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齊藤教授さま、現代皇室の史的検証の枠組みを誤っていませんか? 期待はずれの御代替わり論のなぜ [御代替わり]


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齊藤教授さま、現代皇室の史的検証の枠組みを誤っていませんか? 期待はずれの御代替わり論のなぜ
(令和2年12月29日)
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資料を整理していたら、政教関係を正す会の会報が出てきました。目を引いたのは、「近代皇室制度と現代の御代替わり」と題する齊藤智朗・國學院大学教授の発表です。

昨年、令和元年8月29日に都内で開催された研究会の発表をまとめ直した記録でした。先帝から今上へと皇位が継承されて4か月、即位の礼、大嘗祭まで3か月を切ったタイミングで企画された神道学者の発表内容に、いやが上にも期待が高まります。

しかし会報の発行は、驚くなかれ、丸一年後の今年8月31日付。せっかくの企画なのに、編集があまりにも遅すぎませんか。これでは目の前の御代替わりに影響力を示すことなどとうてい無理でしょう。文字通り、後の祭りです。


▽1 「法規が一切ない」のではない

とはいえ、ともかく中身を読もうとページをめくり、結局、私は期待を裏切られることになりました。

発表のタイトルはすでに示したとおりで、「近代」と「現代」の比較を目的としているようです。千年を優に超える皇室の長い歴史から今回の御代替わりを考察しようとしているのではないということでしょうか。なぜ150年の歴史に限定して考察しなければならないのか、私には不明です。

「はじめに」の冒頭で、齊藤教授は、今回の御代替わりが「皇室典範特例法」に基づくこと、約200年ぶりの、憲政史上初となる「譲位による御代替わり」であることを指摘していますが、のっけから間違っていませんか。

いみじくも特例法が「退位」と銘打っているように、政府は「譲位」を否定し、避けています。政府にとっては「譲位による御代替わり」ではなく、「退位による御代替わり」であることこそが今回の御代替わりの最重要ポイントの1つであるはずなのに、教授は「譲位」「譲位」と続けています。失礼ながら、本質が見えていないということではありませんか。

もっと致命的なのは、戦後の重要な歴史がまったく無視されていることです。つまり、教授は前回の御代替わりについて、次のように述べています。

「30年前の御代替わりは、現行の日本国憲法および皇室典範のもとでなされた最初の御代替わりである……近代皇室制度、とくに明治皇室典範や登極令をはじめとする御代替わりに関する制度が占領期に廃止されて、以後、今日まで御代替わり、とくにその諸儀式の内容や詳細について定めた法規が一切ない状況のなかで、平成の御代替わりに伴う儀式が滞りなく行われた」

そのうえで、今回の御代替わりは平成の前例を踏襲することが閣議決定され、一方、「譲位」による御代替わりは近現代の皇室制度では予期されていないから、近代とも異なる、前回とも異なるものとなることが予想されるとして、変更点の検証を試みようとするのです。

つまり、教授の発想では「近代」と「現代」とは逆接関係にあります。しかし、私の読者ならすでにお気づきでしょうが、この教授の理解は正しくありません。少なくとも皇室の諸儀礼においては、「近代」と「現代」は順接なのです。

たしかに敗戦後、皇室典範は改正され、一法律となり、また日本国憲法施行に伴って登極令のみならず皇室令はすべて廃止されましたが、諸儀式に関する「法規が一切ない」のではありません。「近代」と「現代」をつなぐ法的基準がたしかにあるのです。教授はそれを見落とし、したがって史的検証の前提となる思考の枠組みを誤ってしまったのです。皇室の「近代」と「現代」の微妙な法的な関係を教授はまったく理解していないのです。


▽2 依命通牒の解釈・運用が変更された

日本国憲法および現行皇室典範の施行当日、つまり昭和22年5月3日付で、宮内府長官官房文書課長名による依命通牒が出され、その第3項「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて、事務を処理すること(例、皇室諸制典の附式 皇族の班位等)」によって、たとえば宮中祭祀はほぼ従来どおり存続することになりました。

宮中祭祀に携わる人たちなら常識のはずですが、もしかして神道学(近代神道史)を専攻する國學院大教授ともあろうお人が知らないのでしょうか。信じがたい気がします。本気で「法規がない」と仰せなら、反天皇の立場に立つらしい宗教学者や皇室研究家などが「宮中祭祀は法的裏付けがない」「戦後も温存された」などと放言しているのとあまり代わり映えしません。

教授の言う「滞りなく」とは、諸儀礼が大枠で登極令に準じて行われたことを意味するのでしょうが、登極令が廃止され、「法規がない」のに、どうして登極令に準じた御代替わりが執り行われ得るのでしょうか。何かほかに法的根拠があるはずだとは想像なさらないのでしょうか。日本は古来、法治国家なのです。「法規が一切ない」なんてあるはずがないのです。そうは思われないのでしょうか。

御代替わりの歴史を正しく検証しようというのなら、「法規がない」なかで、諸儀礼がどのように「変更」されたかではなくて、逆に、法的基準があるのにもかかわらず、何がどのように変更されたか、なぜ変更されなければならなかったのかを検証すべきではないでしょうか。そこに神道学者の役割があるはずです。

たとえば教授は、「2 全体的な変更点」で、近代では「践祚」の語が使われたが、戦後は「法規がない」ため使われなくなったと指摘していますが、そうではなくて、依命通牒があるのにもかかわらず、登極令附式に定められる「践祚ノ式」が「剣璽渡御ノ儀」という宗教的儀礼を含むことを政府が嫌った結果、践祚の儀はズタズタにされたということでしょう。

皇室典範改正が議論されていた昭和21年当時、金森徳次郎大臣は、改正案には「践祚」という文字は消えたけれども中身に変更はない、即位礼の中身に変更はないという趣旨の答弁をしていますが、いまの政府は、「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」とを対立的にとらえ、皇室の伝統行事を伝統のままに行うことは現行憲法の趣旨に反すると考え、国の行事と皇室行事とを二分し、そして「践祚後朝見ノ儀」は「朝見の儀」となったのです。

なぜそのようにしたのか。現行憲法の政教分離原則にこだわるあまり、平安期以来の践祚と即位の分離という大原則を失ったばかりではありません。依命通牒の解釈・運用を大きく変更させた結果であると指摘するのが、國學院で教鞭を執る神道学者のあるべき姿勢であり、「正す会」の趣旨にかなうことではないでしょうか。

教授は「おわりに」で、「平成の御代替わりは、大枠は明治皇室典範や登極令に準拠しつつも、変更点も数多く、近代皇室制度の転換を表すものだった」と振り返り、「今回はさらなる大幅な修正をもたらすもの」と指摘し、「現代の登極令を整備する必要がある」と結論づけています。

これには心から同意しますが、そのためには、あらためて戦後史をより正確に検証する必要があります。そうでなければ、学問的検証といいつつ、単に政府の政策を追認するだけで満足することになるでしょう。そうはならないよう、齊藤教授の奮起を心から期待します。


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「皇太子を望まれなかった」? 皇太弟は何をお悩みなのか、『帝室制度史』から読み解く [御代替わり]

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「皇太子を望まれなかった」? 皇太弟は何をお悩みなのか、『帝室制度史』から読み解く
(令和2年11月23日。新嘗の祭りの日に)
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新型コロナの影響で延期されていた「立皇嗣の礼」が今月8日、挙行された。次の皇位継承者が名実ともに確定される国家的慶事であるが、まさにその当日、あたかも冷水を浴びせるかのようなコメント記事が朝日新聞に掲載された。なんと皇太弟ご本人が「皇太子を望んでいない」というのだから穏やかではない。〈https://www.asahi.com/articles/ASNC853WTNB6UTIL032.html

コメントを寄せたのは、女性天皇・女系継承容認派として知られる御厨貴・東大名誉教授、御公務御負担軽減に関する有識者会議の元座長代理である。

御厨氏によれば、「今回の立皇嗣の礼は異例」だという。「これまで立太子の礼は、次の天皇を可視化させる儀式だったが、今回は違う」「秋篠宮さまは天皇陛下の弟で同世代なので、次の天皇という確定的な見方はできない」と仰せで、さらに以下のような爆弾発言も飛び出した。

「(有識者会議の)途中で政府高官から、秋篠宮さま自身が『皇太子の称号を望んでおらず、秋篠宮家の名前も残したい意向だ』という趣旨の説明があり、皇位継承順位第1位の皇族であることを示す『皇嗣』という称号に落ち着いた。秋篠宮さまの真意は今も分からない」

つまり、殿下の立皇嗣の礼は次の皇位継承者を名実ともに確定させるものではないということになる。気の早い人たち、とくに女系継承の望みを捨てていない方たちは当然、浮き足立つことになる。

しかし、皇嗣は皇太子ではないという理屈は成り立たないのではないか。少し文献を紐解けば一目瞭然だと思う。むしろ私は、弟宮への継承を阻もうとする女系派の印象操作を疑う。


▽1 御厨東大名誉教授は『帝室制度史』をご存じない?

第一に、前にも書いたように、皇太子と皇嗣が違うなどということはない。

『帝室制度史』(帝国学士院編纂、昭和12-20年)は、全6巻すべてが「第1編 天皇」に当てられ、「第2章 皇位継承」の「第四節」は「皇太子」ではなくて「皇嗣」とされている。本文には以下のように書かれてある。

「皇嗣は天皇在位中にこれを選定冊立したまふことを恒例とす」
「皇嗣の冊立ありたるときは、その皇嗣が皇子または皇孫なると、皇兄弟またはその他の皇親なるとを問はず、これを皇太子と称す」

つまり、歴史上、皇嗣=皇太子であり、皇太弟も皇太子なのであって、御厨氏の言うような理屈は成り立たない。御厨氏はむしろ政府高官に『帝室制度史』を示し、意味がないと諭すべきではなかったか。

『帝室制度史』はまた、反正天皇以来、「皇兄弟の皇位を継承したまへるもの、合はせて24例に達せり」(第3巻)、「時としては、皇弟を立てて皇嗣としたまふ場合に、とくに皇太弟と称したまへる例あり」(第4巻)と述べている。

さらに『帝室制度史』は驚くべきことに、一款を立てて「皇嗣の改替」にまで言及し、さまざまな理由から「ひとたび皇嗣冊立のことありて後も…遂に皇位に即きたまふに至らざりしこと、その例少なしとせず」と記述している。

皇太子ではなく皇嗣だから、次の天皇に確定したわけではないという論理は成り立たないことが理解される。御厨氏は『帝室制度史』はご存知ないのだろうか。


▽2 明治の皇室典範制定による「重要な変革」

朝日新聞の報道を狼煙の合図に、案の定、女性天皇、女系継承容認派が蠢き出したらしい。その1人が皇室研究家の高森明勅氏である。あまり他人の文句は言いたくないが、あえて書くことにする。

高森氏は、デイリー新潮の記事のコメントでは、「皇嗣は、現時点で皇位継承順位が第1位であることを意味する。従って、立皇嗣の礼は、次の天皇を確定する場ではない」とはっきり断言している。〈https://www.dailyshincho.jp/article/2020/11110558/?all=1

しかし既述したように、少なくとも『帝室制度史』は、皇嗣は皇太子にあらず、などとは書いていない。皇室研究家として著名な高森氏がまさか『帝室制度史』を知らないはずはない。デイリー新潮の記事の誤りかとも思ったが、自身のブログにも同様に書いてある。〈https://www.a-takamori.com/post/201113

とすると、皇嗣は皇太子にあらずとする根拠がほかにあるのだろうか。立皇嗣の礼は天皇の名で、国の行事として行われ、そのことは賢所大前にも奉告されたが、神ならぬ人間がこれを否定し、暫定的だと断定する根拠はどこにあるのか。

御厨氏は「殿下が皇太子の呼称を固辞された」とも語っているが、そうだとして、殿下は何をお悩みなのか。ふたたび『帝室制度史』をめくってみると、興味深い記述があることに気づかされる。

『帝室制度史』は近代以降、皇室典範の制定で、「皇嗣の冊立」が4つの点で、「重要な変革」を遂げたと指摘している。すなわち、以下の4点である。

1、皇嗣は冊立ではなくて、法によって一定に定まることとなった。皇太子不在の場合は儲嗣たる皇孫を皇太孫とすることと規定された。

2、旧制では皇嗣冊立ののち皇太子の称号が授けられたが、新制では儲嗣たる皇子は生まれながらにして皇太子と称されることとなった。

ここまでは容易に理解される。注目すべきなのは、このあとである。

3、旧制では皇太子の称号は必ずしも皇子に限らなかった。しかし新制では皇太子の称号は儲嗣たる皇子に限られる。儲嗣たる皇孫の場合は皇太孫と称される。皇兄弟その他の場合は特別の名称を用いない。

4、旧制では立太子の儀によって皇嗣の身分が定められた。しかし、新制では立太子礼は皇嗣の身分にあることを天下に宣示し、祖宗に奉告する儀礼である。傍系の皇族が皇嗣にあるときはこの儀礼は行われない。


▽3 『帝室制度史』の中身を熟知するがゆえに?

少なくとも御厨氏が『帝室制度史』を知らないだろうことは想像にかたくない。日本国憲法を唯一の根拠とする非宗教的な象徴天皇論者には、126代で紡がれてきた皇位継承の歴史など関心がないからである。知る必要がないからである。

しかし、ご本人に確認することは不可能だが、殿下は『帝室制度史』の存在をすでにご存知で、内容を十分に把握しておられるのではないかと私は拝察する。

殿下は「次男坊」としてお生まれになり、青年期までは「気楽な弟君」として過ごしてこられたのだろう。しかし兄君はご結婚も遅く、皇子は生まれなかった。よもやご自身が次の皇位継承者になるとは予想もしなかったのではないか。青天の霹靂である。

次の世代の皇位継承者がいないとの危機感に後押しされて、殿下は高齢を押して男子をもうけられたが、そのことは傍系への皇位継承を一段と推し進めることとなった。兄君との仲も詮索されることとなり、さぞやおツラい胸中であろう。

『帝室制度史』には、皇太子の称号は皇子に限られ、皇兄弟には特別の名称を用いない。傍系の皇嗣は立太子礼は行わない、と記される。殿下の「固辞」の理由はここにあるのではないか。

問題は、殿下の真意を捻じ曲げ、我田引水的に利用しようとする女性天皇・女系継承容認論者の存在なのであろう。もともとが現実主義の固まりだろうから、陛下が、そして殿下が皇祖神の大前で祈りを捧げたことの重みなど、一顧だにしないに違いない。

さて今日は、殿下にははじめて、神嘉殿の殿内で新嘗祭を奉仕される。これまでは幄舎での御拝礼のみだった。皇室第一の重儀を、兄君のおそば近くでお務めになることは、御感慨も一入かと拝察される。


【関連記事】朝日新聞が「立皇嗣の礼=憲政史上初」を強調する隠れた思惑〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-11-09
【関連記事】「愛子さま天皇」待望を煽る? 「週刊朝日」の御厨貴×岩井克己Zoom対談〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-11-03
【関連記事】皇兄弟による皇位継承は過去に24例。次の御代替わりは異例にあらず〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-05-24
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朝日新聞が「立皇嗣の礼=憲政史上初」を強調する隠れた思惑 [御代替わり]


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朝日新聞が「立皇嗣の礼=憲政史上初」を強調する隠れた思惑
(令和2年11月9日)
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新型コロナの影響で延期されていた秋篠宮文仁親王の「立皇嗣の礼」は8日、中心的儀礼である宣明の儀が行われました。殿下は名実ともに皇太弟となられ、悠仁親王までの皇位継承の流れがこれで確定することとなりました。

さて、それはそれとして、このたびの立皇嗣の礼に関する報道で少し気になることがありましたので、書こうと思います。それは朝日新聞などのメディアが今回の「立皇嗣の礼」を「憲政史上初」「史上初」と大仰に強調していることです〈https://www.asahi.com/articles/ASNC83JV0NC6UTIL03L.html〉〈https://www.tokyo-np.co.jp/article/66810〉。

私にはその意味がいまひとつ分かりません。皇太弟の存在が近代以降なく、「立皇嗣の礼」という名称が初めてだという単純なことなのか、それとも「立皇嗣の礼」の中身が過去の立太子礼とは異なるという史的検証を踏まえてのことなのか。「上皇さまの退位に伴い、憲政史上初めて」「前例のない儀式」(朝日)という説明は少なくとも私には意味不明です。

むしろ私には、こうした報道が「皇嗣は皇太子ではない」「立太子礼ではない」と声を張り上げているようにも聞こえます。素直に皇太子冊立を喜ばずに、女性皇太子冊立の可能性はまだ十分あるというニュアンスで、女性天皇・女系継承容認論者を焚き付ける隠れた思惑があるのではありませんか。

その証拠に、朝日新聞は同じ日に、女系継承容認派の御厨貴・東大名誉教授を登場させ、「秋篠宮さまが次の天皇として即位するという確定的な見方はできない」と語らせ、晴れのお祝いに冷水を浴びせかけています〈https://digital.asahi.com/articles/ASNC853WTNB6UTIL032.html?iref=pc_ss_date〉。


▽1 皇太弟は皇太子である

歴史を振り返れば、譲位が制度上、否認されることになったのは明治以後だなどということはいまどき誰でも知っています。126代続いてきた皇統のなかで、皇太弟の存在は24例もあります。

『帝室制度史』(第4巻、帝国学士院編纂、昭和15年)は「皇太子」ではなく「皇嗣」と総称し、皇弟を皇太子に立てる場合、とくに「皇太弟」と称することがあると説明していますが、「皇太弟」は「皇太子」ではないなどと否定しているわけではありません。

とすれば、今回も「皇太弟」冊立の「立太子の礼」で良かったのではありませんか。そうすれば、「史上初」などと振りかぶる必要もなかったでしょう。平成までの前例を踏襲すれば、それで足りたのです。

実際、「史上初」どころか、私にはまったくの前例踏襲のように見えます。不思議なことに、朝日新聞は「史上初」といいつつ、一方では「平成の『立太子の礼』を参考にした」と説明しています。首尾一貫しません。

具体的に式の中身を見てみると、すでに書いてきたように、今回の「立皇嗣の礼」は古来のやり方とも近代の方法とも違っています。朝日新聞はなぜそこを伝えようとしないのでしょう。

まず貞観儀式(平安前期)です。

『帝室制度史 第4巻』によると、近世まで行われた皇太子冊立の儀礼は、屋外の紫宸殿前庭で、親王以下百官が参列し、天皇が宣命大夫に宣命を宣せしめるというもので、中世以後はさらに壺切御剣を授ける儀礼が加わりました。

朝日新聞は今回の「立皇嗣の礼」について、「平安時代の儀礼をほぼ踏襲」とも説明していますが、正確とは言えません。似ているのはせいぜい皇族や政府要人を前にして執り行われたことぐらいです。壺切御剣の伝進は今回は別の儀礼として行われています。

まったく違うのは、かつては天皇の御意思が法でした。近代以後は皇室典範が皇位継承の根拠ですが、現行の典範は皇室の家法ではなく、国会が制定する一法律にすぎません。


▽2 宗教儀礼化した近代の立太子礼

むろん近代の立太子礼とも異なります。

明治42年制定の立儲令では、まず宮中三殿への天皇・皇后の奉告が御代拝で行われます。紫宸殿前庭で親王以下百官の前にしての儀礼ではなく、宮中三殿での宗教的儀礼に大変革されたのです。

次いで伊勢神宮、山陵に勅使が発遣され、奉幣が行われます。中心となる儀礼は賢所大前の儀で、天皇の親祭が行われ、両陛下の拝礼、勅語ののち壺切御剣が伝進されました。そのあと皇太子が三殿に謁し、さらにそのあと朝見の儀、饗宴の儀が行われることとされました。

天皇は親王以下百官に対してではなく皇祖神に対して、宣命大夫ではなく天皇みずから御告文を奏されることと大きく趣旨が変わったのです。

その後、実際はどうだったのか、Wikipediaに詳細が載っています。さすがです。時代は大きく変わりました。大手メディアより、情報が豊富です。

昭和天皇の「立太子の式」は大正5年11月、立儲令のままに行われたようです。

先帝の場合は昭和27年11月、成年式と同時に行われました。あらかじめ天皇・皇后が挙式を賢所大前に親告し、立太子宣制の儀は仮宮殿・表北の間で、宮内庁長官が宣明を読み上げ、皇太子が両陛下に拝礼、総理が寿詞を述べたようです。

敗戦後、昭和22年5月に新憲法が施行され、同時に立儲令など皇室令は全廃されています。占領は終わり、神道指令は効力を失いましたが、立儲令に代わる法的ルールはありません。とすれば、依命通牒第3項に基づいて、「従前の例に準じて事務を処理すること」、すなわち立儲令の附式に準じて、立太子礼が執り行われていいはずですが、そうはなっていません。なぜそうしなかったのか。

むしろ古来の伝統である貞観儀式に準じて、宮殿で、政府要人を前に、宣明を側近に代読させるという形式に一変しています。今回の立皇嗣の例のあり方にもつながっている、この変革をもたらしたのは何か、「新憲法下での政教分離原則に従い」と説明する報道もありますが、明治を超えて平安期にまで歴史を逆転させた要因はそれだけでしょうか〈https://www.sankei.com/life/news/201108/lif2011080011-n1.html〉。


▽3 平成の立太子礼を踏襲

今上の場合は平成3年2月でした。あらかじめ勅使の発遣が行われ、当日は天皇が三殿に親告し、続いて立太子宣明の儀が宮殿・松の間で行われました。天皇が宣明を読み上げ、皇太子のお言葉があり、総理が寿詞を述べました。

先帝のときは宮内庁長官が宣明を代読しましたが、今上の場合は天皇みずから宣明を読み上げるかたちに変わりました。なぜ変更されたのでしょう。総理が寿詞を述べるのは前例踏襲です。

さらに続いて、儀場が変わり、鳳凰の間で、壺切御剣が天皇から皇太子に親授され、そのあと皇太子が三殿に拝礼し、朝見の儀、饗宴の儀と続きました。

宣明の儀と壺切御剣の親授式が分離するのは、昭和天皇のときからなのか、それとも先帝のときからなのでしょうか。

今回は、まずあらかじめ伊勢神宮に勅使が発遣され、当日は天皇・皇后が宮中三殿の内陣で拝礼され、皇族が幄舎で拝礼されました。神武天皇陵、昭和天皇陵に奉幣の儀が行われ、宮殿・松の間で立皇嗣宣明の儀が行われました。

そのあと鳳凰の間で、壺切御剣が親授され、さらに皇嗣が三殿に謁したのち、朝見の儀が行われました。当初予定された饗宴の儀は取りやめとなりました。

蛇足ながら、毎日新聞によると、壺切御剣は「昨年9月に陛下の側近から秋篠宮さまに手渡される行事が行われ、翌月の『即位礼正殿(せいでん)の儀』の際に帯剣した」ようです。何のことはない、即位礼の前に殿下に伝進され、「普段は宮内庁が管理している」のです〈https://mainichi.jp/articles/20201108/ddm/041/040/073000c〉。とすると、今回の壺切御剣の親授式とはいったい何のためのものなのでしょう。

結局のところ、今回の立皇嗣の礼は、「平安期の踏襲」というより、まさに「平成の踏襲」といえます。したがって戦後の立太子礼を踏襲する「立皇嗣の礼」を「史上初」と大袈裟に報道することには無理があります。朝日新聞ほかの誇大なニュースには何か特別の意図があるのでしょうか。


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来月8日に立皇嗣の礼。儀礼の主体は誰なのか? [御代替わり]


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来月8日に立皇嗣の礼。儀礼の主体は誰なのか?
(令和2年10月25日)
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新型コロナ感染拡大の影響で延期されていた秋篠宮文仁親王殿下の立皇嗣の礼が、いよいよ来月11月8日に執り行われることが最終的に決しました。今月8日の閣議で日取りが決定され、宮内庁は先週21日、大礼委員会を開き、関連行事の詳細を決めました。〈https://www.kantei.go.jp/jp/singi/gishikitou_iinkai/dai11/gijisidai.html〉〈https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/shiryo/tairei/gijishidai-021021.html

すでに書いてきたように、今日の立皇嗣の礼は、古来の伝統的形式とも、明治の立儲令(明治42年)に規定されたものとも異なる、現行憲法に基づくところの、まったくの新例です。次の皇位継承者を決めているのはいったい誰なのでしょうか。


▽1 非宗教儀礼回帰の意味

伝統的な皇太子冊立の儀礼は、紫宸殿の前庭で、親王以下百官を前にして、天皇が宣命大夫に立太子の宣命を代読させるというものでした。貞観儀式には「立皇太子儀」として定められ、近世までこれが続きました。中世以後は壺切の御剣が皇太子冊立にあたって授けられることとなりましたが、むろん主体は天皇です。

これが明治の立儲令では、儀式が一変します。立太子の礼は賢所大前に儀場が変わり、天皇、皇太子が拝礼し、勅語ののち、御剣が授与されることとなりました。非宗教的な儀礼から、宗教的な儀礼へと変化したことになります。ただ、主体が天皇であることは変わりません。

ところが、戦後はふたたび非宗教儀礼へと回帰するのですが、それだけではありません。

今回は、場所は宮殿に変更され、国民の代表者を前にして、宣明の儀が「国の行事」として行われ、そのあと同じく宮殿で、御剣親授の儀式が「皇室行事」として行われたのち、三殿に閲するの儀が行われるという順序になっています。

立皇嗣の趣旨はかつては天皇が皇嗣を選定冊立することにありましたが、いまは「文仁親王が皇嗣になられたことを広く国民に明らかにし、内外の代表が寿ぐ儀式」と閣議決定されています。宣明の儀の主体は天皇なのか、皇嗣なのか、必ずしも明確ではありません。天皇による皇嗣冊立なのか、それとも国民の代表者による国会が冊立するのでしょうか。


▽2 皇室の伝統はどこへ

「賢所での儀式=天皇の私事」と「宮殿での儀式=国の行事」の分離方式は昭和27年の立太子式でも見られたことですが、宮殿への儀場変更は古来の伝統回帰というより憲法の政教分離原則への非宗教的配慮です。

ここには現代の皇位継承の儀礼と同様の論理構造があります。

古くは神籬を立てて、神前で行われていた即位儀礼は、大陸との交流に影響され、大極殿という唐風の宮殿で行われるようになり、国風の儀式は大嘗祭として伝えられることとなりました。

明治になると、唐風が廃され、即位礼と大嘗祭として整備されますが、戦後は宗教性を物差しにして「国の行事」と「皇室行事」とに分裂させられ、国風の大嘗祭は「国の儀式」から外されました。

皇位継承と同様、立皇嗣の礼のあり方を定める法的ルールは戦後70年以上たっても、作られてはいません。とすれば、昭和22年5月の依命通牒第3項に基づいて、「従前の例に準じて事務を処理する」、つまり立儲令の附式に準じて挙行していいはずですが、そうはなっていません。

昭和34年の皇太子御成婚では、もっとも重要な賢所大前の結婚の儀が「国の儀式」(「国の行事」ではない)と閣議決定されましたが、50年8月15日の宮内庁長官室会議で依命通牒の解釈運用は変わりました。今回、もっとも重要なはずの賢所への奉告はむろん、「国の行事」とはされません。

戦後30年の間に何度も政策変更があり、そしていまなお、皇位継承という国にとっての最重要事項について、法的あり方がいまもって固まっていないというのはきわめてきびしい現実です。皇室の伝統はどこへ行ったのか、私は長嘆息を禁じ得ません。


 【関連記事】即位式、3度の変遷。仏式が神式化したのではない──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 3〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2017-10-12
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壺切御剣が殿下のおそばにない──ふたたび考える「立皇嗣の礼」の延期 [御代替わり]

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壺切御剣が殿下のおそばにない──ふたたび考える「立皇嗣の礼」の延期
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今日予定されていた秋篠宮文仁親王の「立皇嗣の礼」の諸儀礼が、新型コロナウイルス対策に伴い、秋以降に延期されました。前回、取り上げた通りです。

 【関連記事】「立皇嗣の礼」の延期は大前に奉告されるのか。蔑ろにされる皇祖神の御神意https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-04-12

殿下はすでに皇室典範特例法の施行によって、昨年5月1日午前0時をもって「皇嗣」となられています。「国権の最高機関」とされる国会の定める法律によって、「皇嗣」としての法的地位が得られたのですが、今回の「延期」は、皇室の原理である「祭祀優先」主義との矛盾をさらに拡大させているのではないか、というのが私の指摘です。

分かりづらいところがあったように思われますので、もう一度、考えてみます。


▽1 「およそ禁中の作法は神事を先にす」

かつては天皇の御意向が法とされ、勅旨による儀式が最重要視されました。皇位の継承では、紫宸殿で天皇の宣命が宣せられた瞬間に皇太子は新帝となり、そののち剣璽は動座されました。そして皇嗣は、天皇が詔を宣することで皇太子が立てられ、壺切御剣が伝進されたのです。

 【関連記事】「貞観儀式」の「譲国儀」を訓読する ──第2回式典準備委員会資料を読む 6https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2018-04-30
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明治になり、アジア諸国のなかで、近代法をいち早く導入したのがわが国ですが、大正の御代替わりは微妙でした。

明治の皇室典範は「天皇崩ずるときは皇嗣すなわち踐祚し、祖宗の神器を承く」(第10条)と規定し、登極令は「天皇践祚のときはすなわち掌典長をして賢所に祭典を行わしめ」(第1条)と定めていましたが、明治天皇崩御の正確な日時は7月29日午後10時43分で(『昭和天皇実録』)、これでは賢所大前の儀式が間に合いません。

結局、崩御の公式時刻が2時間後の翌日午前0時43分に延期され、深夜1時に賢所の儀と剣璽渡御の儀が同時に執行されたのでした(官報号外)。「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」(順徳天皇『禁秘抄』)の精神を優先するため、現実主義的対応策が講じられたということでしょう。

戦後の神道指令発令以後、宮中祭祀は「皇室の私事」に貶められましたが、宮内庁関係者によれば、それでも皇室では「神事優先」の原則が守られてきたと聞きます。たとえば行幸の日程が旬祭などの祭祀と重なる場合、行幸の日取りが変更されたのでした。

昭和天皇が行幸先で賢所の方角をたいへん気にされたという逸話が残されていますが、それは「白地(あからさまにも)神宮ならびに内侍所の方をもって御跡(みあと)となしたまはず」(ゆめゆめ伊勢神宮や賢所に足を向けてはならない)が禁秘抄の教えだからです。

古来、歴代天皇は祭祀を第一のお務めとされましたが、昭和40年代に祭祀嫌いの入江相政が侍従長となり、さらに無神論者の富田朝彦次長が登場して、宮内庁それ時代が一変し、「祭祀優先」は崩れていったのです。(詳しくは拙著をお読みください)

 【参考文献】拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E7%A5%88%E3%82%8A%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%B0%A1%E7%95%A5%E5%8C%96%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%8B-%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%90%89%E4%B9%85/dp/4890632395
 【関連記事】「昭和天皇の忠臣」が語る「昭和の終わり」の不備──永田忠興元掌典補に聞く(「文藝春秋」2012年2月号)https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-02-01-1


▽2 皇室の伝統を蔑ろにする保守長期政権の皮肉

平成の御代替わりではさまざまな不都合が起き、令和の御代替わりでも同様のことが繰り返されました。無神論的な政教分離の厳格主義が背景にあることはもちろんです。皇室の伝統重視を基本方針のひとつとしたはずなのに、実際は皇室の宗教的儀礼に不当に介入したのです。それが「一強」とされる保守長期政権の皮肉な実態です。

 【関連記事】宮中祭祀を「法匪」から救え──Xデーに向けて何が危惧されるのか。昭和の失敗を繰り返すなhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-02-01

たとえば賢所の儀です。

皇室の「神事優先」の大原則からいえば、昨年5月1日午前0時をもって皇位が継承されるということなら、前日の夕刻、もしくは当日未明に賢所大前の儀式が行われるべきです。しかし、実際はあろうことか、「退位」と「即位」が分離され、即位(践祚)を奉告する「賢所の儀」は最後まで時刻の決定が遅れたうえに、践祚から10時間半遅れ、宮殿での剣璽等承継の儀と同じ、当日午前10時30分挙行となりました。むろん御代拝でした。

 【関連記事】賢所の儀は何時に行われるのか? ──いつまでも決まらない最重要儀礼https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-01-20

今回の「立皇嗣の礼」では、宮殿での「宣明の儀」(国の行事)は「文仁親王殿下が皇嗣となられたことを公に宣明されるとともに、これを内外の代表がことほぐ儀式」(官邸の式典委員会資料)〈https://www.kantei.go.jp/jp/singi/gishikitou_iinkai/dai9/gijisidai.html〉とされ、4月19日午前11時開始とされました。

他方、「天皇が立皇嗣の礼を行うことを奉告される」儀式である「賢所皇霊殿神殿に親告の儀」(皇室行事)は2時間前の同日午前9時挙行とされました。〈https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/shiryo/tairei/pdf/shiryo020324-2.pdf

宮中三殿で「親告」があり、そののち宮殿で「宣明」が行われるという順序は「祭祀優先」の原則にかなっているようにも見えますが、法的な冊立からはすでに1年近くも経過しているのです。そして新型コロナウイルス感染拡大防止のため、さらに少なくとも半年遅れることとなったのです。この間、壺切御剣は殿下のおそばにないことになります。

むろんウイルス感染拡大防止は現実問題として重要ですが、「神事を先にす」という皇室の原理が蔑ろにされていることはほとんど間違いありません。問題は歴史と伝統ある宮中の儀礼と近代法制との関係であり、もはや弥縫策ではなく、総合的に再検討すべき時期に来ているのではないかと私は思います。

皇祖のみならず天神地祇を祀る公正かつ無私なる天皇の祭祀への偏見があるとすればなおのことです。そうでなければ、国の行事と皇室行事を分離する必要はないからです。皇室を大切に思う保守派こそ声を上げるべきではないでしょうか。


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「立皇嗣の礼」の延期は大前に奉告されるのか。蔑ろにされる皇祖神の御神意 [御代替わり]


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「立皇嗣の礼」の延期は大前に奉告されるのか。蔑ろにされる皇祖神の御神意
《斎藤吉久のブログ 令和2年4月12日》
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新型コロナウイルス感染症の感染拡大を封じ込めるため、政府は緊急事態宣言を発出しました。10日の持ち回り閣議では、19日に挙行予定だった「立皇嗣の礼」を「延期する方向で調整」されることが決まりました。今後の予定については、菅官房長官が「感染症の収束状況を踏まえ、式典委員会を開催をし、改めて検討する」と閣議後の会見で語っています。〈https://www.kantei.go.jp/jp/tyoukanpress/202004/10_a.html

他方、宮内庁は、報道によれば、「(宮中祭祀など)関連する皇室行事も調整が必要」との判断で、陛下や殿下にはすでに経緯を報告済みだと伝えられます。「(挙行は)早くても秋以降」とされます。

そこで「立皇嗣の礼」について、おもに2つの視点から考えてみたいと思います。1つは政府の決定と神前での祭祀との関連について、もう1つはすでに定まっている「皇嗣」という法的地位の今後について、の2点です。

「愛子さま天皇」待望論がこのところの新型コロナ感染拡大の影響からかカゲを潜めていますが、なかには公然と、皇位継承順位第1位の秋篠宮文仁親王や同2位の悠仁親王を押し除けて、愛子内親王の即位を望む声も聞かれます。

皇室典範特例法の施行に伴い、すでに法的に定まっている皇位継承順位を変更できるし、変更すべきだという主張ですが、そんな権利が国民にあるのでしょうか。


▽1 法的冊立から1年半後の「親告」

最大のポイントは、皇祖神と天皇(皇位)と国民(憲法)とのギクシャクした関係です。

開闢以来、天皇がこの国の統治者であるのは皇祖天照大神の委任(ことよさし)によるものであるというのが古典的な解釈ですが、無宗教的な現代人の感覚では理解しづらいものとなっています。

現行憲法は第1条で「天皇の地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」と明記しています。まるで人気投票まがいに、国民が無遠慮に、国の根幹に関わる皇位継承に介入するのは理由のないことではありません。言論の自由は法的に認められています。

太子を立てることは古来、天皇のご意思に基づく専管事項でした。『帝室制度史 第4巻』(昭和15年)には「皇嗣は天皇在位中にこれを選定冊立したまふことを恒例とす」「光仁天皇以後は、皇太子の冊立にあたり詔をもって天下に宣示したまふことが、定例となすに至れり」(第1編天皇 第2章皇位継承 第4節皇嗣)とあり、立儲令(明治42年)には「第1条 皇太子を立つるの礼は勅旨により、これを行ふ」と明記されていました。

かつては天皇のご意思が法であり、勅旨によって儀式を行い、詔を宣することで皇太子が立てられました。しかし現行憲法下では、先の改元がそうであったように、国民主権主義に基づくところの政府が権限を握っています。立太子は儀式ではなく、法に基づきます。今回の「延期」も決定権は陛下にはありません。

今回の「延期」がなければ、15日の勅使発遣の儀に始まり、19日の当日に伊勢の神宮には奉幣、宮中三殿には親告、神武天皇山陵および昭和天皇山陵には奉幣が行われ、そののち宮殿で「立皇嗣宣明の儀」が行われるという予定でした。

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殿下の「皇嗣」としての法的地位は昨年5月1日に定まっています。ほぼ1年後に「立皇嗣の礼」が設定されたのは、一連の御代替わり儀礼が終わり、落ち着いた時期で挙行されるのがふさわしいと考えられたからです。しかし「秋以降」の「延期」となれば、もっとも肝心な皇祖神や歴代天皇へのご挨拶は法的冊立から1年半も遅れることになります。

今回の御代替わりでは「国の行事」最優先でスケジュールが決められ、皇室にとってもっとも重要であるはずの「賢所の儀」についての決定は最後の最後まで先延ばしされ、結局、践祚から10時間半遅れの神事が行われました。しかも御代拝でした。

 【関連記事】賢所の儀は何時に行われるのか? ──いつまでも決まらない最重要儀礼https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-01-20
 【関連記事】「皇室の伝統」は国民主権主義と対立するのか ──朝日新聞の「新元号」関連企画を読むhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-04-21

そうさせた主因は憲法の非宗教的な解釈・運用にあります。憲法は宗教的価値を否定しているわけではないのに、「神事を先にす」(禁秘抄)の大原則が歪められているのです。今回の「延期」は賢所にいつ奉告されるのでしょうか。それともしないのでしょうか。

 【関連記事】憲法は政府に宗教的無色性を要求していない──小嶋和司教授の政教分離論を読むhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-10-16-1


▽2 日常化する臣下の謀反

『帝室制度史第4巻』は、いみじくも「皇嗣の改替」(第4節第2款)について取り上げています。歴史上の事例がそれだけ多くあるからです。しかし、だからといって今回も「陛下の次は」という展開にはならないし、なるべきではないと思います。
『帝室制度史第四巻』表紙@NDL

『制度史』を読んでみると、「改替」には3つのパターンがあることが分かります。薨去、辞退、廃太子の3つです。

「ひとたび皇嗣冊立のことありてのちも、あるいは天皇在位中に皇太子薨去したまひしにより、あるいは皇太子にみづから皇嗣たることを辞したまひしにより、あるいは皇太子に重大の事故あり、勅旨をもって皇嗣たることを廃したまひしにより、つひに皇位に即きたまふにいたらざりしこと、その例すくなしとせず」

『制度史』は具体的な事例を挙げています。まず皇太子の薨去です。

「天皇在位中に皇太子の薨去ありしは、推古天皇の皇太子厩戸豊聡耳皇子、白河天皇の皇太弟実仁親王は、その例なり」

「天皇崩御ののち、皇太子皇位に即きたまふに至らずして薨去ありしは、応神天皇の皇太子菟道稚郎子、允恭天皇の皇太子木梨軽皇子は、その例なり」

薨去後の対応はどうなるのでしょう。

「皇太子薨去により、さらに皇嗣の冊立ありしは、持統天皇称制中に皇太子草壁皇子薨じ、天皇即位ののち、草壁皇子の御子珂瑠(文武天皇)を皇太子となしたまひ、聖武天皇の皇太子某皇子薨じて、皇女阿倍(孝謙天皇)を皇太子となしたまひ、醍醐天皇の皇太子保明親王薨じて、その御子慶頼王を皇太子となし、慶賴王薨じて、さらに皇子寛明親王(朱雀天皇)を皇太子となしたまひしがごときこれなり」

『制度史』が以下のように、立太子に介入した臣下の謀反について言及しているのは注目されます。

「また後醍醐天皇ははじめ後二条天皇の皇子邦良親王を皇太子となしたまひしが、その薨ずるに及び、後伏見天皇の皇子量仁親王(光厳院)を皇太子となしたまひ、次いで元弘の変後、皇子恒良親王を皇太子となしたまひしが、足利尊氏の叛により、親王は北国に赴き、天皇は吉野に遷幸したまひ、親王の足利氏のために幽せられて薨ずるに及び、さらに皇子義良親王(後村上天皇)を皇太子となしたまひしがごときは、特異の事例なり」

『制度史』は「特異の事例」と表現していますが、現代では、首相の私的諮問機関が皇族方の意見に耳を傾けないどころか、側近中の側近である宮内庁長官までが反対する皇族の口封じをし、「女性天皇・女系天皇への途を開くことが不可欠」との報告書が書かれるまでに、「謀反」が日常化しています。世も末というべきです。

 【関連記事】皇統を揺るがす羽毛田長官の危険な〝願望〟(「正論」平成21年12月号から)https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2009-12-01-2


▽3 皇祖神の御神意のままに

皇嗣改替の2番目の類型は皇太子の辞退です。

「皇太子みずから皇嗣たることを辞したまひ、よりて皇嗣の改替ありしは、天智天皇の皇太弟大海人皇子(天武天皇)の辞退により大友皇子(弘文天皇)を皇太子となしたまひ、淳和天皇の皇太子恒世親王の辞退により、正良親王(仁明天皇)を皇太子となしたまひ、後一条天皇の皇太子敦明親王の辞退により、敦良親王(後朱雀天皇)を皇太子となしたまひしがごときこれなり」

過去には複雑な事情から辞退というケースがあったのでしょうか。戦後、ある宮様が皇籍離脱の発言をされたことがあり、最近もイギリス王室の騒動に関連してメディアに取り上げられましたが、あまり知られていないのは、そのときある神社人から猛抗議され、それ以後、一切沈黙されたという事実です。

やれ皇族にも基本的人権があるとかないとか、法律論が世間では交わされていますが、その場合、126代続く皇位の前提であり、歴代天皇が重視してこられた皇祖神の神勅は蔑ろにされてもいいということでしょうか。

最後は廃太子です。

「ときとしては、皇太子に重大の事故ありたるため、廃太子のことありたる例もなきにあらず。
孝謙天皇は皇太子道祖王の陰従のゆゑをもって廃してこれを諸王となし、大炊王(淳仁天皇)を立てて皇太子となしたまひ、光仁天皇は皇太子他戸親王の母后井上内親王の大逆のゆゑをもって廃してこれを庶人となし、山部親王(桓武天皇)を立てて皇太子となしたまひ、桓武天皇は皇太子早良親王の藤原種継暗殺のことに座するのゆゑをもって廃してこれを淡路島に遷し、安殿親王(平城天皇)を立てて皇太子となしたまひ、嵯峨天皇は皇太子高岳親王の藤原薬子の乱に座するのゆゑをもってこれを廃し、道康親王(文徳天皇)を立てて皇太子となしたまひしがごときこれなり」

『制度史』が解説しているのはあくまで天皇による廃太子です。天皇の専管事項なら当然です。ところが今日では、国民による議論が沸騰しています。あまつさえ「陛下の御学友」を自称する元同級生が「廃太子論」を書き、大新聞の子会社が出版するという前代未聞の事件も起きています。

 【関連記事】1 これがご学友の皇室論か──橋本明「廃太子論」を読むhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2009-08-04-1
 【関連記事】橋本明さんの見かけ倒し、西尾幹二先生のお門違い───「WiLL」10月号の緊急対談を読むhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2009-09-01

「廃太子」は極端ですが、皇位継承に口出しする権利が本来、国民にあるのでしょうか。皇祖神の御神意にゆだね、皇室のルールに従うということではいけないのでしょうか。それとも陛下に皇太弟の廃太子を要求するつもりですか。


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キリスト教的な「立儲令」はどのようにして生まれたのか? ──『帝室制度史』を読む 後編 [御代替わり]

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キリスト教的な「立儲令」はどのようにして生まれたのか?
──『帝室制度史』を読む 後編
《斎藤吉久のブログ 令和2年4月1日》
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▽1 戦前を無批判に肯定するのか、そうでないのか

今回の御代替わりを方向付けた皇室典範特例法が成立したのは3年前の平成29年6月9日でした。その翌日が戦後唯一の神道思想家・葦津珍彦先生の没後25年の命日で、ごく親しい門人10人ほどが墓前に集まり、故人を偲びました。お詣りのあとの直会の席で、日本会議の中心的人物が披露した思い出話が、耳にこびり付いて離れません。

日本会議の中枢には生長の家出身の活動家が少なくないようです。その人もその1人で、ン十年前の学生のころ、鎌倉の先生宅を数人で訪ねました。そのとき先生は、戦前を無批判に肯定するのか、そうでないのか、はっきりしなさいと迫ったらしいのです。

葦津先生といえば、戦後の神社本庁創立や剣璽御動座復古、靖国神社国家護持運動などを主導した民族派の重鎮ですから、戦前を手放しで肯定し、戦前に回帰することを主張していると思い込む人もいます。かく言う私もそうでした。しかし、じつは違います。青年期に東條内閣の統制政策と真っ向から対決し、朝鮮独立運動家の呂運亨を支援していたとあれば、単純な戦前礼賛とはひと味もふた味も違って当然です。

 【関連記事】朝鮮を愛した神道思想家の知られざる軌跡──大三輪長兵衛、葦津耕次郎、珍彦の歩みhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1999-04-01
 【関連記事】近代の肖像 危機を拓く 第444回 葦津珍彦(2)──敗戦の危機が生んだ「神道の社会的防衛者」https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-03-02?1585709410

葦津先生との会談のあと、生長の家の学生グループは戦前礼賛派と非礼賛派とに分裂したと日本会議のメンバーは先生のありし日を懐かしみ、苦笑いしていました。

日本の近代化は「諸事、神武創業之始ニ原(もとづ)キ」(王政復古の大号令)をスローガンに始まりましたが、復古より、むしろ欧化主義が社会を席巻しました。伝統主義と近代主義が複雑に絡まりながら進んできたのが日本近代史の真相でしょう。その結末が敗戦だとしても、単純に白だ黒だと決め付けることはできません。

近代の皇室制度改革もその例に漏れることはないでしょう。前回も取り上げた明治42年の立儲令は、古来、紫宸殿前庭で行われていた立皇太子儀の伝統を踏襲するものではなく、逆に古式を打破し、宮中三殿の神事に一変させたのです。神道儀礼=伝統ではありません。


▽2 神事からの解放は意外や伝統回帰?
『帝室制度史第四巻』表紙@NDL

前置きはそのぐらいにして、前回に引き続き、『帝室制度史 第4巻』第二章第四節第一款「皇嗣の冊立」を読み進めます。〈https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1241593

 【関連記事】衝撃の事実!!「立皇太子儀」は近世まで紫宸殿前庭で行われていた ──『帝室制度史』を読む 前編https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-31

前回は、古来、皇嗣の冊立において天皇が詔し、天下に宣示されたのが、立儲令では賢所での勅語に変わり、いまは皇嗣の「宣明」に変更されていることなどを指摘しました。『帝室制度史』は具体的な儀礼の中身を説明します。
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「皇太子冊立の儀礼については、貞観儀式には、『立皇太子儀』としてその次第を記せり。その儀は紫宸殿の前庭においてこれをおこなひ、親王以下百官参列し、宣命大夫をして宣命を宣せしめたまふ。
立太子の宣命は『天皇詔旨勅命を(スメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲ)、親王(キミタチ)、諸臣(オミタチ)、百官人等(モモツツカサノヒトタチ)、天下公民衆聞食止宣(アメノシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノル)、随法爾可有伎政止志氐(ノリノママニアルベキマツリゴトトシテ)、其親王立而皇太子止定賜布(ソレノミコヲタテテヒツギノミコトサダメタマフ)、故此之状悟天(カレカクノサマサトリテ)、百官人等仕奉礼止詔天皇勅命乎(モモノツカサノヒトタチツカヘマツレトノリタマフスメラガオホミコトヲ)、衆聞食止宣(モロモロキコシメサヘトノル)』とあり、この宣命の儀は永く踏襲せられて、近世に至るまで皇嗣冊立の儀典の中枢をなせり。
立太子の当日、または後日ならずして、東宮奉仕の職員を補任し、また拝観、節会のことあり、日を隔てて立太子の由を山陵に告げたまふ」

貞観儀式の定めに従い、近世まで続いた慣習は、紫宸殿前庭で宣命大夫に宣命を代読させるというものでしたが、立儲令では場所は賢所に変わり、内陣で天皇が御告文を奏され、そのあと外陣で勅語を述べられ、皇太子に御剣が授けられました。

今回の「宣明の儀」では、宮殿で天皇の「おことば」に続いて皇嗣の「おことば」、さらに総理大臣の寿詞が続くことになっています。神事からの解放は意外にも伝統回帰ともいえます。また、山陵への奉幣は日を隔てず、同じ日に行われます。

「中世以後、皇太子には壺切の御剣を授けたまふ。壺切の御剣は、はじめ藤原基経の家に伝へ、基経これを宇多天皇に献じ、天皇これを当時皇太子に在しし、醍醐天皇に授けたまひ、醍醐天皇は延喜4年2月、皇子明親親王を立てて皇太子となしたまふにあたり、これを授けたまひしに始まり、爾来歴代皇太子の冊立にあたり、護身の御剣として、これを授けたまふの例をなし、もって今日に及べり」

御剣の授与は立儲令では大前の儀と一体で、勅語のあと授けられましたが、今回は宣明の儀とは切り離され、引き続いて独立の儀式として、皇室行事として行われます。


▽3 古例が近代化で一変

このあと『帝室制度史』は、南北朝以降、儀式が300年間断絶したこと、天皇在位中の皇太子冊立という常例がときに破られた歴史などを解説したあと、最後に明治の改革についてまとめています。

「皇室典範の制定せららるに及び、新たに皇位継承の順位を一定したまふとともに、『儲嗣たる皇子を皇太子とす。皇太子あらざるときは儲嗣たる皇孫を皇太孫とす』と規定し、また皇太子、皇太孫を立つるときは、当日詔書をもってこれを公布したまふことを定め、立太子、立太孫の礼については、中古以来の皇太子冊立の儀を参酌し、立儲令により詳細にこれを定めたまへり。これにより皇嗣に関する上代以来の制度は、くさぐさの点において重要なる変革ありたり」

『帝室制度史』の編纂は錚々たる知識人が関与していたようですが、彼らは明治の皇室典範制定によって古来の制度が近代化し、一変したことをはっきりと認識しています。具体的には……。

「その諸点をあぐれば、旧制においては、皇嗣は冊立によりはじめて定まりしに対し、新制においては、皇嗣は冊立によらず、法定の順位に従い当然に定まること、その1なり」

変革の第一は近代法が継承の基準となったことです。

「旧制においては、皇太子の称は皇嗣の冊立によりはじめて授けられしに対し、新制においては、儲子たる皇子は生まれながら皇太子と称したまふこと、その2なり」

今回は生まれながらということではありませんが、秋篠宮は立皇嗣の礼を前にしてすでに「皇嗣」と呼ばれています。

「旧制においては、皇太子の称は必ずしも皇子に限らざりしに対し、新制においては、皇太子の称はもっぱら儲嗣たる皇子にかぎり、皇孫(皇曾孫、皇玄孫などまた同じ)の儲嗣たる場合は、とくに皇太孫と称し、皇兄弟その他の皇族の儲嗣たる場合は、特別の名称を用ひざること、その3なり」


▽4 近代化とは何だったのかを解くカギ

「旧制においては、立太子の儀は、これによりはじめて皇嗣たる身位を定むるものなりしに対し、新制においては、立太子または立太孫の礼は、すでに皇太子または皇太孫たる皇子または皇孫の皇嗣たる地位に在すことを天下に宣示し祖宗に奉告したまふ儀礼にして、傍系の皇族の皇嗣たる地位に座す場合は、この儀礼を行はせられざること、その4なり」

古来は親王以下百官を前に、天皇が詔して皇太子を冊立することだったのに対して、近代においては法的にすでに皇太子の地位にあることを内外に示し、かつ皇祖に奉告する儀礼に変わったというのが『帝室制度史』の理解ですが、2つの機能をさして広くもない「賢所大前の儀」に押し込めることになったのはなぜでしょうか。

もしかして、欧米列強に対抗する目的で、ウエストミンスター寺院での戴冠式などヨーロッパの王室儀礼に倣った欧化主義ということでしょうか。伝統的というより、むしろキリスト教的な立儲令の諸儀礼はどのようにして生まれたのか。それこそ近代化とは何だったのかを解く鍵がそこから見えてくるはずですが、手がかりとなる資料は残念ながらいま手元にはありません。

それなら戦後のスタイルは何に由来するのか。日本古来の伝統を引き継ぐのなら、大前での親告の儀と宮殿での宣明の儀とを分ける戦後の二分方式の方が伝統にかなっているようにも見えます。しかし、両者を政教分離原則によって「皇室行事」と「国の行事」に色分けし、さらに宣明の儀と御剣親授を分離させるのは古来の伝統ではなく、明治の欧化主義に似た、一神教世界由来の政教分離主義でした。

皇室の儀礼は近代以後、一貫して、一神教世界からの暴風に曝され、弄ばれ続けているように私には見えます。


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衝撃の事実!!「立皇太子儀」は近世まで紫宸殿前庭で行われていた ──『帝室制度史』を読む 前編 [御代替わり]

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衝撃の事実!!「立皇太子儀」は近世まで紫宸殿前庭で行われていた
──『帝室制度史』を読む 前編
《斎藤吉久のブログ 令和2年3月31日》
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4月に予定される「立皇嗣の礼」の儀礼が立儲令附式(明治42年)とはかなり相違点があるというお話をしてきました。「賢所大前において」(立儲令第4条)行われる神事から宮殿での無神論的儀礼となり、賢所での儀式は「国の行事」(国事行為)ではなく、「皇室行事」となりました。

 【関連記事】「立皇嗣の礼」=国事行為を閣議決定。もっとも中心的な宮中三殿での儀礼は「国の行事」とはならずhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-24
 【関連記事】明治の「立儲令」と来月の「立皇嗣の礼」は何が違うのか?https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-29

戦後の政教分離原則を基準とする、「国の行事」=無宗教儀式=宮殿、「皇室行事」=宗教儀礼=賢所という対立の図式はいつ、どのようにして生まれたのでしょうか。


▽1 明治の立儲令こそ非「慣例」的

政教分離原則に基づいて、「国の行事」(または「国の儀式」)と「皇室行事」とに二分され、片や「国の行事」は無宗教儀式とされ、片や宗教儀礼は「皇室行事」とするという二分方式の考え方は、平成および令和の御代替わりでも見られたことでしたが、発生はもっと遡れます。

皇居の奥深い聖域・賢所大前での結婚の儀を「国の儀式」(天皇の国事行為)と法的に位置づけ、したがって宮中祭祀はすべて「皇室の私事」と位置づける戦後の法解釈を一気に打破した一大画期と一般に評価されるのは昭和34年の皇太子御成婚ですが、じつはこれもまた、ほかならぬ二分方式でした。

ただこのときは、宗教儀礼か否かではなく、中心儀礼である「結婚の儀」「朝見の儀」「宮中祝宴の儀」が「国の儀式」とされ、ほかの諸儀式は皇室行事とされました。

 【関連記事】「国の行事」とされた今上陛下「結婚の儀」──歴史的に考えるということ 6https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-05-19

「従前の例に準じて」とする昭和22年5月の依命通牒第三項に従うなら、行事の全体が「国事」とされるべきで、二分方式は不要のはずです。なぜ二分しなければならないのか、依命通牒に基づかない無宗教的「国の行事」はいつ始まったのか、前回は、同27年の独立回復後最初の「国事」となった継宮明仁親王(いまの太上天皇)の立太子礼にその兆しが見えることを、当時の国会議事録から明らかにしました。

 【関連記事】中曽根議員は立太子礼「国事」論を主張し、宇佐美次長は「神道との訣別」を明言した占領末期の国会審議https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-30

答弁に立った宇佐美毅宮内庁次長(のちの長官)は二分方式を説明するなかで、皇室の「慣例」「慣習」とは別に「国事としての儀式」を行う旨、明言しました。宇佐美もしくは宮内庁の判断は、皇太子を立てる皇室の儀式は賢所において神道的に行われるのが慣例(伝統)だったという歴史理解が前提です。一般の理解も同様でしょう。

ところが意外なことに、この理解はどうも間違いのようなのです。少なくとも立太子礼に関して、皇室の「慣習」は必ずしも「神道」的ではなく、明治の立儲令がむしろ非「慣例」的らしいのです。

そのように言える根拠は、「国家神道」時代と一般に考えられている昭和12年から20年にかけて、御下賜金をもとに、帝国学士院が編纂した『帝室制度史』全6巻にあります。第4巻の「第二章皇位継承 第四節皇嗣 第一款皇嗣の冊立」に、「立皇太子儀」はかつて紫宸殿前庭で行われたと明記しています。賢所で宗教的に行われる立太子礼は昭和天皇に限られるということでしょうか。驚くべき事実です。

以下、さっそく『帝室制度史』の記述を読んでみます。なお読者の便宜を考慮し、適宜編集してあります。私のコメントも加えてあります。原文をお読みになりたい方は国立国会図書館デジタルコレクションでどうぞ。〈https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1241593


▽2 天皇の「宣命」から皇嗣の「宣明」へ

第四節皇嗣 第一款皇嗣の冊立(『帝室制度史第四巻』199ページから)
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「皇嗣は天皇在位中にこれを選定冊立したまふことを恒例とす。『日本書紀』神武天皇42年正月の条に『皇子神渟名川耳(かむぬなかわみみ)尊(綏靖天皇)を立て、皇太子となす』と見えたるをはじめ、歴代天皇はおおむねその例によりたまへり」

『帝室制度史』は「皇太子」とせず、「皇嗣」と表現しています。現行皇室典範も「皇嗣が即位」です。秋篠宮は「皇太子」ではなく、「皇嗣」とされています。慣例優先か、あるいは法律用語優先なのか。

「皇嗣の冊立ありたるときは、その皇嗣が皇子または皇孫なると、皇兄弟またはその他の皇親なるとを問はず、これを皇太子と称す。冊立によりて皇嗣たる身位はじめて定まり、皇太子の称またはじめてこれに伴ふ。ときとしては、皇弟を立てて皇嗣としたまふ場合に、とくに皇太弟と称したまへる例あり」

秋篠宮は「皇太弟」でもいいはずですが、そのようには称されません。やはり皇室典範の法律用語が優先された結果でしょうか。

「皇太子は『ヒツギノミコ』と訓めり。あるいは東宮または春宮と称す。けだし御在所の称より出でたるなり。そのほか儲君、儲二などの別称あり」

「皇太子の冊立にあたり、とくに詔したまへることの国史に見えたるは、『日本書紀』継体天皇の条に、皇子勾大兄(まがりのおおえ。安閑天皇)を皇太子となしたまふにあたり、『よろしく春宮を処し、朕を助け仁を施し、吾を翼し闕を補し』と詔したまへる旨を記せるを最初とす。
『続日本紀』聖武天皇の条にも、皇子の誕生にあたり、『新誕皇子、宜立為皇太子、布告百官、咸令知聞』と詔したまへる旨見えたり。されど当時はいまだ一定の成例をなすにはいたらざりしが、光仁天皇以後は、皇太子の冊立にあたり詔をもって天下に宣示したまふことが、定例となすに至れり」

立儲令では天皇が賢所で勅語を述べられましたが、今回の「立皇嗣宣明の儀」では、宮殿で天皇の「おことば」に続いて皇嗣の「おことば」、さらに総理大臣の寿詞が続くことになっています。天皇による「宣命」ではなく、皇嗣の「宣明」に改変されています。

最大の問題は儀礼の中身ですが、長くなりますので、次回に譲り、今日はこの辺で。


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中曽根議員は立太子礼「国事」論を主張し、宇佐美次長は「神道との訣別」を明言した占領末期の国会審議 [御代替わり]

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中曽根議員は立太子礼「国事」論を主張し、宇佐美次長は「神道との訣別」を明言した占領末期の国会審議
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公益財団法人モラロジー研究所の皇室関係資料ポータルサイト「ミカド文庫」は、「立太子礼」について「明治42年(1909)の『立儲令』に基づき、大正5年(1916)に迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)が、また昭和27年(1952)に継宮明仁親王(のちの今上天皇)が、さらに平成3年(1991)浩宮明仁親王(現皇太子殿下)の立太子の儀が行われた」と説明しています〈http://mikado-bunko.jp/?p=714〉。

執筆者はテレビの歴史番組でお馴染みの久禮旦雄・京都産業大学准教授(法制史)のようですが、じつに不正確です。敗戦による法制度改革の歴史が完全に見落とされています。

戦後、新憲法の施行に伴い、皇室令は全廃され、旧皇室典範を頂点とする宮務法の体系がすべて失われました。それなのに、いまの太上天皇や今上天皇の立太子礼が明治の立儲令に基づいて行われるわけがありません。法制史家としてはあまりに初歩的なミスです。

それならば、古来の立太子礼の形式を近代法として整備したはずの立儲令は戦後、どのように扱われるようになったのでしょうか。


▽1 昭和27年の立太子礼がすでに「人前式」だった

前回まで、明治の立儲令附式と4月に予定される秋篠宮親王の「立皇嗣の礼」は中身が異なるということをお話ししました。昭和22年5月の宮内府長官官房文書課長の依命通牒は「従前の例に準じて」(第三項)とありますから、立儲令附式に準じて今回も行われていいはずですが、そうはなっていません。

 【関連記事】「立皇嗣の礼」=国事行為を閣議決定。もっとも中心的な宮中三殿での儀礼は「国の行事」とはならずhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-24
 【関連記事】明治の「立儲令」と来月の「立皇嗣の礼」は何が違うのか?https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-29

儀式が非宗教化されている実態から察すれば、気の早い人はGHQの神道圧迫政策がいまに及んで、いよいよ浸透してきたと思うかもしれませんが、違います。

じつは昭和27年4月の主権回復から約半年後の同年11月10日、継宮明仁親王(いまの太上天皇)の成年式と同時に行われた立太子の礼が、今回と同様、すでにして人前式だったのです。

既述した久禮准教授の解説は完全な間違いだと分かりますが、それはともかくなぜそのようなことが起きたのか。当時の日本政府は占領下にあっても「いずれきちんとした法整備を図る」が方針だったと聞きますし、であればこその依命通牒だったはずです。

 【関連記事】「昭和天皇の忠臣」が語る「昭和の終わり」の不備──永田忠興元掌典補に聞く(「文藝春秋」2012年2月号)https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-02-01-1?1585484598

昭和20年12月のいわゆる神道指令は明らかに神道を狙い撃ちするものでしたが、22年5月施行の日本国憲法は「法の下の平等」「信教の自由」をうたっています。宮中祭祀は「皇室の私事」という法的位置づけながら、占領中も皇室祭祀令附式に準じて継続してきました。

占領後期になると、「神道指令」の解釈・運用は「国家と教会の分離」に変わり、26年6月の貞明皇后大喪儀は皇室喪儀令に準じて行われました。占領軍はこのとき宮内官僚に「国の経費であっても、ご本人の宗教でやってかまわない」と語ったといいます。同10月には吉田首相の靖国神社参拝が認められています。神道指令発令当時の占領前期とは雲泥の差で、しかも独立回復後は神道指令は失効しました。

 【関連記事】終戦後、天皇の祭祀はどのように存続し得たか──歴史的に考えるということ 3https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-04-29-1?1585536198
 【関連記事】占領後期に変更された「神道指令」解釈──歴史的に考えるということ 4https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-05-05
 【関連記事】「準国葬」貞明皇后大喪儀から「国事」皇太子御成婚まで──歴史的に考えるということ 5https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-05-12?1585536855


▽2 「賢所での儀式」と「国事としての儀式」との分離

継宮明仁親王(いまの太上天皇)の立太子礼はなぜ「人前式」に改変させられたのか、国会議事録に理由の一端が記録されていますので、ご紹介します。

昭和27年4月末日の占領解除が目前に迫った2月22日、衆院予算委員会第一分科会で、皇室費が議題となりました。質問に立ったのは弱冠33歳、野党民主党の中曽根康弘議員(のちの首相)です。当時は吉田茂自由党政権で、中曽根は反吉田の急先鋒でした。〈https://kokkai.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=101305266X00319520222&page=1&spkNum=0¤t=2
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中曽根はまず、立太子式の時期について質問します。答弁するのは宇佐美毅宮内庁次長(のちの長官)でした。

「皇太子殿下は昨年十二月、成年に達せられ、成年式と立太子式の挙行を準備してきたが、貞明皇后の崩御(26年5月)で延期になった。大体今秋挙行の見込だが、決定を見ていない」

中曽根が「成年式と立太子式と同時に挙行するのか。それとも別々にか。今秋とは大体何月ごろか」と重ねて問うと、宇佐美は「あまり時をあけずに、おそらく十月前後」と答えます。実際には、成年式、立太子礼は11月に、同日に行われました。

次に中曽根は経費について問い、宇佐見が「約四百五十万円ばかり」と答え、その内容について説明したあと、いよいよ本論の立太子礼の具体的な方法論へと質疑が進みます。中曽根は立太子式の規模、「皇室の御慣例の神式」なのか、あるいは京都でやるのかと畳みかけます。

これに対する宇佐美の答弁が注目されます。

「従前と異なり、立太子式、成年式の法律的な根拠はできていない。ただ慣習によつて行われることとなる。場所は東京で、皇居内と考えられる。従前は賢所で儀式が行われたが、現行憲法下では『天皇の私事』となったので、国事としての儀式は、別に国事として行われるという考え方に進んでいる」

法律的にいえば、戦前の立儲令は廃止されましたが、依命通牒に従い、「従前の例に準じて」行われるべきところですが、当時の宮内庁は「慣習によって」と表現し、賢所での祭儀とは別に「国事としての儀式」を新たに検討しているというわけです。

背後には当然、憲法の政教分離問題があります。平成の御代替わりで浮かび上がった「国の行事」と「皇室行事」との分離方式が占領末期のこの時期すでに政府内で検討されていたことになります。もしかして貞明皇后の大喪儀でも同様だったのでしょうか。だとすると、依命通牒とは何だったのか。『関係法令集』に掲載され、宮中祭祀厳修の根拠とされてきたのは間違いないのです。


▽3 無神論儀礼への歩みが始まっていた

議論すべきなのは、「慣習」であり、「国事」です。そして中曽根は問いただします。「立太子の式は国家的な祝典で、日本国の象徴と将来なられる方の式だから、当然、国事だと思う。もう少し御説明を願いたい」

宇佐美は答えます。「立太子礼と成年式は、国事として行う。従つて、従前の賢所での、伝統ある神道形式を持つものは、陛下の私的な行事になる。国として行うものは、それらと離して行われる」

ここには宮中祭祀は神道という特定の宗教儀礼だと頑なに信じ込む旧態依然たるドグマが潜んでいます。天皇の祭祀は宗教儀礼とは異なる国家儀礼であり、だからカトリックは戦前から信徒に参加を認めてきたことを助言する宗教学者などはいなかったのでしょうか。日本国憲法が国家に宗教的無色中立性を要求しているわけでもないでしょうに。

 【関連記事】憲法は政府に宗教的無色性を要求していない──小嶋和司教授の政教分離論を読むhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-10-16-1
 【関連記事】御代替わり諸儀礼は皇室の伝統と憲法の理念を大切に ──朝日新聞の社説「憲法の理念に忠実に」を批判するhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2018-02-19

宇佐美は明確に「二分方式」を示しました。中曽根が賢所での儀式についての具体的な説明を求めると、「従前の祭祀令、成年式令等において行われ、いわゆる裝束をつけられ、神前で行われる。あるいは御劍を授けられ、あるいは冠を加えられるという、古来の式をとつている。国事として考えられるものは、従前のものと切り離して考えていく」と伝統儀礼からの訣別をきっぱり断言するのでした。

とすると、古来、もっとも中心的な壺切御剣の伝進などは「国の行事」ではなく、「皇室の私事」として行われることになります。ならば、「従前」と異なる新例の「国の行事」とはいかなる内容になるのか、中曽根はさらに問いかけます。

「たとえば神道の儀式をやり、国家の代表者を参列させて御祝典申し上げ、その後に饗宴をおやりになるのか。それともモーニング・コートか何かを着て、国家の代表者を交えて普通の儀式をあげるのか」

宇佐美の答えは「まだ審議中」というものながら、政教分離原則厳守への決意を表明するものでした。「この形式が初めてですので、決定に至つてませんが、神道と混淆するような形は避けなければならない。国事として行われるものは、国の代表の方が集まり、行われるのではないか」

このあと中曽根は「立太子の式は国家的な式典」だから「国家の特別祝日」とすべきだ、皇太子がラジオを通じて国民に直接お言葉を述べられれば親しみが湧くなどと提案し、そのあと天皇神格化への危惧について展開します。中曽根の質問はのちの「タカ派」のイメージとは異なるリベラルな立場から、吉田総理を批判し、明治憲法を批判し、いわゆる「開かれた皇室」への期待を述べるのですが、省略します。

私はこれまで、「従前の例に準じて」とする依命通牒第3項によって宮中祭祀が守られ、のちに昭和50年8月15日の宮内庁長官室会議で解釈・運用が変更され、祭祀改変が進んだと理解し、書き続けてきましたが、主権回復の前にすでに依命通牒は反故にされ、無神論的国家儀礼への歩みが始まっていたのかもしれません。

当面は「宮中祭祀は皇室の私事」という解釈でしのぎ、いずれきちんとした法整備を図る、というのが政府の方針だったとの当時の高官たちの証言は、もしかしてリップサービスに過ぎなかったのでしょうか。


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明治の「立儲令」と来月の「立皇嗣の礼」は何が違うのか? [御代替わり]

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明治の「立儲令」と来月の「立皇嗣の礼」は何が違うのか?
《斎藤吉久のブログ 令和2年3月29日》
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4月に予定される「立皇嗣の礼」で中心となるのは19日の「立皇嗣宣明の儀」「朝見の儀」と21日の「宮中饗宴の儀」の3つです。いずれも「国の儀式」として皇居宮殿で挙行される予定でしたが、新型コロナウイルスの感染拡大で「宣明の儀」は参列者の規模を縮小することとなり、「饗宴の儀」は「取り止め」となりました。〈https://www.kantei.go.jp/jp/singi/gishikitou_honbu/kaisai.html

3月24日付け当ブログでは、今回の「立皇嗣の礼」が明治の「立儲令」を踏襲するものとはなっていないことを指摘し、存在が広く知られていないと思われる立儲令とその附式をご紹介しました。
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 【関連記事】「立皇嗣の礼」=国事行為を閣議決定。もっとも中心的な宮中三殿での儀礼は「国の行事」とはならずhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-24

何が違うのか、簡単におさらいすると、立儲令では「立太子の礼は附式の定むるところにより、賢所大前においてこれを行ふ」(第四条)とされ、大前で天皇、皇太子が拝礼し、勅語のあと壺切御剣が授与されたのですが、今回はそうではなく、宮殿で国民の代表者たちの前で宣明の儀(国の儀式)が行われ、これとは別に、同じ宮殿内で御剣親授の儀式(皇室行事)が行われたあとに三殿に謁する儀が行われるという形式になっています。

また、三殿に「奉告」の儀は「親告」の儀となり、「参内朝見の儀」は「朝見の儀」に改称されました。立儲令には「皇太后に朝見の儀」の規定がありましたが、今回、「太上天皇(上皇)に朝見の儀」というものは行われません。

さらにいえば、日本古来の神事というものは、神前に食を捧げて祈り、神人共食の食儀礼によって完結されますが、今回は国民との直会の機会が失われることとなりました。

ご承知のように、現行憲法が施行された昭和22年5月に宮内府長官官房文書課長名による依命通牒が発せられ、「從前の規定が、廢止となり、新しい規定が、できていないものは、從前の例に準じて、事務を処理すること」(第3項)とされており、いまも「廃止の手続きは取られていない」(平成3年、宮内庁高官国会答弁)そうですから、廃止された立儲令はまだしも、その附式に準じて粛々と行われていいはずです。

 【関連記事】政府は戦後の重大な歴史にフタをしている──検証・平成の御代替わり 第6回https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-10-05-1?1585477525
 【関連記事】「昭和天皇の忠臣」が語る「昭和の終わり」の不備──永田忠興元掌典補に聞く(「文藝春秋」2012年2月号)https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-02-01-1?1585484598
 【関連記事】宮中祭祀を「法匪」から救え──Xデーに向けて何が危惧されるのか。昭和の失敗を繰り返すなhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-02-01?1585484494
 【関連記事】依命通牒の「廃止」をご存じない──百地章日大教授の拙文批判を読む その2https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-02-11-1?1585484907
 【関連記事】昭和22年の依命通牒は「廃止」されていない?──昭和の宮中祭祀改変の謎は深まるばかりhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-01-26-1

しかし、そうなっているようには見えません。それはなぜなのか、といえば、憲法の政教分離規定への配慮であることは明らかですが、いつ、どういう経緯で、そのような変化が生じたのかです。

ここでは真相に立ち入ることはせず、前々回、掲載した立儲令およびその附式との対比ができるように、官邸のサイトに載る式典実施連絡本部の資料および宮内庁発表の資料から4月19日の儀式に関する細目の主な部分を抜き出してみます。〈https://www.kantei.go.jp/jp/singi/gishikitou_honbu/dai5/gijisidai.html〉〈https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/shiryo/tairei/gijishidai-020324.html


1、神宮に奉幣の儀

皇大神宮
豊受大神宮

神宮の祭式による。

このときの服装は、勅使が衣冠単、勅使随員が衣冠単、出仕が雑色


2、賢所皇霊殿神殿に親告の儀

賢所の儀

4月19日午前8時,御殿を装飾する。
午前8時45分,大礼委員が休所に参集する。
次に親王,親王妃,内親王及び女王が賢所参集所に参集される。
次に天皇,皇后が綾綺殿にお入りになる。
次に天皇に御服を供する(侍従が奉仕する。)。
次に天皇に御手水を供する(侍従が奉仕する。)。
次に天皇に御笏を供する(侍従が奉仕する。)。
次に皇后に御服を供する(女官が奉仕する。)。
次に皇后に御手水を供する(女官が奉仕する。)。
次に皇后に御檜扇を供する(女官が奉仕する。)。
次に御扉を開く。この間,神楽歌を奏する。
次に神饌及び幣物を供する。この間,神楽歌を奏する。
次に掌典長が祝詞を奏する。
次に大礼委員が着床する。
次に親王,親王妃,内親王及び女王が参進して幄舎に着床される。式部官が誘導する。
午前9時,天皇がお出ましになる。掌典長が前行し,侍従が御剣を捧持し,侍従が随従する。
次に天皇が内陣の御座にお着きになる。侍従が御剣を奉じて簀子に候する。
次に天皇が御拝礼になり,御告文をお奏しになる(御鈴を内掌典が奉仕する。)。
次に天皇が御退出になる。前行及び随従は,お出ましのときと同じである。
次に皇后がお出ましになる。掌典長が前行し,女官が随従する。
次に皇后が内陣の御座にお着きになる。女官が簀子に候する。
次に皇后が御拝礼になる。
次に皇后が御退出になる。前行及び随従は,お出ましのときと同じである。
次に親王,親王妃,内親王及び女王が拝礼される。
次に大礼委員が拝礼する。
次に幣物及び神饌を撤する。この間,神楽歌を奏する。
次に御扉を閉じる。この間,神楽歌を奏する。
次に各退出する。

このときの服装は、天皇が御束帯(黄櫨染御袍)、皇后が御小袿・御長袴、侍従が衣冠単、女官が袿袴、掌典長,掌典次長,掌典及び楽長が祭服、内掌典が衣袴,袿袴、掌典補及び楽師が祭服、出仕が麻浄衣


皇霊殿の儀
神殿の儀

賢所の儀に倣う(御鈴の儀はない。)。


3、神武天皇山陵に奉幣の儀

4月19日午前8時,陵所を装飾する。
午前10時,勅使が参進して着床される。
次に神饌を供する。この間,楽を奏する。
次に掌典が祝詞を奏する。
次に幣物を供する。
次に勅使が拝礼の上,御祭文を奏される。
次に幣物及び神饌を撤する。この間,楽を奏する。
次に各退出する。

このときの服装は、勅使が衣冠単、勅使随員が衣冠単、掌典が祭服、掌典補及び楽師が祭服、出仕が雑色


4、昭和天皇山陵に奉幣の儀

4月19日午前8時,陵所を装飾する。
午前10時,勅使が参進して着床される。
次に神饌を供する。この間,楽を奏する。
次に掌典が祝詞を奏する。
次に幣物を供する。
次に勅使が拝礼の上,御祭文を奏される。
次に幣物及び神饌を撤する。この間,楽を奏する。
次に各退出する。

このときの服装は、勅使が衣冠単、勅使随員が衣冠単、掌典が祭服、掌典補,楽師が祭服、出仕が雑色


5、立皇嗣宣明の儀

午前10時40分,参列者が宮殿の春秋の間に参集する。
午前10時45分,皇嗣,皇嗣妃,親王,親王妃,内親王及び女王が皇族休所に参集される。
午前10時55分,参列者が正殿松の間の所定の位置に列立する。式部官が誘導する。
次に親王,親王妃,内親王及び女王が正殿松の間に入られ,所定の位置に着かれる。式部官が誘導する。
次に皇嗣,皇嗣妃が正殿松の間に入られ,所定の位置に着かれる。皇嗣職大夫が前行し,皇嗣職宮務官長及び皇嗣職宮務官が随従する。
午前11時,天皇,皇后が正殿松の間にお出ましになる。式部官長及び宮内庁長官が前行し,侍従長,侍従,女官長及び女官が随従する。
次に天皇のおことばがある。
次に皇嗣,皇嗣妃が御前に参進され,敬礼される。
次に皇嗣がおことばを述べられる。
次に皇嗣,皇嗣妃が所定の位置に戻られる。
次に内閣総理大臣が御前に参進し,寿詞を述べる。
次に天皇,皇后が御退出になる。前行及び随従は,お出ましのときと同じである。
次に皇嗣,皇嗣妃が退出される。前行及び随従は,入られたときと同じである。
次に親王,親王妃,内親王及び女王が退出される。
次に参列者が退出する。

このときの服装は、天皇が御束帯(黄櫨染御袍)、皇后が御小袿・御長袴、皇嗣が束帯(黄丹袍)、皇嗣妃が小袿・長袴、宮内庁長官,侍従長,侍従,皇嗣職大夫,皇嗣職宮務官長,皇嗣職宮 務官(男子)及び式部官長が衣冠単、女官長,女官及び皇嗣職宮務官(女子)が袿袴


6、皇嗣に壺切御剣親授

4月19日午前11時25分,天皇が鳳凰の間にお出ましになる。侍従が前行し,侍従長,侍従が壺切御剣を奉持して随従する。
次に皇嗣が御前に参進される。皇嗣職大夫が随従する。
次に侍従長が壺切御剣を御前に進める。
次に天皇のお言葉がある。
次に天皇が壺切御剣を皇嗣にお授けになる。
次に皇嗣が壺切御剣を皇嗣職大夫に渡される。
次に皇嗣が退出される。皇嗣職大夫が壺切御剣を奉持して随従する。
次に天皇が御退出になる。侍従が前行し,侍従長及び侍従が随従する。

このときの服装は、天皇が御束帯(黄櫨染御袍)、皇嗣が束帯(黄丹袍)、侍従長,侍従,皇嗣職大夫,皇嗣職宮務官が衣冠単


7、賢所皇霊殿神殿に謁するの儀

賢所の儀

4月19日午前11時35分,御殿を装飾する。
午後0時20分,大礼委員が休所に参集する。
次に親王,親王妃,内親王及び女王が賢所参集所に参集される。
次に皇嗣,皇嗣妃が綾綺殿にお入りになる。
次に皇嗣に儀服を供する(皇嗣職宮務官が奉仕する。)。
次に皇嗣に手水を供する(皇嗣職宮務官が奉仕する。)。
次に皇嗣に笏を供する(皇嗣職宮務官が奉仕する。)。
次に皇嗣妃に儀服を供する(皇嗣職宮務官が奉仕する。)。
次に皇嗣妃に手水を供する(皇嗣職宮務官が奉仕する。)。
次に皇嗣妃に檜扇を供する(皇嗣職宮務官が奉仕する。)。
時刻,御扉を開く。この間,神楽歌を奏する。
次に神饌及び幣物を供する。この間,神楽歌を奏する。
次に掌典長が祝詞を奏する。
次に大礼委員が着床する。
次に親王,親王妃,内親王及び女王が参進して幄舎に着床される。式部官が誘導する。
午後0時35分,皇嗣,皇嗣妃が参進される。掌典長が前行し,皇嗣職宮務官が壺切御剣を奉じ,他の皇嗣職宮務官が随従する。
次に皇嗣,皇嗣妃が内陣の座に着かれる。皇嗣職宮務官が壺切御剣を奉じて外陣に候し,他の皇嗣職宮務官が簀子に候する。
次に皇嗣,皇嗣妃が拝礼される。
次に皇嗣,皇嗣妃が退出される。前行及び随従は,参進のときと同じである。
次に親王,親王妃,内親王及び女王が拝礼される。
次に大礼委員が拝礼する。
次に幣物及び神饌を撤する。この間,神楽歌を奏する。
次に御扉を閉じる。この間,神楽歌を奏する。
次に各退出する。

このときの服装は、皇嗣が束帯(黄丹袍)、皇嗣妃が小袿・長袴、皇嗣職宮務官が衣冠単,袿袴、掌典長,掌典次長,掌典及び楽長が祭服、内掌典が衣袴,袿袴、掌典補及び楽師が祭服、出仕が麻浄衣


皇霊殿の儀
神殿の儀

賢所の儀に倣う。


8、朝見の儀

午後4時15分,皇嗣,皇嗣妃が皇族休所に参集される。
午後4時30分,天皇,皇后が宮殿の正殿松の間にお出ましになる。式部官長及び宮内庁長官が前行し,侍従長,侍従,女官長及び女官が随従する。
次に皇嗣,皇嗣妃が御前に参進され,皇嗣が謝恩の辞を述べられる。式部官長が誘導する。
次に天皇のおことばがある。
次に皇嗣,皇嗣妃が皇后の御前に参進され,皇嗣が謝恩の辞を述べられる。
次に皇后のおことばがある。
次に皇嗣,皇嗣妃が所定の席に着かれる。
次に皇嗣が御前に参進される。
次に天皇が皇嗣に御盃をお授けになる。侍従が奉仕する。
次に皇嗣が皇后の御前に参進される。
次に皇后が皇嗣に御盃をお授けになる。女官が奉仕する。
次に皇嗣が席に戻られる。
次に皇嗣妃が御前に参進される。
次に天皇が皇嗣妃に御盃をお授けになる。侍従が奉仕する。
次に皇嗣妃が皇后の御前に参進される。
次に皇后が皇嗣妃に御盃をお授けになる。女官が奉仕する。
次に皇嗣妃が席に戻られる。
次に天皇,皇后が御箸をお立てになり,皇嗣,皇嗣妃がこれに倣われる。
次に天皇,皇后が皇嗣,皇嗣妃に御禄をお授けになる。侍従長が皇嗣に伝進する。女官長が皇嗣妃に伝進する。
次に皇嗣,皇嗣妃が御前に参進され,拝謝される。
次に皇嗣,皇嗣妃が皇后の御前に参進され,拝謝される。
次に皇嗣,皇嗣妃が席に戻られる。
次に天皇,皇后が御退出になる。前行及び随従は,お出ましのときと同じである。
次に皇嗣,皇嗣妃が退出される。

このときの服装は、男子燕尾服、女子はローブデコルテ、勲章着用

以上、引用終わり。


斎藤吉久から=当ブログ〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/〉はおかげさまで、so-netブログのニュース部門で、目下、ランキング10位。アメーバブログ「誤解だらけの天皇・皇室」〈https://ameblo.jp/otottsan/〉でもお読みいただけます。読了後は「いいね」を押していただき、フォロアー登録していただけるとありがたいです。また、まぐまぐ!のメルマガ「誤解だらけの天皇・皇室」〈https://www.mag2.com/m/0001690423.html〉にご登録いただくとメルマガを受信できるようになります。

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