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少し見えてきた非宗教的な昭和天皇「大喪の礼」の経緯──皇室の伝統を無視する政教分離厳格主義者たちの創作 [御代替わり]

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少し見えてきた非宗教的な昭和天皇「大喪の礼」の経緯
──皇室の伝統を無視する政教分離厳格主義者たちの創作
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一昨日、時事通信が、昭和天皇の大喪の礼に関する、興味深い記事を配信しました。昭和57年に外務省が宮内庁と極秘に協議していた。外務省外交資料室が秘密指定を解除した記録から明らかになった、というのです。〈https://sp.m.jiji.com/article/show/2320998

記事によると、その経緯は以下のようなものでした。

昭和57年6月 宮内庁は外務省に対して、在英、西ドイツ、フランス、ユーゴの各公館長宛てに、当該国元首の葬儀の内容について調査することを依頼した。他方、外務省儀典官室では、英国のジョージ6世、スウェーデン国王、現職大統領で死去したケネディ、チトーの国葬を調査するとともに、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、大平正芳といった歴代首相の葬儀も参考にすることを決めた
同年秋ごろ 西田誠哉儀典長の指示で、ごく少数の間で作業が開始された
同年12月はじめ 外務省出身の安倍勲式部官長らとともに、勝山亮宮内庁審議官と協議した。このとき勝山氏は、皇室典範の規定に基づき「大喪の礼」を行う、国葬になるとの見通しを示し、「大正天皇の時の例にならう」とも述べた


▽1 なぜ伝統が否定されるのか

記事から浮かび上がってくるのは、(1)外務省、宮内庁は皇室典範に記された「大喪の礼」を、皇室の歴史と伝統に基づく儀礼とは必ずしも理解していないこと。(2)基準とすべき先例を、国内より海外の元首や現代の首相の公葬に求めたこと、(3)宮内庁内には大正天皇大喪儀を先例として踏襲する考えがあったこと、です。

126代続いてきた皇室には膨大な儀式の体系がありますが、官僚たちは皇室の伝統を軽視して、むしろ海外に学ぶ新例を開こうとしたのでしょうか。昭和天皇崩御のあと、斂葬の儀で装束を着るという伝統派の職員が提出した計画書に、「時代錯誤」「日本の恥」と怒り狂った宮内庁幹部がいたという話を思い出します。

ともかく、戦後何十年もの間、皇位継承の重要事について具体的なあり方を検討してこなかった政府が、昭和天皇の最晩年になってようやく重い腰を上げたのです。昭和天皇は昭和62年4月、お誕生日の宴会の儀で御体調を崩され、9月には開腹手術を受けられました。翌年6月に宮内庁次長ほかによる幹部会が設けられ、7月には藤森昭一長官が準備指令を出しました。泥縄です。

以前、「文藝春秋」に書いたように、戦前は憲法と同格の皇室典範を頂点とする宮務法の体系があり、天皇の大喪儀については皇室喪儀令およびその附式(大正15年)に具体的かつ詳細な規定がありました。

ところが、戦後、皇室典範は改正され、新憲法の公布に伴って皇室令は全廃されました。依拠すべき具体的な定めを失ったのです。〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-04-17-1https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-04-17-1〉〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-04-22-1

だから、外務省も宮内庁も振り出しにもどって、大喪儀のあり方を模索するほかはない、と考えたのでしょうか。しかしそれは誤った判断ではなかったでしょうか。

第一に、戦後の皇室典範の立法者たちは「大喪の礼」を新例とは考えていないと推定されます。むしろ皇室伝統の形式による大喪儀の諸儀礼を意味していると考えるのが妥当です。というのも、皇室典範改正案として帝国議会に提出された確定案は、「大喪の礼」が一つの儀式(the Rite)ではなく、複数形の諸儀礼(the Rites)として表現されているからです。皇室儀礼の体系に変更はないという趣旨の議会での答弁がされているからです。

また、「文藝春秋」のインタビューで永田さんが述べているように、皇室の儀礼の伝統は皇室令の廃止後、宮内府長官官房文書課長による依命通牒第三項によって、「從前の規定が廢止となり、新らしい規定ができていないものは、從前の例に準じて、事務を處理すること」とされ、かろうじてながら存続しています。祭祀令は廃止されたけれども、祭祀令の附式は生き残ったのです。

この依命通牒はその後も廃止されていません。だからこそ、貞明皇后の御大喪は26年6月、占領中で神道指令が効力を有しているにもかかわらず、旧皇室喪儀令に準じて行われ、国費が支出され、国家機関が参与しました。昭和34年の皇太子御成婚の結婚の儀は賢所大前で、天皇の国事行為として行われています。


▽2 参加を強制しなければ済む

依命通牒は生きている、と平成になって宮内庁幹部が国会答弁しています。とすれば、皇室喪儀令の附式に準じて、昭和天皇の大葬儀は行われるべきでした。しかしそうはならず、「大喪の礼」なる新例が開かれ、皇室行事の斂葬の儀と分離・ドッキングして行われました。そして静謐なる祭儀の途中に、鳥居や大真榊を取り外す無様なドタバタ劇が演じられました。

原因は政教分離であり、宮中祭祀や神道にだけは厳しい政策の二重基準です。昭和50年8月15日に宮内庁が長官室会議で、政教分離の厳格主義を採用することに改め、皇室儀礼の非宗教的改変を密室で断行したのがそもそもの始まりです。宮内庁や外務省が国内ではなく海外の例を参考に「大喪の礼」の挙行を模索したのは、当然の成り行きだったでしょう。

神道指令下の占領中でも、社会党政権下でも、側近の侍従による御代拝が粛々と行われたのに、公務員が祭祀に関わることはまかりならんとにわかに解釈運用を一変させた法的根拠が明らかにされるべきです。

最後に蛇足ながら申し上げると、かつては大喪儀に際して「大喪使」という特別の官制が臨時に設けられました。明治30年の英照皇太后の場合は、宮内省達で宮中に設置され、長官には皇族が親任されました。同45年の明治天皇崩御に際しては、勅令で大喪使官制が裁可公布され、大喪使が宮中に設置され、総裁には皇族が勅命されることとされました。

そして大正15年10月の皇室喪儀令です。崩御の公告、追号の勅定広告、廃朝、大喪使設置などが定められました。大正天皇崩御の日に勅令で公布された大喪使官制は、大喪使は内閣総理大臣の管理に属し、総裁は皇族から勅定されるとされました。皇室喪儀令の附式は第一編大喪儀、第二編皇族喪儀からなり、第一編第一の天皇大喪儀には殯宮移御の儀、追号奉告の儀、陵所地鎮祭の儀などが細かく定められています。

現代の官僚たちはなぜ大喪使という特別組織を立てようとしないのでしょう。そうすれば、宮内庁職員が日常業務をこなしながら皇位継承儀礼に携わる業務の過酷さを回避できるはずです。政府が直接関わるという形式も避けられたはずです。皇室典範は「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」と定めているだけなのです。

東日本大震災の追悼式は毎年、政府主催で行われます。兵庫県の阪神大震災追悼式典は県などの主催です。前者は行政が直接関わり、後者は実行委員会方式で、民間組織も加わっています。犠牲者の追悼は明らかに宗教行為ですが、いずれも政教分離違反とはされません。兵庫では毎回、キリスト教の宗教音楽が演奏されますが、違憲との批判はありません。

それなのになぜ皇室の宗教伝統は重視されないのですか。参列を強制しなければ済むことでしょうに。時事通信の記事にある昭和50年代の宮内庁にはまだ大正天皇の先例に学ぼうとする幹部がいたようですが、外務省OBが中枢を占めるいまの宮内庁に伝統重視を期待するのは無理なのでしょうか。


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皇室の伝統破壊を記載する皇統譜──保守派人士たちはなぜ怒らないのか [御代替わり]

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皇室の伝統破壊を記載する皇統譜
──保守派人士たちはなぜ怒らないのか
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一連の御代替わりの儀礼がすべて終了した。報道によると、宮内庁は27日夕刻、今上天皇のために新調された大統譜に「即位」のことを記載した。

毎日新聞電子版には喜屋武真之介氏撮影による画像が7枚載っている。真新しい大統譜(天皇・皇后の皇統譜)は和綴で、表紙には「第百二拾六代 大統譜」と楷書で記されている。

中の記載は漢字カタカナ混じりである。歴史仮名遣いで、句読点はない。2枚目と3枚目の写真は同じページを写しているが、撮影の角度が異なる。前ページからの続きなのだろうか、次のように文章が途中から始まっている。


▽1 政教分離の厳格主義の結果

「ビ同日皇太子徳仁親王皇位継承ノ公告ニ依リ登録ス
(平成参拾壱年四月参拾日ノ翌日カラ令和ト改元サル)[注=「令和」にはカタカナで「レイワ」とルビがある]
 令和元年拾弐月弐拾七日
  宮内庁長官 西村泰彦
  書陵部長 坂井孝行
令和元年五月壱日剣璽等承継ノ儀及ビ即位後朝見ノ儀ヲ行フ
右令和元年五月弐拾弐日ノ公告ニ依リ登録ス
 令和元年拾弐月弐拾七日
  宮内庁長官 西村泰彦
  書陵部長 坂井孝行
令和元年拾月弐拾弐日即位礼正殿ノ儀ヲ行フ
右令和元年九月弐拾六日ノ公告ニ依リ登録ス
 令和元年拾弐月弐拾七日
  宮内庁長官 西村泰彦
  書陵部長 坂井孝行
令和元年拾壱月拾四日及ビ拾五日大嘗祭ヲ行フ
右令和元年五月八日ノ公告ニ依リ登録ス
 令和元年拾弐月弐拾七日」

126代というからには皇位が初代神武天皇から続いていることを政府は認識していることになるが、改元は4月30日の先帝退位の翌日からであり、5月1日に剣璽等承継の儀及び即位後朝見の儀が挙行されたという記録は、逆に126代続く皇室の歴史と伝統の断絶を皇統譜に刻み付けるものとなった。

前回の改元は先帝崩御の翌日で、まだしも代始め改元の形式だったが、今回はいわば退位記念改元であり、いみじくも皇統譜にそのことが記録された。

また、平安時代に践祚と即位が区別されたのを、政府は前回の御代替わりで、法律から「践祚」が失われたことを理由に践祚の概念を失わせ、今回は3日間の賢所の儀のあとに行われるべき朝見の儀を践祚当日に挙行させたのである。前回も今回も剣璽渡御とは呼ばれない。

目的は宗教性の排除で、政教分離の厳格主義の結果である。憲法は宗教の価値を認めているのにである。歴史ある皇室の祭祀の意味が理解できないからである。政教分離訴訟が影を潜めている状況を評価する保守主義者がいるが、話は逆だろう。


▽2 長期保守政権下での大義なき変革

4枚目の写真は先帝の大統譜であろうか、次のように記載されている。

「 宮内庁長官 西村泰彦
  書陵部長 坂井孝行
平成参拾壱年四月参拾日限リ退位ス
令和元年五月壱日上皇トナル
右令和元年五月壱日ノ公告ニ依リ登録ス
 令和元年拾弐月弐拾七日
  宮内庁長官 西村泰彦
  書陵部長 坂井孝行」

「退位」とあるのは特例法が根拠である。政府は「譲位」を認めていない。「上皇トナル」も同様である。「上皇」は尊称ではない。かつては「太上天皇」の尊号は新帝から贈られたが、いまは国民の代表者が作る法律が根拠である。200年前の光格天皇の場合、仁孝天皇に譲位されたのは文化14年3月22日、太上天皇の尊号が贈られたのは翌々日の24日であった。

皇室の原理は伝統と革新であり、変革が必ずしも悪いことではないが、何のために変えるのか、大義名分が不明といわざるを得ない。大義名分なき変革は伝統の破壊そのものである。戦前戦後を通じて最長の保守政権下で、皇室の伝統の破壊が行われたことにあらためて長嘆息を禁じ得ない。保守派人士たちはなぜ怒りの声を上げないのだろうか。政府にとっての皇室の歴史とはけっして126代のそれではないことを知るべきだ。

先月だったか、討論会で、前回の御代替わりを振り返り、大嘗祭が挙行できたことを相変わらず勝ち誇る法学者がいた。挙行が危ぶまれた最重要儀式が行われたことは間違いなく成果だが、30年後のいまもなお、やったやったで終始するのは知性的とはいえない。むしろこの間の知的停滞こそがさんざんな御代替わりの遠因であることを、この識者を見て痛感したものである。

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「皇室の伝統」は国民主権主義と対立するのか ──朝日新聞の「新元号」関連企画を読む [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年4月21日)からの転載です

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「皇室の伝統」は国民主権主義と対立するのか
──朝日新聞の「新元号」関連企画を読む
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▽1 いまごろ決まった「賢所の儀」

 先週15日の月曜日、宮内庁で第6回大礼委員会が開かれ、践祚の式(賢所の儀、皇霊殿神殿に奉告の儀)の時刻および式次第が決まりました。

 御代替わりでもっとも重要と思われる儀式が、いつ、どのように行われるのか、一連の「退位の礼」が始まったいまごろになってようやく決まるとは、じつにお粗末です。宮内庁が真っ先に決めるべきことではなかったでしょうか。そして案の定、中身にもまた綻びが見えます。

 公表されているところによると、5月1日午前10時半、ちょうど正殿松の間で剣璽等承継の儀が行われる時刻に、掌典長による御代拝が行われ、御告文が奏され、そのあと掌典次長による皇后の御代拝が続くことになりました。続いて、皇霊殿神殿に奉告の儀が行われます。

 すでに指摘してきたように、今回の御代替わりは譲位に基づき、同日午前0時をもって皇位が継承されるのですから、御代拝ではなく新帝みずから、朝のなるべく早い時刻に賢所の神事は行われるべきでしょう。そして3日間続く賢所の儀のあと、朝見の儀は行われるべきです。

 宮内庁は「前例踏襲」と説明していますが、「前例踏襲」でもありません。前回は諒闇践祚であり、服喪中でした。それでも朝見の儀は3日間の賢所の儀ののち執り行われました。いったい誰が、何を基準に、国家の一大事である皇位継承の儀礼を変更させているのでしょうか。

 さて、遅ればせながら、改元について考えます。

 今月1日、「平成」に替わる新しい元号「令和」が閣議で選定公表された翌日、朝日新聞は「平成から令和へ 新元号のメッセージ」と題する、3人の識者による座談会を載せました。同時に、4回シリーズの連載「退位改元」が始まりました。

 いずれも朝日新聞としては当然なのか、基本スタンスを現行憲法の「国民主権」主義に置いています。つまり、「天皇主権」対「国民主権」という前世紀的な対立図式を前提とし、その結果、千年を超える皇室の伝統に基づく元号とは何だったのか、今後、如何にあるべきか、を掘り下げきれずにいるのではないかと思いました。


▽2 「天皇の大権は存在しない」

 座談会には「日本と中国の古典や歴史に詳しい」3人が登場しています。辰巳正明・国学院大学名誉教授(国文学)、水上雅晴・中央大学教授(中国哲学)、磯田道史・国際日本文化研究センター准教授(歴史学)の3人で、司会は塩倉裕・編集委員です。

 リードにはずばり「天皇主権から国民主権になった今の憲法下では2度目の改元」と指摘されています。テーマは「元号」ではなくて、「国民主権下の元号」なのです。125代続く天皇の「改元」ではなくて、1・5代象徴天皇制での「2度目の改元」なのです。

 つまり、改元の主体は天皇ではなく、国民であり、元号を建てる権限は天皇ではなく、国民にあるというのが前提で、座談会はこれをあたかも自明のこととして進められています。

 そのことは、論点のひとつとされた「元号の決め方」、つまり、決定手続きと天皇の関与、公表の時期などに如実に現れています。

 今回の改元は、有識者会議が開かれ、皇位継承の1か月前に臨時閣議で元号を決定し、「退位」が予定される今上天皇が政令に押印し、公布されるという手続きが採られています。IT社会、ネット社会への現実的対応はむろん必要ですが、皇室の関与なき事前選定・公表は新帝即位に起因する「代始改元」の変質といわねばなりません。

 とくに、前回も同様ですが、皇室の不関与は、もはや建元大権が否定されているかのようです。下剋上の末に朝幕関係を逆転させ、元号は武家が決めるのが当然と主張した徳川家光をも想起させます。いや、明確に否定されているのです。

 朝日の連載「退位改元2」(担当は大久保貴裕、田嶋慶彦、二階堂友紀記者)は、首相が2月に天皇陛下および皇太子殿下に経過説明を試みたことを取り上げ、以下のように「元号について天皇の許しを得ることはあり得ない」と断言しています。

「かつて元号の決定は『天皇大権』で、明治憲法時代の旧皇室典範では明確に謳われていたが、戦後、国民主権の新憲法で天皇が『国民統合の象徴』となり、天皇の政治関与は禁じられた。旧元号制も廃止された」

「元号存続を危ぶんだ神社界など保守派は、戦後に元号法制化運動を展開。1979年に元号法制化にこぎ着けたが、憲法にのっとる形で、法律は『元号は政令で定める』と規定した。天皇大権が存在しないことは明確になっている」

 けれども、首相の行動は、支持基盤の保守派への配慮であるとか、新元号事前公表の認否をめぐる保守派との軋轢の投影というようなもので説明されるべきでしょうか。より本質的な問題は、元号など皇室の長い伝統は、憲法が定める国民主権主義、象徴天皇制と相対立すべきことなのか否か、ということでしょう。

 もし対立しないと考えるなら、首相のような弥縫策ではない、根本的な制度改革が必要になります。靖国問題も拉致問題もポーズだけの首相にできるでしょうか。


▽3 元号を皇室に戻すべきではないか?

 朝日の座談会では、元号の選定方法に関連して、国学院大の辰巳名誉教授が驚くべきアイデアを提案しています。「ネットで案を公表し、国民の意見を聞いてもいいのではないか」というのです。さらに、「天皇と切り離して元号を考えた方がいいと思う。譲位が決まった時点で、次の元号を公表してしまえばいい」とも述べています。

 国民の、国民による改元の提案ということでしょうが、そこまでして、元号を存続させる意味はあるのでしょうか。「天皇と切り離」された元号は元号というべきでしょうか。

 もしかすると、朝日新聞としては、戦前の皇典講究所を前身とする国学院大の名誉教授が主張していることを読者にアピールしたいのかもしれませんが、論より証拠、すでに「天皇と切り離」された改元は、逆にマスメディアに露出し、SNSに投稿を繰り返す「首相のはしゃぎすぎ」現象を生み、批判を浴びています。

 保守政権でさえこうなのですから、かつてのような民主党系の左派政権なら、どんな不都合が起きるのか分かりません。辰巳さんは一方で「政府が統制を進めることの恐ろしさ」を警告していますが、今回の選考過程で漏れ聞こえてくる、さまざまな不具合は、政権のあり方次第ではより深刻さを増すのではないかと危惧されます。すべての国民が使いやすく、政治臭さを拭い去るには、元号を皇室に戻すべきではないでしょうか。

 元号の事前選定公表について、辰巳さんは、「譲位が決まった時点」での公表を提案していますが、事前公表が何をもたらすのか、はすでに事実が証明しています。報道によれば、新しい元号が決定公表されて以降、まだ施行前だというのに、社名に「令和」を用いる企業が続々と現れています。明らかに「退位予告改元」の弊害です。

「一世一元」に関連して、「踰年改元」に言及しているのは歴史学者の磯田さんでした。「踰年改元というやり方もある。この議論が今回、どこまで尽くされたか」「次の改元では、今回のようなやり方をするか、踰年改元にするかの議論はあっていい」と指摘しています。同感です。

 朝日の連載「退位改元4」が言及していますが、共同通信の情報公開請求にもとづいて、2月に開示された公文書によると、前回の改元では、(1)崩御の元日にまで遡る遡及適用、(2)政令公布の即日適用、(3)翌日改元、(4)崩御翌月の踰月改元、(5)踰年改元の5案があり、(2)と(3)に集約されていたようです。

 結局、前回は(3)の翌日改元でしたが、30年前と異なり、IT化が大きく進んだ今日では、現実的に見て、政府が基本方針とした「前例踏襲」はとうてい無理です。とすれば、今回、(4)(5)が検討されてもいいはずですが、磯田さんの指摘どおり、議論が尽くされたとはいいがたいと思います。

 何しろ当初から「退位と改元」がセットで議論され、「退位の翌日改元」が当然視されてきたのでした。そして一方、皇室の伝統重視を掲げる保守派は非現実的な「践祚同日改元」に固執するばかりでした。30年前の政府の方がはるかに柔軟でした。

 そして、政府は「事前公表」という前代未聞の決め方を採ることになったのです。


▽4 なぜ対立すると考えるのか

 そもそも元号とは何だったのでしょうか。

 朝日の座談会では、中国哲学者の水上さんが、「周辺国が模倣し、統治権の正統性をアピールする政治的な道具として用いるようになった。日本もその流れの中で使うことになった」と概説しています。

 しかし以前、井上清「元号廃止論」批判(2018年9月16日)に書いたように、漢字導入や仏教公伝などと同様に、単なるモノマネではありません。模倣なら千年以上も続きません。

 古代中国の皇帝と日本の天皇は異なります。「うしはく」と「しらす」の違いです。中国皇帝はただひとり天壇を祀り、日本の天皇は皇祖神のみならず天神地祇を祀ります。中国では権力は上帝に由来し、皇帝が掌握しましたが、日本では権力は天皇から太政官に委任されました。

 天皇は古来、権力的な支配者ではなく、いちだんと高い立場で国と民をひとつに統合する統治者です。スメミマノミコト、スメラギなどと呼ばれたのはその意味でしょう。

 天皇の建元大権とはそういうものであって、憲法の国民主権主義と対立するものではないと思います。天皇主権か国民主権かという旧い図式にいつまでもとらわれるべきではありません。

 災いを避け、民に幸あれ、と願って建てられる元号はけして国民主権主義と対立するものではないでしょう。さも対立するかのように考えられている背景に何があるのか、をこそジャーナリズムは掘り下げるべきではありませんか。


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皇室祭祀は宮務法上の「皇室内廷の重儀」!? ──葦津珍彦vs上田賢治の大嘗祭「国事」論争 3 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年4月7日)からの転載です

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皇室祭祀は宮務法上の「皇室内廷の重儀」!?
──葦津珍彦vs上田賢治の大嘗祭「国事」論争 3
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 新しい元号が先週月曜日に閣議決定され、同日、新元号を定める政令に今上陛下が署名押印されました。何度も申し上げてきましたが、事前公表など歴史上あり得ません。これでは代始改元ではなく、さながら退位予告改元です。

 今回の御代替わりで、政府は皇室の伝統の尊重を基本原則の1つに謳い、安倍総理はこの日の会見でも「日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいく」と述べていますが、新元号の事前決定公表は皇室の伝統に則するものといえるでしょうか。

 遠く平安時代の「大同」以後、「明治」まで踰年改元が連綿と続き、明治の登極令に基づく践祚同日改元は正確には「昭和」のみで、現行の元号法は践祚同日改元を規定していません。「平成」は践祚翌日改元でした。いまさらながらですが、践祚同日決定、即位礼当日施行がふさわしいと私は考えています。


▽1 天皇は「支配者」ではない

 また、総理会見によれば、今回、閣議決定ののち、宮内庁を通じて今上陛下および皇太子殿下に伝えられたとのことですが、元号選定の過程に皇室が関与しない手続きにも改善の余地があるでしょう。元号制定の権限は歴史的に見て、そもそも天皇に属するからです。

 総理の発議に始まり、閣議による元号の決定は天皇から元号制定権を奪うことになりませんか。年号は武家が定めるべきだと豪語したという徳川家光の時代をも想起させます。

 といえば、現行憲法の国民主権主義に抵触するといった批判が聞こえそうですが、日本の歴史は国民主権の思想が生まれたキリスト教世界の歴史と同じではありません。

 古代中国に起源を持つ元号は「皇帝による時の支配」という考えに基づいていると解説されがちですが、日本の天皇は古代中国の皇帝とは異なります。

 古代の天皇がもっとも重んじた「金光明経」という仏典は「国を治むるに正法をもってし、たとい王位を失っても、生命に危害が及ぼうとも、悪法を行ずるなかれ、善をもって衆生を教化せよ、そうすれば国土は安寧を得る」と教えています。

 古来、天皇は支配者というより、奉仕者なのです。その事を端的に示しているのが、養老律令の「およそ天皇、即位したまはむときはすべて天神地祇祭れ」(神祇令)という条項ではないでしょうか。

 さて、久しぶりに葦津珍彦先生と上田賢治教授との間で闘わされた大嘗祭論争について取り上げます。前回の御代替わりを目前に控えた昭和59年に繰り広げられた知られざる論争です。

 これまで当メルマガは、「神道人の議論はなぜ始まったのか」(昨年12月24日)および「葦津先生は『神社本庁イデオローグ』ではない!?」(今年1月30日)を書いてきました。

 神社関係者なら知らない人はいない両先生による論争が、とくに葦津先生の理論が単純に大嘗祭「公事論」とは見るべきでないこと、その根拠として、ホームベースの神社新報ではなく、中外日報に発表されたこと、葦津先生が「神社本庁イデオローグ」ではないことをくどいほど弁明していること、などを指摘しました。

 異常に長い前置きのあと、葦津先生はようやく「皇室の祭儀礼典」(大嘗祭ではない)について書き始めるのですが、果たせるかな、「過去のことについて書く」「将来のことではない」と断りながら、論考は目前に迫りつつある大嘗祭を間違いなく見据えているのでした。

 そして案の定、大嘗祭「公事論」として論争が始まり、その影響を今日に至るまで及ぼし続けることになるのです。


▽2 国務と宮務を区別する井上毅の論

 葦津先生が本論で何を主張しているのか、岩井利夫元毎日新聞記者が著書の『大嘗祭の今日的意義』(昭和63年)で、要点を10点にまとめているので、以下、長くなりますが、引用することにします。

 まず先生は、皇室の祭儀に関する、神社本庁内での過去の議論を取り上げ、その公的性格を指摘します。

(1)「皇室祭儀」について、神道人共通の考え方として、それを「天皇陛下の内廷における私事」と説明してきた政府の一般的解釈論には反対である。初代神社本庁の宮川宗徳総長(注、正確には事務総長)は、講話直後頃、皇室典範を改正し、「皇室の祭儀」を国の法律で国事としたら良いという私見を発表した。

(2)しばらくして吉田茂総長(事務総長)が、皇室典範の改正には同感しがたい。今の時代では不文のままで伝統を守る道を求めた方が良いという修正意見を出した。

(3)いずれにしても神社本庁はこの問題で公式見解を出したことはないが、実際問題として、東宮殿下の賢所での神式結婚式が政府で国事として発表された。政府は「皇室祭儀」を「内廷の私事」と発表することがあるが、陛下のお祭りは陛下個人の御一代の私事ではなく連綿として公に継承されるべきものである。

 次に、先生の議論は、国事、公事、私事の概念の違いへと進み、井上毅の論を紹介して、国務と宮務の区別に議論を発展させます。

(4)国事とか公事とか私事の概念が一般に定まっていない。国の経費を支出することが国事だとするなら、社会公共の事業の多くは国事になってしまう。国費支出が国事というなら今でも皇室祭儀は国事といえる。しかし、国事とはその事を行う主体が国である場合、陛下が象徴という国務上の国家機関として執行なさることが国事だと厳密に規定するなら明治立憲以来、皇室の祭儀礼典は国務上の国事ではなく、宮務法上の「皇室の内廷の重儀」だとする井上毅の説が正しいのではないか。

(5)明治憲法制定の際、第28条(信教の自由)と皇室祭儀との関連でいろいろ議論があり、伊藤(博文)が多数決で可決したため、神祇制度上問題点が残った。明治23年10月10日付で井上毅は意見書を出し、神祇のことを国務上の法律で決めるのは憲法の主義に反する。君主は国務の首長にして、また社会の師表でもあるから、国務は政府に任じ、礼典のことは王室の内事に属すべく混ずべきではないというロジックである。すなわち国政国務は政府と国会との協同によって処理するが、皇室のことは国務圏外の事とし、宮内省は内閣の圏外において国務と宮務の別を立て、この基本方針によって皇室典範が制定された。

(6)明治帝国の法制は国務と宮務を全的に切断し得ない事情があった。伊藤や井上は神器継承、即位礼、大嘗祭などの重儀を国務圏外の事とし、「王家の内事」と感じていたのは明らかである。皇室祭祀令、登極令など皇室祭祀礼典は皇室内の機関によって決められたのは確かで、国政、国務機関としての政府や帝国議会の制作する法律の権限の外にあった。

(7)井上は日本固有の精神を重んじながらも国務論理では徹底してレイカルな国家を目標とした。彼は世俗国家論者ではあったが、その国家を包囲する日本人社会の精神的文化伝統には深い敬愛を表した。彼は皇室の厳たる礼典の法が世俗的国政の場としての国会の法律で定められることを好まなかったのだろう。


▽3 国事でも私事でもない

 葦津先生によると、いまの官僚たちが考える「内廷のこと」と井上毅のいう「世俗圏外の事」とは異なるのでした。そして皇室の祭儀は国事でも私事でもないと結論づけ、国務の排除を訴えるのでした。

(8)「皇室の祭儀礼典は国務上の国事にあらず」との法理論は、現行法の「祭儀は内廷の事」とするのに相通ずるともいえるが、現代の官僚は「内廷の事」を国事ではない小さな私事として解しようとする。これに反し、井上は「世俗的国務圏外」のもの、権力国家の国務を超えた遥かに高貴にして神聖な天下の重儀──公共社会の事と解したのではないか。

(9)祭祀に関する法学説は、いつの時代にも学者間に諸説相対立するが、神道人にとっては祭祀がいかなる心と礼をもって執行されるかという精神事実が第一義で、それを根底に有しない法学形式論は無意味である。

(10)皇室祭儀私事説は理論的にも貧弱で、祭儀を重んずる精神からしても同感しがたい。さればとて、それを国政国務の国事説で堅めるのも適切とは思わない。社会公共の天下の重儀と解するも良く、皇室尊貴の大事と解するも良いではないか。問題は国務の干渉するところにあらざる祖宗の制を厳守する精神の問題である。

 以上、忠実な引用を試みたあとで、岩井氏は次のように批判しています。

(1)葦津氏はもっぱら「神道人」の立場から論じている。

(2)皇室祭儀(大嘗祭に絞っても良い)が国事というも私事というも適切ではない、あえていえば「天下の重儀」「皇室尊貴の大事」で、要は祖宗の大事の制を守り、祭儀を重んじる精神事実にあるという葦津氏の論を否定するつもりはないが、「神道人」ではない一般国民にとっても「天下の重儀」はすなわち「国家の重儀」ではないのか。

(3)そう考えることが祭祀の精神的意義を解しない一般世俗の短絡だと葦津氏が思うなら、遺憾ながら井上毅を持ち出しての葦津論には賛同できない。葦津説は神道人の一部しか納得させられないだろう。

(4)葦津氏のいう「公事」とは具体的にどういうことを指すのだろうか。たとえば、国民から寄付を募り、公益法人の事業とするのか。その場合、大嘗祭の国事性はどうなるのか。


▽4 大嘗祭論ではなく皇室祭儀論

 長くなってしまいましたので、今回は簡単に指摘したいと思います。

 まず、ひとつは定義です。国事とは何か、という葦津先生の問いかけはきわめて重要だと思います。

 今日の議論では往々にして、国事=天皇の国事行為となり、国費の支出問題に転化しています。そのため、憲法の公費支出禁止条項と関わり、政府の介入による皇室祭儀の非宗教化という伝統の改変さえ起きています。

 だから、私事でも国事でもないという新たな論理が必要となるわけですが、結局のところ、天皇にとっての国事と近代国家論における国事とは異なるということではないでしょうか。「天皇に私なし」とする原則からいえば、天皇の一挙手一投足すべてが国事です。

 一昨年6月の衆院議院運営委員会で横畠裕介内閣法制局長官は「天皇の交代という国家としての重要事項」と表現し、御代替わりが全体として国事であるという認識を示していますが、実際には御代替わり全体が「国の行事」とはされていません。

 蛇足ながら、昭和34年の皇太子御成婚における賢所大前の儀は「国の儀式」(憲法7条の「儀式」に該当)と閣議決定されました。「国事」とされたと解する葦津先生の認識は正確ではありません。メディアが「国の儀式」を「国事」と単純化して報道し、そして議論は混乱したのです。いまとは異なり、政府の一次情報に国民がアクセスできない時代でした。

 2つ目は、葦津先生は「皇室の祭儀礼典」について論じているのであり、大嘗祭について論じているのではないということです。

 ところが、葦津説は「大嘗祭公事論」として受け止められることとなりました。そして、前回および今回、大嘗祭には公的性格が認められるという理由から、「皇室行事」という位置づけで国費の支出が行われる、ひとつの論拠ともなったのです。

 その一方で、皇室祭祀のなかの大嘗祭とほかの祭儀一般とのあいだの法的地位の区別、御代替わり行事全般における国の行事と皇室行事との無用の区分というものが生じることになったのは、じつに不幸なことでした。

 なぜそのような議論に曲がっていったのか、今後のためにしっかり検証しなければならないと私は思います。元号も同様ですが、皇室伝統の大嘗祭が行われるのは良かった、では済まないはずです。葦津先生が指摘するように、大切なのは伝統の形式ではなく精神だからです。

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問われているのは民主主義のあり方だ ──御代替わり儀礼違憲訴訟はどこまで正当か 3 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年3月24日)からの転載です

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問われているのは民主主義のあり方だ
──御代替わり儀礼違憲訴訟はどこまで正当か 3
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 ずいぶんご無沙汰ですが、昨年暮れに御代替わり儀礼違憲訴訟を東京地裁に提訴した市民団体の言い分は妥当なのか、検証を続けます。誤りがあるなら、何が原因なのか、深く掘り下げるのは意味があることだと、私は考えています。

 ご存じのように、この訴訟は裁判所によって二分され、国費支出の差し止めに関しては、門前払いとなりました。東京地裁は口頭弁論も開かないまま、2月上旬、納税者として支出差し止めを要求できるとする原告側の主張に対して、憲法はそのような権利を保障していないとして、却下しました。

 他方、損害賠償の請求に関しては、2月下旬に口頭弁論が開かれ、裁判が進められています。


▽1 何が「明らか」なのか?

 前回は、原告団が作成しているパンフレットの序文について、考察しました。今回は「Q1 『代替わり』ってなに?」です。

 パンフレットは、天皇が交代することが「代替わり」であること、近代天皇制では天皇の死によってしか「代替わり」があり得なかったことなど、皇位継承の基本について、表現がきわめて無機質的であることをのぞいて、正しく理解されています。

 トーンが変わるのはこのあとで、前回の御代替わりについて説明し、「『大喪の礼』と『剣璽等承継の儀』『即位後朝見の儀』『即位礼正殿の儀』は国事行為として行われ、また皇室行事として行われた『大嘗祭』にも国の特別予算が支出されるなど、明らかな政教分離違反が行われました」と述べられています。

「明らかな政教分離違反」とはいうものの、何が「明らか」なのか、あまりにも舌足らずで意味不明です。

 序文では、御代替わり儀礼のうちのいくつかが「まぎれもない宗教的な儀式」とされ、したがって「違憲」と指摘されていました。憲法は「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」と規定しているからでしょうが、御代替わりの諸儀式、とくにQ1で例示された儀式が、憲法の禁ずる「宗教的活動」に該当するか否かは議論が必要です。けっして「明らか」とはいえません。

 たとえば、占領中に行われた貞明皇后の大喪儀は準国葬と位置づけられましたが、このときの事情について、昭和35年1月、内閣の憲法調査会第三委員会で、宮内庁の高尾亮一・造営部長は次のように証言しています。

「当時、占領下にありましたので、占領軍ともその点について打ち合わせを致しました。ところが、占領末期のせいもありましたが、占領軍は、喪儀については、宗教と結びつかないものはちょっと考えられない。そうすれば国の経費であっても、ご本人の宗教でやってかまわない。それは憲法に抵触しない、といわれました。貞明皇后の信仰が神道であったならば、神道でやり、国の行事として、国の経費をもって支弁していっこう差し支えない、という解釈を下したことがございます」


▽2 キリストの教えに反しないか

 占領軍は「国家神道」を敵視しましたが、占領後期になると宗教政策も一変し、皇室の祭儀を「憲法違反」などと否定してはいません。むしろ存続を認めました。

 憲法は宗教の価値を否定してはいません。むしろ逆です。原告団にはキリスト者もいるようですが、まさか宗教の価値を否定したいのでしょうか。自己矛盾に陥っていませんか。

 パンフレットのQ1は続けて、前回、「コンサート・芸能などの『自粛』キャンペーンや天皇批判の言論への右翼テロや政治弾圧など、民主主義の根幹に係わる問題も多く発生しました」と厳しく指摘しています。

 皇位の継承が行われる御代替わりは国家の最重要事のはずですが、原告たちにはその認識が欠けているようです。原告団にはキリスト教の牧師先生が参加され、それどころか原告団の事務局は所属する教会に置かれているようですが、キリスト教世界の君主制国家では「自粛」はないのでしょうか。

 数年前、プミポン国王が亡くなって、タイの国民は深い悲しみに暮れましたが、不健全なことなのでしょうか。

 カトリック教会の場合は、人間は指導者を尊敬する義務がある、共同体には権威が必要である、と教えています。先帝崩御の悲しみ、新帝即位の喜びを共有しようと思わないなら、キリストの教えに反しないでしょうか。

 原告たちには、天皇が日本の国と民にとって、歴史的な最高の権威であるというような認識はまったくないようですが、それは原告たち自身の、日本の歴史に対する理解度の問題ではないのでしょうか。

 また、前回は、指摘された「右翼テロ」のほかに、過激派による忌まわしいテロ活動が起こりましたが、Q1には言及がありません。「民主主義の根幹に係わる問題」とは考えないということでしょうか。図らずもテロリストたちとの思想的共通性を浮き彫りにします。


▽3 天皇制は民主主義より劣るのか

 Q1は最後に、今回の御代替わりの経緯について、「民主主義が問われてい」ると批判しています。

「明仁天皇の『生前退位』によって、天皇の死によるのではない『代替わり』が始まっ」たことについて、「天皇自身がそれを発意し、さまざまな意見の違いはあっても、まわりが天皇の意思を忖度して動くことは当たり前になってい」るのは、「国の制度である天皇制が何であるかを決めてよいのは天皇ではありません」というわけです。

 いまだに「生前退位」という表現をとるのは驚きですが、それはともかく、今回の御代替わりは、陛下が「私は譲位すべきだと考えています」と参与会議でおっしゃったことが発端といわれます。

 しかし、現在の法制度では「譲位」は認められておらず、同時に憲法は天皇の「国政に関する権能」を認めていません。このため国会が決議した特例法による「退位」が実現することになりました。

 国会では、衆院は自由党をのぞいて全党賛成、参院では全会一致で特例法が可決されましたが、それは政治家や国民の「忖度」の結果でしょうか。「忖度」だとするなら、「忖度」を導いている背景には何があるのでしょうか。

 憲法は、天皇の地位について、「主権の存する日本国民の総意に基づく」と定めていますが、その国民とは現在、この世に生を享ている国民に限られるべきではありません。憲法は皇位の連続性、国の永続性を認めています。問われているのは逆に民主主義のあり方です。

 古来、天皇は国と民のために祈ることを第一のお務めとされてきました。ご自分が統治する国に飢えた民が1人でもいるのは申し訳ないとのお思いから、毎食ごとに行われた「さば」の行事もありました。民のために祈り、民と命をも共有する天皇のあり方は、多数決原理によって、ときに国を二分させる民主主義より劣る、と原告たちは考えるのでしょうか。

 キリスト者である原告の1人は、かつて天皇の名のもとに戦争政策に協力させられた歴史を批判しているようですが、もっと長い歴史に目を向けてほしいものです。

 天皇の歴史がすべて良かったわけではないけれども、一時の不幸な時代を根拠にすべての歴史を否定すべきではありません。忌まわしい大航海時代の悲劇をもって、キリスト教の歴史を全否定すべきでないのと同じです。

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「退位の礼」はどうしても必要なのか? ──退位と即位の儀礼を別々に行う国はあるだろうか [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年3月10日)からの転載です

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「退位の礼」はどうしても必要なのか?
──退位と即位の儀礼を別々に行う国はあるだろうか
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 先週8日、宮内庁の大礼委員会が開かれ、今上陛下の譲位(退位)に関する諸儀礼の式次第が決まった。もっとも重要なはずの賢所大前の儀はずっと後回しにされてきたが、ようやく4月30日午前10時から斎行されることに定まった。

 ということで、あらためて退位の礼について考えてみたい。


▽1 歴史に存在しない「退位の礼」

 大礼委員会の決定によれば、譲位関連の儀式は、3月12日の「賢所に退位およびその期日奉告の儀」に始まり、4月30日の「退位礼当日賢所大前の儀」「退位礼当日皇霊殿神殿に奉告の儀」「退位礼正殿の儀」まで、11の儀式が行われる。

「正殿の儀」のみが「国の行事」、すなわち天皇の国事行為として行われ、ほかは皇室行事となる。いずれにしても、過去の歴史にない新例である。

 4月30日当日の流れを大まかに見てみると、次のようになる。

午前10時 黄櫨染御袍を召された天皇陛下が出御される。掌典長が前行し、侍従が御剣を捧持する。
陛下が賢所内陣で御拝礼、御告文を奏上される。このとき内掌典が御鈴を奉仕する。皇后陛下、皇太子殿下、皇太子妃殿下の拝礼が続く。
この間、皇族方ほか参列諸員は幄舎での参列となる。これが賢所大前の儀である。
ひき続いて、皇霊殿に奉告の儀、神殿に奉告の儀が執り行われる。いずれも御親祭となる。
午後5時 天皇陛下が皇后陛下を伴われて、宮殿松の間にお出ましになる。侍従が剣璽等を捧持し、皇太子殿下ほか成年皇族方が供奉する。総理大臣による国民代表の辞のあと、陛下のお言葉があるのが退位礼正殿の儀である。

 三殿での儀礼は御親祭であることをのぞいて、おおむね翌日に予定される践祚の式(登極令附式)に準じて式次第が定められていることが分かるが、以前から指摘しているように、そもそも「退位の礼」など歴史に存在しない。

 政府は、憲法の趣旨に沿い、かつ皇室の伝統を尊重することを基本方針としながら、「御退位の事実を広く国民に明らかにする」などの趣旨で、退位の式典を創作した。政府の決定に先立って行われた有識者ヒアリングには歴史の専門家も加わっていたが、皇室の伝統の喪失を指摘する歴史家はいなかったらしい。

 その結果、貞観儀式の「譲国儀」などには一体の儀礼として定められている譲位(退位)と践祚(即位)が分離することとなり、30年前、践祚と即位の歴史的区別が失われたことに加えて、皇位継承儀礼は皇室の伝統からかけ離れ、混迷の度をますます深めることとなったのである。

 問題点はいくつか指摘できるが、前にも書いたように、退位礼当日賢所大前の儀は陛下の御親祭とされるのに対して、翌日の践祚に伴う新帝の賢所の儀は御代拝とされるのは、著しくバランスを欠く。

 先帝崩御に基づく諒闇践祚なら服喪による縛りがあるが、受禅践祚なら御親祭であるべきだろう。新帝が賢所の儀は御代拝とし、剣璽等承継の儀(剣璽渡御の儀)にはお出ましになるというのでは、話にならないのではないか。

 5月1日の賢所の儀は、いまだ斎行の時刻が決まっていない。剣璽等承継の儀は午前10時半に始まることが1月の式典委員会で決定しているが、賢所の儀および皇霊殿神殿に奉告の儀はこれに先立って、御親祭で行われるべきではないかと思う。


▽2 皇室の伝統尊重が基本方針なら

 国家の最重要事にこのような混乱が生まれた理由は、といえば、いまさらこんな話をしても始まらないのだが、今上陛下の思召しに始まって、「退位」の認否とその方法論について、法的議論が集中してしまったことに原因があるのではないか。

 とりわけ政府は、「天皇は国政に関する権能を有しない」と定める憲法との整合性に腐心し、お言葉をスタートラインとする皇室典範特例法の立法ではなくて、国民の代表たる国会がみずから天皇の「退位」を実現するという論理の逆転を図った。

 同時に、天皇が皇太子に「譲位」するのではなくて、あくまで特例法に基づく「退位」であるとの姿勢にこだわってきた。国会は皇位継承の特例法ではなく、「退位」等に関する特例法について審議し、内閣は「天皇陛下の御退位と皇太子殿下の御即位」の検討を進めてきた。

 たとえば、菅官房長官は一昨年6月1日の衆院議院運営委で、「陛下のお言葉を今回の立法の端緒として位置づけた場合には、天皇の政治的機能の行使を禁止する憲法第4条第1項に違反するおそれがある」と述べている。こうして退位と即位は最初から分離していたのである。

 とすれば、皇位の御印である剣璽は、剣璽等承継の儀で、今上から新帝に継承されるのではなく、前日の退位の礼で今上が「手放す」こととなり、翌日の剣璽等承継の儀で新帝が「承継」することとなるのである。もはや剣璽は皇室に伝わる御物ではないかのようである。

 これは日本国憲法を「最高法規」とする理屈の世界である。法匪たちの憲法論への傾斜が皇室の伝統を侵し、前代未聞の混乱を生んだのである。

 しかし、「退位の礼」はどうしても必要なのだろうか。

 今回の御代替わりは、皇室典範特例法という法律によって実現されるが、法は法、儀礼は儀礼である。憲法も皇室典範も皇位の連続性を認めている。退位と即位の分離はかえって違憲・違法の疑いを生まないだろうか。皇位の連続性を示すには連続した儀礼こそが望ましい。

 宮内庁は譲位(退位)と践祚(即位)の分離を正当化するために、古典解釈をねじ曲げ、過去に退位の儀礼が行われていたかのような犯罪的な歴史の捏造にまで手を染めているが、連続した譲位=践祚の儀式が行われたとしても、皇位継承は天皇の政治的権能によるのではなくて、法律が根拠なのだから、憲法に抵触することにはならないはずだ。

 皇室の伝統を尊重するのが政府の基本方針なら、譲位と践祚の分離はあってはならない。世界に目を向ければ、君主制の国は少なくないし、近年は高齢の君主が退位するというニュースも聞かれるが、退位と即位の儀礼を別々に行う国があるだろうか。


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葦津先生は「神社本庁イデオローグ」ではない!? ──葦津珍彦vs上田賢治の大嘗祭「国事」論争 2 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年1月30日)からの転載です

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葦津先生は「神社本庁イデオローグ」ではない!?
──葦津珍彦vs上田賢治の大嘗祭「国事」論争 2
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 昭和天皇の晩年、次の御代替わりが間近に予感されるなか、宗教専門紙の中外日報(昭和59年2月10日付)に、「皇室の祭儀礼典論──国事、私事両説解釈論の間で」と題する葦津珍彦先生の論考が掲載されました。

 一部ではいまも、これが「大嘗祭公事論」と認識され、葦津先生は大嘗祭を「国事」ではなく、「公事」とする法解釈を、掛け値なしに主張されていたと理解されているようです。

 しかし私はこの理解は間違いだろうと考えています。たしかに一読するとそのように読めるのですが、葦津先生は直球派の投手というより、むしろレトリックを多用される技巧派の文章家でした。前回、書きましたように、書斎の研究者でもありません。字面だけで、「大嘗祭公事論」と読むべきではないと私は思います。

 それならどう読むべきなのでしょうか。

 結論からいえば、論争相手とされる上田賢治國學院大学教授とあらかじめ示し合わせたうえで、内閣法制局が反対し、斎行さえ危ぶまれていた御代替わりの最重要祭儀である大嘗祭に関して、「国事」とするのか否か、議論を強く喚起しようとはじめから計画されたのだろうと私は推理しています。


▽1 神社新報ではなく中外日報に書いた理由

 理由の1つは、前回も触れたように、発表の媒体が、先生のホームグランドである、神社新報ではなかったということです。

 もし先生がもっぱら私的な見解ではなく、ある程度、公的見解の色彩をもって、「公事論」を主張したいのなら、先生が生涯、事実上の主幹を務められた同紙に書くべきでしょう。そうすれば、神社界唯一の専門紙である同紙の媒体力と相俟って、神社関係者による見識ある定説として、内外に読まれることになったでしょう。

 しかしそうはなさらなかった。そのように読まれることを嫌い、後述するように、あくまで一私見だと、くどいほど断られたのは、自身をあえて部外者的な立場に置いて、迫りつつある御代替わりのあり方について、関係者の問題関心を呼び起こそうとされたのではないでしょうか。

 神社関係者のなかには、「国事」論が根強いことを十分に承知されたうえで、関係者相互の無用な対立を避けつつ、大嘗祭が法的にどのような地位にあるべきか、理性的な議論を、外部から、一定の距離を置きつつ、巻き起こそうとされたのではないかと私は考えます。

 さらには、大嘗祭の斎行を阻んでいるような、政府関係者を含む、反神道的勢力に対して、理論的に挑戦しようとされたのでしょう。単に神社関係者の意見ではないという姿勢を示すには、仏教関係者に深く浸透している中外日報に発表することは、大きな意味があったはずです。

 理由の2つ目は、文章の書き方です。

 中外日報の論考はじつに不思議な構成で書かれています。タブロイド新聞の3ページにまたがる長文の記事のうち、最初の1ページは、神社本庁が創設された昭和21年2月以来の38年間の懐旧談に費やされ、本論とはおよそ無関係なテーマが取り上げられています。

 どういうわけか、葦津論文および大嘗祭論争をきわめて詳しく伝える岩井利夫・元毎日新聞記者の『大嘗祭の今日的意義』(昭和63年)には、この前振りについて何ら言及がありません。もしかしたら、よく知っているからこそ、書かなかったということでしょうか。


▽2 神社本庁の公的見解と葦津先生の思想との違い

 導入部分を箇条書き風に列記すると、以下の17項目になろうかと思います。

1、神社本庁の創立には、いまは亡き先人たちの非常な苦労があった。本庁は大同を求めて創立したもので、一定のプランで創立されたのではないので、当然、未解決の問題を残したままの発足だった。

2、その後の歩みについて、私(葦津。以下、同じ)は多少の運営もし、密接な言論機関としての神社新報の一記者もした。記者はすでに退社したが、本庁の教学委員の1人として昨年9月まで関係し続けてきた。

3、将来の本庁のことは、新時代の人々の努力に待つべきで、老骨の私などが駑馬の弁を振るうときは過ぎたと思い、「過去のことは書いても、将来のことは論ずまい」と言って、教学委員も辞した。

4、中外日報の編集者が、しきりに「過去のことでもいいから」と勧めるので、一文を書く。

 以上のような書き出しのあと、大嘗祭について書き始めるのかと思いきや、そうではありません。先生はやおら、「私は本庁のイデオローグではない」と説明し出すのでした。

5、世間で、神社本庁を批判する人々のなかに、「本庁の代表的イデオロギー」として私の過去の論文を引用する人がいる。私は熱心な本庁支持者の1人ではあったが、私の理論が本庁の代表的なものだったわけではない。

6、その間の事情を明らかにしておくのは、有意義だと思うので、本庁の公的理論と私の思想との異同について書いておく。

 こうして、本論はあくまで私見だとする主張の伏線が敷かれるのです。

 私見の発表だとすると、神社新報ではなく、中外日報の編集者の誘いは絶好の機会を与えるものとなりました。しかしその原稿依頼もまた、アウンの呼吸があったと想像するのはうがち過ぎでしょうか。


▽3 長ったらしい弁明の意味

7、本庁の創立について、私は神社連盟案を提案した。民法上の社団または財団の法人格を有すべきで、宗教法人になるのは好ましくないと提案した。また、勅祭社とくに伊勢の神宮は皇室の所管として維持されるべきで、神社連盟の圏内に入るべきものではないと提案したが、2つとも否定された。

8、本庁創立に際して、私の進言で採択されたのは、「固定教義を持つべきではない。開放的な性格の組織構造を立てるべきだ」ということだけだった。

9、神道指令は全神社に対して国家との分離を命令したが、すべて宗教教団になれと命じたわけではない。これは米軍当局が「すべての神社は宗教である」と断定する理論を憚ったからだ。

10、私は、神社が公法人としての存続を否定されても、民法上の「祭祀目的」の財団法人となる方がよほど条理が立つと思った。米国務省は神社問題を研究し、少なくとも明治維新後に創立された神社は、宗教信仰の場として認めがたいものが多いと結論しているが、私も同感だ。

11、しかし神社本庁参加の神宮神社はすべて宗教法人となった。占領時代の政治状況に敏感な指導者が「宗教法人への道を選ぶのが存続上円滑である」と判断したからだと思う。これは時務対策としては賢明だったかと思うが、その後の混乱の1条件となったのではないかと思う。

12、伊勢の神宮も宗教法人の道を選んだ。私の理論では、皇室が親しく祀られた神宮と、国民が自然成長的に祀りをしてきた神社とは異質だと信じたが、そのころ皇室経済の解体を進めていた当局との関係などから、政治的配慮で決断されたものらしかった。

13、しかし一般の神社と同じには扱いがたいので、「本宗」とした。「本宗」は別格との庁規の定めができたが、概念は示されなかった。ムードは諒解できたが、確たる理論は私には分からなかった。

 中外日報にこれから書くことは個人的見解に過ぎない、とひと言、触れれば足りるはずなのに、葦津先生はくどくどと書き連ねています。引用するのもイヤになるほどですが、先生はむしろ長ったらしい弁明に意味があるとお考えなのでしょう。そこまで論証しなければ、とくに部外者には、私見だとみなされず、誤認されるということなのでしょう。


▽4 過去の事実を語ると断ったのに

14、ともかく「全国の神社」をお守りしようとの大同的心情に同感して、多数の諮問委員の1人として、多少のおつとめをした。進言の多くは顧みられなかったことも多々あり、近年はさほど意味ある進言もしていない。これがありのままの本庁と私の間の真相である。

15、にもかかわらず「本庁のイデオローグ」といわれるのはおかしい。その理由として、やや思いついた。本庁の代表者は慎重を期して個人的な見解でも表明しない。一方、私はあれこれと論じたことが少なくなかった。しかも神道嫌いの人たちを刺激した。それで葦津の個人的私見を本庁イデオロギーと即断されたのかも知れない。この誤認だけは解消しておきたい。

16、ここでは中外日報の編集者からとくに質された「皇室祭儀の問題」についての私見を述べてみたいが、これはけっして本庁イデオロギーではない。

17、本庁関係者には、この問題についての関心は非常に深いが、葦津理論とは反対の理論者も少なくない。私は、過去において、本庁関係者の間に、2つも3つも、異なる理論があったという事実と私見を述べる。

 以上のような長い長い前置きがあり、ようやく葦津先生は皇室の祭儀、とくに大嘗祭について書き始めるのでした。将来のあり方について、ではないと何度も否定されているものの、目前に迫ってきた御代替わりを見据えた議論でないはずはありません。まさに葦津先生特有のレトリックです。

 そして当然のごとく、そして先生が意図していたとおり、論争は始まりました。

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賢所の儀は何時に行われるのか? ──いつまでも決まらない最重要儀礼 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年1月20日)からの転載です

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賢所の儀は何時に行われるのか?
──いつまでも決まらない最重要儀礼
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 先週17日に官邸で式典委員会が開かれ、翌18日には宮内庁で大礼委員会が開かれました。政府は御代替わり関連の諸儀式の次第などを決めました。

 これによると、退位礼正殿の儀は4月30日の夕刻午後5時に開始され、践祚後の剣璽等承継の儀は翌5月1日の午前10時30分から、即位後朝見の儀は同11時10分から執り行われることに決まりました。


▽1 悪しき前例となる「退位の礼」

 退位礼正殿の儀は、以下のように行われます。

天皇陛下が午後5時、皇后陛下を伴われ、正殿松の間にお出ましになります。
このとき、侍従が剣璽等を捧持し、皇太子殿下ほか成年皇族方が供奉されます。
侍従が剣璽等を案上に奉安します。
モーニングコート、紋付羽織袴などで正装した三権の代表者、地方公共団体の代表などが、ロングドレスや白襟紋付などで正装した配偶者とともに参列するなかで、
総理大臣が国民代表の辞を述べ、
陛下がお言葉を述べられます。
このあと皇后陛下を伴われて退出され、
このとき侍従が剣璽等を捧持し、皇太子殿下ほか成年皇族が供奉します。

 以上の次第が決まった退位の礼ですが、もともと退位の礼などというものは歴史的にあり得ません。政府が、皇室の伝統にない、前代未聞の退位の礼なるものを、即位の礼があるなら退位の礼あるべしとして創作し、その結果、譲位(退位)と践祚(即位)を分離してしまったのは痛恨のミスといえます。

 たとえば御代替わり儀礼についてもっとも詳しいとされる貞観儀式は「譲国儀」を定めていますが、譲位の儀式がすなわち践祚(皇位継承)の儀式なのです。なぜ譲位と践祚を一体の儀式として行おうとしないのか。以前書いたように、政府・宮内庁は「譲国儀」の古典解釈を誤り、歴史に禍根を残す、悪しき前例を作ってしまいました。

 問題点の1つは、皇位とともにあるべき剣璽の所在です。5月1日午前0時の践祚の前後に剣璽はどこにあるのでしょうか。


▽2 退位の礼後、剣璽はどこへ?

 前日午後5時に退位礼正殿の儀が設定されたのは、退位の時限である午後12時になるべく近い時間という理由でしょうが、天皇とともに動座される剣璽は、儀式の後、翌日の剣璽等承継の儀が開始される時刻まで、どこへ遷るのでしょうか。

 陛下とともに御所に戻るのか、それとも東宮に遷るのか、それともいったん賢所に遷るのか。

 いずれにしても、剣璽は皇位とともにあるという皇室の伝統にそぐわない状況が約17時間、発生することになりませんか。

 問題点の2は、祭祀上、もっとも重要な、神鏡が祀られる賢所の儀は、何時に行われるのでしょうか。

 退位礼の当日に退位礼を行うことについて大前に奉告する賢所大前の儀、践祚当日から3日間にわたって、新帝が皇位の継承を奉告する賢所の儀のいずれも、政府・宮内庁の資料にはいまだ言及がありません。政教分離の厳格主義に固執する政府は、賢所の儀ほか祭祀に関して、検討すらしていません。

 今回の御代替わりは、陛下が参与会議で「私は譲位すべきだと思っている」と御意思を示されたことから始まったとされます。以後、退位の認否に議論は集中し、そのため践祚のあるべきかたちについての議論は二の次になり、政府の非宗教的姿勢と相俟って、真っ先に検討されるべき祭祀に関する検討は逆に後回しになっています。

 本来なら、践祚を奉告する賢所の儀は剣璽渡御の儀と同時に行われるべきでしょう。

 200年前の光格天皇の譲位では、「今日より三箇日、内侍所神饌供進」と記録されています。登極令に基づく昭和の御代替わりでは、大正天皇崩御の1時間50分後に賢所の儀と剣璽渡御の儀が同時に行われました。登極令附式を準用した前回の場合は、昭和天皇崩御の1時間半後に賢所の儀、さらに1時間半後に剣璽等承継の儀が行われました。

 登極令附式を準用するなら、朝見の儀は3日間の賢所の儀が済んでから行われるべきです。昭和の御代替わりでは大正天皇崩御の4日後、前回は昭和天皇崩御の3日後、いずれも賢所への奉告が終了の後、国民の代表にまみえる朝見の儀は行われました。「神事を先にし」(禁秘抄)が皇室の伝統だからです。

 政府は、憲法の趣旨に沿い、かつ皇室の伝統を尊重し、さらに平成の前例を踏襲することを基本方針として掲げていますが、今回はどうなるのでしょうか。


▽3 御親拝か御代拝か

 問題点の3は、賢所の儀は御親拝か御代拝か、です。

 昭和の御代替わりも、平成の御代替わりも、諒闇践祚でしたので、践祚後の賢所の儀は御代拝でした。しかし、今回は受禅践祚なので、服喪の縛りはありません。

 とすれば、5月1日午前10時半からの剣璽等承継の儀の前に先立って、新帝の御親拝があってしかるべきですが、宮内庁の資料では御代拝とされています。

 今回、新例となる、4月30日に退位を奉告する賢所大前の儀は、宮内庁の資料には御代拝とはされていませんが、逆に、今上陛下みずから拝礼なさるのでしょうか。

 御親拝がはるかにふさわしいとは思いますが、それならそれで今度は、践祚後の新帝による賢所の儀の御代拝とバランスが取れなくなってしまいます。

 退位の礼などという新例を開いたことがつくづく恨めしく思われます。

 なぜこんなことが起きるのでしょう。

 以前、「昭和天皇の忠臣」と呼ばれた宮内庁OBのインタビュー記事で明らかにしたように、昭和40年代以降、宮内庁は藩屏どころか、すっかりふつうの役所になり、皇室の歴史や祭祀の伝統を知る人は姿を消してしまったのでしょう。政界、官界、アカデミズム、ジャーナリズムの世界にも、政府に意見できるような識者がいなくなってしまったということなのでしょう。天皇=祭り主とする天皇観は事実上、崩壊してしまったのです。

 尊皇意識に優るはずの保守派人士が、陛下のビデオ・メッセージのあと直ちに、あるべき御代替わりを求めて、研究を深め、発信してこなかった不作為の責任がいまさらながらに問われます。きびしく問われなければなりません。
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靖国訴訟原告団が作成したパンフレット序文の「偽善」 ──御代替わり儀礼違憲訴訟はどこまで正当か 2 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年1月4日)からの転載です

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靖国訴訟原告団が作成したパンフレット序文の「偽善」
──御代替わり儀礼違憲訴訟はどこまで正当か 2
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 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。


▽1 正面から向き合い、学ぶ姿勢は立派

 さて、昨年12月、御代替わり儀礼違憲訴訟を東京地裁に提訴した市民団体の言い分は妥当なのか、吟味を続けます。

 前回は、提訴の前に13人の「呼びかけ人」が原告団への参加を広く一般に募った「委任状」の文章を材料に、原告らが、古来の天皇のあり方を否定し、日本国憲法の規定に厳格な解釈・運用を要求していること、天皇は国事行為のみを行う特別公務員だと考えていること、即位礼・大嘗祭は政教分離・主権在民主義に反するから、「生前代替わり」に税金は支出されるべきではないと主張していること、などを紹介し、若干の批判を加えました。

 今回から、もう少し詳しく、その考え方を検討してみます。御代替わりはどのようなものと考えられ、批判されているのでしょうか。

 訴訟グループのサイトを見ると、原告たちが、首相の靖国参拝訴訟や天皇制反対派と直結していることが容易に理解されます。ネットワークが直接にリンクされているからですが、そればかりではありません。

 この靖国訴訟の原告たちが作成した、御代替わりをテーマにした、色鮮やかな表紙のパンフレットが目を引きます。タイトルはズバリ、「即位・大嘗祭Q&A 天皇代替わりってなに?」です。A5判並製で40ページ。一部300円で販売されているほか、PDFファイルが簡単にダウンロドできるようになっています。

 訴訟グループは表裏一体なのでしょう。とはいえ、靖国訴訟の原告たちが、天皇および天皇制について正面から向き合い、学び、分野が異なる御代替わりについて、まとまったパンフレットを作製し、一般市民の便宜を図っているのは、たいへん立派で、感心します。

 心から敬意を表しつつ、さっそくダウンロードし、中身を拝見することにします。


▽2 Q&A形式で16項目にわたって解説

 表紙には「即位・大嘗祭Q&A 天皇代替わりってなに?」というタイトルが横書きで大きく示されています。「御代替わり」ではなく、あくまで「代替わり」です。タイトルの下に、パンフレット制作者である、靖国訴訟の原告たちの東京事務局名が記載され、その下に訴訟の横断幕を掲げ、裁判所に向かう原告と思われる十数人の男女の写真が載っています。個人名は見当たりません。

 表紙をめくると、まずパンフレット作成の意図を説明する序文があり、そのあと、以下のように16項目にわたって、Q&A形式で、関連写真も挿入しながら、御代替わりについて解説されています。煩瑣をいとわずに、そのまま書き出します。

1、「代替わり」ってなに?
2、政教分離ってなに?
3、「即位の礼」ってなに?
4、「大嘗祭」ってなに?
5、「現人神」ってなに?
6、即位礼・大嘗祭訴訟ってなに?
7、悠紀田、主基田ってなに?
8、「三種の神器」ってなに?
9、宮中祭祀ってなに?
10、国家神道ってなに?
11、天皇と靖国神社の関係ってなに?
12、「慰霊」ってなに?
13、「改元」ってなに?
14、天皇の「ご公務」ってなに?
15、「女性天皇問題」ってなに?
16、「祝日」ってなに?

 テーマがじつに網羅的で、問題関心の幅広さに感服します。御代替わりのみならず、靖国問題や女性天皇論、祝日まで取り上げられています。保守派でもここまで広範囲な知識を備え、コンパクトに、しかも平易に整理できる人はめったにいないでしょう。人材のレベルの高さを感じさせます。保守派は原告らに学ぶべきではありませんか。

 最後のページには、日本国憲法の関係条文、平成の御代替わりの諸儀礼が一覧表にまとめられています。懇切丁寧です。

 奥付によると、第一刷の発行は2017年4月で、現在は同年5月発行の第二刷です。提訴の半年以上前から準備されていたことになります。計画的に進められているということでしょう。周回遅れの議論で後手に回る保守派は、これまた謙虚に学ぶべきではありませんか。


▽3 憲法が禁じる「国の宗教的活動」か

 序文を読んでみましょう。出版の目的です。

 冒頭で、作成者の靖国訴訟原告団は、安倍首相靖国神社参拝訴訟の経緯について簡単に説明したあと、「ところで」と話題を「明仁天皇」の「生前退位」に転じます。

 筆者はまず、議論の輪に加われないでいる不満を表明しています。

 すなわち、「国会での議論がおこなわれる前に、早くも2018年中の退位と新天皇の即位、それに伴う『即位の礼』、新元号の制定、2019年秋の『大嘗祭』というぐあいに、『代替わり』の儀式をすることが、決まった話のように進んでいます」という状況だからです。

 筆者には、日本国憲法に基づき、国会で議論されるべきだという信念があるのでしょう。国民主権下においては、御代替わり儀式は天皇・皇室の儀礼ではない、という認識になります。

 つづけて筆者が書き進めているように、「天皇制は『国民主権』原則にたつ日本国憲法で規定された国家の制度です」という理解です。

 それなら、御代替わり儀礼とはどのようなものと考えられているのか、といえば、前回も説明したように、「宗教」なのでした。

「即位にともなういくつかの儀式や『大嘗祭』などは、まぎれもない宗教的な儀式です」

 したがって、単純明快に「違憲」と考えられています。

「政府は特別会計を組んで、それらを公的な儀式として行おうと考えているようですが、これは国の宗教行為を禁じた憲法第20条(国及びその機関は、いかなる宗教的活動もしてはならない)などに対する明白な違憲行為です」というわけです。

 しかし「宗教行為」「宗教的活動」「宗教的な儀式」は同じではないと思われるし、御代替わりの儀礼が憲法が禁ずる「国の宗教的活動」に当たるかどうかは議論を要するでしょう。


▽4 もし厳格主義にこだわるなら

 憲法は宗教の価値を否定しているわけではありません。むしろその逆です。宗教的存在である人間の価値を認め、信教の自由を保障しているのです。憲法を制定した「国民」は、無神論者ではありません。したがって、従来の解釈・運用も政教分離の厳格主義を採用してはいません。

 もしどこまでも厳格主義でなければならないとするなら、政府主催の戦没者追悼式も、各地にある公立墓地も否定されなければなりません。誰もそんなことは考えていません。

 原告団にはキリスト教の牧師先生もおられ、所属教会に原告団の事務局が置かれているようですが、もし本気で厳格主義を貫かれるなら、キリスト教主義学校への補助金は、憲法の公金支出禁止の条文に従って、返納されるべきだし、長崎県などが行政をあげて推進した潜伏キリシタン関連施設の世界遺産登録は振り出しに戻されなければなりません。

 もし厳格主義者なら、そのように主張され、提訴すべきです。そうでないなら、「なぜ、兄弟の目にある塵を見ながら、自分の目にある梁を認めないのか」とイエス・キリストが批判した「偽善者」となってしまうでしょう。憲法の大原則「法の下の平等」にも反するダブル・スタンダードです。

 パンフレットは最後に、政教分離問題こそがパンフレット作成の目的だと説明しています。

「安倍靖国参拝訴訟の論点の1つは、まさしくこの、『国が特定の宗教と結びつく』政教分離問題にありました。天皇の『代替わり』がマスメディアを賑わすなかで、天皇代替わりに関する政教分離問題に対する指摘が余りに少ないことを、私たちは懸念しています」

 筆者すなわち原告たちは、靖国訴訟も大嘗祭訴訟も、政教分離問題が中心的論点だと指摘します。御代替わり儀礼は「国の宗教的活動」に当たるのか、「特定の宗教」といえるのか、が争われるということになりますが、当メルマガの読者なら周知の通り、否でしょう。

 どうしても御代替わりを非宗教化したいと仰せなら、原告のお一人である牧師先生にぜひお願いしたいと思います。隗より始めよ、イギリスはじめヨーロッパの王制国家の、キリスト教と密接不可分に結びついた王位継承儀礼の非宗教化に、まず取り組んでいただけないでしょうか。アメリカ大統領の、ワシントン・ナショナル・カテドラルでの就任ミサの違憲訴訟を呼びかけていただけないでしょうか。御代替わり儀礼だけが非宗教化されなければならない理由はありません。

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神道人の議論はなぜ始まったのか ──葦津珍彦vs上田賢治の大嘗祭「国事」論争 1 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年12月24日)からの転載です

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神道人の議論はなぜ始まったのか
──葦津珍彦vs上田賢治の大嘗祭「国事」論争 1
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▽1 知る人ぞ知る論

 御代替わりの儀礼、とりわけ大嘗祭は国事なのか否か、しばらく考えてみたいと思います。材料となるのは、昭和天皇の晩年、前回の御代替わりが近づいたころ、神道人たちのあいだで展開された、知る人ぞ知る論争です。

 以前にも取り上げた岩井利夫・元毎日新聞記者の『大嘗祭の今日的意義』(昭和63年、錦正社)には、昭和59年に、大嘗祭のあり方をめぐって、戦後唯一の神道思想家といわれる葦津珍彦先生と上田賢治・國學院大学教授(神道神学)とのあいだで交わされた、この論争が紹介されています。

 岩井氏の著書では、「大嘗祭が国事であるか、宮務であるかについて、なお貴重な論争がある」ということで、葦津先生の見解に対して上田先生が反駁された「論争」として紹介され、葦津先生が「大嘗祭を国事とはせずに公事とせよ」と主張し、上田先生は「皇室祭儀は国事たるべし」と反論したことになっています。

 とくに葦津先生の主張は「大嘗祭公事論」ということにされ、前回、そして今回の御代替わりで、大嘗祭が「国の行事」とはされないけれども、その公的性格を認め、国費支出が相当であるとするための法的根拠の1つともなっており、重要な議論です。

 しかし、この論争には、とくに3つの見逃せない論点が指摘されます。(1)憲法改正をめぐる時代背景の違い、(2)一次情報へのアクセスが困難だった時代といまの違い、(3)「国事」の意味の違い、の3点です。そして、もう1点付け加えるとすれば、今回がまさにそうであるように、かまびすしい議論とはおよそ無縁の神道人による、めったにない論争はなぜ生まれたのか、です。

 こうした問題点を踏まえたうえで、大嘗祭のあり方について、あらためて原典に振り返って、考えてみたいと思います。


▽2 書斎の研究者ではなかった葦津先生

 論争の起点である葦津先生の記事は、「皇室の祭儀礼典論──国事、私事両説解釈論の間で」と題され、昭和59年2月10日付の中外日報に載りました。タブロイド新聞の8面、9面の両面ぶち抜きでは足らずに、10面にまでまたがるボリュームでした。

 メインタイトルのほかに、「天皇がお祭りをしても“私事”なのか」「内廷費中『神事費』の所在」「『宮務法上の重儀』やっぱり“国務圏外”?」「同感できぬ『国事論』」といった見出しが紙面に散りばめられています。

 これが、いうところの「大嘗祭公事論」とされ、大嘗祭=非「国の行事」=「皇室行事」論の論拠ともされているのですが、結論からいうと、そのような解釈は誤りだろうと私は思います。葦津先生の文章は研究者のそれとは異なるからです。

 第1に、なぜ中外日報なのか、です。中外日報は明治30年創刊の、日本でもっとも歴史ある、仏教に主軸を置いた宗教専門紙です。

 葦津先生の肩書きは、論考では「元神社本庁教学委員、史家」とされていますが、社家の家系に生まれ、神社本庁設立の中心人物であり、神社新報の事実上の主幹だった葦津先生が、生涯のテーマとした宮中祭祀論に関して、なぜ神社界の専門紙である神社新報ではなく、中外日報に発表したのでしょうか。

 古巣の神社新報への掲載をわざわざ避けようとした真意は何だったのでしょう。

 第2に、葦津先生は神道思想家といわれますが、一介の野人を貫きました。82年の生涯で70冊以上といわれる書籍を著しましたが、書斎の研究者ではありません。戦中は東條内閣の統制政策と真っ向から対峙し、呂運亨を支持して朝鮮独立工作に関わり、戦後は紀元節復活、靖国神社国家護持、剣璽御動座復古、元号法制定などに中心的な役割を果たした闘う民族主義者です。

 とすれば、この中外日報の論考も字面だけで読むべきではない。単純な「大嘗祭公事論」と読むべきではない、ということになります。

 それならどう読むべきなのでしょう。


▽3 弱体だった自民党政権

 葦津先生が関わった元号法制化で、法案が国会で可決されたのは昭和54年の初夏、第一次大平内閣のときでした。当時はいまとは異なる弱体政権でした。

 直近の51年12月の34回衆院総選挙では、自民党は511議席のうち過半数割れの249議席しか獲得できず、52年7月の11回参院通常選挙の結果でも自民党は249議席中124議席を占めることしかできませんでした。

 昭和以後も「昭和」を存続させるとか、法制化ではなく内閣告示で、という選択肢も取り沙汰されるなか、53年11月に福田内閣は法制化を決定し、法案が作成され、同年暮れに大平内閣に替わって、翌54年4月には自民、公明、民社、新自クの賛成で法案が可決し、同6月には参院本会議で同様に可決、元号法は成立しました。

 元号法は成立しましたが、「元号は、政令で定める」という条文は、元号制定権の所在を曖昧にするものでした。

 大嘗祭の挙行は難問でした。憲法の政教分離問題が横たわっているからです。

 当メルマガの読者なら周知の通り、昭和49年11月に無神論者を自任する富田朝彦宮内庁次長が登場して以降、厳格な政教分離主義によって宮中祭祀の祭式は変更されました。52年7月の津地鎮祭訴訟最高裁判決では、合憲判断が下されたものの、現実には行政の神道儀式離れが促進されました。

 54年4月には衆院内閣委員会で、元号法に関する質疑が行われたとき、真田秀夫・内閣法制局長官は、「従来の大嘗祭は神式のようだから、憲法20条3項(国の宗教的活動の禁止)から国が行うことは許されない。それは別途、皇室の行事としておやりになるかどうか……」と答弁しています。


▽4 内閣法制局は政教分離問題に強硬

 元号法とは異なり、大嘗祭は憲法問題と直結しています。憲法を改正するには、制度上、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が発議したのち、国民投票で過半数の賛成が必要ですが、当時の議席配分ではギリギリでした。それどころか、内閣法制局は政教分離問題に関してきわめて強硬でした。

 そうした政治情勢では、皇室の伝統のままに大嘗祭を挙行することは無理かも知れないという声も囁かれていたことでしょう。そんなとき葦津先生は、事態の打開のため何を考えていたのでしょうか。

 良識ある神道人に信頼して、まっとうな議論を喚起し、問題点を浮き彫りにする必要があると考えたのではないか、というのが私が想像するところです。議論には学問的な裏付けが必要です。学問は1人でするものではないというのが葦津先生の考えでした。

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