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キリスト者に育てられ、キリスト教国の影響を受けられた昭和天皇  ──天皇・皇室の宗教観 その3(「月刊住職」平成27年11月号) [昭和天皇]

以下は「月刊住職」平成27年11月号に掲載された拙文の転載です。

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キリスト者に育てられ、キリスト教国の影響を受けられた昭和天皇
──天皇・皇室の宗教観 その3(「月刊住職」平成27年11月号)
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 中国や朝鮮では、王朝が交替するたびに国の宗教が代わった。だが日本では、万世一系の天皇を中心に、諸宗教が平和共存する多元的宗教空間が保たれた。

「およそ禁中の作法は神事を先にす」(順徳天皇『禁秘抄』)を原則とする皇室では、仏教に帰依された天皇もまた神道祭祀を厳修された。「私をおいてほかに神があってはならない」(十戒)とする一神教世界ではあり得ない現象だ。近代になると、皇室はキリスト教文化を積極的に受容され、無宗教主義さえ受け入れられた。

 ならば、いわゆる「国家神道」時代と「信教の自由」の時代を、ともに生きられた昭和天皇はいかなる信仰をお持ちだったのだろうか、「戦後70年」の節目に当たり、あらためて考える。


▽1 キリスト者による教育

 明治34年4月、明治天皇の皇太子嘉仁(よしひと)親王(のちの大正天皇)に第1男子が誕生された。迪宮(みちのみや)裕仁親王、のちの昭和天皇である。親王は古来の乳人(めのと)制度により、生後70日で枢密顧問官川村純義伯爵に預けられ、ひとつ違いの弟君淳宮(あつのみや)雍仁(やすひと)親王(秩父宮)とともに、3年あまり養育された。

 川村は戊辰戦争、西南戦争を戦った明治海軍の創始者で、明治天皇の信頼が篤かったらしい。

 迪宮・淳宮両親王は毎月、釈雲照から無病息災の加持祈祷を受けられた。川村の依頼によるものという。雲照は明治の元勲たちが一様に帰依した真言宗の名僧である。明治初年の諸山勅会廃止によって中絶した宮中後七日御修法を、東寺灌頂院にて再興させた人物でもある。

 川村邸での養育が川村の死去で幕を閉じ、最後の加持が行われたあと、祀られていた虚空蔵菩薩は肌守として両親王に献上された(『昭和天皇実録』など)。

 東宮御所に御帰還後、両親王は今度はキリスト者による養育を受けられることになる。

 名前は足立タカ。東京府女子師範学校(いまの東京学芸大学)を卒業したばかりで、附属幼稚園の保母だった。タカの父元太郎は札幌農学校の二期生、内村鑑三や新渡戸稲造らの同期生で、父娘はプロテスタントだった。タカは両親王に母親のように接し、昔話などを話したらしい。タカはのちに終戦時の宰相鈴木貫太郎の後妻となった(若林滋『昭和天皇の親代わり』など)

 第一次世界大戦終結から3年後の大正10年、皇太子裕仁親王はヨーロッパ歴訪の旅に出られた。大正天皇の御健康が憂慮され、宮中祭祀のお務めを見合わせざるを得ないような状況下での御訪欧は、皇太子教育という、より重要な目的を持っていた(波多野勝『裕仁皇太子ヨーロッパ外遊記』)。

 随員には、珍田捨己(宮内省御用掛、供奉長、メソジスト)以下、山本信次郎(海軍大佐、カトリック)、澤田節蔵(外交官、クエーカー)など、名だたるキリスト者が従っていた。

 珍田は日露戦争後の講和条約交渉、パリ講和会議などに関わった外交官で、御訪欧当時は伯爵、枢密顧問官の地位にあった。のちに東宮太夫、侍従長を歴任した。

 山本は日本海海戦時は旗艦「三笠」の分隊長、当時は東宮御学問所御用掛。御訪欧中はテーブル・マナーやフランス語をきびしくお教えした。ローマ教皇との謁見実現は山本の尽力によるという。

 澤田は国際連盟日本代表などを歴任し、連盟脱退に反対した。第2次大戦末期、鈴木貫太郎内閣顧問となり、和平工作のためバチカンに働きかけた(澤田壽夫編『澤田節蔵回想録』など)。

 最初の公式訪問国はイギリスで、その最初の公式行事は戦没者追悼記念碑セノタフへの御拝礼、次がウェストミンスター寺院にある無名戦士の墓への参詣だった。お名前が金字で押され、紅白のリボンのついた花環を捧げられ、深々と拝礼されると、沿道から歓声と拍手がわき上がるなど、皇太子が大歓迎を受けたことを「タイムズ」などが報道している。


▽2 教科書とされたジョージ5世

 昭和天皇にとって、大英帝国は帝王学の生きた教科書だった。

 イギリス御到着の夜、バッキンガム宮殿で催された晩餐会で、国王ジョージ5世は第1次大戦中の日本軍の行動に謝意を率直に表明し、皇太子を「われわれの友人」と呼んだ。

 イギリス御訪問に続き、西部戦線を指揮したフランスのペタン元帥の案内で訪れた大戦の激戦地の傷跡は皇太子に深い印象を与えた。広漠たるヴェルダンの戦跡には死臭が漂っていた。

 皇太子は戦死者の墳墓に花環を供えられ、破壊された砲台やいわゆる銃剣塹壕、焼失した森林などを視察されて、「戦争というものはじつにひどいものだ」ときわめて真剣に語られた(二荒芳徳・澤田節蔵『御外遊記』)。

 皇太子は2年後、今度は日本で、関東大震災で焦土と化し、死臭ただよう東京の街を目の当たりにされた。翌年、大震災1周年に「2分間の黙祷」が捧げられたが、それは第1次大戦休戦1周年にジョージ5世がイギリス国民に呼びかけ、実施された「2分間の停止(沈黙)」に酷似していた。

 昭和54年の会見で、昭和天皇はジョージ5世との交流に言及されている。

「イギリスの王室はちょうど私の年頃の前後の人が多くって、じつに私の第2の家庭ともいうべきような状況であったせいもあって、イギリスのキング・ジョージ5世がご親切に私に話をした。その題目は、いわゆるイギリスの立憲政治のあり方というものについてであった。そのうかがったことが、そのとき以来、ずっと私の頭にあり、つねに立憲君主制の君主はどうなくちゃならないかを始終考えていた」(高橋紘『昭和天皇発言録』)

 御訪欧から7年後の昭和3年、張作霖爆殺事件の首謀者の処罰をめぐって、昭和天皇が田中義一首相にきびしく辞職を迫り、内閣が総辞職したことがあった。このときイギリス式の「君臨すれども統治せず」を理想とする元老西園寺公望は「ご自分の意見を直接、表明すべきでない」と陛下を諫(いさ)め、それ以後、天皇は内閣に対して拒否権を行使なさらなくなったとされる(『昭和天皇独白録』)。

 キリスト教文化やイギリス型立憲君主主義は今上陛下にも引き継がれている。皇太子時代の家庭教師、東宮御教育参与、彼らを抜擢した宮内庁長官、海外御訪問に随行した侍従長らはすべてキリスト者であり、皇后陛下もカトリックの学校教育を受けられ、皇室に入られた。


▽3 戦時中、存続したキリスト教儀礼

 今日、日本のキリスト教指導者たちは戦前の「国家神道」時代に「弾圧と迫害」があったという歴史批判を展開しているが、事実はまったく異なる。

 きっかけとされるのは昭和7年の上智大学生靖国神社参拝拒否事件で、配属将校の引率で学生たちが靖国神社まで行軍したとき、カトリック信者の学生が参拝しなかったことから、マスコミを巻き込んで大騒動に発展したとされている。

 ところが渦中にいた学長補佐は、このとき陸軍当局者と次のような会話を交わしたと回想しているのだ(『上智大学創立60周年──未来に向かって』)。

「陛下が参拝する靖国神社にカトリック信徒が参拝しないのは不都合ではないか?」
「閣下の宗旨は?」
「日蓮宗です」
「それなら本願寺や永平寺に参拝しますか?」
「他宗の本山には参りません」
「しかし陛下は参拝されます」
「僕の書生論は取り消します」

 これは迫害とはいえない。けれどもカトリック信徒にとっては、唯一神信仰に反する異教崇拝は許されず、深刻な信仰問題を提起した。しかしバチカンは信徒の靖国参拝を愛国的行為として容認し、戦後も追認している。事件それ自体も宮様師団長の「どうなっているのか?」の一声で急速に解決したという。

 当時のカトリック新聞は、弾圧・迫害どころか、皇室がいかにキリスト教の社会事業を物心両面で支えていたかを伝えている。開院したばかりの病院を支援するために開かれたチャリティーコンサートに、朝香宮など皇族4殿下がご出席になり、盛況をきわめたというニュースが載り、貞明皇后は御殿場のハンセン病療養施設にたびたび下賜されたことが伝えられている。

 やがて時代は戦時体制下に入っていくのだが、教会がおかれていた現実を考える上で注目される記事が16年元日の朝日新聞に載っている。前年秋に設立された神祇院が「国礼の統一」の一環で「黙祷廃止」を検討し始めたのである。

「黙祷はキリスト教の形式で、震災記念日に東京市民が始めた1分間の黙祷が全国に広がったらしいことから、神祇院は西洋思想の流れをくむ黙祷を廃し、日本古来の最敬礼と2拝2拍手1拝の礼式を国礼として制定する意向」だった。

 国民儀礼としての黙祷は、先述したように、第1次世界大戦休戦1周年にイギリスのジョージ5世が呼びかけ、世界に広まり、日本では皇室が大震災1周年に黙祷を捧げられ、浸透していったという経緯がある。このため黙祷が外来文化に由来するという歴史的理解は波紋を呼び、とくに仏教界は心中穏やかではなかった。インド・中国から伝来した仏事も、同様の論理で排除されかねないからだ。

 しかし結局、黙祷は継続した。関係機関が協議し、「黙祷は日本人の日常生活に融合、慣習化されている。国民全体が敬神感謝の意を表する適切な形式である」との見解がまとまり、従来通り靖国神社の祭典などで捧げられた。

 戦前・戦中期に、宗教的受難を経験したのは、むしろ皇室であり、神道人ではなかったか? 天皇機関説を軍部などが猛攻撃するのに昭和天皇は異を唱えられていたし、もっとも代表的神道人である神宮奉斎会長今泉定助は、天照大神信仰に統一する合理主義的神道論を正統とする東條内閣によって発禁処分を受けた。


▽4 神格化を嫌われた昭和天皇

 敗戦の翌年、昭和21年元日に「新日本建設に関する詔書」が発せられた。昭和天皇は、天皇を現御神(あらみかみ)とするのは架空の観念だと述べられ、ご自身の神性を否定された「人間宣言」と一般に理解されているが、どうもそうではない。

 天皇は昭和52年の会見で「(冒頭に五箇条の御誓文を引用したことが)じつは、あの詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題でした」「民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す必要があった」と述べられている。

 そもそも天皇=現人神(あらひとがみ)という考え方自体、正統的とはいいがたい。

 詔書作成に関わった当時の侍従次長木下道雄は「予はむしろ進んで天皇を現御神とする事を架空なる事に改めようと思った。陛下も此の点は御賛成である」と記録している(『側近日誌』)。戦前、文部省が編纂した『国体の本義』は「天皇は現御神であらせられる」と明記したが、昭和天皇は神格化を嫌っておられた。

 遠く第42代文武天皇即位の宣命には「現御神と大八嶋国(おおやしまのくに)しろしめす天皇」とあり、公文書の形式を示す公式令(養老律令)は「明つ神(あきつかみ)と御宇(あめのした)しらす日本の天皇」などと例示しているが、「現御神と」は「しろしめす」にかかる連用修飾語であり、本来は本居宣長らが解説したように「現御神のお立場で」の意味と解される。

 ところが近代の知識人は一様に、現御神=天皇と解釈するようになった(佐藤雉鳴『神道指令・日米の錯誤』)。絶対神に正統性の根拠を置き、国王を地上の支配者と考えるヨーロッパ王室の影響ではなかったか?

 今日、反天皇制の立場に立つキリスト者は少なくないが終戦直後は逆だった。賀川豊彦はマッカーサーに面会し、天皇制存続を進言した。上智大学のビッテル神父は極東裁判のキーナン検事に何度も面談して昭和天皇訴追の断念、天皇制の存続を認めさせたといわれる(『マッカーサーの涙』など)。

 昭和天皇とキリスト者たちとの心温まるエピソードも伝えられている。

 大金益次郎侍従長の『巡幸余芳』などによると、戦後の御巡幸で神戸女学院にお立ち寄りになり、昼食をとられたあと陛下がご出発のため玄関に姿を現されると、生徒たちが「祖国」と題する讃美歌を歌った。「わが大和の国をまもり あらぶる風をしずめ 代々やすけくおさめ給え わが神」

 清らかな歌声は心を打たずにはおかなかった。陛下はポーチにお立ちになったまま動かれない。讃美歌は2度、3度と繰り返され、そのうち歌声はくもり、生徒たちの頬に涙が伝わりはじめた。陛下の目にも光るものが浮かんできた。大金は「この親和、この平和の境地」と書き記している。

 大正期、貞明皇后が九州行啓の途中、職員一同に「菓子料」金200円を下賜され、学校ではこれを受けて、懸賞論文「地久節論文」の基金を設立した。学校を創設したアメリカ人女性は西洋かぶれを排し、「キリスト教魂をもつ日本風の女性」を育てることを教育目標としていたといわれ、それだけ生徒たちの皇室崇敬の気持ちは強かったと伝えられる。


▽5 日蓮宗開宗700年への思召し

 ならば仏教の外護者(げごしゃ)としてのお立場は失われたのか、といえばそうではない。

 たとえば、昭和27年は日蓮宗開宗700年に当たっていた。特別の法要が大本山清澄寺と総本山身延山久遠寺で営まれることをお聞きになった昭和天皇は、きわめて異例なことに、久遠寺に御香華料として金一封を賜り、勅使を開闢会(かいびゃくえ)に差遣された。

 勅使は思召しを日蓮宗総監に伝えたという。「今回、とくに香華料を賜ったのは宗祖立正大師の『立正安国』の精神に対してである。安国の基はまったく立正である。立正なくして安国はない。当時も国家乱れて綱紀麻のごとく、朝威地に墜ちて有史以来の暗黒時代であったが、今日はそれ以上であるというも過言ではない。立正安国の精神の発揚を待つやじつに切なるものがある」(石川泰司『近代皇室と仏教』)

 皇室唯一の菩提寺たる泉涌寺(せんにゅうじ)は戦後、政教分離を定める日本国憲法の施行によって、従来のように宮内庁から国費を受けられなくなり、経済的困難に陥った。けれども一山のみで御寺の尊厳を保持することには限界があった。

 そこで昭和41年になって、国民による護持が呼びかけられ、三笠宮崇仁親王を総裁に戴き、佐藤喜一郎三井銀行社長を会長として、「御寺(みてら)泉涌寺を護る会」が結成された。顧問には石坂泰三経団連会長、筑波藤麿靖国神社宮司、宇佐見毅宮内庁長官、三崎良泉妙法院門跡らが名を連ねた。

 設立総会で総裁宮は「皇室の代表としてお引き受けした。陛下に申し上げたところ、引き受けたら良かろうとのお言葉があった」と挨拶された(『三笠宮殿下米寿記念論集』など)。

 皇室の女性たちはとりわけ篤い信仰の持ち主だったらしい。法華経を「信仰より最上のものとして考へをりたる」と語られた貞明皇后の柩には、皇族方が半紙に「南無妙法蓮華経」「南無阿弥陀仏」と浄書され、紙縒りにして納められた。

 秩父宮雍仁親王の場合は、南無妙法蓮華経の7字が半紙に認められ、柩に納められた。親王は遺書に「遺体を解剖に伏す」「火葬にする」「葬儀は無宗教で」と綴られた。「遺志を尊重するように」との昭和天皇の勅許を得て、一般告別式は無宗教で執行された。

 高松宮宣仁(のぶひと)親王が薨去されたときは皇族方が写経された般若心経が納棺された(前掲石川著書)。


▽6 「無神論者」長官による祭祀改変

 歴代天皇と同様、宮中祭祀を重んじられた昭和天皇であるが、昭和40~50年代、天皇の祭祀は藩屏(はんぺい)たるべき側近によって蹂躙された。決定的だったのは50年8月15日、宮内庁長官室会議での一方的な改変決定であった。

 最大の変更は、平安時代に始まる石灰壇御拝(いしばいだんのごはい)に連なるとされる毎朝御代拝である。以前は天皇に代わって側近たる侍従に潔斎のうえ、烏帽子・浄衣に身を正させ、宮中三殿に遣わし、外陣(げじん)で拝礼させていたのだが、「庭上からモーニングで」(入江日記)と変更された。「侍従は公務員だから宗教に関与すべきでない」とする政教分離原則への配慮とされる。

 改変の中心人物は富田朝彦次長(のちの長官)だった。いわゆる「富田メモ」で知られる元警察官僚だが、無神論者を自認していたといわれ、側近ながら祭祀に不参のことが多かったという。富田による変更はいまに尾を引いている。

 世間では「皇室はキリスト教化されているのではないか」「新興宗教の信者が側近に登用されている」との危惧の声があるが、現実ははるかに先を進んでいる。

 古来、多元的宗教空間の中心に位置してきた皇室は、近代になって一神教世界の文化を受け入れて以降、多元主義と一元主義との抜き差しならない相克に身もだえしている。挙げ句の果てが政教分離主義による宮中祭祀の改変である。

 さて、本論のテーマ、昭和天皇ご自身の信仰である。

 会見で「どんなテレビ番組をご覧になりますか?」と質問された陛下は、「放送会社の競争がはなはだ激しいので」とユーモアでかわされた。贔屓(ひいき)の力士の名を聞かれても、明らかにされなかった。とすれば「どんな信仰をお持ちですか?」とお尋ねしてもお答えにはなるまい。

 そもそも「天皇に私なし」である。だとすると、歴代天皇が仏教に帰依されたのはなぜなのか、天皇が信仰された仏教とは何だったのか、を問い直す必要がある。

(一部敬称略。参考文献=拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』など)
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陛下に謝罪を要求した新華社通信──どぎつい評論は中国国内向けか? [昭和天皇]

以下は、斎藤吉久メールマガジン(2015年8月30日)からの転載です。

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陛下に謝罪を要求した新華社通信
──どぎつい評論は中国国内向けか?
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「日本の侵略戦争の犯罪行為を謝罪すべきなのは誰か」。中国国営通信・新華社は25日、今上陛下に謝罪と懺悔を要求する評論を配信し、翌日、光明日報が掲載した。

「天皇裕仁は日本が侵略した被害国と人民に、死ぬまで謝罪の意を表したことはない。その後継者は、謝罪を以て氷解を得て、懺悔を以て信頼を得て、誠実を以て調和を得るべきだ。」〈http://jp.xinhuanet.com/2015-08/26/c_134557257.htm

 昭和天皇が謝罪したことはないという指摘は中国共産党お得意の歴史改竄だし、そもそも中国共産党と日本が戦争したこともない。今上陛下に謝罪要求を突きつけるのは異例だが、ともかく、いくつか気になる点を指摘したい。


1、人民日報に載らないのはなぜか

 第一に注目されるのは、昭和天皇を「張本人」と名指しし、「後継者」である今上陛下の責任を追及していることだ。過去にない強烈さだが、日本向けではないのではないか? それなら誰が、誰に向けて、何の目的で、書かせたものなのか?

 新華社は国務院直属の機関で、ふつうなら政府と党の公式見解と考えられるが、だとすると、どうも不自然だ。

 朝日新聞の報道によると、27日、記者が「評論は共産党や中国政府の立場を示すものなのか?」と質問したのに対して、「メディアが報道した観点について、我々は評論する立場にない」と述べるにとどまったという〈http://www.asahi.com/articles/ASH8W66R4H8WUHBI01J.html〉。これも胡散臭い。

 新華社の配信を載せたのは光明日報で、党機関紙の人民日報でも、その国際版である環球時報でもなかった。光明日報は中国の知識人・文化人を対象とする新聞であり、今回の評論は、日本に向けたものではなくて、中国国内の知識人層を対象にしていると思われる。

 それなら、どぎつい評論の目的は何か?

「冤有頭,債有主(悪事を働く者は責任を取るべきで、関係ない人に累を及ぼしてはいけない)」

「後人哀之,而不鑑之,亦使後人而復哀後人也(後人これを哀れむも、これを鑑みずんば、また後人をして復た後人を哀れましめん)。」

 評論には、中国古典からのものと思われる引用文が、冒頭と末尾に配されているが、かの「反日」江沢民の常套句「歴史を鑑とし、未来に向かう」は見当たらない。

 というより、江沢民派は熾烈な党内権力闘争の結果、すでに息の根を止められているらしい。中国ウオッチャーの福島香織氏によると、今月6日から16日まで開かれた北戴河会議に江沢民の参加はなかったという〈http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20130328/245823/?rt=nocnt〉。

 今回の評論は、長老を排除し、権力をますます集中化させている習近平政権が、知識人たちに向けて発せられたもので、彼らを束ねようという狙いを持っているのではないかと想像するのだが、どうだろうか?


2、電気にかかったトウ小平

 中国共産党が歴史問題で「反日」攻勢を募らせるようになったのは「戦後50年」を経たころからで、けっして古いことではない。毛沢東主席、周恩来首相が指導した時代は「日本軍国主義の復活」を警戒したものの、国民の反日感情を煽ることは避けられた(清水美和『中国はなぜ「反日」になったか』)。

 毛沢東は、訪中した佐々木更三社会党委員長の謝罪に対して、「日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらした。皇軍の力なしには我々が権利を奪うことは不可能だった」と、かえって皇軍を称えている。

 毛沢東には「侵略」の文字はなく、したがって「謝罪」要求もない。もともと日本が戦争したのは国民党の中国であって、中国共産党ではない。

 昭和天皇が謝罪していないというのも誤りだ。逆に、いわゆる戦争責任を高い次元で痛感され、終生、ご自身を責められたのが昭和天皇だった。

 毎日新聞の岩見隆夫(故人。政治ジャーナリスト)によると、昭和53年10月に来日したトウ小平副首相に対して、昭和天皇は「我が国はお国に対して、数々の不都合な事をして迷惑を掛け、心から遺憾に思います。ひとえに私の責任です」と語りかけたという。この瞬間、鄧は立ちつくし、一部始終を見ていた入江侍従長は後に周辺に語ったらしい。

「トウ小平さんはとたんに電気にかけられたようになって、言葉がでなかった」

 入江日記(10月23日)には、次のように書き記されている。

「竹の間で『不幸な時代もありましたが』と御発言。トウ氏は『いまのお言葉には感動いたしました』と。これは一種のハプニング」

 陛下の御発言は「簡単なあいさつ程度で過去に触れない」という日中外交当局と宮内庁の事前了解とは異なるものだった。だからこそ、「ハプニング」であり、トウ小平には驚きだったのだが、率直な語りかけが心を打ったのだろうと岩見は解説している(「近聞遠見」)。

 2日後、日本記者クラブで、トウ小平は陛下との会見について、こう語っている。

「今回、私たちは天皇陛下と皇后陛下から、非常に丁重なご歓待をいただきました。それに感謝の意を表します。
 天皇陛下との会見の時間も短くはありませんでした。午餐会も入れて2時間以上でした。そしてお互いに過去についてお話ししました。しかし天皇陛下は、過去よりも未来に目を向けられているということに私たちはよく注意いたしました。天皇陛下は中日平和友好条約の調印に、非常に関心を寄せられていました」

 ここには「反日」はうかがえない。むしろ陛下への敬意すら感じられる。

 昭和天皇は立憲君主であって、具体的な政策に直接、関わっているわけではない。閣議決定に拒否権を行使なさることはなく、御前会議の空気を支配する決定権もなかった(『昭和天皇独白録』)。それでも陛下は統治者としての責任を感じておられた。

 トウ小平はよく知っていたのではないか?


3、対日強硬派との権力闘争

 けれども、江沢民国家主席の時代になって、状況は激変する。「天安門事件で共産主義の理想が色あせ、党の威信が揺らいだことで、共産党は支配の正当性を強調するために、抗日戦争の記憶を呼び起こすことが必要になった」(清水)のである。

 一党独裁体制を維持するには教育の立て直しこそが急務とされ、翌90年から全国の大学では軍事訓練が義務づけられ、愛国「反日」教育が各地で展開されるようになった。つまり、「反日」は中国の国内問題なのだ。

 平和友好条約締結20周年の1998年11月、江沢民は中国の国家元首として初来日する。来日は、日中外交当局にとって、「過去を終結させ、未来を切り開く」はずだった。

 ところが、来日した江沢民は、「平和と発展のための友好協力パートナーシップ」を謳う共同宣言の内容に激怒する。「過去を直視し、歴史を正しく認識する」「日本側は中国への侵略によって災難と損害を与えた責任を痛感し、深い反省を表明した」とはあるが、「謝罪」が明記されていなかったからだ。

 共同宣言作成の過程で、「歴史認識をきちんと書いてもらえば謝罪の表現はなくても構わない。今後、2度と歴史問題を提起するつもりはない」とまで語る中国外務省の高官もいたようだが、江沢民は違っていた。そして「平和」「友好」どころか、首脳会談で「日本は中国にもっとも重い被害を加えた」と噛みつき、宮中晩餐会でも日本を無遠慮に批判したのだった。

 江沢民時代が終わり、胡錦濤・温家宝体制が発足したころ、中国では対日関係重視の「新思考外交」が台頭していた。ロシアで実現した小泉・胡錦濤会談では、胡主席は異例なことに、初対面の小泉首相にいきなり「日本のSARS支援に感謝する」と謝意を示し、外交関係者を驚かせた。小泉首相の靖国神社参拝にもかかわらず、歴史問題は後景化した。

 しかし新外交は挫折する。大きな原因のひとつは、いわずもがな、いつの時代も繰り広げられている、中国共産党内部での熾烈な権力闘争だった。


4、終わりなき階級闘争

 新華社の評論は冒頭に「悪事を働く者は責任を取るべきだ」とある。悪いことをしたら謝罪し、償うのは、日本人の倫理と共通するが、中国共産党の主張する謝罪はかなり意味が異なるのではないか? 今上陛下への謝罪要求こそはその違いを際立たせている。

 評論は、侵略戦争なるものが、軍国主義の天皇や政府、軍隊、財閥などの勢力が発動し、中国やアジア、世界の人民に対して犯罪を行ったと主張している。軍国主義者が悪で、人民は正しいという理解は、中国共産党ならではの階級闘争史観にほかならない。

 国際法が認める戦争なら、むろん善も悪もない。弱肉強食の非情の論理だけである。雌雄が決すれば、講和条約を結び、敗戦国が賠償することで、戦争を終結させ、平和の時代が再開される。しかし階級闘争なら終わりはない。昭和天皇の「後継者」にまで謝罪を要求するのは、終わりなき階級闘争だからだろう。

 もし今上天皇が謝罪したなら、侵略した日本を悪とし、侵略された中国は正しいという階級関係を永遠に固定化するものとなるだろう。少なくとも中国共産党はそう主張するだろう。過去の日本政府による謝罪が両国関係を好転させることがなかったように、これからもあり得ないだろう。

 もしかすると、陛下への謝罪要求は、「深い反省」を盛り込まれた全国戦没者追悼式での陛下のお言葉が勢いづかせたのかも知れない。習近平は副主席時代に天皇会見をごり押しし、それをテコに数年後、権力を手にしたようだが、今度もまた陛下を利用しているのかも知れない。

 日中政府間の合意文書に「侵略」が明記されたのは、小渕・江沢民の共同宣言だった。「過去の一時期の中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し、これに対し深い反省を表明した。」とある〈http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/nc_sengen.html〉。

「侵略」は「aggression」と英訳されている〈http://www.mofa.go.jp/region/asia-paci/china/visit98/joint.html〉。英単語の語義からいって「挑発もないのに謂われなき侵略を敢行した」という意味に受け取れるが、「日本は挑発がないのに中国を攻撃した」のだろうか? 戦争政策を推進した日本人は軍国主義者だけなのだろうか? 昭和天皇の終戦の詔書には「東亜の解放」の文言もあるが、まやかしなのであろうか?

 今年8月、新華社は「特別取材、日本右翼勢力の中国侵略戦争に関する五大謬論を論駁する」と題する評論を配信した〈http://jp.xinhuanet.com/2015-08/17/c_134525220.htm〉。

 そのなかで、「日本の対外戦争の発動は『大アジア主義』を励行し、アジア諸国が西側の植民者を追い払い、イギリス、米国といった国々の植民地体制の破壊を支援した」という歴史論を次のように批判している。

「日本の侵略者がアジア諸国の『支援』という旗印を掲げて、アジアを独占し、災いをもたらす行為をし、他国の領土で焼殺や略奪を行ったことのどこが『解放戦争』だというのか。どこがアジアの隣国を『支援』したというのか。」

 けれども、そうではない。


5、中国共産党自身の罪

 たとえば、東京裁判で死刑判決を受け、絞首台に消えた松井石根は、中国革命の父・孫文を敬愛し、中国文学に親しみ、「アジア人のアジア」を信条とした。その松井が戦争の指揮を執らなければならなかったのは、歴史の皮肉といわねばならない。

 南京陥落後、松井は戦陣に散った日中双方の将兵の御霊(みたま)を慰めたいと祈念し、血潮に染まった激戦地の土を集めさせ、これを持ち帰り、瀬戸焼にして高さ1丈の観音像を建立した。熱海・伊豆山の興亜観音である。

 松井自身の筆になる「縁起」には、「支那事変は友隣相撃ちて莫大の生命を喪滅す。じつに千載の悲惨事なり。……観音菩薩の像を建立し、この功徳をもって永く怨親平等(おんしんびょうどう)に回向し、諸人とともにかの観音力を念じ、東亜の大光明を仰がんことを祈る」と書かれている。

 友人同士が敵味方に分かれ、殺戮し合う。そんな歴史の悲劇を、単純に図式化し、断罪することに無理がある。

 もし侵略は永遠に断罪されるべき不正義だというのなら、中国共産党自身の行為はどうなのか? 前世紀の歴史ではない。21世紀の今日なお、チベット、ウイグルへの侵略は続き、あまつさえ南シナ海、東シナ海に軍事力を拡大させている。

 軍国主義者とは誰のことなのか? 誰が罪を負っているのか?

「(日本の)軍国主義の天皇や政府、軍隊、財閥などが、中国やアジア、世界の人民に対し書き尽くせぬほど多くの犯罪を犯し、侵略戦争に対して逃れられない罪を負っている。」とするなら、同様にして、中国共産党の周辺地域に対する軍国主義の発動は、「アジア、世界の人民に対し書き尽くせぬほど多くの犯罪を犯し、侵略に対して逃れられない罪を負っている」のではないか?

 日本の「東亜の解放」がイカサマなら、人民解放軍の軍事行動は何だったのか?

 やがて世界は、中国共産党自身の論理によって、中国共産党に対して、謝罪を永遠に要求することになるだろう。

 新華社の評論が、共産党政権による国内の知識人向けのプロパガンダだとするなら、中国の知識人たちは、香港の知識人も含めて、どう答えるのだろうか?
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疲れ知らず、昭和天皇の地方巡幸─国民の命はわが命─ [昭和天皇]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」vol.13
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第13回「疲れ知らず、昭和天皇の地方巡幸」─国民の命はわが命─


▼祖先と国民に対する責任
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 1月7日は先帝・昭和天皇が崩御された命日で、歴代天皇の御霊(みたま)が祀られる、宮中三殿の皇霊殿で昭和天皇祭が行われます。八王子の武蔵野御陵でも祭儀が行われます。

 昭和天皇の時代は激動の時代でしたが、ここでは戦後の地方巡幸についてお話しします。元共同通信の高橋紘記者によると、この地方巡幸は昭和20年9月のマッカーサーとの第1回の会見直後に持ち上がりました。

 天皇は側近に、戦争で傷ついた国民を慰めるため、全国をまわりたいと洩らされたのでした。宮内省総務局の加藤進局長は、当時の天皇のお気持ちをこう記録しています。

 「戦争を防止できず、国民をその惨禍に陥らしめたのは、まことに申し訳ない……私は方々から引き揚げてきた人、親しい者を失った人、困っている人たちのところへ行って慰めてやり、また働く人を励ましてやって、一日も早く日本を再興したい。このためには、どんな苦労をしてもかまわない。そう働くことが私の責任であって、祖先と国民とに対して責任を果たすことになるのだと思う」(木下道雄『側近日誌』の解説)


▼地に墜ちた政府の威信

 当時の社会混乱は想像を絶していました。衣食住すべてが不足し、とくに「1000万人餓死説」が流れるほど、人々は飢えをしのぐのに精いっぱいでした。

 昭和20年といえば40年ぶりの凶作で、食糧が絶対的に不足していたのです。政府はくり返し米の供出に対する協力を訴えましたが、農家の供出への意欲は極端に乏しかったといいます。政府の威信はそれだけ地に墜ちていたのです。

 翌21年5月には都内で「米よこせデモ」が行われ、勢いに乗ったデモ隊が赤旗を先頭にして皇居になだれ込むという事件さえ起きました。参加者25万ともいわれる「食糧メーデー」が皇居前広場で開かれ、群衆は労働歌を歌って気勢を上げました。「朕(ちん)はたらふく食っているぞ。なんじ人民飢えて死ね」のプラカードもありました。占領軍は当初、反天皇、反政府行動を奨励するような政策を採っていたのでした。

 少し前の21年1月、木下道夫侍従次長のもとに学習院の英語教師ブライスからメモが届けられました。ブライスは「覆面の立役者」といわれるイギリス人で、皇室とGHQの仲介を務めていました。『側近日誌』にそのブライスの覚書が載っています。


▼マッカーサーの力及ばぬところ

 まず「天皇は……親しく国民に接せられ……国民の誇りと愛国心とを鼓舞激励せらるべきである」とあって、そのあとに「天皇と食糧問題」の見出しが続き、かう記されています。

 「闇取引、闇市がさかんに横行しておる……日本人の真心を呼び覚まし、これを奮い立たせねばならぬ。これはマッカーサーの力及ばぬところで、ひとり天皇のみなしたまい得るところであり、思うにいまがその絶好の機会であるまいか……広く巡幸あらせられて……国民の語るところに耳を傾けさせられ、また親しく談話を交えて、彼らにいろいろの質問をなし、彼らの考えを聞かるべきである」

 天皇はこれに大いに賛成され、巡幸について「直ちに研究せよ」と側近に命じられたといいます。こうして地方巡幸は翌2月に始まります。天皇は物的、精神的戦後復興の先頭に立たれたのです。

 側近や地方の高官は天皇の健康を気遣ったといわれます。ところが天皇はじつにお元気でした。お伴の者がへとへとになっているのに、天皇だけは余裕綽々でした。

 天皇は巡幸が立案されたとき、「自分の健康は第二義的に考えてよろしい」と語られました。「なんじ臣民とともにあり」。国民の命をわが命と思われ、ご自身の命を皇祖と国民の前に投げ出されていたのでしょう。



 参考文献=大金益次郎『巡幸余芳』(新小説社、1955年)、木下道雄『側近日誌』(文芸春秋、1990年)、岸康彦『食と農の戦後史』(日本経済新聞社、1996年)、木下道雄『新編宮中見聞録──昭和天皇にお仕えして』(日本教文社、平成10年)など


((((((((「天皇・皇室の一週間」)))))))))))


平成20年1月2日(水曜日)

□恒例の一般参賀が行われました(日経ネット)。
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20080102STXKD001802012008.html

平成20年1月1日(火曜日)

□皇居で新年祝賀の儀が行われました(中日新聞)。
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2008010101000026.html

□天皇陛下は宮内庁を通じて新年を迎えるご感想を発表され、とくに昨年、震災に見舞われた石川、新潟両県の被災者を気遣われました(読売新聞)。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080101i504.htm?from=navr

 天皇陛下のご感想は宮内庁のホームページに載っています。
http://www.kunaicho.go.jp/gokansou/gokansou-20.html

□宮内庁は天皇、皇后両陛下が昨年、お詠みになったお歌のうち8首を公表しました(中日新聞)。
http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2008010102076521.html

 発表されたお歌は宮内庁のホームページに掲載されています。
http://www.kunaicho.go.jp/gyosei/gyosei-h19.html

19年12月27日(木曜日)

□天皇陛下は今年ご公務で訪問された北海道、秋田県、滋賀県にそれぞれお歌を贈られました(徳島新聞)。
http://www.topics.or.jp/contents.html?
m1=1&m2=10&NB=CORENEWS&GI=Lifestyle/
Human_Interest&G=&ns=news_119873039676&v=&vm=all

12月26日(水曜日)

□岩手県にある精神障害者の社会復帰を支援している社会福祉施設「ワーク小田工房」が天皇陛下からの御下賜金を賜ることになりました(岩手放送)。
http://www.ibc.co.jp/ibcnews/today/NS003200712261843374.html

 同工房についてはこちらをご覧ください。
http://www.my-ccg.com/groupin/selp/odakobo.html


((((((((( お知らせ )))))))))

2月3日(日曜日)の午後1時から靖国神社を会場に勉強会があり、歴史問題をテーマに講演します。定員は300名。参加は無料ですが、入場券が必要で
す。先着順ですので、お早めにお申し込みください。
http://www.yasukuni.jp/%7Esukei/page079.html
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昭和天皇の「不快感」は本当か ──あらためて考える、靖国神社の「A級戦犯」合祀 [昭和天皇]


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昭和天皇の「不快感」は本当か
──あらためて考える、靖国神社の「A級戦犯」合祀
(「正論」平成19年10月号)
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 靖国神社の「A級戦犯」合祀(ごうし)に、昭和天皇は「懸念」を示されていた。その「具体的な理由」を、故・徳川義寛(よしひろ)・元侍従長が昭和天皇の作歌の御相談役だった歌人の岡野弘彦氏に語っていたことが判明した──。そのように伝える記事が8月上旬、新聞各紙にいっせいに掲載されました。

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 昭和天皇がいわゆるA級戦犯の合祀に「不快感」を示されていたとするニュースは、日本経済新聞が昨年(平成18年)7月にスクープした富田朝彦・元宮内庁長官のメモなどを根拠に、これまでも報道されてきました。昭和天皇晩年の肉声をつぶさに記録する「富田メモ」には、昭和天皇は「A級戦犯」合祀が原因で靖国参拝を中止し、

「それが私の心だ」

 と語られたことが記されているといわれます。

「明治天皇の思(おぼ)し召し」によって創建された靖国神社にとって、「天皇の心」は究極の拠り所です。その天皇が「A級戦犯」合祀を批判されていたとなれば、靖国神社の立つ瀬はありません。共同通信が放った特ダネは、日ごろは反天皇の立場に立つ反ヤスクニ派をいやが上にも元気づけ、靖国神社をめぐる混乱に拍車をかけています。


1、半年遅れの新刊紹介

 共同通信は30年前には「A級戦犯合祀」を「スクープ」しました。東京裁判で絞首刑となった7人と受刑中に死亡した5人、それと公判中に病死した2人、の計14人が合祀されたのは昭和53(1978)年秋で、共同は翌春、このニュースを加盟社に配信し、たとえば神奈川新聞は4月19日付で、

「東条英機元首相らを合祀 靖国神社が昨年秋 『昭和殉難者』として」

 と伝えています。

「国民感情の点から合祀が見送られていたが、靖国神社当局は『戦後30余年も過ぎ、いつまでも例外を作る必要はなく、今日の時点で当然行うべきこと』として決めたと説明している。合祀は神社側がまず決断し、同神社崇敬者総代(東竜太郎・元東京都知事、永野重雄・日商会頭ら10人で構成する合祀諮問機関)全員の同意で決まった。戦犯処刑者はすべて祀(まつ)られていたが、A級だけは実現されずにいた」

 記事は4段見出しながら、掲載は社会面の左下隅。扱いはけっして大きくはありません。後追いした朝日新聞も社会面での掲載でしたが、

「秋季例大祭の前日にこっそりと合祀」

 とひと味違う報道でした。合祀は大々的に公表する性格のものではありませんし、

「53年10月6日の総代会決定を受けて、権宮司(ごんぐうじ)が侍従職と掌典職に参上している」

 と述べる関係者もいますから、「こっそり」は正確ではありません。

 朝日に先んじた「スクープ」の経緯は、『共同通信社50年史』(1996年)に、誇らしげに説明されています。

「4月17日、編集委員の三ヶ野大典は日本遺族会の板垣正・事務局長と会った。A級戦犯として刑死した板垣征四郎元陸軍大将の子息。
 三ヶ野はA級戦犯の合祀問題について尋ねた。『お父さまの件はどうなりましたか』『ええ、おかげさまでやっと……』。板垣氏はそのあと慌てて言葉を打ち切った。
 三ヶ野は『合祀があったな』と確かな手応えを感じた。
 翌18日、靖国神社に藤田勝重権宮司を訪ね、ずばり質問すると、意外にあっさりと前年の秋季例大祭を機に合祀していたことを明らかにした。
『また書き立てるんですか』『神社側の真意は伝えます』。
 記事が19日付の加盟社の朝刊に掲載された。三ヶ野の長期取材が実を結んだ」

 権宮司の人の良さを印象づける、文字通り「あっさり」した「スクープ」です。

 それなら今回の共同の配信記事は、といえば、

「靖国神社のA級戦犯合祀に関する昭和天皇の懸念を徳川侍従長が歌人の岡野氏に伝えていたことが3日、分かった」

 と、いかにも新発見のような報道です。ところが、またも後追いとなった朝日は、

「岡野氏が、徳川侍従長の証言として、昨年末に出版した著書で明らかにしていた」

 と、トーンが異なります。半年以上も前に出た本の内容が今ごろ「分かった」というのは、速報性を争うメディアとしては間が抜けている印象が否めません。

 問題の著書は、昭和天皇のお歌を岡野氏が解説した『昭和天皇御製(ぎょせい) 四季の歌』(同朋舎メディアプラン)です。共同の記者は

「一般の目に触れるような本ではなく、最近になって内容が判明した」

 とスクープ性をあくまで強調します。けれども、版元によれば、大手の流通には乗らないものの、最初から市販されたといいます。その言い分に従えば、いわば半年遅れの新刊紹介がニュースに仕立て上げられたことになります。毎年恒例の「靖国の夏」だからでしょうか。


2、不快感の「具体的な理由」

 共同電に対抗する朝日の記事が軽く触れているように、徳川侍従長の証言集である『侍従長の遺言──昭和天皇との50年』(朝日新聞社、平成9年)は、「A級戦犯」合祀についての「昭和天皇の怒り」(共著者の岩井克己・朝日新聞記者による「まえがき」)をいち早く伝えていました。

 徳川氏は昭和11年からじつに半世紀以上も昭和天皇に仕えた側近中の側近で、この本は、昭和天皇崩御のあと、侍従職参与となった徳川氏に岩井記者が聞き取りした証言が、記者の解説とともにまとめられています。

 徳川侍従長は「第13章 靖国神社」で、まず徳川氏自身による合祀批判を述べたあと、62年の終戦記念日に陛下が詠まれたとする

「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」

 の解釈について、次のように説明しています。

「合祀がおかしいとも、それでごたつくのがおかしいとも、どちらともとれるようなものにしていただいた。
 陛下の歌集『おほうなばら』(宮内庁侍従職編、岡野弘彦・徳川義寛解説、読売新聞社発行、1990年)に採録されたとき、私は解題で『靖国とは国をやすらかにすることだが、とご心配になっていた』と書きました。
 発表しなかった御製や、それまでうかがっていた陛下のお気持ちを踏まえて書いた。それなのに合祀賛成派の人たちは都合のよいように解釈した」

 このくだりは合祀がテーマであることは明らかですが、陛下の「怒り」は必ずしも直接にはうかがえません。陛下のお気持ちより侍従長の批判的な考えがお歌に色濃く反映されたという理解も成り立ちそうですが、岩井記者の「解説」は

「天皇の歌はA級戦犯合祀に苦々しい思いをこめたものであったようだ」

 と大胆に踏み込んでいます。

 それなら、「不快感」の「具体的な理由」が判明したと伝えられている、今回の『四季の歌』ではどうでしょう。

『四季の歌』では、『侍従長の遺言』とは異なり、しかし御製集『おほうなばら』とは見解を同じくして、お歌は前年の61年に詠まれたとなっています。それはともかくとして、岡野氏は同年秋、岡野氏が教授を務めていた国学院大学に徳川侍従長が持ってきたお歌を「初めて見た」のでした。「天皇がこれほど深い憂いを抱いていられる理由が、歌の表現だけでは十分に計りかねた」岡野氏が、

「何をどう憂いていられるのか」

 と尋ねると、徳川侍従長は次のように説明したといいます。

「ことはA級戦犯の合祀に関することなのです。合祀せよという意見がおこってきたとき、お上(かみ)は反対の考えを持っていられました。
 理由は2つあって、1つは国のために戦(いくさ)に臨んで戦死した人々のみ魂(たま)を鎮(しず)め祭る社(やしろ)であるのに、その性格が変わるとお思いになっていること。もう1つは、あの戦争に関連した国との間に将来、深い禍根(かこん)を残すことになるとお考えなのです。
 ただ、それをあまりはっきりお歌いになっては差し支えがあるので、少し婉曲(えんきょく)にしていただいたのです。
 そのお上のお気持ちは、旧皇族のご出身の筑波(つくば)(藤麿)宮司はよくご承知で、ずっと合祀を抑えてこられたのですが、筑波宮司が亡くなられて、新しく松平(永芳)宮司になるとすぐ、お上の耳に入れることなく、合祀を決行してしまいました。
 それからお上は、靖国神社に参拝なさることもなくなりました」

 岡野氏は昭和天皇の「反対の考え」について述べた徳川侍従長の言葉を書き記し、メディアは侍従長の解釈と伝聞をもとに、昭和天皇が「A級戦犯」合祀を不快とされていた「具体的な理由」が「明らかになった」と断定的に伝えています。しかしそこまで割り切っていいものでしょうか。


3、矛盾する昭和天皇像

 問題点は大きく2つ考えられます。1点はいうまでもなく、「A級戦犯」の合祀に関して、昭和天皇が実際、何をお考えだったのか。2点目は天皇の意思とはそもそも何か、です。

 今年5月1日の日経新聞は、社外有識者による「富田メモ研究委員会」が半年あまりの検証の末、前月末にまとめた最終報告について特集しています。メモの抜粋とともに掲載された座談会記事で、東京大学の御厨(みくりや)貴(たかし)教授は、

「天皇が靖国に参拝できない理由は、A級戦犯合祀だったということで決着したと考えていいか」

 という司会者の質問に対して、

「基本的には決着したと思う」

 と答えていますが、疑問です。

 たとえば昭和40年代の東大紛争当時、警視庁の治安警備担当課長だった佐々淳行(さっさ・あつゆき)氏(のちの初代内閣安全保障室長)は、『東大落城──安田講堂攻防72時間』(文藝春秋、1993年)に次のように書いています。

「安田講堂の攻防戦からしばらくして、秦野章警視総監が治安情勢内奏のため参内(さんだい)した。昭和天皇から御嘉賞のお言葉があれば、さっそく各機動隊長を通じて全隊員に伝達し、士気昂揚を図らなければいけない。ところが帰庁した秦野総監は怪訝(けげん)そうな表情を浮かべている。

『天皇陛下ってえのはオレたちとちょっと違うんだよなァ。安田講堂のこと奏上したら、「双方に死者は出たか?」と御下問があった。幸い双方に死者はございませんとお答えしたら、たいへんお喜びでな、「ああ、それは何よりであった」と仰せなんだ。機動隊と学生のやり合いを、まるで息子の兄弟げんかみたいな目で見ておられるんだな、ありゃあ』

 私は感動した。天皇は一視同仁、お相撲好きの昭和天皇が終生、誰がご贔屓(ひいき)力士かを口外されなかったように、『機動隊、よくやった』と御嘉賞されることは帝王学の道からは外れるのだ」

 ここに描かれているのは、敵も味方もなく、すべての国民をみなひとしく赤子(せきし)と思われ、

「国平らかに、民安かれ」

 とひたすら祈り、国と民を1つに統合する天皇第一のお務めを果たされた昭和天皇の姿です。

 また、

「天皇に政治的責任なし」

 が憲政上の大原則ですが、昭和天皇は高い次元で戦争責任を痛感され、生涯、ご自身を責め続けられました。

「自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい」(終戦の御聖断)、

「戦争責任者を連合国に引き渡すはまことに苦痛にして忍び難きところなるが、自分が1人引き受けて退位でもして納めるわけにはいかないだろうか」(『木戸幸一日記』)

 と語られ、マッカーサーには

「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねる」

 と述べられたといわれます(『マッカーサー回想録』)。

 臣下の罪を責めずに、わが罪とされる昭和天皇と、

「A級が合祀され、そのうえ、松岡(洋右(ようすけ)外相)、白取(白鳥敏夫か)までもが。筑波(宮司)は慎重に対処してくれたと聞いたが、松平(慶民・元宮内相)の子の今の(松平永芳)宮司がどう考えたのか、易々と。親の心子知らずと思っている」

 と名指しで批判されたことを記録する「富田メモ」の天皇像は一致しません。


4、「神社の性格が変わる」

「A級戦犯」はどういう経緯で靖国神社に合祀されるようになったのでしょう。前出の朝日の岩井記者は『侍従長の遺言』で、平和条約の締結に伴い、昭和27年に戦傷病者戦没者遺族等援護法が成立し、軍人・軍属に対する国家補償が始まった。その後、援護行政の広がりとともに戦犯刑死者が公務死と認定されるようになり、これが合祀につながったと説明していますが、重要なポイントがいくつか抜け落ちています。

 本誌(雑誌「正論」産経新聞社)昨年(平成18年)12月号掲載の拙文「知られざる『A級戦犯』合祀への道」に書いたように、当時の朝日新聞の記事をひもとくと、平和条約の発効と相前後して、戦犯の赦免・減刑が内外で動き始めたことが分かります。

 国内では日弁連や仏教団体などが戦犯赦免の署名活動を大々的に展開し、それを受けて、日本政府が平和条約に基づいて勧告し、関係諸国が減刑・保釈を決定しました。海外ではフィリピンが真っ先に赦免・減刑を開始し、インド、台湾が欧米諸国に先駆けて、「A級戦犯」釈放を承認しました。

 恩給法の改正は、

「戦犯にも恩給を」

 という国民の強い要望に端を発しています。戦犯合祀のきっかけは、30年の沖縄・ひめゆり部隊の合祀です。

「靖国の社頭に」

 と望む声が強まったのを受け、厚生省は88人を

「軍属として戦死」

 と認定し、合祀が決まったのです。当時の朝日の記事には、厚生省の職員が

「やがて軍人、民間人を問わず祀られることになろう」

 と語ったとあり、「読者応答室から」は

「靖国神社では将来、戦犯刑死者や終戦時の自決者の合祀を考慮しています」

 と説明しています。

 昭和天皇が「A級戦犯」合祀に反対する「理由」の1つに、『四季の歌』は

「国のために戦に臨んで戦死した人々のみ魂を鎮め祭る社であるのに、その性格が変わるとお思いになっていること」

 をあげていますが、戦場での戦死者を慰霊するのが靖国神社の鉄則で、それを変更させたのが「A級戦犯」の合祀だ、という見方は歴史論的に誤りでしょう。

 すでに明治時代、多数の兵士が脚気(かっけ)など悪疫で落命しましたが、戦病死者として合祀されています(『靖国神社忠魂史 第1〜5巻』靖国神社社務所編、1933〜35年など)。先の大戦では、ひめゆり部隊のほか、疎開船や引揚船の沈没で亡くなった学童や新聞記者、さらには講和発効後、ソ連・中共地区で死亡した抑留者も祀られています。

 こうした合祀基準の変遷を昭和天皇がご存じないはずはありませんが、だとすると「A級戦犯」合祀反対の理由とされる「神社の性格が変わる」はどう解釈すべきなのでしょう。合祀は「戦場での戦死」に限られるべきだというのが昭和天皇の確信だとすれば、「反対」は戦犯の合祀を求めた国民や戦犯刑死者を公務死と認めた国にも向けられるべきで、松平宮司を批判しても始まりません。

 昭和天皇の「不快感の理由」は徳川侍従長の理解やマスコミの報道とは次元の異なるものなのかも知れません。


5、慎重だった靖国神社

 厚生省は昭和41年2月、「A級戦犯」12人の祭神名票を靖国神社に送りました。今年3月、国会図書館が公表した分厚い「新編靖国神社問題資料集」には、2月8日付の厚生省援護局調査課長から靖国神社調査部長宛の送り状、「東京裁判関係(A級)死没者12柱」(刑死者7人と獄死者5人)の氏名や身分などを一覧表に記した目録も含まれています。

 しかしのちに同時に合祀されることになる、未決拘禁中に死亡した松岡洋右、永野修身(おさみ)の名前はここにはありません。

 新資料集によれば、翌42年5月、神社内で厚生省と神社の担当者による合祀検討会が行われ、法務死没者の合祀も検討されています。「A級(刑死7名、獄死5名)」と「内地未決中死亡者(松岡元外相以下10名)」について、

「総代会に付議決定すること」

 とされたようですが、とくに後者について

「援護法では取り扱っていない」

 と注釈があるのが注目されます。どのような経緯で10名が追加され、合祀が検討されるようになったのでしょう。

 A級戦犯12名と内地未決中死亡者10名の合祀が認められたのは、44年1月の検討会だったようです。しかし神社側はこれを保留としたらしく、45年2月の検討会では、神社職員が保留扱いの理由を説明しています。また、合祀時にはA級と内地未決を同時に扱うことが「至当」とされました。

 同年6月の検討会では、「法務関係」の「A級12名」と「内地未決2名」について「諸情勢を勘案保留とする」ことが「再確認」されていますが、内地未決の柱数が一気に減少したのが注目されます。

 当時の靖国神社はなぜ合祀に慎重だったのでしょうか。

 筑波宮司の諮問機関・祭祀制度調査会の委員の一人で、戦後唯一の神道思想家といわれる葦津珍彦(うずひこ)氏は55年5月、宗教専門紙「中外日報」の連載で、

「神社が宗教法人ならば政治戦犯合祀をするのも自由だが、前例の確たるものもないし、神社が国家護持を目標とする限り、ことはきわめて重大である。国家護持ができてのちに、公に国民のコンセンサスの上で決すべきだ」

 と不合意の理由を説明しています。

「国家護持の目的こそ第一義であり、国家的性格を失った宗教法人のままであることは忍びがたい」

 というのがその精神で、それは調査会の一致した考えだったといわれます。

 しかし責任役員の池田清氏(元警視総監)が亡くなり、筑波宮司も亡くなって、新たに宮司に就任した松平永芳氏は就任直後、14人の合祀を敢行します。総代の1人、青木一男・元大東亜相の強硬意見が反映された結果ともいわれますが、松平氏自身は退任後、ある講演でこう語っています。

「私は就任前から、『すべて日本が悪い』という東京裁判史観を否定しない限り、日本の精神復興はできないと考えていました。
 就任早々、書類や総代会議事録を調べますと、数年前に総代さんから『最終的にA級はどうするんだ』と質問があって、合祀は既定のこと、ただ時期が宮司預かりとなっていたんですね。
 私の就任は53年7月で、10月には年に一度の合祀祭がある。合祀は、昔は上奏して御裁可をいただいたのですが、いまでも慣習によって上奏簿を御所(ごしょ)へ持っていく。そういう書類を作る関係があるので、9月の少し前でしたか、『まだ間に合うか』と係に聞いたところ、大丈夫だという。
 それならと千数百柱をお祀りした中に思い切って14柱をお入れしたわけです」(「靖国奉仕14年の無念」=「諸君」1992年12月号)

 他方で、松平氏は「国家護持」ではなく「国民護持」「国民総氏子」をさかんに主張していました。


6、合祀から10年のタイムラグ

 昭和天皇が最後に靖国神社に参拝されたのは昭和50年11月で、「A級戦犯」合祀はその3年後ですが、「富田メモ」などに天皇の「不快感」が記録されていたとされるのはすべて60年代です。昭和天皇が

「だから私はあれ以来、参拝していない。それが私の心だ」

 と語られたのが事実だとして、約10年のタイムラグが意味するものは何でしょう。

「富田メモ」が書かれた状況をあらためて振り返ってみます。

 富田朝彦氏は元来、警察官僚で、昭和49年に宮内庁次長となり、奇しくも「A級戦犯」が合祀された53年の春に宮内庁長官に就任し、63年春まで務めました。

 日経の検証報告によると、富田氏は次長就任後から日記をつけていましたが、昭和天皇が開腹手術から復帰された62年の年末以後は用途を天皇との対話の記録に限定した手帳を用意し、言上(ごんじょう)内容や天皇のご質問、ご発言を詳細にメモしたといいます。

 メモには信頼する長官にみずからの意思を伝えたいという天皇の意思が感じられる、というのが「富田メモ研究委員会」の一致した見方ですが、

「一種の病床日記」

 とも指摘されます。

 靖国参拝について述べられたのは、昭和天皇最晩年の63年4月28日と5月20日の手帳のメモとされます。「A級戦犯」が合祀された53年当時の日記にも、合祀がスクープ報道された翌年4月の日記にも、関係する記述はないようです。

「それが私の心だ」

 と書かれた「4月28日メモ」は、昭和天皇最後の記者会見となる、4月25日に行われたお誕生日会見について感想を語られたものとされます。会見で「先の大戦についてのお考え」を問われた昭和天皇は、

「何といっても大戦のことがいちばん嫌な思い出であります」

 とお答えになり、一筋の涙を流されました。さらに

「戦争の最大の原因は何だとお考えですか」

 という質問には

「人物の批判とか、そういうものが加わりますから、いまここで述べることは避けたいと思います」

 と答えられたと伝えられます。

 会見の数日前には、春の例大祭に合わせて靖国神社に参拝した奥野誠亮・国土庁長官が閣議後の記者会見で、

「もう占領軍の亡霊に振り回されることはやめた方がいい」

 とタンカを切り、翌月には国会で

「日中戦争当時、日本に侵略の意図はなかった」

 と発言して内外の批判を浴び、長官を辞任しています。

「富田メモ」にはこれに対応するように、

「戦争の感想を問われ、嫌な気持ちを表現したが、それはあとで云いたい。“嫌だ”といったのは奥野国土相の靖国発言、中国への言及に引っかけて云った積もりである。前にもあったね、どうしたのだろう。中曽根の靖国参拝もあったか、藤尾(正行文相)の発言」

 とあり、そのあと前に紹介した合祀批判、松平批判の内容が続いているようです。

 今年(平成19年)4月に朝日がスクープした「卜部(うらべ)亮吾侍従日記」は奇しくも同じ4月28日、

「お召しがあったので吹上へ。長官拝謁(はいえつ)のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」

 とあり、赤線が引かれていると伝えられます。

 さらに富田氏の「5月20日メモ」には、

「山本(悟侍従長か)未言及だ&徳川(前侍従長)とは(話を)した&靖国に干(関)し。藤の(藤尾か)、奥野がしらぬとは。松岡、白取(白鳥か)。松平宮司になって、参拝をやめた」

「靖国。明治天皇のお決になって(た)お気持を逸脱するのは困る」

 などとあるようです。

 病魔と闘う最晩年の昭和天皇は、公式の場では語れない、過去の歴史に寄せる個人的な率直な気持ちを複数の側近たちには語っていたということでしょうか。


7、国民的統一が失われる

 日経新聞は昨年(平成18年)7月21日、「富田メモ」スクープの翌日に、

「昭和天皇の思いを大事にしたい」

 という社説を掲げ、「A級戦犯分祀」や首相参拝見送りを暗に要求しました。

「小泉首相の靖国参拝をめぐって国内に賛否の議論が渦巻き、中国、韓国との関係がぎくしゃくして首脳会談も開けない異常事態が続いている。新たな事実が明確になったことを踏まえ、靖国参拝問題を冷静に議論し、この問題を他国の意向に振り回されるのではなく、日本人自身で解決するよい機会にしたい」

 しかしここには重大な事実誤認がありそうです。靖国問題とりわけ小泉参拝が国論を二分したことは事実ですが、これまで本誌(雑誌「正論」)などに何度も書いてきたように、日中関係を悪化させた主因は別にあります。中曽根参拝のときもそうでしたが、中国政権中枢に熾烈(しれつ)な権力闘争があり、対日重視派の胡耀邦あるいは胡錦涛を追い落とす政争の具として対日強硬派が靖国を利用したのです。

 また昭和天皇が「A級戦犯」合祀を不快とされた2つ目の理由として、『四季の歌』は

「関係諸国との間に将来、禍根を残す」

 とお考えだったことを指摘していますが、「A級戦犯」の減刑・赦免は関係諸国の決定で行われたのであり、逆に冷戦下、不当に拘束した「戦犯」(抑留者)を洗脳し、政治利用したのがソ連と中国でした。

 昭和天皇にすれば、参拝して国に命を捧げた国民を慰霊したいというお思いは格別でしょうが、50年の最後の参拝の前日、野党議員が国会で当時、宮内庁次長だった富田氏を

「なぜ参拝するのか」

「憲法違反ではないか」

 と終日、厳しく攻め立てたように、参拝が政治問題化し、国民的対立をもたらすのなら、天皇は躊躇(ちゅうちょ)せざるを得ません。

 そのことを裏付けるかのように、朝日の岩井記者は『侍従長の遺言』で、昭和天皇は「今後、参拝せず」の意向を、「A級戦犯」合祀が報道される以前から示していたと証言する元宮内庁幹部もいると指摘しています。合祀が不参拝の理由ではない、ということになりませんか。

 錯綜(さくそう)する因果関係を正確に把握せず、「天皇の思い」の断片を暴き、一方的に解釈し、皇室の権威を借りて、特定の立場で政治利用することはあってはならないし、政治利用されるような状況を作ることも避けなければなりません。

 したがって側近の日記やメモの公開は慎重であるべきだろうし、昭和天皇はおそらく公開を望まれなかったでしょう。天皇が公式の場ではなく、内々に側近にお気持ちを語られたのは非公開が前提だったことは間違いありません。

 富田長官も同様で、日経の検証報告記事は

「正確な記録を後世に役立てたいという富田氏の考えがメモには反映されており、公開は有意義なだけでなく、富田氏の遺志にも沿うのではないか、というのが委員会の最終的な見解である」

 と手前味噌に述べていますが、逆に生前の富田氏はある新聞記者に

「日記は棺まで持っていく」

 と語ったと聞きます。

 側近のメモはあくまでメモに過ぎません。側近の理解は側近の理解でしかなく、天皇の本当のお気持ちは推測の域を出るものではありません。陛下がどうお考えだったのか、とりわけ歴史家やジャーナリストには関心の深いテーマですが、結局は言ったか言わなかったかという水掛け論に終わるでしょう。

 恐れなければならないのは、有史以来、日本の国と民を一つに統合してきた天皇の「お考え」が側近とメディアを通じて公開され、政治問題化し、そのことによって逆に国民的統一が失われること、「天皇の心」が天皇の統治を揺るがせる皮肉な結果をもたらすことです。

 いままさにその状況が生まれかけています。けれども歴史家も新聞人も、入江相政(すけまさ)・元侍従長による「拝聴録」や靖国神社総代会の議事録もすべて公開せよ、と無責任にもボルテージを上げています。


8、「帝室は政治社外のもの」

 日本の最高権威である「天皇の意思」とは、人間としての天皇個人の意思ではありません。皇位が神代にまでつながる連綿たるものであるのと同様に、天皇精神(大御心(おおみこころ))とは歴史を超えた悠久にして高次元のものであり、日本人はそれが民族の意思であると信じてきました。

 日経の社説が主張するように、日々移ろう生身の人間としての天皇の意思が現実政治に直接、反映されるのなら、独裁政治と何ら変わりません。独裁政治なら開闢(かいびゃく)以来、2000年も天皇統治が続くはずはありません。

 福沢諭吉は明治憲法が発布される前の明治15年に「帝室論」を著しました。

「帝室は政治社外のものなり」。

 皇室は政治の外に仰いでこそ、尊厳は永遠のものとなる。政治を論じ、政治に関わるものは皇室の尊厳を濫用(らんよう)してはならない──と訴えています。

 当時はまだ国会が開設されず、しかし政党運動が激化し、自分たちこそ唯一の天皇のお味方であるかのように主張し、反対派を不忠者と攻め立てることが続発していました。その情勢を憂い、福沢は警告を発したのです。

「帝室は万機を統(すぶ)るものなり、万機に当たるものにあらず」。

 皇室の任務は、直接、政治に関わることではなく、民心融和の中心たる点にある。議会政治、政党政治は国論の分裂が避けられないことを達観する福沢は、政治圏外の高い次元での国民統合の役割を期待したのです(小泉信三『ジョオジ五世伝と帝室論』文藝春秋、1989年)。

 そのまさに

「君臨すれども統治せず」

 という立憲君主のお立場を公的に生涯、貫かれたのが昭和天皇でした。

 しかし畏れ多いことながら、もしかすると最晩年にはその姿勢に揺らぎがあったのかも知れません。もしそうなら、私的なご発言の断片をメモに書きとめるより、お諫(いさ)めするのが藩屏(はんぺい)の務めであり、皇室を現実政治の世界に引き入れ、煩(わずら)わし、権威を貶(おとし)める結果を導くような行動は君側に近侍する者のなすべきことではありません。

「天皇の心」を理解する藩屏の不在、それこそが昭和天皇の深い憂いの核心ではなかったかとも疑われます。

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昭和天皇の「不快感」は本当か [昭和天皇]

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昭和天皇の「不快感」は本当か
(2007年8月31日)
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 あす9月1日(土曜日)発売の雑誌「正論」10月号に拙文「昭和天皇の『不快感』は本当か」が掲載されます。

 靖国神社の「A級戦犯」合祀に、昭和天皇は「懸念」を示されていた。その「具体的な理由」を、故徳川義寛・元侍従長が昭和天皇の作歌の御相談役だった歌人の岡野弘彦氏に語っていたことが判明した──。そのように伝える記事が八月上旬、新聞各紙にいっせいに掲載されました。

 昭和天皇がいわゆるA級戦犯の合祀に「不快感」を示されていたとするニュースは、日本経済新聞が昨年七月にスクープした富田朝彦・元宮内庁長官のメモなどを根拠に、これまでも報道されてきました。昭和天皇晩年の肉声をつぶさに記録する「富田メモ」には、昭和天皇は「A級戦犯」合祀が原因で靖国参拝を中止し、「それが私の心だ」と語られたことが記されているといわれます。

「明治天皇の思し召し」によって創建された靖国神社にとって、「天皇の心」は究極の拠り所です。その天皇が「A級戦犯」合祀を批判されていたとなれば、靖国神社の立つ瀬はありません。共同通信が放った特ダネは、日ごろは反天皇の立場に立つ反ヤスクニ派をいやが上にも元気づけ、靖国神社をめぐる混乱に拍車をかけています。

一、 半年遅れの新刊紹介

 共同は三十年前には「A級戦犯合祀」を「スクープ」しました。東京裁判で絞首刑となった七人と受刑中に死亡した五人、それと公判中に病死した二人、の計十四人が合祀されたのは昭和五十三(一九七八)年秋で、共同は翌春、このニュースを加盟社に配信し、たとえば神奈川新聞は四月十九日付で、「東条英機元首相らを合祀 靖国神社が昨年秋 『昭和殉難者』として」と伝えています。

「国民感情の点から合祀が見送られていたが、靖国神社当局は『戦後三十余年も過ぎ、いつまでも例外を作る必要はなく、今日の時点で当然行うべきこと』として決めたと説明している。合祀は神社側がまず決断し、同神社崇敬者総代(東竜太郎元東京都知事、永野重雄日商会頭ら十人で構成する合祀諮問機関)全員の同意で決まった。戦犯処刑者はすべてられていたが、A級だけは実現されずにいた」

 記事は四段見出しながら、掲載は社会面の左下隅。扱いはけっして大きくはありません。後追いした朝日新聞も社会面での掲載でしたが、「秋季例大祭の前日にこっそりと合祀」とひと味違う報道でした。合祀は大々的に公表する性格のものではありませんし、「五十三年十月六日の総代会決定を受けて、権宮司が侍従職と掌典職に参上している」と述べる関係者もいますから、「こっそり」は正確ではありません。

 朝日に先んじた「スクープ」の経緯は、『共同通信社50年史』(一九九六年)に、誇らしげに説明されています。


……つづきは雑誌「正論」をお買い求めのうえ、拙文をご覧ください。

 今回は表紙の酒井和歌子さんのお顔の横にタイトルと名前が載っています。ちょっと気恥ずかしいです。


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「私が悪いのだ」と嘆かれた昭和天皇 [昭和天皇]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」からの転載です


 じつに総額17億円にも達する岐阜県庁の裏金問題で、弁護士で組織する「プール資金問題検討委員会」が調査結果と提言をまとめ、知事に提出しました。
 http://www.pref.gifu.lg.jp/contents/news/release/H18/z00000650/index.html

 ぜんぶで55ページにおよぶ報告書によると、平成6年度以前は県組織のほぼ全体で不正な経理が行われ、資金の捻出が行われていたようです。その背景には、官官接待費や備品購入など、正規の予算には計上できないけれども、どうしても必要と考えられる費用があり、捻出が求められた、とされています。予算使い切り主義のシステム上の問題も指摘されています。

 報告書は「再発防止に向けての提言」で、「不適正資金づくりを担っていた一般職員のみならず、これを隠そうとした幹部職員の倫理意識は非常に大きな問題である」「職員全体に遵法意識、税金が県民の血と汗の結晶であるとの意識が希薄であることをうかがわせる」と指摘しています。

 倫理観が地に墜ちた岐阜県庁のスキャンダルから、私は昭和天皇の逸話を思い出しました。戦前と戦後、侍従長として仕えた木下道雄が『新編宮中見聞録』に紹介している戦前の逸話です。

 昭和の初め、汚職事件の渦中にある高官の起訴について天皇の裁可を求める上奏書を持って内閣書記官があわただしく駆けつけてきました。一刻を争う首相からの上奏書でしたが、昭和天皇は司法大臣の起訴理由書をくり返しご覧になるばかりで、裁可されません。

 しばらくしてようやく天皇は裁可の印を捺されました。書類を受け取り、部屋を辞する木下に天皇は語られたのでした。「私が悪いのだよ」。

 のちに昭和天皇はよく晴れた夕暮れ、天を仰ぎつつ、木下にたずねられました。「どうすれば政治家の堕落を防げるであろうか。結局、私の徳が足りないから、こんなことになるのだ」。

 昭和天皇は罪を犯した官僚を憎むのではありません。汚職がはびこる世の中を憂い、悲しみ、ご自身を責めておられていたというのです。

 そのような昭和天皇であればこそ、「戦争責任」を誰よりも強く意識されていました。生涯、身を引き裂かれるほどの責任を痛感され、ご自身を責め続けられたようです。昭和天皇が最後まで推敲を重ねてやまなかったのは、「身はいかになるともいくさとどめたりただ倒れゆく民をおもひて」だといわれます。

 絶対権力を振るうヨーロッパの王とは異なり、天皇は祭祀王といわれます。みずからの穢れ(けがれ)を祓いに祓って、祭祀を厳修し、皇祖のご神意を聞き、神に近づこうとする、それが天皇の政治だとされます。昭和天皇はつねに国のため、民のために祈る天皇のおつとめを生涯、貫かれたのでしょう。 

 そのような昭和天皇像からすると、A級戦犯合祀に不快感をいだき、参拝をやめた、と解釈されている先の富田長官メモは、信憑性を疑わざるを得ないのです。

 もしメモに書かれている発言が本物だとして、その場に居合わせたのが富田長官ではなく、木下侍従長だったら、どうだったでしょう。最晩年のお言葉を耳で聞いて、ただメモを書きとどめるだけだったのか、それとも「陛下のお言葉とは思えません」と諫言申し上げたでしょうか。

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大切にすべき昭和天皇の思いとは [昭和天皇]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」からの転載です


 昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を示されていたことを裏付ける、富田朝彦・もと宮内庁長官(故人)のメモをめぐって、波紋が広がっています。
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 メモを発掘した日経の昨日の社説は、信頼性の高い資料によって、昭和天皇の意向が明確になった、A級戦犯合祀に強い不快感を示したのは、戦争への痛切な反省と平和への思い、諸外国との真義を重んずる信念があったためであろう、天皇の思いを大切にしたい、と訴えています。

 同じく日経の昨日の「春秋」は、天皇の発言からは当事者としての深く激しい思いが伝わってくる、靖国神社に参拝していないのは熟慮の末の判断だ、と指摘し、つづいて今日の「春秋」は、崩御の前年に戦争への感想を聞かれて積年の思いが噴出したのだろう、と述べています。

 メモが「信頼性の高い資料」かどうか、については疑問の声も上がっています。A級戦犯合祀に対する昭和天皇の不快感については以前からもいわれてきたことですが、メモの信憑性が実証的に明らかにされる、あるいは逆に否定される日は、いずれやって来るのでしょう。

 昭和20年8月の敗戦は、日本がいまだかつて経験したことのない屈辱でした。数百万の国民が命を失い、国土は焦土と化しました。外国の軍隊が進駐し、「国体」はおかされることになりました。

 そのような事態を招いたことについて、昭和天皇のご心中はいかばかりであったでしょう。終戦の詔書には、腸(はらわた)が引き裂かれるほどであるという意味の表現がとられています。

 9月下旬になって、昭和天皇はみずからアメリカ大使館にマッカーサーをお訪ねになりました。会見の内容は秘密になっていますが、『マッカーサー回想録』によれば、

「私は、国民が戦争遂行に当たって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の採決に委ねるためお訪ねした」

 と語られたのでした。

 マッカーサーは、昭和天皇が戦犯として起訴されないよう、命乞いをするのではないか、と予想していたのですが、実際は逆でした。

「死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度」

 は、マッカーサーをして「骨の髄までも揺り動かした」のでした。

 戦争責任を誰よりも深く感じ、終生、みずからを責められたのが昭和天皇でした。昭和天皇は

「戦争を防止できず、国民をその惨禍に陥らしめたのはまことに申し訳ない」

 という思いを生涯、持ち続けられたといわれます。

 そのような昭和天皇像は今回、発掘されたメモの内容とは矛盾します。どちらが正しいのか、あるいはそうではなくて、どちらも正しいのか。いまのところ判断はつきません。

「現人神(あらひとがみ)」と称えられる天皇も生身の人間である、という前提に立てば、ときの政治指導者に対する個人的な好悪の感情もおありだったかもしれません。もしそうだとすると、日経の社説が主張するように、

「天皇の思いを大切にしたい」

 と簡単にいいきることわけにはいかない、ということにもなります。

 そもそも天皇のご意思とは、生身の天皇個人の意思とは必ずしも同じではないでしょう。日本人が天皇を尊いご存在と考えてきたのは、個人崇拝ではありません。ご人徳が立派だから天皇を敬愛するというのではありません。日本の天皇制度における天皇とは、天皇個人ではなく、

「国平らかに、民安かれ」

 という絶対無私の祈りを連綿として続けてこられた歴史的存在としての天皇なのではありませんか。

 考えても見てください。天皇個人の意思に合わせて、国家の政策をそのつど変更していたら、立憲君主制の根幹が揺らいでしまいます。日本人の多くがいまは亡き昭和天皇を敬愛し、その思いを大切にしたいと思うことはすばらしいことですが、個々の天皇のご意思がそのまま政治に反映されるべきかどうかは別問題でしょう。

 富田メモに関連して、指摘すべきもう一つの点は、何度もこのブログに書いてきたことですが、靖国神社はA級戦犯を神格化し、神とあがめているのではない、ということです。

 合祀手続きはあくまで人間の行為にすぎないのであって、間違いもあり得ます。そして、靖国の神はあくまで靖国の神であり、それは、国家の非常時に私を去って、公に殉ずる精神なのでしょう。いうところの「分祀」は日本人の伝統的神観念上、あり得ませんが、もし仮に「分祀」できたとしても、神の世界ではなんの意味も持たないでしょう。神の領域に人間が立ち入ることはできないからです。

 いまはそんなことを考えています。
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国民的和解と融和について考える──両陛下のオランダ公式御訪問を前に [昭和天皇]

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国民的和解と融和について考える──両陛下のオランダ公式御訪問を前に
(「神社新報」平成12年5月15日)
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 慶長5(1600)年、オランダ船リーフデ号がいまの大分県臼杵市に漂着した。それからちょうど400年を迎えた今年、各地で記念の行事が催されている。

 先月19日には臼杵市で大分県などが主催する「日蘭交流400年記念式典」が開かれ、オランダのアレキサンダー皇太子とともに御臨席になった皇太子殿下は、「本日、400年前のヤコブ・クワケルナック船長らの漂着と同じ日に、記念式典が開かれることは誠に意義深いことであります」とお言葉を述べられた。

 今月下旬には天皇皇后両陛下が同国を公式訪問されるが、友好親善どころか、「歴史と向き合う旅になりそうだ」と伝える新聞もある。

 2月にコック首相が来日したとき、小渕首相は「両国関係が損なわれた一時期があったが、戦後50年の村山談話の立場を再確認する」と語り、第2次世界大戦のオランダ領東インド(インドネシア)の「戦争被害者」問題について反省とお詫びの気持ちを伝えた。

 いったい両国間に何があったのか?


◇「歴史のトゲ」はインドネシア
◇ 苦難の日本軍強制収容所生活

 日本とオランダの「歴史のトゲ」は蘭印と呼ばれたインドネシアにある。

 慶応大学の倉沢愛子教授(インドネシア現代史)によると、オランダ東インド会社がバタビア(いまのジャカルタ)の町を建設したのは1619年、オランダの東洋での根拠地がこの町であった。

 東インド会社は交易を進めながら領域を拡大していったが、放漫経営のために1799年に倒産、その後の植民地支配はオランダ国家の手に移される。領地は拡大し、スマトラ、ボルネオ、セレベスなどの島々にまで及んだ。

 1941(昭和16)年12月8日、日・米英間に先端が開かれ、翌年2月にシンガポールが陥落、3月1日、日本軍がジャワ島に上陸した。

 電撃的攻撃で9日目にはオランダは降服する。慌ててオーストラリアに逃げた者もあったが、オランダ人20数万人の多くが取り残された。

 日本軍による占領統治が始まり、ジャワ島は陸軍第16軍の統治下に入った。

 やがて民間人への締め付けが厳しさを増し、すでに収容所に入れられていた元高級官吏や重要企業幹部など4492人の「敵性濃厚者」のほか、青年・壮年男子1万5252人の「居住制限者」は刑務所、学校、民家などに収用され、婦女子や少年、老人男性の「指定居住者」4万6784人は一定地区に生活することを義務づけられた。

 収容所の衛生状態、食糧状態は劣悪で、戦後のオランダの発表では、オランダ領東インド全体で13万5千人が捕虜もしくは抑留者となり、そのうち約2割に当たる2万7千人が死亡したとされる(ジャン・ラフ=オハーン『オランダ人「慰安婦」ジャンの物語』の倉沢教授による「解説」から)

 7年前の夏、國學院、皇學館両大学の学生ら数人とバングラデシュのマングローブ植林に出かけた帰り、インドネシアに立ち寄った。

 スカルノ・ハッタ空港に到着後、日本の援助団体オイスカの人たちに案内されたのが、ボゴールの植物園である。オランダ総督府が置かれていたところで、総督邸が日本時代には軍司令部となり、いまは迎賓館として使われていると聞いた。

 翌日、ジャカルタで独立記念塔(モナス)を見学した。台座に設けられた大パノラマは48場面の独立史がテーマで、「インドネシア人が労務者として強制労働させられ、何千人もの死者を出した」とする日本時代のひとこまもあった。

 ジャワ島の伝説に、稲穂が黄色く稔るころ、北方から使者がやって来て、それまで自分たちを苦しめていた奴らを追い出す、という物語があり、日本軍が上陸してきたとき、「あれは日本軍のことだったのか」と囁き合ったと聞いたが、それから3年半の日本占領の記憶はインドネシア人にとってもけっして明るいものではない。

 戦後50年で出版された『日本軍強制収容所(ヤッペンカンプ) 心の旅 レオ・ゲレインセ自伝』の難波収氏による「訳者まえがき」によれば、蘭印の降服で9万3千の蘭印軍と約5千の米英豪軍が日本軍の捕虜となった。

 うち3万8千の蘭印軍の将兵と3千の海軍軍人の計4万1千人が捕虜として収容されたが、捕虜たちは飢餓、傷病、暴行などに苦しんだほか、道路、飛行場、鉄道などの建設作業に従事させられた。

 タイ─ビルマ間を結ぶ泰緬(たいめん)鉄道の敷設に駆り出された連合軍捕虜の数は6万1千人で、そのうち1万6千あまりが死亡し、1万8千人のオランダ兵には3100人の犠牲者が出た。

 パカンバル鉄道建設では、オランダ兵とイギリス兵合わせて6593人が送り込まれたが、輸送船の沈没で1626人が死亡し、現地で696人が斃れた。ほかに1万7千人の労務者が命を失った。

 自伝を書いたゲレインセは「ガニ股野郎ども(日本人)」が進攻してきたとき14歳で、母親と妹とともに強制収容所に移され、飢えと暴行、強制労働で肉体的、精神的な死の苦しみを味わい、戦後、オランダ本国に引き揚げたあとも少年時代の忌まわしい記憶に苛まれ、失業や家庭崩壊を経験したという。


◇ オランダ人「慰安婦」の恐怖
◇ 「女の楽園」カンビリ抑留所

 前出の『ジャンの物語』はオランダ人「慰安婦」の手記だが、これによれば、1923年にジャワ島に生まれたジャンは日本軍のジャワ島侵攻後、母親や妹らといっしょにアンバラワ収容所に抑留され、そのあと44(昭和19)年2月から約2か月間、17歳以上のオランダ人女性35人とともに、スマラン日本軍慰安所の「慰安婦」であることを強いられた。

「これほどすさまじい苦しみがあろうとは思ってもいませんでした」とジャンは語る。

 倉沢教授によると、インドネシアでは当初、現に売春を営んでいる者のなかから、本人の自由意思に基づいて「慰安婦」が採用された。やがてオランダ人女性が目を付けられ、最初は希望者から採用されたが、ジャンたちは「強制的」に収容所から連れ出された。

 その後、1944年4月から抑留所の管理が州庁から軍に移管されたのに伴って、俘虜を「慰安婦」として強制した「国際法違反」が第16軍上層部に知られ、慰安所は閉鎖された。

 戦後の戦犯裁判では、スマランのオランダ人慰安婦問題に関して13人が起訴され、1名が死刑、10名が懲役刑となった。懲役刑を受けた10名には性病検査を担当した2名の軍医も含まれていた(『ジャンの物語』の「解説」)。

 日本軍の「罪状」の連続には気が滅入るが、ホッとさせられる物語も伝えられている。

「文藝春秋」昭和34年10月号に、「白い肌と黄色い隊長」と題する菊地政男の記事が掲載されている。弱冠27歳の山地正二等兵曹(海軍)が所長を務めるカンビリ抑留所の秘話である。

 抑留所には1800人の婦女子が収容されていたが、総督令嬢や知事夫人、市長夫人など反抗的、ヒステリックな女性たちは扱いづらかった。

 そのなかで山地はヨーストラ夫人というリーダー格の協力を得、抑留者の自治を認めて安心して生活できる抑留所づくりに努力する。新しい宿舎のほかに診療所や老人ホーム、教会や学校が建てられた。200台のミシンが導入され、農園も作られ、自給自足の体制ができあがる。

 衣服や靴、食器、鏡、石鹸なども支給され、抑留所は「女の楽園」の異名をとる、明るく秩序のある模範的存在として知られ、陸軍から見学者も訪れるほどだったが、民政部長の決裁で慰安婦の提供を求められたときには山地は頭を抱え込んだ。

 悩んだ末に、大河原長官に決死の直訴を試み、やがて慰安婦採用は不許可になる。

 終戦後、ヨーストラ夫人は「人間山地はわれわれか弱い婦女子をよく理解し、民族を超越した人間的な温かい愛情を注いでくれた」と感謝の言葉を捧げ、451名の抑留者は山地への感謝状に署名した。

 視察にやって来た連合国軍の調査団は「抑留所内に学校があるというのは連合国側にも見られない。感謝と敬意を表する」と山地に握手を求めた。

 のちに本国に帰国したヨーストラ夫人は「オランダ金鵄勲章」を授与され、また山地との交流も続いた、と菊地は書いている。


◇ 「親善を壊すようなことはして
◇ くれるな」と語られた昭和天皇

 インドネシアでの戦犯裁判では236名が死刑に処せられ、サンフランシスコ講和条約に基づいて日本政府は抑留民間人への補償金1千万ドルを支払った。

 にもかかわらず、オランダの日本に対する「戦争責任」の追及は止まない。

 昭和46年秋に昭和天皇が香淳皇后とともにヨーロッパを御訪問になったときには、オランダでは過激派の反対運動が激しく、水の入ったビンがお車に投げつけられるといった不祥事などが起き、オランダ政府は陳謝の意を表明した。

 平成の時代になってからは新たな個人賠償訴訟が持ち上がった。ジャワ島スマランのオランダ人慰安婦事件が一般に知られるようになったのは、平成4年夏の朝日新聞の報道がきっかけという。

 補償事業を進めている「アジア女性基金」が一昨年の夏、オランダでの事業を開始したほか、当時の橋本首相はお詫びの親書をコック首相宛に送った。

 しかしこの一方で、オランダ人の中に、日本批判ではなく、オランダ自身の植民地支配を反省しようという気運が生まれている。

 オランダ領東インドに生まれ、抑留経験を持つ、オランダの著名な評論家ルディ・カウスブルックは、『西欧の植民地喪失と日本』(原著の『オランダ領東インド抑留所シンドローム』はオランダでベストセラーになった)で、「背が低くて黄色い曲がり足のサル」という日本人像がオランダでは戦時中ならいざ知らず、いまも信じられている。植民地を奪われた挙げ句に捕虜となった遺恨のままに造り上げたステロタイプのイメージから一歩も出ようとしない、とオランダ人に自省を求めるのである。

 オランダ人は横柄に日本人に謝罪を求め、日本人が謝罪すると、「謝るそぶりだけ」と拒絶する。日本人の誠意を受け入れないのは日本人に対する恨み、闇雲な遺恨だ、とカウスブルックは指摘している。

 しかし偏見なら日本側にもある。オランダ人「慰安婦」が「白馬」と呼ばれたのは、白人に対する民族的優越感もしくはコンプレックスのなせる技であろう。

 それにしても、あってはならない戦争が残したあまりにも深い傷を癒し、人種的偏見や恩讐を超えて、両国の新の和解、融和を図るにはどうすればいいのか?

 昭和46年10月15日付の朝日新聞は、昭和天皇御訪欧に随行した宇佐美宮内庁長官の帰国会見の言葉をこう伝えている。

「オランダなどでの反対運動については、陛下には前もって情勢を申し上げていたので、十分承知されておられた。……陛下は、国民の親善を壊すようなことはしてくれるな、とだけいわれたし、反対運動をして実際に捕まった者に対しては穏便に取りはからって欲しいと伝えた」

 昭和天皇にとって50年ぶりの御訪欧は、変わりやすいヨーロッパの秋空がウソのように晴れたと伝えられる。まさに「天皇晴れ」。そして「皇后スマイル」はわだかまりの消えないヨーロッパ人の心を洗ったという。

 今回はどうであろうか?

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皇祖と民とともに生きる天皇の精神 ──宮廷行事「さば」と戦後復興 [昭和天皇]

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皇祖と民とともに生きる天皇の精神
──宮廷行事「さば」と戦後復興
(「神社新報」平成10年6月8日号)
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 明治時代に惜しくも廃止されてしまいましたが、千年にわたって続いた「さば」と呼ばれる宮中行事があります。

 漢字では「生飯」などと書き、梵語(ぼんご)だといわれます。仏教に由来するとされ、仏教辞典には食事のときに少しの飯粒をとりわけて鬼界の衆生(しゅじょう)に施すこと。あまねく諸鬼に散ずるために「散飯」。最初に三宝(仏法僧)、次に不動明王、鬼子母神に供するところから「三飯」という──と書かれています。

 仏教系の新宗教教団などでは月に何回か日を決めて節食し、献金して基金を作り、国際的な援助活動を展開しているところもあります。世界の貧しい人々と「同悲同苦」の仏教精神を体験するという趣旨には、「生飯」と通ずる餓鬼供養の発想がうかがえます。

 他方、皇室の「さば」はインドに源流がある外来文化だとの認識から廃されたようですが、もともと日本の伝統文化だとする見方もあります。それどころか、皇祖と民とともに生きる天皇統治の本質そのものと関わっているようにも見えます。

 たとえば、戦後史を振り返りながら、考えてみましょう。


▢ 民の苦しみは朕が苦しみ
▢ 御巡幸で国民を慰めたい

 昭和20年8月15日、長い戦争の時代が終わりました。「敗戦」という日本が有史以来、経験したことのない屈辱の結末でした。国内だけで数百万の人命が失われ、国土は焦土と化しました。しかも外国の軍隊が進駐して、日本はその支配のもとに置かれ、「国体」が侵されることになりました。
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 御治世にこうした未曾有の事態を招いたことについて、昭和天皇の御心中はいかばかりであったか、拝察するにあまりあります。終戦の詔書に

「五内(ごだい)ために裂く」

 とあるのは御実感であられたでしょう。

 翌9月下旬、陛下はみずからお出ましになって、アメリカ大使館に連合国軍最高司令官マッカーサーを表敬されました。45分間の会見内容は秘密になっていますが、昭和39年に翻訳出版された『マッカーサー回想録』にはこう記されています。

 マッカーサーは、陛下が「戦争犯罪者」として起訴されないよう自分の立場を訴えはじめるのではないか、と思っていました。ところが、陛下は

「私は、国民が戦争遂行に当たって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任をあなたの代表する諸国の採決にゆだねるためお訪ねした」

 と語られました。

「死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度」

 は、マッカーサーをして

「骨の髄までも揺り動かした」

 のでした。

 また、藤田尚徳侍従長によれば、陛下は、「このうえは、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」と「一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝」になり、「天真の流露はマ元帥を強く感動させたよう」(『侍従長の回想』)でした。

 陛下は、民の命は朕が命である、民の苦しみは朕が苦しみである、との姿勢を示されたのでしょう。

 共同通信の高橋紘記者によると、地方御巡幸の計画が持ち上がったのは、この第一回の会見直後のことでした。

 陛下は側近に、戦争で傷ついた国民を慰めるため、全国をまわりたい、ともらされました。加藤進・宮内省総務局長は陛下のお気持ちをこう記録しています。

「戦争を防止できず、国民をその惨禍に陥らしめたのは、まことに申し訳ない。私は方々から引き揚げてきた人、親しい者を失った人、困っている人たちのところへ行って慰めてやり、また働く人を励ましてやって、一日も早く日本を再興したい。このためには、どんな苦労をしてもかまわない。そう働くことが、私の責任であって、祖先と国民とに対し、責を果たすことになるのだと思う」(木下道雄『側近日誌』の解説)

 当時の社会混乱は想像を絶していました。衣食住はすべて不足し、とくに「一千万人餓死説」が流れるほど、人々は飢えをしのぐのに精一杯でした。

 昭和20年は40年ぶりの凶作で、食糧が絶対的に不足していました。政府はくり返し米の供出の協力を訴えましたが、農家の供出への意欲は極端に乏しかったのです。政府の威信は地に墜ちていました。

 農家には戦時中、むりやり供出させられたことへの不信感が根強かったのです。しかもヤミにまわせば供出価格の10〜20倍、それ以上で売れました。生産資材の高騰で、ヤミ米を売らなければ経営は維持できませんでした。

 21年5月には都内では「米よこせ大会」が開かれ、勢いに乗ったデモ隊が赤旗を先頭にして皇居になだれ込むという事件さえ起きました。参加者25万人もいわれる「食糧メーデー」が宮城前広場で開かれ、群衆は労働歌を歌って気勢を上げました。「朕はタラフク食ってるぞ。ナンジ人民飢えて死ね」のプラカードもありました(岸康彦『食と農の戦後史』など)。

 マッカーサーは進駐後、反天皇、反政府行動を奨励するような政策を採っていたのですから是非もありません。


▢ 食膳で皇祖と相対峙する
▢ 名もない民草を思われて


 21年1月、木下道雄侍従長のもとに学習院の英語教師ブライスからメモが届けられました。ブライスは「覆面の立役者」といわれるイギリス人で、皇室とGHQとの仲介をつとめていました。

 前出の『側近日誌』にブライスの覚書が載っています。まず、

「天皇は……親しく国民に接せられ……国民の誇りと愛国心とを鼓舞激励せらるべきである」

 とあって、そのあとに「天皇と食糧問題」の見出しが続き、こう記されています。

「ヤミ取り引き、ヤミ市がさかんに横行しておる……日本人の真心を呼び覚まし、これを奮い立たせねばならぬ。これはマッカーサーの力およばぬところで、ひとり天皇のみなし給い得るところであり、思うにいまがその絶好の機会ではあるまいか……広く巡幸あらせられて……国民の語るところに耳を傾けさせられ、また親しく談話を交えて、彼らにいろいろの質問をなし、彼らの考えを聞かるべきである」

 これに対して陛下は大いに賛成され、巡幸について

「ただちに研究せよ」

 と側近に命じられたといわれます。

 こうして御巡幸は翌2月に始まります。陛下は物質的精神的戦後復興の先頭に立たれたのです。

 当時、きびしい食糧事情にあったのは皇室も例外ではありません。もれ承るところでは、国民の窮乏をお思いになり、御所でお食事のときに一品か二品をえらばれ、

「今日はこれだけいただこう」

 と皇后陛下とお話になり、満足されたといいます。

 なぜそうされたのでしょうか。

 空襲で明治宮殿が焼けたとき、陛下は

「これでやっとみんなと、同じになった」

 と語られました。終戦の御聖断では、

「自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい」

 と仰せられた、と伝えられます。民の憂い、苦しみを共にされるのが天皇なのでしょう。

「さば」の行事にも、民と生を共にされるという御精神が貫かれているようです。戦後唯一の神道思想家・葦津珍彦氏はこう書いています(『天皇』)。

 ──天皇は毎食ごとに皇祖神と相対座され、「さば」の行事を行われた。食膳において、かたわらの御皿に一品ずつ御料理をおわかちになり、そのあとにはじめて御自身が召し上がられる。皇祖の御意を重んじ、「わが知ろしめす国に飢えた民が1人あっても申し訳ない」という御思いで、名もない民草のためにこの行事を続けてこられた。

「さば」はインドの仏語ともいわれますが、昭和13年春まで30年間、靖国神社の宮司を務めた賀茂百樹氏によると、「さば」は梵語で仏教起源とするのは必ずしも正確ではない、といいます(『神祇解答宝典』)。

 文化4年(1807年)に刊行された儒者村瀬之煕の随筆『#(のぎへんに丸)苑日抄』巻之八には、僧侶は食事のときに数粒の飯粒を取り分ける。これを生飯という。これは食事を衆生に施すという意味だが、古人が食を神に供えた遺風を後人が偽っただけのことである、とあるように必ずしも仏教起源とはいえない、というのです。

 賀茂氏はまた、このように語ります。

 ──中国でも古人は飲食するとき各料理から少しばかりをとりわけ器の間においた。その昔、最初に飲食をした祖先をまつり、その歴史を忘れないためであるともいわれる。
 いまも田舎の人間などは食前におしいただいてから食べ始めます。あるいは箸をおしいただいてのち食事します。これは日本古来の風儀なのだ、という。
 さらに、「食べる」と古語「食ぷ」は「賜ぶ」で、「神と君より賜る」という意味である。天皇におかれても、初穂をまず神に奉献され、残りを頂戴すると祝詞にも書かれている。
「さば」はかつては宮中でも神社でも行われたが、これは食事を尊ぶ日本の古俗で、そのために仏教の「生飯」と習合したのだ。


▢ 「君民一体」の理念と実践
▢ 戦後復興の大きな原動力

 人は食によって命をつなぎます。しかしそれは物質的意味にとどまりません。食事は神人共食の神祭りであり、祈りであったのでしょう。

 ことに宮中の「さば」は施しや供養ではなく、皇祖と君と民の一体化を象徴する儀礼なのでしょう。皇祖と天皇と国民の命が「さば」の行事によって1つにつながる。ここに君民一体の政治的宗教的理念と実践があるのではないでしょうか。

 その意味では、朝廷が古来、毎食ごとに淡々とこの行事を実践してこられたことは、驚嘆に値します。たとえば葦津氏はこんな逸話を紹介しています。(『天皇』)

 ──戦後の「米よこせデモ」に参加した知り合いの左翼青年がいた。「さば」の行事について話したところ、青年は語った。
「それは国の統治者として大切な第一の心得だ。しかし一代や二代ではなく、人の見ないところで、千年もの悠久の時を通じて、そのような精神伝統の行事が、日本の天皇制に続いたのだとは、おれは知らなかったよ」

 社会革命を模索していた青年はその後、早世するのですが、その心中に浅からぬ感動の表情を見たのがいまなお印象に残っている、と葦津氏は記述しています。

 宮廷行事としては明治期に廃止されてしまった「さば」ですが、皇祖と民と生を共有されるという精神は継承され、昭和天皇のマッカーサー会見や戦後の御巡幸に遺憾なく発揮されています。「民の声を聞き」「民の心を知る」。国民と憂いを共にされ、「民、安かれ」と祈られるのが天皇なのです。

 大金益次郎侍従長の『巡幸余芳』によると、御巡幸中の陛下の精神的肉体的な活動量は非常に大きいということから、側近や地方の高官は異口同音に御健康を気遣ったといいます。

 ところが、陛下はじつにお元気でした。供奉(ぐぶ)の者がへとへとになっているのに、陛下だけは余裕綽々たるものでした。

 陛下は御巡幸が立案されるとき、「自分の健康は第二義的に考えてよろしい」と語られました。国民の命はわが命とお思いになって、ご自身の命を皇祖と民の前に投げ出されたのでしょう。「なんじ臣民と共にあり」──国民と共に生きるという精神があればこそ、南船北馬の疲労をはねとばし、尽きない生命力を保持されたのではないでしょうか。

 大金氏は、

「(陛下の)お元気は巡幸という行動と心理のうちに、その源泉を求めるのが妥当である」

 と書いています。

 それは国民も同じだったでしょう。敗戦で憔悴した国民は陛下のお出ましを感激をもってお迎えしました。天皇が引き揚げ者に

「よく帰ってきてくれたね」

 と慰め、子供に

「よく勉強して立派な人になるのですよ」

 と励ますのを間近に見て、国民は涙しました。天皇制に反対する者たちでさえ「万歳」を絶叫した、と伝えられます。

 天皇と名もなき民草の君民一体感が戦後復興の大きな原動力となり、危機の時代を克服させたといえるのでしょう。

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