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『国民の歴史』著者による「国民の天皇観」がウケる理由 ──「WiLL」6月号「西尾幹二×加地伸行」対談を読む [西尾幹二天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


▽1 堂々巡りが売れる!?

 どうも筆が進みません。生来の遅筆もさることながら、他人さまを批判することはやはり気が引けます。できれば避けたい。対象が人生の大先輩であれば、なおのことです。

 しかしどう考えてもおかしいのです。同じ話を何度も繰り返すお年寄りの思い出話ではないでしょうけど、老碩学の論議はいっこうに代わり映えがせず、さまざまに批判されたあとの学習効果が微塵も感じられません。

 これは一体なぜなのでしょうか。

 先生方だけではありません。対談を企画した編集者には、議論を深め、前進させるべき職業的義務があるはずですが、それが見えてない。堂々巡りの議論なら、ジャーナリストとしての見識が問われます。

 いや、ジャーナリズムより商才なら理解できます。

 編集長解任、編集部全員退社、他社への電撃移籍という大騒動のあと、新編集部が商業雑誌の命運をかけて、読者を挑発し、存在感をアピールしようと狙うのは当然です。

 世の中にはアンチ雅子妃の読者も少なくないようですから、むしろ停滞した議論の方が売れると踏んだのかも知れません。

 だとすると、老教授たちの天皇論もさることながら、金太郎飴のようなワンパターンの東宮妃批判に賛同し、喝采する読者たちの天皇意識の背後にあるものは何でしょうか。


▽2 「右翼」を刺激した「不敬」

 もう1か月以上も前のことですが、報道によると、雑誌「WiLL」6月号に掲載された皇室関係記事が「不敬」だとして、同編集部に右翼団体の若い幹部が侵入し、狼藉を働くという事件がおきました。

 そこまで右翼を刺激したのはどれほど「不敬」なのかと興味を持ち、読んでみたのですが、予想を裏切るほどに新鮮味がなく、私は拍子抜けしました。

 記事は西尾幹二・電気通信大学名誉教授と加地伸行・大阪大学名誉教授による対談で、「総力大特集 崖っぷちの皇位継承 いま再び皇太子さまに諫言申し上げます」とタイトルこそ編集者の並々ならぬ意気込みが伝わってきますが、中身はどうでしょう。

「総力大特集」と銘打っているのは、大先生方の対談のほかに作家長部日出雄氏の「皇室は祈りでありたい」と題する皇后陛下の物語が載っているからでしょう。けれども、同氏の著書『日本を支えた12人』からの抜粋・転載に過ぎません。

 肝心の対談は、西尾先生のご主張が大半を占める、独演会に近いものでした。

 記事にもありますが、8年前、西尾先生は「御忠言」と称して東宮批判を同雑誌で展開し、療養中の妃殿下を「獅子身中の虫」とまで激しく指弾しました。

 先生は、いわゆる雅子妃問題を、近代社会の能力主義と皇室の伝統主義との相克という図式で捉え、「伝統に対する謙虚な番人でなければならない」と主張し、皇太子・同妃両殿下にはその自覚がおありなのか、と問いかけたのです。

 しかし、先生の指摘はまったく当を得ていません。

 皇室は伝統オンリーの世界ではありません。古代においては仏教を積極的に受容され、近代になるとヨーロッパの文化を率先して受け入れられました。「伝統」と「革新」の両方が皇室の原理です。

 皇位は世襲であり、徳とは無関係です。天皇は「上御一人」であり、臣籍出身の皇太子妃や皇后に徳を要求することは行き過ぎです。


▽3 何も変わらない議論

 その程度のことは、多くの識者がすでに指摘しています。

 たとえば、新田均・皇學館大学教授は雑誌「正論」平成20年9月号掲載の論文で、一方で皇位の世襲主義を謳いつつ、徳治主義を要求するのは矛盾だとダメ出ししています。

 まったく仰せの通りで、少しでも歴史を学べば、誰にでも理解できることです。

 それなのに、8年経ったいまもなお議論は深まらない。なぜでしょうか。

 西尾先生は対談のなかで、次のように語っています。

「雅子妃の行動が皇室全体の運営に何かと支障をきたしていることは関係者の共通の認識になっているようですね」

「妃殿下は公人で、ご病気はご自身を傷つけていますが、皇室制度そのものをも傷つけていることを見落としてはなりません」

「(皇太子)殿下は妻の病状に寄り添うように生きてこられて、国家や国民のことは二次的であった。皇位継承後もこうであったら、これはただごとではありません」

「皇室という空間で生活し、儀式を守ることに喜びを見いださなければならないのに、小和田家がそれをぶち壊した」

「雅子妃が国連大学に特別の興味をお持ちということも非常に問題です」

「天皇家はそもそも民主主義や平等とは無関係の伝統に根ざしています。にもかかわらず、雅子妃により近代化の象徴である学歴尊重や官僚気質というものが皇室に持ち込まれた」

 ご主張は何も変わっていません。どうしてでしょう。意固地な執念は性格でしょうか。それよりも私は、もっと別な角度から考えてみたいと思います。


▽4 さまざまなる天皇観

 皇室典範有識者会議の報告書に、「天皇の制度は、古代以来の長い歴史を有するものであり、その見方も個人の歴史観や国家観により一様ではない」と書かれているように、世の中には古来、さまざまな天皇観があります。

 竹田恒泰氏の天皇論批判で紹介したように、神道思想家の葦津珍彦は国体の多面性、国民の国体意識の多元性というものを指摘しています。

 つまり、民の側には古来、さまざまなルーツを持つ多彩な天皇観があり、それらを総合したところに皇室の天皇観、いわゆる日本の国体が形成されているということです。

 たとえば、正月に百人一首を楽しむ人は少なくないでしょう。歴代天皇のお歌は和歌を学ぶものにとってお手本であり続けています。桃の節句には、女の子の成長を祈って親王雛、内裏雛が飾られます。ひな祭りは王朝文化への憧れを底流としています。書道を学ぶものにとって、三筆の1人と仰がれる天皇の書は教科書です。

 他方、稲作農耕民には稲作の源流が皇室にあるという天皇観があったでしょう。絹織物の産地では、養蚕や機織りが皇室から伝えられた技術と信じられています。料理人たちは天皇の側近を祖神として祀ってきたし、大工さんが神と仰ぐのは聖徳太子です。

 さらに仏教徒にとっては、皇室は古来、仏教の外護者であり、キリスト教徒にとっては近代以後、社会事業を物心両面で支援してくれるパトロンでした。

 それぞれの天皇・皇室観はそれぞれに人々の暮らしと生活に密着し、独自性があり、生々しくかつ強固です。一方、皇室の天皇観は、それらとは次元が異なる高見にあって、当然、多面的性格を帯びることになります。


▽5 一様なる「国民」の天皇観

 それなら西尾幹二先生の天皇観はどう位置づけられるのか。それは「国民の天皇観」というべきものなのでしょう。

 先生には『国民の歴史』という大著があります。たいへん興味深いことに、天皇・皇室の歴史が抜けているように私には見えます。先生にとっての「歴史」は、近代化によって「国民」国家と化した日本を構成する「国民」の目から見た歴史なのでしょう。

 同様に、先生の天皇観は、近代的な「国民」国家に帰属する「国民」にとっての「国民の天皇観」なのではありませんか。

 先生は、皇室を「伝統」の世界ととらえ、「祭祀」を皇室のお務めと理解されているようですが、「伝統」の意味するもの、「祭祀」の中身は示されていないように思います。

「伝統」と「近代」の二項対立それ自体、近代の産物でしょうけど、先生は、近代の「国民」という立場にご自身の身を置いて、ただ漠然と抽象的に、「伝統を守れ」「祭祀をせよ」と主張されているように私には見えます。

 先生の天皇観は、「国民」国家以前の伝統的で多彩な天皇観とは無縁です。葦津珍彦は「国民」の天皇意識の歴史的な多面性を指摘しましたが、西尾先生の天皇観は、近代化によって多面性を失い、一元化した「国民」の天皇観なのでしょう。


▽6 「近代」と「近代」の衝突

 西尾先生が主張されるように、皇太子妃殿下あるいは小和田家が「異質」なものを皇室に持ち込んだのではなくて、先生ご自身が、古来、多様なる民が抱いてきた「国体」意識とは「異質」な、一様で具体性のない「国民」の天皇観を持ち込んだのではないでしょうか。

 少なくとも私はそのように疑っています。

 だとすると、先生の「雅子妃」批判に同調者が少なくないのはなぜなのでしょう。

 それは、読者もまた、多彩だった近代以前の天皇観を失い、一様なる「国民」と化しているからではないでしょうか。

 それはちょうど「君が代」の歌の歴史に似ています。

「君が代」の歌詞は、古今集に「詠み人知らず」として収められているほど古く、古来、さまざまに歌い継がれてきましたが、近代になるとメロディーが統一され、多様性が失われ、いまでは薩摩琵琶や謡曲に多様性の片鱗を残すのみとなりました。

 近代化は地域や職能集団の多様性を失わせ、暮らしと直結した多彩な天皇意識を失わせたのです。

 西尾先生の「雅子妃批判」は、「伝統」と「近代」の相克ではなくて、「近代」と「近代」の衝突なのだと私は思います。そして「近代」の海のなかで漂流し続けるのです。

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真実を隠蔽する西尾幹二先生の「御忠言」 [西尾幹二天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 真実を隠蔽する西尾幹二先生の「御忠言」
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 近著の初校ゲラが先日、わが家に郵送されてきました。

 最終章の西尾論文批判が舌足らずなので、もう少し加筆したらどうか、という編集者の助言があり、どうしたものか、と目下、思案しています。

 生来、争いごとは好きではないし、他人様を批判するようなことはできればしたくはないのです。しかし真実が歪められているのなら、蛮勇をふるって訴えざるを得ません。

 ともかくも年内に本が出るように作業を急ぎたいと思います。


▽1 3つの誤り
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 さて、先週の続きです。西尾幹二先生のおっしゃる「妃殿下問題」について、補足的にもう少し考えてみたいと思います。

 先生のいう「妃殿下問題」とは、何が「問題」と考えられているのでしょうか。

 あらためて「WiLL」5月号を読み返してみると、最大のキーワードは「伝統」です。「平等とか人権といった近代の理念のまったく立ち入ることのできない界域が社会のなかに存在すること」は「天皇制度の意義」なのですが、皇太子殿下と妃殿下とのご成婚によって学歴主義・能力主義とクロスしたのでした。

 これが「軋み」の始まりで、皇太子殿下の「人格否定」発言が飛び出し、さらにこのままでは妃殿下は鬱病になるだろうという予感は的中し、事態はいちだんと悪化した、と先生は指摘しています。

 しかし3つの誤りを指摘しなければなりません。

 第1に、ご成婚を伝統と能力主義との対立・衝突と見るのはあまりに図式的です。すでに書いてきたことですが、「学歴主義とのクロス」なら皇后陛下にも当てはまります。

 第2に、羽毛田長官の「苦言」に対する殿下の「プライベート」発言にしても、騒動の背後に、プライベート暴きに熱中するマスコミの挑発・誘導という重大な外的要因を見落とすべきではありません。


▽2 「個人の問題」ととらえるばかりで

 第3の問題は、適応障害といわれる妃殿下のご病気についてです。

 先生は「文藝春秋」4月号に載った精神科医・斎藤環氏の発言に依拠し、「職場に適応できないなどの環境に対応する反応が原因で起きる病気」を「容易ならざる事態」とみます。病因が「皇室という環境にある」と考えるからです。

「天皇家にとって最重要なのは祭である」のに、「妃殿下は平成15年9月から宮中祭祀にいっさいご出席ではない」のはその結果だと考えられています。

 しかし何度もこのメルマガで書いてきたように、妃殿下が「祭祀に出席」していないのではなく、ご代拝の機会さえ奪われているというのが真相です。憲法の政教分離規定を厳格に解釈・運用する官僚によって祭祀が破壊されてきた結果です。

 ところが先生は、「雅子妃個人の問題」と一面的、図式的にとらえるばかりで、ことの背景が見えないのです。


▽3 何も解決しない「御忠言」

 妃殿下は、そして皇太子殿下は何に苦しんでおられるのか。

 1つは不作法なメディアの攻撃でしょうが、もう1つは度し難い官僚主義ということではないでしょうか。

 妃殿下がかつて身を置かれた官僚の世界は、法と前例に支配されています。天皇第1のお務めは祭祀ですが、現行憲法下では成文法上の根拠がありません。それどころか、憲法の政教分離原則をことさら厳格に考える官僚たちは祭祀の改変・破壊を敢行してきたのでした。

 そのような引き裂かれた現実を知ったとき、元官僚なればこそ苦しまざるを得ないのではないでしょうか。そのうえ、「祭祀を拒否」などという濡れ衣まで着せられ、「下船」まで勧告されては、穏やかな精神状態でいられるはずはありません。

 西尾先生は、妃殿下のご病気を、「能力主義」に生きる「近代」的個人が「伝統」という皇室の「環境」に「適応」できないことと考えておられるようですが、そうではなくて、前号で書いたように、祭祀を天皇第一のお務めと信じる皇室の伝統と、その価値が理解できない戦後派官僚たちの非宗教的な憲法解釈・運用とが「クロス」する板挟みの現実のなかで、妃殿下が苦しまれているということではないか、と私は思います。

「雅子妃問題」はけっして「個人の問題」ではないし、西尾先生の「御忠言」に従って「下船」したからといって万事解決されるものではありません。「御忠言」は「天皇制度の意義」を守るどころか、逆に、官僚たちの悪行を妃殿下に責任転嫁し、歴史の真実を隠蔽する結果を招きます。私には、批判を免れてほくそ笑む官僚たちのしたり顔が見えます。


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皇太子妃殿下の苦しみ [西尾幹二天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 皇太子妃殿下の苦しみ
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 先々週、収録のチャンネル桜「桜プロジェクト」で宮中祭祀についてお話ししましたが、けっこう皆さんの関心が高いようで、おかげさまで、目下、アクセスランキング15位に位置しています。
http://www.so-tv.jp/main/top.do

 この調子で今度出る本も話題になってくれれば、と願っています。

 その本ですが、いよいよ初校ゲラが出て、校正が始まる段階になりました。このメルマガの読者の皆さんに少し中身をお知らせすると、序章をふくめて以下のような11章立てになっています。

序章 稲作をなさる世界で唯一の君主
第1章 繰り返される? 祭祀の形骸化 
第2章 側近たちが破壊した宮中祭祀
第3章 裏切られた神道人の至情
第4章 明らかな神道差別の背景
第5章 政教分離はキリスト教問題である
第6章 宗教的共存こそ天皇の原理
第7章 多様な国民を多様なままに統合する祭祀
第8章 女系は万世一系を侵す
第9章 参考にならないヨーロッパの女帝容認論
第10章 的外れな東宮への要求

 タイトルは『失ってはならない天皇のまつり(仮題)』を予定していますが、決定ではありません。もう少しインパクトのあるタイトルはないか思案中です。最終的に決まりましたら、またお知らせします。


▽1 イギリスの戦没者追悼記念日
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 さて、先月末、イギリスのチャールズ皇太子が来日しました。今年が日英修好通商条約の締結から150年に当たるのを機に、とのことでしたが、戦没者への感謝をあらわす真っ赤なポピーの造花が上着の左胸にあしらわれていたのをご記憶でしょうか。

 戦没者を悼(いた)む日といえば、日本では8月15日の終戦記念日で、政府主催の追悼式が両陛下御臨席のもと行われ、1分間の黙祷が捧げられますが、イギリスではまさに今日、11月11日になっています。第一次世界大戦の休戦協定発効が1918年11月11日の午前11時だったことから、この日が「戦没者追悼記念日(Remembrance day)」と定められたのです。

 現在は、この日に近い日曜日が Remembrance Sundayとされ、ロンドンの官庁街にそびえる戦没者追悼記念碑セノタフを会場に、国王エリザベス二世や政府首脳、数千人の退役軍人、宗教関係者などがポピーの造花を胸に参列し、二度の大戦と湾岸戦争などで落命した戦没者の追悼式典が催され、そして午前11時を期して、1分間の黙祷ならぬ、2分間の沈黙の祈り(the two minute silence)が国をあげて捧げられます。

 もともと2分間の沈黙は、第一次世界大戦休戦一周年の1919(大正8)年11月11日、国王ジョージ5世の呼びかけで始まりました。2年後には、アメリカで「二分間の黙祷」(Two-Minute Silent Prayer)が捧げられます。ワシントン軍縮会議開会の前日に当たる11月11日、アーリントン墓地で無名戦士の埋葬式があり、正午を期して、ハーディング大統領の要請による黙祷が全米で捧げられたのです。同じ日、ジュネーブで開催された国際労働機関の総会でも沈黙の祈りが行われたと伝えられてい ます。

 7つの海を支配する大英帝国に始まった黙祷は、世界大戦後、大国にのし上がったアメリカに伝わり、さらに国際連盟成立という新しい世界の動きの中で国際慣例化したものと私は考えています。そして日本では関東大震災後、この儀礼が導入されました。
http://homepage.mac.com/saito_sy/yasukuni/SRH1802mokutou.html


▽2 戦没者追悼の意思を表すポピーの造花

 それならあの真っ赤なポピーにはどんな歴史があるのでしょうか?

 調べてみると、イギリスの休戦記念日にポピーの花が登場するようになったのは、1921年のようです。

 1921年11月12日付タイムズ紙は、休戦3周年に当たる前日の休戦記念日の風景を、とくにセノタフとウエストミンスター寺院の様子を、9枚の写真入りで大きく報道しました。

 ひときわ大きな写真は無名戦士の墓を中心に多くの参列者が集まっているウエストミンスター寺院の光景で、ほかに花環を手に集まった人々で立錐(りっすい)の余地もないセノタフや、トラファルガー広場で「2分間の沈黙」を捧げる群衆の写真なども掲載されています。このうちセノタフでは宗教的感動の場面が繰り広げられたことが、以下のように伝えられています。

 ──11時前、国王ご夫妻以下、王族の花環が代理の手でセノタフに捧げられた。それぞれの花環をひときわ際立たせていたのは、フランスのフランダース地方で咲いていた深紅のポピーの花であった。チャーチル首相やほかの閣僚はみずからの手で花環を捧げた。やがてウエストミンスターのチャイムが追憶の時を知らせた。静寂はさらに深まった。感謝と追憶の捧げものをするため集ってきた大群衆だが、物音ひとつしない。ハンカチとセノタフの旗だけが動いている。突然の花火が呪文を解いた。近衛連隊のバンドが讃美歌「神、わが助けぞ、わが望みぞ」を演奏し、立錐の余地もないほどに詰めかけた大群衆が歌い出した。

 イギリスでは戦没者追悼記念日は別名「ポピーの日(Poppy Day)」といわれますが、国中がポピーの花で覆われるようになったのはこの年が最初です。以来、ポピーは戦没者追悼の意思を表明し、追悼記念日にセノタフに捧げる花として欠かせなくなりました。

 イギリス大使館やBBCのホームページによると、真っ赤なポピーは西ヨーロッパの荒れた大地に自然に生える生命力の旺盛な植物のようです。何千人もの兵士たちが命を失った激戦地、現在のベルギー北部、フランダース地方の荒野に群生していたのがこの花でした。

 同年11月8日付「タイムズ」紙の「フランダースのポピー」と題する記事によると、フランスやフランダース地方、ダーダネルス海峡、イタリア、メソポタミア、アフリカで失われた100万の命を記憶するため、絹や木綿製の「フランダースのポピー」が上着やドレスを飾ることになったのだそうです。その運動を組織したのはロード卿基金でした。ロード卿の基金は英霊の追憶と傷ついた退役軍人の支援を目的に設立、運営されたといわれます。


▽3 皇室には自由がない?

 さて、長々とイギリスの歴史を書いてしまいました。これには理由があります。これまでこのメルマガでこれまた長々と書いている西尾幹二・電通大学名誉教授の東宮批判と関連性があるからです。

「諸君!」12月号に掲載された西尾先生の記事によると、先生の揚言は典型的な2種類の反応を呼び起こした、といいます。1つは、皇太子同妃両殿下にもっと自由を与えるべきだ、さらに古めかしい宮中祭祀などはやめるべきだ、という自由派の反応、もう1つは、皇室にもの申すのは不敬の極みで許されない、とする伝統派の反応でした。

 いずれの反応も東宮家の危機をいっさい考慮に入れていない点で一致している、現実より自分たちのイデオロギーを優先する傍観者だ、と先生は批判しています。

 それなら「現実」とは何でしょうか? 自由派が考えているらしい、皇室には自由がない、というようなことでしょうか?


▽4 街中で黙祷された皇族

 死者を追悼する国民儀礼としての2分間の沈黙はイギリスのジョージ5世の呼びかけに始まりましたが、日本で死者に「黙祷」が捧げられるようになったのは関東大震災1周年のときで、そのようにさせたのはどうやら摂政の地位にあった昭和天皇のようです。

 当時の新聞をめくると、官民の記念事業協議会が決めたのはきわめて非宗教的な「2分間の黙想反省」でしたが、マスコミはなぜかこれを宗教的な語感を持つ「祈念黙想」に変えて伝えます。しかも「黙想反省」であれ、「祈念黙想」であれ、時間は「1分間」でした。それが「2分間の黙祷」に変わったきっかけは皇室です。

 震災一周年を数日後に控えた8月27日付、東京朝日新聞の夕刊は、「両陛下より花環御下賜、東宮殿下は赤坂御所で2分間御黙祷」と題する予定記事を1面トップに載せています。「当日、東宮殿下は全市黙想の午前11時58分を期して、赤坂仮御所において2分間の御黙祷を遊ばされ、各宮殿下にも御同様、黙祷遊ばされるはずである。右につき、宮内省は同時刻、鈴振をもって時刻を報じ、宮内官一同もまた黙祷することになっている」というのです。

 この日以降、新聞の報道は「黙祷」に統一されます。日本の黙祷の歴史がこうして始まったのですが、もう1つ注目したいのは当日の模様を伝える新聞記事です。皇族がなんと街中で黙祷を捧げています。

 東京朝日新聞には「時刻は来た。各工場、汽船から号笛がいっせいに鳴るとともに、あの往復激しい銀座も、電気自動車がハタと止まった。室町通りでは北白川宮妃殿下佐和子、美年子両女王は時刻とともに静かに黙祷された」とあります。

 はからずもこの時代の自由な雰囲気が伝わってきませんか。

 そういえば、関東大震災の2年前、大正10年に行われた昭和天皇(当時は皇太子)のヨーロッパ御外遊は自由な雰囲気がありました。関係者の回想によると、昭和天皇はイギリスで観劇した折、主演女優に「会いたい」と二度もおっしゃり、花束を贈るというハプニングがあり、オックスフォードの百貨店ではお1人で買い物をされたのでした。

 御外遊を機に「親愛なる皇室」という新しい皇室観が生まれたという指摘がされています。


▽5 濡れ衣まで着せられて

 今年は源氏物語千年だというので、今月1日には記念の式典が京都で開かれ、両陛下が出席されましたが、長い皇室の歴史には古典に描かれているような大らかな時代もあれば、そうでない時代もあります。まったく当たり前のことです。

 したがって、もっと多くの自由を両殿下に与えるべきだ、という自由派の意見に賛成することはできません。西尾先生のいう「妃殿下問題」の本質が、自由が制限されていることにある、とはとても思えません。

 それなら事の本質は何か?

 西尾先生の場合は、近代社会の能力主義とは異質の存在であり続けたはずの皇室に、皇太子殿下の御成婚によって「学歴主義とクロス」した。それが「軋み」の始まりだ、と指摘していますが、私はそうではないと思います。

「伝統主義とのクロス」という先生の図式を借りるなら、皇室の伝統主義と小和田家・雅子妃が体現している近代の理念の「クロス」ではなくて、祭祀を天皇第一のお務めと信じる皇室の伝統と、その価値が理解できない戦後派官僚たちの非宗教的な憲法解釈・運用とが「クロス」する板挟みの現実のなかで、妃殿下が苦しまれているということではないか、と私は思います。

 祭祀の重要さを現代的に説明してくれる人が見当たらないどころか、いまや、廃止したら、と提言する知識人もいます。皇室にとっては最重要事の祭祀が宮内庁の公式的理解ではまるで公務の付け足しのように説明されています。

 側近によるご代拝の機会さえ奪われ、しかもその挙げ句に、「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくないように見受ける。というか、明確に拒否されて、すでに5年がたっている」(西尾先生の「諸君!」12月号論考)と名指しされています。

 入江侍従長ら宮内官僚が行った祭祀破壊の濡れ衣まで着せられて、精神的に苦しまれないはずはありません。


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批判の現実が見えない西尾先生 [西尾幹二天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 批判の現実が見えない西尾先生
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 先週の水曜日にチャンネル桜「桜プロジェクト」の番組収録がありました。テーマは宮中祭祀でした。限られた時間でしたが、祭祀の基本、戦後の改変などについて、私としては満足のいくお話ができたと思います。高森明勅キャスターのリードのおかげです。高森先生、ありがとうございました。
http://www.so-tv.jp/main/top.do


▽1 一神教を背景にした批判
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 収録のあと、正確な言葉は覚えていないのですが、アシスタントの芳賀優子さんが、皇室を攻撃する人たちの背景に何があるのか、というような質問をされ、ドキッとしました。私がこのメルマガでしばしば書いてきたことの中心的命題がここにあると思うからです。

 誰かフィクサーがいて、組織的な天皇反対運動を指揮しているのか、といえば、私には確証がありません。たぶんすべての反対論を動かしているような個人・組織というのは存在しないのだと思います。そうではなくて、このメルマガでも、今度出る書籍でも、書きましたが、文明のかたちに起因するのでしょう。

 たとえば、原武史・明治学院大学教授の宮中祭祀廃止論にしても、西尾幹二・電通大学名誉教授の東宮批判にしても、一神教文明を背景にしていることが指摘できます。前者は天皇の祭りをあたかもイエス・キリストの受難のように認識し、後者は無神論風の国民主権論を1つの特徴としています。

 天皇は日本の多神教的風土のなかで自然的に発生し、成長してきたので、多面的な奥深さをもっています。したがって、一神教的な分析は一面的な真理をふくんでいるように見えますが、あくまで部分的に過ぎません。一神教的な視点では全体が見えません。木を見て森を見ない批判の限界はここに起因します。


▽2 天に唾する西尾先生

 さて、「諸君!」12月号のトップに西尾先生の論考が載っています。しかし残念なことに、先生はご自身への反論をほとんど無視しているように私には見えます。

 先生の論考はある講演録に加筆したもので、相次ぐ論壇誌の休刊から雑誌ジャーナリズムの衰退について考察し、小さな現実を見て大きな現実を見ようとしないイデオロギーに起因する怠惰を指摘しています。

 先生によれば、先生の東宮批判はふたつの典型的な反応を呼び起こしたといいます。1つは平和主義的、現状維持的イデオロギー反応で、皇太子ご夫妻にもっと自由を与えよ、と主張するものでした。もうひとつは、皇室至上主義的イデオロギーからの熾烈な反応で、もの申すこと自体が不敬の極みで許されないと批判したのでした。

 一方は新時代の自由を訴え、他方は旧習墨守を唱える絵に描いたような、あまりに典型的な固定観念の執着に、先生は思わず笑いがこみ上げてきたそうです。そして、自由派も伝統派も、イデオロギーに執着するばかりで現実に目を閉ざしている、と指摘するのでした。

 先生の論考を読んで、イデオロギーの対立という平面的な図式的にとらわれているのは何のことはない、先生自身ではないかと私は思いました。イデオロギー化現象と単純化することによって、そのようには捉えきれない批判の現実を先生は見ようとしていないからです。先生は天に唾しているのです。


▽3 イデオロギー的限界性

 たとえば、何カ月か前に雑紙「正論」に載った新田均・皇學館大学教授の論考は、西尾先生が一方で皇位の世襲主義を言いつつ、東宮に徳治主義を要求するのは矛盾である、と批判しています。きわめて重要な指摘であり、むろんイデオロギー的反応でもありません。しかし先生のイデオロギー的な目には映らないのかも知れません。

 また、このメルマガで何度も書いてきたように、皇位を継承するのは皇太子お一人であるという明々白々な現実を見ずに、皇位を継承するわけでもない妃殿下への批判を強めるのは、先生ご自身の一夫一婦天皇制というべき誤ったイデオロギーが背景にあるのではないでしょうか。

 先生は、妃殿下が平成15年以降、「祭祀にいっさいご出席ではない」と何度も批判していますが、これも表面的な事実ばかりを見て、背景を深く見極めようとしない、それこそ怠惰な態度です。宮内官僚たちが制度的改変を断行したために、御代拝の機会さえ奪われてしまったという現実に、先生は目を向けようとしていません。

 物差しが無くてはものの大きさは測れないけれども、固定化した物差しがかえってものを見えなくする場合がありますが、先生自身もまたイデオロギー的限界性から解放されていないのです。


▽4 現実を見据えた議論を喚起できるか

 先生の論考は「雑誌ジャーナリズムよ、衰退の根源を直視せよ」と題されています。雑誌ジャーナリズム批判をほかならぬ雑誌メディアがトップ扱いで載せたというのはじつに画期的です。

 今度は「諸君!」自身が先生の批判に答えなければなりません。イデオロギー的ではない、現実を見据えた議論を喚起できるのか、小さな現実のみならず、全体性をにらんだ真摯な論議をリードできるのか、雑誌編集者の力量が試されています。


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皇室は近代の理念と対立しない ──西尾論文批判の続き [西尾幹二天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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皇室は近代の理念と対立しない
──西尾論文批判の続き
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「WiLL」誌上に発表された西尾幹二論文に対する批判を続けます。今回は、東宮批判の背景となっている論理の妥当性について、あらためて総合的に問い直します。
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 まず5月号です。西尾・電通大名誉教授は、伝統主義と近代の能力主義との衝突という図式を掲げます。簡単にポイントをまとめるとこうです。

 ──皇室制度は近代の理念が立ち入れない伝統の世界である。皇太子殿下と雅子妃とのご結婚は伝統主義と能力主義との衝突であり、その結果、軋(きし)みが生じ、妃殿下は病を得た。雅子妃問題は反天皇論者の標的となり、危険水位が上がっている。皇族は一時的に天皇制度をお預かりしている立場であり、船酔いで船に乗っていられないなら、下船していただくほかはない。

 妃殿下や父君・小和田氏の出自である官僚社会は、皇室とは水と油の関係にある、と断定されています。

▽1 西尾先生の妃殿下批判

 6月号の論文は、天皇の存在は国民にとって信仰問題である、という指摘から始まります。

 ──天皇家という神聖家族に神聖でない血脈が不規則、無定見に入り、神聖性が薄れることは神秘性の消滅をもたらし、権威の失墜をもたらす。いちばん恐れるのは、皇室の内部に異種の思想が根付き、増殖し、外から取り除くことができなくなることである。雅子妃殿下にも「国母」になっていただかなくてはならない。皇室がいつも祈っていてくださるから、国民は皇室を崇敬できる。皇太子ご夫妻は皇族としてのご自覚があまりにも欠けている。

 西尾論文は、皇后陛下の「伝統的な徳」を例示し、妃殿下に対しても同様の徳を要求しています。

 8月号では、天皇の精神的特別性という徳の要求がさらにつづられ、両陛下の努力を称える一方で、皇太子ご夫妻は「民を思う心」を育まれていないようには思えない、と批判を加えています。

 9月号では、ソ連崩壊後のロシアや第二次大戦後のドイツと対比させながら、長々と日本の敗戦の歴史が描かれています。国家の権力が失われ、国家中枢が陥没する恐怖の到来を警告するとともに、その主因は東宮殿下の世代になって、皇室みずからがパブリックであることをお忘れになっていることにある、と批判するのです。


▽2 一夫一婦天皇論の誤り

 結論からいうと、西尾論文には、議論の背景に4つの誤りがあります。

1、皇位は天皇お一人が継承するものであり、両殿下がお二人で継承するわけではありません。
2、皇位は世襲であると説明しながら、将来の天皇である皇太子のみならず、妃殿下にまで徳を要求するのは矛盾です。
3、天皇とは肉体をもった個人ではなく、歴史的存在です。
4、天皇にとってもっとも重要なことは祭祀を行うことです。

 ここでは第一の誤りについてお話しします。

 西尾先生が一方では、雅子妃問題は妃殿下個人の問題だ、と指摘しながら、その一方で大仰に国家的問題であると大騒ぎするのはなぜか、それは「ご夫妻は国家の象徴となられる方とその配偶者」だからです。

 しかしそこに基本的な誤りがあります。

 たしかに宮内庁のホームページには、「天皇皇后両陛下のご日程」が載っており、祭祀に関しても、「天皇皇后両陛下は,宮中の祭祀を大切に受け継がれ,常に国民の幸せを祈っておられ,年間約20件近くの祭儀が行われています」と表現されています。

 マスコミも、「天皇・皇后両陛下が国体の開会式に出席されました」などと報道しています。

 しかし、あたかも天皇と皇后がお二人で皇位を継承し、公務をお務めになるかのような、一夫一婦天皇論ともいうべき理解は誤っています。


▽3 皇族とは認められなかった

 歴史的に見れば、臣家出身の皇后や皇太子妃は皇族とは認められなかったようです。

 宮内庁書陵部が編纂した『皇室制度史料』には、古代の法体系である大宝律令では親王・王の配偶者は内親王・女王でないかぎり皇族とは認められなかったと推測される、とあります。

 日本書紀に載っている皇后の出自を見ると、仁徳天皇の皇后以降は皇女を通例としています。皇后の出自が皇女もしくは皇族に限られるとする慣習は、大宝律令以前に成立していたと考えられていますが、聖武天皇は新例を開き、その後、臣家の女子の立后が相次ぎました。

 けれども、江戸時代までは、臣家の女子は皇族に嫁したあとも皇族の範囲には入りませんでした。明治維新になって、つまり明治の皇室典範で、皇后や皇太子妃が皇族と称することが規定されたのです。

 皇后が陛下の敬称で呼ばれ、したがって天皇・皇后両陛下と併称されるようになったのも、明治の皇室典範が制定されてからのことです。古代においては、太皇太后、皇太后、皇后の三后、皇太子は殿下の敬称を用いることとされていました。

 また、明治の皇族身分令などで、皇后は大婚に際し、皇太子妃は結婚成約に際して勲一等に叙し、宝冠章を賜うことが定められました。

 皇后の崩御も古代においては必ずしも「崩」とは呼びませんでした。「崩御」と呼ぶようになったのは大正15年の皇室喪儀令以後であり、天皇と同じく追号を贈られるようになったのも近代になってからのことです。


▽4 近代化に伴う改革

 このような改革はなぜ起きたのでしょうか。

『皇室制度史料』は、明治19年の皇族叙勲内規制定に関する『明治天皇紀』の文章を引用しています。

「皇族叙勲のこと、従来、成法なし。欧州諸国にありては皇族の品秩おのずから備わり、生まれながらにしてその国最高勲位を帯ぶるものとす。しかれども本邦においてはまたおのずから皇族待遇の慣例あり。概して欧州の法にならうべからずといえども、外交、日に熾旺なるに際し、彼我の権衡を得しむることまた必要なりとす……」

 日本の皇位継承とヨーロッパの王位継承を比較すると、ともに世襲でありながら大きく異なるのは、父母の同等婚という原則の有無です。

 たとえばイギリスやスペインで女子の王位継承を可能にしているのは、父母がともに王族だからで、女系子孫に王位が継承されれば王朝が交替し、新たな父系の継承が始まります。しかし日本の天皇は父母の同等婚を要求しない代わりに父系の皇族性を厳格に求めてきたのです。万世一系という原則上、女系が認められるはずはないからです。

 別ないい方をすれば、日本では臣家の女子が皇太子妃や皇后となる可能性が大いにあります。近代の日本はその場合、欧米列強に伍していくために、たとえ臣家の出身であったとしても皇族待遇とした歴史に学んで、皇后や皇太子妃を皇族扱いとし、近代の皇室制度を整備したものと思われます。

 思えば、皇室こそ日本の近代化の先頭に立たれたのです。西尾先生は皇室の伝統主義が近代の理念と相対立するかのように書いていますが、一面的です。そして、皇族待遇である妃殿下に「君徳」を要求し、あまつさえ「下船せよ」と迫るのは行き過ぎです。

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「杜撰」と批判する「杜撰」──西尾論文批判の続き [西尾幹二天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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「杜撰」と批判する「杜撰」
──西尾論文批判の続き
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 今週も西尾幹二論文批判を続けます。今回は目下発売中の「正論」10月号に掲載されている松原正・早稲田大学名誉教授による西尾批判を取り上げます。

 松原先生は、西尾先生の「皇室論」を「杜撰(ずさん)」と斬り捨てています。西尾論文だけでなく、その矛先は杜撰さに眉をひそめることのない読者にも向けられ、「私にとってそれがまず意外であった」と言いきっています。

 松原論文の結論は、いかなる批判を受けようとも、日本が日本である限り、「天皇制」はなくならない、ということのようです。

 古代においては天皇を暗殺するような権力者がいたが、いまはいない。西尾が雅子妃への不平不満を述べ立てても、皇太子や雅子妃に迷惑がおよぶことはないし、皇太子が妃殿下を批判したり、両陛下が妃殿下をとがめ立てしない限り、妃殿下が困惑することもない。それが西尾論文の最大の弱点だ──と松原先生は強く主張します。

 しかし、正直に言えば、私は、松原先生の批判が何のことか、まったく理解できません。西尾先生の論文を「杜撰」「粗雑」ときびしく論難するだけでは、それこそ「杜撰」な批判といわざるを得ません。

 まず「その杜撰にだれ一人眉をひそめる者がない」と断定してしまうのは、まったく「粗雑」というほかはありません。「ない」という証明は誰にもできません。


▽1 中身がない

 西尾、松原両先生は、天皇あるいは天皇制をどう考えるのか、を比較検討してみます。

 西尾論文は、東宮批判の前提として、両殿下がお二人で皇位を継承するかのような、いわば一夫一婦天皇制論が考えられています。皇位は世襲であると指摘する一方で、天皇には徳が求められると主張し、妃殿下にまで徳を要求しています。

 さらに、肉体をもった個人のレベルで天皇を批評し、皇祖神の神意に基づき、祭祀を行うことをお務めとする天皇の御位へのまなざしを失っているという大きな誤りを犯しているのですが、これに対して、松原論文の批判はどうかといえば、天皇は政治主義とは無縁の永続的な価値を有する、天皇制は日本最古の制度である、というばかりで、それ以上の中身がありません。

 これでは単なる口論であって、知識人による議論とはいえません。議論がまったくかみ合っていないのです。

「いい加減な物書き」などと口汚く罵るのではない、建設的な議論はできないものでしょうか。

 唯一、松原論文に価値を見出せるのは、ご成婚以前とご成婚後の雅子妃殿下の違いについて言及していることです。ご結婚前は「軽佻浮薄」が認められるかもしれないが、いまも続いているとはとうてい思えない、と論文は指摘しています。人は変わり得るし、成長します。当然のことです。


▽2 「荒唐無稽」な批判

「天皇無敵」といわれますが、皇室の戦後史を振り返るとき、私は「敵」を強烈に意識せざるを得なかった後水尾天皇の生涯を思い起こします。

 大阪府島本町の古社・水無瀬神宮に、後水尾天皇の宸筆(しんぴつ)が残されています。

 この地にはその昔、後鳥羽天皇の別宮があり、天皇は行幸のおり、「見渡せば山もと霞む水無瀬川 夕べは秋となにおもひけむ」とお読みになりました

 その後、天皇は北条氏の横暴ぶりを憎まれて挙兵し、失敗されて隠岐に遠流(おんる)となられ、やがてこの地に後鳥羽天皇をまつる御影堂が建てられました。

 それから400年後、「歌聖」と称えられる後鳥羽天皇に心を寄せられ、水無瀬の地を訪れた後水尾天皇は、求められるままにこのお歌を宸翰(しんかん)されたのですが、最後の「けむ」を「剣(けん)」とお書きになりました。

 軍事に関することを避けられるのが天皇の帝王学ですから、これはただならないことでした。後水尾天皇は後鳥羽天皇にご自身の姿を投影し、下剋上の最終段階にあって、朝廷をも従えようとした徳川三代と、目には見えない剣で激闘されていたものと思われます。

 しかし後年になると、後水尾天皇は円熟の境地に立たれ、争わずに受け入れるという至難の帝王学を実践され、天皇統治の本質を武の覇者である徳川氏に示され、皇室の尊厳を守られました。

 そのような心境は祭祀によって磨かれます。後水尾天皇が後光明天皇に書き送った手紙にこう書いてあります。

「敬神を第一に遊ばすこと、ゆめゆめ疎かにしてはならない。『禁秘抄』の冒頭にも、およそ禁中の作法は、まず神事、後に他事……」

 松原先生は「西尾のいう『(妃殿下が)祭場に立ち入らない義務の不履行』は平成15年以来のことに過ぎず、しかも皇太子がそれを承認しておられるのだから、『日教組の教師が卒業式で君が代を歌うことを拒否するように、高度に宗教的で古式豊かな宮中の密儀秘祭に反発し、受け付けないのではないか』という西尾の疑念は荒唐無稽である」と批判しています。

 当メルマガの読者はもうすでにご存じのはずですが、妃殿下の御拝礼のことは御代拝の制度が側近によって廃止されたことに問題があるのであり、皇太子殿下が承認しているとも思えません。したがって「荒唐無稽」という批判は、けっして西尾先生だけに向けられません。

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皇祖神こそ本当の「船主」である──西尾幹二東宮批判への反論 [西尾幹二天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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皇祖神こそ本当の「船主」である
──西尾幹二東宮批判への反論
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 西尾幹二論文批判を続けます。今号は、「日本」9月号(日本学協会)に掲載された、田中卓・皇學館大学名誉教授による批判をご紹介します。


▽1 田中卓名誉教授の批判
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 田中名誉教授の批判は「西尾幹二氏に問う『日本丸の船主は誰なのか』」というタイトルに示されるとおり、日本の天皇制度という「船」(日本丸)の「船主」すなわち主権者は誰か、と問いかけています。

 そもそも西尾先生は、天皇制度と天皇の関係を船と乗客の関係にたとえ、天皇家の人々はたまたま乗り合わせたのであって、「船主」ではないから、船酔いして乗っていられないなら「下船してもらうほかはない」と東宮批判をしていました。

 これに対して、船主は誰なのか、と反問したのが田中名誉教授でした。西尾論文には「船主」についての記述はなく、しかも「乗客」としては皇族ばかりが特筆されていて、その他の乗客については言及がないと指摘されています。

 西尾先生には『国民の歴史』という大著がありますが、これには天皇・皇室の歴史が抜けています。ここから田中名誉教授は、西尾先生の比喩から想定される「船主」は国民であって、だとすれば、国民の意思によって「乗客」である皇族を下船させ得る、あるいは船そのものを廃棄させ得る、革命の放伐(ほうばつ)論が西尾論文の底流に流れている、と論断するのでした。


▽2 答えになっていない西尾回答

 じつは田中名誉教授は「日本」7月号にも「日本丸の船主が誰なのか」と問う短いエッセイを書いていました。

 西尾先生はこれに対して、「船主のことは8月号に光格天皇の例できちんと書いている」などと答えていました(同誌8月号)。

「WiLL」8月号の西尾論文は、皇統断絶の危機にあって、「外から船に乗り移った新しい家系」の乗客として、光格天皇を記述しています。

 しかし、光格天皇の即位の例は船酔いした乗客に下船してもらうこととは事情が異なるし、「船主」について回答したわけでもない、と田中名誉教授はさらに批判します。

 そのうえで田中名誉教授は、日本丸の「船主」は皇祖・皇宗の御歴代であり、「乗客」は一般国民と考えるべきだと主張するのでした。


▽3 「神の死」の天皇論

 田中名誉教授の批判はじつにもっともです。言葉を換えていえば、西尾先生はいかにも皇室尊重を装いつつ、国民主権の立場で東宮を批判しており、田中名誉教授はこれを真っ向から批判したのでした。

 ならば田中名誉教授の批判に諸手を挙げて賛同し得るかといえば、少なくとも私は完全な同意を躊躇しています。

 皇室が日本丸の船主なのか、それとも乗客なのか、つまり国民主権か、君主主権か、という議論は近代ヨーロッパ風の、いかにも古くさい響きがあります。

 西尾論文は「皇室」対「国民」という近代的な対立構造の図式が底流にあり、主権在民の立場から東宮を批判しています。これに対して、田中名誉教授はいみじくも「主権在民という西欧のカビの生えた古いイデオロギー」を批判するのでした。

 田中名誉教授の批判には言及がありませんが、皇室が「船主」たり得るのは、皇祖神の神意があるからです。繰り返しになりますが、ほんとうの「船主」である皇祖神を抜きにした、いわば「神の死」の天皇論から東宮を批判するところに、西尾論文の最大の欠陥があります。

 なお、いわずもがなですが、私は読者の皆さんに皇祖神への信仰を求めているのではありません。


注=日本学協会発行の「日本」についてはこちらをご覧ください。
http://members.jcom.home.ne.jp/nihongakukyokai/nihon.htm

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1 祭祀の本質を語らない西尾先生 [西尾幹二天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 1 祭祀の本質を語らない西尾先生
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 西尾幹二先生が雑誌「WiLL」誌上に発表した東宮批判がさらに波紋を呼んでいるようです。当メルマガはこれを先々月から検証してきましたが、今号もこの作業を続けます。

 西尾先生は同誌10月号に「皇太子さまへの御忠言、言い残したこと」を書いています。「言い残したこと」というのは「皇太子殿下のご発言に対する最初の疑問」、つまり、「ご成婚時に雅子さんが殿下のお言葉として挙げられた、あの有名な『一生かけて僕が全力で雅子さんをお守りします』のこと」です。

 先生は指摘します。殿下は無疑問に高い位置にあられるということを教えられないできた。「敵」の存在を意識してお育ちになった。きちんとした帝王教育を受けていない。しかも、妃殿下にコントロールされているのではないか。もはや国民が安心していられない限界点を超えられているのではないか。「人格の否定」発言の瞬間に、である……。


▽1 相矛盾する価値を追求

「お守りする」発言が不適切であるとの指摘は、同意できないわけではありません。

 以前、書いたように、ご結婚のとき「雅子さんのことは僕が一生全力でお守りします」と語られたという皇太子殿下は、良き夫、良き父親になろうとし、良き家庭を築こうとされておられるようです。

「天皇に私なし」という伝統からすれば、マイホームを志向されればされるほど、かえって皇室の伝統的価値から遠ざかっていくことになるという危惧はもっともです。けれども、家庭の崩壊が指摘される現代において、東宮が社会の模範となることは価値あることでもあります。

 乳人(めのと)制度を破って、最初に母乳で子育てを始められたのは香淳皇后といわれます。戦後になって、皇后陛下(当時は皇太子妃)がはじめてお手元で子育てをされました。当時の皇太子殿下(今上陛下)は「親兄弟と離れて暮らすことは寂しい。自分の子供は手元に置いて育てたい」とご学友にしみじみ語られたようです(『天皇』宮廷記者会、昭和30年)。

 皇族が古来、親族の葬列に加わることを避けてこられたのは、公に徹されてきたことの証明ですが、今日ではそれとは相矛盾する私的価値をも追求しなければならない、という苦悩と葛藤を抱えているということではないかと私は思います。

 だとすれば、「お守りする」発言を「勘違い」と一概に断定することはできません。西尾先生の批判は一面的といわざるを得ません。


▽2 君徳は祭祀によって磨かれる

「お守りする」発言が、「お気の毒に一般民衆と同じように、早くから国内の『敵』の存在を意識してお育ちになったのではないか」という疑念を感じさせるという指摘も一面的です。

 なるほど「仁者無敵」「天皇無敵」といわれますが、「敵」を意識せざるを得なかった天皇は少なくありません。たとえば、下剋上の最終段階で朝廷をも従わせようとした徳川三代と熾烈な攻防を演じざるを得なかった後水尾天皇はその典型と思われます。

 その苦難の生涯については以前書きましたので、ここでは繰り返しませんが、その後水尾天皇が後年においてはさすがに円熟され、争わずに受け入れるという至難の帝王学を実践し、皇室の尊厳を守られました。
http://homepage.mac.com/saito_sy/tennou/H140311JSgomizunoo.html

 つまり、西尾先生が強調する君徳とは最初から備わっているものではありません。はじめから「公正無私」なる存在なのではなくして、「無私」「無敵」なる理想に近づこうと不断の努力をされている、というのが重要なのだと思います。

 であればこそ、先生は帝王学の教育が必要だと指摘されるのでしょうが、そうではないと私は思います。

 第1に、天皇もしくは皇太子に、誰が帝王学を授けるのでしょうか。いったい何を教えるのでしょうか。具体論になると、先生が指摘するように、「戦後日本の教育」という現状では実現可能性を疑わざるを得ません。

 第2に、もっと大切なことは、天皇の無私なるお立場は皇祖神の神意に基づくものであり、天皇の徳というものは祭祀によって磨かれます。したがって求められているのは、帝王学の教育ではなくて、現行憲法下、側近らによって改変されてきた宮中祭祀の正常化です。


▽3 むしろ国民に対する啓発を

 先生が批判しているのは、目に見え得る部分の皇室です。しかし皇室にとってもっとも本質的なことは、「およそ禁中の作法は神事を先にす」(順徳天皇「禁秘抄」)という祭祀の厳修であり、それは人が見ていないところで行われます。

 先生が指摘するように、現代はメディアの時代であり、「現実には道徳とか人格といった人間的尺度によって制度が支えられてきた一面がきわめて大きかった」とするなら、「若い皇族方が置かれている教育環境の変革が皇室の維持のために絶対の必要」なのではなく、目に見えないところで行われている祭祀の重要性を、むしろ国民に対して啓発することが「必要」なのではないでしょうか。

 西尾先生は、皇太子妃殿下が平成15年以降、「祭祀にいっさいご出席ではない」と何度も批判しています。昭和50年代以降、側近らによって皇后、皇太子、同妃の御代拝の制度が廃止されたというのが実態で、一概に妃殿下を責め立てるべきではありませんが、それならなぜ祭祀が重要なのか、先生の論文には祭祀の本質に関する説明が見当たりません。


▽4 テレビ時代だから?

 前半生において幕府と激しく敵対せざるを得なかった後水尾天皇が、後年、後光明天皇に書き送った手紙が残されています。

「帝位にそなわっているという御心があれば、知らず知らずのうちに傲慢になり、人の言葉に耳を傾けなくなるものだから、十分に気をつけて、慎むことが肝要である」とつづり、さらに「敬神を第一に遊ばすこと、ゆめゆめ疎かにしてはならない。『禁秘抄』の冒頭にも、およそ禁中の作法は、まず神事、後に他事」と、順徳天皇を引用して、天皇のもっとも重要なお務めは神事であることを明記されています。

「世はテレビ時代」だから、といって、皇位の本質を変えるのは本末転倒です。「勘違い」しているのは果たして殿下でしょうか。

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東宮批判より祭祀の正常化を──西尾幹二先生の批判について考える [西尾幹二天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 東宮批判より祭祀の正常化を
 ──西尾幹二先生の批判について考える
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 西尾幹二先生による東宮批判の検証を続けます。今号は「WiLL」9月号の論考を取り上げます。
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 先生は同誌の論考で、ソ連崩壊後のロシアや第二次大戦後のドイツと対比させながら、長々と日本の敗戦の歴史を描いています。先生が、敗戦と占領で日本の精神の中枢が毀(こわ)され、権力の空白をアメリカが埋めた経緯を深刻なものとして振り返るのは、日本の権力が失われ、国家中枢が陥没する恐怖の到来を感じるからです。

 先生は、権力の不在、国家中枢の陥没の主因が東宮殿下の世代になって、皇室みずからがパブリックであることをお忘れになっていることにある、と指摘しています。

 そして、皇室は「民を思う心」によって国民の崇敬と信頼をかち得てくださればいい、と願うのでした。


▽1 重要なのは天皇個人ではなく皇位

 先生の心配は理解できないわけではないのですが、論考には天皇・皇位に関する認識に基本的な誤りがあるように私は思います。

 もうすでに繰り返し書いてきたことですが、先生は天皇という存在を、固有名詞で呼ばれる個人と理解しています。だから、「昭和天皇が御退位にならず、日本の歴史の連続性を身をもって証明してくださった」と「感謝」することになります。

 しかし天皇による歴史の連続性というのは、天皇個人の政治的行為の結果ではないはずです。ヨーロッパの王制とは違うのです。そうではなくて、先生のいう「パブリック」、つまり公正無私なるお立場での「祈り」の継承が日本の歴史の連続性を意味しているのだと思います。

 祭りの霊力によって、多様なる国民を統合してきたのは、個人としての天皇ではなく、歴史的存在としての天皇です。歴史家が個人としての天皇に注目するのは理解できますが、重要なのは祭祀王としての天皇の地位、つまり皇位です。


▽2 君徳は皇祖神の神徳による

 先生の論考の第二の誤りは、その皇位の継承が将来、皇太子・同妃両殿下によってなされるかのように理解していることです。9月号の論考では、いみじくも「皇太子殿下妃殿下の皇位継承」と表現されていますが、完全な誤りです。皇位を継承するのは、いうまでもなく天皇お一人です。

 両殿下によって、あるいは両陛下によって、皇位が継承される、と誤解しているから、妃殿下批判に血道を上げ、「天皇制は雅子さま制に変わる」ことを妄想たくましく忌避することになるのでしょう。

 第三の誤りは、世襲による皇位の継承者に対して、国民の立場から国民の信頼に足る「徳」を要求していることです。

 このことは同じ号に載っている渡部昇一先生の論考「『雅子妃問題』究極の論点」にも共通しています。渡部先生も盛んに「天皇の御君徳」を力説しています。

 天皇に君徳が備わっていることは望ましいことですが、君徳が皇位継承の要件ではありません。皇位は世襲であり、皇祖神の神意に基づきます。天皇の君徳とは皇祖神のご神徳によるものであり、祭祀の厳修によって磨かれます。


▽3 見当たらない神への畏れ

 したがって重要なことは、東宮殿下が「パブリック」であることを忘れないようにすることではなく、天皇の祭祀の正常化を図ることだと私は思います。

 西尾先生は、敗戦が近づいた日々の昭和天皇こそ、「ゼロ時」(法の庇護から見放された「無権利状態」)の体験者だった、と書いていますが、そのようなときにあっても昭和天皇は「国平らかに、民安かれ」と祈る祭祀王としての自覚を忘れませんでした。

 昭和20年の元旦、空襲警報が鳴るなかで昭和天皇は四方拝をおつとめになり、翌年の歌会始では「ふりつもるみ雪にたへて色かへぬ松ぞ雄々しき人もかくあれ」と詠まれました。

 繰り返しになりますが、求められているのは東宮批判ではなく、祭祀の正常化です。原武史教授の「祭祀廃止論」批判でお話ししたように、昭和50年以降、憲法の政教分離原則をことさら厳格に考える官僚たちによって、天皇の祭祀が破壊されたままになっているのは、じつに由々しいことです。西尾先生の論考は、原論文と同様、神への畏れが見当たりません。

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皇位継承者の資格を誰が判断するのか──西尾幹二先生の東宮批判を批判する [西尾幹二天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 皇位継承者の資格を誰が判断するのか
 ──西尾幹二先生の東宮批判を批判する
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 西尾幹二先生の東宮批判に対する検証を続けます。今号は「WiLL」8月号の論考を取り上げます。
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▽天皇の「特別性」

 西尾先生の論考は、天皇が隔絶した、特別の存在である、という指摘から始まります。その特別性は精神的特別性であり、国民共同体の中心であるという特別性です。

 歴代天皇は民を思い、民を歌に詠まれた。今上陛下は歴代天皇ほどではないにしても、社会に高くそびえる位置に座しておられる。これは両陛下のご努力などに負うところが大きい、と論を進めたあと、それに比べて皇太子ご夫妻は「民を思う心」を育まれていないようには思えない、と先生は批判を加えています。

 また、故・会田雄次氏の発言を引用し、日本の皇室は畏敬されるという側面が非常に重要であるのに、国民と皇室の距離が動き、世代交代のたびに威厳を失っていくことについて、先生は憂慮しています。

 つまり、国民の中心に天皇がおられ、慈しみと慮りの心を注いでおられる、という古代からのリアルな実感が失われているのではないか、と先生は心配しています。

 とくに、一般社会から皇室に入られた妃殿下の場合は、徳を求められても、尊敬以外に見返りが乏しいことに共感できないのではないか、とも書いています。

 そのように先生が考えるのは、先生の表現に従えば、天皇と国民との関係性が天皇そのものだ、と理解するからです。であればこそ、最大の問題は、悠仁親王殿下に「特別性」を身につけていただくための帝王学だという議論も導かれます。


▽神々の不在

 しかしそうではないだろう、と私は考えています。

 まず一点目。もうすでにお話ししたように、「神は死んだ」と宣言したニーチェの研究者だからということかどうかは分かりませんが、先生の天皇論には神々が欠落しています。

 これは重要なことだと私は思います。先生は「国民共同体の中心」としての天皇について冒頭から力説していますが、それは先生自身が「精神的」と指摘されているように、単に疎開先でイナゴを食べたというような実社会で生活体験を共有しているというレベルを超えたところのものなのだと思います。

 天皇が国民と共にあるのは精神のレベルにおいてであり、それは国民と命を共有しようとする神人共食の祭祀に由来します。神々を抜きにして特別性はあり得ないのに、先生の議論には神々がいません。

 実社会のレベルのみで議論することは、皇太子・同妃両殿下は格差社会の救世主になるべきだ、と訴えた原武史教授の宮中祭祀廃止論と同じになってしまいます。

 第2点目として、皇室が国民から畏敬される存在であることは望ましいことですが、たとえば武烈天皇のように「性質が荒々しく、あらゆる悪行を重ねた」という天皇もおられます。それでも天皇は天皇なのです。

 また、天皇は肉体を持った個人ではなく、歴史的存在であり、個人崇拝の対象ではありません。天皇個人が、ましてや皇太子両殿下が畏敬される存在であるかどうかは、皇位の本質とは関係がありません。

 皇位の本質とは「国平らかに、民安かれ」と祈る祭祀にあります。したがって天皇の帝王学として書道や国史、西洋史などを学ぶことより、祭祀の整備が求められます。

 先生が指摘するように、皇太子妃殿下が祭祀に「いっさい参加していない」のは、すでに当メルマガが何度も書いてきたように、妃殿下の問題というより、誤った政教分離の観点から御代拝の制度を廃止してしまった宮内官僚たちの責任です。


▽皇祖神の神意

 先生は、皇室がわが国と国の民の守り神であることへの国民の宗教的信仰心がまずあり、民を思う天皇の「無私の精神」と相まって「公」が成り立つのであって、どちらか一方が欠けてもうまくいかない、とおっしゃるのですが、そうではありません。

 まず最初にあるのは、国民の信仰ではなくて、皇祖神の意思です。「公」を成り立たせているのは民の信仰と天皇の意思である、というのではなくて、皇位を成立させているのは皇祖神の意思と天皇の祭祀と国民の崇敬心です。とりわけ重要なのは皇祖神の神意です。

 したがって、先生がおっしゃるように、皇太子ご夫妻に慎重さと努力が足りないことは明らかだから、国民の心は天皇家から離れていく、とにわかに結論づけることはできません。

 繰り返しになりますが、先生の天皇論には神々がいません。先生が考える国民の信仰もいわば地上の信仰であって、だから両殿下の人間的振る舞いに心が左右されるのです。東宮批判が一面的になる所以です。

 皇位を継承するにはそれだけの資格が必要であることはいうまでもないことですが、資格の有無は皇祖神をさしおいて民が判断することではないし、判断するまでもないことでしょう。

 次号では、9月号の論考を取り上げ、論点をあらためて整理したいと思います。
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