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神道学への疑問。なぜ「粟」の存在が見えないのか? [天皇・皇室]

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神道学への疑問。なぜ「粟」の存在が見えないのか?
(令和4年12月4日、日曜日)
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新嘗祭・大嘗祭は明らかに「米と粟の祭り」である。先々週、宮中の聖域で行われた新嘗祭で、陛下は神前に「米と粟」の新穀を供饌され、直会されたはずである。神事のあり方は古来、変わっていないはずである。

ところが、正確な情報を社会に提供しているはずの神社検定の公式テキストや著名神社の宮司を歴任した神道学者までが、新嘗祭=「稲の祭り」説に固まっている。そのため、前回、書いたように、これらを参考文献とするSNSもまた、「稲の祭り」説に終始することになる。いまやSNSの時代だとすれば、これは看過できない。

何年か前、県神社庁で「米と粟」について講演したときもそうだった。持ち時間いっぱいを使って、具体的事実を示し、説明したつもりだったが、最前列に陣取っていた高名な神道学者が「稲の祭りではないのか?」と話を振り出しに戻す質問をしてきたのには驚いた。

この先生が宮司を務める県内の神社はけっして稲作文化圏には立地していない。にもかかわらず、神社界の著名人ほど「稲の祭り」説に凝り固まっている。なぜ事実を事実のままに見ようとしないのか?

▷「稲」で一貫する真弓常忠名誉教授の「大嘗祭」論

令和の御代替わりの際、大嘗祭に関する文献を読みあさった。その資料のひとつに、真弓常忠皇学館大名誉教授の講演録があった。タイトルは「即位式と大嘗祭」。昭和62年に皇學館大学講演叢書のひとつとして、皇大出版部から出版されている。

平成の御代替わりを意識して、講演が企画され、シリーズに加えられたのだろう。国会図書館で読み、「稲の祭り」説とはいえ、60ページほどによくまとめられているのに感激し、ぜひ入手したいと思い、調べたところ、古書ではなく、皇大出版部がいまも販売していることを知り、さっそく注文したのだった。

ところが、一読して仰天した。国会図書館に納本されたものとは別物だった。どうやら版を重ねているようで、入手したものは平成末の出版で、冒頭は令和の御代替わりに関する記述で始まっていた。それでいながら、それに続く本編は内容がまったく同じで、あいも変わらず、「稲の祭り」説で一貫していた。

つまり、真弓先生の大嘗祭=「稲の祭り」説は、30年経っても、何も変わらない、何も進歩していないということになる。これは黙っていられないと思ったが、生来の遅筆ゆえに、文章化できずに終わった。そのことは前回、書いた。

前回は神社検定公式テキストについて書いた以上、真弓先生の「稲の祭り」説についても書かないわけにはいかない。蛮勇を奮って、挑むことにする。なぜ先生は「稲」に凝り固まってしまっているのだろうか?

▷死体化成神話と天降り神話がゴッチャ

SNS上で参考文献に取り上げられているのは、真弓先生の『大嘗祭』(ちくま学芸文庫、2019年)である。もともと昭和63年3月に国書刊行会から刊行され、これを文庫化したもので、ここにも学問の停滞を私は感じる。そんなことがあり得るのか?
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全体の内容的はきわめて重厚で、私などは足元にも及ばないが、「稲」に終始し、「新穀」と表現するばかりで、肝心の「大嘗宮の儀」の粟がまったく見当たらない。どうしたことだろうか?

たとえば、こうである。

「われわれの祖先が、もっとも大切な生命の糧としたのはいうまでもなく稲米である」

水田耕作が伝来する以前、日本列島に居住していた人々は「われわれの祖先」とは見なさないということだろうか? 非稲作文化圏の民は日本民族ではないということなのか? 天皇にとって、非稲作民は赤子ではないのか?

「『古事記』には、天照大神がはじめて稲を得られたとき、これこそが天下万民の『食いて活くべきもの』とされて、『斎庭の穂』を皇孫ニニギノミコトに授けられて、天降らしめたと伝える」

神社界の専門紙に連載していたとき、記紀神話には「2つの稲作起源神話」が描かれていることについて書いたことがある。大気津比売殺害と斎庭の稲穂の神勅で、片や作物は葦原中国に起源し、片や稲が高天原からもたらされる。

天照大神が「民が生きていくのに必要な食物だ」と喜ばれたのは、五穀の発生を説明する死体化生型神話の方で、稲だけではない。天孫降臨・斎庭の穂の神勅はこれとは別の物語で、神話学の大林多良・東大教授によると両者は系譜が異なるのだという。

大林先生によると、女神の死体から作物が出現するという神話は、東南アジアなどに広く分布し、粟などを栽培する焼畑耕作の文化に属するとされている。他方、天降り神話はユーラシア大陸に広がり、遠くギリシャ神話とも似る。ただし、日本以外は麦の物語である。

真弓先生の大嘗祭論では、死体化成神話も天降り神話もごっちゃになっている。

▷新嘗祭は皇祖をまつる神事なのか?

真弓先生は新嘗祭の歴史を振り返り、『常陸国風土記』に言及している。しかし「新粟のニイナメ」をめぐる物語に触れながら、「粟の新嘗」が民間にあった事実については、なぜかスルーしている。

そして、決定的なのは新嘗祭の中身である。大嘗宮の儀に登場する神饌の品目について、真弓先生は「米の蒸し御飯、米の御粥(今日の水たき御飯)、栗(ママ)の御粥…」と解説している。

「栗」の誤植もいただけないが、昭和天皇の祭祀に実際に携わった八束清貫・元掌典とはまるで説明が異なる。

八束先生は「この祭り(新嘗祭)にもっとも大切なのは神饌である」と指摘し、「なかんずく主要なのは、当年の新米・新粟をもって炊(かし)いだ、米の御飯(おんいい)および御粥(おんかゆ)、粟の御飯および御粥…」と説明している(「皇室祭祀百年史」=『明治維新神道百年史』神道文化会発行)。

真弓先生は八束先生とは面識がなかったのだろうか? 鈴鹿家文書などを見れば、「米と粟」は明らかなのに、なぜ「稲」と言い張るのか?

もう1点だけ、指摘する。新嘗祭の本義についてだが、真弓先生は、星野輝興・元掌典の文献を引き、「天孫降臨の節、皇祖よりお授けになった斎庭の稲穂をお受け遊ばすものと解し奉るより外ない」という説明に同意している。

結局、真弓先生だけではないが、「粟」の存在がまったく見えていないという結論にならざるを得ない。なぜ見えないのか? 新嘗祭・大嘗祭が皇祖の祭りなら、神嘉殿や大嘗宮は不要である。なぜ賢所ほか三殿とは異なる祭りを行うのか、その祭りがなぜ「皇室第一の重儀」とされるのか、いまは亡き真弓先生に直接、話を聞いてみたかった。

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粟菓子ではなかった銘菓「粟津の里」から皇統論の混乱を憂う [天皇・皇室]

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粟菓子ではなかった銘菓「粟津の里」から皇統論の混乱を憂う
(令和4年1月13日、木曜日)
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滋賀県大津市膳所(ぜぜ)の菓子司・亀屋廣房の銘菓「粟津の里」を美味しくいただいた。手に取るとじつに軽い。口に含むとサクッとした口当たりのあと、しっとりとした味わいが続く。半生の食感を楽しみながら、古代に思いを馳せ、そして皇統の行く末を思った。

なぜ粟のお菓子から皇統を思うのか?

そもそも「膳所」はなかなか読めない。文武両道の名門・県立膳所高校の名声で、私などはその地名と読みを知った。


▽1 日吉大社の粟飯

「膳所」の由来は古代の物語にある。「粟津の里」の菓子折りに入っている説明書きには、次のように書かれてある。

「粟津御供の由来は、天智天皇白鳳2年、日枝山王の神供に始まり、続いて6年、大津宮の大膳に進ぜられたに始まると伝えられ…」

以前、書いたことだが、大津に鎮座する古社・日吉大社で、中心をなすのは西本宮(大宮)と東本宮(二宮)である。西本宮は、天智天皇が667年に都を近江大津京に遷されたおり、大和国の三輪山から大己貴神を勧請されたと伝えられる。年に一度の山王祭には「粟津の御供」が琵琶湖の湖上で献納される。

社伝によれば、その昔、大己貴神に膳所の漁師が舟の上で粟飯を差し出すと、大神はことのほか喜ばれ、「年に一度、粟飯が食べたい」と仰せになったという。この故事が粟津御供の始まりといわれる。いまも膳所の5社の神社の氏子から、一年ごとの輪番で、粟飯が供せられる。

膳所は神への、そして天皇への台所なのであった。

地図を広げてみると、膳所の南東に粟津という地名もある。かつてはこの地域に粟が栽培され、食されていたのではなかろうか。膳所の和菓子もその長い歴史に裏付けられ、「千二百余年の古香を偲び、神供大膳の古式に則り、創製す」と説明される。

「粟津の里」というからには粟が原材料なのだろうと勝手に解釈して、Yahoo!で取り寄せてみたのだった。そして、みごとに一杯食わされた。食品表示によると、原材料は「国産みじん粉」、つまり米である。私は思わず天を仰いだ。「大膳の古式」に「原料米」と記録されているということだろうか。素直には信じられない。


▽2 なぜ米と粟なのか

なぜ私が粟に関心を抱くかといえば、天皇の祭祀と深く関わるからである。大嘗祭、新嘗祭で、天皇が皇祖神ほか天神地祇に捧げ、神人共食されるのは米と粟である。なぜ米と粟なのか。それは天皇の役割と深く関わっているだろう。多様性の統一である。

多様性(diversity)は現代のキーワードであるが、日本ではすでに古代から強く意識されていたに違いない。古代律令に「およそ天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇祭れ」とあるのはその証明である。なぜか?

天皇が天照大神の子孫であり、天孫降臨で稲穂を授けられたという神話に基づくのなら、天皇は賢所で皇祖神を祀り、稲穂を捧げて祈れば十分である。実際、宮中三殿の新嘗祭は神饌は米のみである。ところが、大嘗宮の大嘗祭、神嘉殿の新嘗祭は皇祖神のほか天神地祇が祀られ、米と粟が捧げられる。皇室第一の重儀は米と粟なのである。

つまり、天皇はなぜ天神地祇を祀るのか、である。天神地祇を祀るから、粟もささげられるのである。

神社祭祀なら、血縁共同体や地縁共同体が前提だから、稲作地帯なら稲の神に米が捧げられ、畑作地帯なら畑の神に畑のものが捧げられるだろう。稲の神も畑の神も同時に祀り、稲も畑作物も同時に捧げることはないと思う。

天皇のみが天神地祇を祀り、米と粟を捧げて祈るのである。それはなぜなのか。私は民俗学者の野本寛一先生以外に、見極めようとする知識人に出会ったことがない。現代の日本人は米よりもパンを食べているから、粟などは関心の外なのであろう。知識人の問題意識も大差はない。だから、「新嘗祭は稲の祭り」と神道学者までが信じ込んでいる。

なぜ米と粟なのか。野本先生は私の疑問に対して、「天神地祇に米と粟をささげる新嘗祭、大嘗祭の儀礼は、米の民である稲作民と粟の民である畑作民をひとつに統合する象徴的儀礼として理解できるのではないか」と即座に答えられた。さすがだと思う。


▽3 天皇観の違い

つまり、天皇=スメラミコトだからだろう。稲作民や畑作民の共同体から超然とした立場にあって、すべての民をひとつにまとめ上げることを第一の務めとされてきたからであろう。だから稲作民、畑作民すべての神を祀り、稲作民の米と畑作民の粟を捧げて祈るのである。多神教的多様性の統一である。

すべての民のために祈る、つまり天皇に私なし、ということが私たちにはなかなか分かりづらいかも知れない。だから、米と粟の祭祀にも関心が及ばないのかも知れない。

大学のサークルの大先輩だった佐々淳行は『東大落城』に、安田講堂に籠城する学生たちが排除されたあとの逸話を記録している。報告のため参内した秦野章警視総監に、昭和天皇は「双方に死者はなかったか?」と下問され、秦野が「ありません」と答えると「それは何よりだった」と安堵されたが、秦野は怪訝そうな表情のままだったというのである。

天皇はすべての民を統合する超然たるお立場にある。だから過激派の学生と警察との攻防もまるで兄弟喧嘩のように見えるということになる。それが秦野には理解できないのだった。天皇観の違いである。

秦野だけではない。いつだったか、講演の聴衆者から「宮中祭祀にカトリックの信徒が携わっている」ことへの疑問と怒りが呈された。異教徒が天皇の祭祀に関わるのはけしからん。神道人でなければならぬ、ということだろう。ごく最近では、左翼学者が宮内庁参与に加わっているのは許せない、と保守派で、男系派の大学教授がTwitterで息巻いていた。

つまり、天皇のおそばにお仕えするのは保守派、民族派でなければならないという固い信念の表明である。それはそれで立派で、賞賛に値するのだが、天皇は保守派だけの天皇ではないことを忘れているようなことはないだろうか。

天皇は古来、皇祖神のみならず天神地祇を祀り、稲作民の米と畑作民の粟を捧げて、「国中平らかに安らけく」と祈られる。その意味や理由を考えないなら、天皇は保守と革新の抜き差しがたい政治闘争の只中に置かれることになる。

男系派はむしろ皇位の男系継承主義の理由と意味を説明すべきなのである。そうしないで、祭祀に関心も持たずに、安易にY染色体論を振り回す。原因と結果を取り違える因果の逆転は根拠の説明になっていないことに早く気づいてほしいものである。


▽4 「根拠がない」はずはない

それかあらぬか、女系継承容認派の論客・毎日新聞の伊藤智永編集委員兼論説委員などは、「男系男子論は『ほとんどずっとそうだった』以外に根拠がない」(「天皇のいない国になると」1月8日)と吐き捨てている。

しかしこれもおかしい。「どこにも根拠がない」のではなくて、正確には、「伊藤記者自身は根拠を見出せなかった」という、要するに勉強不足、取材不足ではないのか。千年以上もの間、皇統が男系継承で続いてきたことについて、歴史と伝統以外に、理由や根拠がないなどということが、あり得るだろうか。常識的に考えれば分かるだろう。

伊藤氏が一押しする16年前の皇室典範有識者会議では、「なぜ皇位継承は男系でなければならないのか、を説明した歴史的文書などは見あたらない」と事務局が説明したと伝えられる。当たり前に続いてきた男系継承を合理的に説明することなどありはしない。だからといって、男系継承に根拠がないとするのは論理の飛躍そのものである。

皇室典範有識者会議は皇室の天皇観については検討していないから、皇室の男系継承主義の根拠を見出すことは不可能である。有識者会議の限界を伊藤氏は直視すべきだ。皇室の天皇観では天皇=祭り主である。とすれば、男系主義の根拠は天皇の祭祀にこそ見出されるに違いない。伊藤氏は天皇の祭祀について謙虚に学び直し、読者に問いかけてほしい。

男系派も女系派も、アカデミズムもジャーナリズムも、不勉強というほかはないのではないか。そして、政府・宮内庁は126代皇統の安定化ではなく、2.5代象徴天皇制の安定化のため暴走し続けている。つくづく世も末だと思う。

最後に蛇足だが、「粟津の里」の亀屋廣房にお願いしたい。粟津御供の故事がモチーフなら、ぜひとも粟を原料に作ってほしい。そうでなければならないと思う。


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新嘗祭の起源は宮中なのか?──神道人にこそ知ってほしいこと [天皇・皇室]

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新嘗祭の起源は宮中なのか?──神道人にこそ知ってほしいこと
(令和3年11月7日、日曜日)
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▽1 キリスト教のような説明

今年も新嘗祭が近づいてきた。全国のお宮で、そして宮中で、神前に新穀が供えられ、感謝と安寧の祈りが捧げられる。古き良き日本の文化である。

気になるのは、悪意ではないにしても、いや、悪意ではないからこそ始末が悪いのだが、新嘗祭の起源に関して大変な誤解をする神社人がいて、間違った情報が流布、拡大され、その結果、日本の文明のかたちが見えづらくなっているように感じられることである。

つまり、しばしば聞かれる、「本来は宮中の祭りで、神社でも行われる」「天皇の祭りにならって、全国の神社においても執り行われる」という説明である。原型は皇室にあり、やがて各地の神社に派生したということになるが、とんでもない間違いだろう。

宮中の新嘗祭と民間もしくは各地の神社での新嘗祭は目的も中身も異なるし、まるで国家宗教よろしく、皇室から地方へというトップダウン的な文化の流れで説明することには無理があるからである。

これがキリスト教のような一神教世界ならば理解できる。たとえば「主の晩餐」というイエス・キリストの事跡が、聖体祭儀という教会の儀礼として世界に広がったという歴史はある得るが、自然発生的な日本の神道儀礼には考えにくい。それともキリスト教にあやかった説明なのか。あり得ない。

日本では一神教世界とは異なり、民間に発生した文化がありのままに大切にされている。たとえば、乃木大将を祀る神社がアイドルグループの聖地ともなり得る。それが日本の多神教文明であって、それをまるで上位下達的に説明することは、日本人の信仰のあり方、そして天皇という存在を根本的に見誤らせることになる。


▽2 天神地祇を祀り、米と粟を捧げる

皇室の新嘗祭は、文献的には皇極天皇(35代)の時代に遡ることができる。日本書紀(720年)には、「皇極天皇元年(642年)11月16日、天皇は新嘗祭を行われた」と記録されている。これが文献上の初出だが、むろん歴史的始まりといえるかどうかは分からない。

宮中新嘗祭は日々行われる祭祀のなかでも第一の重儀とされる。神嘉殿で行われる新嘗祭では、皇祖神ほか天神地祇が祀られ、米と粟が神前に供され、祈りが捧げられる。

神嘉殿の新嘗祭が「米と粟の祭り」であることは、皇祖神のみならず天神地祇を併せ祀ることと関係があることは容易に想像される。皇祖天照大神から稲が与えられたとする斎庭の稲穂の神勅のみでは説明がつかない。神勅に基づいて、宮中新嘗祭を「稲の祭り」と解説することは、これまた誤りである。

一方、民間で行われる新嘗祭は、記録上は『常陸国風土記』(721年)がもっとも古い。民間に伝わる家ごとの祖霊祭祀であり、粟の儀礼である。稲の新嘗ではない。神社の神事ですらない。源流が皇室でありようはずがない。

宮中から民間へという伝播が唯一の正しい流れなら、『風土記』は民間で天神地祇を祀り、米と粟を捧げる新嘗の祭りを記録すべきだが、そのような記録はあり得ない。民間の信仰は祖霊や氏神を祀る私的な祈りが基本だし、捧げ物は土地の収穫物に限られる。天神地祇すべてを祀る神社などあるはずもない。少し考えれば、誰でも容易に分かることだ。

にもかかわらず、新嘗祭の皇室発祥説が語られている。なぜだろうか。


▽3 「しろしめす」という意味

そもそもなぜ「稲の祭り」と誤り伝えられているのか。

政府・宮内庁は天皇一世一度の新嘗祭である大嘗祭について、「稲作農業を中心としたわが国の社会に、古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたもの」と公式に説明しているが、これも間違いであることは、粟の新穀が同時に捧げられることから明らかである。

なぜ稲だけではなく、粟も、なのか。

『常陸国風土記』に粟の新嘗が記録されていることは、民間には民間のさまざまな新嘗祭があったことを想像させる。柳田國男が繰り返し書いているように、日本列島はもともと稲作適地とは言い難い。水田稲作伝来以前から非稲作民が大勢いただろうし、稲作以外の農耕があったろう。稲作信仰とは別に、非稲作地域には非稲作信仰が息づいてきただろう。

神社の新嘗祭というと「稲の祭り」と思い込んでいる神道人には、「粟穂に鶉」の古い彫り物が、豊穣のシンボルとして社殿に刻まれているのを思い出してほしい。米ではなくて粟を主食とし、神聖視した日本人が間違いなくいたことに気づいてほしい。柳田がいうように、日本人はけっして稲作民族、米食民族オンリーではないのである。

稲作民も非稲作民も「わが赤子」と思し召して、「国中平らかに安らけく」と祈り、ひとつに統合するのが古来、ミメラミコトのお役目であるならば、民が信じるあらゆる神々を祀り、稲作民の米と非稲作民の粟を捧げて祈られることが素直に理解されるのではないか。

それこそが天皇統治の「しろしめす」の意味ではないのか。だから「天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇祭れ」と古代律令は定めたのだろう。

天皇の新嘗祭は、血縁共同体や地域共同体の祈りの次元を超えた、国と民を統合するための公正かつ無私なる祈りなのである。だから文化の伝播の方向性としては、皇室から民間に広がったのではなく、逆に、民間の祈りが皇室に集中したということになる。


▽4 新嘗祭は「勤労感謝の日」ではない

しかし、いつしか日本人は日本社会の多様性を忘れてしまっている。そして価値多元主義に基づく天皇統治の意義を理解できなくなってしまったのではないか。

それどころではない。戦後、日本人の「米離れ」が進み、10年前にはついにパンの消費額が米を上回るようになった。そんな時代に、日本人がかつて粟を食べていたなどという昔話はもう通用しない。だから、神道人にさえ話が伝わらないのだ。

各地の神社での稲の新嘗祭は戦後、広がったともいわれる。明治以後、国民皆兵で徴兵された国民はひとしく米を食することとなり、戦中からの米の配給、食管制度が日本人の稲作民族意識を高めた。さらに全国8万社の神社を包括する神社本庁が主導する祭式の一元的普及が「稲の祭り」としての新嘗祭を全国化していったのではないかと私は疑っている。そして逆に、粟食も粟の新嘗も、急速に忘れ去られていったのではないかと。

近現代において日本人の文化的同一化が進んだ反面、暮らしと信仰における血縁的、地域的多様性が失われていき、その一方で、かつては多様性の中心として機能した天皇は、逆に一元的社会の中心に位置付けられることになったのである。古来の多元的社会が近代になって一元化し、そのことによって天皇もまた変質したということだろうか。

だとすれば、神社関係者の使命は、日本の文化的伝統を守り伝えたいと願うのであれば、八百万の神々の存在を基本とする日本人の多様なる信仰の存在をこそ説明すべきである。多元的価値を認めることが日本の精神文明の根本であり、天皇という祈りの存在の意味もそこにあることを正しく伝えるべきである。

まるで国家宗教さながらに、新嘗祭の由来を一元的に解説することは、天皇統治の歴史と伝統を否定することになると自覚すべきだと思う。新嘗祭はけっしてキリスト教まがいの単なる「勤労感謝の日」ではないのである。


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伝統を失った日本人と天皇の未来。126代の皇統史に価値があると思うなら [天皇・皇室]

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伝統を失った日本人と天皇の未来。126代の皇統史に価値があると思うなら
(令和3年2月14日、日曜日)
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前回のブログにさまざまな反応があった。そして、やっぱりなと思った。日本人はもうすっかり近代化してしまったのではないか。ものごとの考え方が一神教化してしまったのではないか。日本古来の多神教的世界が理解できなくなっているのでないかということである。

天皇の世界は伝統オンリーでも、近代オンリーでもないが、近代オンリーとなった日本人には、伝統と革新を原理とする天皇の多神教的世界がますます理解できなくなっているのではあるまいか。

だとすれば、厄介である。その結果、何が起きるのか。


▽1 伝統と近代の共存が破れた戦後
皇居二重橋.jpeg
もし現代の日本人が日本古来の伝統的、多神教的世界観との乖離を感じることさえないのだとすれば、目の前の皇位継承問題についても、純粋な論理で考えるなら、女系継承容認でも構わないという結論に帰さざるを得ないと思う。女系継承容認=「女性宮家」創設論はまさに近代化の産物だからである。

近代化し切った日本人のありようを手放しで、完全に認めたうえで、同時に、皇室の伝統を固守せよという要求は成り立たない。伝統に近代を融合させることも至難だが、近代主義のうえに伝統主義を積み重ねることは矛盾以外のなにものでもない。

何度も書いてきたことだが、伝統と革新こそが皇室の原理である。水田稲作、漢字、仏教、律令制など、海外の先進的文化を積極的に受入してきたのが皇室の歴史である。戦後唯一の神道思想家と呼ばれた葦津珍彦は海外文化受容のセンターが皇室だったと評した。その一方で、天皇は伝統的な祭り主であり続けてきた。

日本の近代化、欧化をリードしたのも皇室だった。法律、貨幣・金融、官僚制度、軍隊、学校教育、道路網、交通機関など西洋の文化が導入され、明治政府のもとで一元化していった。天皇は近代君主、立憲君主となり、日本はアジアで最初の近代国家となった。

それは輝かしい歴史というべきだが、文明の衝突に苦しむことともなった。欧化主義にことごとく席巻される現実をもっとも憂えたのはほかならぬ明治天皇で、教育勅語の起草は明治天皇の憂慮の念が出発点だった。なにしろ修身の教科書までが翻訳物だった。数学、医学、建築、芸術から伝統が追放された。

しかし教育勅語こそは明治の近代化に翻弄された典型だった。非政治性、非宗教性、非哲学性が追求され、苦心の末にまとめられた教育勅語だったのに、煥発後は文部大臣らによって勅語それ自体が宗教的拝礼の対象とされた。教育勅語の解説を書くよう求められたのは西洋帰りの哲学者だった。明治天皇の憂慮は反故にされた。解説書が修身の教科書となることはなかった。

そして戦後、国家神道の聖典という烙印が押され、教育勅語は追放された。未曾有の戦争と敗戦が伝統を駆逐させてしまったということだろうか。それでも昭和30年代頃までは、日本の伝統が生きていた。日本の暦がキリスト教のグレゴリオ暦(太陽暦)に改暦となったのは明治5年だが、太陰太陽暦はその後も旧暦として生き続けた。度量衡、尺貫法もしかりである。

天皇は近代君主であると同時に、歴史的祭り主であり続けた。宮中祭祀の祭日は「休暇日」「休日」とされた。伝統と近代が共存したのが日本の近代である。その共存が破れたのは戦後しばらくしてのことであった。天皇の祭祀は「皇室の私事」となり、天皇は御公務をなさる特別公務員となった。他方、日本人は伝統を失い、伝統は死語となったのである。


▽2 伝統を回復させるための努力を

伝統と近代との狭間で格闘し、苦悩したのが夏目漱石だった。明治44年、和歌山での講演「現代日本の開化」で、漱石は、日本の「開化」を「外発的」と評し、「ただ上皮を滑って行き、また滑るまいと思って踏張るために神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒と言わんか憐れと言わんか、誠に言語道断の窮状に陥ったものだ」と慨嘆している。

漱石が何を考えていたのか、もっと深く知りたいと思い、江藤淳の『漱石とその時代』をひと通り読んだが、佳境に至る前に残念ながら未完のまま絶筆となっていた。古来、海外との交流から国を発展させてきたのが日本であり、近代の「開化」のみが「外発的」だったとは思われないから、「言語道断の窮状に陥った」原因はきっとほかにあるはずだが、江藤の考察から探し当てることはできなかった。

余談だが、賊軍の末裔である私にとって、漱石の『坊っちゃん』ほど痛快なものはない。何しろ江戸っ子のべらんめえと会津っぽの山嵐が、新興インテリの赤シャツと太鼓もちの野だいこ連合を木っ端微塵に懲らしめるのだから、痛快そのものだ。

だが、結末はよくない。東京の清(きよ)のもとに戻った坊っちゃんが再就職したのは、路面電車の技手であった。文明開化に抵抗しきれず、英語教育から転身したのも、当時最先端の交通機関だった。「外発的」な「開化」に抗い、踏ん張るどころか、時流に乗っている。それは英語教師となった漱石自身でもあろうか。ともあれ、なぜ漱石は伝統と近代のねじれに苦悩しなければならなかったのか。

前にも書いたように、アインシュタインが来日したのは、大正11年、漱石の講演から11年後のことだった。アインシュタインは全国を精力的に歩き、日本人が美しい自然と共生する生き方から、日本独自の文化のみならず、天皇制をも創り上げていったと見抜いた。

そして他方で、伝統と近代の相剋に苦悩する日本人に対して、「生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらを純粋に保って、忘れずにいて欲しい」(「印象記」)と願うのだった。

漱石ばかりではない。伝統の喪失をアインシュタインもまた憂いたのである。ならば、失われた「伝統」とは何だろうか。たぶんそれは何度も申し上げた多様性、多元性というものなのだと私は思う。

いまでは国土は一様にアスファルトで覆われ、伝統的自然観の前提となる多様な自然が失われている。自然との共生から生まれた日本人の宗教伝統を表現した神社建築でさえ、コンクリートで作られている。外的環境が一変したのである。アインシュタインの憂いは現実化している。

それならば、伝統を失った日本人と天皇は今後、どこへ行くのか。行くべきなのか。もはや日本の伝統などどうでも良いというのなら、皇位継承もまた男系主義にこだわる必要はない。20数年来、側近たちが先導してきた「女性宮家」創設=女系継承容認でも構わないということになる。

けれども千数百年の時を超え、126代続く皇統の歴史を価値ありと思うのなら、伝統の価値をあらためて深く認識し、国民に広く理解してもらう必要がある。先帝も今上も、ことあるごとに、皇室の伝統と憲法の理念を大切にと訴えてこられた。伝統を復権させるために国民の渾身の努力が求められている。


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生々しい天皇意識を感じない?──過激派もネトウヨも神道学者も [天皇・皇室]

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生々しい天皇意識を感じない?──過激派もネトウヨも神道学者も
(令和3年1月31日、日曜日)
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前回、SNS時代の天皇論、天皇研究のあり方について書きましたが、なかなかこれが難しいのです。
二重橋石橋.jpeg
それは日本人の天皇意識というものが抽象的、観念的なものとなり、暮らしに密着した生々しさを失っているからです。昔とは違い、天皇・皇室が他人事のように感じられるようになってしまったのです。だから、好き勝手に皇室を批判する。逆に、尊皇派の言論が口先だけのように聞こえるのもその結果なのでしょう。


▽1 「非公然」活動を自己批判した中核派

去年の秋ごろでしたか、中核派の最高指導者だという人が半世紀ぶりに姿を表しました。過去の「非公然」路線の「根底的誤り」を率直に認め、「空論主義」からの訣別と、コロナ禍の時代の要請に応じた新自由主義打倒の現実路線への転換を表明したと伝えられます。

また、先週は記者会見を開き、公然活動への路線変更をあらためて表明するとともに、過去の活動について、自身の関与を否定したうえで、「必要な階級闘争だった」と正当化したと報道されています。

中核派といえば、「天皇制反対」が主な主張とされ、平成の御代替わりには、全国各地で新型迫撃弾などを用いて、皇室関係施設のみならず交通機関や神社などへのゲリラ事件を引き起こしたことが思い出されます(『平成3年警察白書』)。社殿全焼の被害を受けたお宮もありました。

とすれば、中核派の指導者はこうした過去の反天皇活動を「空論主義」と認め、現実主義への大転換を図ったのかどうか、あるいは天皇観自体が変わったのかどうか、残念ながらメディアの報道からは真意をうかがうことはできません。


▽2 民の側のさまざまな天皇意識

前にも書いたことですが、キリスト教世界では絶対神の存在を大前提に、真理と正義の考え方、そして人間の行いは一元的に、演繹的に定まり、それ以外の思想と行動は徹底的に排除されます。キリスト教の鬼っ子としての共産主義も同様です。天地創造から終末までの歴史観が唯物史観に、神と悪魔の闘争が階級闘争史観に置き換えられたまでのことでしょう。

しかし日本の多神教文明はこれらとは一線を画すものです。皇室には皇室の天皇意識があるのと同時に、民には民のさまざまな帰納的天皇意識が共存し、多様な価値観の共存による社会の平和が保たれてきたのです。中核派の指導者はそこに気づいているでしょうか。

たとえば私の郷里は古来、絹の里として知られていました。養蚕と機織りの技術を教えてくれたのは天皇の妃とされ、お妃を祀る神社が点在しています。土地の人たちはいい繭が採れるように、いい織物が織れるようにと「機神さま」に祈ったのです。人々の暮らしは生々しい天皇意識に支えられていました。

朝から晩まで町に鳴り響いていた機織り機の音がパッタリと途絶えたのは、昭和40年代の日米繊維交渉の結果でした。沖縄返還とのバーターで、古代から続く日本の繊維業は捨て石にされたともいわれます。養蚕と機織りを通じた土着的な生活感のある根強い天皇意識が衰微していくのは目に見えています。


▽3 好き勝手な天皇論が溢れる

わが郷土だけではありません。土着の天皇意識が全国的に失われつつあります。現代人はすでに定住性を失い、つねに移動を繰り返す遊牧民化しているからです。故郷という日本語が死語と化したのです。

かつては地縁共同体や血縁共同体、あるいは職能集団に特有の強固な天皇意識があったはずなのに、それが失われています。戦後の経済成長とともに、日本人は集団性を失い、どんどん個人化してしまったからです。

歴史的、集団的な暮らしに密着した天皇意識は薄れ、個人の観念的、抽象的な天皇意識にとって代わり、あまつさえ好き勝手な天皇論が世の中に満ち溢れています。反天皇的姿勢のマスメディアもさることながら、SNSの世界はその極みです。祖先たちの天皇観など知る由もなく、やりたい放題のアラシの結果、何が起きるかなど、考え及ばないのでしょう。目の前の皇位継承問題など危うい限りです。

他方、皇室を取り巻く環境も昭和40年代に一変しています。かつての宮内庁は旧華族出身の職員もいて、陛下を家長とする大家族のような雰囲気があったそうですが、他省庁からの横滑り組が増え、国家公務員としての意識が勝るようになり、言葉遣いさえ変わっていきました。ふつうの官庁になったのです。

そして古来、天皇第一の務めとされてきた天皇の祭祀が側近による一方的かつ無法な簡略化、改変に晒されることになりました。それを最初に「工作」したのが堂上家出身の入江相政侍従長だったことは象徴的です。天皇は皇室の伝統と同時に、藩屏を失ったのです。


▽4 土臭い信仰を失った神道学者

人一倍、尊皇意識が強いはずの神道人も大して変わりません。援軍のいない陛下はますます孤独です。

何年か前、講演を依頼され、大嘗祭の「米と粟」についてお話ししました。日本列島には稲作民も畑作民もいる。国と民をひとつに統合するため、天皇は皇祖神のみならず天神地祇を祀り、米と粟を捧げて祈るのだと話したところ、最前列に座っていた著名な神道学者から「大嘗祭は稲の祭りではないか」との反論を受けました。

最近でこそ、大嘗祭が「米と粟の祭り」であることが理解されるようになりましたが、それでも「稲の祭り」に固執する大学教授もいるのです。どうしてでしょうか。

神道入門書とされている本居宣長の『直毘霊』を読むと、不思議ですね、冒頭、「日本は天照大神がお生まれになった国だ」という一節で始まります。記紀神話のように天地開闢から説き起こされず、キリスト教的な一神教的論理の組み立て方がされています。大神以前の神々がいないのです。多神教の否定です。

宣長を高く評価する神道学者たちが「稲の祭り」に凝り固まるのも当然なのでしょう。それにしても、教授が生まれ育ち、奉職するお宮のある土地がけっして稲作地帯ではないことに思い及ばないとしたらおかしいでしょう。信仰が暮らしとは無縁の観念論であることが暴露されます。

古代から鉱業、林業、セメントで栄えてきた教授の郷里は、名だたる蕎麦処として知られるくらいで、主食は粟や麦、芋だったでしょう。畑作の民なら当然、畑作物を土地の神に捧げ、祈ってきたはずです。もし天皇が「稲の祭り」しかしないなら、畑作民は天皇の祭りにシンパシーを感じるでしょうか。逆に疎外感を感じるのではありませんか。

天皇が粟を捧げて祈ればこそ、畑作民は天皇を身近に感じるはずです。それは稲作民も同じでしょう。国と民を統合するスメラミコトたる天皇は、であればこそ皇祖神ほか天神地祇を祀り、米と粟を捧げて祈らなければならないのでしょう。

生々しい暮らしに根づいた土臭い信仰を失った神道学者には、過激派やネトウヨと同様に、それが理解できないということでしょうか。いま生々しい天皇意識を持つ民といえば、陛下と親しく交わる被災者たちでしょうか。しかし行幸の機会が少ないコロナ禍の昨今にはそれも厳しくなりました。


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【関連記事】宮中の祭儀──いつ、誰が、どこで、いかなる神を、どのようにまつるのか(「教育再生」平成24年4月〜25年2月)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2012-04-01-2
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「斎藤吉久のブログ」令和2年閲覧数ランキング・トップ10 [天皇・皇室]


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「斎藤吉久のブログ」令和2年閲覧数ランキング・トップ10
(令和2年12月27日)
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今年もあと数日となりました。
ここ数年は御代替わりを中心に書いてきたつもりです。書きたいテーマはあれど、書き足りないことの方が多かったように思います。どの程度、読んでくださる方の心に届いたのか、心許ない限りです。
さて、以下は今年の閲覧数ランキング・トップ10の記事です。評価は読者の方々にお任せします。


1位 男系主義の根拠が理解できない。園部逸夫vs御厨貴「週刊朝日」対談が示してくれた現代知識人のお寒いレベル(3月8日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-08

2位 天皇制をやめるんですか──伊藤智永・毎日新聞編集委員の皇室記事を読んで(1月5日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-01-05

3位 どうしても女性天皇でなければならないのか。男系を固守することは不正義なのか。なぜ男系の絶えない制度を考えようとしないのか?(2月9日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-02-09?1609042422

4位 「皇統は一系にして分かつべからず」とは男系継承固持にほかならない(5月17日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-05-17?1609042126

5位 男系継承派と女系容認派はカインとアベルに過ぎない。演繹法的かつ帰納法的な天皇観はなぜ失われたのか(4月5日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-04-05

6位 皇兄弟による皇位継承は過去に24例。次の御代替わりは異例にあらず(5月24日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-05-24

7位 神社本庁創立の精神からほど遠い「金刀比羅宮の離脱」(6月21日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-06-21

8位 椎名さん、逆に人材不足でしょ。葦津珍彦のように後進を育成する人がいないのです(5月31日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-05-31?1609041949

9位 眞子内親王の皇籍離脱をけしかける登誠一郎元内閣外政審議室長の不遜。安倍総理の次は秋篠宮親王に直言。女性天皇・女系継承容認へまっしぐら(1月26日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-01-26

10位 「皇統は男系に限る」と断言しつつ、根拠は神勅と歴史以外に見当たらない『帝室制度史』(5月10日)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-05-10?1609042245


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皇太后陛下「発熱を押しての明治神宮御参拝」は美談か? 御代拝制度の復活を望む [天皇・皇室]



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皇太后陛下「発熱を押しての明治神宮御参拝」は美談か? 御代拝制度の復活を望む
(令和2年11月6日)
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明治神宮は今年、鎮座100年を迎えた。先月31日から大祭が5日間にわたって執り行われ、これに先立って28日午前には天皇・皇后両陛下ならびに太上天皇・皇太后両陛下がそれぞれ参拝された。同日午後には秋篠宮同妃両殿下が参拝された。

太上天皇・皇太后両陛下にはご高齢を押しての御参拝で、とくに皇太后陛下には白内障などの手術後の経過の思わしくないなか、さらに発熱の症状を押しての参拝とも伝えられる。

それだけ御参拝への強いご意思がおありだったのだろうと拝察される。


▽1 女官の御代拝で足りる

しかし本来的にはそうした御参拝があるべきことなのかどうか。昭和の40年代まで行われていたように、御代拝ではいけないものなのだろうか。

現代では天皇が皇后を伴って、各地を行幸なさることは当たり前のように考えられている。だからコロナ禍でにわかに自由にならなくなると、逆に大問題であるかのように騒ぎ出す人たちもいる。けれども長い皇室の歴史から考えれば、天皇が御所を離れて御幸なさるのはけっして普通のこととはいえない。

天皇のマツリゴトはシラスことがその本質とされた。シラスとは知ることであって、民の喜びのみならず、悲しみ、苦しみを知り、共有することであったという。そのため、天皇に代わって目となり、耳となる側近の存在は重要であつた。

いまは交通手段が古代とは比べものにならないほど発展しており、天皇がみずから国民と親しく接し、交流することは可能である。明治以後、行動主義を身につけられた天皇だが、コロナ禍の時代はむしろ側近の機能をあらためて思い出させてくれる。

今回、皇太后陛下のご体調が優れないというのであれば、側近の女官に御代拝を命じれば済むことではなかっただろうか。


▽2 御代拝制度を勝手に廃止した宮内庁

前例はいくらでもある。入江日記を読めば、「皇后さまお風邪。御代拝」という記述が何回も出てくる。香淳皇后が風邪を召されたため、代わって女官が三殿にお参りしたのである。それは異例のことではないし、ご不例とあればむしろ神事は避けられるべきなのである。そもそも祭祀の主体は天皇であって、皇后ではない。

ところが、昭和天皇の側近たちは、憲法の政教分離を持ち出して、御代拝の制度を勝手に廃止してしまった。その結果、平成の時代になると、経緯を何も知らない人たちが「皇太子妃のお詣りがない」と理不尽な攻撃を加えたのだった。

いまからでも遅くはない。御代拝制度の復活をつよく促したい。発熱を押してのご参拝は美談とは言いがたい。


【関連記事】「しらす」政治と「うしはく」政治──天皇統治の本質(「神社新報」平成11年11月8日号)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1999-11-08
【関連記事】資料編・昭和の宮中祭祀簡略化──側近の日記から〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2008-05-05?1604631213
【関連記事】不正確な宮内庁の祭祀情報──誰が妃殿下を苦しめているのか〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2008-06-17
【関連記事】一面的な谷沢永一先生の雅子妃批判──「WiLL」掲載論考の問題点〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2008-10-14?1604627543
【関連記事】「しらす」と「うしはく」──なぜレーヴェンシュタインを引用するのか 4〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2017-06-25

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「文化の日」とは何だったのか? 伝統と近代の微妙な関係への自覚 [天皇・皇室]

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「文化の日」とは何だったのか? 伝統と近代の微妙な関係への自覚
(令和2年11月4日)
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昨日は11月3日。いまは「文化の日」である。陛下は皇居・宮殿で文化勲章親授式に臨まれた。

いまは、というのは、以前は違うからだ。祝日法で「文化の日」が定められたのは昭和23年7月である。それなら、その前はどうだったのか、少し整理してみたい。


▽1 GHQが同意した「11月3日」の祝日化

なぜ「11月3日」が「文化の日」の祝日とされたのか。「もともとは明治天皇の誕生日(明治節)だった」と気の早い人は言いたがる。しかしちょっと待ってほしい。物事には順序がある。

戦後の歴史で考えると、11月3日は日本国憲法が公布された日であった。昭和21年11月3日に公布され、その半年後、22年5月3日に憲法が施行された。5月3日は「憲法記念日」とされた。

なぜ「5月3日」なのか。なぜ「11月3日」だったのか。キリの良い日には見えない。国会議事録にはそれらしい理由が見当たらない。だが、Wikipediaには興味深い情報が載っている。

当初は11月1日に新憲法公布、5月1日に施行のスケジュールの予定だったらしい。しかしそれでは施行日がメーデーと重なってしまう。そこで直前になって、5月3日に変更されたというのである。

参議院側は憲法発布の11月3日を「憲法記念日」とすることを強行に主張した。しかしGHQが拒絶した。「11月3日」へのこだわりの理由は分からないが、GHQの方はどうやらかつての「明治節」を嫌ったらしい。

一方、衆議院は施行日の5月3日を「憲法記念日」とすることに同意したことから、参議院は立場を失ってしまう。そこでGHQは11月3日を「別の記念日にしたら」と和解策を提示した。で、結局、「文化の日」が定められたという。そしてこの祝日法の制定によって、昭和二年勅令第二十五号が定めていた「明治節」は廃止された。

面白いのは、「明治節」を強く嫌っていたはずのGHQが「11月3日」の祝日化に同意したことである。

占領前期と占領後期では、たとえば宗教政策にしても大きな違いがあるが、23年ごろにはすでに変化が生まれているということがこれで推測できる。つい2年前には苛烈な、いわゆる神道指令が発令されたのにである。政策の早期転換の背景に何があるのだろうか。歴史の謎だろう。

もし明治節を徹底して嫌うなら、たとえば12月1日憲法公布、6月1日施行とし、12月1日を憲法記念日と定めることだって可能なはずである。そうはならずに、「11月3日」の明治節は「文化の日」として残ったのである。GHQが明治節を奪ったかのような俗説は当たらない。

祝日法では「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日とされている。趣旨がいまひとつわかりづらい。モヤモヤ感があるのは、制定に至る紆余曲折のせいだろうか。


▽2 誕生日を祝うキリスト教文化の影響

さて、明治節である。明治節とは何だったのか。

明治天皇の偉業を記念して、「明治節」が定められたのは、昭和2年3月だった。その背後には制定を望む国民運動の熱心な展開があったことが知られている。

「11月3日」は既述したように明治天皇の誕生日だった。いや、明治天皇がお生まれになったのは、正確には「11月3日」ではない。正しくは嘉永5年の「9月22日」である。当時は太陰太陽暦だった。明治5年の改暦で、太陽暦すなわちキリスト教のグレゴリオ暦に代わり、「11月3日」とされた。

だから明治元年の布告では、「9月22日」に「天長節」を祝うこととされていた。改暦の翌年、「11月3日」が「天長節」となり、「年中祭日祝日」のひとつに定められ、休日となった。41年制定の皇室祭祀令には、天長節祭が小祭として位置付けられた。

つまり、近代の欧米化が「11月3日」を選ばせたのである。日本古来の伝統ではない。

もともと天子の生誕日を祝う「天長節」は古代中国の文化である。8世紀、玄宗皇帝の時代には祝い事が行われ、日本でも同じ8世紀、光仁天皇の祝宴が開かれたらしい。

しかし中国も日本も、誕生日を祝う慣習が古くからあったわけではない。日本では大晦日に歳神を迎え、人々はいっせいに歳をとった。近代以降も満年齢と数え年が共存し、それが戦後までしばらく続いたのである。けれども学校や家庭でお誕生日会が催されるようになり、誕生日の個人化が浸透したのだろう。キリスト教文化の土着化ということだろうか。

古くは、天皇から民草に至るまで、個人的な祭日といえば、亡くなった日を記念するものだった。明治天皇の「天長節」が「明治節」となり、やがて「文化の日」に変容していった近現代の歴史には、キリスト教文化の強い影響が背後にうかがえる。

しかしそのことは何ら驚くに値しない。日本の皇室こそは古来、海外文化移入のセンターとして機能してきたからである。水田稲作、漢字、仏教などその例は枚挙にいとまがない。そして日本の近代化の先頭に立たれたのが明治天皇であった。そしてアジアで最初の近代国家が生まれたのである。


▽3 保守派は自画像を正確に描けているのか

明治45年7月に明治天皇が亡くなり、大正天皇が皇位を継承された。当然、天長節は、大正天皇の誕生日である8月31日に変更された。

その一方で、明治天皇の誕生日ではなく、崩御日である7月30日(本当はその前日だった)は、宮中祭祀の世界では、明治天皇祭(先帝祭)という祭日となった。先帝祭は天皇みずから祭典を行う大祭であった。

大正15年12月に今度は大正天皇が亡くなる。すると、7月30日は明治天皇をしのぶ先帝祭としてはなくなり、先帝以前三代の例祭として、親祭のない小祭として斎行されることとなった。

明治が遠くなり、明治が消えていくのは忍びがたい。そういう国民の熱い思いが、昭和2年3月に実現させたのが明治節で、明治天皇の誕生日がこれに当てられた。皇室祭祀令が改正され、宮中三殿で明治節祭が執り行われることとされた。四方節、紀元節、天長節、明治節は四大節と呼ばれた。

このとき崩御日ではなく、誕生日の「11月3日」が選ばれたのも、やはり近代化の結果ということだろうか。

蛇足ながら、「昭和の日」制定にも同様のパターンが見受けられる。法制化は保守派勢力の強力な国民運動の成果だが、大行天皇の誕生日を国民的祝日とする考え方はけっして日本古来の伝統とはいえない。つまり、日本の保守派は、民族の伝統を追求したのではなくて、近代化によって、欧米の文化を受肉化した結果として、「明治節」や「昭和の日」を制定させたといえる。

問題は日本の保守派が、日本の伝統と近代の微妙に錯綜した関係をどこまで自覚しているか、である。もしも正確な自画像を描けずに、伝統重視を叫びつつ、非伝統主義に傾くなら、たとえば、いま目の前に突き付けられた皇位継承問題も、歴史と伝統の真髄を見失った、不本意な解決で終わるだろう。


【関連記事】伝統主義者たちの女性天皇論──危機感と歴史のはざまで分かれる見解(「論座」平成16年10月号から)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2004-10-01
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【関連記事】昭和50年8月15日、天皇は祭祀大権を奪われ、そして歴史的混乱が始まった。──令和2年APA「真の近現代史観」落選論文〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-10-22

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昭和50年8月15日、天皇は祭祀大権を奪われ、そして歴史的混乱が始まった。──APA「真の近現代史観」落選論文 [天皇・皇室]

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昭和50年8月15日、天皇は祭祀大権を奪われ、そして歴史的混乱が始まった。
──令和2年APA「真の近現代史観」落選論文
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1 その日、毎朝御代拝の祭式が変更された

 昭和50年8月15日、宮内庁長官室で会議が開かれた。「議事録はない」(宮内庁)から、誰が何を話し合ったのか、詳細は不明だが、関係者の日記やOB職員の証言で概要を知ることはできる。すなわち、宮内官僚による、天皇の聖域である宮中祭祀の祭式の、にわかな変更の決定であり、その意味するところは天皇のあり方に関わる歴史的変革であった。

 入江相政侍従長(肩書きは当時。以下同じ)は日記に、「長官室の会議。神宮御代拝は掌典、毎朝御代拝は侍従、但し庭上よりモーニングで」とメモ書き風に書き込んだ(『入江相政日記 第5巻』朝日新聞社、1994年)。

 卜部亮吾侍従の日記には、その翌日、「伊勢は掌典の御代拝、畝傍(神武山陵)は侍従、問題の毎朝御代拝はモーニングで庭上からの参拝に9月1日から改正の由」とある(『卜部亮吾侍従日記 第1巻』朝日新聞社、2007年)。最大のテーマは毎朝御代拝の祭式改変だったことが分かる。

 実際の変更は9月1日からだった。『昭和天皇実録 第十六』(宮内庁監修、2018年)は「御代拝方法の変更」の見出しで、次のように説明している。

「この日より、毎朝および旬祭の御代拝方法が改められる。
 従来、毎朝および旬祭の御代拝は、侍従が浄衣を着用の上、殿上拝礼により奉仕していたが、今後は、御代拝侍従の服装はモーニングとし、御代拝は庭上拝礼による奉仕に改め、各御殿の正面木階下正中において拝礼することとする。
 ただし、雨天の場合は神楽舎において各御殿を拝礼する。
 また服装の変更に伴い、御代拝侍従の乗用車両にも変更があり、これまで吹上御所から賢所までの往復には馬車を使用していたところ、この日以降は自動車を使用することとする」

 殿上から庭上、装束から洋装、馬車から自動車へという劇的変更は、側近の記録から、長官室会議の決定によることが明らかだが、『実録』はその経緯について言及せず、理由についても説明がない。宮内庁は真相を秘している。

 それなら何が起きたのか。宮内庁OBは当時の生々しい状況を記憶している。

 天皇の祭祀などの法的根拠となっていた「皇室令及び附屬法令廢止に伴い、事務取扱に關する通牒」(昭和22年5月。以下、依命通牒)が、職員必携の『宮内庁関係法規集』から突如、「破棄」され、そして祭式が一変したというのである。宮中祭祀に携わる職員たちの間に大きな衝撃が走ったのはいうまでもない(「『昭和天皇の忠臣』が語る『昭和の終わり』の不備」=「文藝春秋」2012年2月号。聞き手は斎藤吉久)。

 単に祭祀の形式が変更されたのではない。天皇の祭祀大権と法的解釈・運用の大問題だった。


2 国と民を統合する天皇の祭祀

 天皇の祭祀には少なくとも千数百年以上の長い歴史と重みがある。

 京都御所の拝観コースを進んでいくと、紫宸殿の裏手に、東面する寝殿造の清涼殿が見えてくる。紫宸殿と並ぶ儀式用御殿であり、日常の御殿としても使用された(宮内庁HP)。

 正面向かって左、目と鼻の先に、白く浮かび上がった石灰壇が見える。きわめて特殊な構造で、地面から漆喰を塗り固め、板床の高さまで盛り上げてある。庭上下御といって、天皇は国と民のために地面にまで降りられ、へりくだって祈られるという意味がある。

 平安時代、宇多天皇に始まり、以降、一日も欠かさず、祈りは捧げられた。石灰壇御拝と呼ばれる(八束清貫「皇室祭祀百年史」=『明治維新神道百年史 第1巻』神道文化会、1984年所収)。

 天皇の祈りは国と民を統合する公正かつ無私なる祈りである。

 古代律令には「およそ天皇、即位したまはむときはすべて天神地祇祭れ」(神祇令。『律令』日本思想大系新装版、岩波書店、1994年)とある。古代の日本は氏族社会であり、各氏族にはそれぞれの氏神があった。民には氏神のほかに祈りの対象はない。しかし天皇は違う。

 皇室第一の重儀とされる新嘗祭は皇祖神のみならず、民が信仰するあらゆる神を祀り、祈りが捧げられる。天皇一世一度の大嘗祭もむろんである。天神地祇すべてを祀り、祈るのは天皇だけである。

 天皇の祈りは国と民のために捧げられる。天皇はスメラミコトであり、天神地祇を祀り、「国中平かに安らけく」(「後鳥羽院宸記」建暦2年10月25日条に引用された大嘗祭の申し詞。『皇室文学大系 第4輯』列聖全集編纂会編、1979年)と祈られ、国と民をひとつに統合する。公正無私なる祭り主ゆえに天皇無敵とされた。

 祭祀は天皇第一のお務めだった。

 順徳天皇の『禁秘抄』は冒頭に「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす。旦暮(あさゆう)、敬神の叡慮、懈怠なし」とある(読みは関根正直『禁秘抄釈義 上巻』明治34年による)。

 後水尾天皇は皇子への手紙に、『禁秘抄』を引用して、「敬神を第一に遊ばすこと、ゆめゆめ疎かにしてはならない。『禁秘抄』の冒頭にも、およそ禁中の作法は、まず神事、後に他事……」と書かれ、心得を示された(辻善之助『日本仏教史 近世篇之2』岩波書店、1953年など)。

 歴代天皇は国民統合の祭祀を最重要のお務めとして継承された。


3 依命通牒第3項が守った伝統

 明治になり、都は東京に遷り、明治4年10月、毎朝御拝は、天皇に代わり側近の侍従に賢所で拝礼させる毎朝御代拝となった。石灰壇は御所には設けられなかった。

 この年、行われた大嘗祭について、『明治天皇紀 第2』(宮内庁編、1969年)は、「いまや皇業、古に復し、百事維れ新たなり。大嘗の大礼を行うに、あに旧慣のみを墨守し有名無実の風習を襲用せんや」と批判し、「偏に実際に就くを旨」として整備されたと、数頁にわたって詳説している。

 明治人の現実主義、合理主義が天皇の祭祀を近代化させたということか。しかしそれから百年後、昭和50年の未曾有の変革はこれとは一線を画する。明治の天皇は近代君主、そして立憲君主となられたが、歴史的な祭り主であり続けた。しかし昭和天皇の側近は国民統合の祭り主を否定したのである。

 戦後の昭和22年5月、日本国憲法の施行に伴い、皇室令は全廃された。皇室祭祀令の廃止で、天皇の祭祀は明文法的根拠を失った。宮中祭祀に携わる掌典職は内廷の機関となり、職員は天皇の私的使用人の立場になった。祭祀存続の危機である。

 しかし同日に発出された依命通牒によって、伝統は辛うじて守られた。依命通牒第3項には「從前の規定が廢止となり、新らしい規定ができていないものは、從前の例に準じて、事務を處理すること」(情報公開によって入手した起案書)とある。

 前出の宮内庁OBは、「当時は占領期です。昭和20年暮れにGHQが発令した、いわゆる神道指令は『宗教を国家から分離すること』を目的とし、駅の門松や神棚までも撤去させるほど過酷でしたから、皇室伝統の祭祀を守るため、当面、『宮中祭祀は皇室の私事』という解釈でしのぎ、いずれきちんとした法整備を図る、というのが政府の方針でした」と説明している(前掲インタビュー)。

 天皇の祭祀はこうして占領中も存続した。それどころか、占領後期になると、神道指令の「宗教と国家の分離」は「宗教教団と国家の分離」に解釈が変更され、昭和26年6月の貞明皇后の御大葬は旧皇室喪儀令に準じて行われ、国費が支出され、国家機関が参与した。

 しかしその後も、宮中祭祀が「皇室の私事」という法解釈から脱却することはなく、あまつさえ占領前期への揺り戻しが起きた(拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』2009年など)。


4 依命通牒「破棄」の真相

 複数の宮内庁OBによれば、昭和50年8月15日の宮内庁長官室会議のあと、庁内に指示がまわった。バインダー式だった『宮内庁関係法規集』から昭和22年の依命通牒を外せというのである。依命通牒第3項は宮中祭祀存続の命綱だったから、掌典職にとっては寝耳に水の衝撃で、職員たちは依命通牒の「破棄」ときわめて深刻に捉えた。そして実際、毎朝御代拝の祭式は一変した。

 しかしじつのところ、依命通牒は「破棄」されてはいない。しかも毎朝御代拝は、旬祭も同様だが、明治41年公布の皇室祭祀令附式には規定がない。つまり依命通牒とは直接の関係はない。どういうことなのか。

 平成3年4月25日の参院内閣委員会で、答弁に立った宮尾盤次長は「(依命通牒は)現在まで廃止の手続はとっておりません」と明言している。答弁の要点は、(1)依命通牒は新憲法施行当時の宮内府内部の文書であること、(2)廃止の手続きは取られていないので、文書はいまも生きていること、の2点である。しかしこれはおかしい。

 第一に、依命通牒は行政官庁の命令に基づき、補助機関が発する通達であり、昭和22年5月の宮内府長官官房文書課発45号、高尾亮一課長名による依命通牒は、各部局長官に対して通達されたのであって、宮内府内部の事務処理の考えを宮内府内部に向けて発したのではない。

 第二に、依命通牒がもし生きているのなら、昭和50年9月1日以降、天皇の祭祀はいかなる法的根拠に基づいて変更されたのか。宮内庁関係者しか手にしないような「法規集」に、なぜ記載されないことになったのか。

 謎を解くカギは、同じ委員会での秋山收内閣法制局第二部長の答弁だ。

「皇室の行います儀式とか行事につきましては、憲法あるいはその他の規定に違反しない限りは、法令上の根拠がなくても皇室がその伝統などを考慮してこれを行っても現行憲法上何ら差し支えないものでございまして、お尋ねの通牒は3項、4項をあわせ読めば、現行憲法及び法令に違反しない範囲内において従前の例によるべしという趣旨でありますので、憲法上特段問題はない」

 依命通牒第4項には「前項の場合において、從前の例によれないものは、當分の内の案を立てゝ、伺いをした上、事務を處理すること」とある。第3項と第4項をあわせ読んで、政教分離に違反する部分については改める、という判断を、昭和50年当時の当局者は採ったことになる。

 だから、宮尾答弁のように、依命通牒は「廃止」の手続きはとらない。したがって効力はいまも続いているということになる。

 しかしそれは、「新しい規定ができていないもの」について、「従前の例に準じて事務を処理」しないことであって、「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」(第3項)と定める依命通牒を、みずから反故にしたのであり、事実上、「廃止」したのと同じことではないのか。

 要するに、宮内庁高官は昭和50年に、密室で、依命通牒の解釈・運用を変更したのである。理由は憲法の政教分離主義にあることは無論である。占領後期になってGHQが打ち捨てた絶対分離主義への先祖返りであり、天皇の聖域への側近の政治介入は政教分離に違反する大きな矛盾でもあった。

 結局、古来の祭り主天皇は否定され、宗教の価値を認めているはずの日本国憲法の規定に基づいて、非宗教的な象徴天皇へと変質させられたのである。皇室祭祀令に記載のない毎朝御代拝および旬祭の御代拝の変更は、そのための一里塚ではなかったか。明文法ならいざ知らず、慣習法に基づく祭式の変更は容易だっただろう。


5 歴史から逸脱する象徴天皇

 前掲の宮内庁OBによれば、昭和40年代の庁内には、「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」(憲法第20条第3項)と定める政教分離規定を、字義通り解釈・運用する考え方が、まるで新興宗教と見まごうほどに蔓延し、側近たちは祭祀から遠のき始めていたという(前掲インタビュー)。

 たとえば、以前なら、行幸の日程は祭祀と重ならないよう配慮されたが、古来の祭祀優先主義は無遠慮に破られ、逆にいわゆる御公務が優先されるようになった。

 そして昭和天皇の晩年、祭祀の簡略化が起きた。平成の御代替わりには、大嘗祭が行われるかどうかが大問題になった。政教分離の絶対主義が御代替わりに大きな影を落とし、諸儀礼は国の行事と皇室行事とに無残に引き裂かれた。

 祭祀簡略化は平成の時代にも繰り返された。御公務御負担軽減策で御公務は減るどころか逆に増え、祭祀のお出ましばかりが激減した。そして令和の御代替わりは平成と同様に非宗教化された。前代未聞の「退位の礼」が創作され、譲位と践祚は分離され、代始改元は退位記念改元に変質し、大嘗宮は角材、板葺で設営された(前掲拙著など)。

 それだけではない。

 平成8年、政府・宮内庁は皇位継承制度の検討を非公式に開始し、やがて女性天皇容認ならいざ知らず、過去に例のない女系継承をも容認するに至った。皇室典範有識者会議の報告書は「女性天皇・女系天皇への途を開くことが不可欠」と明記する(官邸HP)。

 そしていま、女系継承容認は後戻りできない段階に来ている。世論調査では、国民の8割以上が女帝を容認している(森暢平「女性天皇容認! 内閣法制局が極秘に進める。これが『皇室典範』改正草案」=「文藝春秋」平成14年3月号、「女性・女系天皇、『容認』2年前に方針、政府極秘文書で判明」=「産経新聞」平成18年2月17日など)。

 日本国憲法に基づき、国事行為のみを行う非宗教的な象徴天皇が天皇の本質であるならば、男系継承にこだわる必要はない。首相を任命し、法律を公布し、国会を召集するのに男女の別はあり得ない。しかし天神地祇を祀り、祈る、公正かつ無私なる祭り主こそが天皇であり、そこに永遠の価値を見出すなら、結論は変わり得る。男系主義の根拠はほかにあり得ない。天皇観の相克である。

 かつてアインシュタインは警告している。自然との共生が日本人の国民性を形成し、天皇制をも生んだと見抜いた天才は、他方で、伝統と西洋化の狭間で揺れる日本の近代化の苦悩を察知していた。

 来日中に綴った「印象記」には、「西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでいる」日本に理解を示しつつ、「生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらを純粋に保って、忘れずにいて欲しい」とある(『アインシュタイン、日本で相対論を語る』杉本賢治編訳、2001年など)。

 美しく、ときに荒ぶる自然と共生してきた日本人は、その自然観に基づく、多神教的、多宗教的文明を創りあげ、天皇制という国民統合のシステムをも編み出した。多様なる民を多様なるままに統合するのが天皇であり、そのための祭祀であった。

 しかしいま、憲法第一主義によって祭祀の歴史的価値は否定され、非宗教的象徴天皇制への変質が進んでいる。目の前で進行する過去の歴史にない女系継承容認=「女性宮家」創設論議はその結果ではないか。アインシュタインの警告はいまや現実となった。


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毎日さま、「平成流」なんてあるんですか? 先帝ははっきり否定されています [天皇・皇室]

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毎日さま、「平成流」なんてあるんですか? 先帝ははっきり否定されています
(令和2年10月4日)
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毎日新聞が9月末から「今、皇室に思うこと」というインタビュ・シリーズを始めました。意欲的な取り組みですが、根本的疑問を感じます。

企画の提案理由は、新型コロナの感染拡大によって、皇室と国民との触れ合いの機会が失われている。先帝は地方ご訪問で積極的に国民と交わる「平成流」を築き上げたが、両者の関係は変わるのか、というものです。

しかしこの問題意識こそ、天皇・皇室と民との歴史的な関係を歪めるものではないでしょうか。


▽1 問われているのは近代天皇制である

歴史的に見れば、天皇が民との直接的交わりを持たれるようになったのは、平成の時代ではなくて、明治です。近代化によって、天皇は行動する君主となられたのです。少し考えれば、誰にでも分かることです。

したがって、新型コロナは「平成流」なるものを揺るがしているのではなく、近代の行動主義的天皇像を根本的に問いかけているということになります。基本的な視点を誤ってはなりません。

第2に、説明では、先帝が「平成流」を築き上げたことになっていますが、先帝ご自身が否定しておられるはずです。

具体的にいえば、平成21年11月6日、「ご即位20年」の記者会見で、陛下は「平成の象徴像というものを特に考えたことはありません」とはっきりと否定されています。〈https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h21-gosokui20.html

それなのになぜ、「平成流」があったかのような企画が作られるのでしょうか。むしろそこが問われるべきでしょう。

そして第3に、この「平成流」の出所とその経緯こそ、じつにいかがわしさを含んでいるのでした。そう言えるのは、私の体験談があるからです。

「女性天皇」「女系天皇」が話題にもならなかったころのことです。私が関わっていた総合情報誌の編集部に宮内庁が盛んにアプローチを試みてきました。毎号スクープで埋める雑誌のセールスポイントのひとつが皇室記事でした。ず抜けた敏腕記者が書いていたのは無論のことです。

そして、であればこそ、その記者に、「侍従長が会いたがっている」のでした。その目的はふたつです。女帝容認の世論を喚起することと「平成流」を流行語にすることでした。この2つはセットだったのです。それはどういうことなのか。


▽2 2.5代御公務主義天皇論を背景に

先帝は平成元年1月9日、即位後朝見の儀で、「大行天皇の御遺徳に深く思いをいたし」「日本国憲法を守り」と仰せになり、その後もことあるごとに、長い天皇の歴史と憲法の規定とを追求されると表明してこられました。ところが、メディアは後者のみを報道してきたという経緯があります。〈https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/okotoba-h01e.html#D0109

先帝にとっては、昭和天皇もまた憲法を守られた天皇であり、「長い天皇の歴史に思いを致」(ご即位20年会見)す以上、「平成流」はあり得ません。

しかし、まるで先帝が左翼がかった「護憲派」であるかのような一面的な見方が、側近たちに女帝容認と「平成流」を社会に広めさせたのではありませんか。歴史的な126代の祭り主ではなく、戦後憲法的な2・5代の特別公務員と見る御公務主義天皇観がその背景にあるのでしょう。

天皇のご意思とは無関係に、官僚とメディアの合作によって、「平成流」は女帝容認論とともに歩き出しました。そしてさらに助演男優として一枚加わったのがアカデミズムです。

毎日新聞のインタビューで、最初に担ぎ出されたのは、河西秀哉・名古屋大大学院准教授でした。天皇の祭祀には無関心で、「愛子さま天皇」を夢想しているらしい河西先生は聞き手の和田武士記者の掌の上で、「平成流」の危機を得々と語っています。〈https://mainichi.jp/articles/20200929/k00/00m/040/073000c

第3回は、以前、宮中祭祀を廃止し、代わりに皇太子(今上)とネカフェ難民との食事会を大胆に問題提起した原武史・放送大学教授で、今度はコロナ禍で象徴天皇制が不安定になる可能性を指摘し、テレビで直接、国民にメッセージを発信することを提案しています。〈https://mainichi.jp/articles/20200930/k00/00m/040/156000c

126代続いてきた天皇の歴史からすれば、天皇のご意思もお言葉も、肉体を持った生身の個人の意思や言葉ではありませんが、官僚も研究者も報道関係者もそのような歴史とは無縁のところにいるのでしょう。だからこその女帝容認論であり、「平成流」なのです。

いま私たちに問われているのは、天皇本来のお務めとは何か、現行憲法論的な国事行為・御公務中心主義でいいのか、ということではないのでしょうか。

 【関連記事】宮中祭祀を廃止せよ?〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2008-04-15
 【関連記事】「平成皇室論」などあり得ない───ご即位20年記者会見を読む〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2009-12-01-1
 【関連記事】護憲派の「象徴」に祭り上げられる皇室──部分のみ報道するメディア〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2014-03-02
 【関連記事】御活動が国民との信頼の基礎なのか?──なぜレーヴェンシュタインを引用するのか 2〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2017-06-23
 【関連記事】御在位30年。毎日、読売、産経社説への違和感──象徴天皇、国民主権、平和主義、そして宮中祭祀〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-03-04
 【関連記事】天皇制をやめるんですか──伊藤智永・毎日新聞編集委員の皇室記事を読んで〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-01-05
【関連記事】天皇の祭祀を完全無視する河西秀哉准教授の「愛子さま天皇」容認論〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-03-21
【関連記事】「行幸啓すべて見送り」で問われる天皇統治の本質。ご公務主義でいいのか〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-07-05

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