御名御璽はどうなる? 河野行革大臣が「ハンコ廃止」を全府省庁に要請 [天皇・皇室]
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御名御璽はどうなる? 河野行革大臣が「ハンコ廃止」を全府省庁に要請
(令和2年9月26日)
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報道によると、河野行革大臣は昨日、全府省庁に対し、デジタル化の一環として、行政手続きでの押印の必要性を検討し、可能なかぎり不要とするよう求めたことを明らかにしました。
となると、陛下の御名御璽はどうなるのでしょうか。
▽1 近代的法体系の出発点
歴史を振り返ると、日本では江戸時代にはすでに公文書、私文書に押印の慣習が行き渡っていたようです。明治になり、政府は欧米に倣い、印章に代えてサイン制度の導入を試みましたが、成功しませんでした。現実問題として、自分の名前の書ける国民がすべてではなかったからのようです。
公式文書に押印する義務が法的に決められたのは、明治6年7月5日でした。この日の太政官布告(第239号)には、「人民相互の諸証書面に爪印あるいは花押等の相用い候は、間間これあり候ところ、当10月1日以後の証書には必ず実印を用ゆべし」(原文は漢字カタカナ混じり。以下同じ)とあります。(画像は国会図書館所蔵の『法令全書』から)

公益社団法人全日本印章業協会はこの10月1日を重視し、「印章の日」と定めています。
御名御璽の歴史は、日本の近代的法体系の出発点である、明治19年2月26日の勅令第1号、公文式(こうぶんしき)に始まります。第3条には「法律勅令は親署の後、御璽を鈐(けん)し、内閣総理大臣これに副署し、年月日を記入す」と記されています。(画像はアジア歴史資料センターのサイトから)

明治憲法制定後もこの形式が続いていましたが、同40年1月末日公布の勅令第6号、公式令が制定されると、これに伴って公文式は廃止されました(公式令附則)。公式令第6条は、公文式をほぼ踏襲して、以下のように定められています。
「法律は上諭を付してこれを公布す。
前項の上諭には帝国議会の協賛を経たる旨を記載し、親署の後、御璽を鈐し、内閣総理大臣年月日を記入し、これに副署し…」
▽2 慣例に従い、公式令に準じて
戦後、昭和22年5月3日、日本国憲法が施行されました。天皇の国事行為には「憲法改正、法律、政令及び条約を公布」がまず掲げられていますが、公布の手続きを定めていた公式令はこの日、廃止されました。しかも公式令に代わる法令はいまなお制定されていないようです。
内閣法制局のサイトでは、「法律は成立後、後議院の議長から内閣を経由して奏上された日から30日以内に公布されなければなりません」「公布に当たっては、主任の国務大臣の署名及び内閣総理大臣の連署がされます」としか説明していません。「天皇」という表現すら避けているように見えます。〈https://www.clb.go.jp/law/process.html#process_6〉
国会法第65条は「議長から、内閣を経由して奏上」と定めていますが、当然のことながら、「奏上」後のことは規定していません。
結局、奏上から公布までの手続きは慣例に従い、具体的には公式令に準じて、御名御璽が行われてきたということでしょう。
とすれば、今回のハンコ廃止の検討は御璽にまで及ぶことになるのでしょうか。それとも皇室の文化を重視し、守る観点から、慣例のまま存続するのでしょうか。
安倍「一強」政権の「暗転」がもたらす皇室と靖国の未来──中西輝政先生の分析を読んで [天皇・皇室]
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安倍「一強」政権の「暗転」がもたらす皇室と靖国の未来──中西輝政先生の分析を読んで
(令和2年9月17日)
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中西輝政京大名誉教授が、安倍「一強」政権がいつ「暗転」したのかについて文春オンラインに書いておられるのを読んで、我が意を得たりと強く納得しました。〈https://bunshun.jp/articles/-/40236〉
▽1 妥協で見失われた大義
中西先生によれば、歴代最長の長期政権をもたらした理由は官僚を強力に支配するシステムを構築したことなどで、その結果、安定政権が成立し、外交政策の安定などが得られましたが、反面、周辺環境への対応から「妥協」が多く図られました。
とくに2015年に安全保障関連法案を可決させるために払った「妥協」の犠牲は大きく、これが安倍政権「暗転」の分岐点となった、と中西先生は分析しています。
つまり、政権の第一の目標は憲法改正だったはずだったのに、解釈変更という手段で対応したため改憲の大義が薄弱になり、道を閉ざす結果になった。この代償は大きく、政権の大方針が見失われていったというのです。
同じ年の「戦後70年談話」も妥協の産物で、村山談話、小泉談話の踏襲でした。侵略戦争史観を安倍政権は固定化したのです。そして政権は迷走し始め、行き当たりばったりの政権運営に陥っていったのでした。
さすが中西先生ならではの的確な分析といえますが、引用はこのぐらいにします。
先生のエッセイを読んで気がつくのは、現実的妥協が優って、本質的改革の機会が失われたのは、先生が例示した外交問題などのほかに、いわゆる靖国神社問題や皇室問題も同じなのだろうということです。
▽2 首相の靖国参拝も御代替わりの無惨も
保守派の悲願とされる公人としての首相参拝が実現するどころか、首相参拝=私的行為論が定着しています。そして安倍総理は大真榊を私的に奉納することで、現実的妥協を図りました。靖国神社が国家的追悼施設に戻るなど夢のまた夢です。いうまでもなく、その本質は憲法の政教分離問題です。
【関連記事】O先生、政教関係は正されているのですか─政教分離問題への素朴な疑問〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2016-09-04〉
令和の御代替わりも無惨でした。過去にない「退位の礼」が創作され、譲位と践祚は分離され、それどころか「譲位」は法的に認められませんでした。代始改元は退位記念改元に変質し、大嘗宮は角柱、板葺にされました。それでも現実に大嘗祭が遂行できたと保守派は喜ぶべきなのかどうか。
【関連記事】「退位の礼」はどうしても必要なのか?──退位と即位の儀礼を別々に行う国はあるだろうか〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-03-10〉
【関連記事】5つの「改元日」。プラスとマイナス──日本だけの無形文化財を後世にどう伝えるべきか〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2018-09-30〉
【関連記事】回立殿は板葺き、膳屋はプレハブの異常──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 7〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-10-12〉
目下の問題は皇位継承です。政府・宮内庁は平成8年以降、女性天皇はまだしも、歴史にない女系継承容認=「女性宮家」創設へと舵を切っています。
前提となるのは、日本国憲法であり、現行憲法に基づく象徴天皇制です。もはや憲法改正はされず、できず、国民の多くは象徴天皇制を支持しているということだとすれば、「愛子さま」天皇の実現もあり得ることになります。
▽3 保守派は本質的議論を
中西先生が指摘された安倍政権の分岐点が日本の歴史の分岐点とならないことを心から願うばかりです。そのためには保守派こそ、現実的妥協に安住せず、本質的な議論をあらためて喚起し、深めていかなければなりません。
なぜなら、安倍政権の「妥協」の原因は、本質論を回避している保守派の人材不足にあると強く思うからです。
靖国参拝=私的行為論も宮中祭祀=私的行為論も、ほかならぬ保守派の憲法学者らが、本質論を抜きにして、現実的妥協から主張していることです。官僚、ジャーナリストは言うに及ばずでしょう。
【関連記事】男系継承派と女系容認派はカインとアベルに過ぎない。演繹法的かつ帰納法的な天皇観はなぜ失われたのか〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-04-05〉
「正統右翼」不二歌道会が五百旗頭新参与就任で宮内庁を痛烈批判 [天皇・皇室]
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「正統右翼」不二歌道会が五百旗頭新参与就任で宮内庁を痛烈批判
(令和2年8月1日)
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不二歌道会(大東塾)の機関誌・紙が、五百旗頭眞・元防大校長の宮内庁参与就任に関連して、宮内庁をきびしく批判しています。
機関誌「不二」7月号では、巻頭言で、拉致被害者家族に心を寄せ、勇気づけてこられた太上天皇・皇太后両陛下とはまったく異なり、「あんな小さな問題」と切り捨てた「冷血漢」を人選した宮内庁の責任を追及しています。
五百旗頭新参与批判より、宮内庁自体に批判の矛先を向けているのは、歌道会の代表を務める福永武さんの見識の現れというべきでしょう。
不二歌道会といえば、歌道を人格修練の基本に置く正統右翼です。終戦直後、昭和天皇に敗戦を詫びて14名が自決したことはよく知られた歴史です。紀元節復活、靖国神社国家護持運動にも中心的役割を果たし、設立者の影山正治塾長は一死をもって元号法制化を訴えました。
そしていま、日本の正統右翼が公然と宮内庁を糾弾していることは、現代日本の惨状を示して余りあります。
機関紙「道の友」7月号は、やはり福永代表が、五百旗頭新参与が「女性・女系天皇」容認派であること、首相による靖国神社参拝を批判していることを指摘し、憂慮を表明しています。宮内庁が皇位継承問題の非公式検討を開始したのは平成8年のようですが、それから二十有余年、宮内庁の暴走は加速しているということなのでしょう。
以前、福永代表は、同じ機関誌で、皇室法の抜本的見直しを訴えていましたが、皇室を中心とする国の法制度のあり方を再構築すべき時期を迎えているのではないでしょうか。少なくとも、天皇の祭祀大権を奪い、無様な御代替わりを敢行し、あまつさえ歴史にない女系継承容認に舵を切る宮内庁の現状は変えられなければなりません。
【関連記事】風岡宮内庁長官はなぜ退任したのか ──新旧宮内庁長官会見を読む〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2016-10-02〉
不二歌道会は昭和22年以来、毎年欠かさず、皇居勤労奉仕を続けてきましたが、今年でいったんその歴史が閉じられるそうです。宮内庁は新型コロナ対策で参加団体の定員が絞られているからと説明しているようですが、理由はそれだけでしょうか。
「正統右翼」不二歌道会が五百旗頭新参与就任で宮内庁を痛烈批判
(令和2年8月1日)
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不二歌道会(大東塾)の機関誌・紙が、五百旗頭眞・元防大校長の宮内庁参与就任に関連して、宮内庁をきびしく批判しています。
機関誌「不二」7月号では、巻頭言で、拉致被害者家族に心を寄せ、勇気づけてこられた太上天皇・皇太后両陛下とはまったく異なり、「あんな小さな問題」と切り捨てた「冷血漢」を人選した宮内庁の責任を追及しています。
五百旗頭新参与批判より、宮内庁自体に批判の矛先を向けているのは、歌道会の代表を務める福永武さんの見識の現れというべきでしょう。
不二歌道会といえば、歌道を人格修練の基本に置く正統右翼です。終戦直後、昭和天皇に敗戦を詫びて14名が自決したことはよく知られた歴史です。紀元節復活、靖国神社国家護持運動にも中心的役割を果たし、設立者の影山正治塾長は一死をもって元号法制化を訴えました。
そしていま、日本の正統右翼が公然と宮内庁を糾弾していることは、現代日本の惨状を示して余りあります。
機関紙「道の友」7月号は、やはり福永代表が、五百旗頭新参与が「女性・女系天皇」容認派であること、首相による靖国神社参拝を批判していることを指摘し、憂慮を表明しています。宮内庁が皇位継承問題の非公式検討を開始したのは平成8年のようですが、それから二十有余年、宮内庁の暴走は加速しているということなのでしょう。
以前、福永代表は、同じ機関誌で、皇室法の抜本的見直しを訴えていましたが、皇室を中心とする国の法制度のあり方を再構築すべき時期を迎えているのではないでしょうか。少なくとも、天皇の祭祀大権を奪い、無様な御代替わりを敢行し、あまつさえ歴史にない女系継承容認に舵を切る宮内庁の現状は変えられなければなりません。
【関連記事】風岡宮内庁長官はなぜ退任したのか ──新旧宮内庁長官会見を読む〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2016-10-02〉
不二歌道会は昭和22年以来、毎年欠かさず、皇居勤労奉仕を続けてきましたが、今年でいったんその歴史が閉じられるそうです。宮内庁は新型コロナ対策で参加団体の定員が絞られているからと説明しているようですが、理由はそれだけでしょうか。
「行幸啓すべて見送り」で問われる天皇統治の本質。ご公務主義でいいのか [天皇・皇室]
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「行幸啓すべて見送り」で問われる天皇統治の本質。ご公務主義でいいのか
(令和2年7月5日)
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☆★So-netブログのニュース部門で、目下、ランキング12位(5934ブログ中)。上がったり下がったりです。皇室論の真っ当な議論を喚起するため、「nice」をタップしていただけるとありがたいです。〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/〉★☆
新型コロナの影響で、全国植樹祭など「四大行幸啓」がすべて今年は見送られることとなりました。戦後初の事態です。〈https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200704/k10012496881000.html〉
天皇・皇后による恒例の地方ご訪問ほか皇室のご活動は、国民との深い信頼関係を築いてきた象徴天皇制の第一の基礎である、と考えるなら、戦後天皇制のあり方を左右するきわめて大きな問題といえます。
とくに、ここ数年の皇室制度改革のテーマは、陛下(先帝)はご多忙だから御負担軽減が求められるという認識が大前提でした。来年以降、どんな対策が採られるのかわかりませんが、たとえばオンラインでのご臨席に代わるなど、ご活動のお出ましが減るのなら、近年の議論は振り出しに戻らざるを得ないはずです。「女性宮家」創設も不要となります。
【関連記事】社会的に活動なさるのが天皇ではない──『検証「女性宮家」論議』の「まえがきにかえて」 4〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2017-04-27〉
そうなると、これはチャンスです。20数年続いている女系継承容認=「女性宮家」創設論の混乱から、一歩ひいて、頭を冷やして、126代続く天皇とはもともと何だったのか、天皇統治の本質を再確認する好機となり得ます。
▽1 皇室の近代化とは何だったのか
天皇の行動主義は明治に始まりました。けっして戦後の象徴天皇制の専売特許ではありません。行幸啓がすべて見送られるという今回の現実が問いかけているのは、戦後の象徴天皇のあり方ではなく、近代の行動主義的天皇のあり方なのでしょう。皇室の近代化とは何だったのかです。
それまで薄化粧をされ、御簾に隠れて端坐されていた天皇は近代君主、立憲君主となり、ときに軍服を召されるまでになりました。明治天皇は何度も地方を巡幸され、「聖蹟」は史跡と位置づけられました。戦後復興の出発点となった昭和天皇の地方巡幸をはじめとして、平成、令和と続く戦後の行幸、行幸啓は近代の産物です。
【関連記事】皇祖と民とともに生きる天皇の精神──宮廷行事「さば」と戦後復興〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1998-06-08-2〉
たとえば、北海道に巡幸された明治天皇は、石狩地方で苦労の末、はじめて稲作を成功させた中山久蔵の自宅(駅逓)をご休憩所とされました。それまで稲作が禁止されていた北の大地はそれ以降、農業政策の大転換が図られ、いまや北海道は新潟と並ぶ米どころです。行幸は政策転換の狼煙でした。
【関連記事】北海道・寒地稲作に挑んだ人々──なぜ米を選んだのか?〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1996-07-15-2〉
戦後、昭和天皇はしばしば火山噴火や水害などの被災地を訪問されました。お見舞いと励ましは今上にも引き継がれていますが、それらは行政にとってはいわば安全宣言の機能を果たすものでした。天皇の行動主義は行政の機能を補完、補強し、ときには後始末の役割を担っています。
天皇は行政にとってきわめて便利な存在で、だから鳩山内閣の「ゴリ押し会見」も強行されました。いまや天皇は事実上、内閣の下位に位置する名目上の国家機関に成り下がっています。そういうご公務主義天皇でいいのか、ということです。
【関連記事】「皇室の御活動」という「***判」──なぜレーヴェンシュタインを引用するのか 6〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2017-06-27〉
▽2 米と粟を捧げる祭祀
葦津珍彦は、日本人の国体意識は多面的、多元的で、それらが天皇制を支えていると分析しています。桃の節句に内裏雛を飾る文化、私の田舎のようにお妃さまが養蚕と機織を教えてくれたと信じてきた地域の信仰は、国事行為やご公務をなさる特別公務員としての天皇とは異質です。しかしそれらが歴史的な天皇制を総合的に支えてきたのです。
【関連記事】葦津珍彦の天皇論に学ぶ?──竹田恒泰の共著『皇統保守』を読む〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2016-04-10〉
天皇は神勅に基づき国家を統治する、あるいは憲法に則って国事行為をなさるという演繹的な天皇ではなくて、多様なる民の多様なる天皇意識に根づいた天皇のあり方というものがあるのでしょう。たぶんそれが、戦後、等閑視されている、126代続いてきた祭り主天皇というものではないのでしょうか。
天神地祇をまつり、米と粟を捧げて祈る天皇と多様なる民の多様なる天皇意識とはたぶん同時並行の関係にあるはずです。平成、令和と、非宗教的な政教分離政策のもと、御代替わりの宗教的儀礼を「国の行事」として行うことを避けただけでなく、皇室の伝統に不当に介入した、後世に恥じる政策は改められるべきではありませんか。
☆斎藤吉久から☆ 当ブログ〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/〉はおかげさまで、so-netブログのニュース部門で、目下、ランキング12位。アメーバブログ「誤解だらけの天皇・皇室」〈https://ameblo.jp/otottsan/〉でもお読みいただけます。読了後は「いいね」を押していただき、フォロアー登録していただけるとありがたいです。また、まぐまぐ!のメルマガ「誤解だらけの天皇・皇室」〈https://www.mag2.com/m/0001690423.html〉にご登録いただくとメルマガを受信できるようになります。
「行幸啓すべて見送り」で問われる天皇統治の本質。ご公務主義でいいのか
(令和2年7月5日)
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☆★So-netブログのニュース部門で、目下、ランキング12位(5934ブログ中)。上がったり下がったりです。皇室論の真っ当な議論を喚起するため、「nice」をタップしていただけるとありがたいです。〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/〉★☆
新型コロナの影響で、全国植樹祭など「四大行幸啓」がすべて今年は見送られることとなりました。戦後初の事態です。〈https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200704/k10012496881000.html〉
天皇・皇后による恒例の地方ご訪問ほか皇室のご活動は、国民との深い信頼関係を築いてきた象徴天皇制の第一の基礎である、と考えるなら、戦後天皇制のあり方を左右するきわめて大きな問題といえます。
とくに、ここ数年の皇室制度改革のテーマは、陛下(先帝)はご多忙だから御負担軽減が求められるという認識が大前提でした。来年以降、どんな対策が採られるのかわかりませんが、たとえばオンラインでのご臨席に代わるなど、ご活動のお出ましが減るのなら、近年の議論は振り出しに戻らざるを得ないはずです。「女性宮家」創設も不要となります。
【関連記事】社会的に活動なさるのが天皇ではない──『検証「女性宮家」論議』の「まえがきにかえて」 4〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2017-04-27〉
そうなると、これはチャンスです。20数年続いている女系継承容認=「女性宮家」創設論の混乱から、一歩ひいて、頭を冷やして、126代続く天皇とはもともと何だったのか、天皇統治の本質を再確認する好機となり得ます。
▽1 皇室の近代化とは何だったのか
天皇の行動主義は明治に始まりました。けっして戦後の象徴天皇制の専売特許ではありません。行幸啓がすべて見送られるという今回の現実が問いかけているのは、戦後の象徴天皇のあり方ではなく、近代の行動主義的天皇のあり方なのでしょう。皇室の近代化とは何だったのかです。
それまで薄化粧をされ、御簾に隠れて端坐されていた天皇は近代君主、立憲君主となり、ときに軍服を召されるまでになりました。明治天皇は何度も地方を巡幸され、「聖蹟」は史跡と位置づけられました。戦後復興の出発点となった昭和天皇の地方巡幸をはじめとして、平成、令和と続く戦後の行幸、行幸啓は近代の産物です。
【関連記事】皇祖と民とともに生きる天皇の精神──宮廷行事「さば」と戦後復興〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1998-06-08-2〉
たとえば、北海道に巡幸された明治天皇は、石狩地方で苦労の末、はじめて稲作を成功させた中山久蔵の自宅(駅逓)をご休憩所とされました。それまで稲作が禁止されていた北の大地はそれ以降、農業政策の大転換が図られ、いまや北海道は新潟と並ぶ米どころです。行幸は政策転換の狼煙でした。
【関連記事】北海道・寒地稲作に挑んだ人々──なぜ米を選んだのか?〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1996-07-15-2〉
戦後、昭和天皇はしばしば火山噴火や水害などの被災地を訪問されました。お見舞いと励ましは今上にも引き継がれていますが、それらは行政にとってはいわば安全宣言の機能を果たすものでした。天皇の行動主義は行政の機能を補完、補強し、ときには後始末の役割を担っています。
天皇は行政にとってきわめて便利な存在で、だから鳩山内閣の「ゴリ押し会見」も強行されました。いまや天皇は事実上、内閣の下位に位置する名目上の国家機関に成り下がっています。そういうご公務主義天皇でいいのか、ということです。
【関連記事】「皇室の御活動」という「***判」──なぜレーヴェンシュタインを引用するのか 6〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2017-06-27〉
▽2 米と粟を捧げる祭祀
葦津珍彦は、日本人の国体意識は多面的、多元的で、それらが天皇制を支えていると分析しています。桃の節句に内裏雛を飾る文化、私の田舎のようにお妃さまが養蚕と機織を教えてくれたと信じてきた地域の信仰は、国事行為やご公務をなさる特別公務員としての天皇とは異質です。しかしそれらが歴史的な天皇制を総合的に支えてきたのです。
【関連記事】葦津珍彦の天皇論に学ぶ?──竹田恒泰の共著『皇統保守』を読む〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2016-04-10〉
天皇は神勅に基づき国家を統治する、あるいは憲法に則って国事行為をなさるという演繹的な天皇ではなくて、多様なる民の多様なる天皇意識に根づいた天皇のあり方というものがあるのでしょう。たぶんそれが、戦後、等閑視されている、126代続いてきた祭り主天皇というものではないのでしょうか。
天神地祇をまつり、米と粟を捧げて祈る天皇と多様なる民の多様なる天皇意識とはたぶん同時並行の関係にあるはずです。平成、令和と、非宗教的な政教分離政策のもと、御代替わりの宗教的儀礼を「国の行事」として行うことを避けただけでなく、皇室の伝統に不当に介入した、後世に恥じる政策は改められるべきではありませんか。
☆斎藤吉久から☆ 当ブログ〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/〉はおかげさまで、so-netブログのニュース部門で、目下、ランキング12位。アメーバブログ「誤解だらけの天皇・皇室」〈https://ameblo.jp/otottsan/〉でもお読みいただけます。読了後は「いいね」を押していただき、フォロアー登録していただけるとありがたいです。また、まぐまぐ!のメルマガ「誤解だらけの天皇・皇室」〈https://www.mag2.com/m/0001690423.html〉にご登録いただくとメルマガを受信できるようになります。
個人商店と株式会社の狭間──現代の皇室が抱える矛盾 [天皇・皇室]
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個人商店と株式会社の狭間──現代の皇室が抱える矛盾
《斎藤吉久のブログ 令和元年12月31日》
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一昨日の29日、たいへん考えさせられる記事が共同通信(47 NEWS )から配信された。大木賢一記者による「新天皇が見せた『重大な変化』とは 上皇の前例踏襲せず 国との関係性に影響?」〈https://this.kiji.is/582556828454388833?c=39546741839462401〉である。
記事は、9月に秋田で開かれた海づくり大会で、皇位継承後はじめてご臨席になった今上天皇が、国歌斉唱の際に皇后陛下とともに、「示し合わせたかのようにくるりと後ろを向いた」。先帝の時代にはなかった「異変」だ、と指摘している。
記者たちを驚かせた「令和流」について、宮内庁は「国民を大切に思い、共に歩むという点では、上皇ご夫妻と変わらないだろう」と取材に答えたというのだが、識者たちは違う。
▽1 君が代に背を向け、国旗を仰ぐ
「日の丸を背負って君が代を受け止める」という先帝の前例を踏襲しない、「君が代に背を向ける」今上天皇の「重大な変化」について、「国民と同じ視線と立場で共に国に敬意を表した」(河西秀哉准教授)、「国の最上位の公共性を表示する国旗に、陛下は公共性の究極の体現者として、敬意を表された」(高森明勅氏)、「涙が出る。今現在はたまたま自分が国を預かっているという認識の表れ」(八木秀次教授)とそれぞれに評価する研究者もいる。
その一方で、「国民の国への過剰な帰属意識を誘う危険もある」(原武史教授)、「右派を利することにもなりかねないそうした行動は自重すべきだ」(池田直樹弁護士)と警戒する人たちもいる。その背後にはいうまでもなく、「君が代は国民を戦争に動員するものとして歌われた歴史がある」(河西准教授)との見方がある。
些細なことのようにも見える変化を、大木記者が「重大」と捉えるのは、日の丸・君が代問題の悩ましさがあり、「国と天皇との関係性」を変えるかもしれないと考えるからだが、私にはむしろ現代天皇制が抱える矛盾を浮き彫りにしているように感じられた。それは大木記者の事実認識と識者たちの反応のなかに見え隠れしている。
まず事実を振り返ると、大木記者によれば、先帝は皇后とともに式典の国歌斉唱で参列者の方を向いたままだったが、今上は皇后とともに後ろを向き、国旗を振り仰いだとされている。この「異変」に大木記者ほか取材記者らが注目し、そして研究者たちは国旗を仰ぎ見られた事実に着目している。
ここで気づかされるのは、大木記者も教授たちも、先帝および今上天皇の行為が個人もしくは皇后との共同による行為と判断されていることである。天皇はかつてのような藩屏に囲まれた存在ではなく、いわば個人商店であり、そして上御一人ではなく、つねに「両陛下」と呼ばれる、いわば一夫一婦天皇制が標準であることが暗黙の前提となっている。
そうだとして、一方では日本国憲法の国民主権主義下での象徴天皇制という枠組みのなかでは、天皇の地位は主権の存する国民の総意に基づくのであり、であれば、天皇の個人的もしくは皇后との共同的行為がいわば株式会社の株主とされている国民の絶対的支持を得られるかどうかが問われることになる。
大木記者の記事はこのような問題意識から生まれたものと思われる。
▽2 天皇は「個人」でいいのか
しかし、あらためて見直すと、事実は大木記者の理解と少し異なるように思う。つまり、側近の関わりが見逃されているのである。
共同通信のサイトに載る画像をよく見ると、2年前の福岡大会で、先帝は皇后とともに参列者の方を向いたままだが、かたわらの側近もまた同様に国旗を仰いではいない。他方、今年の秋田大会では、今上も皇后も、そして側近も同様に後ろを向いている。国旗を仰いでいるのは今上と皇后だけではない。
つまり、先帝、今上ともに、天皇個人の判断もしくは皇后との二人三脚ではなく、側近との何らかの打ち合わせがあり、そのうえでの統一行動であることが容易に推測される。
大木記者の記事によると、今上は皇太子時代から「後ろを振り返っている」という。とすれば、「前例を覆した」のではなく、皇太子時代の「踏襲」といえる。側近の侍従職は東宮侍従からの持ち上がりだろうから、今上にとっては「異変」ではない。大木記者は、今上が皇后に「目配せした」ことをもって、「重大な変化」への意気込みであるかのように匂わせているが思い込みではなかろうか。
問題は側近の関わり具合であろう。
大木記者の記事に見られるように、平成も令和も、現代の天皇は間違いなく個人商店化している。支える藩屏の不在は昭和の時代から指摘されている。大木記者のような指摘が当然だとすれば、側近は事前によくご相談申し上げるべきだろう。ただし、的確な輔弼が可能かどうか。
天皇のお言葉は、かつての宣命や勅語とはまるで違い、現代では個人の言葉に変わっている。今回の御代替わりは先帝のビデオ・メッセージに始まるが、あのお言葉には文章が飛んでいる箇所があり、明らかに第三者による推敲の跡が見受けられる。とはいえ、もともと専門の職掌の作成ではないだろう。200年前の光格天皇の譲位の宣命が文章博士によって書かれたのとは、まったく異なる。
藩屏を失い、個人としてお言葉を述べ、行動される。せいぜい皇后だけが唯一無二の協力者であるという個人商店化した現代の天皇にとって、国民の総意に基づくとする皇位を揺るぎなきものとなるためには、究極のポピュリズムを演じなければならないということにはならないか。
他方、国民からすれば、個人化した皇室はアイドルか、個人崇拝の対象となりかねない。事実、メディアは動物園を視察する殿下やダンス好きの内親王を話題にし、国民の関心を煽っている。それは「天皇に私なし」とされる、126代続いてきた皇室の歴史と伝統の対極にある。
天皇は個人でいいのか、大木記者はそこを取り上げてほしい。そして識者たちも考えてほしい。
個人商店と株式会社の狭間──現代の皇室が抱える矛盾
《斎藤吉久のブログ 令和元年12月31日》
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一昨日の29日、たいへん考えさせられる記事が共同通信(47 NEWS )から配信された。大木賢一記者による「新天皇が見せた『重大な変化』とは 上皇の前例踏襲せず 国との関係性に影響?」〈https://this.kiji.is/582556828454388833?c=39546741839462401〉である。
記事は、9月に秋田で開かれた海づくり大会で、皇位継承後はじめてご臨席になった今上天皇が、国歌斉唱の際に皇后陛下とともに、「示し合わせたかのようにくるりと後ろを向いた」。先帝の時代にはなかった「異変」だ、と指摘している。
記者たちを驚かせた「令和流」について、宮内庁は「国民を大切に思い、共に歩むという点では、上皇ご夫妻と変わらないだろう」と取材に答えたというのだが、識者たちは違う。
▽1 君が代に背を向け、国旗を仰ぐ
「日の丸を背負って君が代を受け止める」という先帝の前例を踏襲しない、「君が代に背を向ける」今上天皇の「重大な変化」について、「国民と同じ視線と立場で共に国に敬意を表した」(河西秀哉准教授)、「国の最上位の公共性を表示する国旗に、陛下は公共性の究極の体現者として、敬意を表された」(高森明勅氏)、「涙が出る。今現在はたまたま自分が国を預かっているという認識の表れ」(八木秀次教授)とそれぞれに評価する研究者もいる。
その一方で、「国民の国への過剰な帰属意識を誘う危険もある」(原武史教授)、「右派を利することにもなりかねないそうした行動は自重すべきだ」(池田直樹弁護士)と警戒する人たちもいる。その背後にはいうまでもなく、「君が代は国民を戦争に動員するものとして歌われた歴史がある」(河西准教授)との見方がある。
些細なことのようにも見える変化を、大木記者が「重大」と捉えるのは、日の丸・君が代問題の悩ましさがあり、「国と天皇との関係性」を変えるかもしれないと考えるからだが、私にはむしろ現代天皇制が抱える矛盾を浮き彫りにしているように感じられた。それは大木記者の事実認識と識者たちの反応のなかに見え隠れしている。
まず事実を振り返ると、大木記者によれば、先帝は皇后とともに式典の国歌斉唱で参列者の方を向いたままだったが、今上は皇后とともに後ろを向き、国旗を振り仰いだとされている。この「異変」に大木記者ほか取材記者らが注目し、そして研究者たちは国旗を仰ぎ見られた事実に着目している。
ここで気づかされるのは、大木記者も教授たちも、先帝および今上天皇の行為が個人もしくは皇后との共同による行為と判断されていることである。天皇はかつてのような藩屏に囲まれた存在ではなく、いわば個人商店であり、そして上御一人ではなく、つねに「両陛下」と呼ばれる、いわば一夫一婦天皇制が標準であることが暗黙の前提となっている。
そうだとして、一方では日本国憲法の国民主権主義下での象徴天皇制という枠組みのなかでは、天皇の地位は主権の存する国民の総意に基づくのであり、であれば、天皇の個人的もしくは皇后との共同的行為がいわば株式会社の株主とされている国民の絶対的支持を得られるかどうかが問われることになる。
大木記者の記事はこのような問題意識から生まれたものと思われる。
▽2 天皇は「個人」でいいのか
しかし、あらためて見直すと、事実は大木記者の理解と少し異なるように思う。つまり、側近の関わりが見逃されているのである。
共同通信のサイトに載る画像をよく見ると、2年前の福岡大会で、先帝は皇后とともに参列者の方を向いたままだが、かたわらの側近もまた同様に国旗を仰いではいない。他方、今年の秋田大会では、今上も皇后も、そして側近も同様に後ろを向いている。国旗を仰いでいるのは今上と皇后だけではない。
つまり、先帝、今上ともに、天皇個人の判断もしくは皇后との二人三脚ではなく、側近との何らかの打ち合わせがあり、そのうえでの統一行動であることが容易に推測される。
大木記者の記事によると、今上は皇太子時代から「後ろを振り返っている」という。とすれば、「前例を覆した」のではなく、皇太子時代の「踏襲」といえる。側近の侍従職は東宮侍従からの持ち上がりだろうから、今上にとっては「異変」ではない。大木記者は、今上が皇后に「目配せした」ことをもって、「重大な変化」への意気込みであるかのように匂わせているが思い込みではなかろうか。
問題は側近の関わり具合であろう。
大木記者の記事に見られるように、平成も令和も、現代の天皇は間違いなく個人商店化している。支える藩屏の不在は昭和の時代から指摘されている。大木記者のような指摘が当然だとすれば、側近は事前によくご相談申し上げるべきだろう。ただし、的確な輔弼が可能かどうか。
天皇のお言葉は、かつての宣命や勅語とはまるで違い、現代では個人の言葉に変わっている。今回の御代替わりは先帝のビデオ・メッセージに始まるが、あのお言葉には文章が飛んでいる箇所があり、明らかに第三者による推敲の跡が見受けられる。とはいえ、もともと専門の職掌の作成ではないだろう。200年前の光格天皇の譲位の宣命が文章博士によって書かれたのとは、まったく異なる。
藩屏を失い、個人としてお言葉を述べ、行動される。せいぜい皇后だけが唯一無二の協力者であるという個人商店化した現代の天皇にとって、国民の総意に基づくとする皇位を揺るぎなきものとなるためには、究極のポピュリズムを演じなければならないということにはならないか。
他方、国民からすれば、個人化した皇室はアイドルか、個人崇拝の対象となりかねない。事実、メディアは動物園を視察する殿下やダンス好きの内親王を話題にし、国民の関心を煽っている。それは「天皇に私なし」とされる、126代続いてきた皇室の歴史と伝統の対極にある。
天皇は個人でいいのか、大木記者はそこを取り上げてほしい。そして識者たちも考えてほしい。
価値多元主義の潮流に逆行 ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」10 [天皇・皇室]
以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年9月1日)からの転載です
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価値多元主義の潮流に逆行
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」10
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
今回の御代替わりについて、政府は、「憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の伝統等を尊重」「平成の前例踏襲」という「基本方針」を示しているが、既述したように、さまざまな不都合が指摘される。
それらが「1強」と呼ばれる保守長期政権によって招来されていることに、私は長嘆息を禁じ得ない。敗戦後、社会党政権下でさえ、天皇の祭祀は粛々と行われていたのに、である。
なぜこんなことが起きるのか。
けれども、今回の御代替わりについて、本質的議論を加えるべき時機はもはや逸している。戦後70年間、本格的議論ができなかったことが返す返すも悔やまれる。
皇室のあるべき儀礼とはいかなるものか、あるべき天皇制とはどのようなものか、国の法体系とはどのようにあるべきか、将来に向けた、抜本的な検討が求められていると思う。
アメリカでは2001年の9・11同時多発テロの3日後、ワシントン・ナショナル・カテドラルで犠牲者追悼のミサが行われ、各宗教の代表者が祈りを捧げた。03年のスペース・シャトル「コロンビア号」の事故でも、同様に多宗教的儀礼がここで行われた。
同聖堂は国家が祈りを捧げる「全国民の教会」とされ、100年余の歴史を誇る。大統領就任ミサを始め、しばしばホワイト・ハウスの依頼でミサが行われ、現職ならびに歴代大統領ほか政府高官らが参列し、費用は政府が実費を負担しているという。
カテドラル関係者は「儀式は当然、宗教的だ。祈りは宗教的行為以外の何ものでもない」と明言するが、政教分離原則に違反するとは考えられていない。政教分離主義の源流とされるアメリカは、みずからの宗教的伝統に従って、国事を執り行っている。
キリスト教世界では大航海時代とはうって変わり、とくに第2バチカン公会議以降、多宗教的、多元的な価値を積極的に認めるようになっている。ローマ教皇は何度もイスタンブールのブルーモスクで和解と平和の祈りを捧げている。
しかし、宗教の平和的共存、価値多元主義の容認は、むしろ日本の天皇制こそその先駆けではなかったか。「およそ天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇祭れ」(神祇令)とされ、歴代天皇は稲作民の稲と畑作民の粟による儀礼を継承し、国と民のために祈りをつむぎ続けてこられた。
天皇の祭りこそは信教の自由を保障するものだろう。なぜ一神教世界由来の政教分離の対象とされなければならないのだろうか。
ところが現代の日本人には問題意識が乏しい。私たちは近代化の末に、文明の多元的価値を見失っている。そればかりでなく、世界の価値多元主義的潮流に逆行している。天皇とは何だったのか、私たちはいま一度、謙虚に問い直すべきではなかろうか。(終わり)
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価値多元主義の潮流に逆行
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」10
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今回の御代替わりについて、政府は、「憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の伝統等を尊重」「平成の前例踏襲」という「基本方針」を示しているが、既述したように、さまざまな不都合が指摘される。
それらが「1強」と呼ばれる保守長期政権によって招来されていることに、私は長嘆息を禁じ得ない。敗戦後、社会党政権下でさえ、天皇の祭祀は粛々と行われていたのに、である。
なぜこんなことが起きるのか。
けれども、今回の御代替わりについて、本質的議論を加えるべき時機はもはや逸している。戦後70年間、本格的議論ができなかったことが返す返すも悔やまれる。
皇室のあるべき儀礼とはいかなるものか、あるべき天皇制とはどのようなものか、国の法体系とはどのようにあるべきか、将来に向けた、抜本的な検討が求められていると思う。
アメリカでは2001年の9・11同時多発テロの3日後、ワシントン・ナショナル・カテドラルで犠牲者追悼のミサが行われ、各宗教の代表者が祈りを捧げた。03年のスペース・シャトル「コロンビア号」の事故でも、同様に多宗教的儀礼がここで行われた。
同聖堂は国家が祈りを捧げる「全国民の教会」とされ、100年余の歴史を誇る。大統領就任ミサを始め、しばしばホワイト・ハウスの依頼でミサが行われ、現職ならびに歴代大統領ほか政府高官らが参列し、費用は政府が実費を負担しているという。
カテドラル関係者は「儀式は当然、宗教的だ。祈りは宗教的行為以外の何ものでもない」と明言するが、政教分離原則に違反するとは考えられていない。政教分離主義の源流とされるアメリカは、みずからの宗教的伝統に従って、国事を執り行っている。
キリスト教世界では大航海時代とはうって変わり、とくに第2バチカン公会議以降、多宗教的、多元的な価値を積極的に認めるようになっている。ローマ教皇は何度もイスタンブールのブルーモスクで和解と平和の祈りを捧げている。
しかし、宗教の平和的共存、価値多元主義の容認は、むしろ日本の天皇制こそその先駆けではなかったか。「およそ天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇祭れ」(神祇令)とされ、歴代天皇は稲作民の稲と畑作民の粟による儀礼を継承し、国と民のために祈りをつむぎ続けてこられた。
天皇の祭りこそは信教の自由を保障するものだろう。なぜ一神教世界由来の政教分離の対象とされなければならないのだろうか。
ところが現代の日本人には問題意識が乏しい。私たちは近代化の末に、文明の多元的価値を見失っている。そればかりでなく、世界の価値多元主義的潮流に逆行している。天皇とは何だったのか、私たちはいま一度、謙虚に問い直すべきではなかろうか。(終わり)
「祭り主」は過去の遺物となった ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」9 [天皇・皇室]
以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年8月25日)からの転載です
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「祭り主」は過去の遺物となった
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」9
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昭和天皇が亡くなり、皇位は皇太子殿下(いまは太上天皇)に継承された。しかし政府は何の準備もなかった(前掲永田インタビュー)。戦後の皇室典範は「即位の礼を行う」「大喪の礼を行う」と定めるだけで、皇位継承という国と皇室の最重要事に関して、具体的な法規定がなかった。法治国家として最悪の事態である。
幸いというべきか、日本国憲法施行時の依命通牒は生きている。「廃止の手続きは取っておりません」(平成3年4月25日、参院内閣委)という宮内庁幹部の国会答弁からすれば、依命通牒第3項によって、登極令附式に準じて、御代替わりの諸儀式は行われていいはずだが、そうはならなかった。
最大の問題は大嘗祭だった。石原信雄元内閣官房副長官は自著で「きわめて宗教色が強いので、大嘗祭をそもそも行うか行わないかが大問題になりました」と回想している(『官邸2668日──政策決定の舞台裏』、平成7年)。急先鋒は内閣法制局だったという。
政府は段階的に委員会を設け、御代替わり儀礼の中身について検討した。そして、「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」とが対立的に捉えられ、皇室の伝統のままに行うことが憲法の趣旨に反すると考えるものは、国の行事ではなく、皇室行事とされた。判断基準はむろん政教分離原則だった。
平安期以来の践祚と即位の区別は失われ、立法者たちが想定しない「大喪の礼」が行われた。「即位の礼」は皇室の伝統儀礼とは似て非なるものとなり、もっとも中心的な「大嘗祭」は「宗教性」ゆえに「国の行事」とはなれなかった。
御代替わりの諸儀式は、全体的に皇室および国の最重要事であり、国事のはずだが、最高法規たる憲法の政教分離原則によって因数分解され、国の行事と皇室行事とに二分された。宗教性があるとされる儀式は非宗教的に改称、改変された。
皇位継承ののち、天皇陛下(太上天皇)は、皇后陛下(皇太后)とともに祭祀について学ばれ、正常化に努められたという。即位以来、陛下は、皇室の伝統と憲法の理念の両方を追求される、とことあるごとに繰り返し表明された。
けれども在位20年を過ぎて、ご健康問題を理由に、ふたたび祭祀の簡略化が平成の官僚たちによって敢行された。
宮内庁によるご公務ご負担軽減策が講じられたものの、ご公務件数は逆に増えた。一方で、祭祀のお出ましは文字通り激減した。祭祀がご負担軽減の標的にされたのだ。ご負担軽減策は、天皇の聖域たる祭祀に不当に介入しただけで、不成功に終わった。
要するに、古来、天皇第一の務めは祭祀とされてきたが、こうした天皇観はすでに過去の遺物とされている。近世までの天皇は装束を召され、薄化粧されて御簾のかげに端座される祭り主だった。近代の天皇は祭り主であると同時に、行動する立憲君主だった。
だが、いまや洋装で憲法上の国事行為を行う特別公務員とされている。はたして、それでいいのだろうか。
今回の御代替わりでは、前回の批判的検証もあればこそ、前例踏襲が基本方針とされている。政府の発表によれば、践祚の前日に前代未聞の「退位の礼」が行われ、譲位(退位)と践祚(即位)が分離される。前回は3日間の賢所の儀のあとに行われた朝見の儀が、今回は践祚当日になる。そもそも政府は祭祀について、検討した気配がない。皇室の伝統について十分な検証を怠っている。これで済まされるのだろうか。(つづく)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「祭り主」は過去の遺物となった
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」9
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昭和天皇が亡くなり、皇位は皇太子殿下(いまは太上天皇)に継承された。しかし政府は何の準備もなかった(前掲永田インタビュー)。戦後の皇室典範は「即位の礼を行う」「大喪の礼を行う」と定めるだけで、皇位継承という国と皇室の最重要事に関して、具体的な法規定がなかった。法治国家として最悪の事態である。
幸いというべきか、日本国憲法施行時の依命通牒は生きている。「廃止の手続きは取っておりません」(平成3年4月25日、参院内閣委)という宮内庁幹部の国会答弁からすれば、依命通牒第3項によって、登極令附式に準じて、御代替わりの諸儀式は行われていいはずだが、そうはならなかった。
最大の問題は大嘗祭だった。石原信雄元内閣官房副長官は自著で「きわめて宗教色が強いので、大嘗祭をそもそも行うか行わないかが大問題になりました」と回想している(『官邸2668日──政策決定の舞台裏』、平成7年)。急先鋒は内閣法制局だったという。
政府は段階的に委員会を設け、御代替わり儀礼の中身について検討した。そして、「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」とが対立的に捉えられ、皇室の伝統のままに行うことが憲法の趣旨に反すると考えるものは、国の行事ではなく、皇室行事とされた。判断基準はむろん政教分離原則だった。
平安期以来の践祚と即位の区別は失われ、立法者たちが想定しない「大喪の礼」が行われた。「即位の礼」は皇室の伝統儀礼とは似て非なるものとなり、もっとも中心的な「大嘗祭」は「宗教性」ゆえに「国の行事」とはなれなかった。
御代替わりの諸儀式は、全体的に皇室および国の最重要事であり、国事のはずだが、最高法規たる憲法の政教分離原則によって因数分解され、国の行事と皇室行事とに二分された。宗教性があるとされる儀式は非宗教的に改称、改変された。
皇位継承ののち、天皇陛下(太上天皇)は、皇后陛下(皇太后)とともに祭祀について学ばれ、正常化に努められたという。即位以来、陛下は、皇室の伝統と憲法の理念の両方を追求される、とことあるごとに繰り返し表明された。
けれども在位20年を過ぎて、ご健康問題を理由に、ふたたび祭祀の簡略化が平成の官僚たちによって敢行された。
宮内庁によるご公務ご負担軽減策が講じられたものの、ご公務件数は逆に増えた。一方で、祭祀のお出ましは文字通り激減した。祭祀がご負担軽減の標的にされたのだ。ご負担軽減策は、天皇の聖域たる祭祀に不当に介入しただけで、不成功に終わった。
要するに、古来、天皇第一の務めは祭祀とされてきたが、こうした天皇観はすでに過去の遺物とされている。近世までの天皇は装束を召され、薄化粧されて御簾のかげに端座される祭り主だった。近代の天皇は祭り主であると同時に、行動する立憲君主だった。
だが、いまや洋装で憲法上の国事行為を行う特別公務員とされている。はたして、それでいいのだろうか。
今回の御代替わりでは、前回の批判的検証もあればこそ、前例踏襲が基本方針とされている。政府の発表によれば、践祚の前日に前代未聞の「退位の礼」が行われ、譲位(退位)と践祚(即位)が分離される。前回は3日間の賢所の儀のあとに行われた朝見の儀が、今回は践祚当日になる。そもそも政府は祭祀について、検討した気配がない。皇室の伝統について十分な検証を怠っている。これで済まされるのだろうか。(つづく)
「私事」のまま放置する不作為と改変 ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」8 [天皇・皇室]
以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年8月18日)からの転載です
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「私事」のまま放置する不作為と改変
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」8
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敗戦は当然、天皇の祭祀にも大きな影響を及ぼした。
昭和20年12月に、「目的は宗教を国家より分離することにある」とする、いわゆる神道指令が発せられると、宮中祭祀は国家的性格を否定され、「皇室の私事」として存続することを余儀なくされた。掌典職は内廷の機関となった。
神道指令は駅の門松や神棚までも撤去させるほど過酷だった。政府は、皇室伝統の祭祀を守るため、当面、「宮中祭祀は皇室の私事」という解釈でしのぎ、いずれきちんとした法整備を図ることを方針とせざるを得なかったとされる。異論はあったが、敗戦国の政府が占領軍に楯突くことは不可能だった。
さらに2年後、22年に日本国憲法が施行されると、皇室令は全廃された。皇室典範を中心とする宮務法の体系が国務法に一元的に吸収され、新しい皇室典範は一法律と位置づけられた。宮中祭祀は明文法的根拠を失い、近代以前に引き戻された。
ただ、祭祀の形式は、ほぼ従来通り存続した。
同日に宮内府長官官房文書課長による依命通牒が発せられ、「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて、事務を処理すること」(第3項)とされ、宮中祭祀令の附式に準じて、祭式はかろうじて存続することになった。
けれどもその後、今日に至るまで、皇室令に代わる宮務法の体系は作られることはなかった。宮中祭祀の法的位置づけは「皇室の私事」のまま、変わることはなかった。
それどころか、さらなる試練が生じた。国民の目の届かないところで、占領前期への先祖返りが起きたのだ。
昭和40年代に入って、万年ヒラの侍従から、瞬く間に侍従長へと駆け上がった入江相政は依命通牒を無視して、祭祀を「簡素化」する「工作」に熱中した。無法化の始まりである。名目は昭和天皇の高齢化だった。
毎月1日の旬祭の親拝は5月と10月だけとなり、皇室第一の重儀であるはずの新嘗祭は簡略化された。昭和天皇のご健康への配慮であるかのように「入江日記」には説明されているが、疑わしい。それならそれで、なぜ正規のルール作りを怠ったのか。
そして、富田朝彦宮内庁次長(のちの長官)が登場した。冒頭に書いたように、50年8月15日の宮内庁長官室の会議で、毎朝御代拝の変更が決められた。
国会答弁(平成3年4月25日の参院内閣委)などによると、依命通牒第4項の「前項の場合において、従前の例によれないものは、当分の内の案を立てて、伺いをした上、事務を処理すること」をあわせ読んだ結果であり、政教分離原則への配慮と推定される。占領前期の厳格主義への人知れぬ先祖返りである。
侍従は天皇の側近というより公務員であり、したがって特定の宗教である宮中祭祀への直接的関与から離脱することとなった。天皇=祭り主とする天皇観は崩壊した。
改変の中心人物と目される富田は、いわゆる「富田メモ」で知られる元警察官僚だが、無神論者を自任していたといわれ、側近ながら祭祀に不参のことが多かった(前掲永田インタビュー)。富田らによる一方的な祭祀変更は次々に起こり、いまに尾を引いている。
御代替わりの中心儀礼である大嘗祭もしかりであった。
昭和54年4月、元号法制化に関する国会答弁で、真田秀夫・内閣法制局長官は「従来のような大嘗祭は神式だから、憲法20条3項(国の宗教的活動の禁止)から国が行うことは許されない。それは別途、皇室の行事としておやりになるかどうか」と述べた。
戦後の混乱期には「祭祀は皇室の私事」という憲法解釈を便宜上、取らざるを得なかったにせよ、その後、正常化が図られ、34年の皇太子御成婚では、賢所大前での御結婚の儀は「国の儀式」と政府決定された。だが法制局は、大嘗祭は神道儀式と断定したのだ。(つづく)
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「私事」のまま放置する不作為と改変
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」8
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敗戦は当然、天皇の祭祀にも大きな影響を及ぼした。
昭和20年12月に、「目的は宗教を国家より分離することにある」とする、いわゆる神道指令が発せられると、宮中祭祀は国家的性格を否定され、「皇室の私事」として存続することを余儀なくされた。掌典職は内廷の機関となった。
神道指令は駅の門松や神棚までも撤去させるほど過酷だった。政府は、皇室伝統の祭祀を守るため、当面、「宮中祭祀は皇室の私事」という解釈でしのぎ、いずれきちんとした法整備を図ることを方針とせざるを得なかったとされる。異論はあったが、敗戦国の政府が占領軍に楯突くことは不可能だった。
さらに2年後、22年に日本国憲法が施行されると、皇室令は全廃された。皇室典範を中心とする宮務法の体系が国務法に一元的に吸収され、新しい皇室典範は一法律と位置づけられた。宮中祭祀は明文法的根拠を失い、近代以前に引き戻された。
ただ、祭祀の形式は、ほぼ従来通り存続した。
同日に宮内府長官官房文書課長による依命通牒が発せられ、「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて、事務を処理すること」(第3項)とされ、宮中祭祀令の附式に準じて、祭式はかろうじて存続することになった。
けれどもその後、今日に至るまで、皇室令に代わる宮務法の体系は作られることはなかった。宮中祭祀の法的位置づけは「皇室の私事」のまま、変わることはなかった。
それどころか、さらなる試練が生じた。国民の目の届かないところで、占領前期への先祖返りが起きたのだ。
昭和40年代に入って、万年ヒラの侍従から、瞬く間に侍従長へと駆け上がった入江相政は依命通牒を無視して、祭祀を「簡素化」する「工作」に熱中した。無法化の始まりである。名目は昭和天皇の高齢化だった。
毎月1日の旬祭の親拝は5月と10月だけとなり、皇室第一の重儀であるはずの新嘗祭は簡略化された。昭和天皇のご健康への配慮であるかのように「入江日記」には説明されているが、疑わしい。それならそれで、なぜ正規のルール作りを怠ったのか。
そして、富田朝彦宮内庁次長(のちの長官)が登場した。冒頭に書いたように、50年8月15日の宮内庁長官室の会議で、毎朝御代拝の変更が決められた。
国会答弁(平成3年4月25日の参院内閣委)などによると、依命通牒第4項の「前項の場合において、従前の例によれないものは、当分の内の案を立てて、伺いをした上、事務を処理すること」をあわせ読んだ結果であり、政教分離原則への配慮と推定される。占領前期の厳格主義への人知れぬ先祖返りである。
侍従は天皇の側近というより公務員であり、したがって特定の宗教である宮中祭祀への直接的関与から離脱することとなった。天皇=祭り主とする天皇観は崩壊した。
改変の中心人物と目される富田は、いわゆる「富田メモ」で知られる元警察官僚だが、無神論者を自任していたといわれ、側近ながら祭祀に不参のことが多かった(前掲永田インタビュー)。富田らによる一方的な祭祀変更は次々に起こり、いまに尾を引いている。
御代替わりの中心儀礼である大嘗祭もしかりであった。
昭和54年4月、元号法制化に関する国会答弁で、真田秀夫・内閣法制局長官は「従来のような大嘗祭は神式だから、憲法20条3項(国の宗教的活動の禁止)から国が行うことは許されない。それは別途、皇室の行事としておやりになるかどうか」と述べた。
戦後の混乱期には「祭祀は皇室の私事」という憲法解釈を便宜上、取らざるを得なかったにせよ、その後、正常化が図られ、34年の皇太子御成婚では、賢所大前での御結婚の儀は「国の儀式」と政府決定された。だが法制局は、大嘗祭は神道儀式と断定したのだ。(つづく)
アメリカが見た鏡のなかの「軍国主義」 ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」7 [天皇・皇室]
以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年8月10日)からの転載です
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アメリカが見た鏡のなかの「軍国主義」
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」7
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近代化の道をひた走った末に、日本はほとんど世界を相手に戦争し、ポツダム宣言を受け取れ、敗戦国となった。尊い人命が数多く失われ、国土は焦土と化した。宣言の受諾を国民に伝える詔書には「五内爲ニ裂ク」と無念が表明されている。
日本に降伏を迫るポツダム宣言には、「軍国主義」「世界征服」の言葉が登場する。
「われらは、無責任なる軍国主義が世界より駆逐せらるるに至るまでは、平和、安全および正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるをもって、日本国国民を欺瞞し、これをして世界征服の挙に出ずるの過誤を犯さしめたる者の権力および勢力は、永久に除去せられざるべからず」(日本語訳文の原典は漢字片仮名交じり)
この「軍国主義」「世界征服」とは、具体的に何を指すのだろう。
戦中からアメリカは、「国家神道」が「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉で、靖国神社がその中心施設であり、教育勅語が聖典だと考えたという。なぜそう考えたのか。
たとえば、日米開戦後、アメリカ陸軍省が製作した、新兵教育、戦意昂揚のための「Why We Fight」シリーズというプロパガンダ映画がある。「最高傑作」とも評価される一連の作品の多くを手がけたのはフランク・キャプラである。生涯に3度のアカデミー賞を受賞し、アカデミー会長をも務めた名匠であった。
キャプラが最後に監督し、製作されたのが「Know Your Enemy ; Japan」(1945年)である。キャプラは「敵国」日本の何を、「軍国主義」と考えたのだろうか。
実写フィルムを巧みにつないだ約60分の映画には、神道、日本軍、天皇、八紘一宇、靖国神社などをキーワードにして、日本の「軍国主義」の残忍さ、妖怪ぶりが描かれている。そのなかでも、とくに注目されるのは「田中メモランダム(田中上奏文)」である。「世界征服の原案・設計図」として真正面から取り上げられている。
「田中上奏文」は、昭和2年に、田中義一首相が昭和天皇に、「世界征服」の手順を極秘で報告した、とされるもので、日本では当初から偽書と一蹴され、今日、歴史的評価はほぼ定まっているが、当時のアメリカでは事実と信じられたらしい。
皇祖神を絶対化し、「現人神」天皇のもと、侵略地に次々と神社を建て、新たな国民にも参拝させ、学校では教育勅語を奉読させ、急速に領土を拡大していった「八紘一宇」の勇猛は、キリストの教えとローマ教皇の勅書に基づき、異教世界を侵略し、異教徒を殺戮、異教文明を破壊した大航海時代以降のキリスト教世界の暗黒史と二重写しだ。
「教育勅語」の一節「之を中外に施して悖らず」は「日本でも外国でも間違いがない道だ」と解釈されており、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(新約聖書)というキリストの言葉とダブって聞こえても不思議はない。
たとえば、占領軍の教育・宗教を担当したCIE(民間情報教育局)の政策に大きな役割を果たしたR・K・ホールは、教育勅語が「国家神道の神聖な教典」であったと理解していたという(貝塚茂樹『戦後教育改革と道徳教育問題』、2001年)。
とすれば、一神教的に擬せられた近代日本とあくまで一神教的なキリスト教世界との軍事対決は避けられず、一神教的「国家神道」は主たる攻撃目標に設定されざるを得ない。彼らはまるで鏡に映る自分に戦いを挑んだかのようである。
それは多神教文明と一神教文明の衝突ではなくて、一神教と一神教の対決だった。
靖国神社は占領軍内部では爆破焼却の噂がもっぱらだったという。アメリカは、靖国神社の宮司らが世界征服戦争を実際に陰で操っている、と本気で考えていたらしい。
キリスト教世界では、絶対神と救世主イエスの存在があり、聖書があり、聖職者がいて、教会がある。同様に、日本の「国家神道」もまた、皇祖神と天皇、教育勅語、神道家たち、靖国神社があると見えたのだろうか。
皇祖天照大神は至高至貴ながら絶対神ではない。神道には布教の概念すらない。宮中祭祀には教義も教団もない。しかし文部省編纂の『国体の本義』(昭和12年)には「天皇は現御神であらせられる」と明記された。天皇は個人崇拝ではないし、昭和天皇は神格化を嫌っておられたのに、である。
欧化思想の席巻を憂える明治天皇の思召しに始まった教育勅語の作成は、井上毅らによって、非宗教性、非政治性、非哲学性が追求された。しかし、完成後は教育勅語それ自体が政治主導で神聖化され、宗教的扱いを受けることとなった。ドイツ留学から帰国したばかりの哲学者・井上哲次郎による解説本作成は、国民教育の必要性を強く訴えるものとなっており、明治天皇ご自身、不満を示されたが、叡慮は反故にされた。
文部省は教育勅語の神聖化をさらに進め、御真影とともに教育勅語の謄本を納める奉安殿の設置が全国展開された。当初の目的と構想を外れ、のちに教育勅語は「国家神道」の聖典として批判されこととなり、敗戦後は国会で排除・失効確認がなされるのである。
ところが、戦後の嵐は瞬く間にやんだ。占領後期になると、「国家神道」敵視は急速になりを潜め、神道形式による松平参院議長の参院葬、皇室喪儀令に準じた貞明皇后大喪儀、吉田茂首相による靖国神社参拝さえ認められた。靖国神社は爆破焼却どころか、宗教法人として存続した。
渦中のGHQ職員はのちに、占領軍の宗教政策が厳格主義から限定主義(教会と国家の分離)に変更されたことを公にしているが、いつ、だれが、なぜ変更したのかについては明らかにされていない(ウイリアム・ウッダード「宗教と教育──占領軍の政策と処置批判」=国際宗教研究所紀要4、昭和31年12月)。
この政策変更は「国家神道」をめぐる最大のテーマであり、歴史の謎である。もしや彼らは自分たちが幻影を見ていたことに気づいたからではあるまいか。(つづく)
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アメリカが見た鏡のなかの「軍国主義」
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」7
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近代化の道をひた走った末に、日本はほとんど世界を相手に戦争し、ポツダム宣言を受け取れ、敗戦国となった。尊い人命が数多く失われ、国土は焦土と化した。宣言の受諾を国民に伝える詔書には「五内爲ニ裂ク」と無念が表明されている。
日本に降伏を迫るポツダム宣言には、「軍国主義」「世界征服」の言葉が登場する。
「われらは、無責任なる軍国主義が世界より駆逐せらるるに至るまでは、平和、安全および正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるをもって、日本国国民を欺瞞し、これをして世界征服の挙に出ずるの過誤を犯さしめたる者の権力および勢力は、永久に除去せられざるべからず」(日本語訳文の原典は漢字片仮名交じり)
この「軍国主義」「世界征服」とは、具体的に何を指すのだろう。
戦中からアメリカは、「国家神道」が「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉で、靖国神社がその中心施設であり、教育勅語が聖典だと考えたという。なぜそう考えたのか。
たとえば、日米開戦後、アメリカ陸軍省が製作した、新兵教育、戦意昂揚のための「Why We Fight」シリーズというプロパガンダ映画がある。「最高傑作」とも評価される一連の作品の多くを手がけたのはフランク・キャプラである。生涯に3度のアカデミー賞を受賞し、アカデミー会長をも務めた名匠であった。
キャプラが最後に監督し、製作されたのが「Know Your Enemy ; Japan」(1945年)である。キャプラは「敵国」日本の何を、「軍国主義」と考えたのだろうか。
実写フィルムを巧みにつないだ約60分の映画には、神道、日本軍、天皇、八紘一宇、靖国神社などをキーワードにして、日本の「軍国主義」の残忍さ、妖怪ぶりが描かれている。そのなかでも、とくに注目されるのは「田中メモランダム(田中上奏文)」である。「世界征服の原案・設計図」として真正面から取り上げられている。
「田中上奏文」は、昭和2年に、田中義一首相が昭和天皇に、「世界征服」の手順を極秘で報告した、とされるもので、日本では当初から偽書と一蹴され、今日、歴史的評価はほぼ定まっているが、当時のアメリカでは事実と信じられたらしい。
皇祖神を絶対化し、「現人神」天皇のもと、侵略地に次々と神社を建て、新たな国民にも参拝させ、学校では教育勅語を奉読させ、急速に領土を拡大していった「八紘一宇」の勇猛は、キリストの教えとローマ教皇の勅書に基づき、異教世界を侵略し、異教徒を殺戮、異教文明を破壊した大航海時代以降のキリスト教世界の暗黒史と二重写しだ。
「教育勅語」の一節「之を中外に施して悖らず」は「日本でも外国でも間違いがない道だ」と解釈されており、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(新約聖書)というキリストの言葉とダブって聞こえても不思議はない。
たとえば、占領軍の教育・宗教を担当したCIE(民間情報教育局)の政策に大きな役割を果たしたR・K・ホールは、教育勅語が「国家神道の神聖な教典」であったと理解していたという(貝塚茂樹『戦後教育改革と道徳教育問題』、2001年)。
とすれば、一神教的に擬せられた近代日本とあくまで一神教的なキリスト教世界との軍事対決は避けられず、一神教的「国家神道」は主たる攻撃目標に設定されざるを得ない。彼らはまるで鏡に映る自分に戦いを挑んだかのようである。
それは多神教文明と一神教文明の衝突ではなくて、一神教と一神教の対決だった。
靖国神社は占領軍内部では爆破焼却の噂がもっぱらだったという。アメリカは、靖国神社の宮司らが世界征服戦争を実際に陰で操っている、と本気で考えていたらしい。
キリスト教世界では、絶対神と救世主イエスの存在があり、聖書があり、聖職者がいて、教会がある。同様に、日本の「国家神道」もまた、皇祖神と天皇、教育勅語、神道家たち、靖国神社があると見えたのだろうか。
皇祖天照大神は至高至貴ながら絶対神ではない。神道には布教の概念すらない。宮中祭祀には教義も教団もない。しかし文部省編纂の『国体の本義』(昭和12年)には「天皇は現御神であらせられる」と明記された。天皇は個人崇拝ではないし、昭和天皇は神格化を嫌っておられたのに、である。
欧化思想の席巻を憂える明治天皇の思召しに始まった教育勅語の作成は、井上毅らによって、非宗教性、非政治性、非哲学性が追求された。しかし、完成後は教育勅語それ自体が政治主導で神聖化され、宗教的扱いを受けることとなった。ドイツ留学から帰国したばかりの哲学者・井上哲次郎による解説本作成は、国民教育の必要性を強く訴えるものとなっており、明治天皇ご自身、不満を示されたが、叡慮は反故にされた。
文部省は教育勅語の神聖化をさらに進め、御真影とともに教育勅語の謄本を納める奉安殿の設置が全国展開された。当初の目的と構想を外れ、のちに教育勅語は「国家神道」の聖典として批判されこととなり、敗戦後は国会で排除・失効確認がなされるのである。
ところが、戦後の嵐は瞬く間にやんだ。占領後期になると、「国家神道」敵視は急速になりを潜め、神道形式による松平参院議長の参院葬、皇室喪儀令に準じた貞明皇后大喪儀、吉田茂首相による靖国神社参拝さえ認められた。靖国神社は爆破焼却どころか、宗教法人として存続した。
渦中のGHQ職員はのちに、占領軍の宗教政策が厳格主義から限定主義(教会と国家の分離)に変更されたことを公にしているが、いつ、だれが、なぜ変更したのかについては明らかにされていない(ウイリアム・ウッダード「宗教と教育──占領軍の政策と処置批判」=国際宗教研究所紀要4、昭和31年12月)。
この政策変更は「国家神道」をめぐる最大のテーマであり、歴史の謎である。もしや彼らは自分たちが幻影を見ていたことに気づいたからではあるまいか。(つづく)
アインシュタインの絶賛と憂い ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」6 [天皇・皇室]
以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年8月4日)からの転載です
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アインシュタインの絶賛と憂い
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」6
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日本の近代化を、憂いをもって見つめ、警告した1人が、相対性理論で知られる物理学者のアルバート・アインシュタインである。
大正11年に来日したアインシュタインは、九州から東北まで、各大学で相対性理論を講演したほか、各地の著名神社などに参詣し、皇后陛下に謁見、能楽や雅楽を鑑賞し、庶民と気軽に交わり、「日本のすばらしさ」に魅せられたことを旅日記に記録している。
それによると、まず感動したのは美しい日本の自然であった。彼は各地で日本の「光」に惹かれた。しかし自然以上に輝いていたのは、日本人の「顔」であった。「日本人は他のどの国の人よりも自分の国と人々を愛している」「欧米人に対してとくに遠慮深かった」と絶賛している。
そうした国民性はどこに由来するのか、アインシュタインは自問し、自然との共生と見抜いた。さすがは天才というべきだろう。
「日本では、自然と人間は一体化しているように見える。この国に由来するすべてのものは、愛らしく、朗らかであり、自然を通じて与えられたものと密接に結びついている」
とくに「自然と人間の一体化」を示すものは、日本の神道と神社建築であった。
日光東照宮は、「自然と建築物が華麗に調和している。……自然を描写する慶びがなおいっそう建築や宗教を上回っている」。厳島神社では、「優美な鳥居のある水の中に建てられた社殿に向かって魅惑的な海岸を散歩する。……山の頂上から見渡す瀬戸内海はすばらしい眺めだった」。
アインシュタインの探求心は天皇にまで及んだ。
草薙剣を祀る熱田神宮の参詣では「国家によって用いられる自然宗教。多くの神々、先祖と天皇が祀られている。木は神社建築にとって大事なものである」と印象を述べ、京都御所では「私がかつて見たなかで最も美しい建物だった。……天皇は神と一体化している」と感想をつづっている。
美しい自然とその自然に育まれた日本人の国民性を高く評価し、天皇制にまで考察を広げたアインシュタインだが、他方で、伝統と西洋化の狭間で揺れる日本の近代化の苦悩を察知していた。
であればこそ、旅の途中で書いた「印象記」のなかで、「西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでいる」日本に理解を示しつつも、「生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらを純粋に保って、忘れずにいて欲しい」と訴えることを忘れなかったのだろう(『アインシュタイン、日本で相対論を語る』、2001年など)
四季折々の多彩な美しさのみならず、ときには荒ぶる自然と共生してきた日本人は、その自然観に基づく、多神教的、多宗教的文明を創りあげ、天皇制という国民統合のシステムをも編み出した。
けれども、日本の近代化こそは、国を挙げて、太陽暦、法律、官僚、軍隊、貨幣、学校、鉄道など一元主義的なキリスト教世界の文化を精力的に受け入れることだった。皮肉にも、その先頭に立ったのが皇室であった。
維新以来、政府がもっとも重視したのは、不平等条約の改正だった。列強に対抗するには近代化を急がなければならない。基本方針とされる五箇条の御誓文(慶応4年)には「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」とあったから、海外に学ぶことが優先され、社会システムの欧風化が急速に進み、欧化思想が社会を席巻していった。
価値多元主義の文明が、世界基準であるキリスト教世界の一元主義的文化を積極的に受容し、アジアで最初の近代国家を打ち立て、列強と肩を並べるレベルにまで到達したのは歴史的壮挙のはずだが、その先には未曾有の悲劇が待ち受けていた。(つづく)
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アインシュタインの絶賛と憂い
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」6
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日本の近代化を、憂いをもって見つめ、警告した1人が、相対性理論で知られる物理学者のアルバート・アインシュタインである。
大正11年に来日したアインシュタインは、九州から東北まで、各大学で相対性理論を講演したほか、各地の著名神社などに参詣し、皇后陛下に謁見、能楽や雅楽を鑑賞し、庶民と気軽に交わり、「日本のすばらしさ」に魅せられたことを旅日記に記録している。
それによると、まず感動したのは美しい日本の自然であった。彼は各地で日本の「光」に惹かれた。しかし自然以上に輝いていたのは、日本人の「顔」であった。「日本人は他のどの国の人よりも自分の国と人々を愛している」「欧米人に対してとくに遠慮深かった」と絶賛している。
そうした国民性はどこに由来するのか、アインシュタインは自問し、自然との共生と見抜いた。さすがは天才というべきだろう。
「日本では、自然と人間は一体化しているように見える。この国に由来するすべてのものは、愛らしく、朗らかであり、自然を通じて与えられたものと密接に結びついている」
とくに「自然と人間の一体化」を示すものは、日本の神道と神社建築であった。
日光東照宮は、「自然と建築物が華麗に調和している。……自然を描写する慶びがなおいっそう建築や宗教を上回っている」。厳島神社では、「優美な鳥居のある水の中に建てられた社殿に向かって魅惑的な海岸を散歩する。……山の頂上から見渡す瀬戸内海はすばらしい眺めだった」。
アインシュタインの探求心は天皇にまで及んだ。
草薙剣を祀る熱田神宮の参詣では「国家によって用いられる自然宗教。多くの神々、先祖と天皇が祀られている。木は神社建築にとって大事なものである」と印象を述べ、京都御所では「私がかつて見たなかで最も美しい建物だった。……天皇は神と一体化している」と感想をつづっている。
美しい自然とその自然に育まれた日本人の国民性を高く評価し、天皇制にまで考察を広げたアインシュタインだが、他方で、伝統と西洋化の狭間で揺れる日本の近代化の苦悩を察知していた。
であればこそ、旅の途中で書いた「印象記」のなかで、「西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでいる」日本に理解を示しつつも、「生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらを純粋に保って、忘れずにいて欲しい」と訴えることを忘れなかったのだろう(『アインシュタイン、日本で相対論を語る』、2001年など)
四季折々の多彩な美しさのみならず、ときには荒ぶる自然と共生してきた日本人は、その自然観に基づく、多神教的、多宗教的文明を創りあげ、天皇制という国民統合のシステムをも編み出した。
けれども、日本の近代化こそは、国を挙げて、太陽暦、法律、官僚、軍隊、貨幣、学校、鉄道など一元主義的なキリスト教世界の文化を精力的に受け入れることだった。皮肉にも、その先頭に立ったのが皇室であった。
維新以来、政府がもっとも重視したのは、不平等条約の改正だった。列強に対抗するには近代化を急がなければならない。基本方針とされる五箇条の御誓文(慶応4年)には「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」とあったから、海外に学ぶことが優先され、社会システムの欧風化が急速に進み、欧化思想が社会を席巻していった。
価値多元主義の文明が、世界基準であるキリスト教世界の一元主義的文化を積極的に受容し、アジアで最初の近代国家を打ち立て、列強と肩を並べるレベルにまで到達したのは歴史的壮挙のはずだが、その先には未曾有の悲劇が待ち受けていた。(つづく)