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皇室におけるラブ・マリッジとアレンジド・マリッジ──額田王から「ICUの恋」まで [眞子内親王]

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皇室におけるラブ・マリッジとアレンジド・マリッジ──額田王から「ICUの恋」まで
(令和3年11月20日、土曜日)
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▽1 額田王と大海人皇子の問答歌の真相

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

誰もが知る万葉集の代表歌のひとつである。作者の額田王は古代の皇族で、大海人皇子(40代天武天皇)の妃である。「袖を振る」は古い求愛表現である。大海人皇子による次の歌と対になっていて、「蒲生野問答歌」と呼ばれる。

紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも

「袖振る」に対して「人妻」とは聞きづてならない。題詞には「(38代天智)天皇が蒲生野で狩りをされた時に額田王が作った歌」とある。天智天皇と天武天皇は34代舒明天皇と宝皇女(35代皇極天皇、重祚して37代斉明天皇)を父母とするご兄弟で、額田王をめぐって三角関係にあった、とかつては解釈されてきた。

だが、そもそも歌は相聞歌ではなく、雑歌に分類されており、恋の歌とはされていない。国文学者の池田彌三郎は、宗教的な宮中行事の際に催された宴席で、大海人皇子が無骨な舞を舞ったのを才女の額田王が「袖振る」とからかい、これに対して皇子が四十路の額田王を「にほへる妹」としっぺ返しした、と理解した(『萬葉百歌』1963年)。今日ではこれが定説化しているという。

しかしそれでも、宝塚歌劇団の「あかねさす紫の花」(1976年初演)などは逆に、文字通りの「万葉ロマン」と解して、再演を続けている。「律令国家形成の立役者となった中大兄皇子、大海人皇子という才気溢れる二人の兄弟が、女流歌人・額田女王を巡って繰り広げる愛憎劇」と説明されている。

万葉集だけではない。古代の貴族社会のラブロマンスは「世界最古の長編小説」とされる『源氏物語』にも描かれ、現代に伝えられている。王朝文学に描かれたラブロマンスは、民衆の熱烈な憧れとして続いている。そして、現代の「テニスコートの恋」や「ICUの恋」とも繋がっているのだろう。


▽2 インド人たちに笑われた日本人の「恋愛」

バングラデシュという国の孤児院を支援するため同国に通っていたころ、南東部のチッタゴン丘陵地帯にチャクマと呼ばれる東アジア系の少数民族が居住していて、「日本人と同じように嬥歌(かがい。歌垣)の文化を持っている」と聞かされ、驚いたことがある。

男女が山に登り、恋の歌を歌い合い、求婚するというのである。まさに万葉集に収められた古代日本の相聞歌を彷彿とさせる。

しかしバングラデシュでは、チャクマは少数派である。

バングラデシュは世界最大級のムスリム人口を抱える国で、男女の区別が宗教的にはっきりしている。だから、戸外で女性を見かけることはまずない。

厳格なイスラム教徒が多い地方に行くと、どうしても外出が必要なときは女性は黒づくめのブルカ姿になる。物珍しく思って、不用意にカメラを向けようものなら、身の危険を覚悟しないといけない場合もあると聞いた。

ダッカのような大都会では、夕暮れ時に若いカップルを、数少ないデートスポットで見かけたが、あくまで最近の現象らしい。公衆の面前で仲良くしすぎるのはご法度で、警察に注意されることもあるという。結婚は当然、親同士が決めることになる。

同じころ、南インドのカリカットに足を伸ばしたら、思いがけず、ヒンドゥー教徒の結婚式に招待された。みんながみんな着飾った華やかな席に、ラフなスタイルの日本人がカメラを片手に、しかも招待者として、いきなり現れたのだから、否が応でも目立ち、質問攻めにされた。

とりわけ若い女性たちの関心は結婚で、「日本人はどうやって相手を見つけるの?」などと無邪気に聞くから、「恋愛(love marriage)と見合い(arranged marriage)と半々かな」と適当に答えたら、いっせいに笑われた。「私たちは親が決めるの。それがいちばん幸せなのよ」と真顔で応じるのを見て、宗教と文化の違いを思い知らされた。

インド世界と日本とでは愛のかたちが違う。


▽3 明治の近代化が契機

千葉大学の江守五夫名誉教授(民俗学)によると、日本人の婚姻習俗には次のようないくつかの類型があるという(『婚姻の民俗』1998年)。

(1)南方系の一時的訪婚
(2)北方系の嫁入婚
(3)玄界灘型嫁入婚
(4)北陸型嫁入婚

柳田国男は古代には妻訪婚が支配的だったが、中世武家社会に嫁入婚が形成されたと説き、かつてはこれが通説だった。しかし、嫁入婚がすべて妻訪婚から変化したとする一元的な通説には疑問がある、と江守氏は述べている。

むろん「親が決める」婚姻がすべてではない。かつての日本では、祭りや盆踊りなどは男女の交歓の場であった。

以前、東京・川の手の社家出身者から興味深い思い出を聞いたことがある。彼女が子供のころ、お宮の周りは水田や蓮田が一面に広がっていた。街灯もなく、夜は闇に包まれる。盆踊りのお囃子が聞こえると、どこからとなく若い男女が集まってくる。懐中電灯などはないから、代わりに蛍を捕まえて、和紙にくるみ、耳にさす。闇夜にかすかな灯りが動いていくのはじつに優雅で、美しい。

「お母さん、私もやってみたい」とねだると、母親に「あれは下々のすることです」とたしなめられた。何十年も前の思い出を笑いながら私に聞かせてくれたものだ。

神社のお祭りや盆踊りは、むろんいまも続いているが、もはや愛の交歓の場ではなくなっている。というより、日本人の愛のかたちが、少なくとも表向きはずいぶんと変わってしまったように見える。それはいつ、なぜなのか。

江戸の町は女性の人口比率が低かったといわれる。当然、チョンガが多く、遊郭が発達した。湯屋(銭湯)は混浴(入込湯)で、老中松平定信は風紀の乱れを理由に「入込湯厳禁」の御触れを出した。しかし御触れは守られず、混浴禁止がきびしく守られるようになったのは明治以後らしい。近代化、すなわち欧米のキリスト教文化の影響である。

お堅いイメージの伊勢神宮のお膝元にも、かつては遊郭があった。江戸中期には参宮街道沿いに妓楼70軒が軒を連ねたらしい。遊女の数は1000人に及び、三大遊郭のひとつに数えられた。いまでは想像もつかない。

いま宇治橋を渡り、内宮の宮域に入ると不自然なほど、芝生の西洋風庭園が広がっている。江戸期には神職の自宅や茶屋などが立ち並んでいたのを、明治になり撤去させられたという。神聖さを増すための明治の改革によるものだが、以前の茶屋は名物餅を提供するだけの単なる休憩所だったのかどうか。古社と花街とは古来、深い関係が指摘される。


▽4 キリスト教が変え、キリスト教が変わる

民俗学者の瀬川清子・大妻女子大学教授は、男女の出会いに関する、戦前の興味深い逸話を記録している。

長崎・五島列島には「若衆宿」の風習があったのだが、ある島では学校の校長が「娘宿」の解散を命じた。これに対して生徒たちが強く抵抗したというのである。「娘宿が無くなったら、私たちは結婚できない。どうやって相手を見つければいいのか?」。娘宿は相手を観察し、吟味する大切な場だった。それで1年後には復活したという。

明治の学校教育は欧化主義そのものだった。その背景にはキリスト教主義があり、教師はいわば宣教師であった。この島ではキリスト教的結婚観との相剋が起き、日本的結婚観に対して変更を求め、この場合は敗れたのである。

同様にキリスト教の影響から変更を要求され、そして実際、変質させられた祭礼もある。たとえば東京・府中市の大国魂神社の例大祭「くらやみ祭」である。かつては夜間、文字通りの漆黒の闇の中で行われ、男女の出会いの場でもあったが、明治になって改められた。

それでも、地方の古いお宮には、奉納された陰陽石がそのまま境内の片隅に残されていることがある。多産や豊穣を祈願する大らかな生殖器崇拝をいまに伝えている。

いや、それどころか、川崎市・若宮八幡宮の境内社・金山神社(かなまらさま)の祭り「かなまら祭」などは年々、熱気を帯びている。昭和50年代に始まった新しい行事だが、男根神輿の渡御には横須賀の基地などから外国人たちが数多く参加する。

性を神聖なものとみる素朴な信仰は世界に共通している。古くはヨーロッパにもあったが、キリスト教の浸透で廃れてしまったらしい。日本ではキリスト教の影響で歪められたとはいえ、根強く残っている。そして逆に、いまや欧米人が強い関心を示している。「自由」は近代の概念のはずだが、日本の古代にこそ「自由」はあった。


▽5 オモテの世界とオクの世界

さて、長々と書いてきたのは、結局、何を言いたいのかといえば、日本人のなかで評価が大きく分かれる眞子元内親王殿下の「ICUの恋」である。内親王殿下の「自由恋愛」を強く拒絶する人が多い一方で、逆に支持者が少なくないのは、なぜなのか。

それは、おそらく現代日本人のなかに、皇室への強い憧れとともに、古代からの自由な「愛のかたち」が静かに受け継がれているからではないだろうか。愛は永遠なのである。

他方で、欧米のメディアなどに支持が多いのは、キリスト教的個人主義の伝統に加えて、逆に清教徒的な禁欲主義がもはや過去のものとなっているからではないかと私は疑っている。欧米人たちも変わったのである。

その意味では、日本人の結婚事情を笑ったインド人たちが、内親王殿下の「ICUの恋」をどう見ているのか、ぜひ聞いてみたいものだと思う。

ただ、強く注意を喚起しなければならないのは、日本の皇室の場合、「天皇無私」の伝統を崩してはならないことだ。額田王は天武天皇の妃だが、天武天皇の皇后はあくまで鸕野讃良皇女(持統天皇)である。問答歌はあくまでも余興なのである。

以前、書いたように、太上天皇の「テニスコートの恋」は側近たちによってアレンジされたものであったが、自由恋愛のように信じられてきた。その影響はいまに及び、今上天皇は皇太子時代、将来、皇后となるべき女性に「僕が一生全力でお守りします」と仰せになり、ハートを射止められた。「学習院の恋」「ICUの恋」にも影響は続いている。

オクの世界ならそれでもかまわない。けれども、オモテはそうではないし、そうであってはならない。天皇に「私」があってはならないからだ。「天つ神の御心を大御心として」(本居宣長『直毘魂』)、すなわち公正かつ無私が天皇の大原則だからである。自由恋愛ではすまない。元内親王殿下がいつの日か、そのことを理解してくださるかどうか。


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