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憲法は宗教の価値を否定してはいない ──御代替わり儀礼違憲訴訟はどこまで正当か 1 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年12月23日)からの転載です

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憲法は宗教の価値を否定してはいない
──御代替わり儀礼違憲訴訟はどこまで正当か 1
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 今日は天皇誕生日です。今上陛下には宝算85、先帝に次ぐ歴代2位のご長寿となりました。そして、平成最後のお誕生日でもあります。

 お誕生日に当たり、例年どおり記者会見のお言葉が公表されました。平成27年以来、代表質問は一問のみとなり、今年は「現在のご心境」がテーマとされましたが、陛下はいつものように、まず災害の犠牲者や被災者に深く心を寄せられました。

 その上で、「譲位の日」まで、象徴天皇としての望ましいあり方を求めながら、日々の務めを果たしたいと仰せになり、即位後の道のりをさまざまに振り返られ、さらには国際化が進む国の将来への思いを述べられました。

 とくに、言葉を詰まらせながら、「人生の旅」を共に歩まれる皇后陛下をねぎらわれたことが印象的でした。よき伴侶の理解と協力が得られたからこそ、ご結婚以来60年のお務めがあるのでしょう。

 さて、お言葉にもありますように、来春、陛下は譲位され、新しい時代が始まりますが、この皇室の最重要事であると同時に、国の最重要事である皇位継承に冷水を浴びせるかのように、御代替わりの諸儀礼に国費が投じられるのは政教分離原則に反すると訴える違憲訴訟が起こされました。

 その主張はどこまで正当なのか、背景に何があるのか、しばらく検討してみたいと思います。


▽1 靖国訴訟との人的つながり

 報道などによれば、今月10日、退位の礼や即位の礼、大嘗祭に公金が支出されるのは憲法違反だとして、市民団体のメンバーら241人が、公金支出の差し止めと1人あたり1万円の損害賠償を求めて東京地裁に提訴しました。

 御代替わりの諸儀式は宗教的色彩が濃い。とくに大嘗祭は新天皇に神格を与える明白な宗教的儀式であり、他の宗教者・無宗教者を圧迫する、などというのが、その言い分のようです。

 訴状は公にされていませんので、正確な分析・検討は難しいのですが、幸い、いくつかの資料がありますので、ご紹介かたがた、吟味することにします。

 原告らは「即位・大嘗祭違憲訴訟の会」という市民団体を立ち上げています。原告らの媒体によると、10月に違憲訴訟の呼びかけが行われ、11月に会が立ち上げられました。

 呼びかけ人には、石川逸子(詩人)、鵜飼哲(フランス文学・思想研究者)、小倉利丸(元大学教員)、木村眞昭(真宗僧侶)、小林緑(国立音楽大学名誉教授)、桜井大子(女性と天皇制研究会)、佐野通夫(大学教員、教育学)、菅原龍憲(真宗僧侶)、辻子実(安倍靖国参拝違憲訴訟原告)、関千枝子(ジャーナリスト)、関谷興仁(作陶家)、菱木政晴(靖国合祀イヤですアジアネットワーク)、星出卓也(日本キリスト教協議会靖国神社問題委員会委員長)の名前があがっています(敬称略)。

 直接は無関係のはずの靖国訴訟とのつながりが容易に見て取れます。事務局は西東京のキリスト教会、新橋の法律事務所に置かれているようです。また、秋篠宮文仁親王殿下の先のご発言も追い風になっているようです。


▽2 天皇は「特別公務員」

 主張の中身ですが、訴訟への参加を募る呼びかけ文は、その冒頭でずばり、「天皇の『生前代替わり』に際して、私たちは税金を憲法に違反する諸行事に使わないよう、公費支出差し止め訴訟を起こしたい」と宣言しています。

 今回の御代替わりは、NHK社会部による「生前退位」報道に始まりました。非歴史的で異様な用語の使用はいまではマスメディアからほとんど消えていますが、呼びかけ文の「生前代替わり」という表現はなおのこと異様です。

 歴史的な皇室用語を拒否し、新語を創作・使用する背景には、長い皇室の歴史を受け入れようとしない偏屈さがうかがえます。原告らにとっての天皇とは何でしょうか。

 今回の御代替わりについて、「2016年の天皇の『ビデオメッセージ』に始まった『退位』騒ぎ」と口汚く表現していることにも、単なる「公費支出差し止め訴訟」ではないことを痛感させます。

 わずか1200字程度の文章で、多くのスペースを割いて批判されているのは、「退位」特例法の文体についてで、「不気味な条文」と指摘しています。「人間明仁を指すときは『天皇陛下』、制度上の役割を示すときは『天皇』としているかのようですが、法律なのに敬語が満載されています」というのです。

 逆に敬語を省略した原告らの文体は、古来の天皇のあり方を否定し、日本国憲法の規定に厳格な解釈・運用を要求しているようです。

 実際、文章は続いて、国事行為以外の天皇の行為は憲法原理からは認められない、公的行為など憲法上存在し得ない、逆に、天皇は特別公務員として憲法を尊重・擁護する義務を負うとたたみかけています。

「人間明仁」という表現にはいわゆる「現人神」天皇論への反発が見えます。原告らには天皇はあくまで「特別公務員」なのです。


▽3 宮中祭祀は「国の宗教的活動」なのか

 そのうえで、憲法には皇位継承の手続きが定められていない。それなのに、前回は123億円の膨大な税金が投じられた。皇室典範には即位の礼に関する具体的な規定はなく、大嘗祭については記載すらない。一連の儀式は政教分離・主権在民原則に反するもので、大阪高裁は「違憲の疑い」を明示した、と主張しています。

 そもそも憲法は「すべて皇室財産は国に属する」と定めており、皇室財産も関連経費も国民の税金だから、「天皇の生前代替わりに際して、このような憲法違反の行為に税金支出をさせないよう、公費支出差し止め訴訟(納税者訴訟)としてこれを問う裁判を起こしたい」というわけです。

 原告らには、悠久なる皇室の歴史への敬意は感じられず、優先されるのは日本国憲法の国民主権主義であり、政教分離原則ということになります。

 しかし大嘗祭とはいかなる儀礼なのか、大嘗祭の宗教性が否定できないとして、それは憲法が禁止する「国の宗教的活動」に当たるのでしょうか。宮中祭祀には教義はなく、教団もなく、宣教師もおらず、布教の概念すらありません。国民の信教の自由を侵しようがありません。

 また、憲法は宗教の価値を認め、信教の自由を保障しているのであって、宗教を悪と見なし、否定しているわけではありません。憲法学者の小嶋和司教授が指摘したように、憲法は宗教的無色中立性を国家に要求しているわけではないのではありませんか。

 いわゆる神道指令を発した占領軍でさえ、占領後期になると、神道形式による松平参議院議長の参議院葬(昭和24年11月17日)、皇室喪儀令に準じた貞明皇后の御大葬(同26年6月232日に斂葬の儀)、吉田首相の靖国神社参拝(同10月18日)を認めています。

 先の大嘗祭違憲訴訟では、最高裁は合憲判断を下しています。

 古代から続く皇位の継承は、皇室の最重要事であると同時に、国の最重要事であり、国費が投じられるのは当然でしょう。憲法や皇室典範に、皇位継承に関する規定が十分ではないというのなら、望ましい条文に改めるべきではないでしょうか。

 次回からはさらに詳しく探求したいと思います。
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30年前と状況は変わっていない ──「周回遅れ」神社関係者の御代替わり論議 4 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年12月16日)からの転載です

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30年前と状況は変わっていない
──「周回遅れ」神社関係者の御代替わり論議 4
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 この夏、御代替わりをテーマに、國學院大学で開かれた、神社本庁の研究大会の批判を続けます。今回は最終回です。

 その前に、前回のメルマガ(ブログ)のタイトルが誤っていました。正しくは「朝儀を復興させた近世と何でもありの現代の違い」です。失礼しました。

 さて、9月3日付神社新報の報道によると、浅山雅司神社本庁総合研究部長心得の報告、齊藤智朗國學院大学教授および松本丘皇學館大学教授の発題にひき続いて、共同討議が行われました。司会は茂木貞純国大教授で、まずコメンテーターとして武田秀章国大教授が発言しました。


▽1 「日本の伝統」とは何か

 武田教授は、前回の御代替わりを神社本庁職員として体験したこと、そのとき日本の伝統を評価する海外の声が多く聞かれたことを回想しました。

 そのうえで、御代替わりの諸儀式には「祈りの心、日本の国柄そのものがうかがえる」、「近代日本の建国神話の再現が近代の御代替わり」であるなどと解説しました。

 3点、指摘します、

 1つは、30年前の御代替わりは、けっしてよき先例ではないということです。

 前回の皇位継承は、昭和天皇の闘病と崩御に始まりました。武田教授もご存じのように、神社本庁では、陛下の平癒祈願のためタバコやコーヒーを断つ、尊皇意識に燃える職員が何人もいました。けれどももっとも肝心なときに、人には言えないような、純真な職員の努力を無にするような不祥事が起きました。しかし処分が行われたとは聞きません。

 もともと連盟方式で設立したのが神社本庁であり、人の和を尊ぶのは神社界のよき伝統ですが、よりにもよって重要な日に事件は起きたのです。臭いものにフタをする体質が、今日、世間的に指弾される醜態の原因となってはいないでしょうか。

 話はズレましたが、武田教授は何を「日本の伝統」とお考えなのでしょうか。宮内庁職員OBが証言しているように、当初は装束を着ることさえ高級官僚たちから強く批判されるありさまでした。平安期以来の践祚と即位の区別が失われるなど、多くの不都合も生じました。

 皇室の伝統を尊重して御代替わりの諸儀式を行うことができなかったのが前回の御代替わりであり、その悪しき先例を踏襲するのが今回の御代替わりです。そのことをなぜ指摘なさらないのですか。臭いものにフタせず、客観的、公正に歴史を評価すべきではありませんか。

 2点目は、御代替わりに現れている「日本の国柄」とは何を指すのでしょうか。

 釈迦に説法でしょうが、即位礼は唐風儀礼です。古代中国との交流のあと、いわばグローバル・スタンダードとして採用されたものです。世界基準の即位礼と国風儀式の大嘗祭がともに伝えられているということが「日本の国柄」だと仰せなのか、それとも別の意味なのでしょうか。

 唐風の即位礼が国の行事とされ、国風の大嘗祭が皇室行事とされるのは明らかに矛盾であって、「日本の国柄」とはほど遠いでしょう。

 3点目は、「建国神話の再現」という意味がよく分かりません。

 建国に際して、神勅にもとづいて、命の糧の稲がもたらされたという記紀神話を再現するのが、御代替わりの、とりわけ中心的な大嘗祭の意義だとお考えなのでしょうか。

 しかし、大嘗祭は稲の祭りではありません。大嘗宮の儀で、新帝が神前に供され、直会なさるのは、米と粟の新穀です。米だけではありません。

 神話だ、信仰だといえば、祭祀は宗教儀礼だということになり、憲法の規定に抵触する、国の行事にはふさわしくないという反対派の法論理を後押しすることにもなるでしょう。


▽2 「日本文化」とは何か

 武田教授はコメントのあと、さらに、次の御代替わりに際して、「神道に携わるものとして、どのような役割を果たしていけばいいか」と浅山、齊藤、松本三教授に質問しました。

 これに対して、浅山氏は、御代替わりという節目に際会した体験をしっかりと後世に語り継ぐこと、齊藤氏は、明治期に対外的なことを意識していたのを踏まえて、日本文化を対外発信すること、松本氏は、天皇の祭祀とそれを支える神社の公共性が重要であることなど、それぞれ回答がありました。

 2点指摘します。

 1つは、齊藤教授がいう、発信すべき「日本文化」とは何かです。御代替わりの諸儀礼は古代から続いていますが、歴史的変化も断絶もあります。とくに明治には近代法的に整備された一方で、大嘗宮の巨大化など国家主義的な変更が加えられています。

 前回は、アメリカを元祖とする日本国憲法の政教分離原則を優先する改変が行われ、今回はその悪しき前例が踏襲されることはすでに書きました。歴史的変遷を踏まえたとき、何をもって「日本文化」と理解されるのでしょうか。

 もうひとつは、松本教授のいう、天皇の祭祀と神社の祭祀との関係です。

 神社が天皇の祭祀を支えているというのは、具体的にどのような意味なのか、この記事では正確には読み取れません。全国の神社関係者が皇室をことのほか大切に思っていることは十分に理解されますが、尊皇意識はけっして神社関係者だけではありません。仏教徒もキリスト者も同様です。

 天皇の祭祀と神社の祭祀が直結していると仰せなら、違うでしょう。国全体を統合する天皇の祭りと地域や血縁の共同体、職能集団を前提とする各地の神社の祭りとは、基本的に異なるのではありませんか。


▽3 佐藤雉鳴氏の遺言に答えてほしい

 記事によると、フロアからも多くの質問等があり、最後にオブザーバーとして阪本是丸國學院大學教授が、「これまでの御代替わりは先帝の崩御が前提だった。平成の御代替わりは反天皇制との戦いだった」と回想したうえで、次のように語りました。

「『国家神道』云々を抜きにして、国民奉賛や神社奉幣などが天皇祭祀と直結していることを、堂々と話せる基盤が出来上がってきている。学問の深化や神社界の国民運動などによって、状況が変化している」

 たしかに、この30年で環境は変わりました。しかし手放しで喜ぶべき状況ではまったくないと私は思います。そして、問われているのは、30年前と同様、間違いなく「国家神道」です。その点では状況は変わっていないと私は思います。

 ある民族運動家の証言によれば、30年前、左翼陣営は、御代替わりを天皇制打倒の最大のチャンスとみて、あらゆるネットワークを動員し、あらゆる手をつくして取り組んだのでした。しかし「反天皇制」の目論見は成功しませんでした。

「天皇なんて、要らない」という彼らの主張はたしかに潰えましたが、天皇はいかにあるべきかという異なる次元の根本的問いかけが、天皇制の非伝統化、形骸化をもたらそうとしているのが現状ではないでしょうか。女系継承容認=「女性宮家」創設論議がまさにそれです。「戦い」はまだまだ終わっていません。

 今回の御代替わりは、象徴天皇のお務めとは何か、という今上天皇の問いかけに始まりました。ビデオ・メッセージには「祈り」はありますが、「祭祀」はありません。日本国憲法は、天皇は国事行為のみを行うと規定し、祭祀は国事行為とはされていません。天皇第一のお務めである祭祀は法的には天皇の私事とされています。

 それは結局、アメリカが戦前・戦中から軍国主義・超国家主義の源流と考えたらしい国家神道論を克服できていないからでしょう。アメリカは何を「国家神道」と考え、天皇の祭祀を私事に貶めたのか、満足のいく研究成果を、残念ながら私は読んだことがありません。

 研究者たちはいつまで経っても明治の歴史ばかりを追いかけ、本格的なアメリカ研究に取り組もうとはしません。阪本教授もその一人なのではありませんか。葦津珍彦はアメリカを研究目標と見定め、渡米し、調査を行いましたが、遺志を引き継ぐ人を私は知りません。

 以前、当メルマガ(ブログ)は、在野の研究者・佐藤雉鳴氏の「国家神道とは何だったのか」「神道指令とは何だったのか」「人間宣言とは何だったのか」を掲載しましたが、阪本教授は佐藤氏の遺言ともいうべき問いかけに応えることを拒否しています。

 いまからでも遅くはありません。お考えを改めていただくようお願いします。そうでなければ、御代替わり諸儀礼のみならず、宮中祭祀の正常化は当分、望めないでしょう。
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朝儀を復興させた近世と何でもありの現代の違い ──「周回遅れ」神社関係者の御代替わり論議 3 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年12月9日)からの転載です

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朝儀を復興させた近世と何でもありの現代の違い
──「周回遅れ」神社関係者の御代替わり論議 3
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 今夏、渋谷の國學院大学で、御代替わりをテーマに、神社本庁の研究大会が開かれました。その批判を続けます。

 前々回(当メルマガ9月17日付)は浅山雅司神社本庁総合研究部長心得の報告、前回(同10月8日付)は齊藤智朗國學院大学教授の発題を取り上げました。


▽1 朝廷の権威向上が図られた近代

 9月3日付神社新報の一面トップ記事によると、齊藤教授のあと、松本丘皇学館大学教授が登場しました。主題は「近世における朝儀の復興」で、先行研究にもとづいて、「後水尾天皇から後西天皇まで」「霊元天皇から東山天皇まで」「中御門天皇から桜町天皇まで」「光格天皇を中心とした近世後期」について解説しました。

 松本教授によると、中世以来、途絶えてきた朝儀が後陽成天皇の御代にいくつか再興されたものの、朝幕関係が不安定だったこともあり、継続は困難で、中断が余儀なくされました。その後、歴代天皇の事績によって、幕府との折衝などを通じて、諸儀式は復興していきました。

 とくに大嘗祭は、東山天皇の御代、霊元上皇によって再興されました。中御門天皇の御代では斎行されませんでしたが、つづく桜町天皇の御代にふたたび執り行われ、このとき将軍吉宗が朝儀に深い関心を持っていて、幕府が積極的だったことなどから、新嘗祭も再興されることとなりました。

 光格天皇の御代になると、内裏の再建に際して、老中松平定信などの尽力があり、平安期を思わせるような造営がなされました。とくに神嘉殿の再興では、御神鏡が奉安される内侍所の床が紫宸殿よりも高く設計されました。「天皇の敬神の御深慮が拝せられる」と松本教授は考察しています。

 そのほか、臨時祭が再興するなど、この時期、朝廷の権威向上が図られました。

 朝儀が復興した背景には何があったのか、松本教授によると、公家の有職家などが朝廷内で研究を進めていたばかりでなく、武家の世界でも水戸藩などで研究が進められていました。

 さらに、先行研究によると、天皇や公家のあいだで垂加神道の影響が指摘されているのですが、松本教授によると、具体的な解明には到っていません。

 最後に、近年の研究について、松本教授は、「朝廷と幕府との相互補完関係の維持という視点ばかりが強調され、結果的に、皇室における朝儀の意義が等閑に付されがちだ」と指摘しました。


▽2 批判の声すら上げない現代の研究者

 松本教授の発表は、オーソドックスな研究者らしいそつのないものでした。

 あえて批判するなら、「復興」の背景は何か、です。松本教授が説明する朝廷や武家で研究が進んだことの背後にある復興へのエネルギーとは何か、です。少なくとも記事からは、それが見えてきません。

 当メルマガで取り上げてきたように、近世の践祚式や即位礼・大嘗祭は民衆が自然体で拝観していたことが知られています。堅苦しい権威的なものとしてではなく、民衆の身近な存在としての朝儀が復興されたのには、広く民衆が支持する天皇制のあり方が強く意識されます。

 ひるがえって、近現代はどうなのでしょうか。あるいは今回の御代替わりはどうでしょうか。

 皇室の伝統の尊重が謳われながら、践祚という用語が消え、したがって践祚と即位の区別が失われ、代わりに退位の礼という前代未聞の儀礼が行われます。3日間にわたる賢所の儀を待たずに、践祚当日に朝見の儀は行われます。政府は祭祀については何も検討していません。

 代始改元は践祚同日改元にこだわり、新元号の事前公表が行われることとされています。御代替わりは国事とはされていません。もはや何でもありです。

 近世の朝儀復興を担った人びとなら、この現代の混乱ぶりをどう見るのでしょうか。現代の研究者たちは、政府のヒアリングに応じても、批判の声すらあげません。近世と現代と、何が違うのか、そもそも、松本教授が口に仕掛けたらしい、朝儀の意義とは何なのか、研究者の一人として、いかがお考えでしょうか。
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現代にふさわしい大嘗祭のあり方とは? ──秋篠宮文仁親王殿下の「大嘗祭」発言に思う [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年12月2日)からの転載です

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現代にふさわしい大嘗祭のあり方とは?
──秋篠宮文仁親王殿下の「大嘗祭」発言に思う
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 秋篠宮文仁親王殿下がお誕生日会見で、大嘗祭のあり方について、率直に疑義を示されたというので話題になっている。

 殿下は、大嘗祭は「ある意味の宗教色が強いもの」で、したがって「国費で賄うことが適当かどうか」と仰せになった。「宗教行事と憲法との関係はどうなのか」「やはり内廷会計で行うべきだ」「身の丈に合った儀式にすれば」というのが「私の考え」とのことである。

 関連質問に対してのお答えだが、殿下は以前からこのお考えを披瀝してこられたものらしい。

 ポイントは、大嘗祭の性格と政教分離原則との関係、大嘗祭の本来的あり方、皇族の意見と政治との関係、の3点かと思う。


▽1 大嘗祭は宗教的儀礼なのか

 まず指摘しなければならないのは、たいへん失礼ながら、殿下はどこまで祭祀をご存じなのかということである。

 たとえば、皇室第一の重儀とされる新嘗祭は、天皇陛下が神嘉殿の内陣でご親祭になるあいだ、皇太子殿下は隔殿で控えられる。けれども、ほかの男子皇族方は殿外でご参列されるのみである。

 秘儀とされる祭式は、天皇から皇太子へ一子相伝で伝えられるという。

 皇族方は大祭ならご参列だが、小祭ならご参列もない。もしや新嘗祭、そして大嘗祭の祭儀について、詳細をご存じないのではあるまいか。

 宮中祭祀の宗教性は外見的に見れば、誰でも感じるところであり、だとすれば、憲法の政教分離原則からすれば、とくに厳格主義に立つならば、殿下の仰せの通り、公金の支出には疑問を抱かざるを得ないかも知れない。

 けれども、とくに新嘗祭、大嘗祭は、そのルーツは遠く古代の宗教儀礼だとしても、むしろ国家儀礼としての意義を理解し、価値を積極的に見出すべきではなかろうか。

 政府は前回も、今回も、大嘗祭を「稲の祭り」と理解している。稲作の儀礼なら宗教行事といえる。だが、実際は「米と粟の祭り」である。稲作民の米と畑作民の粟による国民統合の儀礼と考えられる。けっして特定の宗教儀礼ではない。

 天皇の祭祀は特定の宗教ではないし、国民に信仰を強制する性格のものでもない。教義もないし、布教の概念もない。したがって国民の信教の自由を侵すわけではない。政教分離原則に反することはない。長く伝えられてきた貴重な文化財でもある。だとすれば、公金の支出は率先して認められるべきではないか。

 政教分離原則を厳格に考えることも理解できないわけではないが、どうしても原則をきびしく貫くのなら、ミッション系スクールへの助成金は違憲だろうし、長崎県が県をあげて推進した教会群の世界遺産登録運動は振り出しに戻さなければならない。

 御代替わりは国事そのものである。内廷のみで行われる国事などあり得ないと思う。


▽2 大嘗宮を宮殿の庭に建てられないか

 とはいえ、明治以後、巨大化した大嘗宮の規模などを考えると、殿下が仰せのように「身の丈にあった」「本来の姿」を再検討すべきではなかろうか。

 京都に都があったころ、哲学者の上山春平先生が指摘したように、大嘗宮は紫宸殿南庭に、大嘗宮の儀の7日前に着工され、祭りのあと、焼却された。

 明治末に登極令が定まり、そのあと行われた大正の大嘗祭では、大嘗宮の規模がかつてないほどに壮大になった。当然、大嘗宮は紫宸殿前庭では納まらず、仙洞御所の北側を拓き、設営された。

 江戸時代、115代桜町天皇の大嘗宮は東西16間、南北10間の柴垣をめぐらして設けられたというが、大正の大嘗宮は東西60間、南北60間を板垣で囲い、建てられた。

 岩井利夫・もと毎日新聞記者が『大嘗祭の今日的意義』で指摘しているように、近代の国家主義華やかなりしころの産物といえる。

 昭和の大嘗宮も平成の大嘗宮も、この大正の大嘗宮を前例として踏襲している。そして今回もである。当然、殿下が仰せの通り、「相当な費用がかかる」。工事も1週間で済むはずはない。

 いまどき世界に国威を誇示する必要はない。殿下が仰せのように、神嘉殿で、とはいわないが、宮殿の中庭もしくは前庭に大嘗宮を建てることは無理だろうか。聞くところによると、昭和宮殿は即位儀礼が宮殿で行われることを想定して、庭を広く設計された。

 しかし今回についていえば、すでに時期を逸している。陛下が「譲位」を仰せ出されたときに、御代替わりのあり方について、議論を始められなかったことが返す返すも悔やまれる。

 それと関連して、殿下のような皇族のご発言で、基本的な議論をしなければならないのはじつに不幸である。皇室は権力政治とは一線を画されるべき存在だからである。役所の都合に合わせて皇室を利用しておきながら、「聞く耳を持たない」官僚たちはきびしく批判されるべきではないか。今回のことはその結果である。

 次の御代替わりは陛下の御意思によって始まった。陛下はビデオ・メッセージで象徴天皇制度のあり方を問いかけられたが、主権者たる国民が十分に応えているとはいえまい。2000年の歴史を踏まえて、現代にふさわしい御代替わりのあり方を、私たちは真剣に追い求めるべきだろう。
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やっと巡り会えた見識ある改元論 ──大石眞京大名誉教授の論考を読む [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年10月14日)からの転載です

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やっと巡り会えた見識ある改元論
──大石眞京大名誉教授の論考を読む
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 久しぶりに優れた論考に出会いました。大石真京大名誉教授の「元号制度の諸問題」(「法律時報」1989年1月=『統治機構の憲法構想』2016年に所収)です。

 今日はこの大石論文のご紹介をしたいと思いますが、その前に直近の動きについて触れます。

 政府は12日の閣議で、「天皇陛下の御退位と皇太子殿下の御即位に伴う式典委員会」(委員長=安倍晋三首相)を設置を決定し、閣議後、初会合を開き、官房長官を本部長とする式典実施連絡本部を発足させました。これにあわせて、宮内庁は同日、大礼委員会を設置しました。

 公表された情報によると、式典実施連絡本部に出席した安倍首相は、会議の冒頭、「天皇陛下の御退位は約200年ぶりのことであり、憲政史上初めての出来事です」「天皇陛下の御退位と皇太子殿下の御即位が国民の祝福の中でつつがなく行われるよう連携を密にし、準備に万全を期してください」と挨拶しました。

 政府はあくまで「退位」と「即位」が分離した、皇室の伝統を顧みない、前代未聞の御代替わりを推し進めようとしています。もはや後戻りはできませんが、ほかならぬ保守長期政権下で、なぜこのような現象が起きてしまったのか、検証する必要があるでしょう。


▽1 改元は「皇室の大事」か「大権の施行」か

 さて、目下、私の問題関心は、御代替わりに伴う改元について、です。皇室の歴史と伝統を尊重しつつ、とりわけ改元日をいつに設定することがふさわしいのか、です。

 これまで見てきたように、平安期以降、践祚の翌年に代始改元が行われる踰年改元が続きましたが、明治42年の登極令は、一世一元の制とともに践祚同日改元を法制化しました。大石論文はこれを「古来の伝統をそのまま尊重したものというより、むしろ意識的な変更、新しい選択の産物であった」と解説しています。

 大正と昭和の改元は登極令にもとづいて行われましたが、大石先生によると、大きな相違がありました。

「大正」の場合は、首相が旨を受けて元号勧進の内容を有識者に作成させました。ところが、「昭和」では、内閣が元号案を提出する前に、宮内大臣の命を受けて、宮内省が勧進案を別途に検討し、これを首相に提出しています。「昭和」はこの宮内庁案に含まれていました。

 先生は言及していませんが、大正末期の人びとは、元号案作成への朝廷の歴史的な関わりを復活させようとしていたのでしょうか。

 その一方で、もうひとつ注目されるのは、改元詔書の副書です。新元号は践祚当日、首相以下、各大臣の副書を経て、詔書が作成され、官報号外に掲載されました。

 この場合、「皇室の大事」を宣告する詔書の場合は、宮内大臣と首相のみが副署することとし、「大権の施行」に関する場合は、首相および国務各大臣の副書が求められていました(「公式令」明治40年)。

 大正と昭和の場合は首相および各国務大臣の副書が行われていた、ということは、大石先生がご指摘のように、改元は「大権の施行」に関するもの、つまり「皇室の大事」たる宮務ではなくて、政務(国務)に属することと理解されていたことになります。改元が宮務法たる皇室典範および登極令に規定されていたにもかかわらずです。

 大石先生はそう解説したあとに、美濃部達吉の分析(『憲法撮要』1932年)を引用しています。

「元号を建つるはこと直接に国民の生活に関し、性質上純然たる国務に属することはもちろんにして、もとより単純なる皇室の内事にあらず。ゆえに、これを憲法に規定せずして、皇室典範に規定したるはおそらくは適当の場所にあらず。その皇室典範に規定せられたるにかかわらず、大正または昭和の元号を定めたる詔書が宮内大臣の副書によらず、各国務大臣の副書をもって公布せられたるは、けだし至当の形式なり」

 建元大権のことは皇室典範ではなくて、憲法に定められるべきものだというのが美濃部の考えのようですが、だとすると、現代憲法下ではこれをどう考えるべきなのでしょうか。朝廷が元号を定めたのは遠い過去の歴史に過ぎず、いまや改元の権限は当然、政府に属すると理解すべきなのかどうか。今度の御代替わりでは、政府は践祚前1か月の新元号事前公表を予定しています。新元号の決定は天皇から完全に離れ、政府が握っています。


▽2 踰年改元では遅いというのなら

 大石先生が論考のなかで説明しているように、さまざまな議論の末に、昭和54年に元号法が成立しました。問題点の1つはまさに憲法の国民主権主義との関係です。

 日本国憲法は国事行為以外の天皇の権限を認めていません。天皇の「建元大権」を現行憲法は否定しています。現行憲法下では改元の権限は国権の最高機関たる国会に属しています。そのうえで、どのような改元のあり方を国民は選択すべきなのでしょうか。

 大石先生は具体的な問題点をふたつ指摘しています。

 1つは、新元号の選定手続きです。政府の要綱では宮内関係者の関与は排除されています。制度的には、天皇は改元の政令を公布するのみです。

 先生は言及していませんが、「平成」の場合は、践祚後、新帝に改元案が示されたと伝えられます。その程度でいいのかどうか、皇室の歴史と伝統を活かす方法はほかにないものでしょうか。憲法上の限界があるとするなら、憲法自体を見直すべきですが、そのためには憲法の国民主権主義にまさる皇室の存在価値を国民が自覚できなければなりません。

 2つ目は、ほかならぬ改元の時期です。元号法の制定過程では示されず、現行の改元手続要綱にも言及がありません。

 大石先生によれば、大きく2つの考え方に分かれます。

1、改元の決定と施行を同時に行う。大正、昭和のように践祚即日決定、即日施行とする。

2、改元の決定・公布と新元号の施行時期を区別する。施行については、(イ)踰年改元と、(ロ)翌日施行とがある。

 大石先生は、1は改元決定に要する時間を考えると、先帝崩御の前に手続きを開始し、同時に新元号の遡及する日時を示す必要があるので、2の方式が妥当と考えられると説明し、そのうえで2の(イ)を明瞭に主張する所功教授の提案を紹介しています。

 所先生は、当メルマガでも書いたように、30年前、新元号をできるだけ速やかに決定・公布し、施行は翌年元日からとする「2段階方式」を主張していました。

 30年経ったいまも、傾聴すべき提案だと思いますが、大石先生は欠点も指摘しています。「1、2月といった早い時期に改元事由が生じた場合、残りの長い日月をずっと旧い元号で通すというのも、現在の国民生活には多少なじまないように感じられるから」です。

 今回は、大正、昭和、平成のいずれとも異なり、諒闇践祚ではなく、受禅践祚です。突然に改元事由が発生したわけではなく、準備期間は十分にありますが、それでも1の践祚同日改元となると無理が生じます。となると、選択肢は2になります。

 平成の場合は(ロ)の翌日改元でしたが、IT社会の現在となっては冒険的です。かつて所先生が提案された(イ)の踰年改元の方が現実的です。しかしそれでは遅すぎるというなら、即位の礼当日に合わせる第3の方法が考えられますが、大石先生はいかがお考えでしょうか。

 最後に申し上げますが、いまの時代、大石先生のような見識ある知識人はきわめて貴重です。しかしながら、その存在が広く知られているわけではありません。紹介した論考も読者が限られた法律雑誌だし、約30年後に出版された書籍も一般書店では容易には手に入らないでしょう。すでに秒読み段階となった今度の御代替わりですが、先生のような方に、もっともっと活躍の場が広がることが求められています。

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共有すべき問題意識が見えない齊藤智朗教授の発題 ──「周回遅れ」神社関係者の御代替わり論議 2 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年10月8日)からの転載です

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共有すべき問題意識が見えない齊藤智朗教授の発題
──「周回遅れ」神社関係者の御代替わり論議 2
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▽4 天皇祭祀と神社祭祀の一体化

 9月3日付神社新報によると、浅山神社本庁総合研究部長心得に続いて、齊藤智朗國學院大学教授が「近代における皇室制度と御代替」と題して発題しました。

 記事によると、発表のポイントは以下の通りです。

1、明治の即位礼・大嘗祭の特徴は、「復古」と「維新」の理念のもと、「伝統」と「近代」の両立が図られるとともに、近代国家形成に向けた、全国的で国民的な性格をもって斎行されたと捉えられる

2、岩倉具視らの尽力により、皇室典範をはじめとする近代の皇室制度が整備され、とくに践祚・改元・即位礼・大嘗祭・大饗・親謁を中心とする皇位継承儀式は登極令によって確定した

3、大正・昭和と平成の御代替わりには変更点があり、登極令附式に基づいて即位礼の際に立てられる「万歳旛」の意匠が改められ、「頭八咫烏形大錦旛」は掲げられず、代わりに「菊花章大錦旛」が用いられた

4、大嘗祭の教学上の問題として、「祭神」「神社─奉幣と祭祀」の2つがあり、祭神については、先行研究によれば、井上毅が草案を書き、伊藤博文名で発表された『皇室典範義解』が公的な注釈書としての性格を持つようになった。『大正天皇実録』『昭和大礼要録』などの公的記録にも、天照大御神とともに、「天神地祇」が記され、今日も政府の見解となっているとみることができる

5、神社については、古代以来の例にかんがみ、神宮および官国幣社への班幣が大正・昭和の御代替わりで実施されたが、平成の御代替わりでは勅祭社のみに限られた

6、これらは今後のあり方をめぐって、神道神学上の重要課題の1つといえる

7、神社奉幣や祭祀には古代以来の歴史的伝統があり、御代替わりと神社祭祀を通じた一体化が表されるものと捉えられる。したがって、御代替わりにおける天皇祭祀と神社祭祀との一体化を、今後、より明確にしていくことが教学的にも重要と考えられる


▽5 近代との違いは「万歳旛」の意匠程度か

 神社本庁の上杉千郷長老が最晩年、病の床で、「斎藤君、神社人を批判しなさい」と遺言されたのを胸に、以下、あえて批判させていただきます。

 齊藤教授は宗教学、近代神道史が専攻で、著書に『井上毅と宗教──明治国家形成と世俗主義』などがあります。井上毅といえば、近代日本の典憲体制、教育勅語渙発に中心的役割を果たした人物です。

 齊藤教授がご専門とする神道史の歴史理解について、間違いはないだろうと思いますし、あるはずもないでしょうが、歴史の専門家として、来春に御代替わりが迫ったいまこのときに、神社関係者が共有すべき問題意識とは何か、少なくともこの記事からは、見えてきません。

 明治維新後、欧米列強に抗して近代国家建設を急いだ日本が、皇室典範と憲法の二本柱による典憲体制を構築したのと、未曾有の大戦と敗戦のあと、宮務法の体系を失ったまま、平成の御代替わりを迎えたのとでは、議論の前提がまるで異なります。

 齊藤教授は、近代と現代の皇位継承儀式の違いについて、もっともっと具体的に踏み込んで語られるべきではないでしょうか。少なくとも記事からは、まだまだ抽象論議にとどまっているように私にはみえます。

 たとえば、近代以前と近代、戦後の皇位継承儀礼の違いは、記事にあるような、万歳旛の意匠の違い程度のものでしょうか。次の御代替わりを来春に控え、政府の基本方針もすでに定まっているときに、その程度の言及で済むのでしょうか。

 平安期以来の践祚と即位の違いが前回の御代替わりでは失われました。日本国憲法施行とともに発せられた依命通牒によって、登極令や皇室祭祀令による祭式は守られてきたはずなのに、前回は即位礼と大嘗祭の法的位置づけは区別され、大嘗祭は国の行事ではなく、皇室行事とされました。今回も平成の悪しき先例が踏襲されます。


▽6 国民統合のための天皇の祭祀

 なぜそうなのか、端的にいえば、大嘗祭ほか天皇の祭祀が日本国憲法が禁じる国の宗教的活動と認識されているからでしょう。剣璽渡御の儀などは非宗教的に改称されました。問題の本質は政教分離問題です。憲法問題です。

 次の御代替わりでは、譲位(退位)と践祚(即位)が分離されます。賢所の儀ほか登極令が定めた祭祀について政府はまったく検討もしていません。

 改元についていえば、近代の一世一元の制の確立とともに、登極令で践祚同日改元が定められ、今回も政府はこれを踏襲しようとしていますが、「平成」以降、天皇は元号の制定過程に関われずにいます。近代との制度的違いを、教授は指摘すべきではないですか。

 齊藤教授は、大嘗祭について、祭神論と神社祭祀との関連について言及し、天皇の祭祀と神社祭祀の一体化を明確にすることを訴えていますが、私には意味がよく分かりません。

 古代律令に「およそ天皇、即位したまはむときはすべて天神地祇祭れ」(神祇令)とされ、歴代天皇が大嘗祭、宮中新嘗祭において皇祖神ほか天神地祇を祀り、万民のために祈りを捧げられたのはなぜなのでしょうか。

 いま御代替わりの天皇の祭りが国事とされず、さまざまな干渉を受けているのはなぜなのか、それを学問的に解明せずに、天皇の祭祀と民間の神社祭祀との一体化などといえば、時代錯誤と思われないでしょうか。

 釈迦に説法でしょうが、天神地祇を祀る天皇の祭祀とそれぞれの神社の祭祀は基本的に異なります。祭神だけではありません。皇室の祭祀は天皇みずから神事を行われ、神社の祭祀は仲執持たる神職が司ります。神饌も異なります。稲作民の稲と畑作民の粟をともに捧げる大嘗祭は国民統合の祭りであり、各神社の祭祀は各共同体の祭りです。各共同体の天皇観、神観はけっして1つではありません。

 教学的に求められているのは、皇室と神社の祭祀の一体化ではなくて、仏教やキリスト教をも含めた国民統合のための天皇の儀礼について、正しく理解し、多くの国民と共有することではないでしょうか。

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「翌年元日」改元か、それとも「践祚の翌月」改元か ──30年で一変した所功先生「改元論」の不思議 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年10月7日)からの転載です

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「翌年元日」改元か、それとも「践祚の翌月」改元か
──30年で一変した所功先生「改元論」の不思議
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 平安時代以降、代始改元は践祚の翌年に行われる踰年改元が習わしでした。「同じ年に、臣下が二君に仕えるのは忍びがたい」(『日本後紀』)とされたからです。ところが、明治維新期に一世一元の制が採用され、さらに明治42年の登極令では「践祚ののちは直ちに元号を改む」(第2条)と明文化され、践祚同日改元に改められることとなりました。

 千年以上続いてきた踰年改元の制度が、どのような経緯で践祚同日改元に改められたのか、年号の歴史に詳しい所功先生の『年号の歴史』(増補版。平成元年)や共著『元号』(平成30年)を読んでみましたが、一世一元の制はともかく、践祚同日改元については説明が見当たりません。明治の皇室制度制定に「伊東巳代治が熱心に取り組んだ」と書いてあるだけです。

 所先生ともあろう方が、一世一元の制はまだしも、践祚同日改元には関心がないということなのでしょうか。そんなことはないだろうと思って、さらに調べていくと、意外な事実が判明しました。


▽1 井田敦彦論考が説明する「践祚同日改元」の歴史

 国会図書館調査及び立法考査局憲法課に井田敦彦さんという方がおられ、「改元をめぐる制度と歴史」(「レファレンス」2018年8月。国会図書館)や「天皇の退位をめぐる主な議論」(「調査と情報」2017年2月。同)などを書いています。

 国会議員の調査研究に資するのが国会図書館の設立目的ですが、菅官房長官が次の御代替わりに伴う改元を「5月1日を軸に検討」と表明したのが昨年暮れですから、改元制度の歴史に関する井田さんの論考は政府の表明のかなりあとにまとめられたことになります。

 政府の政策を調査面で基礎づけたいなら先後関係が完全に逆で、泥縄的ですが、たぶん調査の目的は別なのでしょう。

 今年5月になって、政府は来年4月1日に新元号を事前公表することを決め、これに対して保守系国民運動団体の日本会議関係者が強硬に異議を申し立てました。そのため政府は遅まきながら理論武装の必要に迫られたということではないでしょうか。

 それなら改元の時期はどのように決められてきたのか、明治の践祚同日改元は誰がどう決めたのか、井田さんはどう説明しているのでしょうか。

 井田さんの論考では、登極令に基づき、大正、昭和の改元は皇位継承の当日に行われたが、その理由としては、登極令は「すべて(践祚という)事実に従うものとなし」、践祚後直ちに元号を改めることとしたということ(上杉慎吉「登極令謹解」大正6年)、「天皇の御在位年間の記号となす趣旨を徹底せしめられた」(井原頼明『皇室事典』昭和13年)ということがいわれていると記されています。

 また、解釈として、「古例におけるごとく時日を稽(とど)め延ばすことを得ず」(登極令制定関係者である多田好問の『登極令義解』草稿)とされ、「天皇崩御の瞬間は、すなわち旧元号の終わりて、同時に新元号の始まる瞬間」であるので、「改元の詔書はつねに先帝崩御の瞬間にまで遡りてその効力を生ずべきもの」(美濃部達吉『憲法撮要 改訂版』1946年)とも解されていたというのです。

 目下、政府が進める践祚同日改元の理論的根拠となり得る分析といえます。


▽2 国会図書館で検索されない所先生の論文

 注目されるのは、古来の踰年改元を否定する新しい考え方が多田好問の『登極令義解』草稿に示されているということ、そして井田さんによると、驚いたことに、ほかならぬ所先生がそのことについて以前、雑誌論考に書いていると説明していることです。

 井田さんによると、多田好問の資料に言及した所先生の論考「昭和の践祚式と改元」が『別冊歴史読本』(1988年11月)に載っているということでしたので、国会図書館の検索エンジンで確認してみることにしました。

 ところが、おかしいのです。国会図書館オンラインで所先生の論考を検索しても、「データは見つかりません」という素っ気ない返事しか返ってきません。そんなことがあるんでしょうか。1988(昭和63)年11月に発行された同誌13巻20号が存在することは確かなのにです。

 巻号タイトルが「図説天皇の即位礼と大嘗祭」であることは突き止めました。ないはずの論考はこれに載っていそうです。さっそく雑誌を手に入れました。はたせるかな、所先生の論考は182ページから6ページにわたって掲載されています。なぜ国会図書館オンラインでは検索できないのでしょうか。

 さて、所先生の論考は、まさに明治の改革について説明しています。

 多田好問は御用掛の1人で、『岩倉公実記』の編纂者です。登極令制定に寝食を忘れて尽力し、『登極令義解』をまとめ上げました。その草稿(原本。大正3年)が宮内庁書陵部に伝存しており、最近、全文の複写を頒けていただいた、と所先生は解説しています。

 登極令制定者たちは、上古以来の所伝などを十分に調査したうえで、本義を活かしながら、近代国家に相応しい儀式次第を作り上げたといえるというのが先生の評価です。

 それなら、践祚同日改元について、先生はどうお考えなのかといえば、意外や意外なのでした。


▽3 登極令の「践祚同日改元」を杓子定規と酷評

 登極令第2条は践祚同日改元を定めていますが、所先生によれば、多田の『登極令義解』草稿には、「元号は天皇の一世を表示せらるるものたるを以て、よろしく践祚の後直ちにこれを改むべし。古例におけるごとく時日を稽延することを得ず」と説明しているのでした。

 これについて、所先生は、このような規定の仕方は、明治改元の際も、『皇室典範』制定時にもなかった考え方であって、天皇の在位期間イコール年号の実施期間とする杓子定規な解釈といわざるを得ないと厳しく批判しています。

 そして、登極令に基づく大正、昭和の改元をふり返り、践祚同日改元には無理が重なりやすく、慎重なるべき代始改元のあり方としては、必ずしも適当とはいえない。平安以来の伝統と国民の現実的便宜を考慮すれば、新年号は践祚後慎重に案を選び、審議を尽くして決定公布し、施行は翌年元旦からとする方がよいのではないか、と提案されています。

 所先生がこの論考を執筆されたのは昭和63年8月でした。いまから30年前は、先生は踰年元日改元を主張されていたわけです。だとすると、いま政府が新元号の事前公表、践祚同日改元を進めていることについて非難されてもいいはずですが、そうはなさらず、むしろ最近では、践祚日に新元号公表、1か月後施行に、お考えを一変されたように報道されています。

 先帝の御代に事前準備することは「不穏当」だと強く否定された先生としては、まさに君子は豹変す、です。むろん考えが変わるのが悪いことではありませんが、なぜ改めるのか、釈明されてしかるべきでしょう。みずからは政府批判を回避し、逆に政府攻撃に突き走る日本会議たたきに役割を見いだし、営業方針を転換したというようなレベルではないことを祈ります。

 最後に蛇足ながら付け加えると、多田好問の『登極令義解』草稿について、所先生は、平成元年に発行された『続・大嘗祭の研究』(皇学館大学出版部)で、約70ページにわたって詳しく紹介しています。これによると、多田は践祚同日改元について、正確には次のように記述しています。

「元号は天皇の一世を表示せらるるものたるを以て、宜しく践祚の後直ちにこれを改むべし。古例における即位の礼訖(お)わりたる後に元号を改められたるがごとく、時日を稽延することを得ず。これ一世一元の制を立てられたるの故を以てなり」

 少なくとも多田は、一世一元の制と践祚同日改元を表裏一体のものとして考えていたことが分かります。いずれも近代主義の産物なのでしょうが、所先生が仰せのように、杓子定規で無理が重なりやすい、この践祚同日改元が現代のIT社会に相応しいのか、がいま問われていると思います。

 歴史に埋もれていた資料を発掘し、紹介された所先生のご努力には心から敬意を表しますが、それならばなおのこと、践祚同日改元について、近著『元号』で、史的検証を加えるべきだったのではありませんか。

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5つの「改元日」。プラスとマイナス ──日本だけの無形文化財を後世にどう伝えるべきか [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年9月30日)からの転載です

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5つの「改元日」。プラスとマイナス
──日本だけの無形文化財を後世にどう伝えるべきか
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▽1 「二重権威」問題が避けられない政府の事前公表案

 政府は、来年5月1日に皇太子殿下が践祚(皇位継承)されるのと同時に改元するため具体的な準備を進めています。行政機関の情報システム改修には1か月を要するとされ、1か月前の4月1日に新元号を公表することを菅官房長官が会見で明らかにしたのは今年の5月でした。

 当初の予定では新元号の公表は今年夏とされていました。けれどもこれだと今上陛下と皇位を継承する皇太子殿下との「二重権威」が生じることが懸念されるとして、公表日を遅らせることとなりました。

 1か月前に公表されることになれば、官邸ほか各省庁のコンピュータ・システムや金融機関など民間のシステムの改修が余裕をもって進められ、5月1日午前0時にはスムーズに新元号に移行できると判断されたものと推測されます。

 しかしこの事前公表は大きな欠点を伴っています。「二重権威」問題がやはり避けられないことです。

 平安時代以降、践祚の翌年に改元する踰年改元が慣例となりました。延暦25(806)年3月に桓武天皇崩御ののち皇太子(平城天皇)が践祚され、当日に「大同」と改元されたとき、年内の改元では臣下は二君に仕えることになると批判されています。踰年改元はその後、「明治」まで続きました。

 今回は200年ぶりの譲位による御代替わりです。政府はすでに公然と改元の準備に取りかかっていますが、改元の権限は、本来、誰に帰属するのか、原則が問われています。

 古くはむろん朝廷内で改元作業が行われました。天皇の指示で、文章博士らが新元号案を選定し、公卿が侃々諤々の審議をしたのち、天皇に奏上し、決定されました。しかし武家の時代になると、幕府が介入し、主導するまでになりました。

 禁中並公家諸法度には「改元は、漢朝の年号の中から、吉例によって定めるべきこと。重ねて習礼に熟するようになれば、本朝先規の作法に沿って行うべきこと」とありますが、徳川家光は「年号は武家から定めることが当然」と発言していたといわれます。改元の費用は幕府が負担していました。

 明治42年の登極令では「元号は枢密顧問に諮詢したるのち、これを勅定す」(第2条)と定められ、天皇の諮詢に応えて、枢密顧問が審議し、天皇が決定することとされ、天皇の権限が回復されましたが、現行憲法下ではこうはいきません。


▽2 日本会議はIT技術論の裏付けを

 昭和54年の元号法成立後は、内閣総理大臣が有識者に新元号の候補の考案を委嘱し、内閣官房長官が検討・整理し、選定作業を進め、閣僚会議で協議し、閣議決定することとされています。

 つまり、改元の権限は政府にあります。憲法は天皇に国政上の権能を認めていません。

 元号法は「元号は、政令で定める」と規定しています。政令の公布は天皇の国事行為ですが、元号決定過程に天皇は関わりません。それでも前回は、政府発表の前に新元号が伝えられたといわれます。

 平成の御代替わりの前例を踏襲するといいつつ、前代未聞の新元号の事前公表を決めた政府に対して、案の定、保守系の国民運動団体である日本会議が異議を申し立てています。

 日本会議の提案は、新元号の事前公表はやめて、5月1日の践祚(即位)当日に公表・施行されるべきだというものです。新帝のもとでの公表は、原則論としては当然で、これだと「二重権威」問題を回避することができると考えられています。

 ただ、問題点が2つ指摘されます。今日のIT社会において実現可能かということです。IT技術論の問題です。

 1つは、システム改修に1か月かかるとされるのに、践祚当日にトラブルなく、速やかに移行できるのか、もうひとつは、前回、践祚当日の午後2時半に官房長官が「平成」を発表したように、5月1日の午後に政府が新元号を公表するとして、それから14時間以上もさかのぼってコンピュータ・システムを切り替えることは可能なのか、です。

 当日午前には皇居で剣璽渡御の儀(剣璽等承継の儀)、践祚(即位)後朝見の儀が予定されていますが、官邸や宮内庁のサイトはリアルタイムでは当然、「平成31年」と表示されます。これが午後になって、遡及的に新元号に切り替わることは可能でしょうか。

 この日の朝、区役所に婚姻届を提出した若いカップルがいたとして、婚姻届は「平成」のままですが、夕方に婚姻届受理証明書を申請したら新元号に書き換えられているのでしょうか。

 日本会議の関係者は「可能だ」と断言しています。なかにはITに詳しい方もおられるのでしょう。システム会社にお勤めの方もおられるかも知れません。それなら技術的な根拠が明示されるべきではありませんか。そうすれば、政府も納得して受け入れるはずです。

 さらにいえば、皇室ではなく、政府が新元号を選考し決定するという現行の国民主権的な改元の制度をこそ根本的に問題提起し、建設的な議論を喚起すべきではないでしょうか。その方が「美しい日本の再建」を掲げる日本会議に相応しいと私は思います。


▽3 便宜主義的な所先生の6月1日施行案

 日本会議案に批判的なのが、元号の歴史に詳しい所功先生です。先生は、5月1日公表、6月1日施行を提起しています。

 情報システム移行に1か月かかるという政府サイドの言い分を認め、改元の施行を1か月延期し、時間的余裕を与える提案は、政府関係者にはるかに受け入れられやすいものとなっています。

 しかし、先生が専門とする元号の歴史にとって、「1か月」にいかなる意味があるのでしょうか。私には単なる便宜主義としか映りません。IT技術がさらに進めば、「1週間」でも「翌日」でも可能になるという議論なら、歴史学は不要でしょう。

 明治以後、一世一元の制に改められ、明治42年の登極令以後、「践祚ののち直ちに元号を改む」こととされましたが、この改革を主導したという岩倉具視は、ほかならぬ所先生の著書『年号の歴史』によると、10人もの公卿たちが長時間、議論したという難陳の改廃とともに、「一世一元の制と為すの議」を建策し、これを裏付けるように「御即位之事」に関する覚書には「一、御即位同日改元、御一代御一号之事」と記されています。

 所先生は、「おそらく三月十四日(五箇条の御誓文)に近いころ、岩倉は半年後の御即位(即位礼)と同日に改元して、その機会に『御一代御一号』の方針を打ち出そうと考えたのであろう」と解説しています。

 結局、「明治」の場合、「御一代御一号」は定められましたが、「御即位同日改元」は実現せず、慶応4年8月27日即位礼、同9月8日改元となりました。踰年改元です。

 先生の著書では、明治の「御一代御一号」採用については説明されていますが、「御即位同日改元」の不採用については詳細が説明されていません。登極令で践祚直後の改元が定められたことについては、「伊東巳代治が(帝室制度の制定に)熱心に取り組んだ」と記述するにとどまっています。

 踰年改元の長い歴史や、明治の先人が即位礼当日改元を提唱したという史実、さらにシステム改修には一定の準備期間を要するという現実を考えるなら、所先生は、5月1日に新元号公表、10月22日の即位礼当日改元を提唱してもよかったのではないでしょうか。


▽4 即位礼当日改元なら即位日を歴史にとどめられる

 ただし、即位礼当日改元にも問題がないわけではありません。

 たとえば今回の場合、践祚当日改元であれ、1か月後であれ、即位礼同日改元であれ、践祚と同じ年に元号を改めることに変わりはありません。「一年にして二君有るに忍びざる」という踰年改元の精神に反します。

 国会図書館調査及び立法考査局の井田敦彦氏がまとめた「改元をめぐる制度と歴史」(2018年8月)によると、登極令が践祚当日改元を定めたのは、すべて践祚という事実を基準として考え、「天皇の御在位年間の記号となす趣旨を徹底せしめられた」からでした。

 かつてのように時日を引き延ばさず、先帝崩御の瞬間を新元号開始の瞬間とし、改元の詔書は先帝崩御の瞬間にさかのぼって効力が発生するものとされたというのです。

 この考え方に従えば、改元の時期を即位礼の日まで延期させるべきではありません。5月1日の践祚の日に改元は行われるべきだということになります。しかし既述したように、現実的ではありません。

 登極令による最初の事例となった「大正」の場合がそうでした。明治天皇の崩御は7月29日午後10時43分。しかし1時間15分あまりでは践祚の儀式すら不可能です。そこで「事実を基準」にせず、崩御の時刻を2時間遅らせ、翌日の午前0時43分崩御とされました。厳密に登極令に基づく改元は、歴史上、「昭和」のみということになります。

 即位礼当日に改元する方法は現実的で、制度化も容易であり、践祚の日ではなくて即位の日を歴史に留めることができる点で優れていると思われます。「平成」以後失われた、平安期以来の践祚と即位の違いを復活させ、明確化させることもできます。けれども、キリのいい日とは限らないという弱点があります。

 今回の御代替わり論議で、当初、元日案、4月1日案が提起され、結局、5月1日案に落ち着いたのは、区切りがいい日が暗黙の了解になっていたと考えることができます。

 とするなら、思い切って、翌年の元日に新元号を施行するというアイデアはどうでしょうか。かつての踰年改元の精神を生かすこともできます。IT業界もカレンダー業界も文句は言わないでしょう。

 ただ、5月1日の践祚に対して、翌年元日の改元はちょっと遠すぎるという反対意見は免れません。

 かつては東アジアの漢字文化圏で広く採用されていた年号制は、いまや日本だけの文化となりました。世界にまれな、千数百年続く貴重な無形文化財を後世まで引き継ごうと思うなら、国民はもっと知恵を絞るべきではないでしょうか。

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所功先生、いまさらの「政府批判」の真意 ──もしかして矛先は男系男子継承維持派に向けられている [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年9月24日)からの転載です

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所功先生、いまさらの「政府批判」の真意
──もしかして矛先は男系男子継承維持派に向けられている
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 新元号論議について、書きます。

 報道によると、9月22日、京都の大学を会場に開かれた、元号がテーマの公開シンポジウムで、敬愛する所功京産大名誉教授が、新元号の事前公表について「ルール違反」と指摘したとされます。先生が政府を批判されるとは、驚き桃の木です。

 記事によると、所先生の指摘は以下の通りです。

1、「平成」は来年4月30日の真夜中に終わるが、新元号がいつ決まり、発表されるかはたいへん重要だ。

2、皇位継承は5月1日午前0時であり、そのあと閣議が開かれ、政令を定め、天皇の署名捺印が求められるべきである。

3、ところが、政府が1か月前の事前公表を発表したため、「よろしくない」と批判が起き、混乱を招いている。

4、過去の例からすると、1か月くらいの猶予を置くことは不適切ではない。6月1日政令施行でもいいと思う。

 所先生が何を「ルール違反」と指摘したのか、記事ではよく分かりませんが、おそらく改元の権限はもともと新帝にあるのだから、「平成」の時代に新元号を決定し公表することは適切ではないと述べられたものと推測されます。

 皇位継承に先立つ新元号の決定・公表が不適切であるのはまったく仰せの通りで、異論はありませんが、手遅れともいえる今ごろになって、なぜ批判をなさるのか。真意はどこにあるのでしょうか。


▽1 践祚即日改元にこだわる政府

 これまでの経緯を少し振り返ってみます。

 次の御代替わりに関する日程は、昨年12月1日の皇室会議を経て、「4月30日退位、5月1日即位・改元」が同8日の閣議で決定されました。退位特例法の施行日が「4月30日」とされたからです。

 正確にいうと、以前、書いたように、皇室典範特例法はあくまで「退位」に関する規定であり、閣議の決定は特例法の施行日、すなわち退位(譲位)の期日のみでした。閣議後の会見で記者の質問を受けた菅官房長官はようやく「翌日即位」に言及し、改元については「5月1日を軸に検討したい」と述べたのです。改元に関する初めての言及とされます。

 まともに意見したいなら、このとき声を上げるべきですが、議論らしい議論は起きませんでした。践祚即改元など、まるで非現実的なのに、です。そもそも退位(譲位)と即位(践祚)と改元を整理せずに議論することが間違いなのです。

 明治42年制定の登極令では「践祚の後は直ちに元号を改む」(第2条)と定められていますが、昭和54年の元号法は「皇位の継承があった場合に限り改める」と一世一元を規定するのみで、「直ちに」はありません。したがって、法律上、践祚即日改元にこだわる理由はありませんし、事実、「平成」は翌日改元でした。

 政府はその後、「退位の翌日即位・改元」「即位当日改元」の既成事実を積み上げていきましたが、どだい、無理があるのです。それはIT社会の壁です。5月1日に改元するなら、総理官邸ほか各官庁のコンピュータ・システムを新元号に切り替えるには準備期間がどうしても必要です。

 案の定、今年5月、政府は新元号を改元1か月前の4月1日に公表することとし、準備を進めることを決定しました。システム改修には1か月かかるという判断からです。

 こうして法律上やむを得ないならいざ知らず、法的制限があるわけでもないのに、歴史上認められてきた新元号決定の権限を、新帝から奪うことになったのです。そもそも元号法には「元号は政令で定める」とあるばかりで、主体は不明確ですから、容認されると政府は考えているのかも知れません。


▽2 日本会議の「践祚即日改元」に反対

 新元号の事前公表は所先生が仰せの通り「ルール違反」というべきで、まったく正しいですが、なぜ今ごろになって先生は異議を申し立てるのでしょうか。

 政府は今年1月から準備委員会を3回にわたって開催し、その間、有識者によるヒアリングも行われました。4人のうちの1人が所先生でした。

 ヒアリングのテーマは退位と即位の式典に関するもので、改元ではありませんでしたが、元号に詳しい数少ない有識者の一人であるからには、「即日改元」に無理があることを政府に対して指摘すべきだったのではないでしょうか。

 しかしそうなさらないのは、先生には政府の政策を批判するという発想がもとよりないからかも知れません。先生の批判はおそらくほかに向けられているのでしょう。

 政府が「4月1日公表」を決定したあと、保守系の国民運動団体である日本会議は事前公表に強く反対する姿勢を示すようになりました。所先生の批判はこの日本会議に向けられているのではありませんか。

 女性天皇のみならず歴史にない女系継承をも容認する先生としては、これに強力に反対する日本会議はともに天を戴かざる仇敵です。これまで厳しい批判にさらされてきた先生の意趣返しでないことを祈りたいものです。

 日本会議は新帝即位の5月1日当日に新元号公表、即日施行を主張しています。先生の場合は当日公表までは同じですが、1か月後の6月1日施行を提案しています。新元号の事前公表反対で両者がまとまるならいいのですが、そうはいかないのでしょう。

 不思議なことに、いやむしろ、であればこそというべきか、日本会議も所先生も、もっとも肝心なIT技術論が欠落しています。


▽3 「即日改元」が行われたのは昭和の一例のみ

 所案は、改元の準備を進める政府関係者にとっては、1か月の延期ですから、それだけ時間的余裕が与えられるわけで、むしろありがたい提言です。日本会議案よりははるかに受け入れやすいといえますが、これもまた「ルール違反」ではないでしょうか。

 所先生は歴史家であり、とくに元号の専門家でもありますが、歴史上、女系継承がなかったのと同様、践祚後1か月後の改元というような歴史はないはずです。歴史的根拠を欠く提言をなさる意味がまったく理解できません。

 先生が執筆した『年号の歴史』や『元号』を読むと、延暦から大同への改元のことが書いてあります。延暦25年3月に桓武天皇が崩御され、皇太子(平城天皇)が践祚した当日に改元されたことを正史『日本後紀』は、先帝崩御の翌年に改元すべきだ、年内改元は二君に仕えることになる、と異例の批判を行っているとあります。

 奈良時代には践祚同日改元が4例あるようですが、延暦以後、年内改元を控え、翌年に改元する「踰年(ゆねん)改元」という考えが一般化しました。

 蛇足ながら、ある保守派の識者は、即位礼当日改元を提言する私に、「1年後なんてあり得ない」と切り捨てましたが、踰年改元を知らないのでしょう。皇室の歴史を知らない尊皇派人士が即日改元を主張しているのです。

 それはともかく、明治の改元も踰年改元でした。けれども、明治42年の登極令で即日改元が法制化されます。過去にない新例が開かれたのです。

 しかし実際に即日改元が行われたのは昭和の一例のみです。


▽4 「即位礼当日改元」を建策した岩倉具視

 明治の初年には一世一元の制が定められました。岩倉具視の建策によるとされますが、岩倉の文書には「御即位同日改元」とあり、明治天皇の即位礼当日に改元し、同時に一世一元の制を確立しようとしたというのが所先生の説明です。

 既述したように、結局、明治の改元は踰年改元でした。一世一元の制は定められましたが、法制化は42年制定の登極令まで遅れました。明治22年の皇室典範制定では元号に関する議論が行われていないようです。

 登極令の制定は、宮内省の臨時帝室制度取調局で行われ、伊東巳代治副総裁が熱心に取り組んだと所先生は説明しますが、なぜ践祚当日改元という新例が開かれたのか、残念ながら、先生の著書には解説が見当たりません。

 しかも最初の事例となったはずの「大正」の場合、明治天皇の崩御は「午後10時43分」(『昭和天皇実録』)でしたが、日付変更まで1時間余りでは改元の手続きができないことから、崩御の時刻は翌日の「午前0時43分」(『明治天皇紀』)と、2時間遅らせることとされました。法律より現実が優先されたのです。

 所先生が提唱する、古来の歴史にない、近代にもない「践祚1か月後改元」とする根拠は何でしょうか。「1か月ぐらいの猶予を置くことは不適切ではない」程度のことでは、不十分です。日本会議が提案する「践祚即日改元」は現実的に無理として、岩倉具視の建策にある「即位礼当日改元」ではいけませんか。

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登極令に準じた即位大嘗祭の挙行をなぜ訴えないのか ──「周回遅れ」神社関係者の御代替わり論議 1 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年9月17日)からの転載です

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登極令に準じた即位大嘗祭の挙行をなぜ訴えないのか
──「周回遅れ」神社関係者の御代替わり論議 1
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 全国約8万社の神社を包括する神社本庁の研究大会が8月下旬、國學院大學で開かれました。テーマは御代替わりです。

 尊皇意識が人一倍高いだろう関係者たちが真剣に研究し、意見交換しようとする姿勢には、心から敬意を表しますが、皇位継承を来春に控え、すでに政府の基本方針も定まり、概算要求の時期を迎えたときに、いまさら研究会ではないだろうと正直、思いました。

 対応があまりにも遅すぎるのです。まるで周回遅れのトラック競技を見ているようで、切なささえ感じます。リーダーシップをとれる人材がいないのでしょうか。もしいないのなら、育てるべきだし、それでも足りないなら、外部から招聘すべきです。

 神社本庁長老の上杉先生が最晩年、病室で私の手をかたく握り、「神社人を批判せよ」と遺言されたのを昨日のことのように思い出しつつ、以下、蛮勇をふるって、率直な感想を書かせていただきたいと思います。

 なお、これは神社界の「広報紙」(機関紙ではない)とされる「神社新報」9月3日号の一面トップに掲載された記事、つまり記者の目を通した二次情報に対するものであることをあらかじめお断りしておきます。もちろん、批判のための批判ではありません。


▽1 現状に関する報告

 一面の大半を占める記事によると、研究会は、「御代替わりに関する現状について」と題する浅山・神社本庁総合研究部長心得の報告で始まりました。

 報告のポイントは以下の通りです。

1、退位特例法の成立・公布のあと、神社本庁および関連機関が「基本姿勢」などをそれぞれ発表した。

2、宮務法について、歴史を踏まえて皇室の伝統を明文化したものであることに鑑み、失効しているとしても、現在も基本にするべきことを解説した。

3、特例法の「退位」は「譲位」とするのが適切である。宮務法に「譲位」はないが、光格天皇の例を参照すべきだ。

4、大嘗祭は、「一世に一度のきわめて重要な伝統的皇位継承儀式」などとする平成の御代替わりでの閣議口頭了解を、今回も政府が踏襲すると明記していることを確認した。

5、政府が大嘗祭を「公的性格・公的色彩を有するその他の行為」とし、新嘗祭など宮中祭祀が「それ以外のその他の行為」とされていると指摘し、「大嘗祭と新嘗祭の違いは何か。新嘗祭をどう考えるか」と指摘し、宮中祭祀の扱いについて声を上げていく必要を訴えた。


▽2 依命通牒をもしご存じなら

 よく分からないのは、突然、記事に現れる2の「宮務法」です。

 おそらく明治憲法下の登極令など皇室令を指すものと思いますが、そうなると「失効しているとしても……」が意味が通じません。

 たしかに日本国憲法の施行とともに、旧皇室典範以下皇室令は全廃され、宮務法の体系は失われましたが、当メルマガの読者ならご承知の通り、同日に宮内府長官官房文書課長名による依命通牒が発せられ、第三項「新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて」によって、祭祀の形式などは守られてきました。

 平成3年に宮内庁高官がこの依命通牒について、「廃止の手続きを取っていない」と国会で答弁していますから、「失効しても、基本にすべき」ではなくて、当然、基本にされなければなりません。それが法治主義というものです。

 ただ、宮内庁は依命通牒の解釈運用を昭和50年に変更しています。平成の御代替わりが登極令そのままに御代替わりが進められなかったのはそのためでしょう。国会答弁では「三項と四項をあわせ読めば」と説明されています。

 浅山氏はそのことを指摘すべきだったと思います。もしご存じならば、です。

 3の「譲位」とすべしという主張はもっともですが、近代以降、譲位が認められてこなかったことについては、少なくとも記事には、指摘がありません。

 光格天皇の事例が参照されるなら、政府が進める退位と即位の分離などあり得ません。退位の礼などあり得ません。

 政府は、光格天皇の事例について検討しています。「貞観儀式」も参照していますが、きわめて不十分です。なぜか一条兼良の「代始和抄」は検討の対象にされませんでした。浅山氏はそこを指摘すべきだったでしょう。


▽3 大嘗祭とは何か

 4および5の大嘗祭についてですが、そもそも政府は天皇の祭祀を宗教的活動だと認識しており、ここに最大の問題点があると思われます。

 御代替わり全体が国事とはされず、大嘗祭は宗教的活動だけど、公的性格があるから公金(内廷費ではなく宮廷費)を支出するといっているに過ぎません。

 神社人は、御代替わりの諸行事すべてが国事であり、大嘗祭はもっとも伝統的な中心行事であることを訴えるべきでしょう。

 依命通牒が廃止されていないなら、登極令に準じて、附式に則って、即位大嘗祭は挙行されなければなりません。浅山氏はそこを指摘すべきではないでしょうか。

 また、浅山氏は、大嘗祭と新嘗祭など宮中祭祀の違いを指摘されましたが、宮中祭祀でも宮中三殿での祭祀と神嘉殿での新嘗祭では、祭神や神饌が異なります。三殿での新嘗祭と神嘉殿の新嘗祭でも神饌は異なります。

 とくに大嘗祭および宮中新嘗祭は、皇祖神ほか天神地祇に稲作民の米と畑作民の粟をともに捧げて祈る国民統合の国家的儀礼であって、宗教的活動の範疇を超えたものであることを主張されるべきではないでしょうか。

 宮中祭祀の扱いについて、「斯界が声を上げる」のは立派なことですが、祭祀の内容と意義についていっそう深く探求すべきでしょう。(つづく)
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