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国連女性差別撤廃委が「皇位の男系継承」の改正を勧告 [天皇・皇室]


報道によると、国連の女性差別撤廃員会(CEDAW)が昨日(2024年10月29日)、日本政府への勧告を含む「最終見解」を発表したという。皇位継承を「男系男子」に限定する皇室典範の改正を勧告しているというから穏やかではない。
https://digital.asahi.com/articles/ASSBY4417SBYUTIL01DM.html

朝日新聞の報道では、「男系男子」継承を定める皇室典範について、「委員会の権限の範囲外であるとする締約国の立場に留意する」としつつ、「男系男子のみの皇位継承を認めることは、条約の目的や趣旨に反すると考える」と指摘し、「皇位継承における男女平等を保障するため」に法改正するよう勧告した。政府側は17日の審査で、「皇位継承のあり方は国家の基本に関わる事項であり、女性差別撤廃条約に照らし、取り上げることは適当でない」と反論していたと伝えている。


◇1 天皇の制度を認めることは「平等」概念とは別なのに

さっそく同委員会のサイトを開いてみた。
https://tbinternet.ohchr.org/_layouts/15/treatybodyexternal/TBSearch.aspx?Lang=en&TreatyID=3&CountryID=87

今月24日づけの「最終見解」(Concluding observations)は、「E. 主な懸案事項と推奨事項」の2番目に、「女性差別の定義と差別的法律」の小見出しのもとで、次のように記述している。

11. The Committee notes the absence of a comprehensive and explicit definition of discrimination against women, covering both direct and indirect discrimination against women in the public and private spheres, in line with article 1 of the Convention, resulting in inconsistencies in legal interpretations and enforcement. It also takes note of the State party’s position that the provisions of the Japanese Imperial House Law are not within the purview of the Committee’s competence. However, the Committee considers that allowing only male offspring in the male line belonging to the Imperial Lineage to succeed to the throne, is incompatible with articles 1 and 2 and contrary to the object and purpose of the Convention. The Committee also notes with concern that several of its previous recommendations regarding existing discriminatory provisions have not been addressed, in particular:
(委員会は、条約第1条に則り、公的および私的領域における女性に対する直接的および間接的な差別を対象とする、女性に対する差別の包括的かつ明確な定義が存在しないことに留意するとともに、法解釈および執行に一貫性が生じていることに留意する。委員会は、日本の皇室法の規定が委員会の権限の範囲内にないという締約国の立場にも留意する。しかし、委員会は、皇統に属する男系の男子だけに皇位を継承させることは、第1条および第2条と両立せず、条約の目的と目的に反すると考える。委員会はまた、既存の差別的規定に関するこれまでの勧告のいくつかが、とくに取り組まれていないことにも懸念とともに留意する。)

たしかに日本国憲法は「世襲」を定め、皇室典範は「男系の男子が継承」と規定している。歴史を振り返れば、8人10代の女性天皇が存在し、女性天皇・女系継承が否認されたのは明治以後のことである。それはヨーロッパ王制に学び、終身在位制が採用された結果である。譲位が認められない近代の継承制度では、女子の継承は「万世一系」の「王朝の支配」を崩すことになるからだ。

とすれば、なぜ悠久なる皇室の歴史に変更を加えてまでして、「女性差別」を撤廃し、「ジェンダー平等」を実現しなければならないのだろうか? 皇室典範は一方で、皇后や皇太后が摂政に就任することを認めている。民間から入内した女性でも、摂政となれる。これは「差別」であろうか?

そもそも天皇という国民から超然たる法的地位を認めることは、「法の下の平等」とは異次元の世界を法的に認めることであろう。したがって、「平等」概念とは異質であるはずの「皇位継承」に、「平等」概念を持ち込むことは矛盾も甚だしい。委員会のメンバーはそうは思わないのだろうか?


◇2 喜びに沸く「愛子さま」応援団と「スルーして良い」と強気の男系派

委員会のサイトを見ると、9回目となる今回の定期報告に関連して、日本政府のほかに、さまざまな団体等から文書の提出があったことが分かる。そのなかで、「愛子さまを皇太子に」と応援する団体からの情報提供が目を引いた。

どうやらオンラインで署名活動を展開する団体らしいのだが、文書の冒頭は次のように始まっている。

We would like CEDAW to know Japan’s Imperial succession rule is still standing on serious gender discrimination. Japanese are living in a country where “women” cannot be the emperor, the symbol of Japan!
(女性差別撤廃委員会(CEDAW)には、日本の皇位継承制度が依然として深刻な性差別に基づいていることを知ってもらいたいと思います。日本人は「女性」が日本の象徴である天皇になれない国に生きている!)

In my opinion, this is because the Japanese government (dominated by LDP politicians with a very large percentage of older men) is strongly biased against gender discrimination.
(これは、日本政府(自民党の政治家が支配し、年配の男性が非常に高い)が性差別に対して強い偏見を持っているからだと思います。)

文書は、現行制度を「性差別」と断定し、その原因は「自民党政府の偏見」にあると決め付けている。ただそれだけである。初代神武天皇以来、126代にわたって、皇位が男系で紡がれてきた意味を謙虚に考えようとする姿勢はない。そして、委員会が陳情を取り上げてくれたと喜びに沸いている。思索に深みがない。
https://voice.charity/events/784/reports/6858

それなら男系派はどうなのか? 報道では、今月14日、同委員会の会合に参加した「皇統を守る国民連合の会」の葛城奈海会長が、「天皇は祭祀王だ」「内政干渉すべきでない」と、わずか35秒の持ち時間のなかで訴えたという。
https://www.sankei.com/article/20241021-Q5TNNZP64VCY5OX7MX7CSWAU4M/?492464

35秒といえば、早口で話しても、400字詰めの原稿用紙1枚分にもならない。皇統はなぜ男系主義なのか、そこにどんな価値を日本人は見出してきたのか、説明することは至難であろう。わざわざ遠くジュネーブにまで出かけて、会合に参加し、発言の機会を得たことは、大きな意味があったのは間違いないが、委員会のメンバーの心にどこまで響いただろうか?

報道によれば、葛城会長は委員会の勧告について、「毅然と『国家の基本』を継承していく姿勢を貫くべきだ。勧告はスルーして構わない」と語ったという。強気の姿勢は立派だが、さらなる一歩を期待したい。
https://www.sankei.com/article/20241030-GK34WBNKHJEI7CI6XA3Y5HFGSU/




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池上彰先生がポチを演じる理由──先帝陛下の「長い天皇の歴史への思い」に気づかない(令和6年9月8日) [天皇・皇室]

◇1 政府・宮内庁の広報マンもしくは解説者

池上彰先生の「皇位継承」論について検証を続けます。テキストは東洋経済オンラインに載った『池上彰が説く「女系宮家」という選択の現実味──皇位継承を確保するための諸課題』(2018/08/08)です。

前回までを簡単におさらいすると、池上先生の「皇位継承」論は政府・宮内庁の論理を単になぞっているだけのように見えます。さながら政府・宮内庁の広報マンもしくは解説者ということです。なぜそうなってしまうのでしょうか?

先生のエッセイは冒頭、平成28年8月8日の先帝陛下のビデオメッセージから説き起こされています。陛下の「おことば」は「象徴としてのお務めについて」と題されているように、高齢化による御公務御負担への苦悩が表明され、「お務めの安定」を願いつつ、「譲位」の意思が示されたのでした。ところが、池上先生のエッセイでは「皇室の将来」の展望ヘとすり替わり、「女性宮家」創設についての検討へと議論が展開されていきます。

このすり替えの論理こそ、政府・宮内庁の「女性宮家」創設論そのものでした。御公務の御負担が重いのなら、軽減策を図れば済むことです。実際、軽減が図られ、しかしみごとに失敗し、そしてビデオメッセージの「譲位」表明へと進んでいったのです。

そして「女性宮家」創設です。先生が仰せのように、「退位に関する特例法」の「附帯決議」には「安定的な皇位継承を確保する」ための「女性宮家の創設」が明記されています。しかし少し考えれば分かることですが、「皇位継承」と「女性宮家」は本来、無関係です。ところが先生は、政府・宮内庁と同様、126代の天皇がなぜ男系継承なのかを追究することもなく、女系継承容認の是非へと論理を飛躍させ、さらに皇族減少対策の検討へと話題を進めていくのでした。


◇2 民主党政権と安倍政権との安易な対比

池上先生は、野田内閣、さらに安倍内閣の動きにも言及しています。

いわく、2011年、民主党の野田佳彦内閣では、女性宮家の創設が検討されたが、主な焦点は女性天皇や女系天皇の容認ではなく、皇族の減少対策だった。皇族が減少すると公務が続けられなくなるため、女性宮家を設立し、皇族の安定を図ることが提案されたが、法案にはまとまらなかった。議論の中で、女性宮家の範囲や財政的な問題も浮上したが、安倍内閣が反対の立場を取ったため、議論は進展しなかった。

先生はここで何を言いたいのか、私にはさっぱり理解できません。民主党政権は開明的で、「女性宮家」創設に積極的だったけれども、安倍政権は頑迷固陋で、これを押さえつけたとでもいうのでしょうか? まったく安易な対比ではありませんか?

なぜなら、平成以降、女性天皇・女系継承容認推進のきっかけとなったのは、7年9月に自民党総裁選で小泉純一郎議員(のちの首相)が「女性が天皇になるのは悪くない」と発言したことだったし、その後、容認論を陰に陽に進めてきたのは官僚たちでした。官僚が陰で糸をひき、御用学者やメディアとのトライアングル体制によって、世論を巻き込みつつ、展開されてきたのが女帝・女系継承容認=「女性宮家」創設論であって、政治家たちが主導してきたわけではありません。

民主党が16年夏の参院選で、「女性の皇位継承」容認をマニフェストに掲げたのは事実だし、羽毛田長官が民主党政権に働きかけたのも事実のようですが、より正確にいえば、長官は政権が代わるたびに現状報告を行ったというのが真相であり、官僚が権力ににじり寄るのは世の常です。

安倍総理をウルトラ保守主義者のように見なすのは自由ですが、実際のところ、官房長官時代には「憲法第2条に規定する世襲は、天皇の血統につながるもののみが皇位を継承するということと解され、男系、女系、両方が含まれる」と国会答弁しています(18年1月27日の衆院予算委)。単に血がつながっているというのが「世襲」なら、「女系」も容認されます。令和の大嘗祭で、悠紀殿や主基殿は板葺き、膳屋はプレハブにと、皇室の歴史と伝統にない変更が加えられたのは、まさに安倍政権の所業でした。


◇3 「皇位は世襲」だから女系が認められるのか?

池上先生は、旧宮家の皇籍復帰案に言及し、国民の7割が反対しているから、現実的ではないと斥けていますが、そもそも皇位継承問題は国民が介入すべきことでしょうか?

先生はまた憲法論に立ち返り、第1条は天皇の地位が「国民の総意」に基づくと規定し、第2条は「皇位は世襲」と定めているから、皇室典範を改正し、女性天皇・女系継承を認めることは可能だと指摘しています。

要するに、池上先生は126代続いてきた皇位継承のあり方を拒否し、その根拠を現行憲法の主権在民主義においているということでしょう。現行憲法の公布・施行によって、正統性が断絶されたという考え方なのでしょう。

しかしこうした考え方について、たとえば小嶋和司・東北大教授(憲法学、故人)は疑問を投げかけています。1つは、まさに「世襲」です。憲法は「皇位の世襲」を規定し、伝統を尊重しているからです。

「世襲」は、もともとdinasticの和訳であり、「王朝の支配」を意味します。古来、姓を持たず、家なき家として、公正・中立のお立場で、国と民をひとつにまとめ、統治してきたのが皇室です。それが、女帝ならいざ知らず、女系継承までが容認されたとき、同一の王朝として認められるでしょうか? 「憲法上問題ない」と言い切れるでしょうか?

126代続く皇統は男系ですが、なぜ池上先生は男系の絶えない制度を考えようとしないのでしょう。百人一首に親しみ、桃の節句に内裏雛を飾り、源氏物語の世界に思いを馳せる日本人が支持しているのは、「2.5代」象徴天皇制ではないはずです。


◇4 先帝の「おことば」への一面的な理解

池上先生は、エッセイの最後を、再度、先帝の「おことば」を引用し、締めくくっています。すなわち、陛下は「象徴天皇の務めが安定的に続いていくこと」を願っているのだから、国民もまた天皇・皇室の将来をしっかり考えるべきだと訴えているのですが、一面的といえませんか? 陛下は、けっして「象徴天皇」の伝道師でも、護憲派政党のシンパでもないからです。

それはほかならぬ陛下の「おことば」が証明しています。

たとえば、平成21年11月、御即位20年の記者会見では、「長い天皇の歴史に思いを致し,国民の上を思い,象徴として望ましい天皇の在り方を求めつつ,今日まで過ごしてきました」と語られています。陛下はつねに、皇室の歴史と憲法の理念の両方を尊重してこられたのです。

池上先生の「皇位継承」論には「長い天皇の歴史」が抜けています。だから、政府・宮内庁のポチを演じることになるのです。男系で続いてきた悠久の歴史に思いを馳せるなら、「女性宮家」創設などあり得ません。

タグ:池上彰
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神道学への疑問。なぜ「粟」の存在が見えないのか? [天皇・皇室]

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神道学への疑問。なぜ「粟」の存在が見えないのか?
(令和4年12月4日、日曜日)
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新嘗祭・大嘗祭は明らかに「米と粟の祭り」である。先々週、宮中の聖域で行われた新嘗祭で、陛下は神前に「米と粟」の新穀を供饌され、直会されたはずである。神事のあり方は古来、変わっていないはずである。

ところが、正確な情報を社会に提供しているはずの神社検定の公式テキストや著名神社の宮司を歴任した神道学者までが、新嘗祭=「稲の祭り」説に固まっている。そのため、前回、書いたように、これらを参考文献とするSNSもまた、「稲の祭り」説に終始することになる。いまやSNSの時代だとすれば、これは看過できない。

何年か前、県神社庁で「米と粟」について講演したときもそうだった。持ち時間いっぱいを使って、具体的事実を示し、説明したつもりだったが、最前列に陣取っていた高名な神道学者が「稲の祭りではないのか?」と話を振り出しに戻す質問をしてきたのには驚いた。

この先生が宮司を務める県内の神社はけっして稲作文化圏には立地していない。にもかかわらず、神社界の著名人ほど「稲の祭り」説に凝り固まっている。なぜ事実を事実のままに見ようとしないのか?

▷「稲」で一貫する真弓常忠名誉教授の「大嘗祭」論

令和の御代替わりの際、大嘗祭に関する文献を読みあさった。その資料のひとつに、真弓常忠皇学館大名誉教授の講演録があった。タイトルは「即位式と大嘗祭」。昭和62年に皇學館大学講演叢書のひとつとして、皇大出版部から出版されている。

平成の御代替わりを意識して、講演が企画され、シリーズに加えられたのだろう。国会図書館で読み、「稲の祭り」説とはいえ、60ページほどによくまとめられているのに感激し、ぜひ入手したいと思い、調べたところ、古書ではなく、皇大出版部がいまも販売していることを知り、さっそく注文したのだった。

ところが、一読して仰天した。国会図書館に納本されたものとは別物だった。どうやら版を重ねているようで、入手したものは平成末の出版で、冒頭は令和の御代替わりに関する記述で始まっていた。それでいながら、それに続く本編は内容がまったく同じで、あいも変わらず、「稲の祭り」説で一貫していた。

つまり、真弓先生の大嘗祭=「稲の祭り」説は、30年経っても、何も変わらない、何も進歩していないということになる。これは黙っていられないと思ったが、生来の遅筆ゆえに、文章化できずに終わった。そのことは前回、書いた。

前回は神社検定公式テキストについて書いた以上、真弓先生の「稲の祭り」説についても書かないわけにはいかない。蛮勇を奮って、挑むことにする。なぜ先生は「稲」に凝り固まってしまっているのだろうか?

▷死体化成神話と天降り神話がゴッチャ

SNS上で参考文献に取り上げられているのは、真弓先生の『大嘗祭』(ちくま学芸文庫、2019年)である。もともと昭和63年3月に国書刊行会から刊行され、これを文庫化したもので、ここにも学問の停滞を私は感じる。そんなことがあり得るのか?
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全体の内容的はきわめて重厚で、私などは足元にも及ばないが、「稲」に終始し、「新穀」と表現するばかりで、肝心の「大嘗宮の儀」の粟がまったく見当たらない。どうしたことだろうか?

たとえば、こうである。

「われわれの祖先が、もっとも大切な生命の糧としたのはいうまでもなく稲米である」

水田耕作が伝来する以前、日本列島に居住していた人々は「われわれの祖先」とは見なさないということだろうか? 非稲作文化圏の民は日本民族ではないということなのか? 天皇にとって、非稲作民は赤子ではないのか?

「『古事記』には、天照大神がはじめて稲を得られたとき、これこそが天下万民の『食いて活くべきもの』とされて、『斎庭の穂』を皇孫ニニギノミコトに授けられて、天降らしめたと伝える」

神社界の専門紙に連載していたとき、記紀神話には「2つの稲作起源神話」が描かれていることについて書いたことがある。大気津比売殺害と斎庭の稲穂の神勅で、片や作物は葦原中国に起源し、片や稲が高天原からもたらされる。

天照大神が「民が生きていくのに必要な食物だ」と喜ばれたのは、五穀の発生を説明する死体化生型神話の方で、稲だけではない。天孫降臨・斎庭の穂の神勅はこれとは別の物語で、神話学の大林多良・東大教授によると両者は系譜が異なるのだという。

大林先生によると、女神の死体から作物が出現するという神話は、東南アジアなどに広く分布し、粟などを栽培する焼畑耕作の文化に属するとされている。他方、天降り神話はユーラシア大陸に広がり、遠くギリシャ神話とも似る。ただし、日本以外は麦の物語である。

真弓先生の大嘗祭論では、死体化成神話も天降り神話もごっちゃになっている。

▷新嘗祭は皇祖をまつる神事なのか?

真弓先生は新嘗祭の歴史を振り返り、『常陸国風土記』に言及している。しかし「新粟のニイナメ」をめぐる物語に触れながら、「粟の新嘗」が民間にあった事実については、なぜかスルーしている。

そして、決定的なのは新嘗祭の中身である。大嘗宮の儀に登場する神饌の品目について、真弓先生は「米の蒸し御飯、米の御粥(今日の水たき御飯)、栗(ママ)の御粥…」と解説している。

「栗」の誤植もいただけないが、昭和天皇の祭祀に実際に携わった八束清貫・元掌典とはまるで説明が異なる。

八束先生は「この祭り(新嘗祭)にもっとも大切なのは神饌である」と指摘し、「なかんずく主要なのは、当年の新米・新粟をもって炊(かし)いだ、米の御飯(おんいい)および御粥(おんかゆ)、粟の御飯および御粥…」と説明している(「皇室祭祀百年史」=『明治維新神道百年史』神道文化会発行)。

真弓先生は八束先生とは面識がなかったのだろうか? 鈴鹿家文書などを見れば、「米と粟」は明らかなのに、なぜ「稲」と言い張るのか?

もう1点だけ、指摘する。新嘗祭の本義についてだが、真弓先生は、星野輝興・元掌典の文献を引き、「天孫降臨の節、皇祖よりお授けになった斎庭の稲穂をお受け遊ばすものと解し奉るより外ない」という説明に同意している。

結局、真弓先生だけではないが、「粟」の存在がまったく見えていないという結論にならざるを得ない。なぜ見えないのか? 新嘗祭・大嘗祭が皇祖の祭りなら、神嘉殿や大嘗宮は不要である。なぜ賢所ほか三殿とは異なる祭りを行うのか、その祭りがなぜ「皇室第一の重儀」とされるのか、いまは亡き真弓先生に直接、話を聞いてみたかった。

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粟菓子ではなかった銘菓「粟津の里」から皇統論の混乱を憂う [天皇・皇室]

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粟菓子ではなかった銘菓「粟津の里」から皇統論の混乱を憂う
(令和4年1月13日、木曜日)
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粟津の里.jpeg
滋賀県大津市膳所(ぜぜ)の菓子司・亀屋廣房の銘菓「粟津の里」を美味しくいただいた。手に取るとじつに軽い。口に含むとサクッとした口当たりのあと、しっとりとした味わいが続く。半生の食感を楽しみながら、古代に思いを馳せ、そして皇統の行く末を思った。

なぜ粟のお菓子から皇統を思うのか?

そもそも「膳所」はなかなか読めない。文武両道の名門・県立膳所高校の名声で、私などはその地名と読みを知った。


▽1 日吉大社の粟飯

「膳所」の由来は古代の物語にある。「粟津の里」の菓子折りに入っている説明書きには、次のように書かれてある。

「粟津御供の由来は、天智天皇白鳳2年、日枝山王の神供に始まり、続いて6年、大津宮の大膳に進ぜられたに始まると伝えられ…」

以前、書いたことだが、大津に鎮座する古社・日吉大社で、中心をなすのは西本宮(大宮)と東本宮(二宮)である。西本宮は、天智天皇が667年に都を近江大津京に遷されたおり、大和国の三輪山から大己貴神を勧請されたと伝えられる。年に一度の山王祭には「粟津の御供」が琵琶湖の湖上で献納される。

社伝によれば、その昔、大己貴神に膳所の漁師が舟の上で粟飯を差し出すと、大神はことのほか喜ばれ、「年に一度、粟飯が食べたい」と仰せになったという。この故事が粟津御供の始まりといわれる。いまも膳所の5社の神社の氏子から、一年ごとの輪番で、粟飯が供せられる。

膳所は神への、そして天皇への台所なのであった。

地図を広げてみると、膳所の南東に粟津という地名もある。かつてはこの地域に粟が栽培され、食されていたのではなかろうか。膳所の和菓子もその長い歴史に裏付けられ、「千二百余年の古香を偲び、神供大膳の古式に則り、創製す」と説明される。

「粟津の里」というからには粟が原材料なのだろうと勝手に解釈して、Yahoo!で取り寄せてみたのだった。そして、みごとに一杯食わされた。食品表示によると、原材料は「国産みじん粉」、つまり米である。私は思わず天を仰いだ。「大膳の古式」に「原料米」と記録されているということだろうか。素直には信じられない。


▽2 なぜ米と粟なのか

なぜ私が粟に関心を抱くかといえば、天皇の祭祀と深く関わるからである。大嘗祭、新嘗祭で、天皇が皇祖神ほか天神地祇に捧げ、神人共食されるのは米と粟である。なぜ米と粟なのか。それは天皇の役割と深く関わっているだろう。多様性の統一である。

多様性(diversity)は現代のキーワードであるが、日本ではすでに古代から強く意識されていたに違いない。古代律令に「およそ天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇祭れ」とあるのはその証明である。なぜか?

天皇が天照大神の子孫であり、天孫降臨で稲穂を授けられたという神話に基づくのなら、天皇は賢所で皇祖神を祀り、稲穂を捧げて祈れば十分である。実際、宮中三殿の新嘗祭は神饌は米のみである。ところが、大嘗宮の大嘗祭、神嘉殿の新嘗祭は皇祖神のほか天神地祇が祀られ、米と粟が捧げられる。皇室第一の重儀は米と粟なのである。

つまり、天皇はなぜ天神地祇を祀るのか、である。天神地祇を祀るから、粟もささげられるのである。

神社祭祀なら、血縁共同体や地縁共同体が前提だから、稲作地帯なら稲の神に米が捧げられ、畑作地帯なら畑の神に畑のものが捧げられるだろう。稲の神も畑の神も同時に祀り、稲も畑作物も同時に捧げることはないと思う。

天皇のみが天神地祇を祀り、米と粟を捧げて祈るのである。それはなぜなのか。私は民俗学者の野本寛一先生以外に、見極めようとする知識人に出会ったことがない。現代の日本人は米よりもパンを食べているから、粟などは関心の外なのであろう。知識人の問題意識も大差はない。だから、「新嘗祭は稲の祭り」と神道学者までが信じ込んでいる。

なぜ米と粟なのか。野本先生は私の疑問に対して、「天神地祇に米と粟をささげる新嘗祭、大嘗祭の儀礼は、米の民である稲作民と粟の民である畑作民をひとつに統合する象徴的儀礼として理解できるのではないか」と即座に答えられた。さすがだと思う。


▽3 天皇観の違い

つまり、天皇=スメラミコトだからだろう。稲作民や畑作民の共同体から超然とした立場にあって、すべての民をひとつにまとめ上げることを第一の務めとされてきたからであろう。だから稲作民、畑作民すべての神を祀り、稲作民の米と畑作民の粟を捧げて祈るのである。多神教的多様性の統一である。

すべての民のために祈る、つまり天皇に私なし、ということが私たちにはなかなか分かりづらいかも知れない。だから、米と粟の祭祀にも関心が及ばないのかも知れない。

大学のサークルの大先輩だった佐々淳行は『東大落城』に、安田講堂に籠城する学生たちが排除されたあとの逸話を記録している。報告のため参内した秦野章警視総監に、昭和天皇は「双方に死者はなかったか?」と下問され、秦野が「ありません」と答えると「それは何よりだった」と安堵されたが、秦野は怪訝そうな表情のままだったというのである。

天皇はすべての民を統合する超然たるお立場にある。だから過激派の学生と警察との攻防もまるで兄弟喧嘩のように見えるということになる。それが秦野には理解できないのだった。天皇観の違いである。

秦野だけではない。いつだったか、講演の聴衆者から「宮中祭祀にカトリックの信徒が携わっている」ことへの疑問と怒りが呈された。異教徒が天皇の祭祀に関わるのはけしからん。神道人でなければならぬ、ということだろう。ごく最近では、左翼学者が宮内庁参与に加わっているのは許せない、と保守派で、男系派の大学教授がTwitterで息巻いていた。

つまり、天皇のおそばにお仕えするのは保守派、民族派でなければならないという固い信念の表明である。それはそれで立派で、賞賛に値するのだが、天皇は保守派だけの天皇ではないことを忘れているようなことはないだろうか。

天皇は古来、皇祖神のみならず天神地祇を祀り、稲作民の米と畑作民の粟を捧げて、「国中平らかに安らけく」と祈られる。その意味や理由を考えないなら、天皇は保守と革新の抜き差しがたい政治闘争の只中に置かれることになる。

男系派はむしろ皇位の男系継承主義の理由と意味を説明すべきなのである。そうしないで、祭祀に関心も持たずに、安易にY染色体論を振り回す。原因と結果を取り違える因果の逆転は根拠の説明になっていないことに早く気づいてほしいものである。


▽4 「根拠がない」はずはない

それかあらぬか、女系継承容認派の論客・毎日新聞の伊藤智永編集委員兼論説委員などは、「男系男子論は『ほとんどずっとそうだった』以外に根拠がない」(「天皇のいない国になると」1月8日)と吐き捨てている。

しかしこれもおかしい。「どこにも根拠がない」のではなくて、正確には、「伊藤記者自身は根拠を見出せなかった」という、要するに勉強不足、取材不足ではないのか。千年以上もの間、皇統が男系継承で続いてきたことについて、歴史と伝統以外に、理由や根拠がないなどということが、あり得るだろうか。常識的に考えれば分かるだろう。

伊藤氏が一押しする16年前の皇室典範有識者会議では、「なぜ皇位継承は男系でなければならないのか、を説明した歴史的文書などは見あたらない」と事務局が説明したと伝えられる。当たり前に続いてきた男系継承を合理的に説明することなどありはしない。だからといって、男系継承に根拠がないとするのは論理の飛躍そのものである。

皇室典範有識者会議は皇室の天皇観については検討していないから、皇室の男系継承主義の根拠を見出すことは不可能である。有識者会議の限界を伊藤氏は直視すべきだ。皇室の天皇観では天皇=祭り主である。とすれば、男系主義の根拠は天皇の祭祀にこそ見出されるに違いない。伊藤氏は天皇の祭祀について謙虚に学び直し、読者に問いかけてほしい。

男系派も女系派も、アカデミズムもジャーナリズムも、不勉強というほかはないのではないか。そして、政府・宮内庁は126代皇統の安定化ではなく、2.5代象徴天皇制の安定化のため暴走し続けている。つくづく世も末だと思う。

最後に蛇足だが、「粟津の里」の亀屋廣房にお願いしたい。粟津御供の故事がモチーフなら、ぜひとも粟を原料に作ってほしい。そうでなければならないと思う。


【関連記事】《再掲》「米と粟の祭り」──多様なる国民を統合する新嘗祭〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2021-11-23
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新嘗祭の起源は宮中なのか?──神道人にこそ知ってほしいこと [天皇・皇室]

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新嘗祭の起源は宮中なのか?──神道人にこそ知ってほしいこと
(令和3年11月7日、日曜日)
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▽1 キリスト教のような説明

今年も新嘗祭が近づいてきた。全国のお宮で、そして宮中で、神前に新穀が供えられ、感謝と安寧の祈りが捧げられる。古き良き日本の文化である。

気になるのは、悪意ではないにしても、いや、悪意ではないからこそ始末が悪いのだが、新嘗祭の起源に関して大変な誤解をする神社人がいて、間違った情報が流布、拡大され、その結果、日本の文明のかたちが見えづらくなっているように感じられることである。

つまり、しばしば聞かれる、「本来は宮中の祭りで、神社でも行われる」「天皇の祭りにならって、全国の神社においても執り行われる」という説明である。原型は皇室にあり、やがて各地の神社に派生したということになるが、とんでもない間違いだろう。

宮中の新嘗祭と民間もしくは各地の神社での新嘗祭は目的も中身も異なるし、まるで国家宗教よろしく、皇室から地方へというトップダウン的な文化の流れで説明することには無理があるからである。

これがキリスト教のような一神教世界ならば理解できる。たとえば「主の晩餐」というイエス・キリストの事跡が、聖体祭儀という教会の儀礼として世界に広がったという歴史はある得るが、自然発生的な日本の神道儀礼には考えにくい。それともキリスト教にあやかった説明なのか。あり得ない。

日本では一神教世界とは異なり、民間に発生した文化がありのままに大切にされている。たとえば、乃木大将を祀る神社がアイドルグループの聖地ともなり得る。それが日本の多神教文明であって、それをまるで上位下達的に説明することは、日本人の信仰のあり方、そして天皇という存在を根本的に見誤らせることになる。


▽2 天神地祇を祀り、米と粟を捧げる

皇室の新嘗祭は、文献的には皇極天皇(35代)の時代に遡ることができる。日本書紀(720年)には、「皇極天皇元年(642年)11月16日、天皇は新嘗祭を行われた」と記録されている。これが文献上の初出だが、むろん歴史的始まりといえるかどうかは分からない。

宮中新嘗祭は日々行われる祭祀のなかでも第一の重儀とされる。神嘉殿で行われる新嘗祭では、皇祖神ほか天神地祇が祀られ、米と粟が神前に供され、祈りが捧げられる。

神嘉殿の新嘗祭が「米と粟の祭り」であることは、皇祖神のみならず天神地祇を併せ祀ることと関係があることは容易に想像される。皇祖天照大神から稲が与えられたとする斎庭の稲穂の神勅のみでは説明がつかない。神勅に基づいて、宮中新嘗祭を「稲の祭り」と解説することは、これまた誤りである。

一方、民間で行われる新嘗祭は、記録上は『常陸国風土記』(721年)がもっとも古い。民間に伝わる家ごとの祖霊祭祀であり、粟の儀礼である。稲の新嘗ではない。神社の神事ですらない。源流が皇室でありようはずがない。

宮中から民間へという伝播が唯一の正しい流れなら、『風土記』は民間で天神地祇を祀り、米と粟を捧げる新嘗の祭りを記録すべきだが、そのような記録はあり得ない。民間の信仰は祖霊や氏神を祀る私的な祈りが基本だし、捧げ物は土地の収穫物に限られる。天神地祇すべてを祀る神社などあるはずもない。少し考えれば、誰でも容易に分かることだ。

にもかかわらず、新嘗祭の皇室発祥説が語られている。なぜだろうか。


▽3 「しろしめす」という意味

そもそもなぜ「稲の祭り」と誤り伝えられているのか。

政府・宮内庁は天皇一世一度の新嘗祭である大嘗祭について、「稲作農業を中心としたわが国の社会に、古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたもの」と公式に説明しているが、これも間違いであることは、粟の新穀が同時に捧げられることから明らかである。

なぜ稲だけではなく、粟も、なのか。

『常陸国風土記』に粟の新嘗が記録されていることは、民間には民間のさまざまな新嘗祭があったことを想像させる。柳田國男が繰り返し書いているように、日本列島はもともと稲作適地とは言い難い。水田稲作伝来以前から非稲作民が大勢いただろうし、稲作以外の農耕があったろう。稲作信仰とは別に、非稲作地域には非稲作信仰が息づいてきただろう。

神社の新嘗祭というと「稲の祭り」と思い込んでいる神道人には、「粟穂に鶉」の古い彫り物が、豊穣のシンボルとして社殿に刻まれているのを思い出してほしい。米ではなくて粟を主食とし、神聖視した日本人が間違いなくいたことに気づいてほしい。柳田がいうように、日本人はけっして稲作民族、米食民族オンリーではないのである。

稲作民も非稲作民も「わが赤子」と思し召して、「国中平らかに安らけく」と祈り、ひとつに統合するのが古来、ミメラミコトのお役目であるならば、民が信じるあらゆる神々を祀り、稲作民の米と非稲作民の粟を捧げて祈られることが素直に理解されるのではないか。

それこそが天皇統治の「しろしめす」の意味ではないのか。だから「天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇祭れ」と古代律令は定めたのだろう。

天皇の新嘗祭は、血縁共同体や地域共同体の祈りの次元を超えた、国と民を統合するための公正かつ無私なる祈りなのである。だから文化の伝播の方向性としては、皇室から民間に広がったのではなく、逆に、民間の祈りが皇室に集中したということになる。


▽4 新嘗祭は「勤労感謝の日」ではない

しかし、いつしか日本人は日本社会の多様性を忘れてしまっている。そして価値多元主義に基づく天皇統治の意義を理解できなくなってしまったのではないか。

それどころではない。戦後、日本人の「米離れ」が進み、10年前にはついにパンの消費額が米を上回るようになった。そんな時代に、日本人がかつて粟を食べていたなどという昔話はもう通用しない。だから、神道人にさえ話が伝わらないのだ。

各地の神社での稲の新嘗祭は戦後、広がったともいわれる。明治以後、国民皆兵で徴兵された国民はひとしく米を食することとなり、戦中からの米の配給、食管制度が日本人の稲作民族意識を高めた。さらに全国8万社の神社を包括する神社本庁が主導する祭式の一元的普及が「稲の祭り」としての新嘗祭を全国化していったのではないかと私は疑っている。そして逆に、粟食も粟の新嘗も、急速に忘れ去られていったのではないかと。

近現代において日本人の文化的同一化が進んだ反面、暮らしと信仰における血縁的、地域的多様性が失われていき、その一方で、かつては多様性の中心として機能した天皇は、逆に一元的社会の中心に位置付けられることになったのである。古来の多元的社会が近代になって一元化し、そのことによって天皇もまた変質したということだろうか。

だとすれば、神社関係者の使命は、日本の文化的伝統を守り伝えたいと願うのであれば、八百万の神々の存在を基本とする日本人の多様なる信仰の存在をこそ説明すべきである。多元的価値を認めることが日本の精神文明の根本であり、天皇という祈りの存在の意味もそこにあることを正しく伝えるべきである。

まるで国家宗教さながらに、新嘗祭の由来を一元的に解説することは、天皇統治の歴史と伝統を否定することになると自覚すべきだと思う。新嘗祭はけっしてキリスト教まがいの単なる「勤労感謝の日」ではないのである。


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伝統を失った日本人と天皇の未来。126代の皇統史に価値があると思うなら [天皇・皇室]

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伝統を失った日本人と天皇の未来。126代の皇統史に価値があると思うなら
(令和3年2月14日、日曜日)
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前回のブログにさまざまな反応があった。そして、やっぱりなと思った。日本人はもうすっかり近代化してしまったのではないか。ものごとの考え方が一神教化してしまったのではないか。日本古来の多神教的世界が理解できなくなっているのでないかということである。

天皇の世界は伝統オンリーでも、近代オンリーでもないが、近代オンリーとなった日本人には、伝統と革新を原理とする天皇の多神教的世界がますます理解できなくなっているのではあるまいか。

だとすれば、厄介である。その結果、何が起きるのか。


▽1 伝統と近代の共存が破れた戦後
皇居二重橋.jpeg
もし現代の日本人が日本古来の伝統的、多神教的世界観との乖離を感じることさえないのだとすれば、目の前の皇位継承問題についても、純粋な論理で考えるなら、女系継承容認でも構わないという結論に帰さざるを得ないと思う。女系継承容認=「女性宮家」創設論はまさに近代化の産物だからである。

近代化し切った日本人のありようを手放しで、完全に認めたうえで、同時に、皇室の伝統を固守せよという要求は成り立たない。伝統に近代を融合させることも至難だが、近代主義のうえに伝統主義を積み重ねることは矛盾以外のなにものでもない。

何度も書いてきたことだが、伝統と革新こそが皇室の原理である。水田稲作、漢字、仏教、律令制など、海外の先進的文化を積極的に受入してきたのが皇室の歴史である。戦後唯一の神道思想家と呼ばれた葦津珍彦は海外文化受容のセンターが皇室だったと評した。その一方で、天皇は伝統的な祭り主であり続けてきた。

日本の近代化、欧化をリードしたのも皇室だった。法律、貨幣・金融、官僚制度、軍隊、学校教育、道路網、交通機関など西洋の文化が導入され、明治政府のもとで一元化していった。天皇は近代君主、立憲君主となり、日本はアジアで最初の近代国家となった。

それは輝かしい歴史というべきだが、文明の衝突に苦しむことともなった。欧化主義にことごとく席巻される現実をもっとも憂えたのはほかならぬ明治天皇で、教育勅語の起草は明治天皇の憂慮の念が出発点だった。なにしろ修身の教科書までが翻訳物だった。数学、医学、建築、芸術から伝統が追放された。

しかし教育勅語こそは明治の近代化に翻弄された典型だった。非政治性、非宗教性、非哲学性が追求され、苦心の末にまとめられた教育勅語だったのに、煥発後は文部大臣らによって勅語それ自体が宗教的拝礼の対象とされた。教育勅語の解説を書くよう求められたのは西洋帰りの哲学者だった。明治天皇の憂慮は反故にされた。解説書が修身の教科書となることはなかった。

そして戦後、国家神道の聖典という烙印が押され、教育勅語は追放された。未曾有の戦争と敗戦が伝統を駆逐させてしまったということだろうか。それでも昭和30年代頃までは、日本の伝統が生きていた。日本の暦がキリスト教のグレゴリオ暦(太陽暦)に改暦となったのは明治5年だが、太陰太陽暦はその後も旧暦として生き続けた。度量衡、尺貫法もしかりである。

天皇は近代君主であると同時に、歴史的祭り主であり続けた。宮中祭祀の祭日は「休暇日」「休日」とされた。伝統と近代が共存したのが日本の近代である。その共存が破れたのは戦後しばらくしてのことであった。天皇の祭祀は「皇室の私事」となり、天皇は御公務をなさる特別公務員となった。他方、日本人は伝統を失い、伝統は死語となったのである。


▽2 伝統を回復させるための努力を

伝統と近代との狭間で格闘し、苦悩したのが夏目漱石だった。明治44年、和歌山での講演「現代日本の開化」で、漱石は、日本の「開化」を「外発的」と評し、「ただ上皮を滑って行き、また滑るまいと思って踏張るために神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒と言わんか憐れと言わんか、誠に言語道断の窮状に陥ったものだ」と慨嘆している。

漱石が何を考えていたのか、もっと深く知りたいと思い、江藤淳の『漱石とその時代』をひと通り読んだが、佳境に至る前に残念ながら未完のまま絶筆となっていた。古来、海外との交流から国を発展させてきたのが日本であり、近代の「開化」のみが「外発的」だったとは思われないから、「言語道断の窮状に陥った」原因はきっとほかにあるはずだが、江藤の考察から探し当てることはできなかった。

余談だが、賊軍の末裔である私にとって、漱石の『坊っちゃん』ほど痛快なものはない。何しろ江戸っ子のべらんめえと会津っぽの山嵐が、新興インテリの赤シャツと太鼓もちの野だいこ連合を木っ端微塵に懲らしめるのだから、痛快そのものだ。

だが、結末はよくない。東京の清(きよ)のもとに戻った坊っちゃんが再就職したのは、路面電車の技手であった。文明開化に抵抗しきれず、英語教育から転身したのも、当時最先端の交通機関だった。「外発的」な「開化」に抗い、踏ん張るどころか、時流に乗っている。それは英語教師となった漱石自身でもあろうか。ともあれ、なぜ漱石は伝統と近代のねじれに苦悩しなければならなかったのか。

前にも書いたように、アインシュタインが来日したのは、大正11年、漱石の講演から11年後のことだった。アインシュタインは全国を精力的に歩き、日本人が美しい自然と共生する生き方から、日本独自の文化のみならず、天皇制をも創り上げていったと見抜いた。

そして他方で、伝統と近代の相剋に苦悩する日本人に対して、「生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらを純粋に保って、忘れずにいて欲しい」(「印象記」)と願うのだった。

漱石ばかりではない。伝統の喪失をアインシュタインもまた憂いたのである。ならば、失われた「伝統」とは何だろうか。たぶんそれは何度も申し上げた多様性、多元性というものなのだと私は思う。

いまでは国土は一様にアスファルトで覆われ、伝統的自然観の前提となる多様な自然が失われている。自然との共生から生まれた日本人の宗教伝統を表現した神社建築でさえ、コンクリートで作られている。外的環境が一変したのである。アインシュタインの憂いは現実化している。

それならば、伝統を失った日本人と天皇は今後、どこへ行くのか。行くべきなのか。もはや日本の伝統などどうでも良いというのなら、皇位継承もまた男系主義にこだわる必要はない。20数年来、側近たちが先導してきた「女性宮家」創設=女系継承容認でも構わないということになる。

けれども千数百年の時を超え、126代続く皇統の歴史を価値ありと思うのなら、伝統の価値をあらためて深く認識し、国民に広く理解してもらう必要がある。先帝も今上も、ことあるごとに、皇室の伝統と憲法の理念を大切にと訴えてこられた。伝統を復権させるために国民の渾身の努力が求められている。


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生々しい天皇意識を感じない?──過激派もネトウヨも神道学者も [天皇・皇室]

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生々しい天皇意識を感じない?──過激派もネトウヨも神道学者も
(令和3年1月31日、日曜日)
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前回、SNS時代の天皇論、天皇研究のあり方について書きましたが、なかなかこれが難しいのです。
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それは日本人の天皇意識というものが抽象的、観念的なものとなり、暮らしに密着した生々しさを失っているからです。昔とは違い、天皇・皇室が他人事のように感じられるようになってしまったのです。だから、好き勝手に皇室を批判する。逆に、尊皇派の言論が口先だけのように聞こえるのもその結果なのでしょう。


▽1 「非公然」活動を自己批判した中核派

去年の秋ごろでしたか、中核派の最高指導者だという人が半世紀ぶりに姿を表しました。過去の「非公然」路線の「根底的誤り」を率直に認め、「空論主義」からの訣別と、コロナ禍の時代の要請に応じた新自由主義打倒の現実路線への転換を表明したと伝えられます。

また、先週は記者会見を開き、公然活動への路線変更をあらためて表明するとともに、過去の活動について、自身の関与を否定したうえで、「必要な階級闘争だった」と正当化したと報道されています。

中核派といえば、「天皇制反対」が主な主張とされ、平成の御代替わりには、全国各地で新型迫撃弾などを用いて、皇室関係施設のみならず交通機関や神社などへのゲリラ事件を引き起こしたことが思い出されます(『平成3年警察白書』)。社殿全焼の被害を受けたお宮もありました。

とすれば、中核派の指導者はこうした過去の反天皇活動を「空論主義」と認め、現実主義への大転換を図ったのかどうか、あるいは天皇観自体が変わったのかどうか、残念ながらメディアの報道からは真意をうかがうことはできません。


▽2 民の側のさまざまな天皇意識

前にも書いたことですが、キリスト教世界では絶対神の存在を大前提に、真理と正義の考え方、そして人間の行いは一元的に、演繹的に定まり、それ以外の思想と行動は徹底的に排除されます。キリスト教の鬼っ子としての共産主義も同様です。天地創造から終末までの歴史観が唯物史観に、神と悪魔の闘争が階級闘争史観に置き換えられたまでのことでしょう。

しかし日本の多神教文明はこれらとは一線を画すものです。皇室には皇室の天皇意識があるのと同時に、民には民のさまざまな帰納的天皇意識が共存し、多様な価値観の共存による社会の平和が保たれてきたのです。中核派の指導者はそこに気づいているでしょうか。

たとえば私の郷里は古来、絹の里として知られていました。養蚕と機織りの技術を教えてくれたのは天皇の妃とされ、お妃を祀る神社が点在しています。土地の人たちはいい繭が採れるように、いい織物が織れるようにと「機神さま」に祈ったのです。人々の暮らしは生々しい天皇意識に支えられていました。

朝から晩まで町に鳴り響いていた機織り機の音がパッタリと途絶えたのは、昭和40年代の日米繊維交渉の結果でした。沖縄返還とのバーターで、古代から続く日本の繊維業は捨て石にされたともいわれます。養蚕と機織りを通じた土着的な生活感のある根強い天皇意識が衰微していくのは目に見えています。


▽3 好き勝手な天皇論が溢れる

わが郷土だけではありません。土着の天皇意識が全国的に失われつつあります。現代人はすでに定住性を失い、つねに移動を繰り返す遊牧民化しているからです。故郷という日本語が死語と化したのです。

かつては地縁共同体や血縁共同体、あるいは職能集団に特有の強固な天皇意識があったはずなのに、それが失われています。戦後の経済成長とともに、日本人は集団性を失い、どんどん個人化してしまったからです。

歴史的、集団的な暮らしに密着した天皇意識は薄れ、個人の観念的、抽象的な天皇意識にとって代わり、あまつさえ好き勝手な天皇論が世の中に満ち溢れています。反天皇的姿勢のマスメディアもさることながら、SNSの世界はその極みです。祖先たちの天皇観など知る由もなく、やりたい放題のアラシの結果、何が起きるかなど、考え及ばないのでしょう。目の前の皇位継承問題など危うい限りです。

他方、皇室を取り巻く環境も昭和40年代に一変しています。かつての宮内庁は旧華族出身の職員もいて、陛下を家長とする大家族のような雰囲気があったそうですが、他省庁からの横滑り組が増え、国家公務員としての意識が勝るようになり、言葉遣いさえ変わっていきました。ふつうの官庁になったのです。

そして古来、天皇第一の務めとされてきた天皇の祭祀が側近による一方的かつ無法な簡略化、改変に晒されることになりました。それを最初に「工作」したのが堂上家出身の入江相政侍従長だったことは象徴的です。天皇は皇室の伝統と同時に、藩屏を失ったのです。


▽4 土臭い信仰を失った神道学者

人一倍、尊皇意識が強いはずの神道人も大して変わりません。援軍のいない陛下はますます孤独です。

何年か前、講演を依頼され、大嘗祭の「米と粟」についてお話ししました。日本列島には稲作民も畑作民もいる。国と民をひとつに統合するため、天皇は皇祖神のみならず天神地祇を祀り、米と粟を捧げて祈るのだと話したところ、最前列に座っていた著名な神道学者から「大嘗祭は稲の祭りではないか」との反論を受けました。

最近でこそ、大嘗祭が「米と粟の祭り」であることが理解されるようになりましたが、それでも「稲の祭り」に固執する大学教授もいるのです。どうしてでしょうか。

神道入門書とされている本居宣長の『直毘霊』を読むと、不思議ですね、冒頭、「日本は天照大神がお生まれになった国だ」という一節で始まります。記紀神話のように天地開闢から説き起こされず、キリスト教的な一神教的論理の組み立て方がされています。大神以前の神々がいないのです。多神教の否定です。

宣長を高く評価する神道学者たちが「稲の祭り」に凝り固まるのも当然なのでしょう。それにしても、教授が生まれ育ち、奉職するお宮のある土地がけっして稲作地帯ではないことに思い及ばないとしたらおかしいでしょう。信仰が暮らしとは無縁の観念論であることが暴露されます。

古代から鉱業、林業、セメントで栄えてきた教授の郷里は、名だたる蕎麦処として知られるくらいで、主食は粟や麦、芋だったでしょう。畑作の民なら当然、畑作物を土地の神に捧げ、祈ってきたはずです。もし天皇が「稲の祭り」しかしないなら、畑作民は天皇の祭りにシンパシーを感じるでしょうか。逆に疎外感を感じるのではありませんか。

天皇が粟を捧げて祈ればこそ、畑作民は天皇を身近に感じるはずです。それは稲作民も同じでしょう。国と民を統合するスメラミコトたる天皇は、であればこそ皇祖神ほか天神地祇を祀り、米と粟を捧げて祈らなければならないのでしょう。

生々しい暮らしに根づいた土臭い信仰を失った神道学者には、過激派やネトウヨと同様に、それが理解できないということでしょうか。いま生々しい天皇意識を持つ民といえば、陛下と親しく交わる被災者たちでしょうか。しかし行幸の機会が少ないコロナ禍の昨今にはそれも厳しくなりました。


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【関連記事】精粟はかく献上された──大嘗祭「米と粟の祭り」の舞台裏(「神社新報」平成7年12月11日号から)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1995-12-11-1

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「斎藤吉久のブログ」令和2年閲覧数ランキング・トップ10 [天皇・皇室]


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「斎藤吉久のブログ」令和2年閲覧数ランキング・トップ10
(令和2年12月27日)
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今年もあと数日となりました。
ここ数年は御代替わりを中心に書いてきたつもりです。書きたいテーマはあれど、書き足りないことの方が多かったように思います。どの程度、読んでくださる方の心に届いたのか、心許ない限りです。
さて、以下は今年の閲覧数ランキング・トップ10の記事です。評価は読者の方々にお任せします。


1位 男系主義の根拠が理解できない。園部逸夫vs御厨貴「週刊朝日」対談が示してくれた現代知識人のお寒いレベル(3月8日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-08

2位 天皇制をやめるんですか──伊藤智永・毎日新聞編集委員の皇室記事を読んで(1月5日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-01-05

3位 どうしても女性天皇でなければならないのか。男系を固守することは不正義なのか。なぜ男系の絶えない制度を考えようとしないのか?(2月9日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-02-09?1609042422

4位 「皇統は一系にして分かつべからず」とは男系継承固持にほかならない(5月17日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-05-17?1609042126

5位 男系継承派と女系容認派はカインとアベルに過ぎない。演繹法的かつ帰納法的な天皇観はなぜ失われたのか(4月5日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-04-05

6位 皇兄弟による皇位継承は過去に24例。次の御代替わりは異例にあらず(5月24日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-05-24

7位 神社本庁創立の精神からほど遠い「金刀比羅宮の離脱」(6月21日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-06-21

8位 椎名さん、逆に人材不足でしょ。葦津珍彦のように後進を育成する人がいないのです(5月31日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-05-31?1609041949

9位 眞子内親王の皇籍離脱をけしかける登誠一郎元内閣外政審議室長の不遜。安倍総理の次は秋篠宮親王に直言。女性天皇・女系継承容認へまっしぐら(1月26日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-01-26

10位 「皇統は男系に限る」と断言しつつ、根拠は神勅と歴史以外に見当たらない『帝室制度史』(5月10日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-05-10?1609042245


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皇太后陛下「発熱を押しての明治神宮御参拝」は美談か? 御代拝制度の復活を望む [天皇・皇室]



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皇太后陛下「発熱を押しての明治神宮御参拝」は美談か? 御代拝制度の復活を望む
(令和2年11月6日)
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明治神宮は今年、鎮座100年を迎えた。先月31日から大祭が5日間にわたって執り行われ、これに先立って28日午前には天皇・皇后両陛下ならびに太上天皇・皇太后両陛下がそれぞれ参拝された。同日午後には秋篠宮同妃両殿下が参拝された。

太上天皇・皇太后両陛下にはご高齢を押しての御参拝で、とくに皇太后陛下には白内障などの手術後の経過の思わしくないなか、さらに発熱の症状を押しての参拝とも伝えられる。

それだけ御参拝への強いご意思がおありだったのだろうと拝察される。


▽1 女官の御代拝で足りる

しかし本来的にはそうした御参拝があるべきことなのかどうか。昭和の40年代まで行われていたように、御代拝ではいけないものなのだろうか。

現代では天皇が皇后を伴って、各地を行幸なさることは当たり前のように考えられている。だからコロナ禍でにわかに自由にならなくなると、逆に大問題であるかのように騒ぎ出す人たちもいる。けれども長い皇室の歴史から考えれば、天皇が御所を離れて御幸なさるのはけっして普通のこととはいえない。

天皇のマツリゴトはシラスことがその本質とされた。シラスとは知ることであって、民の喜びのみならず、悲しみ、苦しみを知り、共有することであったという。そのため、天皇に代わって目となり、耳となる側近の存在は重要であつた。

いまは交通手段が古代とは比べものにならないほど発展しており、天皇がみずから国民と親しく接し、交流することは可能である。明治以後、行動主義を身につけられた天皇だが、コロナ禍の時代はむしろ側近の機能をあらためて思い出させてくれる。

今回、皇太后陛下のご体調が優れないというのであれば、側近の女官に御代拝を命じれば済むことではなかっただろうか。


▽2 御代拝制度を勝手に廃止した宮内庁

前例はいくらでもある。入江日記を読めば、「皇后さまお風邪。御代拝」という記述が何回も出てくる。香淳皇后が風邪を召されたため、代わって女官が三殿にお参りしたのである。それは異例のことではないし、ご不例とあればむしろ神事は避けられるべきなのである。そもそも祭祀の主体は天皇であって、皇后ではない。

ところが、昭和天皇の側近たちは、憲法の政教分離を持ち出して、御代拝の制度を勝手に廃止してしまった。その結果、平成の時代になると、経緯を何も知らない人たちが「皇太子妃のお詣りがない」と理不尽な攻撃を加えたのだった。

いまからでも遅くはない。御代拝制度の復活をつよく促したい。発熱を押してのご参拝は美談とは言いがたい。


【関連記事】「しらす」政治と「うしはく」政治──天皇統治の本質(「神社新報」平成11年11月8日号)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1999-11-08
【関連記事】資料編・昭和の宮中祭祀簡略化──側近の日記から〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2008-05-05?1604631213
【関連記事】不正確な宮内庁の祭祀情報──誰が妃殿下を苦しめているのか〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2008-06-17
【関連記事】一面的な谷沢永一先生の雅子妃批判──「WiLL」掲載論考の問題点〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2008-10-14?1604627543
【関連記事】「しらす」と「うしはく」──なぜレーヴェンシュタインを引用するのか 4〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2017-06-25

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「文化の日」とは何だったのか? 伝統と近代の微妙な関係への自覚 [天皇・皇室]

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「文化の日」とは何だったのか? 伝統と近代の微妙な関係への自覚
(令和2年11月4日)
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昨日は11月3日。いまは「文化の日」である。陛下は皇居・宮殿で文化勲章親授式に臨まれた。

いまは、というのは、以前は違うからだ。祝日法で「文化の日」が定められたのは昭和23年7月である。それなら、その前はどうだったのか、少し整理してみたい。


▽1 GHQが同意した「11月3日」の祝日化

なぜ「11月3日」が「文化の日」の祝日とされたのか。「もともとは明治天皇の誕生日(明治節)だった」と気の早い人は言いたがる。しかしちょっと待ってほしい。物事には順序がある。

戦後の歴史で考えると、11月3日は日本国憲法が公布された日であった。昭和21年11月3日に公布され、その半年後、22年5月3日に憲法が施行された。5月3日は「憲法記念日」とされた。

なぜ「5月3日」なのか。なぜ「11月3日」だったのか。キリの良い日には見えない。国会議事録にはそれらしい理由が見当たらない。だが、Wikipediaには興味深い情報が載っている。

当初は11月1日に新憲法公布、5月1日に施行のスケジュールの予定だったらしい。しかしそれでは施行日がメーデーと重なってしまう。そこで直前になって、5月3日に変更されたというのである。

参議院側は憲法発布の11月3日を「憲法記念日」とすることを強行に主張した。しかしGHQが拒絶した。「11月3日」へのこだわりの理由は分からないが、GHQの方はどうやらかつての「明治節」を嫌ったらしい。

一方、衆議院は施行日の5月3日を「憲法記念日」とすることに同意したことから、参議院は立場を失ってしまう。そこでGHQは11月3日を「別の記念日にしたら」と和解策を提示した。で、結局、「文化の日」が定められたという。そしてこの祝日法の制定によって、昭和二年勅令第二十五号が定めていた「明治節」は廃止された。

面白いのは、「明治節」を強く嫌っていたはずのGHQが「11月3日」の祝日化に同意したことである。

占領前期と占領後期では、たとえば宗教政策にしても大きな違いがあるが、23年ごろにはすでに変化が生まれているということがこれで推測できる。つい2年前には苛烈な、いわゆる神道指令が発令されたのにである。政策の早期転換の背景に何があるのだろうか。歴史の謎だろう。

もし明治節を徹底して嫌うなら、たとえば12月1日憲法公布、6月1日施行とし、12月1日を憲法記念日と定めることだって可能なはずである。そうはならずに、「11月3日」の明治節は「文化の日」として残ったのである。GHQが明治節を奪ったかのような俗説は当たらない。

祝日法では「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日とされている。趣旨がいまひとつわかりづらい。モヤモヤ感があるのは、制定に至る紆余曲折のせいだろうか。


▽2 誕生日を祝うキリスト教文化の影響

さて、明治節である。明治節とは何だったのか。

明治天皇の偉業を記念して、「明治節」が定められたのは、昭和2年3月だった。その背後には制定を望む国民運動の熱心な展開があったことが知られている。

「11月3日」は既述したように明治天皇の誕生日だった。いや、明治天皇がお生まれになったのは、正確には「11月3日」ではない。正しくは嘉永5年の「9月22日」である。当時は太陰太陽暦だった。明治5年の改暦で、太陽暦すなわちキリスト教のグレゴリオ暦に代わり、「11月3日」とされた。

だから明治元年の布告では、「9月22日」に「天長節」を祝うこととされていた。改暦の翌年、「11月3日」が「天長節」となり、「年中祭日祝日」のひとつに定められ、休日となった。41年制定の皇室祭祀令には、天長節祭が小祭として位置付けられた。

つまり、近代の欧米化が「11月3日」を選ばせたのである。日本古来の伝統ではない。

もともと天子の生誕日を祝う「天長節」は古代中国の文化である。8世紀、玄宗皇帝の時代には祝い事が行われ、日本でも同じ8世紀、光仁天皇の祝宴が開かれたらしい。

しかし中国も日本も、誕生日を祝う慣習が古くからあったわけではない。日本では大晦日に歳神を迎え、人々はいっせいに歳をとった。近代以降も満年齢と数え年が共存し、それが戦後までしばらく続いたのである。けれども学校や家庭でお誕生日会が催されるようになり、誕生日の個人化が浸透したのだろう。キリスト教文化の土着化ということだろうか。

古くは、天皇から民草に至るまで、個人的な祭日といえば、亡くなった日を記念するものだった。明治天皇の「天長節」が「明治節」となり、やがて「文化の日」に変容していった近現代の歴史には、キリスト教文化の強い影響が背後にうかがえる。

しかしそのことは何ら驚くに値しない。日本の皇室こそは古来、海外文化移入のセンターとして機能してきたからである。水田稲作、漢字、仏教などその例は枚挙にいとまがない。そして日本の近代化の先頭に立たれたのが明治天皇であった。そしてアジアで最初の近代国家が生まれたのである。


▽3 保守派は自画像を正確に描けているのか

明治45年7月に明治天皇が亡くなり、大正天皇が皇位を継承された。当然、天長節は、大正天皇の誕生日である8月31日に変更された。

その一方で、明治天皇の誕生日ではなく、崩御日である7月30日(本当はその前日だった)は、宮中祭祀の世界では、明治天皇祭(先帝祭)という祭日となった。先帝祭は天皇みずから祭典を行う大祭であった。

大正15年12月に今度は大正天皇が亡くなる。すると、7月30日は明治天皇をしのぶ先帝祭としてはなくなり、先帝以前三代の例祭として、親祭のない小祭として斎行されることとなった。

明治が遠くなり、明治が消えていくのは忍びがたい。そういう国民の熱い思いが、昭和2年3月に実現させたのが明治節で、明治天皇の誕生日がこれに当てられた。皇室祭祀令が改正され、宮中三殿で明治節祭が執り行われることとされた。四方節、紀元節、天長節、明治節は四大節と呼ばれた。

このとき崩御日ではなく、誕生日の「11月3日」が選ばれたのも、やはり近代化の結果ということだろうか。

蛇足ながら、「昭和の日」制定にも同様のパターンが見受けられる。法制化は保守派勢力の強力な国民運動の成果だが、大行天皇の誕生日を国民的祝日とする考え方はけっして日本古来の伝統とはいえない。つまり、日本の保守派は、民族の伝統を追求したのではなくて、近代化によって、欧米の文化を受肉化した結果として、「明治節」や「昭和の日」を制定させたといえる。

問題は日本の保守派が、日本の伝統と近代の微妙に錯綜した関係をどこまで自覚しているか、である。もしも正確な自画像を描けずに、伝統重視を叫びつつ、非伝統主義に傾くなら、たとえば、いま目の前に突き付けられた皇位継承問題も、歴史と伝統の真髄を見失った、不本意な解決で終わるだろう。


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