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文禄・慶長の役で祖国朝鮮を守った英雄の400年祭 [日韓関係]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年3月13日火曜日)からの転載です

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 韓国・東亜日報によると、文禄・慶長の役に際して、祖国朝鮮を守った当時の領議政・西柳成龍(ユ・ソンリョン)の没後400年に当たる今年の5月、柳成龍と、柳成龍に登用されて軍事を指揮した忠武公・李舜臣(イ・スンシン)の合同追悼式が両家の子孫によって行われるそうです。
http://japan.donga.com/srv/service.php3?bicode=040000&biid=2007031380458

 追悼式には小西行長と加藤清正の子孫、明の将軍・李如松の子孫が参加する予定とも伝えられます。東亜日報によれば、追悼式は「和解の場」で、

「日本の子孫は謝罪を前提に招待する予定だ。侵略を謝罪し、三国の新しい未来のために和解の心を分かち合いたい」

 と柳成龍の子孫は述べているそうです。

 さて、記事には柳成龍の位牌が置かれた書院のことが出てきます。朝鮮には、歴代王朝の始祖などをまつる殿(八殿)、歴代王の遺骸を埋葬した陵(六陵)など国家的な祭祀を行う場がありました。

 それらが日本統治時代、どのような状況に置かれたのか。

「神社参拝が強要され、朝鮮伝統の祭祀は顧みられなかったか」

 といえば、事実はそうではなく、朝鮮総督府は八殿・六陵に対しては年2回、国費で儒教形式の祭祀を行いました。

 このほかに、名儒賢臣の遺霊をまつる公認された祠(17カ所)と書院(27カ所)があり、そのなかには。忠武公・李舜臣をまつる忠烈祠(慶尚南道)も含まれています(『施政二十五年史』朝鮮総督府、昭和10年など)。

 つまり、今日、韓国人が

「国を奪われた。謝罪せよ」

 と声高に主張するこの時代、日本にとっては仇敵である「朝鮮の英雄」の祠廟が公認され、祭祀が励行されていたのです。韓国の国定教科書的な歴史イメージとは明らかに温度差がありますが、それでも韓国人は、日本人が400年前の「侵略」を「謝罪」しなければ、「和解」はない、とやはり考えるのでしょうか。

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大統領閣下、何をしたいのですか [日韓関係]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年1月26日金曜日)からの転載です

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大統領閣下、何をしたいのですか?
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 韓国の盧武鉉大統領はきのう、日本訪問について

「あれこれ条件をつける考えはない」

 といいつつ、

「首相の靖国参拝を控えるように願いたい」

 と記者会見で注文をつけました。条件はない、といいながら、条件をつけるのは矛盾ですが、振り返ってみると、盧武鉉大統領の歴史問題、靖国問題に関する就任以来の行動はそれ自体、一貫性に欠けています。

 盧武鉉大統領が初めて訪日したのは、大統領に就任した2003年の6月6日でした。この日は韓国では「顕忠日」。抗日独立運動と朝鮮戦争で民族と国家に一命を捧げた人々を国をあげて追悼する特別の日です。

 大統領は顕忠院に献花、焼香し、

「私たちはいつまでも過去の足かせにとらわれているわけにはいかない」

 と追悼の辞で述べました。そして、「過去」の呪縛を振り払うかのように、そのまま機上の人となり、来日した大統領は、宮中晩餐会で

「両国はもはや過去の陰から自由になって、真の和解と協力の新時代を開いていかなければなりません」

 と語りました。

 翌2004年暮れにふたたび来日した大統領は、鹿児島県指宿で開かれた小泉首相との首脳会談のあと、大統領は同県東市来町に薩摩焼14代宗家の沈寿官氏を訪ねました。文禄・慶長の役で島津勢の捕虜となり、日本に連れてこられた陶工の子孫です。大統領は異国の地で独自の発展を遂げた陶磁器の美しさに驚嘆し、

「我々の誇り」

 と賞嘆したと伝えられます。

 この町には陶工たちが建てた朝鮮建国の組・檀君をまつる神社があります。秋祭りには故国の礼服を着て、歌い、舞い踊ったという神社の境内にはかつて「A級戦犯」東郷茂徳元外相の父親が寄進した大灯籠がありました。東郷元首相の祖先もまた秀吉の朝鮮出兵で連れてこられた朝鮮陶工の子孫でした。東郷が初入閣したとき、神社では健康と奮闘を祈る祈願祭が行われ、境内は参列者であふれたといわれます。

 しかし、沈寿官氏の家の目と鼻の先にある神社も東郷元首相の生家も、大統領は訪ねることはありませんでした。

 そして2005年、大統領は対日強硬政策に転換しました。11月に釜山で開かれた日韓首脳会談で大統領は歴史問題を取り上げ、

「日本が『過去』に戻るのではないかという懸念がある」

 と語って首相参拝中止を求め、マスコミには

「(首相参拝は)韓国に対する挑戦だ」

 と非難したと伝えられました。

 大統領が靖国神社を「日本軍国主義のシンボル」と見て、毛嫌いするのは自由ですが、それなら抗日独立運動家をまつる顕忠院に対して日本人がいだく国民感情を大統領はどのようにお考えなのでしょうか。

 もとより日本が朝鮮と戦争した歴史の事実はありません。朝鮮人はもっとも協力的な戦友であったはずです。だからこそ靖国神社は朝鮮半島出身の戦没者を、分け隔てることなく丁重に慰霊してきたのではないでしょうか。
 
 小泉首相も安倍首相も抗日戦士をまつる顕忠院に表敬し、献花、焼香しています。いずれの国であれ、国に一命を捧げた戦没者に敬意を表することは、国際的な儀礼だからです。他方、韓国はどうでしょうか。

 釜山での首脳会談で、大統領は

「いくら(靖国参拝についての小泉)首相の考えを善意に解釈しようとしても、韓国民は絶対に受け入れることはできないだろう」

 と語ったといわれますが、日韓の和解が妨げられている真因はどこにあるのでしょうか。

 日韓関係はしばしば独仏関係と比較されますが、10年前、韓国対外経済政策研究院の柳荘煕所長は、自著でドイツのシュミット首相との次のような対話を紹介しています。柳所長が

「ドイツは戦争の原因が自分たちにあると認め、謝罪した。なぜ日本は謝罪しないのか」

 と問いかけると、シュミット首相はこう答えたのでした。

「和解の手をさしのべたのはフランスであり、そして私たちがそれに応えたのです」(“Real success, financial fall”)。

 さて、大統領閣下は何をなさりたいのですか。

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韓国国立墓地を表敬する安倍首相 [日韓関係]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」からの転載です


 安倍首相は明日から中国、韓国を訪問します。9日には夫人とともに韓国、ソウルの国立墓地「顕忠院」を表敬し、献花すると伝えられます。日本の首相としては、小泉前首相が平成13年10月、14年3月に表敬して以来の表敬となります。

 顕忠院は広さが43万坪、16万3000余の墓石が並ぶ庭園墓地です。

 その中央にそびえる高さ31メートルの顕忠塔の左右には23メートルの壁が翼を広げています。左側は朝鮮戦争など、右側は抗日独立戦争をシンボライズしたレリーフが刻まれています。顕忠院は「反共」と「抗日」という二つの大きな「民族の戦い」がテーマになっています。

 塔の内部には朝鮮戦争当時の戦死者10万4000人の位牌がならび、地下には無名戦士6200余柱の遺骨を納める納骨堂があります。塔の祭壇前の香炉は朝鮮戦争で戦死した将兵の認識票が材料に使われているといわれます。

 顕忠院の最大のイベントは6月6日の「顕忠の日」に行われます。国の休日となるこの日、首相直属の機関が主催する追悼式には政府関係者のほか、遺族や各国大使館関係者ら5000人が参列し、全国民とともに黙祷が捧げられます。韓国民は国是たる「反共」「抗日」を確認するのです。

 「反共」「抗日」のシンボルである顕忠院に、日本の首相はたびたび表敬してきましたが、北朝鮮は日本とは対照的にこれを敵視し、1970年6月には北朝鮮ゲリラが高性能爆弾で爆破するという事件も起きています。朴正煕大統領の暗殺が狙いだったともいわれています。

 その北朝鮮の関係者が昨年8月、顕忠院に表敬参拝し、黙祷を捧げました。「日帝」の支配からの独立を祝う「光復60周年」の記念祝典に参加した北朝鮮関係者の表敬を、韓国マスコミは「驚きの行動」と報道しましたが、北朝鮮の代表は「祖国光復のために命を捧げた人たちが祀られているから」と説明したものです。

 また、韓国のマスコミは、新たな問題が生まれた、とも指摘しました。北朝鮮の顕忠院訪問への答礼として、北朝鮮が金日成廟などへの表敬を要求した場合、韓国はどう対応するのか、それが課題だ、というのです。

 だとすると、日本の首相がしばしば顕忠院を表敬してきたのに対する韓国の答礼はどうなるのでしょうか。小泉前首相が最初に顕忠院に詣でたのは、靖国参拝のあと、中国、韓国から猛然たる反発がわき起こった直後のことでした。

 かつて金大中大統領は「戦犯が合祀されない国立墓地のようなものを日本が造るなら、参拝する用意がある」と語りましたが、日本の歴代首相は「抗日」のシンボルである顕忠院に何度も表敬し、韓国の戦没者に慰霊の誠を捧げているのです。そしてまた今回も繰り返されようとしています。

タグ:顕忠院
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歴史の全体像が見えない韓国 [日韓関係]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」からの転載です


 韓国は明日3日から竹島周辺で海洋調査を実施すると伝えられています。日本政府はたびたび中止を要請しましたが、韓国政府は聞く耳を持たず、潘基文外相は「韓国の正当な権利であり、日本が中止を要求することはできない」と反論しています。

 そればかりか、盧武鉉大統領は「挑発」しているのは韓国ではなく日本である、という考えで、日本の「挑発」に対応する「戦力」を備えることが重要だと語っています。これに対して、逆に日本側は「韓国調査船の拿捕はしない」(石川裕巳海上保安庁長官)と、最初から腰が引けています。

 なぜ韓国はこうも強硬なのでしょうか。疑問を解くカギは潘外相の発言です。同外相は5月上旬、日本の塩崎恭久外務副大臣と会談した際、「日本は独島(竹島)問題の背景にある歴史的な根源を直視していない」と語っています。

 つまり韓国側の主張では、竹島問題は日本の「過去」、すなわち日本による植民地支配のシンボルとされています。しかしそのような見方は正しいのでしょうか。

 終生、日韓問題に強い関心を持ち続けた神道思想家の葦津珍彦(あしづ・うずひこ)は、日韓国交正常化の直後、20年ぶりにソウルを訪れ、「反日」に凝り固まっている韓国の若者たちと、長時間にわたる話し合いの場をもったことがありました。

 案の定、若者たちの歴史の知識は偏っていました。日朝が対立する近代史は知っているのですが、李朝内部での対立はよく知らない。「抗日」烈士の活躍は詳しく知っているのに、反日戦線内での思想的対決についての知識は乏しい。憎むべき日本人の存在については詳細な知識を持ちながら、好ましい日本人の存在は知らなかったのです。

 原因のひとつとして考えられるのは、ハングル教育です。若者たちは漢字だらけの戦前の文書が読めないのです。知識が不足するのは当然でした。

 たとえば、ハングルの創始者である世宗大王についての知識は豊富なのに、近代になってハングルが市民権を得るのに果たした福沢諭吉の役割を知るものはいません。朝鮮近代化の先覚者である金玉均の亡命・暗殺は、日本に見捨てられた、という理解がもっぱらで、終始、同情と援助を惜しまなかった福沢や頭山満の存在は知りませんでした。

 結局、日本は非道だ、という知識ばかりが肥大化し、内省がない。すでに独立を回復したというのに、精神はいつまで経っても植民地状態のままで、日本という物差しでしかものが見えないのです。

 葦津は韓国の若者たちにこう呼びかけたそうです。「諸君は外国権力の責任を追及するが、外国が非道だから国が亡びざるを得ない、というのではそもそも独立を保てない。むしろ諸君は朝鮮内部の亡国理由をするどく直視すべきではないか」

 盧武鉉大統領は先月25日、朝鮮戦争開戦56周年の演説で、秀吉の朝鮮出兵にさかのぼって「受難の民族史」を強調しました。悪いのは外国だ、という相も変わらぬ発想です。韓国初の「戦後世代」の大統領はもしかして、漢字で書かれた韓国の歴史を読めない、読んだことがない、だから歴史の全体像を知らない、ということなのではありませんか。

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日韓の情緒の近さを語り続けた佐藤邦夫 by 佐野良一(イベントプロデューサー) [日韓関係]

以下はインターネット新聞「お友達タイムズ」 2006年5月7日号(第4号)からの転載です

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日韓の情緒の近さを語り続けた佐藤邦夫
by 佐野良一(イベントプロデューサー)
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 映画プロデューサー・韓国文化研究家であった佐藤邦夫(1915~96年)の没後10年の本年、生前の佐藤の仕事に再照明を当て、功績を偲ぶ集い「追悼・佐藤邦夫先生を語る夕べ」が去る4月26日、高田馬場「プラザカフェ」で開かれた。

 佐藤の生涯は韓国の映画、歌謡曲、レヴューなどエンターティメント列の大衆文化を日本に紹介することでほぼ費やされた。しかし彼の生きた時代は、日韓文化コンテンツビジネス面から見れば、実りの少ない冬の時代であった。そのため佐藤の仕事は広がりを持たず、自分の人脈と資金で賄う自己完結で終わることも多かった。しかしそんな彼の周辺には少なからぬ同好の士が集り、次第に門人たちによる“佐藤組”と呼ばれるゼミが形成された。

 佐藤は1930年代に宝塚歌劇のレヴュー作家として芸能界に踏み出すが、その後、映画配給会社の東和商事(現東宝東和)に転身する。ここで「漢江」や「家なき天使」など幾つかの感銘深い朝鮮映画と出会い、それを契機に1941年に映画プロデューサーとして京城に赴くが、その後、彼が召集時まで係わった仕事はレヴュー(朝鮮楽劇団)の総務職であった。

 ここでいう楽劇とは、ミュージカルやバラエティを含むレヴュー風舞台である。それらの多くは宝塚や松竹(SKD〈松竹歌劇団〉、OSK〈大阪松竹歌劇〉)のシステムを真似ていた(ただし男性も加入)。戦前、上海がジャズの都であったことは知られているが、同時期の京城は楽劇の都であり、多くの劇団とスターが生まれた。楽劇育ちの芸能人たちの多くは戦後も韓国芸能界に君臨した。佐藤邦夫が晩年まで持っていた韓国芸能界との太いパイプの核はこのような戦前の映画、楽劇人脈であり、これは余人の追随を許さなかった。

 楽劇の面白さを、佐藤は門人たちに「民族衣装の踊り子が激しく長鼓〔チャンゴ〕(首から懸けて両手の撥で演奏する胴の長い太鼓)を打って踊っていると、そのリズムにドラムが被ってゆき徐々にスイングになるんだよ。そのうちにチョゴリシスターズという3人娘が出てきてジャズを歌うんだ」と語っていた。楽劇の仕事のさ中の1943年、佐藤は召集を受け、中国戦線に出征するが、楽劇団の仲間は舞台で「海征かば」を歌い、彼を送ったという。

 戦後復員した当初、佐藤は大阪で京マチ子や笠置シヅ子を擁するOSKの仕事をしていたようだが、1960年代には東京へ戻り、ビクター芸能社でフランク永井や、橋幸夫、三田明らビクターレコード所属歌手たちのプロデュースを担当した後、1970年代中盤にはフリーとなって韓国映画の日本紹介役に徹するようになる。

 戦前戦後を通して韓国文化が日本で社会現象になることは先ずなく、特に芸能界には長く“韓国モノは当たらない”というジンクスが蔓延っていた。反対に、楽劇にしても映画や歌謡曲にしても、この間の韓国の大衆文化の源はいち早く西洋風に近代化した日本にあり、戦前戦後を通じて韓国は日本型の近代社会が続いている。上記“韓流”は日本型大衆文化が見事に韓国化した成功例だと見ることができる。

 エンターティメントという最も情緒が作用する業界で仕事をしてきた佐藤邦夫は、日韓の情緒の近さを誰よりも熟知していた。そのため言わずもがなの“友好”、“交流”などの薄っぺらな言葉を使うことはなかった。近い情緒を根底としたビジネスライクで冷静な関係を標榜していた。しかし自分自身はそれが全くできない人ではあった。

 佐藤邦夫の語り続けた“日韓情緒の近さ”は、今、“韓流”が証明した。
タグ:日韓関係
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韓流ブームのパイオニア『佐藤邦夫』 [日韓関係]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」からの転載です。


 きのう、都内で「追悼・佐藤邦夫先生を語る夕べ」が開かれ、佐藤さんを師と仰ぐ人たち約40人が集まり、10年前、81歳でこの世を去った故人を偲びました。

 佐藤邦夫(1915-96)という人を知る日本人はけっして多くはないでしょう。かくいう私も同様で、韓国文化を語らせたら、この人の右に出る人はない、という20年来の友人に誘われて、参加させてもらうことになりました。「語る夕べ」を中心的に企画した友人が「私のお師匠さん」と呼ぶのが、佐藤さんです。

「韓流」ブームといわれて、もう何年にもなりますが、佐藤さんはいわば「韓流」ブームのパイオニアでした。昨春、「ニッポン人脈期 『韓流』の源流4」で佐藤さんを取り上げた朝日新聞は「戦前から音楽や映画のプロデューサーとして、日韓を近づける地下水脈の役割を果たした、知られざるキーパーソン」と伝えています。

 佐藤さんは幼いころから映画とレビューに深い関心を持ち、1930年代に宝塚歌劇の脚本家としてデビューしました。当時はまだ二十歳前の学生でした。その後、ある朝鮮映画に深い感銘を受け、映画仲間の誘いを受けて朝鮮にわたり、1940年代は朝鮮映画、レビューの世界で活躍します。

 敗戦後、日本に引き揚げたのちは、興業・映画のプロデューサーとしてその地位を確立しますが、その本領は韓国の文化・芸能を日本に紹介することに発揮されました。

 パティ・キム、吉屋潤らによる韓国歌謡名曲集を制作して大ヒットさせ、一方で、フランク永井の韓国公演も実現させました。映画監督の林権澤や俳優の安聖基などを日本に紹介したのも佐藤さんでした。西武デパートの「スタジオ200」や岩波ホールで韓国映画が頻繁に上映されるようになったのは、佐藤さんのカゲの力があったからです。

 佐藤さんを起点とする戦前からの日韓の幅広い人脈は、戦後の国交のない時代も、正常化後の韓国蔑視が続いていた時代も、脈々と続いてきました。佐藤さんの人脈を抜きにして、今日の韓流ブームは考えられません。

 竹島の領有権をめぐる日韓のせめぎ合いを見るにつけ、何ものにも動じない太い人脈を政治の世界にもほしいと願うのは私だけでしょうか。

「併合時代を朝鮮で過ごした日本人たちが口にしたがる浅薄な贖罪の言葉を、先生から聞いたことがない。先生は『楽劇だって歌謡曲だって無理に押しつけたんじゃない。受けるんだから仕方がない。面白いものが勝つんだよ』とよくおっしゃっていた」

 と、友人は語るのです。国家間の真の友好は、国民レベルの格好つけではない、深い友情に育まれるのではないかと思います。

「いつもたくさんの美女に囲まれていた」といわれる佐藤さんですが、きのうもやはり参加者の大半は女性でした。佐藤さんの遺影の前で、佐藤さんが発掘した在日三世のジュリー・パクさんが「サランヘ」を、かつての「日韓親善歌手」梨花(野元波津子)さんが「黄色いシャツ」を久しぶりに歌い、盛んな拍手を浴びていました。

 予告。友人が近々、「佐藤先生の思い出」を「お友達タイムズ」に書いてくれる予定です。

タグ:日韓関係
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盧武鉉大統領談話、何のための強硬姿勢か [日韓関係]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」からの転載です。


 今朝の朝日新聞に載った韓国前大統領のインタビューについてブログを書き上げたところへ、今度は現大統領の談話のニュースが飛び込んできました。きのうから予告されていたことですが、内容はじつに強烈でした。
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 たとえば日本経済新聞は、竹島の領有権問題で「けっして妥協できない」と主張し、「日本が誤りを正すまで国家的な力量と外交的な資源をすべて動員する」と強調した、と伝えています。まるで宣戦布告です。

 実際の談話の全文(日本語)は、韓国・聯合ニュースのネット版に載っています。
 http://japanese.yna.co.kr/service/article_view.asp?NEws_id=200604250942491

 これによると、談話は「独島(竹島)はわれわれの領土です」で始まり、日本の近代史をきびしく批判し、「いま日本が独島に対する権利を主張するのは、帝国主義侵略戦争による占領地の権利、ひいては過去の植民地領土権を主張するものです」「犯罪の歴史に対する正当性を主張する行為です」と決めつけています。

 さらに「いま政府は独島問題に対する対応方針を全面再検討します」「物理的挑発には強力かつ断固として対応します」「どれだけ費用と犠牲が伴っても、けっしてあきらめたり妥協できる問題ではない」と述べ、日本に対しては、「これ以上、新たな謝罪を要求しません。すでに行った謝罪にあった行動を要求するだけです」「歴史の真実と人類社会の両親の前に、正直で謙虚になることを望むものです」と呼びかけています。

 読んでいてため息が出ますが、どうしてこんなに強硬なのでしょう。そんなに強硬姿勢を貫きたいなら、なぜ韓国は先日の次官級会談で妥協の道を選んだのでしょうか。矛盾しています。

 日本政府内には「竹島問題での日本への対応について、国内で批判がある。弱腰を見せられないため」という見方もあるようですが、そういうことなのでしょうか。

 今回の海洋調査をめぐる日韓外交について、Brain News Networkが鋭い分析をしているのでご紹介します。
 http://www.bnn-s.com/bnn/bnnMain?news_genre=17&news_cd=H20021023183

 これによると、韓国政府が「拿捕も辞さない」という強硬発言をしたのが運の尽きだったと指摘されています。丸腰の日本の調査船に対して、韓国は武装した韓国警備艇18隻を配備しました。もし日本が調査を強行し、韓国が拿捕すれば、韓国民は溜飲を下げ、大統領の支持率は確実に上昇します。しかし国際的立場は逆に失墜するでしょう。国民受けをねらったリップサービスをしたばかりに、外交交渉では防戦にまわらざるを得なかったというのです。

 とすれば、今日の大統領談話は、大言壮語の失敗に懲りずに、失敗を糊塗するために、さらなる大言壮語を重ねたということでしょうか。

 そういえば、5年前、歴史教科書問題をきっかけに日韓が抜き差しならない状況になったときも、やはり当時の金大中大統領が完全なレイムダック状態にあり、政策に行き詰まった焦りが、当初は対日関係重視の「新外交」を推進していた大統領を「反日」に豹変させたといわれます。

 しかしこのとき意外に冷静だったのは韓国の民衆で、ソウルの街ではどこへ行っても、人気歌手のポジションが韓国語でうたう尾崎豊の「アイ・ラブ・ユー」が流れ、そのCDはヒットチャートのトップを走り続けていたのです。日本が大好きな韓国の民衆は、政治家やマスコミの「反日」大合唱をけっこう醒めた目で眺めています。

タグ:日韓関係
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話題 韓国で「親日派」糾弾法が成立──中心人物に筋金入りの女性議員 [日韓関係]

以下は「神社新報」(平成16年4月5日)からの転載です


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話題
韓国で「親日派」糾弾法が成立
中心人物に筋金入りの女性議員
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 韓国国会は三月二日、日本統治時代の対日協力者を糾弾する「親日派特別法(日帝下の親日・反民族行為の真相究明に関する特別法)」を賛成多数で可決成立させた。総選挙を来る四月中旬に控へ、国会が大統領弾劾の訴追を決めるなど、国政が大混乱をきたしてゐる韓国だが、その一方で「反日」感情がふたたび高まってゐる。

 北朝鮮の統一戦線
 工作に乗せられ?

 この法律は「親日反民族行為の真相を究明し、歴史の真実と民族の正当性を確認し、恒久的な自主的民主国家の具現化に貢献する」(第一条)を目的としてゐる。法制司法委員会で何度か修正されたあと、本会議では出席議員百六十三人(定数二百七十一議席、一院制)のうち賛成が百五十一人、反対二人、棄権十人で可決された。

 法律は①抗日部隊を討伐、もしくは討伐を命令、②独立運動組織および個人の活動を妨害、③独立運動家とその家族の殺傷、処刑、虐待、逮捕に関与など、計十八の「親日反民族行為」を列挙してゐる。今後、大統領直属の委員会が設置され、三年間で調査を実施し、報告書並びに史料がまとめられ、公開される。委員会に虚偽の報告などをした者は十年以下の懲役または五千万ウォン(約五百万円)の罰金が科せられる。

 法案は昨年八月十四日、「民族精神を高める国会議員の会」が提出した。共同提案者に百五十五人の議員が超党派で名を連ねてゐるが、代表は一九四三(昭和十八)年生まれのキリスト者、どうやら北朝鮮にも近い、筋金入りの与党ウリ党の女性議員である。祖父は独立軍の将軍、父親は秘密青年党員といふ抗日独立闘士の家系に生まれ育ち、若くして女性運動、民主化闘争に身を投じ、逮捕・投獄の経験も少なくない。二〇〇一年に国会議員初当選、大学教授の肩書きを併せ持つ。

 昨年二月には、朝鮮総連系の団体から入手した朝鮮人強制連行被害者四十一万人の名簿を国会議員会館ロビーで公開展示し、秋には十月一日の「国軍の日」を、大韓民国臨時政府が抗日武装闘争のため一九四〇年に結成した韓国光復軍の創設の日「九月十七日」に変更することを促す決議案を国会に提出した。「反共」「抗日」が韓国の国是だが、この議員の場合は北朝鮮には甘く、日本には厳しい傾向が見て取れる。著書のなかで議員は平壌を「故郷」と呼んでゐるが、今回の法律制定は「北朝鮮の統一戦線工作に乗せられたもの」と指摘する研究者もゐる。

 総選挙後には徹底
 究明の改正案提出

 議員は法律の成立を「親日の歴史を清算する民族的事業の始まり」ととらへ、「日本の誤った歴史認識と軍国主義復活を阻止する」ことに役立つと理解してゐる。けれども、いま日本では、「植民地支配が朝鮮の産業を発展させた触媒であり、揺り籠であった」と分析する米大学教授の本が話題を呼んでゐる。今後、韓国人自身の手で親日行為が洗ひ直されていったとき、韓国・朝鮮社会的発展が「親日派」によって支へられてゐた現実が逆に浮き彫りになるのではないか。

 いや、だからこそ、さうした「親日派」を否定することがこの法律の真の狙ひとの見方もある。それかあらぬか、この議員は原案の相当部分が削除修正されたことを無念とし、総選挙後に「親日派」を徹底糾弾する改正案を提出すると意気込んでゐる。「親日派」とその子孫の財産を没収し、さらに国立墓地から「親日派」軍人の墓を追ひ出せ、と声を荒げてゐる。

 しかし韓国であれ北朝鮮であれ、なぜこれほどまでに「反日」に血道を上げなければならないのか。「反日」を貫き通さうとすればするほど、結局、隣国との友好の歴史を見失ひ、友情に基礎づけられた自国の歴史を否定することになる。他国を批判することなしに民族のアイデンティティが保てないといふなら、民族の主体性そのものが逆に問はれるだらう。


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「神道はもっとも理想的な宗教」「韓国人の靖国神社批判は誤り」──元「反日」韓国人が書いた日韓併合擁護論 [日韓関係]

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「神道はもっとも理想的な宗教」「韓国人の靖国神社批判は誤り」──元「反日」韓国人が書いた日韓併合擁護論
(「神社新報」平成14年5月20日号)
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「日韓併合は幸運であり、祝福であった」

 日本統治時代を日本=悪玉論で徹頭徹尾、断罪しようとする歴史理解が韓国では支配的だが、逆に肯定的に高く評価するという、反日・左翼人士が聞いたら腰を抜かしそうな内容の本が、今年(平成14年)2月にソウルで出版され、衝撃を与えている。

『親日派のための弁明』と題する本の著者金完燮(キム・ワンソプ)は、拓殖大学の荒木和博助教授によれば、1963年生まれ。ソウル大出身の作家・評論家。

 もともと確信的な左翼だった。光州事件のときは高校生ながら道庁舎に籠城したという。ごく最近まで「反日」そのもので、阪神・淡路大震災のときには「過去の悪行を反省も謝罪もしない日本に災難が起きたことを喜ぶ」と発言してさえいる。

 その人物が一転、日本擁護の本を書くまでには立ち至ったのは、読書と思索の結果という。日本批判の目的で日韓近代史の実態を実証的に突き詰めていったとき、歴史を歪曲してきたのは日本側ではなく、韓国側であったことに突然、気がついたという。

 しかし、日韓併合肯定論の本を出版してくれそうな版元がいまの韓国にあろうはずはない。それではと、みずから出版社をおこした。


▽ 日本首相の靖国参拝を擁護

 金氏は、日本を植民地支配の加害者とする一方的なステロタイプに対して、まっ向から、しかし格別の気負いもなく、反論を展開する。

 朝鮮にとって日韓併合は望ましいものであった。併合を望んだのは、むしろ朝鮮の、とくに改革派勢力である。併合によって、朝鮮は飛躍的に発展した──と淡々と論じている。

「日本精神と靖国神社」という章があり、このたび編集部では荒木氏の好意でその翻訳を入手したが、それによれば金氏は、日本の神道と靖国神社に言及し、日本の神道は「人類が作り出したもっとも理想的な形態」と最高の評価を与えている。

 いわく、韓国の儒教がすべての祖先を、善人であれ悪人であれ、祭祀の対象としているのに対して、日本の神道は義人を祀る。大義のためにおのれを犠牲にし、社会に貢献した先人を神として崇めるのは理想的だ。

 また、「現代日本精神の神髄を象徴するのが靖国神社だ」という認識に立ち、日本首相の靖国神社参拝を韓国・中国が是非を論じるのは、日本国家への侮辱であり、理解しがたい、と批判し、首相参拝を擁護する。

 韓国政府による日本批判は、たとえば韓国大統領の国立墓地参拝をベトナム政府が抗議するようなものだ。なるほど、韓国国立墓地にはベトナム戦争で闘い、別な夢国民を殺戮した韓国兵も葬られている。けれども彼らは、韓国にとっては愛国者なのである。

 靖国神社には2万人の朝鮮半島出身者が祀られている。当時、日本と朝鮮の人口比は5対3なのに、朝鮮の戦死者の数は100対1にも満たない。日本がどれだけ良心的に戦争したかが分かる。

 韓国政府が「位牌返還」を要求するのは誤りである。日本人として日本のために闘い、一命を失った朝鮮人兵士を追悼するのは、日本にとって当然の権利だ。

「位牌返還」の要求が通ったとして、韓国人はそのあと「憎き戦犯」とばかりに「剖棺斬屍(棺をあばいて遺体を切り刻むこと)」でもするつもりなのか。日本で神として慰霊の誠を尽くされていることに、韓国人は何の不満があるのか、理解できない──と金氏は畳みかけている。


▽ 7月に日本で翻訳出版

 若干、不正確な神道理解や情緒的な論理の展開など、気になる点がないわけではないものの、韓国人による日本擁護論で韓国社会に議論を巻き起こしたのは初めてである。

 けれども残念なことに、荒木氏によれば、「青少年有害図書」の指定を受け、韓国内の書店では入手不可能になっている。

 日本では昨年(平成13年)、歴史教科書採択をめぐり、ルール無用のすさまじい妨害活動が展開されたけれども、韓国の「言論弾圧」はこれを上回る。

 同著は荒木氏夫妻によって共訳され、7月に草思社から出版される予定だが、サッカーのワールドカップが日韓共催で開催される「日韓協力年」の今年、両国ののど元に突き刺さった歴史問題に新たな展開をもたらしてくれるだろうか。


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「韓国近代医学の父」池錫永 ──日本から種痘法を導入した男 [日韓関係]


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「韓国近代医学の父」池錫永
──日本から種痘法を導入した男
(「神社新報」平成14年2月)
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日韓共催のサッカー・ワールドカップ大会開催まで、あと百日あまり。史上初の二カ国共催である。日韓両政府はこれを機会に、今年を「日韓国民交流年」と位置づけてゐる。数年前、金大中韓国大統領が来日したとき、文化交流などの活性化が申し合はされ、その後、両国首相間で正式に合意された。

先月下旬には東京都内で「交流年」の開幕式があり、両国親善大使を務める人気女優も出席し、式典は盛り上がった。今年一年間、政府、地方自治体、民間の各レベルで、幅広い交流が予定されてゐる。

結構なことだが、「昨年は教科書問題や小泉首相の靖国参拝で日韓関係が損なはれたが、親善大使の女優は『過去を消し去ることはできない』と語った」といふ報道もある。「過去」とは何か。ある韓国人の生涯を題材に考へる。


□1 「命定め・器量定め」の天然痘。日本は江戸末期に種痘所を設立


池錫永(チ・スクユン、一八五五~一九三五)といふ人物がゐる。

韓国の小学校用歴史国定教科書がわざわざ「種痘法と広恵院」と題する一節を設け、不朽の功績を取り上げてゐるほどの偉人。外国人医師を訪ね歩き、種痘法を学び、韓国に初めて導入、普及させた。その成功は西洋医学の社会的浸透に貢献した−−と書かれてゐる。

いはば韓国近代医学の父。だがその人生は、教科書の記述にあるほど単純なものではない。波乱の生涯から垣間見える、韓国社会の暗部と日韓友好の交流史とを見落とすべきではない。

韓国の教科書が言及してゐるやうに、その昔、麻疹やコレラと並んで、人類がもっとも恐れる、それは恐ろしい伝染病があった。天然痘。疱瘡、痘瘡とも呼ばれた。

このウイルスに感染すると、最初はインフルエンザに似た症状だが、ときには腎不全のやうな深刻な事態となり、罹患者の半数が死亡した。しかも、膿でいっぱいの腫れ物が全身に現れ、幸ひ命をとりとめたとしても、穴ぼこのやうな跡が残った。「あばた」。「麻疹は命定め、疱瘡は器量定め」といはれた所以である。

イギリス人エドワード・ジェンナーが画期的な予防法として牛痘法を見出し、研究成果を公表したのは、一七九八年である。牛痘(疱瘡に似た牛の病気)のウイルスを接種し、人為的に感染させ、疱瘡に対する免疫力をつけるといふ免疫学の先駆けである。

ジェンナーの研究書は各国語に翻訳され、翌九九年にはロンドンに種痘所が設けられた。

牛痘法は一八〇五年にはオランダ領ジャワにまで到達したが、日本に伝はるにはさらなる年月を要した。

日本で最初に牛痘接種法が用ゐられたのは、意外なことに、最果ての蝦夷地においてである。

択捉島の番人であった中川五郎治がロシア人に拉致され、オホーツクに連行されたのは文化四年(一八〇七)。五年間のシベリア流転生活の末、彼は牛痘法に関するロシア語の書籍二冊を持ち帰る。その五郎治が文政七年(一八二四)までに、江差・松前地方で種痘を実施したといはれる。

しかし日本での牛痘法の本流は嘉永二年(一八四九)、オランダから長崎にもたらされた。奇しくもこの年、蘭学禁令が発せられるのだが、オランダ商館医師から佐賀藩医楢林宗建、さらに大坂の緒方洪庵などへ「痘苗」が伝へられ、蘭方医の人脈で瞬く間に全国各地に広まる。

種痘の成功は蘭学医普及の突破口であった。ときあたかも将軍家定が重病で、幕府ははじめて蘭方内科を用ゐ、蘭方禁止が解かれる。

各地に種痘所が開設され、安政五年(一八五八)には江戸の神田お玉が池に種痘所が創設された。万延元年(一八六〇)、幕府は「種痘所で種痘を受けよ」と江戸の町民にお触れを出す。最初は民間施設であった種痘所はまもなく幕府の直轄となり、漢方の医学館に対応する西洋医学所と改称され、のちには東京大学医学部へと発展する。


□2 不衛生で俗信に支配された社会。伝染病が襲へば街路に死体の山

ところが玄界灘を隔てた韓国では、これとは異なる展開を見せる。韓国が伝染病とは無縁の衛生的な国だったといふのではない。むしろ逆である。

イギリス生まれのイザベラ・ビショップが一八九四~九七年に朝鮮半島を旅行し、『朝鮮紀行』を書いてゐる。牧師の娘で、韓国王室から格別の信頼を得てゐたビショップだが、ソウルの第一印象はかなり厳しい。

北京を見るまで、私はソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思ってゐた。それでなくとも狭い道は家々から出る固体・液体の汚物を受ける溝で狭められ、悪臭ふんぷんの穴や溝には半裸の子供たちが集まり、疥癬持ちでかすみ目の巨犬が汚物のなかを転げ回ってゐる−−といふのだ。

昭和十一年発行の『京城府史』には、古来、朝鮮では衛生上の施設は何ら見るべきものはない。汚濁した河川を飲用水とし、トイレもない。医薬品には草根木皮を用ゐ、治療は妖僧巫女の祈祷に託した。いったん猛烈な伝染病が襲ふとたちまち蔓延し、罹患者は数知れず、死屍累々となって街路に横たはった。とくに痘瘡は四季を通じて発生・流行し、ほとんど風土病の観をなしてゐた。患者の遺体は「迷信」により、戸外にさらされた−−と書かれてある。

二十年前に韓国・東亜日報がまとめた『朝鮮近現代史年表』によると、最初に種痘を実施したのは、釜山日本居留地の済生医院らしい。明治十年(一八七七)のことである。韓国近代医学の父・池錫永が種痘法を学んだのは、この年表によると、同十二年、この病院の院長松前譲らからである。韓国の教科書が「外国人医師から」とぼかした表現で書いてゐるのは、何のことはない、日本人医師のことなのだ。

『京城府史』は、池錫永を「朝鮮の種痘に関して逸すべからざる人」と評価し、略歴を載せてゐる。特段の扱ひである。

東亜日報の『年表』などとあはせて読むと、池は一八五五(安政二)年、ソウルの貧しい両班の家に生まれ、漢医学を学んだ。種痘に関心を持つやうになったのは、開化政策推進のため日本に渡る修信使の随行医官から日本の種痘書を入手したのがきっかけである。七九(明治十二)年には海軍少軍医戸塚積齊、済生院医師松前譲から種痘法を学び、忠州郡徳山面ではじめてこれを実施した。

翌八〇年には修信使金弘集(のちの首相)とともに来日、日本外務省の斡旋で内務省衛生局牛疫種継所で痘苗製造技術などを修得する。帰国後、今度は日本公使館付海軍軍医前田清列について医学を修めた。

けれども、そこへ降って沸いたのが、八二年の壬午軍乱。日本流の政治改革を不満とする旧式軍人らが反日暴動を起こしたのだ。池が経営する種痘場は焼き討ちにあひ、韓国政府は池を「邪衛の輸入者」として捕縛した。池はこの年、開化政策の推進を求め、上疎してゐる。格好の標的になったといふことか。


□3 医者を賤業視する韓国儒教社会。迫害を越え初代官立医学校長に

しかし池はくじけなかった。八三年、池は科挙「文科」に合格する。理系から文系へ、そして官界入りで華麗な転身が図られる。他方、八二年には全州、八三年には広州に種痘所を設け、種痘術を伝授した。

だが、ある資料によると、数年後、「親日」の汚名を着せられ、全羅道に配流の身となる。

近代医療はなぜ韓国社会に受け入れられなかったのか。「近代化」「日本化」への反発もさることながら、ある韓国文化の専門家は、「韓国儒教社会では、他人の身体に触れる医者といふ職業が卑しい、と考へられたからだ」と指摘する。日本では医師の社会的地位は高い。両社会の決定的な相違であらうか。

種痘実施の功績が認められ、正三位を賜ったのは九四年のことである。近代化を推し進める金弘集政府に抜擢され、漢城府尹、大邱判官、東莱府観察使などを歴任し、九九年には、ソウルに官立医学校が設立されるのにともなひ、校長の地位にまで上り詰める。在職十二年。一九〇二年には勲四等八卦章をたまはる。

官立医学校の付属病院は伊藤博文の初代統監着任後、その勧めに従ひ、広済院、赤十字病院と統合され、一九〇七年、韓国医療保健行政の中枢機関として大韓医院が設立された。これが日韓併合後は朝鮮総督府医院と改称し、のちに京城帝国大学付属病院となる。

韓国の教科書が、韓国政府は広恵院に続き、全国に慈恵医院を建て、ソウルには大韓医院(現ソウル大学校付属医院)を設立したと自賛し、大きな写真を掲載してゐるのが、これである。

昨年、韓国政府は日本の教科書を「歴史の歪曲」「隠蔽」と厳しく追及したが、他者の批判だけなく、自分自身を省みる必要がありはしないか。

イザベラ・ビショップの『朝鮮紀行』の「序」に、ウォルター・ヒラリーがかう書いてゐる。

「朝鮮が国として存続するには、多少とも外国の保護下に置かれることが明らかに必要だ。清国の撤退後は日本が助言・指導の役目を背負った。社会の悪弊を改革する日本の努力はいくらか乱暴ではあるが、真摯であったことは間違ひない。発展のための前進を始動させたのは日本である」

池は他方でハングルの研究者、国文制定の貢献者として知られる。日本の国会図書館に、池が著した和綴ぢの漢字辞典が収蔵されてゐる。漢字ハングル混じりで内容はさっぱり分からないが、巻末に掲載された風物スケッチは医者ならではの写実的タッチで、几帳面で温かい人柄が伝はってくる。初版の発行は伊藤博文が暗殺された明治四十二年。翌年、日韓が併合されると、池は官界を引退する。

好むと好まざるとに関はらず、韓国近代史は日本の関与なしには語れない。全否定でも、全肯定でもない、冷静で客観的な東アジアの近代史理解が求められてゐるのではないか。(参考文献=『京城府史』『愛の種痘医』「白山の会紀要 創刊号」など)


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