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憲法の原則を笠に着る革命思想か。ジェンダー研究者の女性天皇論を読む [天皇・皇室]

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憲法の原則を笠に着る革命思想か。ジェンダー研究者の女性天皇論を読む
《斎藤吉久のブログ 令和2年2月23日》
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女性週刊誌が盛んに女帝容認論を煽っています。なぜ古来、男系主義が貫かれてきたのか、を識者も編集者も、追究しようとしないのは、なぜでしょう。

「女性自身」2月7日号には、牟田和恵・大阪大学大学院教授(ジェンダー研究者)による「皇室の女性差別」撤廃を要求する女性天皇論が載りました。

ご主張の要点は以下のようにまとめられます。

(1)天皇陛下の長子である愛子内親王が次の天皇になられるのは当然だ。現在の皇室典範は男女平等ではない。改正すべきだ
(2)憲法には法の下の平等が記されている。なのに、皇位継承は男系男子に限られている
(3)皇室典範の女性差別は日本社会の女性差別を反映している
(4)女性差別の根本には「家父長制」がある。個人より「家」を第一とする発想が根強く残っている証拠だ
(5)ヨーロッパの王室は第一子継承に変わっている。日本も皇室典範改正を急ぐべきだ
(6)愛子内親王は健やかに成長されている。立派に天皇の務めを果たされるだろう
(7)「女性だからできない」ことはなくしていくべきだ

ジェンダー研究者なのですから当然といえば当然かもしれませんが、法律論として、歴史論としておよそ不正確で、十分とはいえないでしょう。

▽1 「法の下の平等」の例外

まず法律論ですが、以前も申し上げましたように、憲法が法の下の平等を謳い上げていることは誰でも知っています。その憲法が第一章で、血統主義に基づく天皇という特別の地位を認めているのです。そもそも皇位の男系主義は法の下の平等の例外なのです。

 【関連記事】基本を忘れた女系継承容認論──小嶋和司教授の女帝論を読むhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-12-31
 【関連記事】どうしても女性天皇でなければならないのか。男系を固守することは不正義なのか。なぜ男系の絶えない制度を考えようとしないのか?https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-02-09

もし牟田さんが法の下の平等を社会全体に貫くべきだと主張されるのなら、女帝容認ではなく、天皇廃止を訴えなければなりません。牟田さんにとっての法の下の平等は性差別の否定だけなのですか。

次に歴史論ですが、男系主義の背景に何があるのか、もっと深く追求されるべきではないでしょうか。

牟田さんが仰せの「家父長制」には支配の論理という響きがありますが、日本の天皇は支配者とは一味も二味も異なる存在です。

たとえば「サバの行事」はご存知ですか。明治になって惜しくも絶えてしまいましたが、歴代天皇はわが統治する国に飢えたる民が一人いても申し訳ないとの思いから、毎食ごとに食膳から一箸ずつ料理を取り分けて、衆生に捧げ、そのあと召し上がったのです。

 【関連記事】皇祖と民とともに生きる天皇の精神 ──宮廷行事「さば」と戦後復興https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1998-06-08-2

昭和、平成、令和と三代の天皇は御所の水田で穀物を栽培しておられますが、みずから泥田に入られる君主は日本の天皇だけです。世界には農民といっても田畑に入らない支配層もいるのにです。

牟田さんは天皇を家の論理で説明していますが、間違っています。皇室は姓を持たない、家を否定した、家のない家だからです。海外のロイヤル・ファミリーとは違うのです。

▽2 女性差別ではない

以前も説明しましたが、歴史上、女性天皇は存在します。しかし夫があり、子育て中の女性天皇はおられません。過去の女性天皇はすべて寡婦もしくは独身を貫かれました。他方、たとえ民間から入内したとしても皇后は摂政となることも可能です。

これは女性差別なのでしょうか。逆に男子ならば、内親王、女王と婚姻しても皇族となることはありません。差別論で捉えることに無理があるのでしょう。

牟田さんはヨーロッパの王室に学ぶべきだとも仰せですが、これも間違いです。参考にしようがないからです。

たとえばイギリスは、父母の同等婚と女王継承後の王朝交替という二大原則がありましたが、原則はすでに崩壊しています。ヨーロッパに学び、女帝を認め、その子孫に継承するということはすなわち古代から続いてきた皇統の否定、革命をもたらすこととなるでしょう。

 【関連記事】参考にならないヨーロッパの「女帝論議」──女王・女系継承容認の前提が異なるhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2006-12-18

憲法は皇位は世襲すなわちdynasticだと王朝の支配を認めています。牟田さんの「女性差別」撤廃の発想は憲法の基本原則を掲げながら、その実、憲法に反し、天皇統治の終わりをもたらす革命思想ではありませんか。

 【関連記事】女系は「万世一系」を侵す──「神道思想家」葦津珍彦の女帝論http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/ashizu_joteiron.html

牟田さんは最後に愛子天皇待望論を訴えています。健やかに成長され、務めを果たすことができると太鼓判を押されているようですが、天皇は能力主義ではありません。血統主義なのです。

古来、天皇第一のお務めは私なき立場で天神地祇をまつる神祭りにあるとされています。古代人は夫があり、子育て中の女性に私なき祭祀をお勤めいただくのは忍びないと考えたのではないでしょか。8人10代の女性天皇がいずれも寡婦もしくは独身を通されたのはそのためでしょう。差別ではありません。むしろ逆でしょう。

牟田さんにお願いします。男系主義の外形だけを見て、女性差別と決めつけ、皇室の歴史と伝統を否定し、むりやり変質させるのではなく、皇位の本質を深く探り、祖先たちが大切に守ってきた歴史的価値を理解していただくことは無理でしょうか。女性週刊誌の編集者にもぜひお願いします。


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なぜ悠紀殿と主基殿があるのか。田中英道先生の大嘗祭論を読む [天皇・皇室]

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なぜ悠紀殿と主基殿があるのか。田中英道先生の大嘗祭論を読む
《斎藤吉久のブログ 令和2年2月16日》
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日本会議の機関誌「日本の息吹」2月号に、保守派言論人として著名な田中英道東北大学名誉教授(専攻は美術史。日本国史学会代表理事)が大嘗祭に関する興味深いエッセイを寄せています。

連載「世界史の中の日本を語ろう」の第25回で、タイトルは「大嘗宮はなぜ悠紀殿と主基殿の二殿あるのか」。着眼点の斬新さはさすがです。
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▽1 悠紀殿=東国、主基殿=西国

先生は、大嘗祭の祭祀が二度繰り返され、斎田も2か所あり、悠紀、主基と呼ばれることに注目し、なぜ二殿で同じことが繰り返されるのかという素朴な問いかけをなさっています。國學院の展覧会でも、折口信夫の「大嘗祭の本義」にも説明はありませんでした。

先生によると、天武・持統朝に定められた大嘗祭は当然、壬申の乱と関係があり、東日本と西日本それぞれの殿舎を建てるということには理由があった。東国には高天原=日高見国の長い伝統があり、持統天皇の諱には「高天原」が含まれている。

『新撰姓氏録』は氏族を「神別」「皇別」「諸蕃」に分けているが、神別の氏族の故郷が東国で、藤原、物部、大伴らの有力氏族が属していた。ユダヤ人埴輪もすべて東国の埴輪にあった。

東国と西国は同等と考えられていたことの現れが悠紀殿と主基殿の二殿である。茅葺き、丸柱は東国の伝統で、「大倭日高見国」が日本なのである。日高見国と大和国が天皇によって統一された事実が大嘗祭に示されている、というのが先生の見方です。

仰せのように、大嘗祭が悠紀殿と主基殿の二殿で行われるのは大きな謎です。かつては新嘗祭と大嘗祭との区別はなく、規模を改めた大嘗祭が行われるようになったのが、まさに天武天皇のころ、壬申の乱のあとでした。

国を二分する内乱のあと、国と民を再統一する仕掛けが必要とされたことは想像に難くありませんが、それが大嘗祭発生のカギだったとしても、悠紀殿=東国、主基殿=西国という図式で捉えることには慎重を要するのではないかと私は思います。


▽2 新嘗祭の夕の儀と暁の儀は?

毎秋の新嘗祭は神嘉殿で行われます。明治の初年までは臨時の殿舎が建てられたそうですが、大嘗祭とは異なり、一棟です。夕(よい)の儀と暁の儀と同じ神事が二度繰り返されますが、悠紀・主基とは呼ばれません。

ふつうは夕の儀は夕御饌(ゆうみけ)で、御寝座でお休みいただいたあと、暁の儀で朝御饌(あさみけ)を差し上げるというように説明されています。新嘗祭は同じ殿舎ですが、大嘗祭は儀場も改められ、より丁重さが加わるということではないでしょうか。

日本の高床式建築には2つのルーツがあるそうですが、悠紀殿と主基殿には大きな違いはありません。ふだんは何もない空間に八重畳の御神座、天皇の御座などが配置されるのも変わりません。

 【関連記事】神社建築発生の謎──高床式穀倉から生まれた!?https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-05-20-2

先生のエッセイには言及がありませんが、祭神論からすると、悠紀殿の儀、主基殿の儀とも変わりません。前者は天神、後者は地祇を祀ると説明した古い資料もありますが、新帝の御告文は皇祖神ほか天神地祇に捧げられるはずです。

先生の説だと、悠紀殿には東国の神々、主基殿には西国の神々が祀られるのでしょうか。そうなると逆に国の再統一という目的から外れてしまわないでしょうか。

 【関連記事】なぜ八百万の神なのか──多神教文明成立の背景https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-05-06-1
 【関連記事】天皇はあらゆる神に祈りを捧げる──日本教育再生機構広報誌の連載からhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-04-12-1


▽3 米と粟の儀礼こそ祭りの核心

神饌はどうでしょう。先生ご指摘のように、近世までは京都の東に悠紀国、西に主基国が設定され、悠紀殿の儀、主基殿の儀にはそれぞれの御料が用いられました。なぜ東が悠紀で、西が主基なのかは大きな謎です。主基は「次」の意味とされています。

これも先生の文章にはありませんが、主饌となるのは米と粟の御飯(おんいい)と白酒・黒酒の神酒です。悠紀殿の儀、主基殿の儀とも変わりはありません。しかしここにこそ内乱後の国と民の再統一という大命題の意味が見出されるのではないでしょうか。

日本の神祭りは神々との神人共食が本義です。争乱で分裂した国中の神々をすべて祀り、天つ神の米と国つ神の粟を捧げ、祈り、新帝も召し上がる。さらに続く節会で民の饗宴が行われ、神々と天皇と民との命が共有される。それが大嘗祭の核心部分ではないかと私は思います。

先生は、大嘗祭を稲の祭りと決めつけず、米と粟が供されることに注目した岡田荘司國學院大学教授の大嘗祭論を「戦後の歴史家の唯物論的見方」と一刀両断にしていますが、米と粟の神事こそ国と民を1つにまとめあげるスメラミコトの真骨頂でしょう。

ただ、粟=東国、稲=西国というわけではありません。田中先生の説は東国vs西国の図式に引きずられ過ぎているように思われます。

 【関連記事】大嘗祭は米と粟の複合儀礼──あらためて研究資料を読み直すhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-12-18
 【関連記事】大嘗祭は、何を、どのように、なぜ祀るのか ──岡田荘司「稲と粟の祭り」論を批判するhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-11-10
 【関連記事】やっと巡り合えた粟の酒 ──稲作文化とは異なる日本人の美意識https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-09-23


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「先帝」という呼称について考える [天皇・皇室]

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「先帝」という呼称について考える
《斎藤吉久のブログ 令和2年1月10日》
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先日、「先帝陛下というのは亡くなった天皇、大行天皇の意味ではないのか。ご存命の陛下に対して不敬にならないのか?」という趣旨のお問い合わせがありました。私は「先帝」で大丈夫だと思います。

譲位なさった平成の陛下に対してどのようにお呼びすればいいのか、敬愛の念の深い方ほど、悩まれるのでしょう。皇室典範特例法は「退位した天皇は上皇とする」と定めていますが、私は馴染めません。「退位」もそうですが、なぜ略称なのか。「太上天皇」という歴史的な呼び方ではいけないのでしょうか。


▽1 光格天皇は「先帝」

私は「先帝」をもっぱら使っています。200年前に譲位された光格天皇の場合、「先帝」と表現されていますから、問題はないと思います。

宮内省図書寮がまとめた『仁孝天皇実録』を見ると、受禅践祚が行われた文化14年3月22日の2日後の綱文(概要を示す本文)に、「先帝に太上天皇の尊号を上らる」(原文は漢字カタカナ混じり)とあり、譲位された光格天皇を「先帝」とお呼びしています。

正確にいえば、綱文に続いて掲載された史料の「寛宮御用雑記」「洞中執次詰所日記」には、「尊号宣下」「宣下」の記述はあるものの、「先帝」とは記されていません。自明であり、わざわざ書き込む必要はないということでしょうか。

したがって光格天皇、仁孝天皇の時代に「先帝」という呼称が使用されていたかどうかは、これだけでは不明ですが、宮内省図書寮という権威ある公機関が、この実録を編纂した昭和戦前期に、譲位後の天皇を「先帝」とお呼びしたことは少なくともはっきり確認できます。

それならいまの宮内庁はどうかというと、残念なことに、皇室用語の使用が目を覆うほどに混乱しています。今回の御代替わりでも、宮内庁がまとめた資料には、「旧天皇」「前天皇」「新天皇」などと書かれていました。「先帝」「新帝」ではダメなのでしょうか。〈https://www.kunaicho.go.jp/news/pdf/shikitenjyunbi-2-shiryo1.pdf

それどころか、信じがたいことに歴史の軽視どころか、改竄さえ行われたのです。もはや参考にならないということです。

 【関連記事】宮内庁は史実のつまみ食いをしている!?──第2回式典準備委員会資料を読む 4https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2018-04-09


▽2 固有名詞では呼ばない

ついでながら、終戦の年の春に、帝国学士院が編集発行した『帝室制度史 第6巻』は、天皇の称号である「帝号」について、詳しく説明しています。

それによると、天皇は古来、さまざまに呼ばれてきたが、漢字文化の到来で、漢風の称号が用いられ、国風と漢風の併用が行われるようになったとあります。皇祖の子孫たることを示すスメミマノミコト、ヒノミコ。統治の意義に基づくスメラギ、スメラミコトなど。君主の意義を示すオホキミ、天皇、帝などというわけです。

面白いのは、皇居などの事物を借りてお呼びするミカド、オホヤケ、禁裏、御所などの称号の存在です。なぜ場所で呼ばれるのか、これは、天皇の名前は固有名詞では呼ばれない御名敬避と関わっているようです。

『帝室制度史 第6巻』には、ずばり「御名の敬避」なる一節があり、隋唐の文化が移入、定着したと説明しています。ただ、完全な外来文化との断言を避けています。そして大宝令にいたり、皇祖以下御名敬避は制度化されました。「先帝」についてはとくに説明はありません。近代以後は譲位が否定されています。

戦後になると、天皇をわざと固有名詞で呼ぶケースがしばしば見受けられます。皇室の権威の低下か、あるいは特定の政治的意図があるのか。

先帝の「御学友」、といっても昭和天皇の御学友とは異なり、実態は学習院の単なる同級生でしたが、陛下を固有名詞で呼び、それを著書に著す方がいました。外信部も経験した記者で、ファーストネームで呼び合う欧米文化の匂いが強く感じられました。宮内庁が使い出した「前天皇」「新天皇」にも共通性があります。

 【関連記事】「ご学友」天皇論の限界──橋本明さんの不思議な文体https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2009-08-04-2

庶民なら気軽に名前を呼び合うのもかまいませんが、せめて皇室については千年を超える歴史と文化を大切にしたいものです。譲位された天皇を「先帝」とお呼びすべきか否かよりも、こっちの方が深刻なような気がします。

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個人商店と株式会社の狭間──現代の皇室が抱える矛盾 [天皇・皇室]

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個人商店と株式会社の狭間──現代の皇室が抱える矛盾
《斎藤吉久のブログ 令和元年12月31日》
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一昨日の29日、たいへん考えさせられる記事が共同通信(47 NEWS )から配信された。大木賢一記者による「新天皇が見せた『重大な変化』とは 上皇の前例踏襲せず 国との関係性に影響?」〈https://this.kiji.is/582556828454388833?c=39546741839462401〉である。

記事は、9月に秋田で開かれた海づくり大会で、皇位継承後はじめてご臨席になった今上天皇が、国歌斉唱の際に皇后陛下とともに、「示し合わせたかのようにくるりと後ろを向いた」。先帝の時代にはなかった「異変」だ、と指摘している。

記者たちを驚かせた「令和流」について、宮内庁は「国民を大切に思い、共に歩むという点では、上皇ご夫妻と変わらないだろう」と取材に答えたというのだが、識者たちは違う。


▽1 君が代に背を向け、国旗を仰ぐ

「日の丸を背負って君が代を受け止める」という先帝の前例を踏襲しない、「君が代に背を向ける」今上天皇の「重大な変化」について、「国民と同じ視線と立場で共に国に敬意を表した」(河西秀哉准教授)、「国の最上位の公共性を表示する国旗に、陛下は公共性の究極の体現者として、敬意を表された」(高森明勅氏)、「涙が出る。今現在はたまたま自分が国を預かっているという認識の表れ」(八木秀次教授)とそれぞれに評価する研究者もいる。

その一方で、「国民の国への過剰な帰属意識を誘う危険もある」(原武史教授)、「右派を利することにもなりかねないそうした行動は自重すべきだ」(池田直樹弁護士)と警戒する人たちもいる。その背後にはいうまでもなく、「君が代は国民を戦争に動員するものとして歌われた歴史がある」(河西准教授)との見方がある。

些細なことのようにも見える変化を、大木記者が「重大」と捉えるのは、日の丸・君が代問題の悩ましさがあり、「国と天皇との関係性」を変えるかもしれないと考えるからだが、私にはむしろ現代天皇制が抱える矛盾を浮き彫りにしているように感じられた。それは大木記者の事実認識と識者たちの反応のなかに見え隠れしている。

まず事実を振り返ると、大木記者によれば、先帝は皇后とともに式典の国歌斉唱で参列者の方を向いたままだったが、今上は皇后とともに後ろを向き、国旗を振り仰いだとされている。この「異変」に大木記者ほか取材記者らが注目し、そして研究者たちは国旗を仰ぎ見られた事実に着目している。

ここで気づかされるのは、大木記者も教授たちも、先帝および今上天皇の行為が個人もしくは皇后との共同による行為と判断されていることである。天皇はかつてのような藩屏に囲まれた存在ではなく、いわば個人商店であり、そして上御一人ではなく、つねに「両陛下」と呼ばれる、いわば一夫一婦天皇制が標準であることが暗黙の前提となっている。

そうだとして、一方では日本国憲法の国民主権主義下での象徴天皇制という枠組みのなかでは、天皇の地位は主権の存する国民の総意に基づくのであり、であれば、天皇の個人的もしくは皇后との共同的行為がいわば株式会社の株主とされている国民の絶対的支持を得られるかどうかが問われることになる。

大木記者の記事はこのような問題意識から生まれたものと思われる。


▽2 天皇は「個人」でいいのか

しかし、あらためて見直すと、事実は大木記者の理解と少し異なるように思う。つまり、側近の関わりが見逃されているのである。

共同通信のサイトに載る画像をよく見ると、2年前の福岡大会で、先帝は皇后とともに参列者の方を向いたままだが、かたわらの側近もまた同様に国旗を仰いではいない。他方、今年の秋田大会では、今上も皇后も、そして側近も同様に後ろを向いている。国旗を仰いでいるのは今上と皇后だけではない。

つまり、先帝、今上ともに、天皇個人の判断もしくは皇后との二人三脚ではなく、側近との何らかの打ち合わせがあり、そのうえでの統一行動であることが容易に推測される。

大木記者の記事によると、今上は皇太子時代から「後ろを振り返っている」という。とすれば、「前例を覆した」のではなく、皇太子時代の「踏襲」といえる。側近の侍従職は東宮侍従からの持ち上がりだろうから、今上にとっては「異変」ではない。大木記者は、今上が皇后に「目配せした」ことをもって、「重大な変化」への意気込みであるかのように匂わせているが思い込みではなかろうか。

問題は側近の関わり具合であろう。

大木記者の記事に見られるように、平成も令和も、現代の天皇は間違いなく個人商店化している。支える藩屏の不在は昭和の時代から指摘されている。大木記者のような指摘が当然だとすれば、側近は事前によくご相談申し上げるべきだろう。ただし、的確な輔弼が可能かどうか。

天皇のお言葉は、かつての宣命や勅語とはまるで違い、現代では個人の言葉に変わっている。今回の御代替わりは先帝のビデオ・メッセージに始まるが、あのお言葉には文章が飛んでいる箇所があり、明らかに第三者による推敲の跡が見受けられる。とはいえ、もともと専門の職掌の作成ではないだろう。200年前の光格天皇の譲位の宣命が文章博士によって書かれたのとは、まったく異なる。

藩屏を失い、個人としてお言葉を述べ、行動される。せいぜい皇后だけが唯一無二の協力者であるという個人商店化した現代の天皇にとって、国民の総意に基づくとする皇位を揺るぎなきものとなるためには、究極のポピュリズムを演じなければならないということにはならないか。

他方、国民からすれば、個人化した皇室はアイドルか、個人崇拝の対象となりかねない。事実、メディアは動物園を視察する殿下やダンス好きの内親王を話題にし、国民の関心を煽っている。それは「天皇に私なし」とされる、126代続いてきた皇室の歴史と伝統の対極にある。

天皇は個人でいいのか、大木記者はそこを取り上げてほしい。そして識者たちも考えてほしい。



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やっと巡り合えた粟の酒 ──稲作文化とは異なる日本人の美意識 [天皇・皇室]

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やっと巡り合えた粟の酒
──稲作文化とは異なる日本人の美意識
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 知り合いの神社関係者から粟の焼酎が送られてきました。私が長年、粟の酒を探し続けているのを知って、お気遣いくださったのです。念願がかない、感無量です。すっきりした味わいに、かすかな粟の香りがしました。

 いただいたのは、鹿児島・阿久根市の大石酒造が生産した粟焼酎100%の古酒「御吉兆」で、同社の説明によれば、1992(平成4)年に粟と米麹を原料にもろみをしこみ、限定的1100本を蒸留、長期間、甕で貯蔵したとあります。アルコール度数28%、「0138」のシリアルナンバーが付されていました。

 大石酒造は明治32年創業の比較的新しい酒蔵のようで、商品のラインアップを見ると、創業以来の代表銘柄「鶴見」をはじめ、すべてが芋焼酎です。

 ならばなぜ、粟焼酎を限定生産することになったのでしょう?

 同社のHPには、粟はかつて山里に暮らす日本人にとって大切な作物だったこと、日本の焼酎の黎明期には主要な原料の1つとされたことが説明されています。

 鹿児島は火山灰土壌の土地柄で水田稲作には不向きです。たびたび飢饉が起こり、救荒作物として江戸初期にひそかに導入されたのがサツマイモ(甘藷)でした。良民を救うため、琉球に密航し、ご禁制の芋を持ち帰り、人々を救ったものの、重罪に問われ、のちになって神社に祀られた義人もいます。

 大石酒造5代目、現在のご当主・大石啓元氏にうかがったところでは、市内の南方神社(諏訪神社)の鳥居は17世紀、焼酎醸造に関連して奉納されたことが知られているそうです。阿久根焼酎の起源を記録する史料ともいわれます。

 しかし、5代目によると、当時はまだサツマイモはなかったはずだから、芋焼酎のはずはない。雑穀を原料に造ったのではないか、と興味を持ち、粟の焼酎を再現することになったというのです。

 焼酎王国と称される九州には、米、麦、そば、イモ、黒糖など、さまざまな原料から造られる焼酎があります。南蛮時代に蒸留器が伝わってくる前は、それぞれの醸造酒があったのだろうと私は想像します。やがて蒸留技術の導入で、全国に轟く焼酎文化が豊かに花開いたのでしょう。

 大石酒造の「御吉兆」は、ラベルに「粟穂に鶉(うずら)」の絵が描かれています。「収穫の季節が到来したことを表すおめでたい情景として、美術や建築の題材として描かれてきた」と説明されています。銘柄の「御吉兆」は、「ウズラの鳴き声が『ゴキッチョー』(御吉兆)と聞こえる」ことが理由だそうです。

 化粧箱に納められた一枚の説明書きに、江戸時代、関東一円を席巻し、明治維新後、衰退した宮大工「立川流」が、この「粟穂に鶉」を好んで彫刻したことが書かれています。たとえば、日光東照宮以来の徳川幕府による大造営といわれる静岡浅間神社(静岡市葵区)の本殿には、二代立川和四郎冨昌が制作した「粟穂に鶉」の極彩色の彫刻があります。

「粟穂に鶉」は水田稲作とは異なる、畑作農耕と食の歴史と文化をいまに伝える日本人の伝統的美意識なのでしょう。

 しかし、いつの間にか、粟食も粟酒も失われてしまいました。ある著名な民俗学者が、大正のころまではごくふつうに飲まれ、飲みやすい半面、悪酔いしたと教えてくれた粟酒の実物に、私が巡り会えずにいたのはそのためです。

 けれども、ほんとうに美味しいなら、歴史が途絶えるはずはありません。その点、5代目の大石さんから、じつに興味深い話を聞きました。

「御吉兆」の原酒が蒸留されたのは平成4年ですが、逆に「美味しくなかった」のです。ところが、それから20数年、検査のため試飲してみると、味が激変し、美味しくなっていたというのです。「これなら市場に出せる」と商品化されたのが2年前でした。

 この秋、天皇陛下は1世一度の大嘗祭で、米とともに、粟の御飯(おんいい)を天神地祇に捧げられ、みずから召し上がり、国の平安と民の安寧を祈られます。

 同時に捧げられる白酒(しろき)黒酒(くろき)の神酒は、いまはいずれも米の新穀を原料に用い、延喜式に掲載される製法で醸されますが、かつては米の酒と粟の酒だったのではないかと私は想像しています。

 畑作民の粟と水田農耕民の米による複合儀礼であることが、スメラミコト天皇の御代替わり儀礼にはもっとも相応しいと思うからです。白酒黒酒という呼び方自体、後世、陰陽五行説の影響を受けた結果ではないかとも想像するのです。

 来年、阿久根の南方神社では、8年ごとの例祭が行われるそうです。粟焼酎の「御吉兆」も奉納されるのでしょうか?


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価値多元主義の潮流に逆行 ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」10 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年9月1日)からの転載です

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価値多元主義の潮流に逆行
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」10
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 今回の御代替わりについて、政府は、「憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の伝統等を尊重」「平成の前例踏襲」という「基本方針」を示しているが、既述したように、さまざまな不都合が指摘される。

 それらが「1強」と呼ばれる保守長期政権によって招来されていることに、私は長嘆息を禁じ得ない。敗戦後、社会党政権下でさえ、天皇の祭祀は粛々と行われていたのに、である。

 なぜこんなことが起きるのか。

 けれども、今回の御代替わりについて、本質的議論を加えるべき時機はもはや逸している。戦後70年間、本格的議論ができなかったことが返す返すも悔やまれる。

 皇室のあるべき儀礼とはいかなるものか、あるべき天皇制とはどのようなものか、国の法体系とはどのようにあるべきか、将来に向けた、抜本的な検討が求められていると思う。

 アメリカでは2001年の9・11同時多発テロの3日後、ワシントン・ナショナル・カテドラルで犠牲者追悼のミサが行われ、各宗教の代表者が祈りを捧げた。03年のスペース・シャトル「コロンビア号」の事故でも、同様に多宗教的儀礼がここで行われた。

 同聖堂は国家が祈りを捧げる「全国民の教会」とされ、100年余の歴史を誇る。大統領就任ミサを始め、しばしばホワイト・ハウスの依頼でミサが行われ、現職ならびに歴代大統領ほか政府高官らが参列し、費用は政府が実費を負担しているという。

 カテドラル関係者は「儀式は当然、宗教的だ。祈りは宗教的行為以外の何ものでもない」と明言するが、政教分離原則に違反するとは考えられていない。政教分離主義の源流とされるアメリカは、みずからの宗教的伝統に従って、国事を執り行っている。

 キリスト教世界では大航海時代とはうって変わり、とくに第2バチカン公会議以降、多宗教的、多元的な価値を積極的に認めるようになっている。ローマ教皇は何度もイスタンブールのブルーモスクで和解と平和の祈りを捧げている。

 しかし、宗教の平和的共存、価値多元主義の容認は、むしろ日本の天皇制こそその先駆けではなかったか。「およそ天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇祭れ」(神祇令)とされ、歴代天皇は稲作民の稲と畑作民の粟による儀礼を継承し、国と民のために祈りをつむぎ続けてこられた。

 天皇の祭りこそは信教の自由を保障するものだろう。なぜ一神教世界由来の政教分離の対象とされなければならないのだろうか。

 ところが現代の日本人には問題意識が乏しい。私たちは近代化の末に、文明の多元的価値を見失っている。そればかりでなく、世界の価値多元主義的潮流に逆行している。天皇とは何だったのか、私たちはいま一度、謙虚に問い直すべきではなかろうか。(終わり)

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「祭り主」は過去の遺物となった ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」9 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年8月25日)からの転載です

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「祭り主」は過去の遺物となった
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」9
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 昭和天皇が亡くなり、皇位は皇太子殿下(いまは太上天皇)に継承された。しかし政府は何の準備もなかった(前掲永田インタビュー)。戦後の皇室典範は「即位の礼を行う」「大喪の礼を行う」と定めるだけで、皇位継承という国と皇室の最重要事に関して、具体的な法規定がなかった。法治国家として最悪の事態である。

 幸いというべきか、日本国憲法施行時の依命通牒は生きている。「廃止の手続きは取っておりません」(平成3年4月25日、参院内閣委)という宮内庁幹部の国会答弁からすれば、依命通牒第3項によって、登極令附式に準じて、御代替わりの諸儀式は行われていいはずだが、そうはならなかった。

 最大の問題は大嘗祭だった。石原信雄元内閣官房副長官は自著で「きわめて宗教色が強いので、大嘗祭をそもそも行うか行わないかが大問題になりました」と回想している(『官邸2668日──政策決定の舞台裏』、平成7年)。急先鋒は内閣法制局だったという。

 政府は段階的に委員会を設け、御代替わり儀礼の中身について検討した。そして、「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」とが対立的に捉えられ、皇室の伝統のままに行うことが憲法の趣旨に反すると考えるものは、国の行事ではなく、皇室行事とされた。判断基準はむろん政教分離原則だった。

 平安期以来の践祚と即位の区別は失われ、立法者たちが想定しない「大喪の礼」が行われた。「即位の礼」は皇室の伝統儀礼とは似て非なるものとなり、もっとも中心的な「大嘗祭」は「宗教性」ゆえに「国の行事」とはなれなかった。

 御代替わりの諸儀式は、全体的に皇室および国の最重要事であり、国事のはずだが、最高法規たる憲法の政教分離原則によって因数分解され、国の行事と皇室行事とに二分された。宗教性があるとされる儀式は非宗教的に改称、改変された。

 皇位継承ののち、天皇陛下(太上天皇)は、皇后陛下(皇太后)とともに祭祀について学ばれ、正常化に努められたという。即位以来、陛下は、皇室の伝統と憲法の理念の両方を追求される、とことあるごとに繰り返し表明された。

 けれども在位20年を過ぎて、ご健康問題を理由に、ふたたび祭祀の簡略化が平成の官僚たちによって敢行された。

 宮内庁によるご公務ご負担軽減策が講じられたものの、ご公務件数は逆に増えた。一方で、祭祀のお出ましは文字通り激減した。祭祀がご負担軽減の標的にされたのだ。ご負担軽減策は、天皇の聖域たる祭祀に不当に介入しただけで、不成功に終わった。

 要するに、古来、天皇第一の務めは祭祀とされてきたが、こうした天皇観はすでに過去の遺物とされている。近世までの天皇は装束を召され、薄化粧されて御簾のかげに端座される祭り主だった。近代の天皇は祭り主であると同時に、行動する立憲君主だった。

 だが、いまや洋装で憲法上の国事行為を行う特別公務員とされている。はたして、それでいいのだろうか。

 今回の御代替わりでは、前回の批判的検証もあればこそ、前例踏襲が基本方針とされている。政府の発表によれば、践祚の前日に前代未聞の「退位の礼」が行われ、譲位(退位)と践祚(即位)が分離される。前回は3日間の賢所の儀のあとに行われた朝見の儀が、今回は践祚当日になる。そもそも政府は祭祀について、検討した気配がない。皇室の伝統について十分な検証を怠っている。これで済まされるのだろうか。(つづく)


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「私事」のまま放置する不作為と改変 ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」8 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年8月18日)からの転載です

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「私事」のまま放置する不作為と改変
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」8
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 敗戦は当然、天皇の祭祀にも大きな影響を及ぼした。

 昭和20年12月に、「目的は宗教を国家より分離することにある」とする、いわゆる神道指令が発せられると、宮中祭祀は国家的性格を否定され、「皇室の私事」として存続することを余儀なくされた。掌典職は内廷の機関となった。

 神道指令は駅の門松や神棚までも撤去させるほど過酷だった。政府は、皇室伝統の祭祀を守るため、当面、「宮中祭祀は皇室の私事」という解釈でしのぎ、いずれきちんとした法整備を図ることを方針とせざるを得なかったとされる。異論はあったが、敗戦国の政府が占領軍に楯突くことは不可能だった。

 さらに2年後、22年に日本国憲法が施行されると、皇室令は全廃された。皇室典範を中心とする宮務法の体系が国務法に一元的に吸収され、新しい皇室典範は一法律と位置づけられた。宮中祭祀は明文法的根拠を失い、近代以前に引き戻された。

 ただ、祭祀の形式は、ほぼ従来通り存続した。

 同日に宮内府長官官房文書課長による依命通牒が発せられ、「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて、事務を処理すること」(第3項)とされ、宮中祭祀令の附式に準じて、祭式はかろうじて存続することになった。

 けれどもその後、今日に至るまで、皇室令に代わる宮務法の体系は作られることはなかった。宮中祭祀の法的位置づけは「皇室の私事」のまま、変わることはなかった。

 それどころか、さらなる試練が生じた。国民の目の届かないところで、占領前期への先祖返りが起きたのだ。

 昭和40年代に入って、万年ヒラの侍従から、瞬く間に侍従長へと駆け上がった入江相政は依命通牒を無視して、祭祀を「簡素化」する「工作」に熱中した。無法化の始まりである。名目は昭和天皇の高齢化だった。

 毎月1日の旬祭の親拝は5月と10月だけとなり、皇室第一の重儀であるはずの新嘗祭は簡略化された。昭和天皇のご健康への配慮であるかのように「入江日記」には説明されているが、疑わしい。それならそれで、なぜ正規のルール作りを怠ったのか。

 そして、富田朝彦宮内庁次長(のちの長官)が登場した。冒頭に書いたように、50年8月15日の宮内庁長官室の会議で、毎朝御代拝の変更が決められた。

 国会答弁(平成3年4月25日の参院内閣委)などによると、依命通牒第4項の「前項の場合において、従前の例によれないものは、当分の内の案を立てて、伺いをした上、事務を処理すること」をあわせ読んだ結果であり、政教分離原則への配慮と推定される。占領前期の厳格主義への人知れぬ先祖返りである。

 侍従は天皇の側近というより公務員であり、したがって特定の宗教である宮中祭祀への直接的関与から離脱することとなった。天皇=祭り主とする天皇観は崩壊した。

 改変の中心人物と目される富田は、いわゆる「富田メモ」で知られる元警察官僚だが、無神論者を自任していたといわれ、側近ながら祭祀に不参のことが多かった(前掲永田インタビュー)。富田らによる一方的な祭祀変更は次々に起こり、いまに尾を引いている。

 御代替わりの中心儀礼である大嘗祭もしかりであった。

 昭和54年4月、元号法制化に関する国会答弁で、真田秀夫・内閣法制局長官は「従来のような大嘗祭は神式だから、憲法20条3項(国の宗教的活動の禁止)から国が行うことは許されない。それは別途、皇室の行事としておやりになるかどうか」と述べた。

 戦後の混乱期には「祭祀は皇室の私事」という憲法解釈を便宜上、取らざるを得なかったにせよ、その後、正常化が図られ、34年の皇太子御成婚では、賢所大前での御結婚の儀は「国の儀式」と政府決定された。だが法制局は、大嘗祭は神道儀式と断定したのだ。(つづく)

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アメリカが見た鏡のなかの「軍国主義」 ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」7 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年8月10日)からの転載です

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アメリカが見た鏡のなかの「軍国主義」
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」7
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 近代化の道をひた走った末に、日本はほとんど世界を相手に戦争し、ポツダム宣言を受け取れ、敗戦国となった。尊い人命が数多く失われ、国土は焦土と化した。宣言の受諾を国民に伝える詔書には「五内爲ニ裂ク」と無念が表明されている。

 日本に降伏を迫るポツダム宣言には、「軍国主義」「世界征服」の言葉が登場する。

「われらは、無責任なる軍国主義が世界より駆逐せらるるに至るまでは、平和、安全および正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるをもって、日本国国民を欺瞞し、これをして世界征服の挙に出ずるの過誤を犯さしめたる者の権力および勢力は、永久に除去せられざるべからず」(日本語訳文の原典は漢字片仮名交じり)

 この「軍国主義」「世界征服」とは、具体的に何を指すのだろう。

 戦中からアメリカは、「国家神道」が「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉で、靖国神社がその中心施設であり、教育勅語が聖典だと考えたという。なぜそう考えたのか。

 たとえば、日米開戦後、アメリカ陸軍省が製作した、新兵教育、戦意昂揚のための「Why We Fight」シリーズというプロパガンダ映画がある。「最高傑作」とも評価される一連の作品の多くを手がけたのはフランク・キャプラである。生涯に3度のアカデミー賞を受賞し、アカデミー会長をも務めた名匠であった。

 キャプラが最後に監督し、製作されたのが「Know Your Enemy ; Japan」(1945年)である。キャプラは「敵国」日本の何を、「軍国主義」と考えたのだろうか。

 実写フィルムを巧みにつないだ約60分の映画には、神道、日本軍、天皇、八紘一宇、靖国神社などをキーワードにして、日本の「軍国主義」の残忍さ、妖怪ぶりが描かれている。そのなかでも、とくに注目されるのは「田中メモランダム(田中上奏文)」である。「世界征服の原案・設計図」として真正面から取り上げられている。

「田中上奏文」は、昭和2年に、田中義一首相が昭和天皇に、「世界征服」の手順を極秘で報告した、とされるもので、日本では当初から偽書と一蹴され、今日、歴史的評価はほぼ定まっているが、当時のアメリカでは事実と信じられたらしい。

 皇祖神を絶対化し、「現人神」天皇のもと、侵略地に次々と神社を建て、新たな国民にも参拝させ、学校では教育勅語を奉読させ、急速に領土を拡大していった「八紘一宇」の勇猛は、キリストの教えとローマ教皇の勅書に基づき、異教世界を侵略し、異教徒を殺戮、異教文明を破壊した大航海時代以降のキリスト教世界の暗黒史と二重写しだ。

「教育勅語」の一節「之を中外に施して悖らず」は「日本でも外国でも間違いがない道だ」と解釈されており、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(新約聖書)というキリストの言葉とダブって聞こえても不思議はない。

 たとえば、占領軍の教育・宗教を担当したCIE(民間情報教育局)の政策に大きな役割を果たしたR・K・ホールは、教育勅語が「国家神道の神聖な教典」であったと理解していたという(貝塚茂樹『戦後教育改革と道徳教育問題』、2001年)。

 とすれば、一神教的に擬せられた近代日本とあくまで一神教的なキリスト教世界との軍事対決は避けられず、一神教的「国家神道」は主たる攻撃目標に設定されざるを得ない。彼らはまるで鏡に映る自分に戦いを挑んだかのようである。

 それは多神教文明と一神教文明の衝突ではなくて、一神教と一神教の対決だった。

 靖国神社は占領軍内部では爆破焼却の噂がもっぱらだったという。アメリカは、靖国神社の宮司らが世界征服戦争を実際に陰で操っている、と本気で考えていたらしい。

 キリスト教世界では、絶対神と救世主イエスの存在があり、聖書があり、聖職者がいて、教会がある。同様に、日本の「国家神道」もまた、皇祖神と天皇、教育勅語、神道家たち、靖国神社があると見えたのだろうか。

 皇祖天照大神は至高至貴ながら絶対神ではない。神道には布教の概念すらない。宮中祭祀には教義も教団もない。しかし文部省編纂の『国体の本義』(昭和12年)には「天皇は現御神であらせられる」と明記された。天皇は個人崇拝ではないし、昭和天皇は神格化を嫌っておられたのに、である。

 欧化思想の席巻を憂える明治天皇の思召しに始まった教育勅語の作成は、井上毅らによって、非宗教性、非政治性、非哲学性が追求された。しかし、完成後は教育勅語それ自体が政治主導で神聖化され、宗教的扱いを受けることとなった。ドイツ留学から帰国したばかりの哲学者・井上哲次郎による解説本作成は、国民教育の必要性を強く訴えるものとなっており、明治天皇ご自身、不満を示されたが、叡慮は反故にされた。

 文部省は教育勅語の神聖化をさらに進め、御真影とともに教育勅語の謄本を納める奉安殿の設置が全国展開された。当初の目的と構想を外れ、のちに教育勅語は「国家神道」の聖典として批判されこととなり、敗戦後は国会で排除・失効確認がなされるのである。

 ところが、戦後の嵐は瞬く間にやんだ。占領後期になると、「国家神道」敵視は急速になりを潜め、神道形式による松平参院議長の参院葬、皇室喪儀令に準じた貞明皇后大喪儀、吉田茂首相による靖国神社参拝さえ認められた。靖国神社は爆破焼却どころか、宗教法人として存続した。

 渦中のGHQ職員はのちに、占領軍の宗教政策が厳格主義から限定主義(教会と国家の分離)に変更されたことを公にしているが、いつ、だれが、なぜ変更したのかについては明らかにされていない(ウイリアム・ウッダード「宗教と教育──占領軍の政策と処置批判」=国際宗教研究所紀要4、昭和31年12月)。

 この政策変更は「国家神道」をめぐる最大のテーマであり、歴史の謎である。もしや彼らは自分たちが幻影を見ていたことに気づいたからではあるまいか。(つづく)


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アインシュタインの絶賛と憂い ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」6 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年8月4日)からの転載です

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アインシュタインの絶賛と憂い
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」6
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 日本の近代化を、憂いをもって見つめ、警告した1人が、相対性理論で知られる物理学者のアルバート・アインシュタインである。

 大正11年に来日したアインシュタインは、九州から東北まで、各大学で相対性理論を講演したほか、各地の著名神社などに参詣し、皇后陛下に謁見、能楽や雅楽を鑑賞し、庶民と気軽に交わり、「日本のすばらしさ」に魅せられたことを旅日記に記録している。

 それによると、まず感動したのは美しい日本の自然であった。彼は各地で日本の「光」に惹かれた。しかし自然以上に輝いていたのは、日本人の「顔」であった。「日本人は他のどの国の人よりも自分の国と人々を愛している」「欧米人に対してとくに遠慮深かった」と絶賛している。

 そうした国民性はどこに由来するのか、アインシュタインは自問し、自然との共生と見抜いた。さすがは天才というべきだろう。

「日本では、自然と人間は一体化しているように見える。この国に由来するすべてのものは、愛らしく、朗らかであり、自然を通じて与えられたものと密接に結びついている」

 とくに「自然と人間の一体化」を示すものは、日本の神道と神社建築であった。

 日光東照宮は、「自然と建築物が華麗に調和している。……自然を描写する慶びがなおいっそう建築や宗教を上回っている」。厳島神社では、「優美な鳥居のある水の中に建てられた社殿に向かって魅惑的な海岸を散歩する。……山の頂上から見渡す瀬戸内海はすばらしい眺めだった」。

 アインシュタインの探求心は天皇にまで及んだ。

 草薙剣を祀る熱田神宮の参詣では「国家によって用いられる自然宗教。多くの神々、先祖と天皇が祀られている。木は神社建築にとって大事なものである」と印象を述べ、京都御所では「私がかつて見たなかで最も美しい建物だった。……天皇は神と一体化している」と感想をつづっている。

 美しい自然とその自然に育まれた日本人の国民性を高く評価し、天皇制にまで考察を広げたアインシュタインだが、他方で、伝統と西洋化の狭間で揺れる日本の近代化の苦悩を察知していた。

 であればこそ、旅の途中で書いた「印象記」のなかで、「西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでいる」日本に理解を示しつつも、「生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらを純粋に保って、忘れずにいて欲しい」と訴えることを忘れなかったのだろう(『アインシュタイン、日本で相対論を語る』、2001年など)

 四季折々の多彩な美しさのみならず、ときには荒ぶる自然と共生してきた日本人は、その自然観に基づく、多神教的、多宗教的文明を創りあげ、天皇制という国民統合のシステムをも編み出した。

 けれども、日本の近代化こそは、国を挙げて、太陽暦、法律、官僚、軍隊、貨幣、学校、鉄道など一元主義的なキリスト教世界の文化を精力的に受け入れることだった。皮肉にも、その先頭に立ったのが皇室であった。

 維新以来、政府がもっとも重視したのは、不平等条約の改正だった。列強に対抗するには近代化を急がなければならない。基本方針とされる五箇条の御誓文(慶応4年)には「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」とあったから、海外に学ぶことが優先され、社会システムの欧風化が急速に進み、欧化思想が社会を席巻していった。

 価値多元主義の文明が、世界基準であるキリスト教世界の一元主義的文化を積極的に受容し、アジアで最初の近代国家を打ち立て、列強と肩を並べるレベルにまで到達したのは歴史的壮挙のはずだが、その先には未曾有の悲劇が待ち受けていた。(つづく)


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