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新嘗祭=「国民統合の儀礼」が理解されない理由 [宮中祭祀]


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新嘗祭=「国民統合の儀礼」が理解されない理由
(令和4年11月23日、新嘗祭)
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今日は新嘗祭だが、生憎の雨である。予報では、都心では土砂降り。夜は10度近くまで気温が下がり、5メートル前後の北風が吹く。宮中新嘗祭が行われる神嘉殿には暖房はない。陛下をはじめ、関係者のご苦労はいかばかりかと拝察される。

さて、前回まで、宮中新嘗祭の粟の御飯を再現する実験を繰り返し、それによって分かったことを書いてきた。台湾先住民の粟の祭祀との比較から、天皇の「米と粟の祭祀」が「国民統合の儀礼」であることを再確認することにもなった。

そして、新たな疑問がいくつか浮かび上がってきたのであった。

ひとつは、民間における「米の新嘗祭」が五穀豊穣を祈る収穫儀礼であるとしても、なぜ天皇の「米と粟の新嘗祭」が、収穫儀礼というような位置づけしかされないのかである。

平成の大嘗祭のとき、宮内庁による記録は、大嘗祭について、次のようにまとめている。政府・内閣官房の解説も大同小異である。
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「稲作農業を中心としたわが国の社会に、古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたものであり、天皇陛下が即位の後、はじめて、大嘗宮において、悠紀主基両地方の斎田から収穫した新穀を、皇祖および天神地祇にお供えになって、みずからもお召し上がりになり、皇祖および天神地祇に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式」

令和の大嘗祭も、この解釈が踏襲されたが、ここには「粟」はない。だから、「国家・国民のために祈念」という説明にとどまり、「国民統合の祈り」であるというところに考えが及ばないでいる。宗教的ルーツの儀礼であり、国家儀礼であるという理解には遠い。だから、政教分離問題にも発展するのである。

皇位継承直後に行われる天皇一世一度の新嘗祭が大嘗祭だから、毎秋の新嘗祭も、政教分離問題がつきまとうことになる。

第一の疑問は、なぜ「粟」の存在を無視するのかである。それどころか、「粟の新嘗祭」は宮中以外にほとんど存在しない。『常陸国風土記』に記されているように、かつては地方には「粟の新嘗」があったはずなのに、いまではほとんど聞かない。なぜなのか。いつ、どのようにして、消えたのか、である。

神社の神紋や社殿の意匠に「粟」が使われていることからすると、「粟の新嘗」が民間に「あった」ことは間違いないはずなのに、神社関係者でさえ、「新嘗祭は稲の祭り」と信じ込んでいる。いつからそういう理解に固まるようになったのだろうか。

各地に「粟」とつく地名があるのに、米など穫れないはずの山間地域でさえ、「稲の祭り」になってしまったのは、いつのころのことなのか。なぜなのか。

「粟」が消えたのは、もともと「米」とは対立していた、「粟」を主食とする「粟」の文化圏が消えてしまったということである。「粟」の食文化が「米」の食文化に駆逐されたということだろう。

せめて神社の祭りに「粟」が残されていれば、と願うのだが、無い物ねだりになっている。「米」ならいざ知らず、「粟」について語る神社関係者を私はほとんど知らない。

記紀神話には稲作起源説話がふたつあり、五穀誕生の物語では、米と粟は同列に扱われている。他方、斎庭の稲穂の神勅は「米」オンリーである。つまり、今日では後者ばかりが語られることになっている。

つまり、天照大神の神勅が席巻することになったということである。天照大神以前の多神教的世界が忘れられ、一神教的な神道世界が構築され、その結果、「粟」が消えていったということではないだろうか。

なぜそんなことが起きたのか。誰がそうしたのか、というと、私の脳裏にひとりの人物が浮かび上がる。本居宣長である。『直毘霊』の冒頭は「日本は天照大神がお生まれになった国だ」という一節で始まる。

大胆にいえば、宣長の一神教的解釈は、日本が欧米キリスト教世界と渡り合い、近代化を推進していく大きなエネルギーになったと肯定的に解釈される反面、多神教的世界が失われる原因を作ったとはいえないだろうか。

一神教的神道理解は戦前の文部省の『国体の本義』にも描かれ、戦時中はキリスト教世界との抜き差しならない対立の構図を作ったことは、戦時中、アメリカ陸軍省が作製したプロパガンダ映画を見ればよく分かる。アメリカが考える「軍国主義・超国家主義」の背後には一神教的神道理解がある。

未曾有の敗戦・占領を経てもなお、日本人は宣長的な一神教的神道理解を克服できないでいるのではないか。多神教的神道理解こそ神道本来の世界であるはずなのに。陛下が「米と粟の祭り」をなさることの重要さがますます身に染みるのである。

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宮中新嘗祭が「米と粟の祭り」である理由 [宮中祭祀]


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宮中新嘗祭が「米と粟の祭り」である理由
(令和4年11月20日、日曜日)
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台湾総督府のパイワン族リポートを読んで、もっとも衝撃的で、なおかつ得心したのは、粟を神聖視するパイワン族が稲作を禁忌していることだった。首狩の習俗を持つ台湾先住民にとって、米は文字通り、敵対する敵の作物なのである。

そのことはいまの日本人には理解が難しい。農家が田んぼも畑も作るのがふつうだと考えるからである。けれども、かつてはそうではなかっただろう。ヤマとサトは別の文化圏であり、粟と米はそれぞれを象徴する主要作物だったに違いない。ここが重要である。

つまり、なぜ日本の天皇は、祭りをもって第一のお務めとされ、もともと文化圏が異なる米と粟を神前に捧げ、直会なさるのか、である。

いや逆に、天皇というお立場だからこそ、米と粟の神事をなさるのではないか。つまり、天皇が衣食住や信仰、文化の異なるさまざまな民たちをまとめ上げる国民統合のお役目を一身に担っているからであり、であればこそ米と粟による新嘗の神事が「皇室第一の重儀」と位置付けられるのではないかと理解され、あらためて得心するのである。

神嘉殿の新嘗祭でもっとも重視されるのは、いうまでもなく、神饌行立、神饌御親供である。米と粟がそれぞれ甑で蒸され、ひとつの御飯筥に並んで納められ、天皇は御飯(おんいい)を竹折箸を用いて、手づから供饌される。天皇がなさる、天皇にしかできない祭祀の重要さはここにあるということだろう。だから、秘儀とされる。

パイワン族にとっては粟オンリーであり、稲作民にとっては米オンリーである。つまり、ふつう民の立場では「米or粟」だが、天皇にとっては「米and粟」なのである。だとすれば、神饌の調理法も供饌の方法も同じでなければならない。

パイワン族の場合、粟の祭祀に用いられるのは粟餅である。日本でも、たとえば『常陸国風土記』に登場する粟の新嘗は粟餅が神に捧げられていたのかもしれない。今回、私の実験でも、蒸し上がっておにぎりにして食べるより、すりこぎで餅についた方がはるかに美味しく感じられた。

しかし宮中新嘗祭では、延喜式以来、いまは甑で蒸しただけの粟の御飯(おんいい)である。なぜなのか、その調理法はおそらく米の御飯と同等・同格に捧げられる必要性に発したものだろう。神饌は人間の食べ物ではなく、神の食べ物だからである。味は無関係だ。

粟の御飯はその昔はもち粟100%が用いられたのかもしれない。米の御飯もまたもち米100%だったのではないか。だとすれば、甑で蒸すという調理法こそふさわしい。

しかしいまは米も粟もうるち種が混ぜ合わされる。新嘗祭のために献納される米や粟がもち種とは限らないからだ。いやむしろ、うるち種の方が多いのだろう。米はまだしも、粟だとうるち粟だけなら、ポロポロになってしまう。
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地方から献納されることの意義は最大限、優先されなければならない。だが、ポロポロでは祭祀が成り立たない。ポロポロ感を抑えるためには、逆に、献納されたうるち種にもち種をあとから加えることになるが、それでも限界があるのだろう。

実際、宮内庁掌典職OBの証言によれば、粟の御飯を供饌される際、竹折箸では扱いにくいため、陛下がたいへん苦労されるらしい。私の実験でもそのことは容易に想像された。けれどもそれは米の御飯と粟の御飯を同列に扱うことの結果である。

米の御飯と粟の御飯は、皇祖神ほか天神地祇に捧げられる、あくまで神饌として、同等に扱わなければならない。つまり、天皇は一視同仁、米の民と粟の民を同等に思し召され、この国を統治されるという、もっとも重要な天皇の精神がここに凝縮されているのである。

パイワン族は粟を神聖視し、米作は禁忌され、敵視された。けれども、天皇無敵なるゆえに天皇は米と粟をひとしく神々に捧げられる。だとすれば、新嘗祭・大嘗祭は「稲の祭り」ではなく、「米と粟の祭り」でなければならない。

最後に蛇足ながら、パイワン族の祭祀では粟の酒と粟の餅が捧げられる。宮中新嘗祭の酒、すなわち白酒・黒酒は両方とも米が原料だが、延喜式で現在の製法が確立される以前は、もしかすると米と粟だったのではなかろうか。

それにしてもである。いまの日本では粟の酒はない。粟の祭祀も宮中以外にはほとんど見出せない。どこへ消えてしまったのだろう。なぜ消えたのだろう。

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台湾総督府が記録する台湾先住民パイワン族の粟の祭祀 [宮中祭祀]

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台湾総督府が記録する台湾先住民パイワン族の粟の祭祀
(令和4年11月18日、金曜日)
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台湾の先住民が粟を食べ、粟の祭祀を行っているというリポートがある。大正期に台湾総督府蕃族調査会が取りまとめた『蕃族(番族)調査報告書』シリーズで、第5巻にパイワン族のことが書かれている。宗教的分野でもっとも進んでいる先住民と説明されている。

国会図書館のデジタルコレクションで、誰でも、好きなときに読むことができるので、一読をお勧めしたい。
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リポートによると、パイワン族の食生活は、主食物は芋やサツマイモで、粟、稗、米がこれに次ぐという。

ただし、一部の部族は米を食用とするのに、ほかでは古来、これを禁忌してきたとある。米を耕作することを禁忌し、禁を犯せば、粟神の怒りに触れ、粟の不作を招くと信じられた。米作の禁が破られたのは近代になってかららしい。じつに興味深い。

つまり、米と粟は、信仰の世界も含めて、もともと文化圏が異なる食物だったのではないかと考えられる。作物学的に考えれば、同じイネ科とはいえ、粟は水はけの良い土地を好み、湿地を嫌う。逆に、乾燥には強い。水田稲作とはまったく異なるのである。当然、米の神と粟の神は敵対関係になるだろう。

リポートに戻ると、パイワン族は、粟を酒または餅とし、飯とすることは少ない。そして粟の祭りが行われる。農作物に関する祭りのなかで、粟の祭りはもっとも重要で、粟の穂や餅、粟酒が粟の神霊に捧げられる。

たとえば、粟の収穫のあとに行われる祭りは、大祭と位置付けられ、数日間にわたって行われる。その際、新粟の団子が作られ、石焼にし、あるいは雑炊が作られ、新粟が粟神や祖霊に捧げられるのである。

ならば、どのように粟を調理するのかであるが、うるち粟ともち粟では異なるという。

リポートによると、うるち粟は酒や飯にするのだが、その場合、殻や糠を除いたあと、鍋に湯を沸かし、粟を入れ、大杓文字で撹拌して焦げないように煮る。粟飯は粥のように柔らかいと説明されている。

日本では平安期に行われるようになったとされる米の煮飯の調理法と同じである。台湾の粟の場合も、歴史的に新しいのかもしれない。

リポートによると、粟餅の製法は、ふたつある。ひとつは精粟を半日水につけたあと、ザルに移して水を切り、臼にかけて粉にし、水を加えてこね、これを蒸すか焼いて、餅にする。部族によっては、もうひとつの方法がある。日本の餅と同じように、給水させた精粟を蒸しあげ、臼でつくというものである。

前者は、日本の神社の神饌にしばしば登場する米の「ぶと」と製法が似ている。後者はいわゆる餅である。ぶとの方が古い形態ということだろう。春日大社などでは油で揚げて、神饌とするらしい。

さて、宮中新嘗祭である。米の御飯も同様らしいが、粟の御飯はうるち粟ともち粟があわせ用いられている。甑で蒸すという、いまも続く調理法は、延喜式のころに確立されたのだろうけれど、それ以前はもしかすると別だったかも知れない。

うるち粟ともち粟は別物と認識され、調理法も別であり、神饌の形態もかつては違っていたのではないか。天皇が粟の御飯を竹折箸で供饌される際、苦労されるのは、人間が食べる食物ではなく、米の御飯と一対のかたちで、神饌として調理されるからでろう。そして粟の御飯がうるち粟ともち粟を混ぜて蒸すという方法を採用しなければならない、食文化とは次元の異なる理由がほかにあるに違いない。

そしておそらくそれらのことが、米と粟を捧げる神嘉殿の新嘗祭をして、皇室第一の重儀と位置付ける意味と深く関係しているのではなかろうか。

それにしても、今日の神道学者までが新嘗祭・大嘗祭を「稲の祭り」と言い張るばかりで、現実を直視しようとしないのに対して、戦前の台湾総督府が先住民研究に挑戦し、克明なリポートを残していたとは、ただただ驚くばかりだ。(つづく)

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もち粟とうるち粟を合わせ炊いてみた──宮中新嘗祭「粟の御飯」を再現する [宮中祭祀]

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もち粟とうるち粟を合わせ炊いてみた──宮中新嘗祭「粟の御飯」を再現する
(令和4年11月9日、水曜日)
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宮中新嘗祭の粟の御飯(おんいい)を再現する実験を続けている。

これまではもち粟ともち米を合わせ、炊飯器のおこわモードで炊くという方法を採ってきた。古代人はもち粟を甑で蒸したのだろうと想定したものの、もち粟100%で試みる自信がなかったからである。

宮内庁掌典職OBの話を聞いて「12時間以上吸水させる」ことも分かった。同時に、もち粟とうるち粟と混ぜるという事実も知ることとなった。

それでいよいよ粟100%で実験することになったのだが、これまでは中国産の粟を材料にしていたことに気がついた。まったく信用しないというわけではないが、あらためて国産のもち粟とうるち粟と入手し、5対1に混ぜ合わせ、実験を試みた。

ただ、わが家の炊飯器では、白米のおこわモードがあり、これを利用して、12分間のスチームで「蒸す」ことを再現してきたのだが、残念なことに粟用のメニューはないし、雑穀米のメニューにはおこわモードがない。やむなく、これまでと同様、白米のおこわモードで実験することにした。

12時間以上吸水させたのち、炊飯器にかけ、炊きあがったあと、半分はおにぎりにし、残る半分はすりこぎで半殺しにし、餅について、団子風に丸めてみた。画像の奥がおにぎりで、手前が団子である。
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おにぎりの方はなんとか形崩れしないでまとまっている。団子はいい感じに餅になった。食べてみると、断然、団子の方が美味しい。おにぎりはどうしてもパサパサ感が残る。

そこであらためて掌典OBから聞いた言葉が蘇ってきた。「粟の御飯は、陛下が竹折箸で供饌するのに苦労されるようです」。

宮中新嘗祭の粟がどういう比率で、もち粟とうるち粟を混ぜ合わせるのかは分からないが、パサパサ感が残るものなら、供饌、直会で苦労されることは容易に想像される。

別な言い方をすれば、餅の形態で供饌した方がはるかに扱いやすいのに、なぜそうしないのかということである。もともと粟の民による粟の祭祀では、甑で蒸した御飯を捧げるという神饌調理法を採用しないのではないかという疑問が新たに湧いてくるのである。

そして、台湾先住民の粟の祭祀について学ぶとき、疑念は確信へと変わるのである。(つづく)

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宮中新嘗祭「粟の御飯」の調理法への疑問 [宮中祭祀]

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宮中新嘗祭「粟の御飯」の調理法への疑問
(令和4年11月6日、日曜日)
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前回、書いたように、宮中新嘗祭の粟の御飯(おんいい)を再現する実験を繰り返し試みている。

もち粟ともち米を5対1の割合で混ぜ合わせ、数時間、吸水させたのち、炊飯器のおこわモードで炊いてみた。おにぎりにすると、もうこれ以上、もち粟の比率を上げるとポロポロに崩れて、おにぎりにならない限界であることが実感された。

神嘉殿での供饌の儀で、天皇は竹折箸を用い、御飯を供饌され、直会されるのだから、この調理法では無理がある。とすれば、方法的に何かが違うのだろう。

吸水時間が異なるのか、それとも炊飯器を使うことが間違いなのか?

平成の大嘗祭にも携わった宮内庁掌典職OBに聞いてみたところ、「12時間以上、水につける」とのことだった。要するに、吸水時間が「数時間」では足りないということらしい。

さっそく、ほかの条件はそのままに、もち粟ともち米を合わせ、15時間、吸水させて炊いてみた。するとなるほど今度はいい具合に炊き上がった。
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しかし、なのである。OBによると、宮中では「もち粟とうるち粟を混ぜて蒸す」というのである。たしかにそうだろう。地方から献上される粟はもち粟とは限らないからだ。

平成の大嘗祭のとき精粟を担当した秋田の篤農家を以前、取材したことがあるが、それはそれは見事な粟を地域で栽培されていて感動したのだけれども、「虎の尾」という品種のうるち粟であった。

うるち粟だけでは、吸水時間を伸ばしても、竹折箸でつまめるような御飯にはならないだろう。毎年、納められる粟もうるち粟が多いかもしれない。となると、もち粟を加えて、ネバネバ感が出るようにして、竹折箸でつまめるようにするのだろうとまずは解釈してみたものの、どうもおかしい。

もち粟だけではネバネバ感が確保できないからこそ、もち米を加えて実験を繰り返してきたのであって、もち粟にうるち粟を加えたのでは逆にポロポロになってしまい、竹折箸でつまめなくなるのではないか。

さっそく実験で確認しようかと思ったが、思いとどまった。粟を食べ、粟の祭祀を行う台湾の先住民は同じような調理法をするのだろうかと、ふと思いついたからである。

で、古い文献を読んでみて、目から鱗の事実を知ったのである。(つづく)

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宮中新嘗祭の「粟の御飯」を再現する [宮中祭祀]

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宮中新嘗祭の「粟の御飯」を再現する
(令和4年11月3日、文化の日)
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今日は文化の日であるが、そのことについてではなく、あと3週間で祭日当日となる宮中新嘗祭の「粟の御飯(おんいい)」について書こうと思う。

じつはこのところ「粟の御飯」を再現する実験を繰り返し試みている。

天皇は神嘉殿で神前に米と粟を捧げて祈られる。そのとき竹折箸を用いられ、みずからも食される。神事に用いられる米と粟の御飯は「御飯筥」と呼ばれる葛筥にいっしょに納められている。『大嘗祭史料 鈴鹿家文書』の図録にはその様子が示されている。

しかし、天皇の祭りは「秘儀」であり、詳細は一般には知られない。だから、政府の公式解説でも「大嘗祭は稲の祭り」となってしまう。神道学者なども「稲の祭り」で固まっている。神道学の論文目録で「粟の新嘗」をテーマとする学術論文は1本しか私は知らない。お粗末だと思う。

米の御飯の場合、古代の調理法に従い、甑(こしき)で蒸して作られる。古代人はモチ米を蒸して食べていたそうだから、米の御飯は古くはモチ米だったのではなかろうか。

それなら粟の御飯はどうだろうか。竹折箸でつまめるようなものとなるのだろうか。

いまはどうか知らないが、かつてはモチ粟100%の「粟の御飯」が調理されていたのではないかと想定したが、最初からモチ粟100%で挑戦する自信がないので、まずはモチ米と混ぜて、炊飯器のおこわモードで炊いてみることにした。はじめはモチ粟とモチ米の比率を1対1とし、徐々にモチ粟の比率を高めていった。

5対1まで高めると、おにぎりにしたときポロポロと崩れる一歩手前であることが実感された。とすると、たとえモチ粟100%でも竹折箸でつまみ、供饌するのは困難ではないのか。宮中新嘗祭の「粟の御飯」には大きな謎があるのではないかと強く思われた。

そこで大嘗祭の神事にも関わった宮内庁OBに話を聞いてみた。すると、思ってもみない新事実が判明することとなった。そして、宮中新嘗祭の本義、ひいては天皇の存在意義とも関わると思われる新たな知見を得ることとなった。(つづく)

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《再掲》「米と粟の祭り」──多様なる国民を統合する新嘗祭 [宮中祭祀]


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《再掲》「米と粟の祭り」──多様なる国民を統合する新嘗祭
(令和3年11月23日、勤労感謝の日)
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本日夕刻から、陛下は宮中の奥深い神域・神嘉殿で、皇祖神ほか天神地祇を祀り、新穀を供し、みずから食される新嘗祭を親祭されます。陛下がなさる新嘗祭とはいかなる祭りなのか、以下、斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2007年11月20日号)号から転載・再掲します。


▽1 見落とされている粟の存在

毎年11月23日の夜に宮中で行なわれる新嘗祭、あるいは天皇が天皇となって初めて行なう大嘗祭という神事で、天皇がみずから神々にささげ、そのあとご自身で召し上がるのは、一般には米の新穀といわれています。しかし、じつはそうではなく、米と粟の二種類の穀物の新穀であり、米だけではありません。

にもかかわらず、大嘗祭も新嘗祭も一般には「稲の祭り」といわれ、大嘗祭に用いる米を納めるために選ばれる農家は「大田主」と呼ばれ、重んじられるのに、粟を納める農家は「大田主」とは呼ばれません。実際の神事において、どちらが重要というわけではないようですが、粟の存在はしばしば見落とされています。

研究者も稲にばかり注目し、なぜ米といっしょに粟が捧げられるのか、ほとんど研究らしいものが見当たりませんが、奈良・平安のころ、民間には粟の新穀を神々に捧げる祭りが行なわれていたのは事実のようです。古い書物にそのような記録があるからです。


▽2 かつては粟の新嘗があった?

各地方の情報を集めた書物を地誌といい、日本最初の地誌として奈良時代に元明天皇の命でまとめられた風土記が知られています。その中で現在の茨城県について伝えている「常陸国風土記」に、母神が子供の神々を訪ね歩く筑波郡の物語が載っていて、「新粟の新嘗」「新粟嘗」という言葉が登場します。

日が暮れたので富士山の神さまに宿を請うと、「新嘗のため、家中が物忌みをしているので、ご勘弁ください」と断られたのに対し、筑波山の神さまは「今宵は新嘗だが、お断りもできまい」と大神を招き入れた、というのです。

ここから、このころの新嘗祭は村をあげて心身をきよめ、女性や子供は屋内にこもって、神々との交流を待ち、ふだんならもてなす客人を家中に入れることさえはばかったことが分かります。

それなら文中に出てくる「新粟の新嘗」「新粟嘗」とは何でしょう。たとえば「日本古典文学大系」では、この「粟」に「脱穀しない稲実」と注釈が加えられていますが、どう見ても疑問です。

「粟」はあくまで「粟」であって、ある民間の研究者が解説するように「宮中祭祀としての新嘗祭は、民間の素朴な新嘗が母体になっていると考え、宮中新嘗祭における粟は、その残影として理解することは無理であろうか」という問いかけの方が素直な理解ではないでしょうか。


▽3 祭りの霊力で国民をまとめてきた天皇

それでは、なぜ米と粟をささげるのでしょう。

民俗学の第一人者、近畿大学の野本寛一教授は、筆者の取材にこう答えています。

「天神地祇に米と粟をささげる新嘗祭、大嘗祭の儀礼は、米の民である稲作民と粟の民である畑作民をひとつに統合する象徴的儀礼として理解できるのではないか」

野本教授は『焼畑民俗文化論』で、水田稲作以前の民が粟や芋を栽培していたこと、この畑作文化は民俗学の先駆者である柳田国男が提唱した、東南アジア島嶼地域に連なる「海上の道」をたどって伝来したこと、を説明しています。

天皇にとってもっとも重要な神事である新嘗祭、大嘗祭は、「稲の祭り」だけではなく、稲作儀礼と畑作儀礼という淵源の異なるふたつの儀礼の複合と理解されます。

天皇は政治力でも、軍事力でもなくて、祭りを通じて、祭りの持つ霊的な力によって、文化的に多様な国と民をひとつにまとめることを務めとされてきた、ということが浮かび上がってきませんか。


参考文献=『風土記』(日本古典文学大系2、岩波書店、昭和33年)、落合偉洲「新嘗祭と粟」(「神道及び神道史」国学院大学神道史会、昭和50年7月所収)、野本寛一『焼畑民俗文化論』(雄山閣出版、1984年)など


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陛下のお稲刈りに思う。天皇の祭祀は神勅に基づくとする通説への疑問 [宮中祭祀]

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陛下のお稲刈りに思う。天皇の祭祀は神勅に基づくとする通説への疑問
(令和2年9月20日)
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陛下が9月15日、皇居内の水田で、恒例のお稲刈りをなさったと各メディアが伝えています。〈https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200915/k10012618931000.html〉〈https://www.asahi.com/articles/ASN9H52G6N9HUTIL024.html〉〈https://www.47news.jp/5260653.html

以前に比べると、こうした皇室関連報道が増えました。それでも、古来、天皇第一のお務めとされてきた祭祀など、あまり伝えられない多くのことがあるように思います。いまや天皇は祭り主でなく、国事行為のみを行う特別公務員のごとく考えられているからでしょうか。

天皇が稲作をなさるようになったのは最近のことで、即位直後の昭和天皇が最初でした。先帝はこれを引き継がれるとともに、粟の栽培をも始められました。今上は昨年の皇位継承後、稲と粟の栽培を受け継がれています。

陛下の稲作のことはメディアもしばしば取りあげていますが、粟についてはそれほどでもないように思います。粟とは何でしょうか。なぜ米と粟なのでしょうか。


▽1 なぜ演繹法による説明なのか

皇室に詳しい方はたいてい「神勅」について話されます。たとえば、昭和天皇の祭祀に携わった八束清貫は、皇室第一の祭儀とされる宮中新嘗祭は、記紀に記される、皇祖天照大神が天孫降臨に際して、瓊瓊杵尊に稲穂を授けられた、いわゆる斎庭の稲穂の神勅に由来すると書いています(八束『祭日祝日謹話』昭和8年)。

しかし八束自身が、「(新嘗祭の神饌で)なかんずく主要なのは、当年の新米・新粟をもって炊いだ、米の御飯(おんいい)および御粥(おんかゆ)、粟の御飯および御粥…」(八束「皇室祭祀百年史」=『明治維新神道百年史第1巻』1984年所収)と書いているように、新嘗祭の主要な神饌は米だけでなく、米と粟なのです。むろん大嘗祭も同様です。

つまり、古典にあらわされた神勅では、天皇による米と粟の祭祀は説明できません。八束の解説は間違っています。

もっと別な言い方をすると、まず神の存在があり、神の言動があり、それを記録した書物があってという、いわばキリスト教的な、演繹的な説明がなぜされなければならないのでしょうか。まるでヨーロッパの王権神授説に対抗するかのように、演繹的理解を試みようとするから、粟の存在が見えなくなってしまうのではありませんか。説明の方法論に誤りがあるのではありませんか。

神勅に基づく演繹的な解説はいつ始まったのでしょうか。少し調べてみると意外なことが分かります。私たち現代の神勅の理解と近代、近世とでは大きく異なるようなのです。ますます、斎庭の稲穂の神勅に基づいて、米と粟による天皇の祭祀を解釈するのは、限界があるように見えてきます。


▽2 三大神勅の中味がいまとは異なる

ふつう神勅と呼ばれているのは、「天壌無窮の神勅」「宝鏡奉斎の神勅」「斎庭の稲穂の神勅」の3つで、まとめて「三大神勅」と言い慣わされています。きわめて常識的な知識ですが、どうもこれはそれほど古い考え方ではないようです。

国会図書館の検索エンジンで「三大神勅」を調べると、ヒットするのは26件。もっとも古いのは、戦前を代表する神道家・川面凡児の『天皇宮』(昭和7年)ですが、川面が「三大神勅」と説明するのは「天壌無窮の神勅」「斎鏡斎穂の神勅」「神籬磐境の神勅」の3つで、私たちの理解とは微妙に異なります。

次に注目されるのは、川面としばしば比較される神道思想家・今泉定助の『国体原理』(昭和10年)ですが、これも「天壌無窮の神勅」「斎鏡斎穂の神勅」「神籬磐境の神勅」の3つです。

昭和15年に三大神勅奉戴会(岩隈虎雄理事長)が三大神勅の普及を目的に展開した三大神勅奉戴運動というのがあって、同会本部が発行した、その名も「三大神勅奉戴運動」と題する、30ページの冊子が国会図書館に納本されていますが、この場合は「第一神勅 天照大御神 天孫降臨の神勅」「第二神勅 天照大御神 斎鏡斎穀の神勅」「第三神勅 高皇産霊神 天孫奉斎の神勅(神籬磐境の神勅)」となっています。

「第二神勅」の説明では、日本書紀の、いわゆる宝鏡奉斎の神勅と斎庭の稲穂の神勅が続けて引用されています。「三大神勅の内容」の項目では、「第二神勅よりは、大嘗祭の御精神と祭りの真意を解し、天皇の御本質を拝し奉り」などと説明されており、米と粟による祭祀の実態が完全に忘れられています。


▽3 文部省編「国体の本義」が誤解を広めた?

さて、神勅といえば、「大日本帝国は、万世一系の天皇、皇祖の神勅を奉じて、永遠にこれを統治し給ふ」で本文が始まる「国体の本義」(文部省編、昭和12年)を無視するわけにはいきません。そしてここに果たせるかな、「天壌無窮の神勅」「神鏡奉斎の神勅」「斎庭の稲穂の神勅」が掲げられています。

ただし、「三大神勅」の表現は見当たりません。また、大嘗祭、新嘗祭の御親祭は斎庭の稲穂の神勅に基づくと説明し、「皇祖の親授し給ひし稲穂を尊み、瑞穂の国の民を慈しみ給ふ神代ながらの御精神が拝察せられる」と続け、粟の存在をこれまた完全に忘れています。

こともあろうに、文部省が編纂したあの「国体の本義」が天皇の祭祀への誤解を国民の間に広め、いまなお改められずにいるということなのでしょうか。

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川瀬さん、今城女官はなぜ「魔女」呼ばわりされなければならなかったのですか? [宮中祭祀]


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川瀬さん、今城女官はなぜ「魔女」呼ばわりされなければならなかったのですか?
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産経新聞が毎週末、川瀬弘至『昭和天皇実録』取材班キャップによる、意欲的な超長期連載「特集・昭和天皇の87年」を掲載しています。7月5日は第240回「宮中のあつれき─皇居に魔女が現れた?! 女官追放と皇后の涙」でした。〈https://special.sankei.com/a/society/article/20200705/0001.html

川瀬さんによると、昭和天皇は晩年に腰を痛められた香淳皇后を誰よりも労わられ、生涯、夫婦愛に変わりはなかったが、一方、側近の入江相政侍従長らは皇后への配慮に欠け、軋轢を生んだ。その典型が「魔女騒動」だと書いていますが、重要なポイントを読み違えているように私には思われてなりません。

川瀬さんが参考資料に挙げている河原敏明さんの「昭和天皇を苦悩させた宮中『魔女追放事件』の真実」(『現代』平成11年1月号所収)と同様、昭和40年代以降、宮中を大きく揺るがしていた祭祀簡略化問題への追究が十分ではないと思われるからです。入江の皇后への「気遣い」不足程度のこととは私には到底、思えません。

河原さんは祭祀簡略化問題への視点が欠けていました。川瀬さんは祭祀簡略化には言及しながら、関連性の探究が不十分です。

 【関連記事】入江侍従長の祭祀簡略化工作と戦い敗れた女官──河原敏明「宮中『魔女追放事件』の真実」を読むhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2016-07-03


▽1 『入江日記』に引きずられている

川瀬さんは『入江日記』を引用し、昭和40年代前半に「魔女」(今城誼子女官)が登場し、入江らと対立したことを取り上げています。

最初は男子禁制の剣璽の間に侍従が無断で入ったことで、宮中のしきたりに厳しい今城さんが猛抗議します。

川瀬さんが書いているように、44年に入江が侍従長に昇格すると、今城さんとの対立は決定的になりました。入江が進める宮中祭祀の簡略化に対して、厳格派の今城さんが黙っているはずはないからです。

川瀬さんは、今城さんが規律や慣例を重視したことが、ほかの女官や侍従らの反感を買ったのではないか。今城が香淳皇后に重用されたため、嫉妬も渦巻いたことだろう。入江と宇佐美毅長官は今城追放を画策し、昭和天皇も賛同した、と書いていますが、そうなのでしょうか。

入江が今城さんを魔女呼ばわりしたのは事実ですが、ほかの女官から反感を買ったとは聞きません。むしろ信望が厚かったと私は宮内庁OBから聞いています。逆に、入江の方が評判が悪いのです。川瀬さんは入江の日記に引きずられていませんか。

入江と今城さんは堂上家の出身で、出自も似ています。祭祀嫌いの入江にとって、今城さんは目障り以外の何ものでもなかったのでしょう。だから「魔女」呼ばわりしたのです。

川瀬さんのいう、昭和天皇の「賛同」も怪しげです。争わずに受け入れるのが天皇の至難の帝王学だからです。入江日記には入江が画策する祭祀簡略化に天皇が賛同したかのような記述が見受けられますが、逆に抵抗の跡もはっきりと読み取れます。入江は死後、多くの人が読むことを意識して、白を黒と書いていると私は確信しています。


▽2 祭祀簡略化工作の一環

結局、川瀬さんの考察からは、今城さんがなぜ「魔女」呼ばわりされなければならなかったのか不明です。私が拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』(並木書房)で取り上げた、入江や富田朝彦長官による祭祀簡略化・改変の本質も見えてきません。したがって、宮中を揺るがした「軋轢」の核心も見えません。

川瀬さんは、拙著はもちろん、今城さん追放事件について書いた拙文も、取り上げていません。

川瀬さんは最後に、「天皇は古来、「国平らかに民安かれ」と祈る祭祀王であり、宮中祭祀は皇室の存在理由そのものといえる。入江らには理解できなかったようだが」と書いていますが、なぜ入江には理解できなかったとお考えなのでしょうか。

万年ヒラの侍従だった入江の祭祀嫌いと加齢による暴走こそ、「魔女」追放=祭祀簡略化工作の本質だと私は考えていますが、いかがでしょうか。今城女官追放は祭祀簡略化の一環だったのです。


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粟が捧げられる意味を考えてほしい ──平成最後の新嘗祭に思う祭祀の「宗教性」 [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年11月25日)からの転載です

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粟が捧げられる意味を考えてほしい
──平成最後の新嘗祭に思う祭祀の「宗教性」
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 陛下はおととい、最後の新嘗祭を親祭になられた。感慨もひとしおだったに違いないと拝察される。それは「最後」だからではない。「簡略」新嘗祭だったからだ。

 報道によると、陛下は夕(よい)の儀の後半にお出ましになり、暁の儀にはお出ましにはならなかった。「健康上のリスク」への配慮とされる。

 日本書紀の仏教公伝のくだりや養老律令の神祇令、あるいは順徳天皇の「禁秘抄」に書かれてあるように、祭祀は天皇第一のお務めであり、歴代天皇はそのように信じて祭祀をみずからお務めになった。とりわけ新嘗祭は皇室第一の重儀とされたのだった。

 明治の改革で、天皇の祭祀は近代法的に整備された。敗戦後、掌典職は天皇の私的機関となり、昭和22年5月の日本国憲法施行に際して、皇室祭祀令はほかの皇室令とともに廃止されたが、宮内府長官官房文書課長の依命通牒により、祭祀令附式に定められる祭式は存続してきた。占領下も、社会党政権下でさえも、である。祭祀は天皇の聖域である。


▽1 側近によって曲げられた皇室の伝統

 天皇の祭祀が不当かつ無法な簡略化に甘んじることとなったのは、昭和40年代、入江相政侍従長の時代である。万年ヒラの侍従だった入江が、瞬く間に侍従次長から侍従長に駆け上がり、真っ先に取り組んだのが祭祀の「簡素化」(入江日記)である。

 香淳皇后や女官が抵抗したことが入江自身の日記に記録されているが、入江は皇室の伝統に忠実な女官を「魔女」呼ばわりし、追放している。このころ祭祀簡略化の名目は昭和天皇の高齢化だったが、半月にもおよぶ外遊をなさる天皇が高齢とはいえまい。真因は入江の祭祀嫌いと入江自身の加齢ではなかったか。

 祭祀の簡略化と改変は、無神論者を自称する富田朝彦の登場で促進された。次長時代の昭和50年8月15日の長官室会議で、平安時代以来の石灰壇御拝の歴史を引き継ぐ毎朝御代拝の祭式が変更された。依命通牒の解釈運用が側近によって、密室で、天皇・皇族への相談もなく、にわかに一方的に変更されたのである。

 同年9月1日以後、当直の侍従は装束ではなくてモーニングで、宮中三殿外陣ではなくて前庭の隅から、拝礼することとなったことが、『昭和天皇実録』にも説明されている。憲法の政教分離原則への配慮であったという。

 やがて昭和天皇の高齢化によって、文字通り祭祀は簡略化されていった。卜部日記には、それでも親祭にこだわる昭和天皇の痛々しいまでのお姿が記録されている。

 皇室祭祀令の附式には、幼帝の場合の対応が注意書きされているが、天皇の高齢化は想定されていない。

 祭祀簡略化の経緯を間近で御覧になっていたのが今上天皇である。30年前、皇位を継承されたのち、今上陛下は皇后陛下とともに、祭祀の正常化に取り組まれたらしい。即位以来、陛下は、皇室の伝統と憲法の理念の両方を追求されると繰り返し述べられている。

 平成の祭祀簡略化はご公務ご負担軽減策として始まった。渡邉侍従長らが昭和の先例を引き合いに陛下に打診したが、陛下はなかなか同意なさらなかった。ようやく在位20年を過ぎて、軽減策は実行に移されたが、いわゆるご公務の件数は減らず、祭祀のお出ましだけが半減した。

 そして新嘗祭が、昭和の先例に従い、簡略化された。陛下はさぞご無念だったことだろう。祭祀大権という言葉があるが、もはや実権は陛下の手中にはない。

 今回の譲位は陛下ご自身の御意思によって始まった。高齢となった場合の象徴天皇の務めについてのご懸念が背景にあるように説明されているが、祭祀のお務めへのご懸念だったのではないかと私は考えている。ビデオ・メッセージには「祈り」と説明されている。憲法への配慮から「祭祀」とは表現できなかったのであろう。

 悠久なる皇室の伝統より、最高法規とされる憲法が、明らかに優先されている。陛下は象徴天皇とは何か、ご公務とは何かを考えてほしいと、主権者とされる国民に、ビデオで訴えられたが、私たちは十分に応えているだろうか。


▽2 失われてしまった粟の文化

 天皇の祭りは、国民統合の祭りである。天皇の祭祀は宗教ではない。少なくとも、憲法が禁じる国による宗教的活動ではない。したがって国民の信教の自由を侵すはずはない。カトリック信徒が祭祀に携わっているとも聞くが、その何よりの証明ではないか。

 神嘉殿の宮中新嘗祭、大嘗祭の大嘗宮の儀では、米と粟の新穀が神前に手ずから供され、御告文ののち天皇は直会なさる。今上天皇の即位大嘗祭に携わった鎌田純一は『平成大礼要話』に、悠紀殿・主基殿の儀の「米と粟」を正確に記録している。

 一方、政府は30年前も、そして今回も、大嘗祭は「稲の祭り」だと解釈している。メディアも同様である。粟はどこへ消えたのだろうか。

 宮中三殿の祭祀は稲の祭りであるが、神嘉殿の新嘗祭は米と粟である。皇室第一の重儀は稲の祭りではない。稲だけではない。

 よく聞くように、斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅に基づき、稲作の神に五穀豊穣を祈るなら、稲の新穀で十分であろう。粟を捧げる必要はない。稲とともに、粟が捧げられるのは、粟の神、粟の信仰、粟の民の存在が、前提とされていると考えざるを得ない。

 柳田国男が書き残しているように、日本列島は必ずしも米作適地ではないし、日本民族は稲作民族ではない。柳田は稲作願望民族と表現している。水田稲作農耕民が神前に稲を捧げるように、畑作民は粟を捧げて祈る。文化人類学の知見によれば、台湾の先住民は粟をとりわけ神聖視し、粟の祭祀を行ったらしい。

 常陸国風土記には粟の新嘗のことが書かれてある。縄文人の直接の子孫といわれるアイヌは稗と粟を食し、酒には稗を用いるという。大正のころの日本人は稗や粟の酒をふつうに飲んでいたと聞くが、いつの間にか失われてしまっている。

 およそ天皇、即位したまわんときは、すべて天神地祇祭れ、と神祇令にある。それぞれの神祭りにはそれぞれの作法がある。民が信じるすべて神々に祈り、国と民を統合するには、天皇の祭りは複合祭祀にならざるを得ない。


▽3 御代替わりの祭祀について政府は検討していない

 来年は大嘗祭が行われる。

 わが国では、御代替わりごとに、大規模な国民統合の多神教的、多宗教的な国家的儀礼を行うことが古来、続いてきた。それは価値のないことだろうか。宗教的な対立が世界的に繰り広げられている今日、意味がないことだろうか。

 アメリカでは9・11同時テロの直後、「全国民の教会」といわれるワシントン・ナショナル・カテドラルで、各宗教の代表者も参加する多宗教的な追悼式が行われた。多宗教化は現代の潮流といえるが、皇室の伝統ははるかなる時代の先駆けではないのか。

 なぜ天皇は神々に粟を捧げ、神人共食されるのか、学問的な深まりが求められている。祭祀学、神道学、文化人類学など、米と粟の祭祀についての研究を、残念ながら私は読んだことがない。学問研究が時代のニーズに追いついていない。

 御代替わりは本来、全体として国事のはずだが、今回も大嘗祭は、その宗教性を理由に、皇室行事とされる。御代替わりの儀礼はかつては登極令附式に定められていたが、賢所の儀など関連する践祚の式について、今回、政府が検討した形跡はない。宗教性ゆえにである。

 陛下はどのような思いで、最後の新嘗祭に臨まれたのだろうか。何を思われ、来年の御代替わりをお迎えになるのであろうか。
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