SSブログ

大嘗祭の「相嘗」の意味──真弓常忠「大嘗祭」論から考える [宮中祭祀]


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
大嘗祭の「相嘗」の意味──真弓常忠「大嘗祭」論から考える
(令和4年12月20日、火曜日)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


さきごろサッカーW杯が行われたカタールは人口250万人の9割が移民である。カタール国籍保持者のほとんどがスンニ派のムスリムで、イスラムが国教なのに、全人口で見るとムスリムの割合は7割を切る。非ムスリムのほとんどはキリスト教徒とヒンドゥーという。批判されている移民労働者の人権問題などには、宗教的な背景が見え隠れしている。

日本ではこの宗教的差別ということがなかなか分かりづらい。それは古来、天皇が天照大神ほか天神地祇を祀り、祈りを捧げてきたことと無縁ではないと思う。天皇は祭り主であると同時に、仏教の外護者であり、近代以降はキリスト教の社会事業を物心共に支援し続けてこられた。

▽誰と誰が「相嘗」するのか?

一視同仁。天皇にとっては、伝統的宗教を信ずるものであれ、舶来の宗教を信ずるものであれ、みな赤子なのである。その精神こそが日本の社会的秩序を平和に保ってきたのだと思う。そして、その精神を実践してきたのが天皇の祭りなのだと思う。天皇の祭りは、葦津珍彦が説いたように、国民統合の国家的儀礼なのだと思う。

しかし、神道学の研究者たちは、どういうわけか、そうは考えないらしい。

先日、取り上げたように、真弓常忠・皇学館大名誉教授が著書のなかで、大嘗宮の儀での「相嘗」について書いている。その内容はたいへん興味深い。
D29EC382-4DBD-4533-8056-CCA4D8F1920C.jpeg
真弓先生は、天皇が「天照大神、又天神地祇」に祝詞を白されるのだから、天皇は天照大神ほか天神地祇に供饌されると解釈するのが妥当だと、事実に基づいて指摘したうえで、これを古典に「諸神の相嘗祭」(神祇令の義解)とも「皇神等相宇豆乃比奉り」(祝詞式)とも記述されていることの意味を問いかけている。

つまり、大嘗宮の儀で、天皇が供した新穀を、誰と誰が「相嘗」するのか、そのことが如何なる意義を持つのか、である。

▽真弓先生の限界

真弓先生は、国語学者の西宮一民・元皇學館大学学長との討論を重ねたうえでの結論として、以下のような見解を述べている。

「天皇が皇祖天照大神より賜った新穀を聞こしめすにあたって、まず諸神に献り、天照大神より賜った新穀にこもる霊質を、諸神との共食によって相互に補強せられるものと解するのである。つまり、相嘗とは、神と人と相互に『嘗』することにより、神々も天照大神の霊質をうけ、これを『嘗』する人もまた、大御神の霊質とともに相嘗の神々の霊質を以て補強するものと解するのである。かくして、天神地祇に奉られることは、神々の神性をも強化更新されるとともに、これを親らも『嘗』されて、天皇としての霊質を一層強化されるものである」

きわめて宗教的な説明でいささか分かりにくいが、要するに、「相嘗」とは天照大神と天皇との共食、諸神と天皇との共食であり、それは新穀にこもる霊力を神々も天皇もうけ、強化・更新することであり、それが「相嘗」の意味だということなのだろう。

真弓先生は、大嘗宮の儀で祭られる神は「天照大神、又天神地祇」と認めている。しかし、一方で、神事で捧げられるのは「稲」と考えている。であればこそ、これが限界なのだと思う。真弓先生の「相嘗」論には、見事に「粟」が抜けている。

▷「米と粟」を「相嘗」する意味

大嘗宮の儀で「米と粟の御飯(おんいい)」が捧げられることは疑いのない事実である。それなら、真弓先生の「相嘗」論では「粟」はどう説明されるのか、説明できるのか?

斎庭の稲穂の神勅によって、天照大神から賜った稲の新穀には、稲の霊力が備わっているとして、逆に、必ずしも「稲の神」ではない諸神が、なぜその「稲」を共食しなければならないのだろうか。なぜ「稲の霊力」を受けなければならないのか?

真弓先生の「相嘗」論は、「粟」は無かったことにしないと、とうてい成り立たない。「粟の神」は存在してはならないことになる。日本民族=稲作民族論、天照大神一神教の限界である。

たぶん古典に「諸神との相嘗祭」とあるのは、天照大神だけとの「相嘗」ではないことを強調しているのだと私は思う。真弓先生が説明するように、「天照大神、又天神地祇」と天皇との「相嘗」であることは当然だが、同時に「米と粟」を「相嘗」することにこそ祭儀の意義があるはずである。

真弓先生が説くような「稲の霊質」論では「米と粟の祭り」は説明できない。だから、勢い半ばオカルトチックな説明に傾くのだろう。稲作社会に根ざした宗教的儀礼という説明ではなく、「米と粟」による、一段と高い立場での国民統合の国家的儀礼であることに、なぜ気づけないものか?

▷日本だからこその諸宗教協力

余談だが、粟の祭りを行う台湾の先住民パイワン族は、稲作をタブーとしていたが、近代になり、稲作を行うようになったという。おそらく日本の統治が及ぶことになって、稲の神が受け入れられたのだろうと想像する。

バングラデシュの孤児院を支援するボランティア活動をしていたとき、チッタゴン周辺の孤児院の代表者たちを集めて、夕食会を開いたことがある。イスラム、ヒンドゥー、仏教と宗教はさまざまだが、そのため「同じ孤児院運営者として顔を合わせたこともない」という話に驚くと同時に、宗教的偏見のない日本人の可能性に気付かされたものだ。

今月に入り、世間はすっかりクリスマス・モードだが、弘前では昭和の時代から、カトリックとプロテスタントが協力し、「メサイヤ演奏会」が開催されてきた。旧教・新教の共催は世界的にみても珍しいと聞く。コロナの影響か、今年は行われないらしい。残念だ。

諸宗教の協力といえばWCRP(世界宗教者平和会議)の活動がある。日本という多神教的世界から生まれた団体は世界の平和を牽引している。その背景には間違いなく、天皇による天神地祇への「米と粟の祭り」があると私は思う。

カタールなど一神教の国ではあり得ない。熱心な信仰者ほど、むしろ違和感を覚えるのではないか? とすれば、天皇の「米と粟の祭り」について、もっと深く探究すべきだ。

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。