SSブログ
竹田恒泰天皇論 ブログトップ

葦津珍彦の天皇論を学び直してほしい ──竹田恒泰氏の共著『皇統保守』を読む 最終回 [竹田恒泰天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2016年5月29日)からの転載です

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
葦津珍彦の天皇論を学び直してほしい
──竹田恒泰氏の共著『皇統保守』を読む 最終回
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 現代を代表する伝統主義者の1人である竹田恒泰氏の天皇論を、10回にわたり、あえて批判的に読み進めてきました。

 他意はありません。伝統主義的天皇論の進化を心から願うからです。

 しかしどうしても理解できない人もいるようです。私の表現力がつたないからなのか、個人攻撃をしていると見る人が少なくないようです。

 くれぐれも誤解のないようにお願いします。誰が間違っているとか、悪いとかいうのではありません。天皇論の進化がテーマなのです。

 結論的にいえば、竹田氏に限らず、伝統主義的立場の天皇論をもう一度、葦津珍彦のレベルにまで戻し、葦津の天皇論を原点として、あらためて学び直すべきだと思います。葦津の天皇論を超えるものを、少なくとも私は知りません。


▽1 「尊さ」から「存在理由」に変わる

 本論に入る前に、1点だけ申し上げます。

 前回、私は、8年前に出版された、八木秀次氏との共著『皇統保守』と、最近、iRONNAに載った竹田氏の論考を比較し、「何も変わっていない」と申し上げましたが、じつは大きく変化している点があります。

 竹田氏は『皇統保守』では、天皇の「尊さ」を問いかけたのでした。「万世一系論を議論することは、『天皇がなぜ尊いのか』という議論に直結する」と述べ、葦津珍彦の天皇論を引いたうえで、「葦津先生は『言葉では説明できない』と断言されるわけです。私もそうだと思うんです」と語っていました。

 これについて、私は、葦津は「なぜ尊いか」と発問していないし、「説明できない」とも言っていない。葦津は「日本の国体」の多面性を指摘し、「抽象的な理論で表現することは至難」と説明している(「国民統合の象徴」)。葦津の天皇論のテーマは「天皇制の存在理由を明らかにしようとするもの」(「天皇制研究とは何か」)だったと批判しました。

 それが、今回、たいへん興味深いことに、竹田氏の論点は「天皇の尊さ」から「男系継承の制度趣旨」に変わり、そのうえで、「人々の経験と英知に基づいて成長してきたものは、その存在理由を言語で説明することはできない」とあらためて言い切っています。

 論点は葦津風の「存在理由」に変わりましたが、「葦津」の名前は消えました。


▽2 「尊さ」と「存在理由」は同義ではない

「葦津」が消えたのはまだしも、「尊さ」が「制度趣旨」「存在理由」に変わったのはなぜでしょうか。

 天皇は「尊い」から「存在」すると竹田氏はお考えなのでしょうか。

 むろん古来、連綿と男系男子によって継承されてきた天皇の存在は「尊い」ものです。けれども、「尊さ」は「存在」の理由でも目的でもないでしょう。

 アメリカ建国時代の、もはや神話化された大統領の事績を「尊い」と感じるアメリカ国民はいるでしょうが、アメリカ大統領は「尊い」から存在すると考える人は少ないと思います。「尊さ」と「存在理由」は同義ではありません。

 同時に、歴史的に長く続いてきたことが「尊い」という感覚は、あくまで現代人の視点に過ぎないように思います。

 天皇という「存在」を編み出した古代人にとっては「尊さ」のほかに「存在理由」があったはずです。「歴史と伝統」への感覚を失いつつある現代人にとっては、むしろその「存在理由」こそが重要なのではありませんか。

 葦津が問いかけた、天皇の「存在理由」とは、現代人にとってのみならず、各時代において、多様なる、それぞれの民にとっての「存在理由」だったはずです。


▽3 神社界を本拠地とした葦津珍彦

 葦津珍彦は福岡・筥崎宮の社家の家系に生まれました。戦前から戦後の、知られざる日本近代史の生き証人でもあります。

 青年期には頭山満や今泉定助などと交わり、中国大陸での日本軍の行動や東條内閣の思想統制政策を痛烈に批判し、大戦末期、朝鮮の独立工作を進めたことも知られています。

 敗戦で日本の宗教伝統が過酷な状況に陥るといち早く察知した葦津は、「神道の社会的防衛者」となることを決意し、戦後の神社本庁創設、紀元節復活、靖国神社国家護持、剣璽御動座復古、元号法制定などに中心的役割を果たしました。

 著書は50冊を超え、一介の野人を貫いて、平成4年春、82歳でこの世を去りました。

 生涯、本拠地とした神社界では「戦後唯一の神道思想家」と呼ばれていますが、いまやその存在と言説を知る人はけっして多くはないと思います。

 かくいう私も、単なる「右翼ジジイ」ぐらいにしか思っていませんでした。知らないというのはじつに恥ずかしいことです。

 膨大な著書は、論理をつないでいる事実がしばしば飛んでいて、読みやすいものではありません。私の葦津研究は、歴史の事実を再確認し、穴埋めするところから始まりました。葦津がいみじくも

「日本の国体というものは、すこぶる多面的であり、これを抽象的な理論で表現することは、至難だ」

 と述べているように、私は神道学や民俗学のほか、食文化、稲作農業史、比較文化など多岐にわたる著書を読みあさる羽目になりました。しんどいことでした。


▽4 葦津の天皇論を知らない人なら

 竹田氏が「なぜ男系男子でなければならないのか」を問いかけ、そして「理由などどうでもよい」と切り捨てたエッセイは、葦津が仕事場とした神社界でもっともよく知られる神社の一社が開設したサイトに載っています。

 八木氏との共著は、「葦津珍彦に学ぶ」ことが表明され、著書が何度か引用され、「神社界では」という表現も見られます。

 葦津を知らない現代人に葦津の名前を知らしめた点では、竹田氏は間違いなく最大の功労者の1人だろうと思います。

 しかし、すでに指摘したように、葦津とは問題関心も違うし、引用の内容も正確とはいえません。結論も異なります。

 葦津の天皇論を内容的によく知らない人にとっては、正統な保守主義を引き継ぐ葦津の後継者が現れたと大歓迎するかも知れません。

 著名神社のサイトにエッセイが載っているのは、その結果と思われます。

 出版や講演のほか、メディアへの露出も多いのは、ビジネスとしては大成功なのでしょう。喜ばしいかぎりです。


▽5 葦津を知る人ならすぐ分かる

 けれども、葦津とその天皇論を知る人たちは、どう考えるでしょうか。

 竹田氏は「葦津に学ぶ」と表明し、天皇=祭り主論を展開していますが、葦津の天皇論は単なる祭り主論ではありません。竹田氏はある神道学者の学説に依拠し、宮中祭祀=稲の祭りと論じていますが、葦津は違います。

 葦津は稲の祭りともそうでないとも述べた形跡はありません。少なくとも私は読んだことがないのですが、稲の祭り論では葦津が主張する、天皇=「国民統合の象徴」とはなりにくいでしょう。

 天皇の祭祀=稲の祭りでは、稲作民を精神的に統合することはできても、畑作民をも統合する儀礼とはなりにくいでしょう。ローマ教皇の典礼がカトリック信徒を統合し得たとしても、プロテスタントやムスリムたちを精神的に統合し得ないのと同じです。

 稲作民のみならず畑作民をも精神的に統合することが天皇の存在理由であるならば、古代律令に「およそ天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇祭れ」と定められたように、天皇は皇祖神のみならず天神地祇に、米と粟を捧げ、祈ることになるのでしょう。

 伊勢神宮の祭りが徹頭徹尾、稲の祭りであるのとは当然、異なるわけです。

 竹田氏の天皇論が葦津の天皇論とは似て非なるものであることは、葦津をよく知る人なら簡単に分かるでしょう。


▽6 心からお願いしたい

 もちろん結論が異なること自体は、批判されるべきことではありません。

 しかし、「学ぶ」というのなら、誤解されかねない「引用」は避けるべきだろうし、何がどう異なるのか、なぜ異なるのか、明らかにされるべきでしょう。

 もし本気で「葦津に学ぶ」とお考えなら、あらためて葦津の研究を読み直し、天皇研究を総合的に深めていただけないでしょうか。心からお願いします。

 葦津が生涯をかけて取り組んだ天皇研究は、神道論、近現代史論、憲法論など、多岐にわたっています。多面的アプローチが必要だと考えていたからでしょう。

 総合研究としての天皇論が求められています。けれども、だとすれば、1人では困難です。1人の人間が短い生涯でできることは限られています。どうしても共同研究が必要なのです。

 差し迫った現実問題として、次の御代替わりを考えるなら、前回のような不都合が繰り返されないためには、一刻も早い取り組みが求められていると思います。

 竹田氏だけでなく、竹田氏が組織する研究会の方々にも、お願いしたいと思います。「葦津に学ぶ」が出発点です。

 必要とあれば、私もご協力を惜しまないつもりです。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

葦津珍彦の天皇論に何を学んだのか ──竹田恒泰氏の共著『皇統保守』を読む その9 [竹田恒泰天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2016年5月15日)からの転載です

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
葦津珍彦の天皇論に何を学んだのか
──竹田恒泰氏の共著『皇統保守』を読む その9◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


▽1 祭祀を「天皇の国事行為」に

 竹田恒泰氏と八木秀次氏の共著をテキストに、竹田氏の伝統主義的天皇論をあえて批判しています。竹田氏は「戦後唯一の神道思想家」といわれる葦津珍彦に「学ぶ」と仰せですが、むしろ不一致点が目立ちます。

 私の天皇・皇室論は葦津の天皇論を一般に紹介することが出発点でしたから、竹田氏の天皇論は親近感と期待を込めて読み始めました。けれども、読めば読むほど相違点が明らかになり、私は逆に驚きを禁じ得ないでいます。

 竹田氏は葦津に何を「学んだ」のでしょうか。

 第二章で竹田氏は、葦津の天皇論を引用しつつ、祭り主論、政教分離論へと展開させ、最後に憲法改正論を、八木氏とともに論じています。

 竹田氏は、まず天皇は日本の「国家元首」だと論じ、そのあと、宮中祭祀を「天皇の国事行為」に明記すべきだと訴えています。そうすれば、政教分離関連訴訟は「雲散霧消する」というのです。

 これには八木氏も、「憲法典の文言で明記することが重要ですね」と応じ、

「皇室基本法を制定したり、皇室典範を改正したりという法整備では、以後の憲法論議の火種を残す」

「憲法の下位法令でしかない法律レベルで整備しても、法的に解決したことにはなりません」

 と論じています。


▽2 国民を統合する国政上の権能

 けれども、これは天皇=祭り主論を出発点とする葦津の憲法論とは異なります。天皇は稲の祭りを行うというような、単なる祭り主ではないのであり、葦津はもっと根本的な改革を求めているのだと思います。

 それは、欧米の近代国家における「国家元首」と、古来、祭り主である日本の天皇との違いが意識されるからでしょう。

「皇祖の神器を承けて、民安かれ国平らかなれとの精神をもって、ひたすらに祈り、全日本国民に、避けがたい党派の別、利害の対立の壁を越えて、国民の精神を高い一点で統合なさるべき御方である。その祭り主が国家の主席に立たれる」(『天皇─日本人の精神史』)

 いにしえから、祭りをなさることで、国民の精神を統合されるお役目を担ってきたというのが、葦津の天皇論の基本です。

 ところが、日本国憲法は「国民統合の象徴」と定めながら、「国政に関する権能を有しない」と明記している。「日本国民の意思が分裂し、国情が混乱するような事態が生じたとしても、天皇はこれを統合するための働きをなさる権能がない」と葦津は批判しています。

「日本国民の意思の統合を図るための『天皇の国政上』の権能を否定していることは、現行憲法の最も重大なる欠陥といわなければならない」(「天皇・祭祀・憲法」)

 国事行為に「祭祀」を加える程度の憲法改正ではすまされないことになります。


▽3 葦津は「旧皇族の皇籍復帰」を否定

 葦津は、とくに2つのことを主張しています。

 1点は、皇位継承に関してで、「天皇・祭祀・憲法」のなかで、

「皇位継承に関する法は、当然、憲法と同一の重みを持つべきである。その改変には当然に天皇の裁可(同意)を要すべきである」

 と訴えています。

 明治の皇室典範は大日本国憲法と同等の権威がありました。それぞれ宮務法、国務法として区別され、相並立していました。けれども、戦後は日本国憲法に一元化され、八木氏が指摘するように、現行の皇室典範は日本国憲法の下位法に過ぎません。

 国家の基本中の基本である皇位継承が、天皇の意思を無視し、国会議員の多数決で改変し得るのは、「まったく非常識と評するほかはない」と葦津は一刀両断にしています。

 平成の御代になって、政府が有識者会議などを開きながら、皇族方の意見に耳を傾けないやり方も、葦津にいわせれば「非常識」となるでしょう。もともと「皇家の家法」なのですから。

 竹田氏は共著の第一章で「皇位継承者を確保する方法」に言及し、「旧皇族の皇籍復帰など」を提案していますが、一方、葦津は、

「ひとたび皇族の地位を去られしかぎり、これが皇族への復帰を認めないのは、わが皇室の古くからの法である」

「この不文の法は君臣の分義を厳かに守るために、きわめて重要な意義を有するものであって、元皇族の復帰ということはけっして望むべきではないと考えられる」

 と否定し、そのうえで、「皇庶子皇位継承の道」を認めるべきではないか、と問題提起しています(「天皇・神道・憲法」)。


▽4 条文を変える憲法改正ではなく

 2点目は、天皇の祭祀です。

 竹田氏は祭祀を「憲法の国事行為に」というお考えですが、明治憲法にも祭祀の規定はありませんでした。祭祀について明文化していたのは宮務法たる旧皇室典範で、

「第10条 天皇、崩ずるときは皇嗣すなはち践祚し、祖宗の神器を承く」

「第11条 即位の礼および大嘗祭は京都において、これを行ふ」

 との条文がありました。

 ところが、戦後の皇室典範には神器渡御や大嘗祭の定めがありません。

 葦津は由緒正しい祭儀が皇室典範から消えたのはなぜかと批判し、「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」(憲法第20条)とする政教分離規定に言及したうえで、

「現行憲法の解釈としても、天皇のかような祭儀が、宗教的活動として禁ぜられるべきものとは思わない。それは、宗教的儀式と称せられるべきものではないし、いわんや宗教的活動ではないと思う」

「とにかく論議の起こる余地のないように、天皇が天皇としての御祭りの御執行が滞りなくできるように、ぜひ憲法の姿を正していただきたいと思う」

 と主張しています(「天皇・祭祀・憲法」)。

 実際、平成の御代替わりでは、政教分離がらみのさまざまな不都合が生じました。

 憲法の条文を変えるというような憲法改正ではなくて、典憲体制の大枠を変える必要があるというのが葦津の考えなのだと思います。

 それは、天皇の祭り=稲の祭りと考える竹田氏の天皇論と国民統合の儀礼と考える葦津の天皇論の違いなのでしょう。


▽5 「国事行為」とされた御結婚の儀

 蛇足ながら付け加えますが、昭和34年4月、賢所大前で今上天皇(当時は皇太子)の御結婚の儀が行われました。政府はこれを「国の儀式」(天皇の国事行為)としました。

「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」と規定する現行憲法下において、宮中三殿で行われる皇室の祭祀が「国事行為」として行われたのは、画期的です。当時の総理大臣が昭和天皇に上奏し、裁可を得たことが示される公文書も残されています。

 けれども、皇太子の御成婚の儀が「国の儀式」として行われたのに、皇位継承の諸儀式でもっとも重要な大嘗祭が「国の行事」としては行われず、「皇室行事」とされたのは、いかにも矛盾しています。

 なぜそうなったのか、が解明されなければ、何をどう変えるべきか、は見えてこないのではないでしょうか。

 竹田氏が主張するような、憲法を書き換え、宮中祭祀を「天皇の国事行為」に、という議論ではとうてい済みそうにありません。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

国民を統合する天皇のおつとめ ──竹田恒泰氏の共著『皇統保守』を読む その2 [竹田恒泰天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2016年4月24日)からの転載です

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
国民を統合する天皇のおつとめ
──竹田恒泰氏の共著『皇統保守』を読む その2
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 竹田恒泰氏の天皇論について、批判を続けます。

 私は、竹田氏の女系継承否認、「女性宮家」創設反対の結論には大いに同意する立場ですが、思考の過程については異議を唱えなければならないと考えています。

 竹田氏の天皇論では、女系継承肯定=「女性宮家」創設論に対して、十分に対抗することができないと思うからです。伝統主義を鍛え直す必要があると考えるからです。


▽1 「葦津に学ぶ」というけれど

 竹田氏の天皇論は、その著作によれば、天皇のお務めは祭祀を行うことにあるという、伝統主義的な、天皇=祭り主論の立場に立っています。

 その基本に置かれているのが、「戦後唯一の神道思想家」といわれる葦津珍彦の天皇論なのですが、ここに問題があるようです。

 竹田氏は、「葦津に学ぶ」と表明しつつ、実際のところは、問題関心も引用の中身も違っているように見えるからです。

 前回は、八木秀次氏との対談をまとめた『皇統保守』の第一章をテキストにして指摘しました。今回は第二章に読み進みます。

 この章は、まさに議論の中心となるべき祭祀論が展開されています。「宮中祭祀こそ皇室の存在意義」と題され、葦津の文章が繰り返し引用されているのですが、問題関心も結論も葦津とは異なっているように、少なくとも私には見えます。

 論点は、(1)宮中祭祀、(2)政教分離、(3)憲法改正論の3点かと思いますが、何がどう違うのか。その違いの背後に何があるのか、考えてみたいと思います。

 今回は、(1)について、考えます。


▽2 議論は十分なのか

 第二章の冒頭で、竹田氏は、「我々が皇統保守を語るうえで、『宮中祭祀』は避けて通ることのできないものです。天皇とは祭祀王である」と述べ、天皇=祭り主とする伝統的立場を表明しています。

 この章のテーマは、原武史氏(明治学院大学教授=当時)が平成19年ごろから主張された宮中祭祀廃止論に対する批判です。

 原氏の主張は、天皇=祭祀王論に挑戦する、きわめて挑発的な内容でした。けれども、基本的理解が致命的に欠けていて、間違いだらけだ、と当メルマガもかなり徹底して批判したことがあります。

 したがって原批判は当然であり、竹田氏の所論には共鳴するところも多いのですが、「宮中祭祀のことを何もご存じではない」とまで原氏を断じるのであれば、竹田氏ご自身はどうなのか、と問い直してみたくなります。

 葦津は、天皇が祭り主であると同時に、「日本人の精神の統合者」であると説明しています。天皇の祭りが国民統合の機能を持っているということなのですが、竹田氏の天皇=祭り主論には後者が抜けているようです。

 天皇が祭りをなさることはいかなる意味を持つのか、天皇の祭祀とは、したがって天皇による統治とはいかなるものなのか、竹田氏の追究もまた、廃止論を唱える原氏と同様に、十分とはいえないのではありませんか。


▽3 いかなる神に祈るのか

 竹田氏は、八木氏との対談で、祭祀が「皇室の根幹の部分をなすもの」「存在意義そのもの」であり、原氏がいうような明治の創作ではなくて、古代から続く伝統だと説明しています。

 元内掌典・高谷朝子氏『宮中賢所物語』も引用され、祭祀が「年間400回前後行われている」ことや「斎戒」や「作法」の実際について解説しています。

 それらはまったく仰せの通りです。

 竹田氏は、天皇の祭祀について、だれが、いつ、どこで、なにを、どのように、なさるのか、基本を正しく説明しています。

 しかし、肝心な点について、葦津とも、私とも、理解が異なるようです。

 つまり、天皇はいかなる神に祈るのか、それはどのような意味を持つのか、です。

 少なくともこの対談では、追究が十分でない。そのことが、そのあとの政教分離論や憲法改正論にも影響し、葦津を引用しつつ、葦津とは結論が異なる原因にもなっているように私には見えます。


▽4 皇祖神への祭りか?

 竹田氏は、「葦津先生の著書に、こう書かれてあります。天皇のことについてですが、『神に接近し、皇祖神の真意(「神意」の誤記であろう。校正ミスか)に相通じ、精神的に皇祖神と一体となるべく日常不断の努力をなさっている』と」と述べています。

 とすれば、天皇の祈りはもっぱら皇祖神に対して行われるもの、と竹田氏はお考えなのでしょうか。葦津は天皇=祭り主とされることについて、そのように理解していたのでしょうか。

 竹田氏の引用の出典を明示しようと思い、葦津の天皇論を洗い直してみましたが、なにしろ葦津の著作は膨大です。まだ見つけ切れずにいます。

 正確なところをご存じの方がいれば、助けていただきたいのですが、私の記憶では、天皇=神ではないという論旨の文章であり、そこには「天皇は皇祖神の神意に相通じ、精神的に皇祖神と一体たるべく日常不断の努力を行う祭り主であり、祭神そのものではない」と述べられていたように思います。

 葦津の趣旨は、むしろ「(天皇は)祭神そのものではない」にあるものと思います。葦津の祭り主論を引用するにしても、もっと適切な典拠が示せなかったものでしょうか。


▽5 天神地祇を祀ることの意味

 葦津の天皇=祭り主論を引用するなら、たとえば、「天皇・祭祀・憲法」に次のように書かれています。

「天皇の皇室における祭儀は……おおむね皇祖および歴代の皇宗に対する御祭である。それは天皇が、日本国の建国の祖およびその後継者たる歴代の祖に対して、その精神の現代における継承者として行わせられるものである。あるいは、日本国の歴世の功労者たちを追念して行わせられるものである。国民は、この天皇の祭儀によって、建国の精神を回想し、あるいは光輝ある国史の印象を新たにする。それは日本国天皇が、国家の精神的基礎を固め成し、国民の精神を統合して行かせられるためにも貴重な御つとめなのである」

 天皇の祭祀はむろん皇祖天照大神に捧げられます。しかし、葦津が書いているように、それだけではなく、歴代の天皇あるいは天神地祇に対して、祈りが捧げられます。国民をひとつに統合するお務めがあるからです。

 いみじくも宮中三殿は皇祖を祀る賢所のほか、皇霊殿、神殿を合わせた総称です。皇祖神にのみ祈るのなら、賢所の祭儀だけで十分です。

 竹田氏の天皇=祭り主論は皇祖神への祈りで終わっているのではないでしょうか。


▽6 竹田研究会に期待する

 竹田氏と対談した八木秀次氏が指摘しているように、第29代欽明天皇の時代、仏教の受容について、崇仏派が「西蕃の諸国は礼拝している」と主張したのに対して、「天地社稷を祀るのが天皇だ」と排仏派は反対したと古典に記録されています。

 第33代推古天皇の時代には仏教が国家的に受容されましたが、中国や朝鮮とは異なり、既成宗教が排除されず、共存しました。これも八木氏が指摘しているところです。

 古代律令には「およそ天皇、即位したまはむときには、すべて天神地祇祭れ」(神祇令)とされ、歴代天皇は皇位継承後、皇祖神のみならず、天神地祇を祀られたのです。

 八木氏の解説は、順徳天皇が『禁秘抄』に著された「およそ禁中の作法は神事を先にす」という皇室の祭祀優先主義を説明することが趣旨ですが、お二人の対談は、天皇が「天地社稷百八十神」を祀ること、「天神地祇を祭る」ことの意味が十分に深められていないように思います。

 竹田氏は全国的な研究会を組織されているようですが、天皇の祭祀とは何か、組織的な研究をさらに深めていただきたいと願っています。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

葦津珍彦の天皇論に学ぶ? ──竹田恒泰の共著『皇統保守』を読む [竹田恒泰天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2016年4月10日)からの転載です

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
葦津珍彦の天皇論に学ぶ?
──竹田恒泰の共著『皇統保守』を読む
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 竹田恒泰氏の本に、憲法学者の八木秀次氏との対談をまとめた『皇統保守』(2008年)がある。

 前書きによれば、「日本人としてのあるべき姿を取り戻し、将来の日本のあり方を真剣に考えたい。それが本書のテーマとなる『皇統保守』である」(「はじめに」)とされる。

 けっこうなことだが、それならなおのこと、気になる点がいくつかあるので、僭越ながら指摘したい。


▽1 言葉では説明できない?

 まず、第一章のなかの「なぜ、天皇は尊いのか──葦津珍彦に学ぶ」と見出しのついたくだりである。

 八木氏が主唱する、いわゆるY染色体論の議論に続いて、竹田氏は「Y染色体論、もしくは万世一系論を議論することは、『天皇がなぜ尊いのか』という議論に直結するわけです。この点では、やはり、戦後の神道界に絶大なる影響を与えに思想学者・葦津珍彦先生の理解が至当と考えています」と述べている。

 竹田氏は、「葦津先生は……『なぜ天皇が尊いのか』というところに関しては、『言葉では説明できない』と断言されるわけです。やはり、わたしもそうだと思うんです」と語る。

 日本人それぞれに、宗教観、歴史観、見た目など、さまざまな理由があり、天皇について好き嫌いがある。Y染色体論は、天皇の尊さに関する、数ある理由の1つに過ぎない、と説明している。

 竹田氏は、先般、取り上げたコラムでも、「なぜ男系継承でなくてはならないのか」について、「言語で説明することはできない」「理由などどうでもよい」と述べているが、説明を拒否する理由づけに、葦津の天皇論が引き合いにされているらしい。


▽2 葦津のテーマは国体論

 いわんとすることは理解できるけれど、誤解を招く恐れがあると疑われるので、指摘することにする。

 竹田氏の理解では、皇統が万世一系で続いてきたことは「尊い」ことであり、そこにはさまざまな理由がある。その尊さは葦津珍彦が指摘しているように「言葉では説明できない」ということなのだろう。

 そうだとすると、竹田氏の理解は、少なくとも私の葦津理解とは異なる。

 間違いがあればご指摘いただきたいが、私の理解では、葦津は「なぜ天皇は尊いのか」というような発問をしていないと思うし、血がつながっているから「尊い」というような議論をしているわけでもないと思う。

 そうではなくて、葦津のテーマはいわゆる国体論であり、国民の根強い国体意識ではないだろうか。


▽3 「国体」「国体意識」の多面性

 葦津は「思想の科学」昭和37年4月号に掲載された「国民統合の象徴」で、未曾有の敗戦によっても衰えることがなかった日本の天皇制の「根強い力」に注目し、「日本国民の天皇意識」について説明している。

「私の考えによれば、日本の国体というものは、すこぶる多面的であり、これを抽象的な理論で表現することは、至難だと思われる」

「(国民の国体)意識を道徳的とか宗教的とか政治的とかいって割り切れるものではない。そこには、多分さまざまの多彩なものが潜在する。とにかく絶大なる国民大衆の関心を引き付ける心理的な力である。これが国および国民統合の象徴としての天皇制を支えている」

「この根強い国体意識は、いかにして形成されたか。それは、ただ単に、日本の政治力が生んだものでもなく、宗教道徳が生んだものでもなく、文学芸術が生んだものでもない。それらすべての中に複雑な根を持っている」

 少なくともこのエッセイでは、葦津は、「天皇がなぜ尊いか」を解き明かしているのではなく、まして「好き嫌い」を論じているのでもない。

 葦津は、日本の天皇制が、世界史上の敗戦国とは対照的に、未曾有の敗戦を経験しながらも、なぜ強固に存続し続けているのか、その「根強い力」の秘密に迫っている。

 そのうえで、「言葉では説明できない」のではなくて、「日本の国体」あるいは「日本人の国体意識」の多面性、複雑性を指摘しているのである。「説明できない」と「断言」している柴五郎
のではなくて、「簡単には説明できない」ということだろう。


▽4 お内裏さまは天子さま

 たとえば別の文章で、葦津は、柴五郎陸軍大将の幼少期、幕末の会津藩の思い出を取り上げている(『天皇──日本人の精神史』)。

 朝敵とされ、必敗の戦いを迫られていた藩の屋敷には、例年通り、内裏びなが祀られていた。そのとき十歳の五郎が「母上、内裏様は天子さまと聞きますがまことですか」と聞くと、母は黙ってうなずいたという。

 天子さまを祭り敬っているのに、なぜ朝敵の汚名を着せられねばならぬのか、母に問いただしたかったが、厳しい表情を見て、思いとどまったというのである。

 ひな人形の歴史は少なくとも平安時代にさかのぼり、源氏物語が広く庶民にまで浸透する江戸期になって、御所文化への憧れが反映され、今日のような坐雛(すわりびな)が完成したといわれる。

 日本人の国体意識は、葦津がいうように多面的に形成されてきたのであり、ひな祭りの習俗もまたその1つなのである。


▽5 竹田氏に論じてほしいこと

 もう一点だけ、付け加えると、竹田氏の「皇統」論は、ともすれば血のつながりという生物学論に傾いているような響きがあるが、葦津の皇統論はそうではないと思う。

 竹田氏ふうに表現すれば、天皇は万世一系、血がつながってきたから「尊い」というのではなくて、葦津は、天皇が「万世一系の祭り主」であるという点を重視し、祭祀を天皇最大のつとめと理解している。

 時あたかも今月3日、陛下は神武天皇2600年式年祭を山陵で親祭になったが、初代天皇の式年祭を今上天皇が親祭になる意義はきわめて大きい。

 葦津は「天皇・祭祀・憲法」という一文で、次のように書いている。

「(天皇の)祭儀は、おおむね皇祖および歴代の皇宗に対する御祭である。それは天皇が、日本国の建国の祖およびその継承者たる歴代の祖に対して、その精神の現代における継承者として行われるものである。……国民は、この天皇の祭儀によって、建国の精神を回想し、あるいは光輝ある国史の印象を新たにする。それは日本国天皇が、国家の精神的基礎を固め成し、国民の精神を統合して行かれるためにも貴重な御つとめなのである」

 明治の典憲には天皇の祭儀について規定があったが、現行の憲法・皇室典範には神器の継承や大嘗祭の挙行に関する定めが消えている。葦津の天皇論に学ぶなら、竹田氏に論じてほしいのは、Y染色体論より、むしろそのことである。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

読売のスクープが「きっかけ」なのか ──竹田恒泰氏の「女性宮家」反対論を読む [竹田恒泰天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


 前回も取り上げた竹田恒泰氏の連載に、いわゆる「女性宮家」創設問題に関する記事が2本載っているので、読んでみたい。

 あらかじめお断りしておくが、竹田氏に個人的な恨みがあるわけではない。少しでも真実に近づきたいと考えるだけである。


▽1 にわかに浮上した?

 竹田氏は連載の第11回で、「女性宮家」創設が「禁じ手」だと指摘している。

 コラムによれば「女性宮家」創設案は「にわかに浮上した」ことになっている。読売新聞の平成23年11月25日付、「『女性宮家』の創設検討」というスクープ記事がきっかけだと竹田氏は理解している。

 読売の記事によると、宮内庁は「女性宮家」創設の検討を「火急の案件」として野田総理に要請したというのである。

 どこまで具体案が検討されているか、真相は不明だが、スクープがきっかけになり、皇室制度の議論が蒸し返されることになった、と竹田氏は指摘している。

 そのうえで、女性宮家創設は女系継承を容認することになる。「女系天皇論者」は陛下のご体調を慮る国民の感情を巧みに利用して、女性宮家創設の皮をかぶった女系天皇容認の新たな攻勢を仕掛けてきた。これは「禁じ手」だ、と主張している。

 ただ、容認し得る女性宮家創設の方法が1つだけある。女性皇族の「婿」を旧皇族の男系男子に限定すれば、男系主義は守られる、と竹田氏は述べている。


▽2 怪しげなスクープ

 竹田氏が言わんとするところは十分に理解できる。けれども、当メルマガの読者ならご存じの通り、事実関係についての理解は正確とは言いがたいと思う。

 1つは、「女性宮家」創設の議論は読売のスクープが「きっかけ」だとしても、創設論それ自体は「にわかに浮上した」のではなく、従来からあったのである。

 竹田氏の文章は、読売の記事について、「宮内庁が要請」と引用している。じつは記事のリードには「宮内庁が首相に要請」とあり、記事本文は「長官が首相に伝えた」とある。こうした記事の書き方に、竹田氏は違和感を覚えないのだろうか。

 しかも、のちに羽毛田長官は「首相に要請」という報道を「強く否定」している。

 よくありがちなことだが、かなり怪しげなスクープ記事だということになる。

 しかし誤報なら宮内庁は抗議すべきだが、抗議したとは聞かない。宮内庁関係者が「女性宮家」創設を主張していることは間違いない。読売の記者は、以前からの議論を蒸し返すために、リークされ、利用されたのではないか。


▽3 もともと同じ議論

 2つ目は、「女性宮家」創設論はもともとが女系継承容認論と同一の議論だということである。竹田氏が理解するように、「天皇陛下の御体調を慮る国民の感情を巧みに利用したものであり、女性宮家創設の皮をかぶった女系天皇論」どころではない。

 産経新聞の阿比留瑠偉記者のスクープ記事(平成18年2月17日)によると、平成8年に宮内庁内で皇位継承制度に関わる基礎資料の作成がスタートしている。

 阿比留記者の記事には「女性・女系天皇、『容認』2年前に方針、政府極秘文書で判明」という見出しがついているが、政府・宮内庁内部で「女性宮家」創設論は進められていたのだった。

 というのも、もうひとつのスクープ、「文藝春秋」平成14年3月号に載った、森暢平元毎日新聞記者の記事「女性天皇容認!内閣法制局が極秘に進める。これが『皇室典範』改正草案」によると、「女性宮家」と「女性天皇」は同じなのだった。

「女性天皇を認めた場合、一般の女性皇族にも皇位継承権があり、基本的には結婚しても皇室に残ることになる。つまり、必然的に女性宮家が認められる。いわば、女性天皇と女性宮家は表裏の関係で、検討案の『2つの柱』は、突き詰めると1つと見なせる」


▽4 13年後の反対論

 いつ、だれが、何のために「女性宮家」創設を言い出したのか、を明確にしないまま、賛成か反対かを議論しても、混乱するのは当たり前だろう。

 竹田氏は、読売のスクープが、つまり、羽毛田長官が「女性宮家」創設論の言い出しっぺだとほんとうにお考えなのだろうか。

 現代はデジタル時代で、大手全国紙の記事検索や国会図書館の検索エンジンを使えば、「女性宮家」なる新語がいつから使われるようになったか、容易に調べ上げることができる。一度、ご自身でお調べになってはいかがだろうか。

 雑誌「選択」平成10年6月号には、「『皇室典範』改定のすすめ──女帝や養子を可能にするために」が載っている。

「皇族女子は結婚すれば皇族の身分から離れるが、これを改め、天皇家の長女紀宮が結婚して宮家を立てるのはどうか。そこに男子が誕生すれば、男系男子は保たれる」

 男系と女系を混同する致命的な誤りを犯しているものの、私が知るところ、女帝容認を問題提起するもっとも先駆的な記事で、同時に「女性宮家」創設を提案している。

 このころすでに政府・宮内庁関係者は「女性宮家」創設論に固まっていたのであろうか。そうだとすると、それから13年もあとの読売のスクープなるものをきっかけに議論が始まった、と理解する「女性宮家」反対論者の議論を、彼らはどのように読むだろうか。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース
竹田恒泰天皇論 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。