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教育勅語の「道徳」論と「国体」論 ──初鹿博明議員の質問主意書をめぐって [教育勅語]

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教育勅語の「道徳」論と「国体」論 ──初鹿博明議員の質問主意書をめぐって
(斎藤吉久メールマガジン2017.4.8)
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 森友学園事件を契機として教育勅語が一気に話題になり、賛否両論噛み合わない議論が続いている。なぜ議論は噛み合わないのか、問題点をしばらく私なりに考えてみたい。
教育勅語@官報M231031

 今国会では通常の審議に加えて、質問主意書による場外バトルが展開されている。衆議院で提出された質問書は以下の4本である。参院では提出されていないらしい。

1、教育基本法の理念と教育勅語の整合性に関する質問主意書(2月27日民進党逢坂誠二議員提出。3月7日答弁書受領)

2、稲田大臣の「教育勅語の精神は取り戻すべき」発言に関する質問主意書(3月9日同逢坂議員提出。3月17日答弁書受領)

3、教育勅語の根本理念に関する質問主意書(3月21日民進党初鹿明博議員提出。3月31日答弁書受領)

4、「教育ニ関スル勅語」の教育現場における使用に関する質問主意書(4月6日民進党宮崎岳志議員提出。現時点では答弁書受領に至っていない)

 このうち初鹿議員の質問書は、稲田防衛相が教育勅語を肯定する国会答弁をしたことを受けてのものらしい。初鹿議員は、教育勅語が昭和23年6月に衆参両院でそれぞれ「排除」「失効確認」が決議され、「教育の指導原理性が否定された」と前置きした上で、次の5点を質問した。

1、衆院の排除決議は、教育勅語が「主権在君」「神話的国体観」に基づいているという考えからだったが、政府は是を踏襲しているのか?

2、教育勅語は基本的人権を損ない、国際信義に疑点を残すものであり、そのまま教育に用いることは憲法上、認められないのではないか?

3、国会決議を徹底するために、学校での使用を禁止すべきではないか?

4、稲田防衛相は教育勅語に共感する答弁をしているが、衆院決議で指摘した国際信義に疑点を残すことにつながらないか?

5、稲田防衛相を罷免すべきではないか?

 初鹿議員の問題意識は、国会決議で「排除」されたはずの教育勅語が「主権在民」の現行憲法下で復活することへの疑念を提起しているらしい。

 教育勅語が「民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ」などの現在でも守るべき徳目が記載されていると指摘して、一定の評価を示しつつ、「根本理念」が現代には合わないと断定している。議員が道徳論としては肯定していることに注目すべきだろう。

 他方、稲田大臣の場合は、初鹿議員の質問書に引用されているように、「教育勅語の核である、たとえば道徳、それから日本が道議国家を目指すべきであるという、その核について、私は変えておりません」と述べていて、教育勅語の「核」はもっぱら「道徳」論なのであり、初鹿議員の国体論批判的な見方とは異なる。議論が噛み合うはずがない。

 この捉え方の違いはどこから来るのか。教育勅語の「核」「根本理念」とはもともと何だったのか。敗戦・占領期の「排除」の歴史とどう関わるのだろうか。「道徳」が「核」だというのなら、新憲法は国民主権の下に「道徳」を「排除」した、あるいは「排除」させられたということなのか。「排除」すべきようなものを明治人は作りあげ、その後ずっと敗戦まで引きずってきたのか。

 さて、質問書提出の十日後に示された政府答弁書は、質問1については、昭和23年6月に森戸文相が「教育勅語その他の詔勅に対しましては、教育上の指導原理たる性格を否定してきたのであります。このことは、新憲法の制定、それに基づく教育基本法並びに学校教育法の制定によって、法制上明確にされました」と答弁したとおりと答えている。

 政府答弁の立場は占領期といささかの変わりはないという説明で、これは稲田大臣よりむしろ初鹿議員に近い、国体論批判的理解ということになるだろう。

 けれども3については、「教育勅語を教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切だが、憲法や教育基本法等に反しないかたちで教材として用いることまでは否定されない」と答え、これが批判を浴びることになった。

 メディアの批判は「過去の遺物が教材か」(4月2日朝日社説)、「看過できない」(4月5日毎日新聞社説)という具合で、やはり国体論批判の匂いがする。だが、そもそも教育勅語とはどのようなものだったのか、なぜここまで批判の対象とされるようになったのか、もっと深い考察が必要な気がする。(斎藤吉久メールマガジン2017.4.8)

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ふたたび佐藤雉鳴氏に答える by 島薗進──国家神道・教育勅語・神道指令をめぐって [教育勅語]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(平成22年9月2日)からの転載です


 当メルマガはこの春から、在野の研究者・佐藤雉鳴氏の教育勅語論「『教育勅語』異聞──放置されてきた解釈の誤り」を7回にわたり連載しました。
http://www.melma.com/backnumber_170937_4802777/
http://www.melma.com/backnumber_170937_4810359/
http://www.melma.com/backnumber_170937_4818000/
http://www.melma.com/backnumber_170937_4824888/
http://www.melma.com/backnumber_170937_4832552/
http://www.melma.com/backnumber_170937_4841010/
http://www.melma.com/backnumber_170937_4869664/

 これに対して、日本宗教史の研究者としてきわめて著名な島薗進・東大大学院教授から批判をいただきました。
http://www.melma.com/backnumber_170937_4931746/

 さらに、佐藤さんからの反論がありました。
http://www.melma.com/backnumber_170937_4936155/
http://www.melma.com/backnumber_170937_4937374/
http://www.melma.com/backnumber_170937_4938739/

 このたび島薗先生からふたたびエッセイが寄せられましたので、掲載します。


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ふたたび佐藤雉鳴氏に答える by 島薗進
──国家神道・教育勅語・神道指令をめぐって
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 佐藤雉鳴(さとう・ちめい)さんから私の応答に対して、さっそくにさらに批判的応答をいただいた。この度も何かと考える材料をいただき、感謝している。ただ、論点がやや細部にわたってきており、私の力では応答しきれないところもあるようだ。とりあえず、先に示した3つの論点について、簡潔に私なりの再応答をさせていただき、問題についての認識をともに深めたい。


▽1 教育勅語における「中外」の語の語義について

 言葉は生き物なので、人々の生きざまの変化、それを引き起こす社会文化環境の変化によって意味も形もどんどん変化していく。教育勅語以前は「中外」(=「広い社会」)によって国内全体、より具体的には「朝廷と民間」という意味が有力だったというご指摘は、今後精細な検討に値する重要なものだと思う。鎖国時代の封建制の下では、国際社会はあまり意識に上らなかった。だから「中外」の意味が限定的だったのも当然かもしれない。

 しかし、開国後、さらには文明開化を目指す時代、「憲法」を制定し、国際社会で西洋諸国と対等の地位を確保しようとする時代にあっては、「広い社会」についての認識も当然変わってくるだろう。「中外」は「広い社会全体」を意味する語だったので、その意味する具体的な領域が、国内から国際社会へと移っていったということはありうることだろう。佐藤さんが示しているように、明治天皇の詔勅の多くにおいて、「中外」が「国中と国外」、つまりは国際社会を意味しているのは、そのような変化に対応したものなのではないだろうか。

 儒学者的な相貌が目立つ元田永孚(もとだ・ながさね)はこのような変化に疎(うと)かったと思われるが、教育勅語の他の関係者の中にはこうした変化を十分に理解していた人々もいたことだろう。西洋の事情によく通じていた井上毅などはその一人だ。

 教育勅語の「中外」が「国中と国外」に解されることは、1890年段階でも予想できたのではないかと思われる。そのような時代情勢になっていたからこそ、井上哲次郎の解釈が通用することになったのではないだろうか。

 以上、「中外」の語義の変遷という論点を導入すると、私の理解と佐藤さんの理解を近づけることができるのではないかという展望を述べた。


▽2 GHQの宗教をめぐる占領政策と「国家神道」理解

 GHQの宗教をめぐる占領政策の中心には、日本にアメリカが信じているような形での信教の自由を実現させ、それによって日本人の間にキリスト教を初めとして、人類の進歩に資するような宗教が広まるようにするということがあった。これを妨げていたのが、特定宗教が国家と結びつくこと、つまり「国家神道」だというのが、神道指令の規定にある宗教理解、「国家神道」理解だ。宗教的マイノリティとしてヨーロッパから逃れてきて、純粋な信仰に基づく理想の天地を造ろうとした先祖をもつ国にふさわしい発想だろう。

 加えて、軍国主義や超国家主義の「イデオロギー」が本来の神道を歪めてしまったので、そのようなイデオロギーを排除して、神道が本来の宗教性を発揮できるようにするということも加わっていた。ウッダードが「国体のカルト」というのも、そのようなイデオロギーを指している。これは神社神道や皇室祭祀そのものを指したものではない。「世界征服思想」は排除されるべきものだったが、それは神道本来のものではなく、イデオロギーの悪影響によるものだというのが、GHQの立場だ。

 GHQの決定の背後には、さまざまなアメリカ側の意見があったが、マッカーサーを初めとして、ある程度日本の伝統文化を尊び、安定した占領統治を行うことで、共産主義から日本とアジアを守りたいという考え方は強かった。共産主義に対して、キリスト教だけでなく、仏教、神道初め、日本の諸宗教もまた守るべきものと考える人々が少なくなかった。このあたりは、井門富二夫編『占領と日本宗教』はじめ、多くの研究成果があるが、まだまだ研究を深めていかなければならないところだろう。

 GHQがもっぱら日本の精神文化の解体をねらったという考えは、私には受け入れにくいものだが、私自身の勉強が足りないという佐藤さんのお叱りは心して受け止め、さらに研鑽(けんさん)していきたいと考える。


▽3 教育勅語は天皇崇敬と国家神道宣布に大いに寄与した

 皇室祭祀と天皇崇敬を柱とする国家神道は、戦前の「公」の領域で全国民が従わなければならないものとなったから、次第に思想・良心の自由に抵触する度合いを強めたということが、拙著『国家神道と日本人』の論旨の一つだ。そして、国家神道は幕末に「治教」「皇道」「祭政教一致」などの語により、維新後の新たな国家統治の基本理念となったものがもとになっている。神社神道と皇室神道を切り離した神道理解では、そこのところがぼやけてしまう。また、これは「天皇親政」をめぐる問題ではなく、「天皇親祭」をめぐる問題なのだ。「天皇親祭」を国家の精神的支柱とするという点では、幕末から1945年まで連続性がある。

 教育勅語も神的な起源をもち、国家的な祭祀を通して崇敬すべき天皇と「臣民」との精神的紐帯(ちゅうたい)について語っており、その部分にもっとも重要な機能がある。それは拙著で示したように、早くから学校での教育勅語崇敬や天皇崇敬教育によって保持され、育(はぐ)くまれていったものだ。

 そして、それは国民と天皇が直結した政体を求める草の根の運動にも影響を及ぼし、ファシズムにつながった。畔上直樹さんの『「村の鎮守」と戦前日本』はその点を明らかにしたたいへん重要な業績だ。

 維新政府が構想した国家神道(皇室祭祀・天皇崇敬)を基軸とする近代国家のあり方は、そのような展開を招かざるをえないような構造をもっていた。明治憲法を中心に政治や法体制の方から見ていくとそれが見えにくいが、国家神道や皇室祭祀の方から見ていくとずっと見えやすくなる。

 現代日本の教育において精神性が欠落していることは残念なことだ。しかし、いかにして教育に精神性を回復させればよいのか、なかなか妙案が出てこない。

 世界中で似たようなことが起こっている。アメリカ合衆国では福音主義的なキリスト教徒が公立学校での宗教教育の許容を求めている。イスラーム諸国ではイスラーム教育が行われて、公平な他宗教認識にほど遠い状況だ。

 日本でも宗教情操教育の回復を求める立場、「いのちの教育」を求める立場、哲学・倫理教育を強調する立場、宗教文化教育を唱える立場などさまざまだ。ただ、特定の崇敬対象を重視する精神性の育成のみでは、人類社会の恒久平和はあまり期待できないと私は考えている。

 教育勅語が直接、対外的な攻撃性をあおったという論はあまり妥当性がないが、思想・良心の自由にとってどのような意味をもったかという論点はまだまだ深められる必要があるだろう。

▽4 最後に

 佐藤さんは丁寧にさまざまな資料を掘り起こして提示されていて、私のように宗教理論や比較文化(比較文明論)を好み、文化理解・歴史理解の枠組みから論じていくタイプの者にとっても大いに参考になる。

 ただ、今進めているやりとりは、それぞれの枠組みの間のすれ違いになっているかもしれず、それが私の未熟さによるとすれば申し訳ない。資料の取捨選択は歴史解釈の枠組みをどのように構成していくかということと不可分なので、私は枠組みの変更に通じるような資料についてはできるだけ誠実に応答しているつもりだが、おおよそのところは枠組み論で応答していることをご理解いただきたい。

 なお、佐藤さんもたびたび参照してくださっている拙著『国家神道と日本人』の論点については、これまでに発表した関連論文でより資料に即して検討しているものも多い。やがて研究書として刊行するつもりである。取り扱っているのは、近代日本人の自己理解に関わるたいへん大事な問題だから、息の長い検討を続けていきたいと考えており、その点からも佐藤さんの丁寧なご批判や応答に大いに感謝している。今一度お礼を述べて、今回の応答をしめくくりたい。


☆斎藤吉久注。読者の便宜を考え、若干の編集を加えています。


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島薗東大大学院教授の3つのご指摘に答える by 佐藤雉鳴──第3回 もはや教育勅語を悪者に仕立て上げているときではない [教育勅語]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(平成22年8月15日)からの転載です


 当メルマガはこの春から数回にわたり、畏友・佐藤雉鳴氏の教育勅語論「『教育勅語』異聞──放置されてきた解釈の誤り」を連載しました。

 その後、現代を代表する宗教学者、島薗進・東大大学院教授による批判を8月7日付のvol.146に掲載しました。
http://www.melma.com/backnumber_170937_4931746/

 今号は、これに対する佐藤さんの反論の3回目、最終回です。


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島薗東大大学院教授の3つのご指摘に答える by 佐藤雉鳴
──第3回 もはや教育勅語を悪者に仕立て上げているときではない
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 当メルマガで連載した拙論「『教育勅語』異聞──放置されてきた解釈の誤り」について、著名な宗教学者である島薗進・東大大学院教授から3点にわたるご指摘を頂戴しました。
http://www.melma.com/backnumber_170937_4931746/

 今回は、ご指摘の第3点、教育勅語が批判されなければならないのは、国内の思想・良心の自由を制限する方向に機能したという点について、反論を試みたいと思います。

 島薗教授は近著『国家神道と日本人』の本文において、教育勅語をめぐる様々な論議や事件があったことを述べておられます(P41)。

 そして、拙論に対しては、くり返しになりますが、こう述べておられます。

「国家神道や教育勅語が今日、批判されなければならないのは、対外的な攻撃的政策に関わったからだけではない。国内の思想・良心の自由を制限する方向に機能したことにもよっている。佐藤さんの議論は、こちらの側面についても意識されてはいるが、あまり踏み込んでいないように思える」

 ここは大変重要なご指摘です。

 帝国憲法のもっとも権威ある解説書は伊藤博文『憲法義解』ですが、井上毅の筆になったことは明らかにされています。したがって、帝国憲法・『憲法義解』・教育勅語は順接で結ばれています。つまり、近代史を理解するには三者を総合的に検討する必要があります。


◇1 精査されていない戦前の重要文書

 しかし島薗教授の研究には、戦後の諸研究が踏襲されることはあっても、戦前の重要文書が十分に精査されていないように見えます。

 たとえば、昭和戦前期を象徴する天皇機関説排撃を考えてみます。渦中の人である美濃部達吉『憲法撮要』『逐条憲法精義』を読むと、じつのところ『憲法義解』に副ったものであることが分かります。

 明治憲法に精通している中川八洋筑波大学名誉教授も「“明治憲法のコメンタリー”として、学問的に一流で、おかしなところなどどこにもない天皇機関説」(『山本五十六の大罪』P325)と記しています。

 ゆえに美濃部達吉のいわゆる天皇機関説は帝国憲法・『憲法義解』、そして教育勅語と順接で結ばれているといってよいと思います。

 その天皇機関説排撃から国体明徴運動となり、文部省『国体の本義』『臣民の道』が出版されました。したがって、『国体の本義』『臣民の道』は帝国憲法・『憲法義解』・教育勅語と逆接の関係です。

 島薗教授は『現代日本の思想』から久野収の「顕教・密教」論を第4章に引用(P177)されていますが、帝国憲法に「顕教=天皇絶対君主説」は存在しません。帝国憲法第4条「天皇は国の元首にして統治権を総攬し、此の憲法の条規に依り之を行ふ」がそれを示しています。

 さらに島薗教授は、福田義也『教育勅語の社会史』から、帝国憲法・教育勅語では天皇は神ではなく、『国体の本義』では天皇は現人神(あらひとがみ)であった、ということを引用されています。

 帝国憲法・教育勅語と『国体の本義』は逆接ですから、その通りです。天皇現御神(あきつみかみ)論と天皇御親政論は前者になく、後者に特徴的です。

 統帥権干犯論から五・一五事件となり、天皇機関説排撃から二・二六事件が起きました。テロに襲われた要人は帝国憲法遵守派でした。

 そして本当の意味で思想・良心の自由が制限されたのは、統帥権干犯論や天皇機関説排撃で憲法蹂躙(じゅうりん)時代となった昭和戦前ではないでしょうか?

 教育勅語がそのように機能したのではなく、教育勅語の曲解が、そして教育勅語に違背した『国体の本義』『臣民の道』が人々の自由を制限したのではないでしょうか?


◇2 国家神道の発生原因は詔勅解釈の誤りにある

 『国体の本義』は、詔勅解釈の誤りが反映されています。現御神は宣命(せんみょう)において、「現御神止(と)」と「止」がついて、「現御神と天下(あめのした)しろしめす」と用いられています。「現御神止」は「しろしめす」の副詞であり、天皇=現御神という意味に解釈すべきではありません。

 以上のことは、本居宣長『続紀歴朝詔詞解』『直毘霊』、池辺義象『皇室』、木下道雄『宮中見聞録』に明らかです。木下道雄の「自称」は思い違いですが、天皇が自らを現御神と宣言されたものは一つも存在しません。詳細は私のホーム・ページの「人間宣言異聞」に書きました。
http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/ningensengen.html

 また、島薗教授の『国家神道と日本人』の第五章には戦後の天皇不親政論が紹介されていますが、帝国憲法下においても、前述のとおり憲法第4条から天皇御親政論は誤りです。

 つまり『国体の本義』は帝国憲法を蹂躙(じゅうりん)し、教育勅語に違背したものだとの分析が説得力をもつと思います。明治中期以降の誤った詔勅解釈を踏襲した著述者たちが、『国体の本義』をまとめたことが原因です。

 「教育に関する勅語」と「新日本建設に関する詔書」(いわゆる「人間宣言」)の誤った解釈が戦後の我が国を支配しています。

 国家神道や天皇現御神(現人神)論の発生原因は詔勅解釈の誤りにあった、と言っても過言ではないと思います。今こそ詔勅学の構築がなされるべきではないでしょうか?

 『国家神道と日本人』の第一章に記されている、勅語渙発(かんぱつ)後におきた「不敬事件」等は、やはり残念なことだったと思います。しかし柏木義円や新渡戸稲造の教育勅語観からすると、問題の本質が勅語の内容にあったとは思えず、やはり極端な神格化に原因があったと思います。


◇3 神道指令の「国家神道」解明こそが最優先課題

 さてそれでは、いま学問的に何が求められているのでしょうか?

 GHQ職員のウッダードはのちに次のように述べています。

「日本の政治学者や思想家は、日本の「国体」にさまざまな解釈を与えた。しかしわれわれの関心は、(1)一九三〇年代および一九四〇年代初期に極端な超国家主義者と軍国主義者が「国体」について行った解釈、(2)警察国家の権力によって日本国民にカルトとして強制された「国体」の教義および実践活動、に限られる」(『天皇と神道』P9)。

 GHQが考える「国家神道」は時代がきわめて限られています。

 他方、島薗教授の『国家神道と日本人』第二章(P80)で語られている1908年の帝国議会で用いられた「国家神道」は小田貫一の発言ですが、「国家的神道」とも言っており、内容は同じです。しかしそこに「世界征服」思想はありません。神道指令の国家神道とは明確に区別するべきかと思います。

 『国家神道と日本人』の対象とする広い意味の国家神道(私が思うに国家的神道)と私が追求した神道指令の国家神道とは、そもそもターゲットが異なります。

 神社行政史から国家神道を追及すると、島薗教授のいわれるように、「制度史に力をおいて考えていくと、イデオロギーをも含んだ国家神道の歴史はわずか数年ということになってしまう」というのはよく理解できます。上のウッダードらの発言を重要視すれば、必然的にそうなるでしょう。

 神道指令の国家神道こそ、いま解明すべき最優先のテーマであると思います。


◇4 杜撰(ずさん)な政教関係裁判に拍車をかける

 島薗教授の『国家神道と日本人』では全体として、きわめて批判的な国家神道研究の先駆者である宗教学者の村上重良『国家神道』を評価されていますが、それは日本の宗教学研究の停滞を示すだけでなく、政教分離裁判の混迷に拍車をかけるものといえます。

 たとえば、次のA・Bいずれが村上重良の文章かわかるでしょうか?

A「そしてかようないわゆる国家神道は単なる宗教ではないとして、キリスト教や仏教と区別され、国民はめいめいの信仰のいかんに拘らず神社には崇敬の誠をつくすべきものとされたのである。この状態は明治維新からこの度の終戦まで約八十年間続いた」

B「国家神道は、二十数年前まで、われわれ日本国民を支配していた国家宗教であり、宗教的政治制度であった。明治維新から太平洋戦争の敗戦にいたる約八〇年間、国家神道は、日本の宗教はもとより、国民の生活意識のすみずみにいたるまで、広く深い影響を及ぼした」

 Aは昭和24年、岸本英夫東大名誉教授が「神道とは何か」のタイトルで書いたものです。そしてBが昭和45年、村上重良『国家神道』にあるものです。

 岸本英夫は渋川謙一元神社本庁事務局長から「どちらかというとGHQの側から活動した人」といわれたGHQの日本人助言者でした。Aは昭和24年の段階で、さしたる根拠もなく、漠然と書かれたものだと推測できます。

 おそらくは、先に引用したダイクGHQ民間情報教育局長の次の談話が根拠だろうと推測できます。

「誤った他民族に対する優越感を與へてゐた『神の子』として侵略その他の蛮行がすべて合理化されたのは明治以来の官製神道の教義によるものである」ダイク(「朝日新聞」1945年12月17日)。

 しかし明治維新から「世界征服思想の教義」をもつ国家神道などあるはずがありません。

 以下は昭和四十六年五月に下された「津地鎮祭訴訟」の名古屋高裁判決(違憲判決)にあるものです。

「昭和20年(一九四五年)の敗戦に至るまで約八〇年間、神社は国教的地位を保持し、旧憲法の信教の自由に関する規定は空文化された」(神社本庁『津地鎮祭裁判資料集』)

 しかし法令上に国教が存在しなかったことは同裁判の最高裁判決(合憲判決)に明記されました(同)。

 この名古屋高裁判決の文章の根拠がダイクや岸本英夫を受け売りした村上重良『国家神道』にあるといわれて否定できるでしょうか?(名古屋高裁は『国家神道』を証拠として採用しました)。

 バンスGHQ宗教課長は、のちにインタビューに答えて「ケン・ダイクの在任中に行った政策では、神道指令が最高だったと、彼自身、後になって言っていました」と語りました(竹前栄治『日本占領』)。

 神道指令は今日に至るまで多大な影響を及ぼしています。GHQは国家神道の主な聖典は教育勅語だと断定しました。その教育勅語と国家神道との関係がなぜ研究されなかったのか、私には知る由もありません。

 我が国の政教関係は混迷の度を増しています。やはり神道指令の国家神道を解明しない限り、実のある政教論争とはならないのではないでしょうか?


◇5 史実の整理では「教育勅語後遺症」を克服できない

 教育学者の貝塚茂樹武蔵野大学教授は『現代教育科学』平成22年6月号において、「急がれる「教育勅語後遺症」の克服」を書かれました。

「道徳教育には目標となる道徳的価値(徳目)が必要である。たしかに、学習指導要領にも道徳的価値は列挙されているが、教育勅語が十分に清算されず、戦後教育がこれに正面から向き合うことがなかったために、戦後教育は総じて道徳的価値(徳目)を明確にすることに否定的であり、これを「教える」ことには極めて消極的である」(P115)

 まさしく「教育勅語が十分に清算されず」に今日まで至ったことは、我が国知識人全員の怠慢であると思います。

 島薗教授の『国家神道と日本人』をはじめ、これまでの国家神道論では、歴史上に起きた事柄が正確に整理され、かつリアルに著述されています。しかし今やその事柄の原因を正しく解明する時期にきていると思います。

 おそらくは「教育勅語の十分な清算」が、徳育問題や政教問題を混迷から救う唯一の道になるのではないかと考えています。

 以上、島薗教授から頂戴したご指摘3点について、深い感謝の意を込めつつ、私なりにコメントさせていただきました。最後になりましたが、ご研究の今後の発展を心から願ってやみません。(おわり)


タグ:教育勅語
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島薗東大大学院教授の3つのご指摘に答える by 佐藤雉鳴──第2回 「国家神道」は教育勅語の曲解から生まれた [教育勅語]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(平成22年8月13日)からの転載です


 前々回、畏友・佐藤雉鳴氏の教育勅語論「『教育勅語』異聞──放置されてきた解釈の誤り」に対する島薗進・東大大学院教授の批判を掲載しました。

 今号は、前回に引き続き、佐藤さんの反論の2回目です。

 戦後唯一の神道思想家といわれた葦津珍彦は、「学問は1人でするものではない」と考えて、思想の科学の会員と勉強会を重ねました。

 この研究所はその意思を引き継ぎ、学問的な交流の場を目指しています。


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島薗東大大学院教授の3つのご指摘に答える by 佐藤雉鳴
──第2回 「国家神道」は教育勅語の曲解から生まれた
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◇1 日本人の精神的武装解除を目的とした「神道指令」

 島薗進・東大大学院教授から拙論に対して頂戴した3つのご指摘について、前回にひき続いて、感謝を込めて反論させていただきます。今回はご指摘の第2点、いわゆる神道指令および「国家神道」についてです。

 島薗教授から以下のようなご指摘がありました。

 「神道指令にいう国家神道とは、教育勅語の「中外」の曲解がもとで出来た日本の超国家主義思想である」という佐藤さん(私)の理解は、「神道指令は、(1)神社神道を国家から切り離し「国家神道」ではなくし、民間宗教団体とすることと、(2)教育勅語の「中外」の語を拡張主義的に捉えるような超国家主義イデオロギーと神社神道を切り離し、前者を排除するという二つのことを目指した」というふうに改める必要があるのではないか?

 しかし私のテーマはあくまでGHQ神道指令にある国家神道です。

 GHQの占領目的は日本人の「物的武装解除」と「精神的武装解除」でした。「物的武装解除」は日本軍の解体で達成しました。したがって軍人勅諭は教育勅語のように国会で排除・失効決議はなされませんでした。ウッダードは「日本の軍隊の廃止によって、明治天皇の「軍人勅諭」(一八三三年)を考慮する必要はなくなった」(『天皇と神道』)と述べています。

 残るは「精神的武装解除」でした。GHQは昭和20年10月22日から翌21年1月9日までに具体的な5つの教育指令を発しました。

 1番目から4番目までがいわゆる四大教育指令と呼ばれるもので、日本の超国家主義的、軍国主義的な教育の一掃を求めたものでした。神道指令はその3番目の指令です。

 これに先立って、バーンズ国務長官は日本の降伏文書調印式の終了にあたり、次のような声明を発していました。

「日本国民に戦争でなく平和を希望させようとする第二段階の日本国民の「精神的武装解除」はある点で物的武装解除より一層困難である(中略)われわれは日本の学校における極端な国家主義および全体主義的教育をいっそうすると共に戦争指導者の軍事哲学を受け入れるに至った極端な日本国民の国家主権および全体主義的教育を完全に掃蕩するだろう」(「朝日新聞」1945年9月4日)

 軍国主義の除去は先に述べたとおりですが、GHQは、超国家主義は教育勅語を聖典とする国家神道にあると考えました。そのため神道指令で国家と神道を分離させました。


◇2 国家と神社神道の分離という発想はどこから来たのか

 島薗教授の言われる「神道指令は、(1)神社神道を国家から切り離し「国家神道」ではなくし、民間宗教団体とすること」、これはむしろ結果としてそうなった、という方がより正確かもしれません。

「(2)教育勅語の「中外」の語を拡張主義的に捉えるような超国家主義イデオロギーと神社神道を切り離し、前者を排除するという二つのことを目指した」

 このご指摘の(2)がまさに神道指令の目的だったと思います。神社神道から「世界征服」思想、つまり教育勅語を除去すれば目的は達成します。しかし、なぜ(1)にあるように神社神道と国家を切り離すことを考える必要があったのでしょうか。

 神道指令を発したのち、バンスを伴ったダイク民間情報教育局長は次のような談話を発表しました。

「日本古来の神道は決して軍国主義的なものではなかったが、明治以来これが侵略主義を合理化するために歪曲されたものであり、誤った他民族に対する優越感を與(あた)へてゐた『神の子』として侵略その他の蛮行がすべて合理化されたのは明治以来の官製神道の教義によるものである」(「朝日新聞」1945年12月17日)。

 本来は日本の世界征服思想・超国家主義の除去が目的でした。

 神道指令を起草したバンスが宗教学者D・C・ホルトムの著書を熟読玩味(がんみ)していたことは明らかです(『岸本英夫集第五巻』「嵐の中の神社神道」P14)。井上哲次郎が加藤玄智に影響を与え、さらに加藤玄智はホルトムに影響を及ぼしました。

 ホルトムはその著『日本と天皇と神道』において、加藤玄智や『国体の本義』から引用して話を展開しています。「日本が救世主たるの使命を持っている」(P32)とか「教育勅語は国家神道の主な聖典である」(P107)との言説にその影響が表れています。

 ことに加藤玄智は「宗教学者の立場からすれば、教育勅語は日本人の道徳書たると同時にその宗教書である」(『加藤玄智著作集』第9巻P309)と述べていました。

 教育勅語と神道が結び付き、国家神道が形成されたとバンスが考えても無理のない文言が日本の指導層にありました。チェンバレン「武士道──新宗教の発明」などと重ね合わせると、国家神道が実在する宗教だとイメージされたのかもしれません。


◇3 神道指令の目的は「国体のカルト」の廃絶だった

 ウッダードはのちに、「国体のカルト」の廃絶を命じた指令が「神道指令」の名で知られるようになった、と述べました(『天皇と神道』P9)。

「「国体のカルト」は、神道の一形式ではなかった。それははっきりと区分される独立の現象であった。それは神道の神話と思想の諸要素をふくみ、神道の施設と行事を利用したが、このことによって国体のカルトも神道の一種であったのだとはいえない。そうだったら、連合国軍最高司令官は、神道を全面的に廃絶しなければならなかったはずである」(同)。

 ウッダードによれば、「国体のカルト」とは、「政府によって強制された教説(教義)、儀礼および行事のシステム」です(同)。

 私はウッダードその他GHQスタッフの文言から、彼らが除去したかった超国家主義を追求しました。GHQのいう国家神道の教義に含まれる過激なる国家主義とは何か?

 島薗教授の近著『国家神道と日本人』第二章1「国家神道の構成要素」には「国家神道という用語は、明治維新以降、国家と強い結びつきをもって発展した神道の一形式を指す」(P57)と記されています。

 そしてさらに「私(島薗教授)の考え方は、狭い学界の用法にとらわれない論者の用法に近く、近代において国家と結びついた神道の様態が、確かにひとまとまりをなしていることを根拠に、これを国家神道とよぶものだ」(P58)とも述べられています。

 私(佐藤)の場合はあくまで神道指令にいう国家神道を追及していますが、島薗教授の国家神道は──誤解を恐れずに言えば──加藤玄智の「国家的神道」に近いのではないでしょうか?

 島薗教授の『国家神道と日本人』の内容は、明治維新期から今日に至るまでの総合的な「日本と天皇と国民と神道」を論じられた「国家的神道の近現代史」のように思います。


◇4 GHQスタッフが着目したのは「徳目」ではない

 島薗教授はこうも述べています。

 「教育勅語が国家神道の「教典」であり、そこに国家神道の教義が述べられているというのは誤解を招く言い方だろう」(P64)。

 しかし教育勅語が国家神道の「聖典」であるとしたのはGHQの関係者(バンス、ドノヴァン、スピンクスそしてホルトムら)であり、そう明言した文書が残されています(『続・現代史資料10』など)。

「教育勅語の中ほどに説かれている教えの道徳的側面は、国家神道に特有のものではない。むしろ儒教など東アジア的な伝統に基づきつつ、ある種の普遍性をもつ人倫の教えである。その限りでは「古今ニ通ジテ謬(あやま)ラズ之ヲ中外ニ施シテ悖(もと)ラズ」と勅語にあるのは奇異なことではない」(P64)。

 GHQが問題にしたのは、ダイク、バンスともに「之を中外に施して悖らず」であり、「之」とは「肇国の理想」でした。日露戦争以降の「斯の道」の変遷は私の主張するところですが、GHQは第2段落の「徳目」はほとんど問題にしませんでした。

 「之を中外に施して悖らず」は文部省編『臣民の道』(昭和16年)において、「まこと支那事変こそは、我が肇国の理想を東亜に布(し)き、進んでこれを四海に普(あまね)くせんとする聖業」となりました。

 島薗教授が言われるとおり、「徳目」に問題があるとは思えません。GHQも「徳目」は問題にしていません。戦前と戦後で五倫五常の「徳目」への評価が変わったとの文書は見つけられません。

 GHQのスタッフが第3段落を訳して、「日本人の救世主願望」は世界征服の思想だ、と考えたことが文書に残されています(『続・現代史資料10』)。


◇5 「中外」を「国の内外」と解釈するのが国家神道信者

 島薗教授の『国家神道と日本人』、第二章3「神道指令が国家神道と捉えたもの」を慎重に読むと、やはり過激なる国家主義、いわゆる超国家主義の教義を外して、神道指令の国家神道は把握できません。

 バンスが「神道の施設と行事を利用したが、このことによって国体のカルトも神道の一種であったのだとはいえない」と述べたことは先に引用したとおりです。

 国家神道から超国家主義(世界征服思想)を除去すると、国家の神社神道への関与の有無に関係なく「国体のカルト」は雲散霧消します。「降伏後における米国の初期対日方針」のうち、日本人の「精神的武装解除」は達成します。

 『国家神道と日本人』の第五章「国家神道は解体したのか?」において、島薗教授は「神道指令は皇室祭祀にはまったくふれなかった」(P185)から「実は解体していない」と断定されています。

 GHQが問題にしたのは超国家主義であり、「国体のカルト」ですから、国家神道の教義が除去されたのは1948年6月19日、国会において教育勅語の排除・失効決議がなされた時であると思います。

 国家神道は解体されていない、これは島薗教授によれば皇室祭祀が手つかずである、そのことが根拠です。しかし私は、歴史文献となった教育勅語の「中外」の解釈が未だに訂正されていないことをもって、国家神道は生きている、と述べました。「中外」を「国の内外」とすることこそ、超国家主義者=国家神道信者そのものの解釈だからです。


◇6 島薗教授はGHQスタッフの文書を検討していない

 島薗教授の『国家神道と日本人』はGHQ関係者の重要文書がほとんど検討されていません。それはなぜでしょうか?

 神道指令から要約すると、GHQによる国家神道の定義とは以下の通りです。

 「天皇・国民、そして国土が特殊なる起源を持ち、それらが他国に優るという理由から日本の支配を他国他民族に及ぼす」という過激なる国家主義、つまり超国家主義思想の要素を含む国家指定の宗教ないし祭祀。

 結局のところ、「日本の支配を他国他民族に及ぼす」という超国家主義が、彼らのいう国家神道の核心部分だったのではないでしょうか? そして教育勅語が「聖典」だというのですから、「之を中外に施して悖らず」を徹底解明する必要があると思います。

 私が神道指令を読んで「国家神道というものの特定もなく」と考えたのは、「世界征服」の思想を神道に見出せないからでした。そこにあったのは「之を中外に施して悖らず」を曲解した「肇国の理想を四海に宣布」でした。神道とは直接関係のないものでした。

 私は『国家神道と日本人』の第二章から読みはじめました。論じられる対象を確認するためでした。国家神道論は複雑ですが、明治維新以降の国家的神道とGHQ神道指令の国家神道を区別して整理することが必要なのかもしれません。

 神道の施設と行事を利用して国家がある種の考え方を普及するには、やはり基盤が必要です。総合的な意味での国家的神道という基盤の上に、GHQのいう国家神道が実現された、と考えることも可能かもしれません。

 『国家神道と日本人』にはこの国家神道における「世界征服」思想がほとんど語られていません。国家としてのその表現は文部省『国体の本義』以降ですから、島薗教授の国家神道(国家的神道)論からすると、あまりにも狭義に過ぎて、取るに足らないものなのかもしれません。

 『国家神道と日本人』を読み進めてゆくうちに、つねに第二章「国家神道はどのように捉えられてきたか?―用語法―」に戻っていることに気がつきました。今日までの国家神道研究の複雑さを思わないではいられません。(つづく)


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島薗東大大学院教授の3つのご指摘に答える by 佐藤雉鳴──第1回 教育勅語の「中外」を「国の内外」と解釈するのは無理がある [教育勅語]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(平成22年8月12日)からの転載です


 前回は、畏友・佐藤雉鳴氏の教育勅語論「『教育勅語』異聞──放置されてきた解釈の誤り」に対する島薗進・東大大学院教授の批判を掲載しました。

 今号からは、3回にわたり、佐藤さんの反論を載せます。


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島薗東大大学院教授の3つのご指摘に答える by 佐藤雉鳴
──第1回 教育勅語の「中外」を「国の内外」と解釈するのは無理がある
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◇1 起草者の意図を示す確実な文献があれば

 島薗進・東大大学院教授から教育勅語と国家神道に関する拙論に関し、丁寧な3つのご指摘をいただきました。島薗教授ならびに当メール・マガジン発行者で天皇学研究所の斎藤吉久所長に対し、深く感謝申し上げます。

 そのうえで、ご指摘の3点についてコメントしたいと思います。それがご多忙のなか、拙論に目を通し、ご批判くださったことへの礼儀だと考えるからです。

 今回はご指摘の第一点、教育勅語の冒頭にある「中外」の語が、「宮廷の内外」という意味だけなのか、という指摘に対して、反論します。

 島薗教授の近著『国家神道と日本人』(岩波新書)は、第一章4「宗教史から見た帝国憲法と教育勅語」に教育勅語の解説が述べられています。

「国家神道とは何かを知る上で教育勅語がもつ意義は、いくら強調しても強調しすぎることはない」(P38)

 GHQのスタッフは教育勅語を国家神道の「聖典」と断定しましたから、おっしゃるとおりだと思います。そのうえで教授は「中外」を含む文章を次のように解説されています。

(之ヲ古今ニ通ジテ謬(あやま)ラズ之ヲ中外ニ施シテ悖(もと)ラズ)
「しかし、他方、それは日本という限定された範囲を超え、普遍性をもつものだ、とも主張されている」(P38)

 教育勅語は公開文書ですから、解釈は読み手に委(ゆだ)ねられます。解釈は原則として自由です。しかし私のテーマは、起草者の意図と解説書の解釈との違い、そしてそれがもたらした甚大な影響の追求です。

 私は文献資料から「中外」を解釈しました。したがってこれを否定する起草者の確実な文献資料等が示されれば、再検討しなければなりません。


◇2 明治以前の詔勅では「宮廷の内外」の意味がほとんど

 島薗教授から、明治天皇の詔勅では「中外」が大部分「国の内外」の意で用いられており、教育勅語の「中外」を「宮廷の内外」とするのは無理があるのではないか、とのご指摘がありました。そのことについて、補足させていただきたいと思います。

 拙著『国家神道は生きている』において、「中外」には主要な2つの用例があることを述べました(P124)。「宮廷の内外」と「国の内外」です。

 「中外」に「宮廷の内外」の意があることは、現在ではあまり知られていないので、拙著では少なくとも「国の内外」だけではないことを示しておきました。

 そこで、この機会に明治天皇以前の詔勅から「中外」を「宮廷の内外」「朝廷と民間」として用いた例をあげてみます。

 『みことのり』(平成7年錦正社版)から以下に引用します。

第857詔
仁明天皇承和2年『皇子を臣籍に降下せしめ給ふの勅』
「宜しく中外に告げて、咸(ことごと)く聞知せしむべし」

第870詔
同承和5年『皇太子恒貞親王の御元服に際して下されし詔』
「承和四年以往言上の租税の未納なるものは、咸(みな)免除に従へ。普(あまね)く中外に告げて、此の意を知らしめよ」

第1210詔
仁孝天皇天保15年『皇太子統仁親王御元服の詔』
「高年八十以上及び鰥寡(かんか=妻のない男と夫のない女)孤独にして自存すること能はざる者には、数を量りて物を給へ。普く中外に告げて、此の意を知らしめよ」

 これらの「中外」は数々の詔勅にある、「普く遐邇(かじ)に告げて」の「遐邇(遠い所と近い所)」と同じ意味であり、文脈から「宮廷の内外」「中央と地方」、転じて「全国(民)」です。内政に関することであり、外国は関係がありません。

第1247詔
孝明天皇安政3年『藤原尚忠に万機を関白せしめ給ふの詔』
「良相朝に升(のぼ)れば、則ち陰陽自ら其の燮理(しょうり)に適ひ、元臣事を立つれば、則ち中外遍(あまね)く其の調和を被る」
(良き宰相が朝廷に昇れば、即ち対立するものはやわらいで整い、優れた臣下が事をなせば、即ち朝廷と民間はあまねく調和する)

 この「中外」は文脈から「朝廷と民間」と解釈して妥当です。「国の内外」では意味が通じません。

 じつは、明治天皇以前の詔勅では「中外」は「宮廷の内外」の意で用いられているものがほとんどです。「中外」が「国の内外」の意味で用いられはじめたのは、明治になって諸外国との関係が深くなってから、と考えてもよいほどです。


◇3 明治前半期における要人たちの「中外」

 教育勅語渙発(かんぱつ)までの間に書かれたもので、宮中近くにいた要人たちの文章から「中外」を読んでみます。

「十二月二十九日同僚相議して、曰(いわく)勤倹の旨、真の叡慮に発せり。是(これ)誠に天下の幸、速(すみやか)に中外に公布せられ施教の方鍼(ほうしん)を定めらるべしと」(『元田永孚文書』第一巻P176)

 明治11年8月30日から同年11月9日までの北陸東海両道巡幸から戻られた天皇は、各地の実態をご覧になったことから、岩倉右大臣へ民政教育について叡慮(えいりょ)あらせられました。侍補たちは明年政始の時に「勤倹の詔」が渙発されることを岩倉右大臣に懇請しました。上はその時の文章です。

 あくまで国内の民政教育についてです。「速に中外に公布」は「すみやかに全国(民)に公表して知らせる」です。これは教育勅語の「中外」と同じ用法であり、どう読んでも外国は関係がありません。

「大臣の奉勅対署は大臣担当の権と責任の義を中外に表示する者なり」(稲田正次『明治憲法成立史 下』P55)

 井上毅(いのうえこわし)による、いわゆる憲法の初稿説明にある文章です。法律と勅令に関する大臣の副署についての説明であり、大臣の副署のないものは詔命としての効力はないというものです。その副署は大臣の権と責任を「宮廷の内外」「全国」に表示するもの、と解釈して妥当です。文脈からこの「中外」を「国の内外」と解釈する根拠がありません。

「而(しか)して其一策たる、聖上還御の前に当て間を請ふて天皇に謁見し、憲法制定の今日に止むべからざる所以を具状し、更に内閣外に就て憲法制定論の賛成者を求め、中外の声援に依て其制定の議を断行する、是れ也。(中略)即ち在廷官吏の鏘々(金へんに将。そうそう)たるもの及び在野負望の士にして其影嚮(えいきょう)を内閣の議に及ぼすに足るべきものを求むるを謂ふ也。(中略)是を以て今我党に於て朝野の賛成者を求むるの策最も之が巧妙を尽し、厳に後患を予備せざるを得ず」(『小野梓全集』第三巻P144)

 大隈重信とともに立憲改進党を組織し、東京専門学校(早稲田大学の前身)を創設した小野梓の「若我自当(もしわれみずからあたらば)」(明治14年)にある文章です。文脈から「中外の声援」と「朝野の賛成者」は整合しますから、「中外」は「朝廷と民間」です。

 小野梓には「勤王論」もあって、幕府について語っているところでは「中外皆な関東の人士を以て之を制し」(同P186)と記しています。「中外」は「中央と地方」つまり「全国」です。外国はイメージされていません。

 また「今政十宜」では藤原氏や平氏その他の特定少数者による政治の専有を批判し、「聖上登祚(とうそ)ましませし以来屢々(しばしば)明詔を垂させ給ひ中外の衆庶に詔示し給ひ、衆庶も夫の明詔に薫陶せられ深く其切なるを感銘したるものなれば、……」(同P160)と記しています。「中外の衆庶」は「全国の人々」と解釈して妥当です。

 明治20年8月12日付の板垣退助による上書にも「中外」が用いられています。

「また伊藤に対しては、総理大臣宮内の長官を兼ね陛下の威福を藉(かり)りて中外に号令し専恣(せんし)の欲を遂げ一人の利をなさんとす」(稲田正次『明治憲法成立史 下』P484)

 伊藤博文はどちらも初代の総理大臣でありかつ宮内大臣でした。府中と宮中の長だから、「中外に号令し」は「宮廷の内外」に「号令し」です。もし「中外」が「日本と外国」とすると、少なくとも「外国に号令」はあり得ませんから、この解釈は成立しません。


◇4 「国の内外」と解釈する明確な根拠はあるか

 私の調査では、起草者の井上毅と元田永孚(もとだながさね)の教育勅語に関する資料に「中外」を「国の内外」とするものは見つけられませんでした。また「樹徳(徳を樹[た]つる)」が五倫五常の「徳目の樹立」であるとすることの根拠も見つけられませんでした。

 これまで教育勅語の解釈に言及した研究者たちは、以下の2つの文章を読み誤ったと断定しても過言ではないと思います。

「五倫と生理との関係」(『井上毅伝』史料篇第三)
「勅語衍義-井上毅修正本」(『國學院大學日本文化研究所紀要99』は解説付)

 これらは非常に誤解されやすい文章ですが、平成20年3月、國學院大學日本文化研究所から『井上毅伝』史料篇補遺第二が出版されました。詳細は省きますが、この中に「倫理ト生理学トノ関係」(「梧陰文庫B―三〇二五」)及び「梧陰文庫!)―四五九」が公開されて、誤解は解消されることとなりました。

 教育勅語に関心のある方々に、教育勅語の「中外」を「国の内外」とする明確な根拠があればぜひ教えていただきたいと思います。なお起草者の意図ですから、井上毅と元田永孚らの資料に限ることはいうまでもありません。


◇5 「中外」の解釈に批判がなかった理由

 島薗教授からは、「井上哲次郎を初めとして、多くの人々が「国中と国外」と「解釈し、それが正面から批判されてこなかったという歴史的事実がある」とのご指摘もありました。

 ご指摘のとおり、批判がなかったことは確かに歴史的事実です。大正初め、市村光恵法学博士は上杉慎吉を批判してこう語りました。

「唯勅語なるが故に完全無欠なりと唱えて、勅語の神聖を主張せむとするものあるに似たり(中略)勅語の導きは独り夫れが勅語たるの点にのみ止まらず、又実に其の内容が、之を古今に通じて謬(あやま)らず、之を中外に施して悖(もと)らざるに因る」(大正ニュース事典)

 当時、勅語だから(=天皇のお言葉だから)正しい、との言説のあったことが分かります。

 またその後の教育勅語の解説者たちは、唯一天覧に供し、官定解釈とも公定註釈書ともいわれた井上哲次郎著・芳川顕正叙・中村正直閲『勅語衍義(えんぎ)』を妄信したに過ぎないと思います。

 のちの研究者たちが奉戴(ほうたい)したのは、明治大帝の教育勅語よりも、この『勅語衍義』だといっても過言ではないと思います。現在の人々が国民道徳協会の口語訳文を無批判に奉戴していることと同じです。

 加えて勅語渙発記念講演等において、金子堅太郎や杉浦重剛らが「中外」を「国の内外」と広めましたから、批判の生ずる余地はなかったのかもしれません。

 昭和14年に一度だけ訂正の機会がありました。しかし議論は権威におもねる和辻哲郎によって封殺されたことが記録に残っています(『続・現代史資料9』P399)。

 実際のところは終戦まで、誤った解釈でも問題は生じませんでした。そして戦後は日本国憲法において、詔勅は効力を有さないとされました。以後今日まで、「成立史」の研究はあるものの、教育勅語の「解釈」については先行研究をなぞるのみで、新たな知見は発表されませんでした。

 元田永孚は明治24年、井上毅は同28年に他界しましたから、教育勅語のその後については知る由もありません。明治天皇は「勅語衍義稿本」にご不満であり(『明治天皇紀』巻七P807)、井上毅は否定的でした。


◇6 日本人の誤った解釈を鵜呑みにしたGHQ

 GHQは「之を中外に施して悖らず」が世界征服の表現だと見なしました(神谷美恵子著作集9『遍歴』P233、『続・現代史資料10』P276ドノヴァンの覚書)。日本人の解釈を鵜呑みにして、「国の内外」としたのです。

 教育勅語の「之」=「斯の道」が「徳目」から「肇国(ちょうこく)の理想」へと変遷し、それを「四海に宣布」=「中外に施して悖らず」だったのですから、GHQがいうのも無理はありません。

 井上毅は帝国憲法第28条(信教の自由)に抵触しないよう慎重でした。そこで元田永孚への書簡に、「斯道也の下、実に、の一字不可欠」と記しました。

 「斯の道」が哲理や信念ではなく、歴史事実であることから「実に」に固執し、「中外に施して悖らず」(全国(民)に示して道理に反しない)という草案にした、と考えて妥当ではないでしょうか。

 井上毅は教育勅語の草案を金子堅太郎に見せ、「君だけは憲法制定の頃から一緒にやってきたのだから」(『教育勅語の由来と海外における感化』P13)と相談しました。

 教育勅語が政事命令と受け取られないか、憲法に抵触しないかどうかと訊(き)いたのです。しかし金子堅太郎は教育勅語の徳目がキリスト教の教義に悖らないかどうか、の相談だと誤解しました。

 それが証拠に、井上毅や元田永孚に教育勅語の徳目とキリスト教の教義を比較検討した資料はありません。

 島薗教授は拙論に対して、「中外」は「朝廷の内外」の意味だけか、と指摘されました。「中外」には「国の内外」と「宮廷の内外」の2つの意味があり、もちろん前者と解釈すべき用例もあります。けれども、教育勅語に関しては、教授がおっしゃるように「宮廷の内外」と解釈することに無理があるのではなく、「国の内外」と解釈することこそ無理なのです。


 ☆斎藤吉久注 筆者の了解を得て、ネット読者の便宜を考慮し、見出しを付け、改行を増やすなど適宜、編集を加えています。


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佐藤雉鳴「教育勅語」「国家神道」論への3つの疑問 by 島薗進/「教育勅語」異聞の要旨 by 佐藤雉鳴 [教育勅語]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(平成22年8月7日)からの転載です

 当メルマガはこの春から、在野の研究者・佐藤雉鳴氏の教育勅語論「『教育勅語』異聞──放置されてきた解釈の誤り」を連載しました。

 この連載は、教育勅語が発表当初から知識人たちによる誤った解釈が行われ、いまもなお正されていないというショッキングな内容でした。

 日本の近現代史を考えるうえできわめて重要な内容で、黙過すべきではないと考えた私は、日本宗教史の研究者としてきわめて著名で、なおかつ教育論をふくめた国家神道論を展開されてきた島薗進・東大大学院教授にご感想を求めました。

 ご多忙のなか、ぶしつけなお願いを快く引き受けてくださった先生から、このたびエッセイが寄せられましたので、さっそく配信させていただきます。

 なお、佐藤さんの連載の要旨をあわせて掲載しました。


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1 佐藤雉鳴「教育勅語」「国家神道」論への3つの疑問 by 島薗進
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 旧知の斎藤吉久さんから佐藤雉鳴さんの「「教育勅語」異聞――放置されてきた解釈の誤り」について、私なりの受け止め方について書いてみるよう、依頼があったのは2010年6月7日のことである。これは佐藤さんのウェブサイト「教育勅語・国家神道・人間宣言」から、斎藤さんのメルマガ「誤解だらけの天皇・皇室」に3月26日から6月3日にかけて転載されたものだ。

 その後、拙著、『国家神道と日本人』(岩波新書)が7月21日の日付けで刊行された。私はこの間に、佐藤さんの著書、『国家神道は生きている』(ブイツーソリューション、2008年3月刊)にも目を通すことができた。

 私は佐藤さんと多くの問題意識を共有していることを知り、驚いた。「国家神道は今も生きている」というのは私の主張の一つでもあるし、教育勅語の第一段落が重要であるということ、神道指令の国家神道定義が混乱のもとだということなどは、佐藤さんと私の考えが重なるところだ。

 また、佐藤さんが独自の視点で見出した資料や、文献の読み取り方に豊かな内容があり、いくつも創見を含んでいることにも感銘を受けた。井上哲次郎の教育勅語理解の浅さ、教育勅語の中の「中外」という語の解釈の重要性、戦後の教育勅語の廃止に至る論議の経緯などについての指摘からは多くを学んだ。国学的な伝統を尊びながら、近代日本の精神史を見直そうという志を貫き、在野の立場から学術的に大きな意義のある果実をみのらせて来られたことに深く敬意を表したい。

 その上で、「「教育勅語」異聞――放置されてきた解釈の誤り」(「教育勅語・国家神道・人間宣言」)や『国家神道は生きている』において、佐藤さんが提示した独自の論点に対して、私の立場から論じたいことがとりあえず3つほどある。


▽1 「中外」は「朝廷と民間」という意味だけか

 まず、第1は、教育勅語の「中外」の語を「国中と国外」と解するのは誤りとはいえないのではないかということである。

 「中外」は古典の意味にそって、「宮廷の内と外」「朝廷と民間」と解することができるということは大いに教えられた。しかし、必ずそう解さなければならないと主張されるとすれば、それは根拠が薄いように思える。

 事実、井上哲次郎を初めとして、多くの人々が「国中と国外」と解釈し、それが正面から批判されてこなかったという歴史的事実がある。昭和の戦時期になって歪められたということではなく、早くからそのような解釈が通用してきた。

 また、佐藤さんは『国家神道は生きている』で、「明治天皇の下された詔勅のなかでも「中外」の意味は国の内外のみではない」としているが、やはり多くは「国の内外」の意味であることも示唆されている。

 そこでは、明治天皇の詔勅に見られる19の「中外」の語の語義が検討されているが、そのうち「国の内外」や「世界」と解するのが適当とされているものが16である。また、「国の内外」とも「朝廷と民間」のどちらにも解することができるとされているものが2つである。

 ただひとつ、「朝廷と民間」の意味にとるべきとされるのは、明治38年5月奉天占領に際して、海軍に下された勅語の用例である。――「我海軍は、籌畫(ちゅうかく=作戦)攻戦共に宜しきを得、中外相待て、敵の艦隊を殲滅(せんめつ)し」とある、「籌畫」は大本営、「攻戦」は現地部隊なので、「大本営と現地軍」という意味に受け取るのがよいという。だが、これも「中外を国の内外としても全く意味の通じないものではない」とされる。

 このように、明治天皇の詔勅において、「中外」の語は「国中と国外」という意味で用いられるのが大部分ということになる。そうだとすれば、教育勅語の「中外」の語を「国中と国外」と解するのは誤りだというのは、少々無理な議論ではないだろうか。


▽2 教育勅語の「曲解」から国家神道が生まれたのか

 私の対抗論点の第2は、神道指令をどう読むかに関わるものだ。佐藤さんは、『国家神道は生きている』において、「神道指令にいう国家神道とは、教育勅語の「中外」の曲解がもとで出来た日本の超国家主義思想である」(168ページ)と述べている。しかし、これはどこに根拠があるのだろうか。

 佐藤さんは神道指令には「国家神道というものの特定もなく」(同前、34ページ)と述べているが、ふつうはそうではないと解されている。「本指令ノ中ニテ意味スル国家神道ナル用語ハ、日本政府ノ法令ニ依テ宗派神道或ハ教派神道ト区別セラレタル神道ノ一派即チ国家神道乃至神社神道トシテ一般ニ知ラレタル非宗教的ナル国家的祭祀トシテ類別セラレタル神道ノ一派(国家神道或ハ神社神道)ヲ指スモノデアル」と明瞭に述べられているからだ。

 では、このように特定された国家神道と超国家主義の関係はどのように理解されているか。神道指令の冒頭では、この文書の目的が、以下のように4つの項目にまとめられている。

国家指定ノ宗教乃至祭式ニ対スル信仰或ハ信仰告白ノ(直接的或ハ間接的)強制ヨリ日本国民ヲ解放スル為ニ 

戦争犯罪、敗北、苦悩、困窮及ビ現在ノ悲惨ナル状態ヲ招来セル「イデオロギー」ニ対スル強制的財政援助ヨリ生ズル日本国民ノ経済的負担ヲ取リ除ク為ニ 

神道ノ教理並ニ信仰ヲ歪曲シテ日本国民ヲ欺キ侵略戦争ヘ誘導スルタメニ意図サレタ軍国主義的並ニ過激ナル国家主義的宣伝ニ利用スルガ如キコトノ再ビ起ルコトヲ防止スル為ニ 

再教育ニ依ツテ国民生活ヲ更新シ永久ノ平和及民主主義ノ理想ニ基礎ヲ置ク新日本建設ヲ実現セシムル計画ニ対シテ日本国民ヲ援助スル為ニ 

茲ニ左ノ指令ヲ発ス

 ここで、最初の項目は「国家神道」に関するものである。そして、3番目の項目に「超国家主義」が出てくるが、これは神道を歪曲した「イデオロギー」に関するものである。ここでいう神道は「神社神道」、すなわち「国家神道」であるから、国家神道そのものが「超国家主義」と関わったのは「イデオロギー」による「歪曲」なのであり、その本来的性格ではないという前提に立っているのだ。

 ここには、宗教は元来人間(個々人)に自由をもたすものであり、それに対してイデオロギーは人間を集団統制に導くものだというアメリカ的(20世紀アメリカ合衆国的)な見方が現れている。こうした考え方に立てば、「国家神道」が「超国家主義」に発展したのは、イデオロギーの影響によるもので、そもそも「国家神道」がそういうものだということにはならないのだ。したがって、神道指令は(1)国家と神社神道を分離するということと、(2)軍国主義や超国家主義のイデオロギーを排除することとを分けて、両者を平行して進めるという論理構成をとっている。

 「神道指令にいう国家神道とは、教育勅語の「中外」の曲解がもとで出来た日本の超国家主義思想である」という佐藤さんの理解は、「神道指令は、(1)神社神道を国家から切り離し「国家神道」ではなくし、民間宗教団体とすることと、(2)教育勅語の「中外」の語を拡張主義的に捉えるような超国家主義イデオロギーと神社神道を切り離し、前者を排除するという二つのことを目指した」というふうに改める必要があるのではないか。


▽3 思想・良心の自由の制限へと機能した教育勅語

 私の最後の(第3の)論点だが、では、教育勅語の第一段落の主張は、信教の自由とどう関わるかということに関わる。佐藤さんは「しらす」という語の解釈に示された、井上毅の穏健な国体論に基づく教育勅語解釈がその後に理解されなかったことを嘆いている。だが、それは「中外」の解釈にとどまらない。「井上毅は皇祖を神武天皇、皇宗を第二代から明治天皇の先帝であられる孝明天皇までとしたことが「小橋某に答える書」にある」(『国家神道は生きている』、135ページ)と述べている。

 これは皇祖皇宗といえば天照大神から先帝までとするふつうの解釈に対して、教育勅語に神道色を持ちこまず皇室祭祀・神宮祭祀との結びつきを弱めることを目指したものだろう。井上毅はフランス流の政教分離を強く意識しており、教育勅語が政教分離を大幅に超えていき、信教の自由を脅かすものになることを恐れたと思われる。

 だが、この後の展開は井上の考え方に反する方向に進んでいった。修身教育においても歴史教育においても、そして教育勅語崇敬の儀礼秩序においても、神武天皇以前の神話的な皇祖皇宗への崇敬が鼓吹(こすい)され、それに反する信仰や思想を許さない体制が確立していくことになる。

 教育勅語の煥発(かんぱつ)にすぐ続いて起こった内村鑑三の不敬事件と久米邦武の「神道は祭天の古俗」論による筆禍事件はそれを明瞭に示すものだ(拙著、『国家神道と日本人』第1章)。

 国家神道や教育勅語が今日、批判されなければならないのは、対外的な攻撃的政策に関わったからだけではない。国内の思想・良心の自由を制限する方向に機能したことにもよっている。佐藤さんの議論は、こちらの側面についても意識されてはいるが、あまり踏み込んでいなように思える。今後の展開を期待したい。

 以上、佐藤雉鳴さんの「教育勅語」論と「国家神道」論に触発され、私なりの見方を対置してみた。佐藤さんの議論を正確に読み取れておらず、その主旨を取り違えていないか恐れている。そのようなことがあったらどうかご寛恕(かんじょ)いただきたい。初めにも述べたように、佐藤さんの論考から多くを学ばせていただいたことに大いに感謝している。ご研究がますます充実し、さらに啓発していただけることを願っている。


 ☆斎藤吉久注 筆者の了解を得て、ネット読者の便宜を考慮し、見出しを付け、改行を増やすなど適宜、編集を加えています。


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2 「教育勅語」異聞の要旨 by 佐藤雉鳴
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 一八五八年、我が国は米国との間で日米修好通商条約に調印した。条約の第八条には、外国人居留地における教会堂の設立を容認することが記されていた。米国総領事タウンゼント・ハリスはその条文が認められた喜びを『日本滞在記』(原題は“The complete journal of Townsend Harris”)に書き残している。その後、一八七三年にはキリスト教を禁止する全国の掲示板が撤去され、日本におけるキリスト教信仰は自由となった。

 信教の自由は、一八八九年に発布された憲法の第二十八条においても宣言された。国民は社会の秩序を乱さない限りにおいて信教の自由を有する、というものであった。最も権威のある憲法の解説書には、心の自由は国法の干渉の区域外にあると説明されていた。

 しかし、明治維新後の急激な欧米化とキリスト教の容認は、同時に日本人の伝統的な価値観に動揺をもたらすこととなった。そのため天皇は青少年の道徳紊乱を大変危惧されていた。そして各地の指導者層からの要請もあって、一八九〇年一〇月、天皇は「教育に関する勅語」を渙発した。

 この勅語は三つの段落で構成されている。第一段落は歴代天皇による私心のない統治と、それに対する国民の自発的な忠誠心とがひとつになって光輝ある日本の歴史をつくってきたことが記されている。第二段落は国民の継承すべき伝統的な数々の具体的な徳目が語られている。そして最後の段落では、これらは特定の思想ではなく日本の歴史を基にしたものであり、君主である天皇が国民に示しても道理に反するものではないと宣言されている。

 一九四五年八月、米国をはじめとする連合国と戦火を交えていた日本は、ポツダム宣言を受諾して連合国に降伏した。降伏した日本はGHQの占領するところとなった。GHQの究極の占領目的は、二度と日本が米国および世界の脅威とならないことを確実にすることだった。具体的には日本の物的武装解除と精神的武装解除であった。

 GHQはポツダム宣言に基づいて多くの指令を発したが、なかでも神道指令は今日に至るまで日本人に大きな影響を及ぼしている。いわゆる国家と神道の分離に関する指令である。民間情報教育局のケン・R・ダイク局長は同指令を発したのち、これで司令部の出すべき重要指令は大体終わった、と語った。

 GHQの担当者たちによれば、神道指令にいう国家神道とは超国家主義的な教義を含むものだとされた。その教義とは、日本は特殊なる起源の天皇・国民・国土を
持ち、それらが他国に優るとの理由からその支配を他国他
民族に及ぼす、というものだった。

 GHQのスタッフたちが残した文書には、国家神道の主な「聖典」は教育勅語だと記されている。なかには教育勅語を日本のマグナ・カルタだと表現した著作もある。そしてダイクをはじめとする宗教政策の担当者たちは、教育勅語のなかに世界征服の思想があるのだと断定した。

 ダイクはその第三段落にある「これを中外に施してもとらず」という句は日本の影響を世界に及ぼす、というように曲解された、と述べた。神道指令を起草したウィリアム・バンスは、神道の宣伝は国を全世界に広げようとするもので、関連する文言の真の意味は日本を中心とする世界征服にあった、と日本人の質問者に回答した。

 しかしこれらの文言は解明されるべき謎を含んでいたといわざるを得ない。

 その謎は教育勅語の解釈にある。

 「中外」には主要な二つの意味がある。一つは「宮廷の内外」であり、もう一つは「国の内外」である。たしかに日本の教育勅語の解説者たちはこぞって「中外」を「国の内外」と説明していた。例外はひとつも存在しない。

 しかし教育勅語の起草者たちは「中外」を「宮廷の内外」の意味で用いていた、これが歴史の真実である。勅語の内容は、哲学的あるいは宗教的な論争を避けるために、日本の歴史と伝統という事実を基礎にしている。したがって徳目の遵守を全国民(宮廷の内外)に示しても道理に反しない、という草案を作成したのである。

 明治憲法の主な起草者と教育勅語のそれは同一であって、井上毅という碩学であった。彼は、憲法において信教の自由を保証しているにもかかわらず、天皇が国民に対して徳目を示すことに関し、かなり慎重だったと考えられる文章をいくつか残している。徳目の遵守が天皇の政事命令となっては憲法に反するからである。そのため教育勅語に担当大臣の副署がないことも彼の提案だった。

 解説書の著者たちは──偏差値の高い学者たちではあったが──宮中から遠い人たちだったので、「中外」に「宮廷の内外」の意味があることを知らなかったと推測できる。したがって勅語への素朴な敬意から、徳目を普遍的なものと解釈して「中外」を「国の内外」と説明したと考えられる。たしかに最も有名な明治憲法の成立に関する著作には、井上毅を含む四人が五箇所において「宮廷の内外」(全国)を「中外」と表現した文章が引用されているのである。

 彼らは宮中に近く、欽定憲法の審議に参加した人たちもいた。また教育勅語のもう一人の起草者である天皇の側近元田永孚にも、「中外」を「宮廷の内外」の意味で用いた重要な文書が残っている。そして何よりも、起草者たちの文献に、教育勅語の「中外」を「国の内外」とする確かな根拠は一つも存在しないのである。

 井上毅には、教育勅語を解釈する上で紛らわしい文章が二つある。しかし二〇〇八年三月、これらの文章の原文が公開されてその真意が明らかとなった。「之を中外に施してもとらず」は「肇国の理想を四海に宣布する」ではなく、「之を全国民に示して道理に反しない」がその正しい意味だったのである。

 GHQの神道指令にいう国家神道の「聖典」はこの誤った解釈の教育勅語である。日本人が教育勅語の解釈を誤り、それを鵜呑みにしてGHQは神道指令を発したのである。その影響は現憲法下においても大きなものがあり、今や靖国神社問題をはじめとする政教論争は泥沼と化している。

 もともと世界征服という超国家主義は神道に存在しない。もし教育勅語の解釈を、知的誠実さをもって文献資料を吟味し、起草者の意図に戻すことができるなら、神道指令にいう国家神道は一瞬にして雲散霧消するだろう。その時日本人はそれぞれの立場にこだわらず、国家のために戦死した人々に対し改めて敬意を払う権利と義務を堂々と行使できるだろう。その意味で、GHQの占領下において排除を決議された教育勅語ではあるが、まさに現代に生きる最も重要な歴史文献である。

 ☆斎藤吉久注 筆者の了解を得て、ネット読者の便宜を考慮し、改行を増やすなど適宜、編集を加えています。

 連載の原文は以下のメルマガに載っています。

第一回 明治天皇はご不満だった
http://www.melma.com/backnumber_170937_4802777/

第二回 「しらす」が理解できなかった 
http://www.melma.com/backnumber_170937_4810359/

第三回 「中外に施す」の「中外」の意味 
http://www.melma.com/backnumber_170937_4818000/

第四回 誤りの角質化
http://www.melma.com/backnumber_170937_4824888/

第五回 「斯の道」の評価の変遷 
http://www.melma.com/backnumber_170937_4832552/

第六回 「徳目」論に終始し、本質論が欠けた戦後の論議 
http://www.melma.com/backnumber_170937_4841010/

第七回 結び──明治大帝の御遺徳を穢してはならない 
http://www.melma.com/backnumber_170937_4869664/

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「教育勅語」異聞──放置されてきた解釈の誤り by 佐藤雉鳴   第7回 結び──明治大帝の御遺徳を穢してはならない [教育勅語]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2010年6月3日)からの転載です


 すっかり更新が遅れてしまいました。

 天皇学の構築などというものは本来なら人的、経済的基盤があって、そのうえで始めるべきことなのでしょうが、やむにやまれぬ思いから、ナイナイづくしのなかで、個人でスタートしたことなので、苦難を強いられています。

 読者購読し、毎回読んでくださる皆さんと執筆、転載をお許しくださっている方々の存在だけが頼りです。

 今回は佐藤雉鳴さんの「『教育勅語』異聞」の最終回です。それでは、本文です。


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 「教育勅語」異聞──放置されてきた解釈の誤り by 佐藤雉鳴
  第7回 結び──明治大帝の御遺徳を穢してはならない
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◇1 草案作成者の意図は知られていたはずなのに

 本文で述べたように、教育勅語は渙発(かんぱつ)の当初から誤った解説が行われてきた。そして誤解は正されることなく、今日まで放置されてきた。
教育勅語@官報M231031

 教育勅語の草案の作成者である井上毅の著作を集めた「梧陰存稿」は、戦後、膨大な関係資料をまとめた『井上毅伝』に収められているが、明治28(1895)年にはすでに初版が出ている。当然、草案作成者の意図は当時から知られていたはずである。

 むろん、教育勅語の解説書『勅語衍義(えんぎ)』を書いた井上哲次郎や、アメリカの日本研究に少なからぬ影響を与えた宗教学者加藤玄智らが「梧陰存稿」を読んでいたことは『明治聖徳記念学会紀要第十三巻』に明らかである。

 かつて井上毅が「言霊(ことだま)」に感動をもって書き残した「うしはくとしらす」について、大正8(1919)年に議論がわき上がり、この2人も加わっていたからである。

 しかし教育勅語の冒頭にある「我が皇祖皇宗……徳を樹(た)つること深厚なり」の「徳」が「しらす」という意義の君徳であることは認識されていない。

 この2人だけではない。

 昭和14(1939)年の記録では、『勅語衍義』を含めて、教育勅語の解説書は306種類記録されている(『続・現代史資料9』)。そして今日まで教育勅語を引用し解説したものは数えきれない。ところがそれらの中で、この連載で指摘してきた、従来の「徳」と「中外」の誤った解釈を正したものは見当たらない。

 原因の1つには、「しらす」が理解できず、「徳を樹つること深厚なり」の「徳」が「しらす」という意義の君徳であることを、近現代の知識人たちが1人として理解できなかった可能性というものがあるだろう。

 また教育勅語を解説した著作者たちは、「中外」という言葉について「国の内外」「日本と外国」という意味しか知らなかった可能性が高い。


◇2 教育の淵源を正しく理解していない

 そしてなにより教育の淵源について、真に理解していたとは考えにくい。キリスト者柏木義円(ぎえん)の次の意見に対し、井上哲次郎などは明確に答えていないからである。

「唯(ただ)衆論定(さだま)らざるものは如何(いか)なる意味を以(もっ)て如何なる精神を以て此(この)道徳を実践せんか、何の教が最も此道徳を行(おこな)ふに勢力あるか等(など)の点にして専(もっぱ)ら哲学的宗教的精神的の点に在(あ)りしなり、勅語は嘗(かつ)て此等(これら)の点に向(むかっ)て判定を下したるものに非(あら)ざるなり」

 この『明治宗教文学集(二)』の「勅語と基督教」にある文章には教育勅語の解釈、あるいは徳育の本質に関する重要な鍵がある。個々の徳目を云々(うんぬん)しているのではなく、何のために、何を実現するために勅語の徳目を実践するのかということに、教育勅語は判定を下していないというのである。

「人格の完成」について、同じキリスト者の田中耕太郎は、その標的は宗教に求めるしかない、と述べたのである。その意味と柏木義円の言わんとするところはほぼ同じである。しかし彼らは教育勅語の第一段落を理解していないと言わざるを得ない。

 勅語起草七原則にもあるように、井上毅は「神の国」ではなく、日本という「地上の国」について起草したのである。そして教育の淵源、あるいは柏木義円のいう臣民の徳目実践の目的が、まさしく第一段落にある。

 井上毅は光輝ある我が国の歴史と伝統、そしてそれらを属性として享有してきた祖先の、その遺風を継承すべきものとして草案に記したのである。宗旨や哲学理論などでではない。

 歴代天皇の徳=「しらす」に対し、臣民の忠孝があって国体の精華である。したがって天皇は、国体の精華の永続を想い、教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス、と宣せられたと解釈して妥当なのではないか。あくまで歴史の事実に基づいており、理論や理屈を排除しているといってもよいだろう。


◇3 民の自由が実現されてきた歴史の事実

 井上毅は「言霊」に次のように語っている。

「国を知らすといふことを本語の侭(まま)に、支那の人、西洋の人に聞かせたならば、支那の人、西洋の人は、其(そ)の意味を了解することは出来ない。何となれば、支那の人、西洋の人には、国を知り、国を知らすといふことの意想が初(はじめ)より其の脳髄の中に存じないからである。是(これ)が私の申す、言霊の幸(さきわ)ふ御国(みくに)のあらゆる国言葉の中に、珍しい、有難い価値あることを見出したと申す所のものである。」

 我が国の歴史を概観すると、民の自由はその言葉を強く意識することなく実現されてきたといってよいだろう。

 福沢諭吉が「リベルチ」をどう訳すかで苦労した話は周知の事実である。幕末のころの自由は「我がまま」であり、禅では「自由解脱(げだつ)」など、とらわれない境地の表現だったようである。政治目的のひとつである自由とは違っている。我が国には西洋における自由獲得の歴史などあてはまらない。

 国体の精華という言葉は自由で秩序ある民と国家の歴史というニュアンスがあるといってもよいだろう。いわゆる専制の政(まつりごと)ではない。

 「しろしめす」という妙(たえ)なる天皇統治が今日まで存続していることがそのことを示す事実である。専制の政で建国以来永く存続している国家は見当たらない。価値相対主義者がこれを現状肯定と皮肉っても意味をなさない。

 歴史の事実だと井上毅は考えて、「知らす」という言葉に「有難い価値」を見出したのである。教育の淵源亦(また)実(じつ)に此(ここ)に存す、の「実に此に存す」は「まさしく歴史事実のなかにある」と解釈して間違いではないだろう。


◇4 誤解だらけで無用な解説書ばかり

「知らす」という言葉は支那・西洋の人たちの脳髄になく、それゆえ理解できないというのだから、西洋の学術が隆盛な明治にあってはなかなか理解されなかったこともよく分かる。

 否、今日まで国学は停滞している。「人間宣言異聞」〈 http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/ningensengen.html 〉にも述べたところであるが、未(いま)だに昭和21(1945)年元日の詔書を「人間宣言」と称していることがその証明である。明治後半から枉(ま)げられてきた宣命解釈の訂正が行われていないのが実態である。

 木村匡(ただし)編『森先生伝』に井上毅の皇典講究所における講演が掲載されている。森有礼を語って、じつは井上毅の言葉で、ヨーロッパでは宗旨があって少年の精神を確かむるが故にその結果を得て居るが、我が国の採るべきことでない、「御国の国体、万世一系の一事である。此事(このこと)より外に教育の基とすべきものはない」と述べている。
教育勅語@官報M231031

 また『井上毅伝・史料篇第二』には見落とせない文章がある。

「明治23年10月30日の勅語は日星の義金玉の文にして更に注釈を添ふるが如きは飜(ひるがえっ)て煩涜(はんとく)の恐(おそれ)なしとせず」

 おそらくはほとんどの解説書が無用、というより教育勅語を正しく理解していない、と井上毅は思っていたと考えて無理はない。教科書になる予定のはずが結局、私著として出版されるなど、『勅語衍義』をめぐるさまざまな事実は、その解説に誤りがなければ、存在しないものである。


◇5 良寛禅師の歌が身にしみる

 教育勅語解釈の誤りがなぜ100年以上も正されなかったかは、本当のところは謎である。天覧に供した『勅語衍義』とはいえ、天皇はご不満であり、井上毅は検定不許としたのである。『井上毅伝』は昭和44年までに史料篇第一から第三が出版されている。また、昭和56年に出版された稲田正次の『教育勅語成立史の研究』には、教育勅語の草稿の数々が資料として明らかにされている。

 これだけ資料があってその解釈が正されなかった原因は、やはりほとんどが「しらす」に関する無理解にあると考えてもよいのではないか。あとは教育、とりわけ徳育の淵源についての理解不足だろう。

 教育勅語の誤った解釈は、それ自体訂正されなければならない。この誤りは今日に大きな大きな影響を及ぼしている。とくに我が国の政教問題と徳育問題である。さらには近現代の時代精神の解明にも関連しているだろう。

 このまま放置しては将来においても禍根(かこん)を残すことになる。そして何より明治大帝の御遺徳を誤った解釈で穢(けが)してはならないのである。

 私は放置されてきた教育勅語解釈の誤りを思うにつけ、良寛禅師の次の歌が身にしみるのである。

きぎすなく焼野の小野(をぬ)の古小道(ふるをみち)もとの心を知る人ぞなき


 ☆斎藤吉久注 佐藤雉鳴さんのご了解を得て、佐藤さんのウェブサイト「教育勅語・国家神道・人間宣言」〈 http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/index.html 〉から転載させていただきました。読者の便宜を考え、適宜、編集を加えています。

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「教育勅語」異聞──放置されてきた解釈の誤り by 佐藤雉鳴  第6回 「徳目」論に終始し、本質論が欠けた戦後の論議 [教育勅語]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2010年5月3日)からの転載です


 鳩山首相が7日、徳之島の3人の町長と都内で会談するようです。政府は普天間基地の移設先として徳之島を検討し、他方、町長たちは受け入れ拒否の姿勢を変えていません。

 軍事専門家の高井三郎先生が先週、当メルマガへの寄稿文で指摘したところによれば、徳之島移設では海兵隊の最大の任務である即応力が低下すること、つまり在日アメリカ軍の弱体化は否めません。

 というのも、徳之島は沖縄本島(地上部隊)から200キロ以上離れているからです。配備が検討されているという垂直離着陸機MV22オスプレーは速度が高速ヘリの1.5倍、時速500キロ超あるとはいえ、中国海軍の台頭著しい東シナ海の前線から一歩後退することになるのは間違いありません。

 もともとリアリズムのない鳩山首相に軍事的現実主義を説いても始まりませんが、「基地は不要」と拒絶する沖縄や徳之島の政治家や住民たちに軍事論上の現実的対応を期待することもやはり難しそうです。

 それは地上戦の経験を持つ沖縄だけでなく、日本人全般に軍事問題へのアレルギーが強いからです。戦前の「軍国主義」の歴史を真っ向から否定し、戦後の「平和主義」を手放しで賞賛する、きわめて図式的な観念論から解放されていないからです。


▽1 「軍国主義の元凶」神道への圧迫をやめた占領軍

 今日は憲法記念日です。現行憲法には政教分離主義が規定されていますが、佐藤雉鳴さんが当メルマガの連載で明らかにしているように、実際のところ、戦後の政教分離主義は日本の宗教伝統である神道を圧迫し、一方でキリスト教化を推進するものでした。

 これは政教分離の名に値しない、ほかならぬ憲法の精神に反するものです。

 アメリカは、つまり占領軍は、占領から数年を経ずして、神道圧迫政策をやめています。けれども、独立を回復し、神道指令は失効しているのに、今日なお、ダブル・スタンダードの政教分離政策は続いています。

 なぜアメリカは神道圧迫政策を採るようになったのか、といえば、日米戦争中、アメリカ政府が「国家神道」こそ「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉である、と本気で考えていたからにほかなりませんが、それならなぜ、占領軍は数年を経ずして、簡単に神道圧迫をやめたのか?

 これは占領史最大の謎であると同時に、日本の近代と現代を歴史的に検証する上でぜひとも解き明かさなければならない歴史的テーマです。

 この謎を追究しようと、数十年前にアメリカに渡り、関係者を取材しようとした人物がいます。戦後唯一の神道思想家・葦津珍彦(あしづ・うずひこ)です。しかし目的を果たすことはできませんでした。わずかに残る生存者はお茶を濁すばかりだったのです。謎は謎のままで終わっています。


▽2 日本の多神教文明と異なる戦後体制

 佐藤さんが今号に書いているように、アメリカの神道敵視は宗教政策のみならず、佐藤さんが追究する教育問題など広範囲に影響を与えています。総合的な政策の展開こそ、アメリカが得意とするところです。

 とすると、アメリカは日本の宗教伝統を悪魔視することの誤りに気づきながらも、もはや後戻りすることができなかったものと想像します。神道敵視をやめた理由を聞かれても、関係者は口をつぐむほかなかったでしょう。

 問題は結果として、何が起きたのか、です。

 たとえば教育です。明治に渙発(かんぱつ)された教育勅語は本来、天皇は国民の思想の自由に干渉しないことを第1の原則としていました。ところが、戦後の教育行政は、戦前と同様、この教育勅語の根本精神を理解できずに、つまり、多神教的文明の価値を理解できずに、逆に国民のキリスト教一神教化を進め、多神教文明の歴史を破壊したのです。

 見てください。昭和23年に制定された国立国会図書館法に基づいて設置された国会図書館のカウンターの壁には、「真理はわれらを自由にする」という同法全文の一句が刻まれています。いうまでもなく、聖書の言葉です。

 北海道砂川市の市有地に神社の鳥居や祠があることを問題視するキリスト者たちが血相を変えて訴訟を起こし、マスコミを賑わす反面、国会のお膝元にある国会図書館はその根拠となる法律にキリスト教の言葉が引用されているのに、誰も問題視することがありません。

 戦後日本の宗教政策が一貫性に欠けているだけではありません。現行憲法を中心とする戦後体制はそもそも日本の多神教文明と異質なのです。

 それでは、佐藤雉鳴さんの連載「『教育勅語』異聞──放置されてきた解釈の誤り」の第6回をお届けします。


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「教育勅語」異聞──放置されてきた解釈の誤り by 佐藤雉鳴
第6回 「徳目」論に終始し、本質論が欠けた戦後の論議
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◇1 田中耕太郎は擁護論者ではない
教育勅語@官報M231031

 教育勅語は敗戦の翌年、神聖的な取り扱いが禁止され、2年後には国会が排除・失効確認を決議している。その背後にGHQの存在があることは自明である。

 しかし占領下にあった我が国の、当時の教育勅語に関する話には奇妙なものがある。代表的なものは、文部大臣にもなった田中耕太郎が教育勅語を擁護したとする話である。

 田中耕太郎の著書『教育と政治』(昭和21年3月)の「教育勅語論議」と題する一章に、田中の擁護論が載っている。

「教育勅語には個人道徳、家庭道徳、社会道徳、国家道徳の諸規範が相当網羅(もうら)的に盛られている。それは儒教仏教基督(キリスト)教の倫理とも共通している。『中外に施して悖(もと)らず』とは此(こ)の普遍性の事実を示したものであり、一部国粋主義者の解説したように、日本的原理の世界への拡張ではない。又『一旦(いったん)緩急(かんきゅう)』云々(うんぬん)は好戦的思想を現しているものではなく、其の犠牲奉仕の精神は何時の世にも何(いず)れの社会に於(おい)ても強調せられなければならない。其処(そこ)には謙虚さこそあれ、何等(なんら)軍国主義的過激国家主義的要素も存しない」

 普通に読めば、たしかに教育勅語擁護論である。

 しかし田中耕太郎は、教育改革を進めるGHQに呼応する「米国教育使節団に協力すべき日本側教育委員会」の委員であり、その昭和21(1946)年2月の報告書では6つの意見のうちの第一に「教育勅語に関する意見」があることからすれば、擁護論者ということを簡単に肯定するわけにはいかない事実がある。


◇2 個人が優先される田中の教育論

 意見を要約すると、教育に関する新しい詔書を賜りたいとして、

(1)教育勅語は文体を含め時代に適さざるものになった
(2)生徒教職員等のみならず一般国民にも呼びかけたもうもの
(3)徳目の列挙を避ける
(4)普遍的道徳、個人と人類の価値を認める

 ───とするものであった。

 この意見には、むろん田中耕太郎以外の委員の主張も含まれているだろう。しかし田中耕太郎の一連の行動には彼を擁護論者とすることに反する事実がある。

 教育勅語の記述内容は国家→社会→家族→個人→国家の順であるが、田中耕太郎の優先順位は個人→家族→社会→国家である。これは個人から次第に大きな共同体へと並べただけと解釈するのはいかがなものか?

 田中耕太郎が尽力した教育基本法の第一条(教育の目的)は「人格の完成」であり、個人が優先している。上記の日本側教育委員会の報告書にも個人と人類の価値、というのがある。国家は軽視されていると言われても仕方がないだろう。田中はけっして教育勅語を擁護してはいない。

 また田中は『教育基本法の理論』(昭和35年)では次のように述べているのである。

「要するに人格の完成は、完成された人格の標的なしには考えられない。そうして完成された人格は、経験的人間には求められない。それは結局超人間的世界すなわち宗教に求めるよりほかはないのである」

 政教分離が大きなテーマのひとつだった時代にあって、「人格の完成」ということが新憲法の精神の下で堂々と述べられたことを考えると、当時の政教分離が国家と神道の分離のみを目的としていたことがよく分かる。


◇3 教育勅語を「徳目」と捉えたゆえの擁護論

 人格の完成を宗教に求めるということは同じキリスト者であった南原繁らも支持していたことである。多くの日本人には理解できないものであり、教育基本法により事実上我が国の道徳教育は消滅した。本質的に田中耕太郎は自然法論者であり、教育勅語は歴史法学的立場で書かれている。教育基本法と教育勅語の拠って立つところはまったく別なのである。

 そして田中耕太郎の語った教育勅語は「徳目」である。第二段落のみである。もともと忠孝以下の徳目は擁護云々の話にはならないものである。問題は第一段落と第三段落にある。「肇国の大義」を「中外に施して悖らず」としたところが問題とされたのである。終戦直後の議論では教育勅語の「斯の道」の定義があいまいなまま、「徳目」と捉えた者は排除を語らず、軍国主義・過激なる国家主義と捉えた者はこれを否定したのである。

 竹前栄治『日本占領』にあるGHQ民政局次長であったケーディスの談話によれば、GHQ民政局が田中耕太郎文相に示唆(しさ)して国会で廃止決議をさせたことがあるという。田中文相もこの民政局の示唆について、「それはグッド・アイディア」と言って反対しなかったとある。

 田中耕太郎が文相だったのは、昭和21年5月22日から昭和22年1月31日までである。教育勅語の排除・失効確認決議は昭和23年6月19日であるから、この話は少なくとも排除の約1年半以上前の段階のことだと分かる。

 この間すでに文部省は昭和21年10月8日の通牒ですでに教育勅語の奉読を禁止している。田中耕太郎大臣の時代であった。


◇4 勅語解釈の本質に迫った佐々木惣一

 終戦直後の価値の混乱はやはり異常である。昭和20年9月15日発行の小川菊松『日米会話手帳』が大ベストセラーとなった時代である。幕末から明治初期の英語学校ブームに近く、急激な欧米化は開国後も終戦後も同様である。したがってこの時期の教育勅語論議は、つまるところその存廃をめぐる論議だったと言えるだろう。

 ただ、昭和22年3月19日の第92回帝国議会貴族院本会議における佐々木惣一(そういち)議員の質問は、教育勅語解釈の本質に迫る貴重なものであった。

「一体君主国の君主たる一個人が、人間の道徳に関する、即(すなわ)ち道徳的行動、人間の心術を規定するやうな、さう云(い)ふやうなことが至当であるかどうかと云ふことは、実(じつ)は非常な問題となったことがあるのであります」

 これは井上毅の起草七原則ともいういべきものの、(1)君主は臣民の心の自由に干渉しない、に関する重要な内容である。

「此の問題は今日殆(ほとん)ど何人も忘れて居るが、兎に角(とにかく)さう云ふことが問題となったのでありますが、而(しか)も其の内容は兎に角重大なものとありまして、嘗(かつ)てイギリスからも我が国に於ける教育勅語と云ふものの非常な効果のあったと云ふことを著眼(ちゃくがん)しまして、特に教育勅語の説明をする者を派遣して呉(く)れと云ふ要求があって、確か沢柳政太郎(まさたろう)博士であったかと思ひますが、その方がおいでになって、特に教育勅語のことを説明したと云ふやうなことでありまして、……」

 日露戦争後に欧米で教育勅語の評価が高かったことは先に述べたとおりである。そしてその評価された部分が第二段落であったことも『教育勅語国際関係史の研究』や『金子堅太郎著作集』にあるとおりである。


◇5 終戦直後のもっとも貴重な機会を失った

 しかし佐々木惣一の質問は徳目の内容に触れていない。まさに教育勅語が、(1)君主は臣民の心の自由に干渉しない、に抵触するか否かの話であって、井上毅が金子堅太郎に相談した内容と同じことを質問したのである。

「そこで内容其のものの問題は非常に重要視されて居るが、併(しか)しながら兎に角ああ云ふやうな君主が一個人の自己の道徳観を以て、国民一般の道徳観を律することが出来るかどうかと云ふことは、実に問題であったのであります。それは今日はさう云ふ問題は忘れられて居るが如くなってしまって居るのでありますが、兎に角さう云ふ実は、極(きわ)めて内容とは別の点から申しましても、非常に重要なもんでありまするからして……(後略)」

 結局この段階では教育基本法との関係で教育勅語がどうなるのかという質問になったのであるが、「之を中外に施して悖らず」の誤った解釈を正すまでには至らなかった。

 そして高橋誠一郎大臣は、「個人」「人格の完成」「普遍性」を語り、教育勅語の学校に於ける奉読を廃止し、しかしながら敢えて之を廃止するという考えは存しない、と答えたのである。

 この後、教育勅語は新憲法や民主主義に沿わないものとしてほぼ合意され、佐々木惣一のような議論はなくなっている。

 ここを追及すれば「之を中外に施して悖らず」の「中外」が「国の内外」ではなく、「宮廷の内外」「朝廷と民間」広く言えば「全国民」であり、「之を全国民に示して(教えて)悖ることがない」と正しく解釈できたはずである。終戦直後のもっとも貴重な機会を失ったといえる。

 そして排除・失効確認決議から今日まで、ここを解読した著作は、拙著『繙読(はんどく)「教育勅語」──曲解された二文字「中外」』(ブイツーソリューション)を除き、ひとつも見当たらない。(つづく)

 ☆斎藤吉久注 佐藤さんのご了解を得て、佐藤さんのウェブサイト「教育勅語・国家神道・人間宣言」〈 http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/index.html 〉から転載させていただきました。読者の便宜を考え、適宜、編集を加えています。

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「教育勅語」異聞──放置されてきた解釈の誤り by 佐藤雉鳴  第5回 「斯の道」の評価の変遷 [教育勅語]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2010年4月24日)からの転載です


 今日も、佐藤雉鳴さんの「『教育勅語』異聞──放置されてきた解釈の誤り」をお届けします。

 戦前世代なら誰でも知っている教育勅語は、日本の近代教育の根本であり、道徳を重視するものでした。しかし漢文調で、一度、読んだだけでは簡単には意味が分かりません。
教育勅語@官報M231031

 冒頭には、天皇のお役目は、国民の声なき声を聞き、民意を知って統合することであることが示されています。ところが、この天皇の「徳」は、畏敬する佐藤さんによれば、当時の知識人にはまるで理解できず、教育勅語全体の解釈を誤らせてしまいました。

 それだけではありません。天皇の「徳」と臣民の「忠孝」(五倫五常)は古来、朝廷と民間に固有の道である、とあくまで国民教育の根幹として述べられていたはずなのに、国外および国外において普遍的な道であると誤って解釈されてきたのです。

 そしてやがて、日本の道徳を広めることがあたかも日本の世界史的な使命であるかのように拡大解釈され、誤解は広がりました。

 考えてもみてください。入学式など学校の式典でかならず奉読され、子供たちが頭を垂れて押し戴いたのが教育勅語です。本来の意味とはまったく異なり、日本古来の道徳を世界に広めることを国民的使命とし、学校教育を通じて国民にたたき込まれ、さらに対外戦争で領土が拡大して、新たに日本国民となった異民族にも教えられました。

 とすれば、一神教文明圏からどのような反応がおこるか、想像がつくでしょう。なにしろ唯一なる神の教えを全世界に伝えることを宗教的使命とし、現実に世界支配を進めてきたのがキリスト教世界です。衝突は避けられません。

 思考回路が一神教化した近代日本のインテリたちには天皇の本質が理解できなかった。日本の宗教伝統を体現する神道人たちは朝鮮神宮に天照大神を祀ることや日韓併合に猛反対しましたが、結局、現実を変えることはできず、近代の悲劇は起こりました。

 同様の現象はいまも私たちの目の前で起きています。読者の皆さんはそのことに気がついていますか?

 さて、本文です。


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 「教育勅語」異聞──放置されてきた解釈の誤り by 佐藤雉鳴
  第5回 「斯の道」の評価の変遷
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◇1 「徳目」と理解されていた明治末期から大正期

 教育勅語は渙発(かんぱつ)から排除・失効まで、同じように人々に捉えられていたわけではない。前述のように、海外での高い評価から、最終的には正反対の評価で排除となったのである。その時々でどんな捉え方だったのだろう。

 たとえば、明治38(1905)年春、金子堅太郎がハーバード大学で同窓のセオドア・ルーズベルト大統領から聞かされた話というのがある(『金子堅太郎著作集 第六集』)。

「日本国民の如く忠愛にして、高尚優美なる、而(しか)して剛胆なる人類は古来世界にない。共和国には天皇なし、故(ゆえ)に米国国旗を持て天皇に代ゆれば、日本の教育は悉(ことごと)く取って米国民の倫理教育とする事が出きる」

 また、明治40年には菊池大麓がロンドン大学で講演を行っている。そして金子もルーズベルトも菊池も、教育勅語を「徳目」が述べられたものとして把握していたのである。リップサービスとはいえ米国大統領が「日本の教育は悉く取って米国民の倫理教育とする事が出きる」と評価したその内容も、つまり徳目のみだったのである。

 大正9(1920)年は教育勅語発布30年の節目の年で、記念の集まりが東京府豊島師範学校(東京学芸大学の前身の1つ)で開催されている。『杉浦重剛座談録』にはそこで杉浦重剛の演説した内容が記されている。

 ブラジル帰りの松田某なる者から聞いた話として、要約すると、同行の書生が彼(か)の地で正直そのものの振舞をして宿屋の主人に見込まれたという話である。そして「此の通り、之を中外に施して悖(もと)らぬ実例があるのだといふやうなことを話した」とある。

 しかしこれは、前述した「中外」の誤解が生んだ話としか思えない。かつて教育勅語渙発の契機のひとつとなった地方長官会議の内容を見ても、海外旅行や海外留学、あるいは海外赴任の際の心得や振舞いについて勅語を望んだとはどの角度から見ても考えられないからである。


◇2 意義に変化が生じた大正期

 注目すべきは和辻哲郎である。彼は大正8年1月の「危険思想を排す」(『和辻哲郎全集 第22巻』において次のような文章を書いている。

「『皇国ノ道』とは教育勅語の『斯ノ道』であるという公式解釈は、一見には従来の教育勅語との連続性をもつもののように見えるが、そこには『斯ノ道』の解釈の変更による従来の解釈からの飛躍が根底に存在するのである。(中略)些細(ささい)に見える指示語の範囲の変更が周到に用意されることで、『皇国ノ道』は膨張する総力戦体制下の新しい指標たり得たのである」

 和辻哲郎も、教育勅語の道徳は古今中外を通ずるところの普遍的に妥当なもの、との認識であった。しかし上記の内容は教育勅語の意義について変化が生じていることを示している。

 そして徳富蘇峰(そほう)は「大正の青年と帝国の前途」においてもう少し具体的に語っている。

「折角の教育勅語も、之を帝国的に奉承(ほうしょう)せずして、之を皇政復古、世界対立の維新改革の大精神に繋(つな)がずして……(中略)……大和(やまと)民族を世界に膨張せしむる、急先鋒の志士は、却(かえっ)て寥々(りょうりょう)世に聞ゆるなきが如(しか)かりしは、寧(むし)ろ甚大の恨事(こんじ)と云(い)はずして何ぞや」


◇3 異民族統治の技術論にとどまる

 歴史をさかのぼれば、下関講和条約が明治28年、教育勅語渙発の5年後に締結された。そして台湾は我が国の統治下となり、さらには明治43年に日韓併合となっている。これらの時代を経て、大正期には和辻哲郎や徳富蘇峰に代表されるような教育勅語の捉え方が発表されていたのである。そして朝鮮国民の教育について、「先祖の遺風」という言葉などは民族を異にする朝鮮人には理解し難いというような議論が起きたのである。

 「之を古今に通じて謬(あやま)らず、之を中外に施して悖らず、と教育勅語にあって、我(わが)国固有の道は普遍的なものである」と述べていた識者たちである。ここに矛盾が生じてきたのは当然であった。明治天皇から現今の教育勅語を賜(たまわ)ったころには、幾多(いくた)の民族を所有しては居なかった、として修正さるべきである、と井上哲次郎などは語ったのである。

 台北師範学校『教育勅語ニ関スル調査概要』(『続・現代史資料10』)には上記のような矛盾に対してさまざまな意見のあったことが記されている。

 なかでも「別に新たなる勅語を要すといふは、教育勅語の『古今に通じて謬らず中外に施して悖らず』に背馳するものにして、教育勅語は謬らず悖らざるものにあらずと説くものなり」は、代表的な意見のひとつである。

 しかし、これらの議論はいわば統治技術の範囲内にあって、教育の淵源(えんげん)そのものについての議論にはならずじまいであったとみて良いのではないか。議論が深まっていれば、『徳』や『中外』の誤った解釈が訂正されていただろうからである。」


◇4 第1、第3段落が強調される昭和初期から終戦まで

 先に述べたように昭和5年は教育勅語渙発40周年である。この年に記念出版されたなかでとくに特徴的なものは、田中智学の『明治天皇勅教物がたり』である。第二段落の徳目よりも第一段落と第三段落の解説に力点が置かれているのである。

 「八紘一宇」の語そのものは用いていないが、神武天皇・天業恢弘(かいこう)東征の詔(みことのり)から、「積慶(せきけい)」「重暉(ちょうき)」「養正(ようせい)」の三大綱などが解説されている。

「既(すで)に、皇祖皇宗の御遺訓たる斯道は、その儘(まま)「天地の公道」「世界の正義」で、決して日本一国の私の道でない。ト(と)いふ義は、元来日本建国の目的が、広く人類全体の絶対平和を築かうために、その基準たる三大綱に依(よ)って『国ヲ肇(はじ)メ徳ヲ樹テ』られたのである。……(中略)……此(この)三大綱は、建国の基準、国体の原則であって、彼の自由平等博愛などより、もっと根元的で公明正大な世界的大真理である」

 明治期には主に第二段落の徳目が語られた教育勅語であったが、大正から昭和初期には第一段落と第三段落が強調されてくるのである。

 そして昭和初期から終戦までは「斯の道」は「皇道」となったのである。


◇5 「徳目」から「皇国の道」「世界史的使命」に変化

 そのことは以下のような文献に明らかである。

◎「昭和維新論」東亜聯盟同志会

「皇国日本の国体は世界の霊妙(れいみょう)不思議として悠古の古(いにしえ)より厳乎(げんこ)として存在したものであり、万邦にその比を絶する独自唯一の存在である。中外に施して悖らざる天地の公道たる皇道すなわち王道は、畏(かしこ)くも歴代祖宗によって厳として御伝持遊ばされ、歴世相承(あいう)けて今日に至った」

◎「大義」杉本五郎

「これ古今に通じて謬らず、中外に施して悖らざる『養正』の道義をもってする世界維新の大皇謨(こうぼ)、天皇親帥(しんすい)の下(もと)大和民族の大進軍なり」

◎「国体の本義」文部省

「国民は、国家の大本としての不易(ふえき)な国体と、古今に一貫し中外に施して悖らざる皇国の道とによって、維(こ)れ新たなる日本を益々(ますます)生成発展せしめ、以て彌々(いよいよ)天壌無窮の皇道を扶翼(ふよく)し奉(たてまつ)らねばならぬ。これ、我等(われら)国民の使命である」

◎「国民学校令」第一条(昭和16年)

「国民学校は皇国の道に則(のっと)りて初等普通教育を施し国民の基礎的練成を為(な)すを以(もっ)て目的とす」

 「皇国の道」はやはり教育勅語を基とするものであり、例えば朝鮮総督府令第90号の第4条・第6条(昭和16年)には次のような文章がある。

「国民科修身は教育に関する勅語の旨趣(ししゅ)に基(もとづ)きて国民道徳の実践を指導し、忠良なる皇国臣民たるの徳性を養(やしな)ひ、皇国の道義的使命を自覚せしむるものとす。国運の隆昌(りゅうしょう)文化の発展が肇国(ちょうこく)の精神の顕現(けんげん)なる所以(ゆえん)を会得(えとく)せしむると共に、諸外国との歴史的関係を明(あきらか)にして東亜及世界に於ける皇国の使命を自覚せしむべし」

 このころ強調された教育勅語は、「之を中外に施して悖らず」の「之」=「斯の道」が「徳目」から「皇国の道」となり、「肇国の精神の顕現」から我が国の「世界史的使命」となったのである。一言でいうとまさに「皇運(こううん)扶翼」である。

 「之を中外に施して悖らず」の「中外」が正しく「宮廷の内と外」「朝廷と民間」の意に解釈されていたなら、教育勅語を基にした「世界史的使命」は語られていたかどうか?

 そしてここに至るまでには信じがたい痛恨の協議会も、文部省によって開催されていた記録が残されている。


◇6 議論を封じ込めた和辻哲郎

 昭和14年10月、文部省は教学に関する聖訓の述義について、教科書編纂(へんさん)の参考に供(きょう)するため、「聖訓の述義に関する協議会」を開催した。協議会は7回に及び、おおむね第5回から最終第7回までが教育勅語に関する会議である(『続・現代史資料9』)。

 この報告書は「秘」扱いとなっているが、当時の要人たちの教育勅語観がよく分かる。

 林博太郎会長を筆頭に、委員は和辻哲郎・久松潜一・吉田熊次・諸橋徹次・山田孝雄(よしお)・紀平正美(きひら・ただよし)・近藤寿治(ひさじ)・宇野哲人(てつと)ら20名、幹事・書記は倉野憲司ら9名であった。そして決定事項は「教育に関する勅語の全文解釈」「勅語の語義釈義」「勅語の述義につき主なる問題に関する決定事項」である。

 和辻哲郎は議論を封じ込めるような発言を行っている。

 つまり、皇祖皇宗の遺訓は「父母に孝に」以下の御訓の部分であり、すべて忠の内容をなすものでこれが「斯の道」、人倫の道であると語り、元来これまでの文部省の解釈は数十年間大した反対もなく行われて来たものであり、それに今変更を加えるにはよほど重要な理由がなくてはならぬ、と述べている。またそういう理由が見つかったとすれば、在来のごとき解釈を立てていた文部省の責任が問われなくてはならぬと思う、と述べ、ここで聞いた意見のなかにはとくに解釈を変えねばならぬ理由として納得できるものはなかった、というのである。

 結局、「語義釈義」では「斯の道」は皇国の道であって、直接には「父母に孝に」以下、「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」までを指す、であり、「中外」は「我が国及び外国」とされたのである。教育勅語の第二段落の部分である。基本的には井上哲次郎の『勅語衍義(えんぎ)』と同じである。

 紀平正美などは「斯の道」が全文をうけるとしたいと述べ、今まで狭く解していたから、天壌無窮の神勅も「斯の道」に入らないことになる、と主張したがそれまでだった。


◇7 不毛な議論にとどまった

 天皇統治の本質である「しらす」について井上毅が憲法第一条にその意味を入れるのに苦心した話も出てはいるが、反応はない。したがって第一段落の「徳」に関する議論もなければ「中外」にも何の疑問も出されていない。ただ皇運扶翼と「中外に施して悖らず」との矛盾は感じられたと見えて、結論のない奇妙な議論が行われている。

 そして全体として『勅語衍義』や重野安繹(やすつぐ)・末松謙澄(けんちょう)あるいは今泉定助(さだすけ)らの解説書に拘束されて、明治天皇と井上毅・元田永孚の思いに至らなかったのが教育勅語解釈の実態だったのである。

 「徳」と「中外」の解釈に誤りをただせなかった協議会であるから、その議事要録の内容はまったく不毛で謬見(びゅうけん)に満ちている。当時のわが国最高レベルの知識人とはいえ、官定解釈とも公定註釈書とも言われた『勅語衍義』を見直すこともなく、最終的には「みな皇運扶翼に帰一せしめるように」述義していただきたい、と締め括(くく)られたのである。(つづく)


 ☆斎藤吉久注 佐藤さんのご了解を得て、佐藤さんのウェブサイト「教育勅語・国家神道・人間宣言」〈 http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/index.html 〉から転載させていただきました。読者の便宜を考え、適宜、編集を加えています。

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「教育勅語」異聞──放置されてきた解釈の誤り by 佐藤雉鳴  第5回 「斯の道」の評価の変遷 [教育勅語]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2010年4月23日)からの転載です


 今日も、佐藤雉鳴さんの「『教育勅語』異聞──放置されてきた解釈の誤り」をお届けします。

 戦前世代なら誰でも知っている教育勅語は、日本の近代教育の根本であり、道徳を重視するものでした。しかし漢文調で、一度、読んだだけでは簡単には意味が分かりません。

 冒頭には、天皇のお役目は、国民の声なき声を聞き、民意を知って統合することであることが示されています。ところが、この天皇の「徳」は、畏敬する佐藤さんによれば、当時の知識人にはまるで理解できず、教育勅語全体の解釈を誤らせてしまいました。

 それだけではありません。天皇の「徳」と臣民の「忠孝」(五倫五常)は古来、朝廷と民間に固有の道である、とあくまで国民教育の根幹として述べられていたはずなのに、国外および国外において普遍的な道であると誤って解釈されてきたのです。

 そしてやがて、日本の道徳を広めることがあたかも日本の世界史的な使命であるかのように拡大解釈され、誤解は広がりました。

 考えてもみてください。入学式など学校の式典でかならず奉読され、子供たちが頭を垂れて押し戴いたのが教育勅語です。本来の意味とはまったく異なり、日本古来の道徳を世界に広めることを国民的使命とし、学校教育を通じて国民にたたき込まれ、さらに対外戦争で領土が拡大して、新たに日本国民となった異民族にも教えられました。

 とすれば、一神教文明圏からどのような反応がおこるか、想像がつくでしょう。なにしろ唯一なる神の教えを全世界に伝えることを宗教的使命とし、現実に世界支配を進めてきたのがキリスト教世界です。衝突は避けられません。

 思考回路が一神教化した近代日本のインテリたちには天皇の本質が理解できなかった。日本の宗教伝統を体現する神道人たちは朝鮮神宮に天照大神を祀ることや日韓併合に猛反対しましたが、結局、現実を変えることはできず、近代の悲劇は起こりました。

 同様の現象はいまも私たちの目の前で起きています。読者の皆さんはそのことに気がついていますか?

 さて、本文です。


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 「教育勅語」異聞──放置されてきた解釈の誤り by 佐藤雉鳴
  第5回 「斯の道」の評価の変遷
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◇1 「徳目」と理解されていた明治末期から大正期

 教育勅語は渙発(かんぱつ)から排除・失効まで、同じように人々に捉えられていたわけではない。前述のように、海外での高い評価から、最終的には正反対の評価で排除となったのである。その時々でどんな捉え方だったのだろう。
教育勅語@官報M231031
 たとえば、明治38(1905)年春、金子堅太郎がハーバード大学で同窓のセオドア・ルーズベルト大統領から聞かされた話というのがある(『金子堅太郎著作集 第六集』)。

「日本国民の如く忠愛にして、高尚優美なる、而(しか)して剛胆なる人類は古来世界にない。共和国には天皇なし、故(ゆえ)に米国国旗を持て天皇に代ゆれば、日本の教育は悉(ことごと)く取って米国民の倫理教育とする事が出きる」

 また、明治40年には菊池大麓がロンドン大学で講演を行っている。そして金子もルーズベルトも菊池も、教育勅語を「徳目」が述べられたものとして把握していたのである。リップサービスとはいえ米国大統領が「日本の教育は悉く取って米国民の倫理教育とする事が出きる」と評価したその内容も、つまり徳目のみだったのである。

 大正9(1920)年は教育勅語発布30年の節目の年で、記念の集まりが東京府豊島師範学校(東京学芸大学の前身の1つ)で開催されている。『杉浦重剛座談録』にはそこで杉浦重剛の演説した内容が記されている。

 ブラジル帰りの松田某なる者から聞いた話として、要約すると、同行の書生が彼(か)の地で正直そのものの振舞をして宿屋の主人に見込まれたという話である。そして「此の通り、之を中外に施して悖(もと)らぬ実例があるのだといふやうなことを話した」とある。

 しかしこれは、前述した「中外」の誤解が生んだ話としか思えない。かつて教育勅語渙発の契機のひとつとなった地方長官会議の内容を見ても、海外旅行や海外留学、あるいは海外赴任の際の心得や振舞いについて勅語を望んだとはどの角度から見ても考えられないからである。


◇2 意義に変化が生じた大正期

 注目すべきは和辻哲郎である。彼は大正8年1月の「危険思想を排す」(『和辻哲郎全集 第22巻』において次のような文章を書いている。

「『皇国ノ道』とは教育勅語の『斯ノ道』であるという公式解釈は、一見には従来の教育勅語との連続性をもつもののように見えるが、そこには『斯ノ道』の解釈の変更による従来の解釈からの飛躍が根底に存在するのである。(中略)些細(ささい)に見える指示語の範囲の変更が周到に用意されることで、『皇国ノ道』は膨張する総力戦体制下の新しい指標たり得たのである」

 和辻哲郎も、教育勅語の道徳は古今中外を通ずるところの普遍的に妥当なもの、との認識であった。しかし上記の内容は教育勅語の意義について変化が生じていることを示している。

 そして徳富蘇峰(そほう)は「大正の青年と帝国の前途」においてもう少し具体的に語っている。

「折角の教育勅語も、之を帝国的に奉承(ほうしょう)せずして、之を皇政復古、世界対立の維新改革の大精神に繋(つな)がずして……(中略)……大和(やまと)民族を世界に膨張せしむる、急先鋒の志士は、却(かえっ)て寥々(りょうりょう)世に聞ゆるなきが如(しか)かりしは、寧(むし)ろ甚大の恨事(こんじ)と云(い)はずして何ぞや」


◇3 異民族統治の技術論にとどまる

 歴史をさかのぼれば、下関講和条約が明治28年、教育勅語渙発の5年後に締結された。そして台湾は我が国の統治下となり、さらには明治43年に日韓併合となっている。これらの時代を経て、大正期には和辻哲郎や徳富蘇峰に代表されるような教育勅語の捉え方が発表されていたのである。そして朝鮮国民の教育について、「先祖の遺風」という言葉などは民族を異にする朝鮮人には理解し難いというような議論が起きたのである。

 「之を古今に通じて謬(あやま)らず、之を中外に施して悖らず、と教育勅語にあって、我(わが)国固有の道は普遍的なものである」と述べていた識者たちである。ここに矛盾が生じてきたのは当然であった。明治天皇から現今の教育勅語を賜(たまわ)ったころには、幾多(いくた)の民族を所有しては居なかった、として修正さるべきである、と井上哲次郎などは語ったのである。

 台北師範学校『教育勅語ニ関スル調査概要』(『続・現代史資料10』)には上記のような矛盾に対してさまざまな意見のあったことが記されている。

 なかでも「別に新たなる勅語を要すといふは、教育勅語の『古今に通じて謬らず中外に施して悖らず』に背馳するものにして、教育勅語は謬らず悖らざるものにあらずと説くものなり」は、代表的な意見のひとつである。

 しかし、これらの議論はいわば統治技術の範囲内にあって、教育の淵源(えんげん)そのものについての議論にはならずじまいであったとみて良いのではないか。議論が深まっていれば、『徳』や『中外』の誤った解釈が訂正されていただろうからである。」(斎藤注記。どこまでが引用で、どこが説明なのか、分かりづらいです。)


◇4 第1、第3段落が強調される昭和初期から終戦まで

 先に述べたように昭和5年は教育勅語渙発40周年である。この年に記念出版されたなかでとくに特徴的なものは、田中智学の『明治天皇勅教物がたり』である。第二段落の徳目よりも第一段落と第三段落の解説に力点が置かれているのである。

 「八紘一宇」の語そのものは用いていないが、神武天皇・天業恢弘(かいこう)東征の詔(みことのり)から、「積慶(せきけい)」「重暉(ちょうき)」「養正(ようせい)」の三大綱などが解説されている。

「既(すで)に、皇祖皇宗の御遺訓たる斯道は、その儘(まま)「天地の公道」「世界の正義」で、決して日本一国の私の道でない。ト(と)いふ義は、元来日本建国の目的が、広く人類全体の絶対平和を築かうために、その基準たる三大綱に依(よ)って『国ヲ肇(はじ)メ徳ヲ樹テ』られたのである。……(中略)……此(この)三大綱は、建国の基準、国体の原則であって、彼の自由平等博愛などより、もっと根元的で公明正大な世界的大真理である」

 明治期には主に第二段落の徳目が語られた教育勅語であったが、大正から昭和初期には第一段落と第三段落が強調されてくるのである。

 そして昭和初期から終戦までは「斯の道」は「皇道」となったのである。


◇5 「徳目」から「皇国の道」「世界史的使命」に変化

 そのことは以下のような文献に明らかである。

◎「昭和維新論」東亜聯盟同志会

「皇国日本の国体は世界の霊妙(れいみょう)不思議として悠古の古(いにしえ)より厳乎(げんこ)として存在したものであり、万邦にその比を絶する独自唯一の存在である。中外に施して悖らざる天地の公道たる皇道すなわち王道は、畏(かしこ)くも歴代祖宗によって厳として御伝持遊ばされ、歴世相承(あいう)けて今日に至った」

◎「大義」杉本五郎

「これ古今に通じて謬らず、中外に施して悖らざる『養正』の道義をもってする世界維新の大皇謨(こうぼ)、天皇親帥(しんすい)の下(もと)大和民族の大進軍なり」

◎「国体の本義」文部省

「国民は、国家の大本としての不易(ふえき)な国体と、古今に一貫し中外に施して悖らざる皇国の道とによって、維(こ)れ新たなる日本を益々(ますます)生成発展せしめ、以て彌々(いよいよ)天壌無窮の皇道を扶翼(ふよく)し奉(たてまつ)らねばならぬ。これ、我等(われら)国民の使命である」

◎「国民学校令」第一条(昭和16年)

「国民学校は皇国の道に則(のっと)りて初等普通教育を施し国民の基礎的練成を為(な)すを以(もっ)て目的とす」

 「皇国の道」はやはり教育勅語を基とするものであり、例えば朝鮮総督府令第90号の第4条・第6条(昭和16年)には次のような文章がある。

「国民科修身は教育に関する勅語の旨趣(ししゅ)に基(もとづ)きて国民道徳の実践を指導し、忠良なる皇国臣民たるの徳性を養(やしな)ひ、皇国の道義的使命を自覚せしむるものとす。国運の隆昌(りゅうしょう)文化の発展が肇国(ちょうこく)の精神の顕現(けんげん)なる所以(ゆえん)を会得(えとく)せしむると共に、諸外国との歴史的関係を明(あきらか)にして東亜及世界に於ける皇国の使命を自覚せしむべし」

 このころ強調された教育勅語は、「之を中外に施して悖らず」の「之」=「斯の道」が「徳目」から「皇国の道」となり、「肇国の精神の顕現」から我が国の「世界史的使命」となったのである。一言でいうとまさに「皇運(こううん)扶翼」である。

 「之を中外に施して悖らず」の「中外」が正しく「宮廷の内と外」「朝廷と民間」の意に解釈されていたなら、教育勅語を基にした「世界史的使命」は語られていたかどうか?

 そしてここに至るまでには信じがたい痛恨の協議会も、文部省によって開催されていた記録が残されている。


◇6 議論を封じ込めた和辻哲郎

 昭和14年10月、文部省は教学に関する聖訓の述義について、教科書編纂(へんさん)の参考に供(きょう)するため、「聖訓の述義に関する協議会」を開催した。協議会は7回に及び、おおむね第5回から最終第7回までが教育勅語に関する会議である(『続・現代史資料9』)。

 この報告書は「秘」扱いとなっているが、当時の要人たちの教育勅語観がよく分かる。

 林博太郎会長を筆頭に、委員は和辻哲郎・久松潜一・吉田熊次・諸橋徹次・山田孝雄(よしお)・紀平正美(きひら・ただよし)・近藤寿治(ひさじ)・宇野哲人(てつと)ら20名、幹事・書記は倉野憲司ら9名であった。そして決定事項は「教育に関する勅語の全文解釈」「勅語の語義釈義」「勅語の述義につき主なる問題に関する決定事項」である。

 和辻哲郎は議論を封じ込めるような発言を行っている。

 つまり、皇祖皇宗の遺訓は「父母に孝に」以下の御訓の部分であり、すべて忠の内容をなすものでこれが「斯の道」、人倫の道であると語り、元来これまでの文部省の解釈は数十年間大した反対もなく行われて来たものであり、それに今変更を加えるにはよほど重要な理由がなくてはならぬ、と述べている。またそういう理由が見つかったとすれば、在来のごとき解釈を立てていた文部省の責任が問われなくてはならぬと思う、と述べ、ここで聞いた意見のなかにはとくに解釈を変えねばならぬ理由として納得できるものはなかった、というのである。

 結局、「語義釈義」では「斯の道」は皇国の道であって、直接には「父母に孝に」以下、「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」までを指す、であり、「中外」は「我が国及び外国」とされたのである。教育勅語の第二段落の部分である。基本的には井上哲次郎の『勅語衍義(えんぎ)』と同じである。

 紀平正美などは「斯の道」が全文をうけるとしたいと述べ、今まで狭く解していたから、天壌無窮の神勅も「斯の道」に入らないことになる、と主張したがそれまでだった。


◇7 不毛な議論にとどまった

 天皇統治の本質である「しらす」について井上毅が憲法第一条にその意味を入れるのに苦心した話も出てはいるが、反応はない。したがって第一段落の「徳」に関する議論もなければ「中外」にも何の疑問も出されていない。ただ皇運扶翼と「中外に施して悖らず」との矛盾は感じられたと見えて、結論のない奇妙な議論が行われている。

 そして全体として『勅語衍義』や重野安繹(やすつぐ)・末松謙澄(けんちょう)あるいは今泉定助(さだすけ)らの解説書に拘束されて、明治天皇と井上毅・元田永孚の思いに至らなかったのが教育勅語解釈の実態だったのである。

 「徳」と「中外」の解釈に誤りをただせなかった協議会であるから、その議事要録の内容はまったく不毛で謬見(びゅうけん)に満ちている。当時のわが国最高レベルの知識人とはいえ、官定解釈とも公定註釈書とも言われた『勅語衍義』を見直すこともなく、最終的には「みな皇運扶翼に帰一せしめるように」述義していただきたい、と締め括(くく)られたのである。(つづく)


 ☆斎藤吉久注 佐藤雉鳴さんのご了解を得て、佐藤さんのウェブサイト「教育勅語・国家神道・人間宣言」〈 http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/index.html 〉から転載させていただきました。読者の便宜を考え、適宜、編集を加えています。

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