように説明しなかったのだろうか。あるいは、そのように説明する知識を持ち合わせていないということか。

しかし中川記者のみを責めることはできない。なぜ皇位継承が男系主義で貫かれてきたのか、論理的に説明できる知識人など、いまの日本には見当たらないからである。だから、アメリカ人にも理解されないのである。

「女性天皇・女系天皇への途を開くことが不可欠」と結論づけた、かの皇室典範有識者会議(平成17年)では、「なぜ皇位継承は男系でなければならないのか、を説明した歴史的文書などは見あたらない」と事務局が説明したと伝えられる。一方、男系派もまた、「もはや理由などどうでも良い」とサジを投げる始末である。

当たり前のことなら、あえて文書化する必要はない。男系主義の理由を論理で説明しなければならないのは、もはや日本人自身が変わってしまったということだろう。今日、男系継承主義は当たり前ではなくなったのである。それはなぜなのか。

中川記者にはそこを考えてほしい。「皇室の将来についての議論」はそのあとでも遅くはないと私は思う。


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「全国民のための教会」で行われたパウエル元国務長官の葬儀ミサを報道しない全国紙の「触らぬ神に祟りなし」 [政教分離]

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「全国民のための教会」で行われたパウエル元国務長官の葬儀ミサを報道しない全国紙の「触らぬ神に祟りなし」
(令和3年11月10日、水曜日)
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先月、亡くなったアメリカのコリン・パウエル元国務長官の葬儀が今月5日、首都のワシントン・ナショナル・カテドラル(WNC)で営まれた。

WNCはイギリス国教会を母教会とするアメリカ聖公会の大聖堂で、「全国民のための教会」と位置づけられ、歴代大統領の就任ミサや葬儀が行われる。9.11同時テロ犠牲者の追悼ミサもここで行われた。

今回も、アメリカの宗教伝統に従って、きわめて宗教的に公葬が行われた。そのことはWNCのサイトやFacebook、YouTubeで、誰でも簡単に確認することができる。WNCのサイトには式次第のリーフレットが掲載され、歌われた讃美歌の楽譜までがご丁寧に載っている。〈https://cathedral.org/wp-content/uploads/2021/11/1152021-Colin_Powell_RI.pdf〉〈https://www.facebook.com/WNCathedral〉〈https://www.youtube.com/watch?v=hWMNgIsstYk


▽1 アメリカの政教分離の実態

ところが、である。日本の全国紙(電子版)はことごとく、この葬儀ミサについて報道していない。なんと不思議なことか。

通信社は葬儀の事実のみを報じている。共同通信の配信記事では、葬儀が「ワシントン大聖堂」で営まれ、共和、民主両党の歴代大統領や政権幹部がそろって参列し、党派を超えた人望の厚さを印象付けた。オルブライト元国務長官が弔辞を述べたなどと伝えられた。時事通信は、トランプ前大統領の欠席を伝えている。

全国紙には記事自体が見当たらない。朝日新聞や読売新聞はパウエル氏の死去については分厚く報道したものの、葬儀ミサについては報道していない。毎日は共同電を載せ、日経は時事電を掲載した。NHKも記事自体が見当たらない。産経だけは独自記事を載せているが、中身は通信社の記事と大して変わらない。

全国紙が報道しないのは、そこにニュースの価値を認めないからなのか、いやそうではなく、編集上の重大な理由があって素直な報道を避けているからではないか。つまり、特定の立場に立つ編集方針から、都合の悪い事実、すなわち政教分離のご本家であるアメリカ社会の意外な現実を直視できず、クサいものにフタをしているからではないかと疑われる。


▽2 日本の解釈・運用とは雲泥の差

以前、取材したことから類推すると、今回のミサはホワイト・ハウスが主催し、費用は実費を大統領府が負担しているものと思われる。参列した歴代大統領ほか政府要人は公人の資格で参列しているのだろう。これが政教分離の御本家の実態である。公的人物の死に対する、きわめて当たり前の作法である。

ただ、アメリカ合衆国憲法修正第1条は国教の樹立や宗教の自由を妨げる法律の制定を禁止している。とすると、WNCでのミサはこの厳格な政教分離原則に違反しないのだろうか。素朴な疑問に対して、WNCは、「憲法は祈りを禁じているわけではない。禁じられているのは、祈りを強制することだ」と即座に答えたものだ。

政府が公人の葬儀を主催し、公費を投入し、公人が公人の資格で参列したとしても、また宗教施設で、宗教家が主宰する宗教儀式として行われたとしても、「国家と教会の分離」原則には抵触しないというのである。つまり、首相の靖国参拝は「私人の私的行為」だから合憲と理解するような日本の政教分離とは、解釈・運用に雲泥の差がある。

もっといえば、日本が異様なのである。

共同通信は、オルブライト元国務長官が「意見の対立はあったが…」と弔辞で述べたと伝えたが、共和党政権の国務長官の死に対して、公的性格を民主党政権が認め、政治的意見の相違や対立を超えて、慰霊の誠を宗教的に捧げ、しかも法的に是認していることがむしろ重要である。

また、時事通信によると、トランプ前大統領の欠席は、元国務長官についての個人的な評価が理由とされているが、参列が強制されないという点で、むしろ注目される。

しかし、それにゆえにこそ、日本のメディアは葬儀ミサを、ありのままに報道することができないでいるのではないか。なぜなら、いわゆる靖国問題の対応や宮中祭祀の法的位置づけについて、根本的な法的再検討を迫ることになるからである。それは困るとなれば、報道しないことが唯一の賢い選択となる。触らぬ神に祟りなしである。


▽3 「公人か、私人か?」と取材してほしい

たとえば、宮中祭祀は一般には「天皇の私的行為」との憲法解釈で一致していることになっている。であればこそ、祭祀を担当する掌典職は、戦後は天皇の私的使用人の立場となり、関係予算は内廷費が充てられている。

渡邉允元侍従長などは「私的行為」論を、これに懐疑的立場の神社界なども含めて、地方公演などで繰り返し強調しているらしい。また、『皇室法概論』の著書があり、女性天皇容認論者とされる園部逸夫元最高裁判事などは、現役時代に宮中祭祀に参列した経験があるようだが、やはり「私的行為」論に固まっている。

天皇の祭祀が「私的行為」だとすれば、行為をなす天皇は「私人」なのか。古来、「天皇に私なし」とされた大原則を憲法は否定するのか。祭祀に参列した園部判事は「私人」なのか。公人であるからこそ、参列を許されたのではないのか。

朝日新聞は元国務長官の葬儀を報道しなかったが、靖国問題と同様に、「公人か、私人か?」と参列した歴代大統領に直撃取材し、記事にしてほしかった。そうすれば、日本での議論の不毛さがあらためて浮き彫りにされるだろう。法的解釈・運用が誤りなのか、それとも法自体が誤りなのか、である。けれどもそれは叶わぬ夢だろう。

特定の考えに基づいて、相反する事実を報道しないのは、ジャーナリズムの自滅を招く。そのことは編集部自身が誰よりも熟知しているはずだ。だから、記事にしないのだろう。しかしそれこそジャーナリズムの自壊というべきものではないか。

最後に蛇足だが、日本のキリスト教系宗教紙は今回の葬儀ミサをどのように伝えたのだろう。教会の存在をアピールする絶好のチャンスのはずだが、ググってみると、案の定というべきか、記事が見つからない。

靖国問題に熱心に取り組む教会指導者にとっては、ホワイトハウスの主催で行われる大聖堂での公人の葬儀ミサを報道することは、マスメディアと同様に、鬼門なのであろうか。靖国批判がますます偽善に見えてくる。キリストは偽善をこそもっとも戒めたはずだが。


【関連記事】孔子廟「違憲」判決を批判する「反靖国」キリスト者の薄っぺら声明〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2021-04-02
【関連記事】またしても宗教性排除か?──政府が大震災犠牲者追悼の国営施設を計画〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2014-03-08
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【関連記事】神への祈りを訴えるブッシュ大統領〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2007-04-21-2
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新嘗祭の起源は宮中なのか?──神道人にこそ知ってほしいこと [天皇・皇室]

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新嘗祭の起源は宮中なのか?──神道人にこそ知ってほしいこと
(令和3年11月7日、日曜日)
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▽1 キリスト教のような説明

今年も新嘗祭が近づいてきた。全国のお宮で、そして宮中で、神前に新穀が供えられ、感謝と安寧の祈りが捧げられる。古き良き日本の文化である。

気になるのは、悪意ではないにしても、いや、悪意ではないからこそ始末が悪いのだが、新嘗祭の起源に関して大変な誤解をする神社人がいて、間違った情報が流布、拡大され、その結果、日本の文明のかたちが見えづらくなっているように感じられることである。

つまり、しばしば聞かれる、「本来は宮中の祭りで、神社でも行われる」「天皇の祭りにならって、全国の神社においても執り行われる」という説明である。原型は皇室にあり、やがて各地の神社に派生したということになるが、とんでもない間違いだろう。

宮中の新嘗祭と民間もしくは各地の神社での新嘗祭は目的も中身も異なるし、まるで国家宗教よろしく、皇室から地方へというトップダウン的な文化の流れで説明することには無理があるからである。

これがキリスト教のような一神教世界ならば理解できる。たとえば「主の晩餐」というイエス・キリストの事跡が、聖体祭儀という教会の儀礼として世界に広がったという歴史はある得るが、自然発生的な日本の神道儀礼には考えにくい。それともキリスト教にあやかった説明なのか。あり得ない。

日本では一神教世界とは異なり、民間に発生した文化がありのままに大切にされている。たとえば、乃木大将を祀る神社がアイドルグループの聖地ともなり得る。それが日本の多神教文明であって、それをまるで上位下達的に説明することは、日本人の信仰のあり方、そして天皇という存在を根本的に見誤らせることになる。


▽2 天神地祇を祀り、米と粟を捧げる

皇室の新嘗祭は、文献的には皇極天皇(35代)の時代に遡ることができる。日本書紀(720年)には、「皇極天皇元年(642年)11月16日、天皇は新嘗祭を行われた」と記録されている。これが文献上の初出だが、むろん歴史的始まりといえるかどうかは分からない。

宮中新嘗祭は日々行われる祭祀のなかでも第一の重儀とされる。神嘉殿で行われる新嘗祭では、皇祖神ほか天神地祇が祀られ、米と粟が神前に供され、祈りが捧げられる。

神嘉殿の新嘗祭が「米と粟の祭り」であることは、皇祖神のみならず天神地祇を併せ祀ることと関係があることは容易に想像される。皇祖天照大神から稲が与えられたとする斎庭の稲穂の神勅のみでは説明がつかない。神勅に基づいて、宮中新嘗祭を「稲の祭り」と解説することは、これまた誤りである。

一方、民間で行われる新嘗祭は、記録上は『常陸国風土記』(721年)がもっとも古い。民間に伝わる家ごとの祖霊祭祀であり、粟の儀礼である。稲の新嘗ではない。神社の神事ですらない。源流が皇室でありようはずがない。

宮中から民間へという伝播が唯一の正しい流れなら、『風土記』は民間で天神地祇を祀り、米と粟を捧げる新嘗の祭りを記録すべきだが、そのような記録はあり得ない。民間の信仰は祖霊や氏神を祀る私的な祈りが基本だし、捧げ物は土地の収穫物に限られる。天神地祇すべてを祀る神社などあるはずもない。少し考えれば、誰でも容易に分かることだ。

にもかかわらず、新嘗祭の皇室発祥説が語られている。なぜだろうか。


▽3 「しろしめす」という意味

そもそもなぜ「稲の祭り」と誤り伝えられているのか。

政府・宮内庁は天皇一世一度の新嘗祭である大嘗祭について、「稲作農業を中心としたわが国の社会に、古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたもの」と公式に説明しているが、これも間違いであることは、粟の新穀が同時に捧げられることから明らかである。

なぜ稲だけではなく、粟も、なのか。

『常陸国風土記』に粟の新嘗が記録されていることは、民間には民間のさまざまな新嘗祭があったことを想像させる。柳田國男が繰り返し書いているように、日本列島はもともと稲作適地とは言い難い。水田稲作伝来以前から非稲作民が大勢いただろうし、稲作以外の農耕があったろう。稲作信仰とは別に、非稲作地域には非稲作信仰が息づいてきただろう。

神社の新嘗祭というと「稲の祭り」と思い込んでいる神道人には、「粟穂に鶉」の古い彫り物が、豊穣のシンボルとして社殿に刻まれているのを思い出してほしい。米ではなくて粟を主食とし、神聖視した日本人が間違いなくいたことに気づいてほしい。柳田がいうように、日本人はけっして稲作民族、米食民族オンリーではないのである。

稲作民も非稲作民も「わが赤子」と思し召して、「国中平らかに安らけく」と祈り、ひとつに統合するのが古来、ミメラミコトのお役目であるならば、民が信じるあらゆる神々を祀り、稲作民の米と非稲作民の粟を捧げて祈られることが素直に理解されるのではないか。

それこそが天皇統治の「しろしめす」の意味ではないのか。だから「天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇祭れ」と古代律令は定めたのだろう。

天皇の新嘗祭は、血縁共同体や地域共同体の祈りの次元を超えた、国と民を統合するための公正かつ無私なる祈りなのである。だから文化の伝播の方向性としては、皇室から民間に広がったのではなく、逆に、民間の祈りが皇室に集中したということになる。


▽4 新嘗祭は「勤労感謝の日」ではない

しかし、いつしか日本人は日本社会の多様性を忘れてしまっている。そして価値多元主義に基づく天皇統治の意義を理解できなくなってしまったのではないか。

それどころではない。戦後、日本人の「米離れ」が進み、10年前にはついにパンの消費額が米を上回るようになった。そんな時代に、日本人がかつて粟を食べていたなどという昔話はもう通用しない。だから、神道人にさえ話が伝わらないのだ。

各地の神社での稲の新嘗祭は戦後、広がったともいわれる。明治以後、国民皆兵で徴兵された国民はひとしく米を食することとなり、戦中からの米の配給、食管制度が日本人の稲作民族意識を高めた。さらに全国8万社の神社を包括する神社本庁が主導する祭式の一元的普及が「稲の祭り」としての新嘗祭を全国化していったのではないかと私は疑っている。そして逆に、粟食も粟の新嘗も、急速に忘れ去られていったのではないかと。

近現代において日本人の文化的同一化が進んだ反面、暮らしと信仰における血縁的、地域的多様性が失われていき、その一方で、かつては多様性の中心として機能した天皇は、逆に一元的社会の中心に位置付けられることになったのである。古来の多元的社会が近代になって一元化し、そのことによって天皇もまた変質したということだろうか。

だとすれば、神社関係者の使命は、日本の文化的伝統を守り伝えたいと願うのであれば、八百万の神々の存在を基本とする日本人の多様なる信仰の存在をこそ説明すべきである。多元的価値を認めることが日本の精神文明の根本であり、天皇という祈りの存在の意味もそこにあることを正しく伝えるべきである。

まるで国家宗教さながらに、新嘗祭の由来を一元的に解説することは、天皇統治の歴史と伝統を否定することになると自覚すべきだと思う。新嘗祭はけっしてキリスト教まがいの単なる「勤労感謝の日」ではないのである。


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かつての「明治節」に、いまなお克服されざる近代を思う [教育勅語]

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かつての「明治節」に、いまなお克服されざる近代を思う
(令和3年11月3日、文化の日)
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今日は「文化の日」である。かつては「明治節」、明治天皇のお誕生日だった、という話をしたら、若い友人から「え、そうですか?」と驚きを込めて聞き返され、こちらの方こそ面喰らった。「明治は遠くなりにけり」だとつくづくと思う。

明治がことのほか遠く感じられるのは、基本的な事実関係が忘れ去られてしまい、時代の自画像が正しく描けなくなっている。ともすると、保守派、革新派双方とも一面的理解、一方的批判に止まっているのではないかという疑念が拭えないからだ。


▽1 アメリカは何を敵視したのか

たとえば教育勅語である。

明治維新後、日本は近代化をひた走った。その先頭に立たれたのが皇室だった。しかし行き過ぎた欧化主義に、ほかならぬ明治天皇が憂いを覚えられたことが、勅語起草の始まりだった。なにしろ修身の教科書までが翻訳だった。それほど異常だった。

儒教に基づく道徳教育を求める声もあったが退けられ、非宗教性、非哲学性、非政治性が追求された。明治23年の発表後は愛国教育の根拠、天皇制の基本的支柱とされた。保守派は明治大帝の偉業を絶賛するが、敗戦後の昭和23年、国会で排除もしくは失効が確認された。その理由を保守派は外圧と見て、憎しみの矛先をアメリカに向ける。

アメリカは歴史当初から東から西へと発展した。カリフォルニアから太平洋を越えて西進し、日本を標的とする「オレンジ計画」なる戦争準備まで研究された。そして、世界大戦の末、占領を経て、古き良き日本は失われた、というストーリーである。

話の筋は通っているが、外的要因にのみ目を向け、内的要因を考えようとしないのは知的怠慢ではないだろうか。なぜアメリカは近代日本を敵国と想定するまでに思い至ったのか。そのように思わせる原因が、むしろ日本自身にあったのではないか。

日本研究に生涯を捧げたアメリカ人、サイデンステッカー教授によると、日米開戦前夜、カリフォルニアを除けば、アメリカ人の対日観は良好だったという。経済関係も緊密だった。それがなぜ一転、戦火を交えることとなったのか。アメリカは近代日本の何を敵視したのか。何が敵に見えたのか。


▽2 教育勅語は「軍国主義・超国家主義」の聖典

それを知るにはアメリカ人に直接、聞くのが手っ取り早い。たとえば、戦争中に作製された陸軍省のプロパガンダ映画「Why We Fight」シリーズである。「最高傑作」とも評価される作品の多くは、名匠フランク・キャプラの監督による。

終戦間際の1945年に製作された「Know Your Enemy; Japan」は、近代日本の「軍国主義・超国家主義」「世界征服」を実写フィルムをつなぎ合わせて、実証的に描いていく。

天照大神はこの地の統治を子孫に命じ、神武天皇はこの世界をひとつの家となすことを勅命された。近代以降、軍事進出とともに世界各地に神社が建てられた。田中義一首相が昭和天皇に上奏した「田中メモ」には世界征服計画が明記されていると映画は説明している。

つまり、アメリカが「オレンジ計画」で日本に戦争を挑んだのではなく、日本が世界征服に挑戦したことになっている。たしかに近代以後、日本人の海外進出に伴い、朝鮮、樺太、関東州などに神社が次々に創建された。けれども天照大神は絶対神ではないし、天皇統治は世界を「支配」することではない。神道には教義も布教もない。

「田中メモ」は今日、偽書との評価が定まっているが、アメリカが上奏文を事実と信じ込んだのには、そのように思わせた日本人がいたからだろう。世界侵略の野望に燃えた日本人がたしかに少なからずいたのであろう。

そして、単純で、人のいい正義漢のアメリカ人は、絶対神の信仰に基づき、「世界に福音を述べ伝えよ」とのキリストの教えに基づき、まるで鏡の中の自分に瓜二つの侵略者に戦いを挑んだのだろう。そして日本の敗戦という明確な事実が残ったのである。

ポツダム宣言には「軍国主義・超国家主義」「世界征服」の表現が繰り返されている。アメリカは、「国家神道」こそがその源泉であり、靖国神社がその中心施設であって、教育勅語はその聖典だとみなした。であればこそ、靖国神社、教育勅語が攻撃目標とされた。

それなら、なぜ教育勅語が敵視されたのか。理由はその一節の誤った解釈にあるらしい。


▽3 明治天皇の御意思に反する解釈

日本の敗戦後、占領軍高官ダイクCIE局長は、日本の安倍能成文部大臣との対談で、明治の教育勅語に代わる新しい勅語作成構想をめぐって、次のように語っている。

「教育勅語としては、すでに明治大帝のものがあり、これは偉大な文書であると思うが、軍国主義者たちはこれを誤用した。また彼らに誤用されうるような点がこの勅語にはある。たとえば『之を中外に施してもとらず』という句のように、日本の影響を世界に及ぼす、というような箇所をもって神道を宣伝するというふうに、誤り伝えた」

「之を中外に施してもとらず」。この解釈がポイントだった。

もともと教育勅語は宗教性、哲学性、政治性が排除されたのであって、政治文書ではあり得ない。とくに「帝王の訓戒はすべからく汪洋たる大海の水のごとくなるべく」(『明治天皇紀』)、つまり君主は臣民の良心の自由に干渉してはならないとされた。

ところが、煥発後、芳川顕正文相は教育勅語の神聖化に取り組んだ。全国に下賜されて、式日に奉読されることとなり、各学校に奉安殿が設けられた。そしてプロシア帰りの哲学者・井上哲次郎による哲学がかった解説は、明治天皇の反対を押して、公式的解釈として定着していった。

井上の『勅語衍義』は、「いかなる国にありても、その国が文化に進める以上は東西の別なく、中外の差なく」と解説している。本来なら「中外」は「宮廷の内と外」「朝廷と民間」と解釈されるべきものを、「国の内外」とされ、教育勅語は明治大帝の御意思に完全に反して「世界征服」の教義となり、そして未曾有の敗戦の一因をなしたのである。

そればかりではない。日本の天皇こそは「軍国主義・超国家主義」のシンボルとなり、いまなお歴史的批判の対象であり続けている。

古来の、あるいは近代の天皇制は無批判的に否定されるべきものであり、であればこそ日本国憲法に基づく「象徴天皇制」が手放しで礼賛され、御公務主義に基づく女性天皇・女系継承容認論が圧倒的に支持され、あまつさえ自由恋愛主義に基づく内親王殿下の御結婚に熱狂的エールが贈られるのであろう。

一方、教育勅語の解釈だが、いっこうに正されていない。

たとえば明治神宮のサイトでは、「之を中外に施してもとらず」に「海外でも十分通用する普遍的な真理にほかなりません」の「口語文訳」が付されている。なぜ海外で通用する必要があるのか。これでは「世界征服」の夢は消えていないことになる。明治天皇がご覧になれば、どのように思し召されるのだろうか。


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