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「天照大神、また天神地祇、諸神明」を祀る天皇の「資格」 [宮中祭祀]


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「天照大神、また天神地祇、諸神明」を祀る天皇の「資格」
(令和5年1月15日、日曜日)
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知り合いの経営者と皇位継承について、ちょっとした議論をした。「愛子さんは天皇になれないのか? 愛子さんで良いではないか?」と言う。「そのあとはどうなるのか?」と聞き返すと、返答に窮している。「愛子さま天皇」の是非で、思考が止まっている。

「愛子内親王が継承すれば、あとは女系化することになる」と指摘すると、「それで良い。日本を変えよう」と来た。要は、安易な気分優先の革命論である。それで良いのかどうか、そこが問われている。

どうしても革命が必要なら、断行しなければならないが、男系で続いてきた皇位継承の大原則を変えなければならない理由はいったい何だろうか。

というより、逆に、大原則の意味は何だったのか。なぜ男系なのか、男系で続いてきた天皇とは何だったのかが理解されていない。説明する人も見当たらない。そこに問題があるのではないか。「昔からそうだった」というだけでは、革命論に太刀打ちできまい。


▷1 大嘗祭の原型

前回、宮中新嘗祭・大嘗祭の歴史について言及した。古来、「11月の下の卯の日」に行われていたものが、明治の改暦後、太陽暦の「11月23日」に固定された。歴史と伝統を重んずるならば、旧制に復すことを検討しても良いと私は思う。

とここまで考えたときに、何をもって「伝統」とすべきなのか、新たな疑問が湧いてくる。つまり、干支はそもそもが外来の文化なのであり、古典に記録された「卯の日」の新嘗祭が元々の原型なのかどうか。

『日本書紀』に記録された宮中新嘗祭の初出は皇極天皇元年(642)11月16日のそれで、「卯の日」だったようだが、皇極天皇以前には宮中新嘗祭はなかったのだろうか。

干支は古代中国・殷の時代に生まれ、日本に伝来したのは古墳時代といわれるが、それならそれ以前には宮中新嘗祭はなかったのだろうか。記紀神話は皇祖天照大神が新嘗祭を行ったとさえ記している。

天皇の即位儀礼は古来、太極殿での即位礼と大嘗宮での大嘗祭とがある。前者は古代中国の影響を受けたもので、後者が日本オリジナルの儀礼である。とすると、海外の影響を受けていない大嘗祭の原型があったのかどうか。


▷2 天皇のお役目とは

その場合、大嘗祭で何をなさることが「天皇」と考えられたのか、天皇のお役目は何だと考えられたのか。

真弓常忠・皇學館大学名誉教授は著書の『大嘗祭』で、平野孝国・新潟大学名誉教授(神道学)を引用し、天皇の「全国の神々をお祀りになる特別の御資格」について言及している。平野先生は「天皇にあらゆる神を祀って頂く御資格をお与えする唯一の機会は、大嘗祭を除いてはあり得ぬ」(『大嘗祭の構造』)と指摘している。
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古代律令「神祇令」の「即位の条」に「およそ天皇、位に即きたまわば、すべて天神地祇を祭れ」と記され、天皇は大嘗祭、新嘗祭で皇祖神ほか天神地祇をまつり、「天照大神、また天神地祇、諸神明」に祈りを捧げる。天皇以外に、あらゆる神をまつり、祈る祭り主は、世界中何処にもいない。

真弓先生の発想では、大嘗宮の神座に天照大神が座し、天神地祇と「相嘗」するのが大嘗祭だが、これでは「米と粟」を供饌する意味を説明できない。天孫降臨、斎庭の稲穂の神勅では「粟」は説明できない。

そうではなくて、畏れ多いことだが、一座の神座に、皇祖神ほか天神地祇をあたかも1柱の神のごとくにまつり、「米と粟」を神人共食し、「国中平らかに安らけく」と祈るのが、皇室第一の重儀の目的ではないだろうか。


▷3 あり得ない女系継承

あらゆる神に祈ることが天皇のお役目だとしたら、女系化はあり得ないことになる。

古来、天皇は「無私」なる存在であり、だからこそ皇室に姓はなく、即位後の天皇は固有名詞では呼ばれない。無私なる天皇だからこそ、あらゆる神を平等にまつる資格がある。

しかし内親王が皇位を継承するのならまだしも、終身在位制のもとで、あまつさえ女系化を容認したとき、「あらゆる神をまつる資格」が確保されるとは思えない。真弓先生の説に従ったとしても、女系化した天皇が皇祖神を祀ることは容認されるべきだろうか。

過去の歴史においては、女性天皇は何人もおられるが、夫があり、あるいは妊娠中・子育て中の女性天皇は1人もおられない。近代以降の終身在位性のもとで、内親王が即位し、さらにその子女へ皇位が継承されれば、祭り主たる地位は変更されざるを得ない。

それでも女系化を受け入れるべきだろうか。天皇=祭り主、天皇=スメラミコトの大原則に関わる大問題といわねばならない。

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新嘗祭は太陽暦の「11月23日」で良いのか? [宮中祭祀]

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新嘗祭は太陽暦の「11月23日」で良いのか?
(令和5年1月11日、水曜日)
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今週月曜日の1月9日は「成人の日」で祝日だった。昭和のころは「1月15日」だったが、6日も早い。いまは「1月の第2月曜日」と祝日法で決められているからだ。

法律に従えば、年によっては「1月8日」もあり得ることになるが、松が明けて早々では、早過ぎないだろうか。25年前の改正はハッピー・マンデー制度で、余暇を増やそうとの趣旨からだが、いまのご時世、全国民が連休を満喫できるというわけではないだろう。

もともと「成人の日」が「1月15日」だったのは、元服の儀式が古代から小正月すなわち「1月15日」に行われてきたかららしい。

ということは、「1月の第2月曜日」の「成人の日」は、古代から1000年余におよぶ歴史を失ったということにならないだろうか。個人的には「1月15日」に戻してほしいと願っている。

▷太陽暦の日付の決め方

ただ、その場合、悩ましいのは、いまの太陽暦(グレゴリオ暦)の場合、1年の起点となる「1月1日」には、天文学的に見て、何の意味もないことである。春分の日、夏至、秋分の日、冬至は天文学的に定まるが、もっとも重要なはずの元日はそうではない。

太陰太陽暦と太陽暦では「小正月」の日は異なる。なぜそうなったのか。

古代ローマでは、太陽を崇拝するミトラ宗教が大きな教勢を誇っていて、冬至にあたる「12月25日」はミトラの誕生を祝う祭日だった。これに真っ向から対抗しようとしたのが、少数派のキリスト教徒だった。

異教徒の最大の祭りの日をわがものとし、クリスマスに仕立て上げようとしたのだ。聖書にはキリストの誕生が「12月25日」とは書いていないが、217年12月25日にキリスト誕生を祝う祭りを行った。これがクリスマスの始まりだった。

案の定、宗教紛争が火を噴き、なんとキリスト教が圧倒し、やがてローマの国教となった。キリストは「世の光」「義の太陽」と呼ばれ、381年のコンスタンチノープル会議第二回公会議で、「12月25日」がクリスマスと定められたということらしい。

「1月1日」は「12月25日」の1週間後ということになるのだが、そもそもなぜミトラ宗教では冬至の日を「1月1日」と定めなかったのだろう。その方がスッキリすると思うのだが…。

▷なぜ「11月23日」なのか

さて、前置きが長くなった。私が問題にしたいのは、宮中新嘗祭および大嘗祭のことである。古来、「11月の下の卯の日」に行われてきたが、いまは違う。変わったのは明治の改暦以後である。
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東京に賢所が遷座するとともに、宮中祭祀の大改革が行われ、明治4年に行われた大嘗祭では、『明治天皇紀』によれば、「いまや皇業、古に復し、百事維れ新たなり。大嘗の大礼を行うに、あに旧慣のみを墨守し、有名無実の風習を襲用せんや」と批判され、現実主義的な整備が実行されたという。

翌5年11月9日、改暦の布告が行われた。太陰太陽暦が廃され、太陽暦が採用されることとなり、同年12月3日をもって6年1月1日とされた。5年の新嘗祭は旧暦の11月22日に行われたが、翌6年は太陽暦の「11月23日」だった。

こうして新嘗祭は「下の卯の日」ではなくなり、「11月23日」に固定され、およそひと月、季節感のズレが生じることになった。

欧化主義と合理主義による近代の改革を是とするのか、それとも古代からの歴史と伝統を重視すべきか、判断は難しい。ちなみに昨年の「11月23日」は旧暦では「10月30日」で「辰の日」だった。他方、旧暦の「11月23日」は太陽暦の「12月16日」で、「卯の日」だったらしい。

干支は古代中国・殷代に始まり、日本には古墳時代に伝来したという。今年は卯年だが、「卯」はウサギの跳躍のごとき発展を意味する。「卯の刻」は夜明けの6時、「卯月」は陰暦4月をいう。

『日本書紀』によれば、最初に新嘗祭を行ったのは皇極天皇で、642年11月16日のことだった。むろんこの日は「卯の日」だったという。

蛇足だが、令和の大嘗祭・大嘗宮の儀は令和元年11月14日の夕刻に始まった。旧暦なら「10月18日」だが、「卯の日」であった。

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大嘗宮の神座に座す神 [宮中祭祀]


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大嘗宮の神座に座す神
(令和5年1月2日、月曜日)
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明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

さて、昨年来、大嘗祭・大嘗宮の儀の神饌御親供の実態から、天皇による「米と粟の祭り」の意味を考えてきた。テキストに使用したのは、真弓常忠・皇學館大学名誉教授の『大嘗祭』である。考察を深める過程で、ひとつの大きな謎として浮かび上がってきたのは、先生が問いかける、大嘗宮の神座である。中央に置かれた神座はただひとつ、そこに座するのは如何なる神なのか、である。
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話を進める前に、大嘗祭の「秘儀」について、書いておくことにする。大嘗祭、とりわけ大嘗宮で新帝がなさることは秘儀である。だから、一条兼良が書いたように「委しく記すに及ばず」「たやすく書きのすることあたはず」である。

しかしそれにしては酷すぎる。「米と粟の祭り」のはずが、「稲の祭り」とされ、オカルトチックな真床追衾論がまことしやかに徘徊している。誤解の上に誤解を重ねるのは許されないと思い、おっとり刀で挑み始めたのだが、皇室のイメージ・ダウンを狙う左派たちの真床追衾論より深刻なのが、保守派たちが信じ込んでいる「稲の祭り」論である。口をきわめて「米と粟」を訴えても、暖簾に腕押しの感が否めず、途方に暮れる。

秘儀であれば、詳細は書くべきではない。しかし誤りを正すには、書かざるを得ない。じつに悩ましい。

▷1 1座=1神なのか?

大嘗祭の秘中の秘といえば、真弓先生が問いかける、大嘗宮の中央に位置する神座である。先生は神座はただの一座だから1柱の神と考え、天照大神だと結論づけている。

しかしそうなのだろうか、私は違うのではないかと思う。そして、天皇の祭りの奥深さに打ち震える感慨と感動を覚えるのである。

真弓先生の推論の前提は、1神座=1柱の神という原則論である。しかしこれは絶対的とはいえないだろう。

たとえば、真弓先生が宮司として奉職した摂津国一之宮・住吉大社(大阪市住吉区)の場合を考えると、境内には第一本宮から第四本宮までのうち、第一、第二、第三本宮が東から西へ、大阪湾に向かって直列に配され、それぞれに住吉三神の底筒男命、中筒男命、表筒男命が祀られている。

これはまさに1座=1柱ということになる。余談だが、皇學館大学の神道博物館には、住吉大社から寄贈された、本殿神座として殿内に安置されていた御帳台が展示されている。江戸期に火災で焼失した本殿に代わり、火災を免れた摂社の神座が代用された。そのときのものとされる。ただし、大嘗宮にも登場する色鮮やかな八重畳などは復元品らしい。むろん1座である。〈http://kenkyu.kogakkan-u.ac.jp/museum/collection_museum.php

ところが、同じ住吉三神を祀るお宮でも、長門一宮・住吉神社(下関市)の本殿の場合は様相が異なる。

▷2 国民統合の国家儀礼

第一殿から第五殿までが、ほぼ東西に直線に連結され、それぞれに神座があり、それぞれの神が祀られている。そして第一殿に鎮まるのが住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)である。つまり、3柱の神が1座の神として祀られているということになる。

もう一例を挙げると、近代になって創建された靖国神社の場合は、246万余柱の祭神が1座の神として祀られている。さまざまな立場の英霊が、かけがえのない命を国に捧げたという一点において、分け隔てなく、あたかも1柱の神のごとくに祀られている。

とするならば、大嘗宮の1座の神座をどのように理解すべきだろうか?

あくまで天照大神1神だとするなら、「天照大神、また天神地祇、諸神明にもうさく」と神前に祝詞が奏上されること、「米と粟」を供饌することをどのように説明するのか、説明できるのか?

真弓先生は、神座は1座で、神膳薦の枚手が10枚であることについて、神座に座すのは天照大神一神で、神膳を供薦する対象となる神々が多数おられるという解釈だが、十分に納得できるだろうか?

もし「天照大神、また天神地祇、諸神明」をあたかも1柱の神のごとくにまつり、それゆえ「米」のみならず「粟」を供饌し、直会なさるのだとしたら、どうだろう。これこそが天皇=スメラミコトによる国民統合の国家儀礼に相応しいということにならないだろうか?

だとしたとき、これを衆人環視のもと、公開で行わずに、誰も見ない聖域で、代々、「秘儀」として行われてきたことの意味をこそ噛みしめたいと思う。

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