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アメリカ国家が捧げる祈り──中国・韓国の靖国参拝批判に反論する その2 [靖国問題]

以下は斎藤吉久メールマガジン(2013年4月23日)からの転載です


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アメリカ国家が捧げる祈り
──中国・韓国の靖国参拝批判に反論する その2
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 アーチを描いた高い天井と美しく輝くステンドグラス。正面には巨大な十字架。世界で六番目の規模を誇り、年間八十万人が礼拝に訪れる広大な大聖堂に、陸軍オーケストラが奏でる「ゴッド・ブレス・オブ・アメリカ」が響き渡るなか、儀式は始まった。

「神は私たちのすべての罪、そして苦しみを御存知です」。今年八十四歳になる、全米屈指のテレビ伝道師として熱狂的な支持を得てきた、バプテスト派のビリー・グラハム師は、数千人の参列者にそう語りかけた。

 説教に続き、演説のために席を立ったのは、ジョージ・ブッシュ大統領だった。大統領は「世界中からテロを撲滅する」と宣言したあと、こう締めくくった。「我々の国に神の導きがあらんことを」──。

 昨年九月十一日にアメリカで起こった同時多発テロのあと、世界中が注視するなかで、「テロ犠牲者を追悼し、祈りを捧げる儀式」が、アメリカの首都ワシントンの市街地を見下ろす丘の上に建つ、ワシントン・ナショナル・カテドラルで開催され、ブッシュ大統領をはじめ、歴代大統領や政府高官が国家的な祈りを捧げた。

 このカテドラルとはいかなる施設なのか。そこで行われた儀式とはどんなものだったのか。同カテドラルに取材した。


◇テロ犠牲者追悼式に大統領参列

 同カテドラルはアメリカのかつての宗主国・イギリスのエリザベス女王を首長とする英国国教会の大聖堂である。

 そのカテドラルで、ホワイトハウスからの依頼により、「テロ犠牲者を追悼し、祈りを捧げる儀式」が催されたのは事件から三日後、昨年九月十四日のことだった。

 儀式にはユダヤ教やイスラム教など他宗教の代表者らも参列した。

 軍楽隊の演奏と英国国教会ワシントン司教の先導で始まった儀式は、途中、イスラム教の宗教指導者ムザミル=シッディッキ師による祈りなどを織り交ぜながらも、パイプオルガンの演奏から讃美歌の斉唱、第二の国家「麗しきアメリカ」のソプラノ独唱、聖書の朗読など、基本的にキリスト教の形式に則って進められた。

「神への信頼こそがすべての根源です」と説教したグラハム師は、国教会とは宗派が違うが、政府の依頼を受けて参加した。

 ブッシュ大統領はカテドラルの聖職者に紹介された登壇。「全能なる神が常に我々を見守ってくださるよう祈ります」と演説し、最後に「アメリカに神の御加護を」と祈りを捧げた。

 そののち、大統領を含む参列者全員が「共和国の戦いの讃美歌」を大合唱して、追悼式はクライマックスに達した。


◇「国家的目的に使用される教会」

 同カテドラルの歴史は古い。

 およそ二百年前、独立戦争後間もない頃の政府建設計画のなかに「祈り、感謝、葬儀などの国家的目的に使用される教会」として創建されることが予定されていたのが、このカテドラルだ。

 紆余曲折を経て、議会で建設用地借り上げが決定され、一九〇七年に定礎式が行われた。千人を超える参集者が歓声を上げるなかで教会の建設を宣言したのは、日露戦争の停戦を仲介した功績でノーベル平和賞を受賞したことで知られるセオドア・ルーズベルト大統領だった。

 六十五年後に行われた聖堂外陣の完成式典にはニクソン大統領のほか、はるばる英国からエリザベス女王、英国国教会カンタベリー大司教らが出席している。

 創建以来、同カテドラルは「全国民のための教会」として「偉大な業績を讃え、多大な損失を悼むための儀式場」という役割を果たしてきた。

 セオドア・ルーズベルト大統領以降、すべての大統領がこの場所を訪れている。定期的に同カテドラルで礼拝し、自身が信じるキリスト教の神に祈りを捧げてきた大統領さえいる。

 また、ベトナム戦争などで命を落とした国家的英雄のために軍の代表者が祈りを捧げる特別の儀式も行われている。

 さらに、同カテドラルは、「公式」ではないが、同じくワシントン特別区にあるアーリントン国立墓地とも緊密な関係を保っている。戦死者の葬儀が同カテドラルで行われたのち、アーリントンに埋葬される例も多い。

 今回の儀式は、ホワイトハウスの依頼により、同カテドラルの主催で行われた。

 大統領をはじめとする公人が参列するのは、もちろん今回が初めてではない。

 儀式の宗教性についても、「当然、宗教的なものです。『追悼』は必ずしも宗教や祈り、あるいは精神性に基づく必要はありませんが、『祈り』は宗教的行為以外の何ものでもありません」と同カテドラルではコメントしている。

 それなら、なぜこの場所なのか。「国家的目的に使用される教会」だからなのか。

 合衆国内の教会はすべて法的には一宗教法人に過ぎず、政府からの援助を受けることは本来、あり得ない。今回の儀式を催すに当たっても、必要な経費はすべてカテドラル側が負担したことになっている。

 しかし実際はホワイトハウスから依頼があり、費用も教会職員の支出に対して、政府が実費を負担するといふ形で支払いが行われた。

 これは、靖國神社で政府の呼びかけによる祭典が行はれ、政府高官や諸宗教の代表者が参列するというようなことに相当する。アメリカではこれが以前から行われてきた「政教関係」の現実なのだ。

 これまでアメリカは「厳格な政教分離国」といわれてきた。その理由は一七九一年に追加された合衆国憲法修正第一条にある。そこでは国教を認めないことと、国民の宗教上の自由な行為が保障されている。

 しかし、現実には、連邦政府は一宗教法人に対し宗教的儀式の開催を依頼し、調節的な形を避けながらも費用を負担している。

 果たして、これは合衆国憲法が定める「厳格な政教分離」に違反することにはならないのか。

 カテドラル側はしかし、即座に否定する。そして、「合衆国の重要な原則である『国家と教会の分離』に抵触するものではありません。憲法修正第一条は祈りを禁じているわけではありません。禁じられているのは、国家が国民に祈りを強制することです」と国家の祈りを肯定するのだ。


◇靖國神社国家祭祀の可能性

 戦後日本に輸入された「政教分離」という法律用語は、時に極めて厳格に受け止められ、完全な政治と宗教の分離が主張されてきた。

 しかし、この用語は欧米では、「Separation of State and Church」、すなわち「政治と宗教」ではなく「国家と教会の分離」を意味している。そのような法律理論に基づいて、今回のカテドラルでの宗教儀式は行われている。

「政治と宗教を厳格に分離する国アメリカ」のこうした知られざる実態は、翻って日本の首相による靖國神社参拝はもちろんのこと、官民挙げての靖國神社での祭祀に、むしろ道を開くものといえないか。

 アメリカでは宗教者も、政治家も、官僚も、国を挙げて国難に殉じた死者たちのために心からの祈りを捧げる。

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「抗日」戦士が眠る韓国国立墓地──中国・韓国の靖国参拝批判に反論する その3 [靖国問題]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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 「抗日」戦士が眠る韓国国立墓地
 ──中国・韓国の靖国参拝批判に反論する その3
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「内外の人々がわだかまりなく追悼の誠を捧げるにはどうすればいいか」。昨夏、中国・韓国の猛抗議のなか、靖國神社に参拝した小泉首相の談話が「追悼・平和懇」の出発点である。しかし、今年一月の会合で、政府事務局が諸外国の戦歿者追悼事例を説明したとき、中国・韓国は取り上げられてゐない。

 首相参拝にもっとも反撥する両国では、どのやうな慰霊が行はれてゐるのか、その実態に学ばず、むしろ困難な議論を避けるかのやうな姿勢。それでゐて、懇談会の結論は新施設必要論でまとまりつつあるともいはれる。それでいいのか。

 今回は、韓国国立墓地の実態を取り上げる。ほかならぬ「わだかまり」について考へさせてくれる格好の題材だと思はれるからだ。


 韓国国立墓地「顕忠院」は、かつて朝鮮神宮が鎮まってゐたソウル市南山の南、漢江の対岸に位置してゐる。面積は明治神宮内苑のほぼ二倍、四十三万坪。三方を冠岳山の山並みに囲まれ、四季折々の花が咲く庭園墓地に十六万三千余の墓石が整然と並んでゐる。


◇「反共」と「抗日」

 その歴史は北朝鮮との軍事対決に始まる。最初は国軍墓地で、朝鮮戦争後の一九五五年に造成された。無名戦士の墓や在日学徒義勇軍の墓もある。六五年には国立墓地に昇格し、警察官も埋葬されるやうになった。

 顕忠院のシンボル「顕忠塔」が建立されたのは六七年。高さ三十一メートル、花崗岩製で、上空から見ると十字形をしてゐる。英雄烈士の御霊(みたま)が東西南北、国をあまねく守護するといふ意味合ひがあるらしい。祭壇には祭壇前の香炉は朝鮮戦争で戦死した将兵の認識票が材料に使はれてゐるといふ。

 塔の左右には二十三メートルの壁が翼を広げる。左側は朝鮮戦争など、右側は抗日独立運動をシンボライズしたレリーフ。顕忠院は「反共」と「抗日」といふ二つの大きな民族の闘ひがテーマになってゐることがわかる。塔内部には朝鮮戦争時の戦死者十万四千人の位牌がずらりと並び、地下には無名戦士六千二百余柱の遺骨を納める納骨堂がある。

 七一年には、李氏朝鮮末期の義兵、三・一独立運動、抗日武装闘争の活動家など三百五十人を祀る「顕忠台」が建てられた。最近では九三年に、上海で抗日独立運動を展開した大韓民国臨時政府の要人たちを祀る慰霊碑と墓域が設けられた。近年になるほど、「抗日」の要素が拡大してゐるやうな印象がある。


◇慰霊と歴史批判

 顕忠院の最大のイベントは六月六日。この日が「顕忠の日」とされる理由はとくにないとのことだが、国の休日となるこの日、国務総理直属の機関が主催し、政府、遺族、各界代表、各国大使館関係者ら五千人が出席する追悼式が開かれ、全国民がいっせいに黙祷を捧げる。韓国民は国を挙げて、「反共」とともに「抗日」精神を再確認するのだ。

 愛国心の涵養は大切だが、ここに「わだかまりなく」といふ、恩讐を超えた和解の発想はあるのだらうか。

 いみじくも金大中大統領は、「戦犯が合祀されない国立墓地のやうなものを日本が造るなら、参拝する用意がある」と語ったと伝へられる。大統領は「戦犯」を毛嫌ひし、一定の歴史観に基づき、他国の歴史をも批判する。実証的歴史検証なくして未来の創造はあり得ないが、慰霊の聖域に歴史批判を持ち込むのはいかがなものか。

 顕忠院には李承晩、朴正熙両大統領の墓所がある。片や革命で国外に追はれ、片やしばしば「軍事独裁」のレッテル付きで語られる二人だが、韓国民にとっては紛れもなく「国家指導者」であり、だからこそここに眠ってゐる。

 二人について慰霊・顕彰の誠を捧げようとする韓国民が、なぜ日本に対して、その良識を貫けないのか。日本の「戦犯」も、歴史的評価はどうあれ、やはり愛国的指導者に違ひはない。

◇「鎮霊社」の祈り

 他方、日本側だが、韓国の批判をなだめるかのやうに昨年十月、小泉首相が訪韓し、金大統領との会談に先立って、国立墓地に詣でた。

 顕忠院のホームページには参詣した外国要人の画像が載ってゐるが、その筆頭は小泉首相だ。首相は今年三月にも参拝した。以前には小渕、森両首相も献花してゐる。

 韓国側は靖國神社に祀られてゐる「戦犯」を蛇蝎(だかつ)のごとくに忌避し、日本側は「抗日」のシンボル施設で何度も頭を下げる。異様な外交関係ではないか。

 この記事が読者の手元に届くころには、高円宮・同妃両殿下が表敬されたとのニュースが伝へられてゐるだらう。日本政府は無節操な譲歩を一方的に繰り返したあげく、日韓の政治対立に皇室をも巻き込まうとするのか。

 追悼・平和懇では「日本との戦争で犠牲になった外国人をも慰霊したい」と提案された。日本には怨親(おんしん)平等、敵味方の別なく慰霊する、世界に誇るべき精神的伝統があるとし、暗に靖國神社を「自国の味方しか祀らない」と批判してゐる。

 しかし同社境内に鎮まる鎮霊社には、本社に祀られざる日本人の御霊と世界の全戦歿者の御霊が祀られ、日々、厳粛な祈りが捧げられてゐる。それでも近隣諸国からの批判は収まらない。なぜだらう。「わだかまり」を克服するために何が必要のか。
タグ:靖国問題
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国家が守るべき礼節──中国・韓国の靖国参拝批判に反論する その4 [靖国問題]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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 国家が守るべき礼節──中国・韓国の靖国参拝批判に反論する その4
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 今年は日中国交恢復三十年。だが友好の気運は乏しい。先般の瀋陽領事館事件もさることながら、四月には靖國神社問題が再燃した。

 ドラマには前奏曲がある。与党三党の幹事長クラス数名が四月十四日、北京で唐家璇外相と会談した際、唐外相は昨年夏の小泉首相の靖國神社参拝に言及し、「今年の八月は平穏にしてほしい」と自粛を求めたのである。

 ところが同月二十一日、小泉首相が春の例大祭に合はせて参拝したことから、中国側が猛反撥した。とくに今回は念が入ってゐる。外務次官が日本大使を呼びつけて「強い不満と断固たる反対」を表明したのに始まり、外務省副報道官、駐日大使、日中友好協会理事長、外相と入れ替はり立ち替はり批判を繰り返し、最後は江沢民主席が登場して、公明党代表に「絶対に許せない」と語ったと伝へられる。

 中国はなぜかくも強硬なのか。日本はどう対応すべきなのか。


共産党のスローガンと毛沢東の巨大な肖像画が見下ろす天安門。周囲には毛主席記念堂、革命歴史記念館、人民大会堂。首都北京の中心に位置する天安門広場は中国共産主義革命のメッカである。人民英雄記念碑はその中央にそびえ立つ。

 天安門はその昔、中国皇帝の詔書が公布される権力の象徴だったといふ。革命の時代には人民集会場となり、しばしばここで武力蜂起が発生した。

 毛沢東が楼上から「中華人民共和国」の建国を宣言したのは一九四九年十月一日だが、記念碑は前日、毛自身が鍬入れした。碑には毛が揮毫した「人民英雄は永久に不滅である」の金象眼の大字が彫られ、裏面には毛が起草し、周恩来が揮毫したといふ碑文がある。

 碑の台座には大きなレリーフがはめ込まれてゐる。テーマはアヘン戦争、太平天国の乱、武昌蜂起、五・四運動、南昌蜂起、抗日遊撃戦争、長江渡河の八場面。まさに革命のシンボルである。


◇海部首相の露払ひ

 七六年の「四人組」批判が記念碑を祭壇とする周恩来追悼が発端となったやうに、記念碑はつねに「政治」を引きずってゐる。

 八九年の天安門事件の舞台もここである。民主化を願ふ市民が胡耀邦元総書記を追悼する花輪を記念碑に捧げたのがきっかけであった。しかし民主化運動は武力鎮圧される。

 血生臭い弾圧の汚名をそそぐのに一役買ったのは、ほかならぬ日本政府だ。

 平成三年(九一)八月、海部首相は記念碑に花輪を捧げた。西側首脳は「弾圧のシンボル」への献花を避けてをり、当然、欧米マスコミは「弾圧容認」と批判した。

 海部首相の訪中は事件以後、西側先進国首脳として初めてだった。日本政府は事前折衝の段階では表敬に「難色」を示したが、「最近は他国の国賓にも献花していただいてゐる」と中国側に押し切られたといはれる。

 首相は「国際儀礼上の表敬」で、中国政府の人権問題への対応に支持を与へる意図はないと弁解に努めた。

 しかし翌九月に公式訪問したメージャー英首相は、天安門広場に足を踏み入れることはなかった。当然だらう。記念碑には弾圧の犠牲者ではなく、事件で死んだ兵士が祀られてゐるといふのだから。

 四年十月には今上天皇が訪中された。前年の海部訪中は露払ひだったのだが、さすがに陛下は表敬されなかった。西側首脳はその後も献花を避けてきたが、細川(六年)、村山(七年)、橋本(九年)、小渕(十一年)の歴代首相が献花してゐる。

 日本の叩頭外交に対して、むろん中国側の返礼はない。


◇対日批判の切り札

 今春の小泉首相の靖國神社参拝について、中国側は「靖國神社は日本軍国主義の精神的支柱」「A級戦犯の位牌を祀ってゐる」と猛反撥したが、強硬姿勢の背後に何があるのか。

 昭和六十年の終戦記念日、中曽根首相が靖國神社に参拝したとき、中国側は激しく反撥した。このときの抗議が中国政府の初めての批判で、執拗な抗議を受けて、翌年の首相参拝は見送られたが、その背景には中国政権内部の熾烈な権力闘争があったといはれる。

 首相参拝は親日改革派・胡耀邦の立場を危うくしかねない、といふ政治判断に基づく参拝断念は、「戦後政治の総決算」どころか、かへって靖國神社問題が複雑化する要因をつくった。中国側は「歴史教科書」「靖國神社」といふ対日批判の政治的切り札を手にし、日本の謝罪外交が始まった。

 昨年のブッシュ米政権成立と同時多発テロは国際情勢を一変させた。米ロの絆は深まり、中国は孤立化してゐる。世界貿易機関加盟、二〇〇八年北京オリンピック開催と世界ルールの導入を図る中国だが、一方では経済発展やインターネットの急速普及で一党独裁体制がきしみ始めてゐる。歴史問題や靖國神社批判はいま、中国国内ではナショナリズムを強化し、国外的には日本を叩く外交上の武器に使はれてゐるのではないか。


◇揉み手外交を脱せよ

 昨夏の小泉首相の靖國神社参拝は現状打破の目的があったが、結局、猛烈な批判の前に前倒し参拝の屈辱を味はふことになった。昨年暮れに発足した追悼・平和懇は、怒り狂ふ近隣諸国に譲歩し、なだめようといふ揉み手外交の手法から一歩も脱してゐない。

 中国との接点を持つ、ある識者はかう語る。「戦歿者の慰霊・追悼は国内問題である。その原則を中国に主張すべきだ。それが通らないなら、日本としても中国の教科書その他を批判せざるを得ない、と説得すべきだ」。

 静かな慰霊の聖域に権力政治の穢れを持ち込むべきではない、といふことだらう。

 人民英雄記念碑を管理する「天安門地区管理委員会」のホームページに、広場での「諸注意」が記されてゐる。第一条は「礼儀を重んじる」。宗教を事実上禁止する中国でさへ、尊い命を国家に捧げた英雄烈士への礼節を重んじる。

 翻って日本はどうか。素人的論議が延々と続く追悼・平和懇は、数百万の戦歿者に対して国家が守るべき礼節を重んじてゐる、と自信をもっていへるだらうか。
タグ:靖国問題
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ここがポイント。「靖国参拝」「A級戦犯」批判に大反論 [靖国問題]

以下は斎藤吉久メールマガジン(2013年4月21日)からの転載です


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 ここがポイント。「靖国参拝」「A級戦犯」批判に大反論
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 靖国神社の春の例大祭が今日から始まりました。安倍首相は大真榊を奉納し、閣僚が参拝していることについて、メディアはいつものように「私人か公人か」と問い立てています。十年一日の議論です。

 というわけで、平成17年8月に宗教専門紙に掲載された拙文を転載します。一部に加筆修正があります。同紙の編集方針に従って、歴史的仮名遣いで書かれています。



 今年は「終戦六十年」の節目だが、戦歿者を静かに慰霊するどころか、「A級戦犯」(昭和殉難者)を祀る靖国神社へのとりわけ中国の攻撃がかまびすしい。小泉首相の参拝を標的に、「絶対ないやうに」(中国外相)などと牽制する。首相は「不戦の誓ひ」と説明するが、強硬な中国は納得しようとしない。かみ合はない論点を整理し、反論する。


▽ 論点その1 「靖国問題」は中国の国内問題である

 いはゆる「靖国問題」が顕在化したのは、「戦後政治の総決算」を掲げる中曽根内閣のときです。

 同首相は戦後四十年の終戦記念日、「総決算」の核心として神社に「公式参拝」しました。多くの国民・遺族の要望を背景としたこの参拝は、日本の戦後史に大きな足跡を残すはずでしたが、その後、事態は一転します。

 当時の日中関係は数千人規模の青年交流が進められるなど基本的に良好でしたが、改革派・胡耀邦総書記に対する中国保守派の反撥が激しく、中曽根訪中に対して反日デモが吹き荒れました。中国国内の権力闘争が火を噴き、過去の記憶を呼び覚まされた長老派が中曽根参拝を叩くことで、胡耀邦の追ひ落としを図り、総書記は失脚します。

 つまり「靖国問題」は中国の内政問題なのです。

 中曽根首相にも問題があります。政治信念を貫けずに、翌年から参拝をやめてしまひました。中国の反撥に配慮して、と説明されてゐますが、状況を見て豹変する「風見鶏」の習性を中国は見抜いてゐて、弱点をつついたら見事にぐらついた、といふのが真相だと指摘されてゐます。

 日本政府の対応の甘さが、「靖国問題」を日中ののど元に刺さったとげのやうにしてしまったのです。


▽ 論点その2 「A級戦犯」合祀は平和条約に基づいてゐる

 日本はサンフランシスコ平和条約で東京裁判の判決を受け入れたのに、裁判で死刑判決を受けた「A級戦犯」をなぜ合祀してゐるのか、といふ批判がありますが、話は逆であって、合祀は平和条約を出発点としてゐます。同条約十一条は日本が判決を受け入れ、刑を執行することと同時に、赦免・減刑の権限や手続きを定めてゐます。

 昭和二十七年春の条約発効後、日弁連、あるいは浄土真宗やキリスト者を中心とする宗教団体などが「講和に取り残された戦犯を救はう」といふ国民運動を展開し、のべ四千万ともいはれる署名を集めました。

 世論に後押しされて日本政府は重い腰を上げ、平和条約に基づいて、関係各国に「戦犯」赦免を勧告、米国など関係各国の協議が開始され、条約と各国間の合意に基づいて「戦犯」赦免が進められました。

 その結果、恩讐を超えて、A級戦犯は三十一年春までに、BC級戦犯は三十三年春までにすべて釈放されました。

 他方、国会は「戦犯」の釈放・赦免を数次にわたり決議し、右派社会党などの働きかけで「援護法」「恩給法」が改正されました。かうして戦犯刑死者の名誉が回復され、一般戦歿者と同様の待遇を受けられるやうになったのです。

 これが「戦犯」合祀につながります。

 祭神の合祀はもともと国が決めることで、靖國神社が独自の判断で合祀者を決定したことは一度もありません。「こっそり祀られた」といふのも誤解です。通常とは異なるのは、慎重を期して十数年の社内検討の末に実行されたことです。


▽ 論点その3 「A級戦犯」の「分祀」はあり得ない

 靖國神社は、戦争といふ国家の非常時に一命を国に捧げた二百四十六万余柱の戦歿者を一座の神「靖國の大神」として祀ってゐます。神社の祭祀には二面性があります。一つは靖国の英霊に対する国家の義務としての御霊鎮め。もう一つは個々の祭神と遺族の仲を取り持つ宗教的な祭祀です。

 中曽根首相以来、中国の批判をかはすために「A級戦犯」の「分祀」が主張されてゐますが、「一座の神」といふ基本からすれば、一部祭神の切り離しはあり得ませんし、祭神の変更など神ならぬ人間にできるはずはありません。

 そもそも神道の「分祀」と一部の親中派政治家などが主張してゐる「分祀」とはまったく異なります。いはゆる「分祀」論者は、「分祀」すれば「A級戦犯」の御霊を取り除けると考へてゐます。端的にいへば「合祀取り下げ」です。

 しかし、神道の「分祀」は、元宮となる神社から神霊を勧請して祀ることをいひます。ちょうど大きなロウソクから火を分けても、元の火がなくならないやうに、「分祀」しても元宮の神霊が消えてなくなることはありません。

 したがって「分祀」論者の「分祀」は何の意味もありません。「位牌を分離せよ」と要求する人がゐますが、もちろん神社に位牌はありません。神社は「拒否」してゐるのではなく、「分祀」は「あり得ない」のです。

「分祀を拒否した」から「A級戦犯擁護の歴史認識を示した」といふ報道がありますが、まったくの濡れ衣です。


▽ 論点その4 「慰霊」と「歴史検証」は異なる

 靖國神社はその名の通り「国安かれ」といふの祈りの祭場です。神社は現実の権力政治と一線を画し、国家危急の時に国に殉じた英霊の「慰霊」「顕彰」の祭りを厳修することを第一義としてゐます。

 本来ならば、国に命を捧げた戦歿者の慰霊行為は国が務めるべきものです。敗戦後、連合軍の占領政策により、やむなく国家管理を離れ、一宗教法人となった靖國神社は、この六十年間、国に代はって、一貫して戦歿者への慰霊の誠を捧げてきました。小泉首相の参拝を批判する声がありますが、明治以来、慰霊の中心施設である靖国神社に国の代表者が表敬することは当然です。

 首相の参拝を「侵略戦争の正当化」と断じ、批判するのは間違ひです。戦歿者に対する慰霊行為と過去の歴史を検証することとはまったく異なります。靖國神社の祭神は国家存亡の危機に私を去って公に殉じたといふ一点において祀られてゐます。特定の歴史観や戦争観に基づいて、英霊を祀り、祭祀につとめてゐるのではありません。

 先の戦争は多大な犠牲と国土の荒廃を招きました。かうした戦争の惨禍を二度と繰り返さないために、客観的かつ実証的な歴史検証は必要でせうが、それは日本の国家と国民の仕事であり、歴史家の領域です。神社の目的はあくまで祭祀の厳修です。
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「靖国参拝しない」野田新首相の論理破綻──「国際政治などを総合判断」ではなく「党内政治に配慮」!? [靖国問題]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2011年9月4日)からの転載です

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「靖国参拝しない」野田新首相の論理破綻
──「国際政治などを総合判断」ではなく「党内政治に配慮」!?
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 野田内閣が発足しました。野田首相は「在任中、靖国神社を参拝しない」と表明しました。

 野田首相は6年前の平成17年10月、靖国神社に社頭参拝した小泉首相に対して、「戦犯」についての認識などについて、質問主意書を提出しています。それは靖国参拝を批判するのではなく、不甲斐ない小泉参拝の尻を叩く内容でした。
http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a163021.htm

 質問主意書は、その前文で、小泉首相は「A級戦犯」を「戦争犯罪人という認識をしている」と述べているが、そのような認識では、靖国神社参拝を軍国主義の美化と見なす論理を反駁できない、と厳しく批判しています。

 そのうえで、すべての「戦犯」は平和条約と国会決議などによって、すでに名誉回復されているのだから、「A級戦犯」はもはや戦争犯罪人ではないのであり、「戦犯」合祀を理由とする首相参拝に反対する論理は破綻している、と野田氏は指摘しています。

 さらに、元「A級戦犯」に対する法的誤認、社会的誤解を放置することは人権侵害であるとまで述べ、「A級戦犯」に対する認識を再確認することが、人権と国家の名誉を守るために緊要である、と主張するのでした。

 とくに、質問「一 『戦犯』の名誉回復について」の「6」は、「すべての「A級戦犯」の名誉が国内的にも国際的にも回復されているとすれば、東條英機以下14名の「A級戦犯」を靖国神社が合祀していることにいかなる問題があるのか。また、靖国神社に内閣総理大臣が参拝することにいかなる問題があるか」と迫っています。

 保守政治家・野田佳彦の面目躍如たるものがあります。

▽1 質問主意書はパフォーマンスか

 ところがです。首相の椅子に座ることになった野田氏は完全にトーンダウンしています。

 不参拝表明の理由は、記者会見で語ったところによれば、「国際政治などを総合判断することが必要だ」ということにあるようです。

 これは筋が通りません。

 6年前の質問主意書は、既述したように、じつに論理的でした。

 中国・韓国が首相の靖国参拝に反対するのは、靖国神社には「A級戦犯」が祀られている、したがって靖国参拝は軍国主義美化の現れである、と理解するからだ。しかし戦争犯罪者はすでに名誉回復しているのであり、靖国参拝反対の論理は破綻している。「A級戦犯」の認識を再認識すべきだ、と野田氏は主張しています。

 この論理に従うなら、野田首相は、中国・韓国に対して、「A級戦犯」の人権と国家の名誉を守るために、「A級戦犯」の認識を再確認し、粛々と靖国神社に参拝すべきでしょう。

 そうでなければ、質問主意書は単なるパフォーマンスだったのか、と疑わざるを得ません。

▽2 「政府の立場」なら参拝するのが筋

 もうひとつ、質問主意書で「A級戦犯は戦争犯罪人ではない」と指摘したことについて、野田首相は、「政府の立場なので、政府の答弁書を踏まえて対応するのが私の立場だ」と説明したとメディアは報じています。
http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C93819481E2E0E2E7EB8DE2E0E2EBE0E2E3E38297EAE2E2E2;at=ALL

 これも変です。野田氏の質問主意書に対して、小泉首相は次のように答えているからです。
http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b163021.htm

 つまり、首相の靖国神社参拝について、

(1)内閣総理大臣が私人の立場で靖国神社に参拝することは合憲である。
(2)内閣総理大臣が靖国神社に公的に参拝することも、国民や遺族の多くが、靖国神社を我が国における戦没者追悼の中心的施設であるとし、靖国神社において国を代表する立場にある者が追悼を行うことを望んでいるという事情を踏まえて、もっぱら戦没者の追悼という無宗教目的で行うものである。
(3)その際、追悼を目的とする参拝であることを公にするとともに、神道儀式によることなく追悼行為としてふさわしい方式によって追悼の意を表することによって、宗教上の目的によるものでないことが外観上も明らかである場合には、国の宗教的活動に当たることはないと考える、

と説明しています。

 野田氏が政府の立場にあるとするなら、この答弁書に従って、堂々と参拝するのが筋でしょう。

 野田首相が靖国不参拝を表明したのは、あるいは表明せざるを得なかったのは、「国際政治などを総合判断」したからではなく、「党内政治に配慮」した結果ではないのでしょうか。

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ためにする鳩山代表の追悼施設設置発言 [靖国問題]

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ためにする鳩山代表の追悼施設設置発言
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 民主党の鳩山代表が、靖国神社に代わる国立の戦没者追悼施設設置に取り組むことを表明しています。

 「特定の宗教によらない、どなたもわだかまりがなく戦没者の追悼ができるような国立追悼施設の取り組みを進めたい」「天皇陛下も靖国神社には参拝されない。大変つらい思いでおられるんじゃないか。陛下が心安らかにお参りに行かれるような施設が好ましいと思うのも理由の一つだ」と述べ、候補地として千鳥ヶ淵墓苑をあげたと伝えられます。

 民主党のいわゆるマニフェストには見当たりませんが、政策集「INDEX2009」には、「靖国神社はA級戦犯が合祀されていることから、総理や閣僚が公式参拝することには問題があります。何人もがわだかまりなく戦没者を追悼し、非戦・平和を誓うことができるよう、特定の宗教性をもたない新たな国立追悼施設の設置に向けて取り組みを進めます」と明記されています。
http://www.dpj.or.jp/policy/manifesto/seisaku2009/index.html


▽慰霊・追悼は伝統宗教の形式で

 19日の朝日新聞社説は、「どんな人でも自然な気持ちで、戦争で亡くなった人々を追悼できる。そんな施設が日本にないのは残念なことで、民主党などが問題を打開しようと声を上げたことを歓迎したい」と評価しています。
http://www.asahi.com/paper/editorial20090819.html

 しかしこれらはいかにもためにする議論です。

 まず第1点。「特定宗教によらない」という発想は、靖国神社が神道の祭祀を行う神社だという理解に端を発しています。

 しかし靖国神社は、必ずしも一神教的な排他的「宗教」ではありません。数珠を手にお参りする遺族もあれば、拝殿で賛美歌を歌うキリスト者も受け入れられています。

 神道に布教という発想はなく、祈りを強制するのでなければ、国民の信教の自由を侵すこともありません。

 人間の死を悼むのは人間としてもっとも崇高な宗教的行為であり、したがって慰霊・追悼は伝統的宗教の形式にのっとって行われるべきです。イギリスでも、アメリカでも、オーストラリアでも、そのように行われています。

 戦没者を追悼する国家的施設として、世界でもっとも古い歴史を持つのが靖国神社です。その歴史を否定するのではなく、活かすことを考えるべきです。


▽一方的な歩み寄り

 第2に、「わだかまり」とは何か、です。

 150年前、「安政の大獄」を断行した井伊直弼ゆかりの滋賀県彦根市の市長らが、大獄で刑死した吉田松陰の墓参りをするため、山口県萩市を訪れた、というニュースが先日、伝えられました。萩市長は「恩讐を超えた交流」を呼びかけ、彦根市長も「幕末の英傑を誇りを持って尊敬し合うべきだ」と述べたそうです。

 私の母方の曾祖母は奥州二本松藩の落城から半月後に生まれました。したがって私はいわば「賊軍」の末裔です。靖国神社の前宮司さんにその話をしたことがありますが、さすがに目の色が変わったことを覚えています。

 わだかまりが簡単に消えるなどということはあり得ません。新しい施設を一方的に作ったからといってなくなるものでもないことは、いわずもがなです。

 わだかまりを消すには、吉田松陰の墓参りのように両者の歩み寄りが必要です。

 ところが、こと靖国問題に関しては、一方的な歩み寄りが強調されていることに問題があります。

 国立の新施設が必要だとする報告書をまとめた追悼・平和懇の設置は、小泉首相の靖国参拝に対して韓国・中国から激しい批判がわき上がったのがきっかけですが、これに対して、日本の歴代首相は「抗日のシンボル」である韓国国立墓地、抗日運動の闘士をまつる中国・人民英雄記念碑に参詣し、献花しています。わだかまりは一方的なのです。


▽「戦犯」に同情的だった朝日新聞

 第3にわだかまりの根拠とされるA級戦犯。これも濡れ衣です。

 靖国神社は戦争犯罪者を神として祀っているわけではありません。何度もメルマガに書いたように、「戦犯にも恩給を」という国民の強い要望から恩給法が改正され、刑死・獄死した戦犯を公務死と認め、扶助料が支給されるようになり、戦犯合祀の道が開かれたのです。国民の要望を受けて、厚生省が沖縄・ひめゆり部隊を軍属と認定し、靖国神社に合祀されたことが戦犯刑死者や終戦時自決者の合祀に先鞭をつけたのでした。

 そのころの朝日新聞はいまでは想像もつかないほど「戦犯」に同情的でした。
http://homepage.mac.com/saito_sy/yasukuni/H1812SRsenpangoushi.html

 第4に、A級戦犯を祀っているから、陛下が靖国神社に参拝できない、という見方も間違いでしょう。

 多様な国民を多様なままに統合するのが古来、天皇のお務めです。靖国をめぐる国民の意見が割れてしまっていては、お参りしたくてもお参りできないのだと思います。

 昭和62年の終戦記念日に昭和天皇が詠まれた「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」のお歌はそのように解釈すべきなのだと思います。

 岡野弘彦先生などは、昭和天皇が戦犯合祀を不快に思われていたと解釈しているようですが、歌人とは思えない、あまりにも直裁的な解釈です。
http://homepage.mac.com/saito_sy/yasukuni/H1910SRshowatenno.html


▽「A級戦犯」とは誰のことか

 第5番目は、もっとも基本的なことですが、A級戦犯とは誰を指すのか、です。

 読売新聞の社説は「東条元首相や松岡元外相ら14人の『A級戦犯』が合祀されている」と終戦記念日の社説に書いています。

 東京裁判の被告(容疑者)となったのは28人で、このうち有罪判決を受けたのは25人です。靖国神社にまつられているのは死刑になった7人と、公判中に病死した2人、受刑中に死亡した5人です。

 だとすると、「14人のA級戦犯」という表現は、有罪の者も未決の者も一緒くたに論ずることになり、まったく不正確です。

 禁固刑で服役し、講和発効後、関係各国の決定によって赦免、減刑、出獄した元戦犯や免訴となった容疑者もいまではすべて鬼籍の人ですが、靖国神社にはまつられていません。靖国神社が戦争犯罪を神聖視し、戦争犯罪人を神とあがめているかのような表現は不当です。

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「国立追悼施設」化する千鳥ヶ淵墓苑 [靖国問題]

以下は「斎藤吉久メールマガジン」からの転載です

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「国立追悼施設」化する千鳥ヶ淵墓苑
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 先日、千鳥ヶ淵戦没者墓苑で厚労省が主催する拝礼式が行われ、新たに629柱の遺骨が納骨されたと伝えられます。
yasukuni4.gif
 高円宮妃殿下が出席され、福田首相ほか政府関係者、遺族関係者が出席してそれぞれ献花し、桝添厚労相が式辞を述べたようです。

 靖国神社に代わる、国立の追悼施設を建設する、という議論がすっかりカゲを潜めている状況で、この千鳥ヶ淵墓苑がいわば、なし崩し的に国立施設の役割を果たし、既成事実化しているように見えます。

 しかしそれには大きな矛盾があります。つまり、いわゆるA級戦犯の問題です。同墓苑は概念的にA級戦犯を追悼対象としていますから、靖国神社に代わりようがありません。しかし、そのことは見て見ぬふりがされています。


▽1 靖国神社に代わる国立施設

 国立の無宗教の恒久施設が必要だ、とする報告書をまとめた追悼懇が設置されたのは、ほかならぬ福田首相が内閣官房長官時代だった、7年前の平成13年です。

 同年夏に小泉首相が靖国神社に参拝し、中国、韓国から激しい反発を呼んだのがきっかけでした。誰でも「わだかまり」なく、戦没者に追悼の誠をささげられる施設の在り方を議論することを目的に、福田長官の諮問会議が設置されたのです。

「わだかまり」の核心は、要するに靖国神社に祀られているA級戦犯問題でした。そして福田長官の諮問会議は、靖国神社に代わる国立施設の建設を提案したのですが、その後は棚上げされています。

 しかし現実において、靖国神社に代わる施設はマスコミにしばしば登場しています。1つは防衛省のメモリアル・ゾーンであり、もう1つがこの千鳥ヶ淵墓苑です。


▽2 A級戦犯も追悼の対象

 明治以来、靖国神社が国家的追悼施設の中心的存在であることは間違いありませんが、A級戦犯を祀っていることにおいて、国家的施設として相応しくないからといって、千鳥ヶ淵墓苑がそれに代わりうるか、といえば、否です。

 なぜなら、引き取り手のない遺骨を収める納骨施設である千鳥ヶ淵墓苑は、時代的には「支那事変以降」という限定的な戦没者が対象とされ、墓苑での追悼式は、政府の収納遺骨によって象徴される支那事変以降の戦没者に対して行なうもの、とされているからです。

 つまり概念上、戦争状態が続いている、サンフランシスコ講和条約発効以前の、戦争裁判による法務死を公務死と認めているのが日本政府の立場だとすれば、千鳥ヶ淵墓苑の追悼式がA級戦犯を追悼の対象としていることは明らかです。


▽3 要は靖国神社はずし

 少しでも事情を知る人なら、そんなことを百も承知のはずのですが、A級戦犯を祀る千鳥ヶ淵墓苑に首相は参拝するな、とは誰もいいません。

 千鳥ヶ淵墓苑だけではありません。政府が主催する終戦記念日の全国戦没者追悼式も同様です。

 それはなぜか、といえば、要するに、問題の核心がA級戦犯にあるのではなくて、靖国神社外しにある、ということでしょう。

 官僚たちのやり方は手が込んでいます。高円宮妃殿下にご出席をたまわったのは、反対封じではないか、とも疑われます。皇族が参列されれば、国民としては、公然と反対の声を上げることがはばかれるからです。戦没者追悼式も同様です。


▽4 いまこそ本格的な議論を

 明治以来、戦没者追悼の中心的な施設といえば、靖国神社以外にはありません。自国の宗教的伝統から生まれ、日々、追悼の誠を捧げている施設として、靖国神社より古いものは世界にはありません。

 靖国神社はどうあるべきか、いまこそ本格的な議論が求められています。


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靖国合祀「日韓のすれ違い」──「朝鮮人BC級戦犯」生存者たちの苦難と死者たちへの務め [靖国問題]

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靖国合祀「日韓のすれ違い」
──「朝鮮人BC級戦犯」生存者たちの苦難と死者たちへの務め
(「別冊正論」9号、平成20年2月)
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「合祀取り下げを靖国神社が拒否。朝鮮半島出身者遺族に」──。

 あと数時間で年が改まるという(平成十九年の)大晦日の夜、新年を迎える慶びに水を差すような共同通信の記事がインターネットのニュースサイトに掲載されました。取り下げを要求したのは韓国人BC級戦犯遺族らでした。

 敗戦後、A級戦犯のほかに、二万五千人を超える軍人・軍属がBC級戦犯容疑者として逮捕され、五千六百四十四人が起訴されました。アジア各地四十九カ所に法廷が開かれ、「陰鬱かつ不条理な裁判」の結果、「マレーの虎」山下奉文大将を第一号として、九百三十四人が死刑判決を受け、三千四百十三人が終身・有期刑となりました(田中宏巳『BC級戦犯』二〇〇二年など)。

 うち朝鮮半島出身者は百四十八人。軍人はフィリピンの俘虜収容所長だった洪思翊(こうしよく)中将ほか二人の志願兵、残りは軍属で、通訳十六人以外は俘虜収容所監視要員でした。そして二十三人が死刑台に消えました(内海愛子『朝鮮BC級戦犯の記録』一九八二年)。

 靖国神社では国に命を捧げた英霊として、ひとしく慰霊の誠が捧げられています。しかし韓国人戦犯遺族らは合祀それ自体に大きな不満があるようです。

 共同の記事は、韓国人元BC級戦犯者遺族会(姜道元会長)らの情報に基づき、同遺族会らが神社を訪れ、二十三人の合祀の確認とその取り下げを求めたのに対して、神社側は十五人について確認したものの、「神社創建の趣旨と慣習に従っている」のであり、合祀取り下げは受け入れられない、と文書で「拒否」を回答した。そのことを遺族らの組織がこの日、明らかにした、と伝えています。

 記事は神社側の頑なさを印象づけますが、遺族らの要求は妥当でしょうか。


▢1、「霊璽簿から名前を削除せよ」

 日本国内には在日韓国・朝鮮人の元BC級戦犯者で組織される同進会(李鶴来会長)があり、昭和三十年の結成以来、国家補償などを政府に要望し続けてきましたが、共同の記事によると、韓国人遺族会はこの同進会と協力して、活動を展開しているようです。

「同進会を応援する会」(代表=内海愛子・元恵泉女学院大学教授)のHP(ホームページ)によると、来日した遺族は日米開戦日の十二月八日、同進会主催の日韓共同シンポジウムに参加しました。

 共同の配信記事によれば、姜・遺族会会長は、「父は日本国民として収容所に派遣され、命令に従っただけで処刑された。『韓国人だから補償しない』というのはあまりにひどい」と語り、補償を訴えました。姜会長の父親はタイの連合軍兵士捕虜収容所で監視員を務め、その後、捕虜虐待の罪で絞首刑となったのでした。

 姜会長ら遺族会の四人と李鶴来・同進会会長らが靖国神社を訪れ、合祀取り下げの要望書を提出したのは二日後の十日で、さらに外務省に真相調査要望書が提出されたと伝えられます。

 韓国の公共放送局KBSの報道によると、靖国神社に対してはより具体的に「祭神名簿(霊璽簿、れいじぼ)から名前を即刻削除するよう要求した」ようです。

 霊璽簿は合祀された祭神の階級、氏名、本籍などが記され、本殿後背の霊璽簿奉安殿に収められています。副霊璽と位置づけられ、神職でさえ見ることをはばかるほど、きわめて重く扱われています。

 しかし遺族会らは神聖さを尊重するどころか、KBSの同行取材に「遺族の意思でもないのに合祀するのは話にならない」と語り、遺族の同意なき合祀について謝罪を要求し、分祀闘争を強力に進めることを表明したのでした。

「応援する会」のHPによると、神社から送られてきた十二月二十七日付の回答書には「合祀が確認されたのは十五人。取り下げはできない」とあったため、李会長は「照会したのは二十三人だったはず。遺族が望まないのになぜ勝手に合祀するのか」と電話で強く抗議しました。戦友たちの慰霊を行う神社に対して、感謝ならいざ知らず、なぜそこまで怒りを露わにしなければならないのでしょう。


▢2、「強制」といわざるを得ない状況

 李鶴来・同進会会長自身や姜道元・遺族会会長の父親たちは、なぜ戦犯者の汚名を着せられることになったのか。たとえば李さんに何が起きたのでしょう。

 朝鮮人BC級戦犯に関する研究にいち早く取り組んできたのは、いま同進会を応援する会代表の立場にある内海教授ですが、著書の『朝鮮人BC級戦犯の記録』によると、李さんは一九二五(大正十四)年の生まれ。書堂(寺子屋)通いをやめて、九歳で普通学校(小学校)に入学し、「皇国臣民」への道を歩み始めました。山村から就学する子供は少なく、喜び勇んで登校したといいます。

 朝鮮で俘虜収容所の監視要員三千人の募集が始まったのは昭和十七年五月。日本軍の緒戦の勝利で万単位の連合軍捕虜が出たのがことの始まりでした。

 事情があって失職していた李さんは募集に応じました。いずれ戦争に引っ張られる。銃を持たず、戦場に出ない、二年契約の監視要員は魅力的でした。

 朝鮮に徴兵制実施が決まったのがこのころだったと教授は説明しますが、一九一九(大正八)年の三・一独立運動の闘士たちが昭和十二年の日中戦争勃発後、対日協力に一変したことが知られ、朝鮮での徴兵はじつのところ朝鮮人の請願を受けて始まったといわれます。

 まず志願兵制度が十三年に始まり、十七年は四千人余りの採用に対して、じつに二十五万人以上が応募しました。適齢の若者がこぞって殺到したのです。民間人の動員も十四年九月〜十七年一月までは自由募集で、李さんの応募のころは官斡旋・隊組織による動員でした(杉本幹夫『「植民地朝鮮」の研究』平成十四年など)。

 しかし、形式は志願だが、青年たちには人生の選択はなかった。心理的には強制されていた、というのが内海教授の理解です。李さんの応募を許した父親は「あのころは若者が家にいることはできなかった」と教授に語っています。

 教授の著書によると、受験のため郡庁に集まった青年は何百人もいました。二十歳から三十五歳までという応募者のなかで十七歳の李さんは最年少でした。戸籍上はさらに二歳若かったといいます。

 ノンフィクション作家・上坂冬子氏の『巣鴨プリズン十三号鉄扉──BC級戦犯とその遺族』(一九八一年)には韓国人BC級戦犯についての一章があり、李さんについても言及していますが、異例として十七歳で採用されたのは成績優秀で、年齢以外に欠点がなかったからだろう、と上坂氏は推理しています。

「志願制を採りながら、その実、各道に採用を割り当てており、多分に強制的であった」と李さんは上坂氏に強調していますが、志願制のはずがなぜ強制的に実施されるのでしょう。「志願か強制か、抗日思想の強い同胞から一線を画されるか否かのポイントなのであろう」というのが上坂氏の指摘ですが、戦後になって「強制的」と述懐するのは、そのようにいわざるを得ない、韓国特有の状況があるのではないでしょうか。


▢3、親日=異端を排除する儒教倫理

 古い歴史をひもとけば、よくいわれるように、元(蒙古)の支配を受けた高麗時代、朝鮮は未婚の女性を多数、朝貢し、そのための特別の役所まで設けられていたほどですが、国家にとって最大の貢献者であるはずの貢女(コンニョ)が称えられることはなかったようです。

 また秀吉の朝鮮出兵のあと国土が荒廃したとき、飢餓に苦しむ民衆が、親が子を、夫が妻を奴隷として売るという悲劇が起きましたが、平和がもどって女性たちが祖国に帰ったときに、温かい歓迎はなかったと聞きます。

 同時期、日本に連れてこられた朝鮮陶工は、和平急転のあと強力に帰還政策が推進されたものの、望郷の思いがないはずはないのに、儒教的身分制度に縛られる故国に帰ることを望まなかったといわれます(内藤雋輔『文禄慶長役における被擄人の研究』一九七六年など)。

 やむにやまれぬ事情があったとしても、異国の血に汚れ、あるいは国を売ったとなれば、けっして受け入れない。儒教社会は正統を重んじ、異端を極端に排除する。韓国人には骨身にしみていることではありませんか。であればこそ、戦後、独立を回復した韓国で、朝鮮王朝を復活させようという運動も起きなかった、と韓国文化の専門家は指摘します。

 巣鴨のBC級戦犯がひそかにまとめた証言集『戦犯裁判の実相』(巣鴨法務委員会編、昭和二十七年)は韓国人留守家族の状況について、韓国では戦犯者は対日協力者として反感の対象で、家族は周囲から冷遇され、親類縁者からの援助も望み得ず、それでなくとも朝鮮戦争の影響で大黒柱を失った家族は文字通り路頭に迷った、と記録しています。

 昨年末、姜会長ら韓国人BC級戦犯遺族が来日したのはじつに初めてでした。共同通信によれば、盧武鉉政権が一昨年、元BC級戦犯を「戦争被害者」と認定したことから、驚いたことに、やっと遺族が公の場に出られるようになり、昨年二月に遺族会が発足したのでした。

 親日派糾弾に血道を上げる左派政権の強制動員真相究明委員会が朝鮮人元BC級戦犯八十三人を「被害者」として認定し、名誉回復すると発表したのは同年十一月でした。韓国・聯合通信によれば、「捕虜監視員になったのは、強制徴用の対象にならないためやむを得ない選択だった。しかし日本の戦争捕虜に対する虐待責任まで負うことになり、二重の苦痛を受けた」と説明されています。

 日本国家に協力したのは偽りで、逆に被害者であったことを証明するのが、韓国人の「名誉」回復だとされています。親日を異端とし、心では赦してはいないはずの戦犯者を、ちょうど慰安婦がそうであるように、親日批判のために逆利用しているのでしょう。かつて民族がこぞって親日化、異端化した歴史に民族全体が身もだえしているかのようです。

 それにしても抗日独立派が日中戦争を境に最大の対日協力者となり、日本時代が終わると今度は親日派を激しく排斥する。時代の節目で掌を返すように豹変する国民性は、歴史の連続性を重視する日本人の理解を超えています。

 日本人の場合、韓国人にとって悪名高い朝鮮総督府でさえ、朝鮮歴代王朝の始祖を祀る八殿六陵での伝統祭祀を厳修したほか、仇敵であるはずの朝鮮の英雄・李舜臣の遺霊を祀り、感謝を捧げる忠烈祠なども公認しています。今日、植民地支配のシンボルとされる朝鮮神宮は、民族的融和のために朝鮮の祖神を祀れ、という神道人の建言が出発点であり、皇祖・天照大神を祭神とすることには初代宮司までが最後まで反対するなど、歴史重視と日韓融和に心が砕かれたのとは何という違いでしょうか。


▢4、ジュネーブ条約に違反したか

 内海教授の著書によれば、李さんは昭和十七年九月、タイ俘虜収容所第四分所に配属されました。仕事は、泰緬鉄道の建設に狩り出されていた連合軍俘虜の監視。第四分所には一万千人の俘虜がおり、日本人下士官十七人と朝鮮人軍属三十人で管理するのは大仕事でした。

 翌十八年二月、李さんは、鉄道建設工事最大の難所ともいわれた密林のなかのヒントクへ、イギリス人、オランダ人、オーストラリア人の俘虜五百人を連れて分駐するよう、同じ朝鮮人軍属六人とともに、命じられました。

 日本人の上官はおらず、最初は弱冠十七歳の李さんが事実上の責任者でした。俘虜のあいだではたびたび盗難などがあり、ときに鉄拳制裁が加えられました。難工事であるうえ期限が決まっている。伝染病はあるが、医薬品も食糧も限られている。それでも軍人精神をたたき込まれている李さんは「忠実に命令を守り、天皇のために頑張った」のでした。

 泰緬鉄道は十八年十月に完成しましたが、「枕木一本、人一人」といわれ、ヒントクでは俘虜百人が死亡しました。

 敗戦後の二十年九月末、李さんはバンコクで元俘虜の首実検で拘束され、翌年四月、シンガポールのチャンギ刑務所に閉じ込められました。たった一回の簡単な取り調べのあと、独房に監禁され、起訴されました。

「十八年四月から五月まで、収容所で病俘虜を強制的に作業につかせ、多数の連合軍俘虜(豪軍俘虜が主)に死亡の原因を与えた。その数は百名以上にのぼる」というのが李さんの容疑だったようです(茶園義男編『BC級戦犯豪軍マヌス等裁判資料』不二出版、一九九一年)。

 内海教授の著書によると、軍属雇人のはずの李さんが収容所の管理将校だとされていました。「目には目を」。毎晩、監視兵の暴行が続いたといいます。

 俘虜の待遇については、一九二九年のジュネーブ条約が第二条で「俘虜は常に博愛の心をもって取り扱われるべし、かつ暴行、侮辱および公衆の好奇心に対してとくに保護せらるべし、俘虜に対する報復手段は禁止す」と定めています。

 内海教授が解説するように、日本はこの条約に昭和四年に署名しましたが、批准はしませんでした。日米開戦後、連合国側が条約の適用について照会してきたのに対して、東郷外相は「準用する」と回答しましたが、条約の精神を遵守する気などまったくなかったのは明らかだ、と教授は批判します。

 しかし上坂氏の説明では、日本は批准しなかった条約より、当然のことに国内法の「俘虜取扱規則」が優先されたのでした。規則は「場合によって殺傷することも可」とされていました。

 さらに教授も指摘するように、十七年六、七月、東条陸相は新任の俘虜収容所長に対し、「人道に反せざる限り、厳重に取り締まり、無為徒食せしむることなく、労力特技を生産拡充に活用する」と訓示しています。

 となれば、軍属たる李さんたちが陸相訓示に忠実なのは当たり前で、条約違反と責めることはできないでしょう。

 しかし二十年八月、アメリカ、中華民国、イギリスが「吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ」と明記するポツダム宣言を発し、日本が受諾、翌年二月、事後法的に定められたオーストラリア戦犯裁判規定は「人質の殺害」などを「戦争犯罪」と定めていました(前掲『BC級戦犯豪軍マヌス等裁判資料』)。

 二十年暮れ、李さんはいったん釈放されますが、翌年、香港でふたたび捕らえられます。弟のように可愛がってくれた、有利な証言をしてくれるはずの上官の大尉は絞首刑でこの世になく、日本人弁護士は非協力的でした。告訴したオーストラリア兵が一人として出廷せず、検事の弁論は英語のため理解不能。そして数分後、絞首刑が宣告されました。


▢5、置き去りにする国家

 ポツダム宣言の受諾で、日本の朝鮮統治は終わりを告げました。終戦の詔書は、帝国臣民として命を捧げた人々とその遺族に対して「五内(ごだい)ために裂く」と無念を表明しています。朝鮮や台湾出身者の軍人、軍属の犠牲を、詔書はしっかりと心にとどめています。

 しかし朝鮮がただちに独立を回復することはありませんでした。朝鮮総督府から日の丸が引き下ろされたあと、代わって掲揚されたのは星条旗でした。北緯三十八度以南はアメリカ軍の支配下に置かれ、李承晩初代大統領がマッカーサー司令官の臨席のもとで大韓民国の樹立を宣言したのは三年後です。

 再審で重労働二十年に減刑された李さんが内地に送還され、巣鴨プリズンに収容されたのは二十六年八月。日本の土を踏むのはこれが初めてだったようです。

 サンフランシスコで日本と旧連合国四十八カ国との平和条約が調印されたのはこの翌月。十一条には戦犯裁判の判決を日本が受諾し、日本で拘禁されている日本国民に刑を執行する旨が明記されていました。講和とともに釈放されるという戦犯者の期待は打ち砕かれました。

 しかし当時の新聞報道によると、講和発効を前にして、翌二十七年の年明け早々から戦犯者の赦免・減刑が動き出します。最初はフィリピンのモンティンルパ収容所に囚われているBC級戦犯の減刑・赦免に関する同国国会議員の情報でした。朝日新聞は特派員の収容所訪問記を載せ、さらに特派員はフィリピン首相が「今後、死刑囚の処刑はあり得ない」と言明したとの情報を得ます。

 戦争の時代の終わりを告げる講和発効は四月末で、相前後して戦犯赦免が急展開します。民間団体が赦免運動を開始し、A級戦犯弁護人は全戦犯の釈放を要請、BC級戦犯弁護団がBC級戦犯釈放のための署名運動を始めます。愛の運動東京都協議会らによる戦犯助命の署名運動は八月には一千万人を超えました。

 日本政府は重い腰を上げ、六月に吉田首相は戦犯の赦免・減刑などについて関係各国に了解を求めるよう手続きを進めよ、と保利官房長官に指示します。

 戦犯赦免の直接的権限は日本政府にはありません。平和条約十一条はまた「赦免、減刑、仮出獄については刑を課した複数政府の決定および日本の勧告を必要とする」と定めています。これに基づいて、日本政府は八月十五日、BC級戦犯全員の赦免を関係国に勧告しました。

 こうして国際社会は戦犯赦免に動き出しました。十月十六日、昭和天皇が七年ぶりに靖国神社を参拝された二日後、奇しくも同社の例大祭初日、フィリピンでは死刑囚の二人が釈放されました。

 しかし講和の恩典を十分に受けられなかったのが、ほかならぬ講和で日本国籍を失った朝鮮人BC級戦犯でした。

 上坂氏の著書によると、二十七年六月、韓国人戦犯らは東京地裁に「人身保護法に基づく釈放請求」を提訴しました。祖国は独立したのに、日本に拘束されるのは不当と訴えたのですが、最高裁判所大法廷は却下します。

 講和条約十一条には「日本国は、日本国で拘禁されている日本国民に、刑を執行する」とあります。刑が科せられたとき、拘禁されていたときに「日本国民」であれば、その後の国籍の喪失、変更に影響されない、という判断でした。

 内海教授の著書によると、李さんが晴れて釈放されたのは三十一年秋でした。


▢6、立ちはだかる抗日独立史観

 二十九年には、「戦犯にも恩給を」という国民の強い要望を受けて恩給法が改正され、拘禁中の戦犯の遺族に普通恩給が支給され、刑死・獄死した戦犯の遺族には公務死扶助料相当額の扶助料が支給されるようになり、戦犯合祀の道も開かれました。しかし日本国籍を失い、帰化することもなかった韓国人元戦犯は援護の対象とはなりませんでした。

 日本は講和条約で朝鮮の独立を承認するとともに、すべての権利、権限および請求権を放棄しました。けれども日本と交戦したわけではない韓国、北朝鮮とも講和会議に招請されませんでした。朝鮮半島では前年六月に勃発した朝鮮戦争の真っ最中でした。

 日韓国交正常化交渉は講和条約締結直後の予備会談に始まり、第一次から第七次まで会談が重ねられました。そして四十年六月、日韓基本条約が締結され、国交が正常化しました。

 同時に「請求権ならびに経済協力協定」が結ばれ、日本は総額八億ドル規模の経済協力を実施することになりました。一方で、韓国は国および国民の請求権を放棄し、両国ならびに両国民の財産・請求権については「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認」するとともに、以後は「いかなる主張もすることができない」とされました。

 朴正煕政権は日本が提供した経済協力金のほとんどを経済建設に投入し、「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展の基礎を築きました。一方、日本に徴用され死亡した者八千五百人の遺族に対して、一人当たり三十万ウォン、総額九十二億ウォンの補償を支払いました。

 高崎宗司『検証・日韓会談』(岩波新書、一九九六年)などによると、この個人補償は、日本側が第五次会談で、韓国民個人に日本が直接補償する方法を繰り返し提案したのに対して、韓国政府が一括して受け取り、韓国民に仲介する方法を韓国側が主張した結果でした。しかし結局、終戦後の死亡者や被爆者、慰安婦などは補償対象とはなりませんでした。

 上坂氏の著書によると、四十六年十一月、韓国人戦犯者の遺族らは韓国政府に補償を請求しましたが四年後、政府は「申請受理を拒否」します。対日民間請求権は二十年八月十五日までの問題で、それ以後に発生した戦犯問題は該当しない、というのが韓国政府の主張でした。

 韓国では玉音放送が流れた日が「日帝」支配から解放された光復節とされています。しかし国際法上、この日に戦争が終結したわけでも、大韓民国が独立したわけでもないでしょう。韓国特有の抗日独立戦争史観が韓国人戦犯遺族の前に立ちはだかっているようです。

 むろん日韓間の個人補償問題は正常化によって「解決済み」です。戦犯補償は正常化交渉の経緯からすれば韓国の国内問題でしょう。

 その点、盧大統領が二〇〇五年の「三・一独立運動」記念式典で「日本は過去の過ちに対して、心からの謝罪と賠償をしなければならない」と主張し、「正常化は不可欠だったが、被害者個人の賠償請求権を処理すべきではなかった」と述べて、朴政権下での正常化を批判したのはともかく、「韓国国内で解決する」と表明したのは適切です。


▢6、尊いと信じるがゆえに

 個人補償も含めて日韓の賠償問題は国際ルールに基づき、すでに解決しています。

 世界のいずれの旧宗主国であれ、植民地支配を謝罪し、「被害」を補償した例は聞きませんが、お人好しの日本政府は平成十年の日韓共同宣言で「小渕首相は痛切な反省と心からのお詫びを述べた」と謝罪しました。そして八年前には、正常化時の「経済協力」に加えて、国会は「人道的精神」を掲げて、在日韓国人で旧軍人軍属の戦没者遺族などに弔慰金を支給することを決めました。

 しかし韓国人戦犯者遺族らは、自分たちが対象外だとして、日本政府に謝罪と賠償を請求し、あまつさえ靖国神社に合祀取り下げを要求しているのです。

 指摘すべき第一の問題は、戦犯遺族らの苦痛には同情を禁じ得ませんが、既述したように、一方的な「謝罪」要求などには正当性が見いだせないことです。

 上坂氏の著書には、韓国人戦犯の窮状に心を痛め、五十年前、同進会に私財を投げ出した開業医のことが描かれています。多くの日本人は韓国・朝鮮人がもっとも協力的な戦友だったことを知っています。だからこそ、苦難のなかにある朝鮮人戦犯に救いの手をさしのべたのでしょう。そして合祀もされたのです。

 日本人の善意には目を向けず、「被害」を強調し、批判に終始していては、民族の和解は遠のくばかりです。不当を追及すべき相手は韓国政府であり、「被害」救済は旧連合国に求めるべきです。

 第二に、韓国人遺族らは靖国神社の合祀を「勝手に祀った」と批判しますが、たとえ同意が得られなかったとしても、心ある日本人は、朝鮮人の献身を人として当然、尊いと信じるがゆえに、哀悼の意を捧げ続けるでしょう。

 韓国・ソウルの国立墓地顕忠院には十六万三千余の墓石が整然と並んでいます。昨年暮れ、大統領選に勝利した李明博・次期大統領は翌日、真っ先に顕忠院に参拝しました。いずれの国であれ、殉国者に追悼の誠を捧げるのは国家・国民の当然の責務です。

 韓国人遺族らは、首相直属の機関が主催し、政府関係者や遺族、各界代表、大使館関係者が出席して追悼式が行われる顕忠院とは異なり、靖国神社の慰霊が民間任せにされている日本の現状をこそ、逆に批判すべきではないでしょうか。

 第三に、仮に遺族らの取り下げ要求、つまり祭神名簿抹消を神社が受け入れたとして、何の意味があるでしょう。

 顕忠院のシンボル、顕忠塔の内部には朝鮮戦争時の戦死者十万四千人の位牌が並んでいますが、靖国神社は二百四十六万を超える英霊を一座の神として合わせ祀っています。かつてこの世を生きた英霊をそれぞれ独立した神として祀っているのではありません。

 顕忠院なら個々の位牌の撤去も可能でしょうが、靖国神社は霊璽簿から名前を消したとしてもまったく無意味です。あえて行うことは神々の世界を人間が侵すことであり、殉国者を神として敬う日本の精神的伝統を俗世界に引きずり下ろすことになります。

 第四に、遺族らの運動は日本の植民地政策批判を含んでいますが、歴史批判と慰霊行為はまったく次元が異なります。

 顕忠塔は左右に大きな壁を翼のように広げ、朝鮮戦争、抗日独立運動をモチーフにしたレリーフを刻んでいます。顕忠院は韓国の国是たる「反共」「抗日」がテーマですが、注目すべきことに、墓園内には李承晩、朴正煕両大統領の墓所もあります。革命で国を追われ、あるいは「軍事独裁」と批判される故人を歴史的評価は別として国家指導者として慰霊する良識を韓国人は知っています。

 その良識が、特定の歴史観があるわけでもない、あくまで国に一命を捧げた兵士を祀り、国の平和を祈る追悼施設である日本の靖国神社に対して、なぜ貫けないのでしょう。


▢7、過去ではなく未来のために

 最後に、靖国神社に要求を突きつけた韓国人戦犯遺族らは神前で頭の一つでも下げたのでしょうか。日韓が必ずしも同じ宗教文化や歴史観を共有する必要はありませんが、他国の聖域に土足で踏み込むような行為は国際マナーに反することを指摘しなければなりません。

 日本の歴代首相は何度も抗日施設の顕忠院を表敬しています。皇族も自衛隊も献花、焼香しています。殉国者の追悼が国際儀礼だからです。しかし韓国左派政権は、一世紀以上も日本の中心的戦没者追悼施設とされてきた靖国神社の祭祀に不当に介入し、要人の答礼もありません。これは国際的マナーに反します。

 各国には各様の宗教文化があります。他者には他者の論理がある。それを理解しようとせず、正義は一つとばかりに蹂躙する行為は許されません。

 報道によると、昨年、韓国の反靖国派はアメリカにまで出かけて「強制合祀」反対キャンペーンを展開し、なかには靖国反対のミサを挙げた韓国系教会もあるようですが、やはり昨年、韓国人がアフガニスタンで布教活動をしてタリバンに拉致され、「布教禁止」を韓国政府が約束したのを忘れたのでしょうか。靖国神社は原理主義でも、武装勢力でもありませんが、他国の公的慰霊への干渉は明らかに節度を失っています。

 今年一月、当選後の初会見で李次期大統領は「(日本に)謝罪と反省は求めない」「日韓関係は未来志向的に進めなければならない」と語りました。前政権が創設した親日反民族行為真相糾明委員会などの廃止も表明していますが、正しい判断です。

 植民地支配に甘んじた内的要因を究明せずに、外国の非道ばかりを攻め立て、挙げ句に物取りのような要求を突きつける。喧嘩腰では未来が拓かれるはずもありません。自由と民主主義の価値を共有する両国は結束すべきです。それは平和を願いつつ、一命を捧げざるを得なかった死者たちの願いのはずです。

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当てはまらない司教の靖国批判、ほか [靖国問題]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年12月20日木曜日)からの転載です


〈〈 当てはまらないカトリック司教の靖国批判 〉〉


 この一年ほど、日本のキリスト教、とくにカトリックの指導者に対する批判もしくは問題提起を、一般のメディアで何度か書いてきました。この10年ほど、キリスト教について学んできて、靖国批判や歴史批判をする司教様方の政治的言動があまりにひどいものと映ったからです。(それらは私のサイトに掲載してありますので、ご関心のある方はどうぞご覧ください。)
yasukuni4.gif
 しかしけっして教会指導者すべてが左傾化し、異端化しているわけではないことは、オーソドックスな主張をなさる鹿児島の糸永司教のブログ「カトリック時評」が証明しています。そのことは、雑誌「正論」2月号掲載の拙文「教育基本法『改正』反対で揺れるカトリック教会」の冒頭に取り上げました。
http://homepage.mac.com/saito_sy/religion/H1902SRbishop.html

 けれども、まことに残念なことに、こと靖国問題となると、その糸永司教でさえ、まったく的外れの議論をされるようです。司教様のブログに載った「靖国神社参拝の是非について─みずから「宗教法人」になることによって靖国神社はどう変わったのか」と題する短いエッセイを拝見すると、そのことがよく分かります。
http://www.mr826.net:8080/psi/catholic/0611-0710/071001/

□神社宗教非宗教論からの深まり

 司教様のエッセイは、司教様のブログに対して、靖国神社の祭神にはカトリックの神に並ぶような神威・霊威はないし、戦没者合祀の目的も追悼・慰霊であるから、神の第一戒(唯一神の信仰)に反しないのではないか、という書き込みがあったことに対して、ご自身の見解を述べられたのでした。

 見解は、「神社非宗教論と国家神道」「教会による神社参拝容認」「靖国神社の宗教法人化による事情の変化」の3つの項目から成り立っています。

 まず、三土修平著『靖国問題の原点』を参照しつつ、司教様は、明治の初期に信教の自由とは抵触しないものとして「国家神道」が形成されていった。「しかし」昭和になり、皇民教育の一貫として神社参拝が義務づけられ、カトリック信者にとって良心上の重大な悩みが生じた、と歴史をふり返ります。

 「重大な悩み」とはいうまでもなく、「神の十戒が禁じる偶像崇拝を恐れた」ということです。キリスト教は一神教ですから、熱心な信徒であればあるほど異教の神を拝することは信仰上、許されません。

 となると、靖国参拝とはカトリック信徒にとって異教の神を拝する行為なのかどうか、が問われます。司教様はいわゆる神社宗教非宗教論と呼ばれた議論を一貫して展開していますが、問題の核心はそのようなことなのでしょうか。

 たとえば、カトリック新聞、昭和6年12月20日号に掲載された論説「神社参拝の問題」は、満州事変が契機となって、武運長久、戦勝祈願の名目で、神社のみならず、注目すべきことに、仏寺や公会堂などで祭典が行われるようになり、その「強要」について同信者のあいだで論議が起こっていることを説明し、神道形式による参拝の「強要」は信教の自由を保障する憲法に違反するではないのか、と問題提起し、曖昧な態度をとる政府を批判しています。

 「軍人万歳主義の復興は神社参拝問題の復興を伴い来たる。しかしてかの神社神道なるものはあたかも国教でもあるかの印象を新たならしめ……」とも書いているのですが、神社宗教非宗教論はその後、深まりを見せていきます。

 そのような議論の深まりは、かならずしも靖国神社の歴史の専門家ではない研究者の著書からはおそらく見えてこないものと思われます。

□昭和7年の上智大学生靖国神社参拝拒否事件

 司教様は次に、昭和7年の上智大学生靖国神社参拝拒否事件を取り上げています。事件は配属将校に引率されて靖国神社まで行軍した学生のうち、信者の学生が参拝しなかったことから大騒動に発展したのでした。

 これについて司教様は、当時、東京大司教の質疑に対して文部省は、「国の求める神社参拝は『宗教的』なものではなく、愛国心と忠誠心を表す『愛国的』なものである」と回答し、これに基づいて、日本の教区長たちは、「国家神道の神社で行われる国家神道的な儀礼に参加すること」を容認、バチカンも1936年の布教聖省指針でこれを追認した、と説明しています。

 さらに、「こうした教会の決定は、残酷な精神的拷問とも言える神社参拝の重荷から信者を解放し、その良心の平和を保証するものとなった」と解説し、ご自身のお姉さんたちが学校での神社参拝から逃れるためにいかに苦心したか、と回想しています。

 まず指摘しなければならないのは、何度も書いてきたことですが、上智大学生事件の本質は何だったのか、です。それが司教様の短いエッセイではかならずしも明らかではありません。

 靖国神社への行軍はいつものとおりの平穏な行軍だったことは当事者の学生が証言しています。このとき参拝を強制されたという事実もないようです(上智大学史資料集)。また行軍は春のできごとでしたが、新聞がかき立て、大事件に発展したのは秋になってからであり、事件の渦中の人である丹羽孝三幹事(学長補佐)によれば、文部省は軍に批判的で、支援者も少なくなかった。「軍部による政党打倒運動に事件が利用されたのであって、大学はいい迷惑だった」と説明されています(上智大学60年史)。

 当時の上智大学は大学令に基づく大学であり、宗教学校ではありません。構内には祭壇すらなく、全学生300人のうち、信者は35人だったといいます。配属将校が引き揚げ、後任者が決まらない事態となり、卒業生は幹部候補生となる特典を失うなど、学生にとっては深刻で、志望者が減った大学も困難な状況に置かれましたが、宗教的な迫害問題ではないと見るべきです。

□非宗教的な国家儀礼として参拝を許可

 とはいえ、信徒にとって神社参拝を信仰的にどう考えるべきかという問題は残ります。前段との関連でいえば、司教様は、神社は宗教にあらず、という議論の延長上で解釈しようとしていますが、不十分です。

 なぜなら教会はこの前後、異教施設での儀礼参加について理論的な発展を見せているからです。

 たとえば、事件があった昭和7年の暮れに発行された田口芳五郎『カトリック的国家観』は「そもそも神社問題は、『神社は宗教なりや否や』という本質論をめぐるものであって」と書き、翌年12月に大学が在学学生諸子ご父兄各位にあてた文書で「(事件は)神社に対する学長の認識の不十分により……神社は宗教と同一視せられざることを了解し……」(上智大学史資料集)と説明しているように、日本側は神社宗教非宗教論に立って議論していたのですが、バチカンは違っていました。

 司教様が言及する1936年の布教聖省の指針「祖国に対する信者のつとめ」は、神社が宗教ではないから参拝してもいいと許可したのではありません。指針にはこう書かれています。

 「政府によって国家神道の神社として管理されている神社において通常行われる儀式は、国家当局者によって単なる愛国心の印、すなわち皇室や国の恩人に対する尊敬の印とみなされている。……これらの儀式が単なる社会的な意味しか持っていなかったものになったので、信者がそれに参加し、他の国民と同じように振る舞うことが許される」

 つまり、指針は、神社が宗教かどうか、という議論をしているのではなく、国家神道の神社での国家的な儀礼と宗教としての神道の礼拝との区別を認め、そのうえで非宗教的な国民的儀礼としての靖国神社の儀礼に参加することを許したのです。

 司教様のいう「教会の決定は、残酷な精神的拷問とも言える神社参拝の重荷から信者を解放し、その良心の平和を保証するものとなった」との解説は的外れであり、「神社の祭神を拝む気持ちは毛頭なかった」というお姉さんたちが「苦心」した原因は、聖職者たちが信者にきちんと説明しなかったことにあるでしょう。

□みずから宗教法人化した事実はない

 最後に、司教様は、戦後の靖国神社の変化を取り上げ、文部省がGHQの神道指令に基づいて、神社側の同意を得た上で、同社を宗教法人とする方針を決定、改正宗教法人令に基づいて宗教法人として登記した、と解説しています。

 そのことによって、靖国神社は国家から切り離され、信教の自由を享受する一方で、信仰の対象となった。参拝は個人の良心の判断に委ねられるようになった。ただ、カトリック信者にとって、靖国参拝は偶像崇拝だから、唯一神信仰に違反すると考えられる、と述べています。

 これは歴史を歪めた議論といえるでしょう。というのは、司教様はブログのタイトルにも「みずから宗教法人になる」と書いてありますが、靖国神社がみずから進んで宗教法人になった事実はないからです。

 司教様の文章自体、宗教法人に登記したのは文部省であって、靖国神社は「同意」を与えただけのことで、それを「みずから」と解説するのは歪曲といわざるを得ません。ブログには当初、いかなる根拠にもとづいたものなのか、「靖国神社が神道指令に応じなかった」とありましたが、いつの間にか、その記述は消えてしまいました。

 歴史をふり返れば、宗教団体法に代わる宗教法人令が出されたのは昭和20年暮れであり、これが改正されたのは翌年2月です。その附則に「靖国神社は宗教法人令による法人とみなす」とあり、しかも「6カ月以内に地方長官に届出」なければ「解散したものとみなす」とされていました(渋川謙一「占領下の靖国神社」=「神道史研究」昭和46年)。

 つまり靖国神社はみずから進んで宗教法人になったのではなく、「選択の余地がなかった」と見るべきです。司教様の議論は前提が完全に誤っています。したがって、宗教法人になったのだから、偶像崇拝となる参拝を信者はすべきではない、という結論も正しくないということになります。

□世界宣教史の視点が欠けている

 結局のところ、司教様が間違った議論を展開しているのは、神社宗教非宗教論という古くさい議論から少しも進歩していないからです。それはとりもなおさず、バチカンの世界宣教の歴史と教学的な進展を学んでいないからではないでしょうか。

 1936年の指針が注目すべきなのは、何度も書いてきたように、その冒頭に「非常に賢明な次の原則を想起することは有益なことである」として、1659年の古い指針を引用していることです。300年前の指針はこう書いています。

 「各国民の儀礼や慣習などが信仰心や道徳に明らかに反しない限り、それらを変えるよう国民に働きかけたり、勧めたりしてはならない」

 「キリスト教信仰はいかなる国民の儀礼や習慣をも、それが悪いものでない限り、退けたり傷つけたりせずに、かえってそれらが無事に保たれるように望んでいる」(『歴史から何を学ぶか』カトリック中央協議会福音宣教研究室編、1999年)

 この17世紀の指針は中国に布教する宣教団に与えられたものでした。中国宣教を開始したイエズス会は画期的な適応政策を編み出し、現地語を用い、現地の習俗・習慣を採り入れ、国家儀礼や孔子崇拝、祖先崇拝をも認め、布教に成功し、1692年にはキリスト教は公許されました。

 適応政策をとらないほかの修道会とのあいだで典礼論争が生じ、イエズス会が敗北し、解散させられますが、20世紀になって、適応主義が復活し、日本では1936年に靖国参拝が許され、中国では39年に孔子廟での儀式参加が認められたのです(矢沢利彦『中国とキリスト教』)。同様の宣教方法はベトナムやインドでも採用されたようです(『新カトリック大事典』)。

 司教様は、1936年のバチカンの指針は「残酷な精神的拷問ともいえる神社参拝の重荷から信者を解放し、その良心の平和を保障するものとなった」決めつけていますが、世界宣教史の視点に欠けた議論です。

 異教の神を拝せず、という頑なな態度ならば、宗教間対話は成り立ちません。靖国神社が宗教か否かの議論はともかく、参拝や拝礼と表敬とは異なるのであり、国家儀礼としての敬礼は表敬に過ぎません。司教様のように、「偶像崇拝」としてそれをも拒むのだとすれば、トルコのブルー・モスクを表敬し、祈りを捧げた教皇様は異端分子になってしまいます。

□「靖国神社教」などない

 司教様が古くさい神社宗教非宗教論のレベルにとどまっていることは、最近の書き込みから明らかです。そこにはやはり3つのことが指摘されています。

 第1点は、「教会は宗教間対話を大切にしており、各宗教の教えや実践を正しく識別した上でこれを尊重し、その違いに立って対話に臨みます。従って、靖国神社の場合も、先方が自らを宗教と名乗る以上、わたしたちの信仰との違いを無視するわけにはいきません。たとえば、見学や表敬や対話ではなく、それが参拝となれば、それは靖国神社教に対する信仰告白となるでしょう。この場合、意図だけでなく行為自体が問われるからです」という議論です。

 この議論の誤りは、「宗教」とは何か、ということであり、靖国問題を問う場合、その「宗教」論を持ち出すことの妥当性です。

 最初のブログがそうでしたが、神社がみずから選んだかどうかは別にして、司教様は、靖国神社が宗教法人になったから「宗教」だという、じつに単純な論理を展開しています。「宗教」の定義は宗教学者の数ほどあるともいわれますから、その議論に立ち入るつもりはありませんが、少なくともいえることは、宗教法人になっている「宗教」もあれば、そうではない「宗教」もあり、同義ではないということでしょう。

 たしかに靖国神社は戦後、一民間の宗教法人となり、法制度上、それなりの体裁を整えてはいるのでしょうが、教祖・開祖がいるわけではないし、カトリックのカテキズムに比すべき宗教的教義があるわけでも、それを広める人的な宣教体制が備わっているわけでもありません。神社で日々、行われているもっとも重要なことは、あくまで戦没者追悼の祭祀の厳修です。

 司教様がいうような「靖国神社教」などがあるはずもなく、参拝=信仰告白ではありません。そのような曲解した表現は、「宗教間対話が大切」と表明することと完全に矛盾するでしょう。

□特定の戦没者だけ祀っている「差別」?

 次に司教様はこう書いています。

 「社会的に見れば、靖国神社に対する内外の評価には互いに対立する多様な意見があり、一致していません。たとえば、1、靖国神社にはすべての戦没者が記念されているわけではありません。千鳥ヶ淵戦没者墓苑には国のために死んだ35万柱の遺骨が納められています。戦争ゆえに国に命を捧げた者は他にもたくさんいます。その意味で、特定の戦没者だけを記念する靖国は差別の象徴とも言えます。2、靖国神社にはかつての国家神道が分離されないまま皇国史観とともに温存されており、先の戦争の負の部分についての反省もなく、その理念は戦争肯定そのもののように見受けられます。国の内外に分裂や対立を生むそんな靖国神社への参拝は、果たして真の平和祈願となり得るかどうか疑問です」

 日本は言論の自由な国ですが、責任あるお立場ならば、十分な根拠をもってものをいうべきです。司教様は「多様な意見」といいつつ、2つの誤解に満ちた意見を紹介するばかりで、検証もしていないのは、どうしたことでしょう。

 靖国神社にはすべての戦没者が記念されているわけではない、という場合の「すべての戦没者」とは誰を指すのでしょうか。千鳥ヶ淵墓苑との比較をなさっていることからすれば、同墓苑の方が多くの戦没者を対象としているとでは仰りたいのでしょうか。同墓苑に納められているのは引き取り手のない遺骨であり、時代的にも「支那事変以降」という限定的な戦没者が対象であることは、少し調べれば分かるはずです。

 特定の戦没者だけを記念するのは「差別」だという発想も、宗教者として相応しいものとは思えません。

 戦前、30年にわたって靖国神社の宮司をつとめた賀茂百樹が昭和7年にラジオ講演をしたことがあります。賀茂宮司が講演することになったのは、この当時、司教様の批判によく似た、神社に対する誤解に基づく批判があったからでした。それは、警察官や鉄道員など、命を危険にさらす職業がほかにもあるのに、靖国神社はこれらの殉職者は対象とせず、軍人ばかり祀っている。偏狭な制度だという誤解でした。

 これに対して、賀茂宮司は「軍人であろうとも、靖国神社には平時の殉職者はまつられていない」と説明しています。八甲田の雪中行軍をはじめ、おびただしい数の殉職者がいるが、いっさい祀られてはいない。日本国民にして国難に殉じたもの、国家危急のときに自分の命を国家の命に継ぎ足したものがまつられるのだ、と説明するのでした。

 戦時の戦死も平時の殉職も同じ死に変わりはないけれども、戦時の戦死や負傷は不意の怪我ではない。覚悟の上の結果であり、その覚悟と結果が合祀の資格となる、というように賀茂宮司は語っているのですが、これは「差別」でしょうか。

□陳腐な結論

 靖国神社が「国家神道」「皇国史観」をひきずり、戦争の反省をしていない、という批判も当たりません。司教様がいうように戦後になって「国家神道が解体」し、神社は「宗教法人化」したのであれば、引きずってはいないのであり、逆に、いまさら「皇国史観」を引きずっているとすれば、そのような神社を多くの国民が参拝するはずもありません。また歴史の批判は大いにあるべきですが、それは歴史家の仕事であり、靖国神社の使命は戦没者の慰霊・追悼であって、次元が異なります。

 最後に、司教様は、「ですから、特定の宗教やイデオロギーと結びつかず、万人がすべての戦没者を等しく偲ぶことのできる公的な施設ができることを多くの国民が望んでいると思います」と結論を書いているのですが、じつに陳腐です。

 つまり、靖国神社は特定の宗教なのか、神道は特定のイデオロギーなのか、ということです。靖国神社は日本の宗教伝統から生まれてきたことはたしかで、殉国者を神として祀っているのは近世の義人信仰を引き継ぐものです。幕末になって長州藩は他藩に先駆け、古来の忠臣の氏名などを幕末になって長州藩は他藩に先駆け、古来の忠臣の氏名などを記録し、祭祀を行い、招魂場を建設します。これが国事に殉じた志士を祀る招魂社、さらに靖国神社の源流といわれます(小林健三、照沼好文『招魂社成立史の研究』)。

 だとすれば、靖国神社は特定の宗教の流れをくむ特定の宗教なのでしょうか。神社神道ということでいえば、皇室の祖神をまつる私幣禁断の社である伊勢神宮と自然崇拝の神社ではまるで違います。信長を祀っている神社もあれば、家康の神社もあります。稲作信仰の神社もあります。本殿のない拝殿のみの神社もあります。神社という点では共通しますが、信仰の内容は特定の宗教というには多宗教的、多神教的であって、あくまで他の信仰体系と区別する意味で神道と呼ばれているにすぎないと見るべきなのでしょう。

 靖国神社でいえば、信仰の対象とし、さまざまな祈願を行う熱心な信者もいるでしょうが、神社が行っているのはあくまで国家的な祭祀であり、その祭祀の形式が神道祭祀に依拠していると見るべきではないのでしょうか。それは神道が日本の民族宗教だからに過ぎません。

□キリスト教世界の方が遅れている

 一方、キリスト教の教義は死者の慰霊・鎮魂とは元来、無縁のはずです。たとえば、亡父の葬儀に出席しようとした弟子に、イエス・キリストは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」(マタイ8/22)と語っています。信仰をもたないものは「死人」同然だという発想です。

 カトリック信徒でもある渡部昇一教授の『アングロサクソンと日本人』には、次のような逸話が載っています。のちに聖ボニファチウスと呼ばれるようになる宣教師が8世紀初頭、いまのオランダ周辺でキリスト教を布教したときのこと、教えに共鳴して受洗したラードボードという酋長がこう尋ねたのでした。

 「われわれは死んだら天国に行くが、入信せずに死んだ親はどうなるのか?」

 宣教師が答えます。「洗礼を受けなければ天国には行けません」。酋長は憤然として「乞食坊主の話を聞いて損をした。地獄だろうと何だろうと、オレは先祖のいるところに行く」と語り、宣教師を追放したのです。

 司教様は注意深く「戦没者を記念」と書いていますが、祖先崇拝を拒否してきたキリスト教では、受洗者の場合も、「記念会」は故人の神の恵みを称え、神の栄光を仰ぐことが目的であり、故人を拝礼することはあり得ません。当然、遺影などを拝することは認められません。ましてキリスト者が異教徒の死者を慰霊することは唯一信徒への信仰とはまったく次元が異なることといわなければなりません。

 遺骸の埋葬地に墓碑を置き、拝礼の対象とするという発想のないキリスト教ですが、靖国神社の創建から遅れること約半世紀、イギリスでは多くの人命を失った第一次大戦後、「The Glorious Dead」と刻まれた石造りの戦没者追悼記念碑セノタフが完成し、翌年にはアメリカのアーリントン墓地に無名戦士の墓が築かれました。そして、このころからイギリスやアメリカ、さらに国際機関で行われるようになった黙祷は、明治天皇の御大葬で、交通機関を停止させ、市民が捧げた静かな祈りときわめてよく似た儀礼でした。

 それぞれ宗教的背景は異なるのに、同様に記念碑を建て、たとえばイギリスでは戦没者追悼式典でカンタベリー大主教による短い宗教儀式も行われます。司教様が主張するように、特定の宗教やイデオロギーと結びつかないことが望ましいなら、イギリスもそのようにすべきでしょうか。

 いや、実際、イギリスでも、アメリカでも、多宗教化が進み、たとえばアメリカの同時多発テロの直後、ワシントン・ナショナル・カテドラルで行われた追悼式典では、キリスト教だけではない、諸宗教の祈りが捧げられました。このような現象は一神教世界ではつい最近のできごとですが、多神教的、多宗教的文明を形成してきた日本では100年以上も前から行われてきました。日本の宗教伝統を「特定の宗教・イデオロギー」と決めつける人には、悲しいかな、それが見えないだけのことです。


〈〈 本日の気になるニュース 〉〉


1、「中国情報局」12月20日、「今日は何の日。1941年。『飛虎隊』初の戦闘」
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2007&d=1220&f=column_1220_001.shtml

 アメリカの義勇航空隊「フライング・タイガース」(AVG)が日本軍と初の空中戦を行ったのが1941年の今日なのです。

 記事にあるように、AVGが結成されたのは日米開戦の前でした。記事は、アメリカはまだ日本に対して宣戦しておらず、中立の立場だったので、「民間の義勇兵」として募集が行われたが、実際はルーズベルト大統領の後ろ盾のもとで行われたとあります。

 つまり、記事は明記を避けていますが、開戦回避のためギリギリの日米交渉が始まる1941年4月を前にして、人、モノ、カネをアメリカが提供し、中国空軍の識別マークで戦う異例の航空部隊が創設され、「中立法」違反を誤魔化すために軍事作戦は商行為の仮面をかぶり、隊員の募集が始まり、現役軍人から人員を募集する大統領特別令も出され、ルーズベルトは500機からなる部隊に中国派遣を命じたのでした。

 41年7月、AVGの隊員たちはサンフランシスコで落ち合い、農民や宣教師、機械工と称してオランダの貨物船に乗り込み、太平洋に繰り出しました。第一陣の隊長はルター派の牧師だったといいます。

 アメリカだけでなく、イギリスにも航空義勇軍派遣の計画がありました。「日本軍の雲南侵攻作戦が成功すれば、ビルマ公道が遮断される」という蒋介石の警告にチャーチルは派遣の意向を固め、オーストラリア、ニュージーランドも同意したといわれます(臼井勝美『日中戦争』など)。

 日米開戦50年にして、アメリカ政府はAVGが正規軍であったことを認めています。91(平成3)年7月6日付、ロサンゼルス・タイムズ紙の1面には、アメリカ国務省がAVGの生存者100人を退役軍人と認定した、と伝える記事が大きく載っています。

 すなわち、日本の真珠湾攻撃以前に「中立国」であったはずのアメリカが、自国の「中立法」を侵して日中戦争に介入し、宣戦布告なしに対日戦争を開始していたことを政府が公的に認めたのです。

 ご参考までにこちらをどうぞ。
http://homepage.mac.com/saito_sy/china/H1801flyingtigers.html


2、「中国情報局」12月19日、「三峡ダム地域でさらに『230万人移転』の危うさ」
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2007&d=1219&f=column_1219_003.shtml

 拓殖大学の藤村幸義教授が、再来年完成する三峡ダムの建設で、長江の水質汚染、土砂の流出、崖崩れなどの深刻化について書いています。膨大な地域住民の強制的移転は重慶の都市化を推進することになりそうです。教授は言及していませんが、環境破壊も同様ですが、中国国内の問題ですむのかどうか。


 以上、本日の気になるニュースでした。


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相手の嫌がることをする必要はない、ほか [靖国問題]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年12月10日月曜日)からの転載です


〈〈 本日の気になるニュース 〉〉


1、「東京新聞」12月8日、「建設調査費の計上見送り。国立戦没者追悼施設」
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2007120801000480.html

 記者「計上が見送られたようですが、総理ひとことどうぞ」

 総理「(国立施設に反対する)相手が嫌がることをあえてする必要はありません」

 という立派な見識を示す応答があったのかどうか。

 徳島新聞によると、福田康夫首相は「すべての戦争犠牲者を追悼できる施設はいつかはできてほしい」との立場だが、与党内に賛否両論があり、対立の再燃は得策でないと判断した。インド洋での海上自衛隊の給油再開をめぐり世論が2分されている現状を踏まえ、新たに論議を呼ぶ問題に取り組む環境にないとの考えもあるようだと伝えられます。
http://www.topics.or.jp/contents.html?m1=1&m2=8&NB=CORENEWS&GI=Politics&G=&ns=news_119711384131&v=&vm=all

 首相が懸念される「すべての戦没者を追悼する施設」は、世界最古の施設として、100年以上も前からあるのではないでしょうか。数珠を手に参拝することも、讃美歌を歌うことも許されています。首相ご自身がロザリオを手に参拝すれば、世間の目も変わるでしょうに。
yasukuni4.gif

2、「日経ネット」12月9日、「民主、台湾問題で自制求める。中国共産党と会合」
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20071209AT3S0800R08122007.html

 台湾問題で自制を求めたのはまだしもですが、チベット問題で中国側から「(鳩山幹事長とダライ・ラマの会談は)日中関係にマイナス」という意見表明に、「個人的会見」と釈明したのは情けないことです。

 「中国の内政問題で、コメントする立場にない」ではなく、「近代国家では信教の自由が認められている」となぜ主張できないのでしょうか。日本でのチベット支援活動は超党派で行われてきましたが、その代表者は民主党議員がつとめてきたのではなかったのでしょうか。

 ご参考までにこちらを。
http://www.tibethouse.jp/news_release/2006/060217_giren.html


3、「AFPBB News」12月8日、「ダライ・ラマの後継者、女性の可能性も」
http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2322694/2436278

 ミラノで記者会見に応じ、「その立場にふさわしいことが証明されれば、女性が次のダライ・ラマとして転生する可能性も多いにある」と語ったのだそうです。


3、「読売新聞」12月7日、「蒋介石の意向否定、『大中至正』撤去で台湾の与野党が対立」
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20071207i512.htm?from=navr

 蒋介石の記念館にある広場の看板が取り外されたのだそうです。

 メルマガ「台湾の声」によると、翌日、「自由広場」の看板が新たに掲げられたようです。「中正」は蒋中正の意味で、陳総統は「さようなら、蒋介石」と題するエッセイをネットで配信しました。
http://www.emaga.com/bn/bn.cgi?3407
http://www.taiwanembassy.org/ct.asp?xItem=47119&ctNode=3591&mp=202

 陳総統はそのなかで、ロシアのレニングラードやドイツのマルクス・エンゲルス広場の例をあげ、

「どうしてこのような変化が必要だったのでしょうか。それは過去の歴史に誠実に向かい合わなければならず、強権統治が残した不公平や不正義に対して、再び見て見ぬふりや、沈黙することをよしとすることを望まないからなのです」

 と述べ、さらに

「われわれが一人の独裁者を、人権を迫害した一人の強権統治者を、これからも神または封建の帝王として祀り祭り続けるのかどうかの問題なのです」

 と訴えています。


 以上、本日の気になるニュースでした。
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