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「闘い」にも似た今上陛下の強烈な祈り──東日本大震災発生から2年。慰霊の日に思う [東日本大震災]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2013年3月11日)からの転載です


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「闘い」にも似た今上陛下の強烈な祈り
──東日本大震災発生から2年。慰霊の日に思う
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 当メルマガはこのところ、月刊「正論」3月号に掲載された百地章日大教授の拙文批判を検証していますが、今日は話題を変えて、以前から気になっているテーマについて、書こうと思います。
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 今日は慰霊の日です。東日本大震災発生からちょうど2年になります。政府主催の追悼式には陛下がご臨席になる予定です。
http://www.kantei.go.jp/jp/kakugikettei/2013/index.html

 聞くところによると、「陛下は大震災発生以後の国難と闘っている(戦っている)」という捉え方をする人たちがけっこうおられるようです。私は間違いだろうと考えています。

 大震災以後の状況を国難と理解することそれ自体は、間違ってはいないでしょう。陛下が犠牲者を心から悼み、被災者たちに心を寄せておられるのも事実でしょう。けれども、「闘い」というような表現は天皇には相応しくないでしょうし、まして特定の問題と「闘う」ということはあるべきことではないと思うからです。


▽1 後水尾天皇の「闘い」

 歴史を振り返ると、たとえば、後水尾(ごみずのお)天皇という方がおられます。それこそ「闘い」を強烈に意識せざるを得なかった天皇でした。

 大阪の水無瀬神宮に、若き日の後水尾天皇がお書きになった、驚愕の宸筆(しんぴつ)が残されています。

 その昔、ここには後鳥羽天皇の別宮がありました。天皇は行幸のおり、「見渡せば山もと霞む水無瀬川 夕べは秋となにおもひけむ」とお詠みになりました。

 400年後、水無瀬の地を訪れた後水尾天皇は、求められるままにこのお歌を宸翰(しんかん)されたのですが、末尾の「けむ」を「剣(けん)」とお書きになりました。

 桃の節句の内裏雛は近ごろでは太刀を帯びていますが、本来、軍事に関することを避けられるのが天皇の帝王学で、「剣」の文字はただならないことでした。居合わせた人々が一様に驚いたと伝えられています。

 後鳥羽天皇といえば、「詩聖」と称えられるほどの屈指の歌人であると同時に、北条氏との「闘い」を余儀なくされ、挙兵の挙げ句に失敗され、遠流(おんる)の身となられた、悲劇の天皇として知られます。後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳天皇のお三方が配流されるという、まさに国難のときでした。

 一方の後水尾天皇もまた下剋上の最終段階にあって、朝廷をも従えようとした徳川三代とのつばぜり合いを迫られた、危機の時代の天皇でした。なればこそ、後鳥羽天皇の御生涯にご自身の姿を投影され、「剣」とお書きになったものと想像されます。

 しかしながら後年になると、さすがに円熟の境地に立たれました。皇室の弱体化を図ろうとする徳川幕府の策謀に従容と従い、争わずに受け入れるという至難の帝王学を実践され、徳治という天皇統治の本質を武の覇者である徳川氏に示され、皇室の尊厳を守られました。まさに天皇無敵です。

 天皇は「闘い」とは別の世界におられます。考えてもみてください。今上陛下や皇族方はいつも穏やかで、柔和な笑みを絶やされません。いわれないバッシングのなかにあっても、険しい表情はなさいません。

 どうしても「闘い」という表現を使わなければならないのだとすれば、それは「闘い」にも似た強烈な祈りの中におられるということでしょう。ひたすら民を思い、民の声を聞き、民のために祈るという心境は、いうまでもなく天皇第一のお務めである祭祀によって磨かれます。

 後水尾天皇が第4皇子の後光明(ごこうみょう)天皇に心得を示された直筆の手紙には、順徳天皇の『禁秘抄』が引用され、「敬神を第一に遊ばすこと、ゆめゆめ疎(おろそ)かにしてはならない。『禁秘抄』の冒頭にも、およそ禁中の作法は、まず神事、後に他事……」と、天皇のもっとも重要なお務めは神事であることが明記されています。


▽2 最大の国難は何か

 まして特定のテーマとの「闘い」を身に負っておられる、という理解は本来的ではありません。公正かつ無私なるお立場にあるのが天皇だからです。

 今上天皇がにわかに御健康を害されたのは、4年半前のことでした。

 平成20年暮れ、名川良三東大教授は検査結果を記者会見で発表し、「急性胃粘膜病変があったのではないかと推測される」と述べました。

 身心のストレスによって急激に生じ、発症までは数時間から1、2カ月の間、という説明でしたから、胃部の症状が現れた12月2日からさかのぼって2カ月以内に何があったのか、が国民の関心事となりました。

 羽毛田信吾宮内庁長官(当時)は「ここ何年かにわたり、ご自身のお立場から常にお心を離れることのない将来にわたる皇統の問題をはじめとし、皇室にかかわるもろもろの問題をご憂慮のご様子……」などと説明しましたが、まったく的外れです。「ここ何年か」のことが急性病変の原因ではあり得ないからです。

 公正にして無私なるお立場で、つねに国と民のために祈られる天皇にとって、ご心労は数限りなくあり、ひとつに特定化することは正しい態度とはいえません。

 しかしながら、急性病変を発症させるほどの強いストレスとは何だったのか、あえて推測するとすれば、リーマン・ショック後の経済危機に思い当たります。

 いみじくも翌年の「新年のご感想」で、今上陛下は、「秋以降、世界的な金融危機の影響により、我が国においても経済情勢が悪化し、多くの人々が困難な状況におかれていることに心が痛みます」と、「百年に一度」ともいわれる経済危機の影響を心配され、「国民の英知を結集し、人々の絆を大切にしてお互いに助け合うことによって、この困難を乗り越えることを願っています」と国民を鼓舞しました。
http://www.kunaicho.go.jp/gokansou/gokansou-21.html

 国民の喜びのみならず、憂いや悲しみ、そして命をも共有しようとするのが天皇です。わが治世にあって、住む家も、仕事もなく、苦しんでいる国民がひとりでもいるのは申し訳ない、と陛下はご健康を害されるほどに、深く心を痛めておいでなのでした。

 あれから4年半、円安が進んで、株価がリーマン・ショック以前の水準を取り戻した、とメディアは伝えています。

 東日本大震災から2年、国難は続いています。しかし最大の国難は大震災ではなく、国と民のために祈るという天皇の歴史的なあり方が、あろうことかほかならぬ側近たちによって脅かされていることです。

 百地先生のような保守派の論客でさえ、天皇の祭祀=「皇室の私事」説に固まっています。これにまさる国難があるでしょうか? 「陛下は大震災以後の国難と闘っている」という理解は、国民の目を最大の国難からそらさせることになります。
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20キロ圏の神社が消える?──「文藝春秋」昨年8月号掲載拙文の転載 [東日本大震災]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2012年4月1日)からの転載です


 陛下の術後のご容態が芳しくないようです。

 3月30日の宮内庁発表によると、同月7日と20日の2度にわたる胸水穿刺にもかかわらず、胸水の貯留がなお認められ、しばらくご静養を延長されるもようです。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/kohyo/kohyo-h24-0212.html#k0330

 メディアの報道では、抜きとれられた胸水は2リットルを超え、少しの散歩でも息が荒くなるご様子、といわれます。

 医師団が今回、心臓外科手術を決断した理由・目的は「Quolity of Life」にある、と伝えられますが、現状では、いわゆるご公務やテニスなどのスポーツはまだしも、激務とされる宮中祭祀への復帰はかなり厳しいのではないかと心配されます。

 マスコミは、手術後も、大震災追悼式のご臨席など、陛下のご公務が続いていることを指摘していますが、それどころか、昨年11月の御不例以来、祭祀のお出ましはほとんどありません。

 御拝が恒例となっていた、2月11日の建国記念の日に検査入院が行われ、2月17日の祈年祭の日に手術のためのご入院となり、3月20日の春季皇霊祭・神殿祭に時刻に胸水穿刺の御治療が行われ、それでいて、翌日に国賓のご会見が設定されるという具合です。

 ご健康上、やむを得ず、御代拝にせざるを得ないとしても、御所でお慎みになる機会さえ設定されないのは、歴代天皇が第一のお務めとして最重要視した祭祀がいかに軽んじられているか、ということでしょう。

「皇太子同妃両殿下の時代から、祭祀を大切にしてこられた」(宮内庁HP)という陛下であれば、どれほどおつらいことでしょうか。

 さて、今日は、「文藝春秋」昨年8月号に掲載された拙文「20キロ圏の神社が消える」を転載します。

 被災地の復興が遅々として進まないなか、郷土の精神史のシンボルである神社はますます困難な状況に置かれています。

 なお、若干の加筆・補正が加えられています。


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20キロ圏の神社が消える?
──「文藝春秋」昨年8月号掲載拙文の転載
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1、「氏子を守る」と津波に呑み込まれた宮司

 福島第一原発から北方約七キロの海浜に、双葉郡浪江町請戸(うけど)地区という古い漁村がありました。大津波で、全世帯403戸がほぼ壊滅したといわれます。

 真っ青な太平洋に臨む、広い浜辺には、荒波を鎮め、豊漁をもたらす神として、少なくとも千数百年の昔から漁民たちの崇敬を集めてきた苕野(くさの)神社がありました。毎年2月下旬に行われる安波(あんば)祭は、下帯姿の若者たちに担がれた樽御輿が冷たい冬の海に入り、大暴れする勇壮さで知られました。

 宮司は57代目、昭和13(1938)年生まれの鈴木澄夫さんですが、悲しいことに、巨大地震発生および大津波の襲来以来、行方が知れません。

 江戸時代から続く、ナマコ壁の酒蔵が跡形もなく倒壊するほどの烈震で、宮司宅の屋根瓦はすべて落ち、狭い道路をふさぎました。「津波が来る。早く逃げよう」。総代たちが必死に避難を誘いましたが、昔気質の鈴木宮司は頑として応じません。「氏子が一人でも残っているうちは、逃げるわけにはいかない。氏子を守るのが神職の務めだ」。道路が大渋滞し、混乱をきわめるなか、情け容赦なく襲ってきた大津波に、宮司も照美夫人も呑み込まれたといいます。

 それから数カ月、大阪に嫁いだ3女の倉坪郁美さんは「歴史ある神社をぜひとも復興したい」と語ります。しかし、延喜式神名帳に記載されるほど由緒正しい村の鎮守の再興には、幾重もの壁が立ちはだかっています。


2、テレビは映らず、電話は通じず

 福島県内3040社の神社を包括する福島県神社庁のトップ・足立正之庁長は大地震発生のその日、宮司を務める霊山(りょうぜん)神社(伊達市霊山町)の社務所で、夫人や娘さんと、翌日に予定されていた崇敬者夫人の五十日祭の準備に追われていました。

 ようやく準備が整った矢先、突然、震度6弱の激しく長い揺れが襲いました。舗設し終えたばかりの祭壇や神饌(しんせん)があたり一面に散乱し、壁が落ちました。外に出ると、灯籠が倒れ、境内に地割れが走っていました。

 同じころ、福島市の中心街に位置する福島稲荷神社の宮司でもある丹治正博副庁長は、社務所内で、書類という書類が飛び散る、猛烈な揺れを体験していました。窓の外では本殿が右に左にしなっています。「宮司さん、(末社の)鳥居が倒れました。灯籠が倒れました」。若い職員の悲痛な叫びです。

 揺れが収まると、ビル街からビジネスマンたちが、寒さに震えつつ避難してきました。「大鳥居には近付かないでください」。余震が心配でした。緊急自動車が何台も、けたたましいサイレンを鳴らし、走り去っていきます。私立大学の校舎が倒壊したのです。やがて夜の帳が下りました。市内は真っ暗。神社の一角だけは停電を免れました。津波が沿岸部を無慈悲に襲う映像をテレビが映し出します。丹治宮司は息を呑みました。


3、30社以上が流失もしくは全壊

 3月18日、足立庁長は大地震後はじめて、県神社庁に登庁します。相変わらず電話は通じず、丹治副庁長とは携帯メールで辛うじて連絡がとれる程度でした。情報が閉ざされた状況のなかで、被害の概要が分かってきたのは、じつに大地震発生から半月後でした。

 丹治副庁長によると、福島県内3040社のうち、約1800社が何らかの被害を受けました。鳥居、狛狗(こまいぬ)、灯籠など境内の工作物や祭器具、事務機器などの損壊は、全県下で確認されたといいます。

「会津地区」と「中通り地区」では、主要建物の一部損壊が広範囲にわたって発生したものの、全壊は報告されていません。とくに被害が集中するのは「浜通り地区」、相馬・双葉・いわきの三支部で、福島第一原発から半径20キロ圏内の警戒区域内の約200社については、原発事故によって立ち入り調査ができず、被災の実態すら分かりません。しかし、少なくとも30社以上が流失、もしくは全壊したと考えられています。

 足立庁長は「双葉支部管内は全域が壊滅し、支部それ自体が消滅した」と天を仰ぎます。

 生活の困難は被災者も神職も同様で、福島県内約600人の神職のうち、避難生活を余儀なくされているのは1割にあたる60人。神社が失われ、祭器具も流失し、装束(しょうぞく)すら持ち出せず、着の身着のままで避難した神職は、神明奉仕の術(すべ)を喪失しただけでなく、衣食住すべてを失って、生活困難に陥っています。

 なかでも、公務員や教員などの職を持たず、神明奉仕のみに徹してきた、若い専業神職たちは、生活の糧(かて)を完全に絶たれて、悲惨な状況に置かれています。

 いわき市の北東端、久之浜(ひさのはま)は地震、津波に加え、火災による被害を受け、町の中心はほぼ壊滅、多くの犠牲者を出しました。町の氏神・諏訪神社の高木優美(まさはる)禰宜(ねぎ)は昭和60年生まれ。諏訪神社は被害を免れたものの、兼務社数社は流出もしくは半壊。しかも、本務の市内神社から解雇され、無収入状態に陥りました。それでも「神社を復興したい」と若いエネルギーを燃やし、わが身を省みずに、支援物資輸送、瓦礫撤去などの支援活動に東奔西走し、郷土再生プロジェクトの中心を担っています。


4、被災地のために一日も早い神社再興を

 3月25日、県神社庁は被災神社復興のために災害対策本部を正式に設立しました。足立庁長らはこの時点では、神社の復旧・復興が当然、行われるべきだし、可能だ、と考えていました。原発事故の深刻さ、長期化についての理解が十分ではなかったからです。

 足立庁長と丹治副庁長は二人でくり返し話し合ったといいます。「震災復興は往々にして目に見える建物や町の復興がすなわち復興だと考えられている。けれども、再建されなければならないのは、戦後の日本人が失った大切なもの、精神的存在としての人間の生き方である。大震災をひとつの契機として、人間の心の面に主眼を置いた復興を考えなければならない」

 丹治副庁長には苦い思い出がありました。16年前の阪神・淡路大震災で、若い神職たちが全国から神社復興支援のため集まりました。ところが、ある文化人から予想外の強い批判を浴びました。「自分たちの神社の復旧ばかりで、被災者のために何もしていない」。一般誌に何度も掲載された酷評に、まだ若かった丹治副庁長は強く反発したものの、反論の術はありませんでした。

 全国に約8万社ある神社は、それぞれの土地に固有の、多様な信仰を伝えています。現代の宗教法人法上によれば、代表者は神職たる宮司ですが、村の鎮守といわれるように、歴史的に見れば、氏子たちによる地縁共同体の精神的拠点です。教えを広めることを第一義と考える仏教やキリスト教なら、布教活動の一環として被災者への支援活動も大いにあり得るでしょうが、神道はそうではないのです。地域の心の支えであり続けてきた神社を復興させ、伝統の祭りを一日でも早く復活させることが被災者と被災地のためであり、自分たちの使命だ、と丹治副庁長は強く思うのでした。


5、自然への畏れを忘れた民族は滅びる

 4月に入ると、福島県神社庁は特別メッセージ「東日本大震災に寄せて」と、足立庁長による激烈な長文のエッセイ「東日本大震災による福島県の諸状況」を立て続けに発表します。県神社庁が独自に、対外的な情報発信をするのはきわめてまれでした。

 特別メッセージは「自然への畏れを忘れた民族は滅亡する。畏れこそが神様への祈りの原点である。神様に祈ることで人間はふたたび大いなる力を得、幾多の困難を克服してきた」と、祈りの大切さを冒頭で訴え、天皇の祈りと全国津々浦々の神社での神祭りの意義を確認するものでした。


6、神社庁長の異例な政府批判

 足立庁長のアピールには、原発事故と避難政策によって、父祖伝来の郷土が失われ、住民の心の支えである神社が消滅することへの強い危機感が表明され、とりわけ政府の無策ぶりを厳しく非難する、きわめて異例のものでした。

 足立庁長が口を極めて政府を批判する一番大きな理由は、「自分たちはこのまま故郷を追われた放浪の民となってしまうのか」という、県民すなわち氏子崇敬者の苦悩が身につまされるからでしょう。

「大地震、大津波、原発事故の三重苦で、瓦礫の片付けどころか、遺体の収容や行方不明者の捜索すら許されず、復旧への足掛かりを得ることすらできない。原発事故は終息の見通しが立たず、生活再建などとうてい考えられない。不安と焦躁ばかりが募り、心身の休まらない苦悩の日々が続く」(前掲エッセイ)

 ところが、政府はあろうことか、県民の心のよりどころさえ奪おうとしているのでした。

 3月25日に政府は、被災者生活支援特別対策本部長・環境大臣より、「東北地方太平洋沖地震における損壊家屋等の撤去等に関する指針について」という通達を、被災した福島・青森・岩手・宮城・茨城・栃木・千葉の7県知事に発しました。

 原形をとどめていない住宅ほか、用をなさない建造物や車両・船舶などについて、たとえ所有者が不在であっても、所有者の意思が確認できなくても、県や市町村の判断で処分してもよい。そのために当該の土地に立ち入ってもよい。霊璽(位牌)やアルバムなど、所有者個人にとって価値のあると認められるものについては、作業の過程で発見され、容易に回収することができる場合は一律に廃棄しない、という内容でした。

 足立庁長は、この通達が引き起こすことの重大性を、声を大にして訴えます。祖先たちが大切に守ってきた郷土の聖地が失われかねないからです。

「かりに福島第一原発から半径30キロ圏内が国有地化され、強制集団移住の事態となれば、この圏内に鎮座する神社は消滅することとなる。避難先に神社の仮境内地を確保されることはおよそ考えられない」(同前)

 つまり、この通達が実施されると神社存続の危機につながるのでは、と危惧するのです。

 神社の信仰は多くの場合、土地と結びついています。それぞれの土地に、土地をつかさどる神がおられる。軽々しく神様の引っ越しをすることはできないのです。

 現行の宗教法人法は、儀式行事を行うことを目的のひとつとし、礼拝の施設を備えていることを宗教法人としての要件としていますが、地震と津波で礼拝施設を完全に破壊され、儀式を斎行するための施設や祭器具などを完全に喪失しただけでなく、原発事故によって境内への立ち入りさえ困難になった被災神社について、「宗教法人格の保有を、はたして国は今後も認めてくれるのか」と足立庁長は案じています。

 宗教法人法第81条は、1年以上、宗教活動が行われない、礼拝施設の滅失したあと、特別の理由がないのに、2年以上、施設を備えない。1年以上、代表役員・代務者を欠いている、などの場合、裁判所は解散を命ずることができると規定されていますから、とくに20キロ圏内の被災神社は宗教法人格を失いかねません。毎年、作成しなければならない財産目録および収支計算書すら、いまは揃えられないのですから。

 なかでも急を要する課題は、もっとも神聖に取り扱われるべき神社の御霊代(みたましろ。御神体)についてです。個人の思い出としての位牌やアルバムは廃棄しないけれども、郷土の精神史のシンボルである神社の御霊代は瓦礫として扱っていいというのは、完全に矛盾しています。


7、いまも復興できない淡路島の神社

 足立庁長が政教分離問題に言及するのは、神社界が経験した過去の苦い経験に基づく、それ相当の理由があります。

 淡路島の北部・淡路市(津名郡一宮町)に鎮座する伊弉諾(いざなぎ)神宮の本名孝至宮司によると、平成7年1月の阪神・淡路大震災で、兵庫県神社庁津名郡支部内の神社189社のうち3分の1が被災し、とくに20社が深刻な被害を受け、被害総額は数十億円に上りました。しかし震災から16年経ったいまでも、「復興できない神社が支部内に4、5社ある。社殿は仮設のプレハブのままで、祭りは神事のみ細々と行われている」と嘆きます。

「当時、伊勢神宮の遷宮によるトラック3台分もの古材が下賜され、全国から多額の義援金も提供された。しかし神社復興のリーダーがいないとか、氏子同士が遠慮し合う場合、神社再建は難しい」

 本名宮司が指摘するのは、それだけではありません。「神社への偏見がある」といいます。

 平成8年夏、兵庫県は文化財と歴史的建造物の復旧に対して、「復興基金」による最高500万円の補助を決め、8月に申請を受け付けました。ところが県神社庁にも知らされず、神社は半年間ものあいだ、蚊帳の外に置かれていたのです。

 神社関係者が県や町に照会して、行政の担当者があわてて説明に来るという始末で、その後、12月の二次申請に向けた作業に急いで着手するという事態になり、震災直後から支部長の職に就いた本名宮司(当時は禰宜)は「はなはだ遺憾」と唇を噛みました。

 たしかに現行憲法は「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」(20条)、「公金は、宗教上の組織の使用、便益もしくは維持のために支出してはならない」(89条)と定めていますが、実際には緩やかな分離政策が採られています。

 たとえば、関東大震災と東京大空襲の犠牲者を悼む東京都慰霊堂は、公有地にあり、年2回の慰霊法要が都内の5つの寺の持ち回りで行われています。長崎の二十六聖人記念碑は長崎市の市有地に立地していますし、小泉内閣以降には首相官邸で「イフタール」というイスラムの断食明けの食事会が行われました。

 しかし、宮中祭祀や神社となると、政教分離の厳格主義が頭をもたげてくるのです。

 同様のことは平成16年の新潟県中越地震でも起きました。長岡市の蒼柴(あおし)神社の境内にある約80基の灯籠が地震で倒壊したままの惨状をしばらくさらしていました。

 2年前の地元紙の報道によると、市民から「長岡のシンボルを復活させて」という声が上がっているのにもかかわらず、復興できずにいるのは、不況で住民らの寄付が集まらないことのほかに、文化財に指定されていないために県の基金が活用できないからだと記事は伝えています。新聞記者の取材に、市は「政教分離の観点から神社への助成はできない」と語っています。

 けれども文化財に指定されていない宗教施設が、公金によって速やかに復興されるようになった事例がないわけではありません。

 たとえば、長崎・新上五島町の江袋(えぶくろ)カトリック教会です。明治に建てられた長崎県内最古の木造教会でしたが、惜しくも4年前に火災で焼失し、わずかに一部の柱や壁が残るだけとなりました。

 文化財に指定されていなかったことから復興が危ぶまれましたが、約2カ月後、町は全焼した教会を文化財に指定し、信徒の信仰のよりどころである教会再建に弾みがつきました。


8、氏子が一人でも残るなら

 被災神社の存続について、福島県神社庁は「氏子がひとりでも避難せずに残っているあいだは、厳として御鎮座あるべきだ」との指針を示していますが、足立庁長らは「氏子・住民の強制的な避難が国策的に展開されるなら、神社存立に非常に難しい判断を迫られる」と不安を募らせます。

「30キロ圏内の国有地化、住民の強制集団移住ともなれば、氏子は離散を余儀なくされる。古代からの歴史ある氏子区域は消滅し、氏子共同体の意識も失われる。神社の再建はまったく不可能となり、住民たちの士気も消沈してしまうのではないか」(足立庁長)

 大震災発生から4カ月を超えたいま、希望の光が見えないわけではありません。

 南相馬市鹿島区(旧相馬郡鹿島町)・御刀(みと)神社は日本武尊(やまとたけるのみこと)東征のときに勧請されたと伝えられる古社ですが、津波のため社殿がすべて流出しました。けれども、若い神職たちの協力で境内の清掃が行われ、全国的な協力のもと、仮社殿の建設も進められました。森幸彦禰宜は「地域が忘れられてはならない。忘れさせられてはならない」と、ツイッターで被災地のいまを発信し続けています。

 足立庁長は被災地の神社復興の困難を百も承知で、「福島県民は、かならず再起する」と言い切ります。


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週末ごとに帰る故郷を持とう──菅首相よ、あなたも福島県民になりなさい [東日本大震災]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 週末ごとに帰る故郷を持とう──菅首相よ、あなたも福島県民になりなさい
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 福島第一原発に近い南相馬市の畜産農家が出荷した黒毛和牛11頭から、1キロあたり500ベクレルという暫定規制値を超える放射性セシウムが検出され、しかも同じ農家から出荷されたほかの和牛の牛肉がすでに流通にしていたというので、大きな混乱を招いています。枝野官房長官は「和牛の全頭検査の検討」を示唆しているほどです。

 発端は東京都保健安全研究センターが行った食肉の放射能検査(7月8日発表)で、「食品衛生法の暫定規制値を超える放射性セシウムが検出された」のでした。
http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2011/07/20l7b300.htm

 都の発表をご覧いただければ一目瞭然ですが、放射性ヨウ素についてはND(検出限界未満)だが、放射性セシウムについては1キログラムあたり2300ベクレル(Bq)検出されたという、よくいえば客観的、じつに無味乾燥というべきものです。

 翌日に発表された第二報では、農家から搬入された残り10頭についての検査結果の数値が載っています。もっとも数値が高かった牛は、3200Bq/Kgでした。
http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2011/07/20l7b600.htm

 この放射線の数値が牛肉を食べた人間にどれほどの影響を及ぼすのか、そこが問題なのに、驚いたことに、その点についての公的機関の発表やメディアの報道を見かけません。「ベクレル」での議論に留まっているのです。


▽1 汚染牛を丸ごと食べたらどうなる?

「ベクレル」は放射性物質が放射線を出す能力の単位で、人体への影響度合いは「シーベルト」で表します。ベクレルからシーベルトに換算するには、放射濃度に実効線量係数をかけて計算するのですが、係数は放射性物質の種類によって異なります。

 都の発表は「放射性セシウムが検出された」というだけですが、セシウム(Cs)は少なくとも39種類の同位体があるそうです。セシウム133は唯一の安定同位体で、セシウム134は半減期が約2年の放射性同位体です。セシウム137は半減期が約30年、使用済み核燃料中の放射能の大部分を占める、とWikipediaは説明しています。

 仮に検出された「放射性セシウム」がすべてこのセシウム134だとして、人体への影響度合いはどれほどなのか、ネット上で見つけた計算式を使って計算してみることにします。
http://testpage.jp/m/tool/bq_sv.php?guid=ON

 キログラムあたり3200ベクレルの牛肉を、毎日1キログラムずつ、一年間365日食べ続けたとします。牛肉の枝肉を一頭買いするとだいたい400キロだそうですから、一年間かけて、ほぼ一頭まるごと1人で食べるという想定です。

 計算すると、22.192ミリシーベルトという数値が得られます。

 すべてセシウム137だと仮定すれば、15.184ミリシーベルトです。


▽2 都や国が無用の混乱を招いている

 これらの数値をどう見るか、です。

 放射性物質は自然界に存在し、私たちは日常生活のなかで放射線を日々浴びていますが、この自然放射線量は、体質研究会のデータによると、日本では平均で年間に0.43ミリシーベルト、最高値で1.26ミリシーベルトですが、イランのラムサールのように平均10.2ミリシーベルト/年、最高260ミリシーベルト/年という高自然放射線地域の存在も知られています。
http://www.taishitsu.or.jp/

 放射能汚染された牛肉を1人で一頭丸ごと食べるということは、大人でも現実にはあり得ないでしょうから、「暫定基準値を大幅に超える放射性物質の検出」は騒ぎすぎといえないでしょうか。

 一部が食肉として流通していた静岡県では、静岡市内の飲食店に残っていた加工肉から1キログラムあたり1998ベクレルの放射性セシウムが検出されたそうですが、静岡県が「健康への影響を心配するレベルでない」と県民に平静さを求めているのは当然です。

 この冷静かつ客観的な対応が、都や国のレベルでなぜできないのか、私は不思議で仕方がありません。都や国こそ、無用の混乱を招いている元凶なのではないか、とさえ思えてきます。


▽3 被災者の命と暮らしの視点がない

 福島県は長年、ブランド牛の育成に努力してきました。県は「福島牛」を日本酒に次ぐ2番目のブランド産品に指定しているそうです。会津牛、会津塩川牛、飯舘牛、石川ハチミツ和牛、都路牛などが知られ、相馬牛は「日本一」に輝いた実績があると聞きます。

 今回の汚染牛の検出が、すでに起きている福島の農産物に対する風評被害を拡大させないことを祈るばかりですが、現実はきわめて悲観的です。

 先週来、菅政権は原発の再稼働に向けたストレステストの実施をめぐって混乱が続いていますが、最高責任者である菅首相には、発電所設備の機械操作の視点こそあれ、政権与党内部の要人、行政担当者、発電施設で働く人々、さらに原発周辺の住民という人間の視点が決定的に欠けているといわざるをえないからです。

 3月11日夕刻の記者会見にも、翌日の、ヘリによる福島第一原発視察後の会見にも、「国民の安全の確保」「住民の安全を第一に待避をお願いする」という言葉はありましたが、犠牲者への追悼の言葉がなかったことに端的に表れているように、被災地の人々の命と暮らしの観点がうかがえないからです。

 周辺住民を避難させ、その地域を拡大させ、農畜産物の出荷制限を指示するばかりで、被災地の生活と産業を建て直す方向性がいっこうに見えず、郷土の歴史、産業、文化を否定し、死滅させ、住民を流浪の民とすることが菅政権の政策なのかと疑われてならないからです。

 菅首相は先週末、全国幹事長・選挙責任者会議で、福島原発事故について、「事故の処理は3年、5年、10年、最終的には数十年単位の処理の時間がかかる見通しだ」と語ったと伝えられますが、よくも平然と語れるものです。原発事故の被災者にとっては「帰郷の夢を捨てよ。故郷を捨てよ」と、行政の最高責任者から通告されたようなものです。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110709-OYT1T00622.htm

 天皇陛下は異例のビデオ・メッセージで、「国民一人ひとりが被災地に心を寄せ、被災者とともに復興の道のりを見守り続けていくこと」を願われましたが、首相にはこの思いがまったく欠けているのではないでしょうか。


▽4 郷土意識を復活させるために

 しかし菅首相の人間性を批判するだけでは十分ではありません。郷土に帰りたくても帰れない、郷土の喪失という事態についての感性を失っているのは、私たち国民もほとんど同じだからです。

 菅首相は典型的な転勤族の長男です。父親は岡山出身、菅首相も本籍は岡山だそうですが、生まれは山口県で、高校2年のとき東京・三鷹に引っ越してきた。しかしいまは武蔵野市在住、と聞きます。

 現代の日本人は農耕民的な定住性を失い、遊牧民化しています。国民の大半はサラリーマンで、10数年前のデータでは、転勤による移動は1人平均2.75回(伊藤達也『生活の中の人口学』など)。一生を同じ土地で過ごす人は4人に1人もいません(大友篤『日本の人口移動』)。

 固定的な郷土を持たず、随時、住所が変わる、浮き草のような市民性が、市民運動家としての菅首相の思想と行動の原点だと思われますが、それは今日の多くの日本人とまったく共通します。国民の浮き草性が浮き草的政治家を首相にさせたのです。

 だとすれば、すでに郷土意識を失ってしまった日本人に、陛下が願っておられるような、被災者の郷土喪失の悲しみを共有し、郷土再生のための構想を立て、いっしょに歩み続けることはどこまで可能でしょうか。

 被災地の郷土復興のためには、日本人一人ひとりの郷土意識を復活させることが必要です。そのためにどうすればいいのか、国民がみな故郷を持つことだ、と私は思います。

 都会のマンションで暮らすサラリーマンなら、週末ごとに帰る土地付きの別宅を地方に持ち、カントリーライフを楽しむ。国民の資産を倍増させるダブル・ハウス政策は、萎縮するばかりの日本経済に大きな刺激を与えるでしょう。そのモデル・ケースとして、福島県の被災地復興を位置づけることはできないでしょうか。

 菅総理、第一原発のある双葉郡大熊町を、あなたの故郷にしませんか?

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被災地神社復興へのヒント──イギリスの文化財保護政策に学ぶ [東日本大震災]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2011年7月10日)からの転載です


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被災地神社復興へのヒント──イギリスの文化財保護政策に学ぶ
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「文藝春秋」8月号掲載の拙文「20キロ圏の神社が消える?」に書きましたように、東日本大震災で被災した神社の再興には多くの壁が立ちはだかっています。それどころか、平成7年1月の阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)で被災した神社のなかには、16年経ったいまもなお復興できずにいるケースが少なくありません。
http://www.bunshun.co.jp/mag/bungeishunju/


▽1 いまなお復興できない淡路島の神社

 当時を知る関係者によると、震源地の淡路島・北淡町(現淡路市)を管内に含む、兵庫県神社庁津名郡支部では、189社の神社のうち3分の1が被災し、とくに20社が深刻な被害を受け、被害総額は数十億円に上ったのですが、悲しいことに、「復興できない神社が支部内に4、5社ある。社殿は仮設のプレハブのままで、祭りは神事のみ細々と行われている」のだそうです。

 当時、全国から多くの支援の手が差しのべられたのはいうまでもありません。

「伊勢神宮の遷宮によるトラック三台分もの古材が下賜され、全国から多額の義援金も提供された」のですが、最優先されるのはどうしても住民の生活です。

 神社の復興までには「順序がある」といいます。民家が再建され、商店街やアパート・マンションが復興し、町並みが変わり、地域のコミュニティーが動き出し、菩提寺の復旧が始まる。そのあと最後に、氏神様の復興話が始まるのだそうです。

 興味深いのは、神賑行事の有無です。神社のお祭りの際、神殿での神事のあと、御神輿や山車が繰り出すというような伝統の行事がある場合、神社の復興は比較的早いのだといいます。復興の目的が明確化されるからでしょう。

 けれども潤沢な資金がある大きなお宮なら話は別なのですが、「神社復興のリーダーがいないとか、氏子同士が遠慮し合う場合、神社再建は難しい」そうです。「再建には少なくとも数千万円はかかる。しかし氏子は4軒しかいない」というようなケースさえあるのです。

 大震災発生の翌年、兵庫県は文化財と歴史的建造物の復旧のため、「復興基金」による、総額の2分の1を限度とし、最高で500万円まで認める公的補助を決め、支援しました。しかし「500万円」という額は「焼け石に水」の観がないわけではありません。


▽2 日英の文化政策の圧倒的な違い

 今日の日経新聞(web版)に、小西美術工芸社のアトキンソン会長兼社長が「なぜ英国の文化財は美しいのか」という一文を寄せ、日英の文化財政策の際立った違いについて紹介しています。
http://www.nikkei.com/life/culture/article/g=96958A90889DE1E3E7EAE6E6E1E2E2E6E2E5E0E2E3E39BE2E2E2E2E2;p=9694E3EBE2E6E0E2E3E2EBE7E3E6

「観光大国日本へのヒント」というサブタイトルが示すように、アトキンソンさんの観点はあくまで「観光」ですが、自然災害で被災した神社の再興に対する支援について、多くのヒントを与えてくれます。

 アトキンソンさんは日英の文化財政策を比較して、まず指摘するのは、文化財(建造物)の指定物件の数に圧倒的違いがあるということです。

 イギリスでは2010年6月時点で、37万4000件が文化財登録されている。一定敷地内に複数の建物がある場合もあるので、それらを含めると全体で50万件弱になると報告されている。「国宝」級の「グレード?」は1万件弱、「重要文化財」級の「グレード?*(アステリスク)」は2万件を超える。イギリスでは1700年以前に建てられた建造物なら、すべてが登録文化財とされる。

 これに対して、日本では2010年6月現在で建造物の国宝・重要文化財はあわせて2380件に過ぎない。イギリスの50万件とあまりに違う。日本の指定の幅は狭い、とアトキンソンさんは指摘します。

 補助金の規模も同様です。

 建造物の修理に充てられる国家予算は、イギリスが年間500億円。一方、日本は80億円に過ぎません。イギリスでもっとも指定対象となりやすい教会は1万4500件ですが、日本は神社だけでも8万社あるのに、です。イギリスの500億円の国庫補助は、日本に置き換えれば1100億円規模になります。

 イギリスでは、1970─80年代にかけて、ポンド高が起こり、産業構造が変わった。失業者が急増し、職人文化がダメージを受けた。その打開策として、低所得者層の救済策の1つとして、観光業の強化が図られ、文化財の修理が強化されたのでした。

 文化財の修理に従事する職人まで含めると年間2兆7000億円の経済効果、46万6000人の雇用となる。観光業全体では年間14兆8200億円の経済効果をもたらしている、とアトキンソンさんは説明します。


▽3 ネックは硬直した政教分離政策

 アトキンソンさんは次のように結論づけます。

「日本の観光業は、文化財との関連を強化する必要性がある。日本文化に親しみがない人に何度も足を運んでもらうには、建築様式から模様、その建物の使用用途など、今より多くの説明が必要であろう。

 満足度を修理費用などに還元するために、ガイドブックや説明するガイド、レストランなども設けなければならないと思われる。その文化財に必要な資金が直接的に入る仕組みに切り替える時代を迎えているのではないか。

 日本の素晴らしい文化財の復活に貢献する政策につながると自負している」

「文藝春秋」の拙文に書いたように、東日本大震災で壊滅した福島・浪江町の苕野(くさの)神社は、少なくとも千数百年の歴史をもつ古社ですが、再興のめどはまったく立っていません。福島第一原発の20キロ圏内にあり、立ち入りさえできないからです。

 イギリスのように17世紀以前の建造物はすべて文化財に登録されるというのなら、おそらくこの苕野神社も含め、被災地の多くの神社が保護の対象となるでしょう。

 神社の社殿が古いということだけが文化的価値の尺度ではありません。古くから人が住み、暮らしに密着した神々の物語を伝え、独自の祭りがあるということを総合的に見て、有形・無形の伝統文化として保護されるべきだと考えます。

 大震災と大津波、原発事故に苦しむ被災地で求められるのは、住民の避難政策ではなくて、郷土の再興です。文化財保護、観光業振興、被災者支援の観点から、被災地の再興に、行政はよりいっそう力を入れなければならないと思います。

 その場合の最大のネックは、当メルマガの読者ならご承知のとおり、こと神社に関して、憲法の規定をことさら厳格に解釈・運用する政教分離政策であり、その背景となっている硬直した近代神道史理解です。その結果、世界に誇るべき文化財としての郷土の神社が復興できない、としたら、行政は文化の保護者ではなく、逆に破壊者となってしまいます。

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昭和天皇の戦後御巡幸と今上天皇の被災地歴訪は別物か──東京新聞5月14日付特報記事を読む by 佐藤雉鳴 [東日本大震災]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2011年5月15日)からの転載です


 昨日の東京新聞「特報面」に、大震災の被災地を訪問し、人々を直接、励まされている両陛下についての記事が載りました。昭和天皇の戦後御巡幸と比較し、識者はどう見ているか、がまとめられています。5人の識者の1人に私も加えていただきました。

 短時間のうちに、要領よくまとめられた、さすがプロの記事ですが、面白いのは、作家の半藤一利さんと坂本孝治郎学習院大学教授が両者は「別物」と指摘していることです。

 お2人に共通するのは、要するに、天皇を政治的存在と見る政治的理解です。であればこそ、昭和天皇の御巡幸を、半藤さんはソ連の存在を念頭に置いた「一種の闘いだった」と解釈します。坂本先生は「天皇が『人間』に変身し、学習する過程だった」から「お見舞い」と比較することはできない、と考えるわけです。

 この記事について、畏友・佐藤雉鳴さんが以下のような感想を書いてくださいました。

 忘れないうちに補足します。佐藤さんがこの3月、『日米の錯誤・神道指令──知識人の大罪』という本を出版されました。お買い求めのうえ、どうぞご一読ください。


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昭和天皇の戦後御巡幸と今上天皇の被災地歴訪は別物か
──東京新聞5月14日付特報記事を読む by 佐藤雉鳴
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 天皇、皇后両陛下は、大震災と大津波の被災者、そして原発災害によって避難生活を余儀なくされている方々を訪れ、お見舞いのお言葉をかけられています。

 震災から5日後の3月16日にはビデオメッセージで「お言葉」を発せられ、被災地の方々のみならず、全国民に大きな勇気を与えて下さいました。また大勢の方々の生命と財産を呑み込んだ、瓦礫の山や海に黙礼される両陛下のお姿にも、人々は胸を熱くしました。

▽1 歴代天皇の多神教的神々への畏怖

 東京新聞5月14日の朝刊には、陛下が被災者を前に、お膝をつかれてお言葉を掛けられている写真が掲載されています。実はこの朝刊には、当メール・マガジンの発行者である斎藤吉久さんもインタビューに応えていると知って、駅前のコンビニで入手し、読んでみました。

 斎藤さんは「悲しみや憂い、生命を共有し、国民のためにひたすら祈る『まつり』の精神の表れ。伝統的に地面までへりくだって神に祈る精神に通じる」と指摘されています。

 我が国の歴史と伝統のなかでも、―─斎藤さんの請け売りですが─―「天皇の祈り」はたいへん重要な意味をもつものだと思います。この度の大災害から、清和天皇の貞観11年(869)あるいは明治29年(1896)に起きた陸奥での地震・津波災害が改めて語られました。

 清和天皇は「陸奥の国震災賑恤(しんじゅつ=物品等で難民や貧者を救う)の詔」を発せられています。「既に死せる者は盡く収殯(しゅうひん・殯=ひつぎ)を加へ、其の存する者は、詳に賑恤を崇(おも)くせよ。」そして民には租税を減じ、「責(せめ)深く予に在り」とまで言われました。

 清和天皇のみならず、その約170年前の、文武天皇の御代も旱魃や台風などの災害に悩まされました。そしてその都度「田租を免じ給ふの詔」を発せられたのですが、文武天皇はまた自然災害に際し、「災を禳(はら)ひ民を救ひ給ふの詔」を渙発されました。

 いわゆる「禳災(じょうさい)」とは神を祭って、災難をはらいのぞく、ということとされています。両陛下の黙礼には、人智のみに依存してはならい、という我が国古来の姿勢を感じます。本居宣長は「事にふれては、福(さち)を求むと、善神(よきかみ)にこひねぎ、禍(まが)をのがれむと、悪神(あしきかみ)をも和(なご)め祭り」と語りました。

 斎藤さんの指摘された「『まつり』の精神の表れ」とは、多神教的な、少なくとも善悪二神への畏怖というようなことも含まれるのではないかと思いました。神がいて、なぜこの世に禍いが起きるのか。ロシア革命の人たちは、こういった感情から神を捨て、「道徳的無神論者」になったといわれています。一神教世界の怖いところかもしれません。

 我が国は現在、原子力発電技術という人智の極で、先の見えない災難に遭遇しています。今回の大津波は貞観のそれの再来といわれていますし、『明治天皇紀』には50呎(15m)の津波が記されています。福島原発での想定は5.7mの津波だと報道されました。設計主義的合理主義が国典を無視した、その結果が「想定外」ということでしょうか。

▽2 古来、一貫する無私の精神

 ところで、同じ記事のなかにある、どうにも違和感のあるコメントが気になりました。ひとつは、終戦の翌年2月からはじまった昭和天皇の全国ご巡幸と、この度の今上陛下の被災地ご訪問とは「全くの別物」というところでした。

 しかし歴代の天皇は、大きな災難に際しては必ず国民にたいし「みことのり」を発せられ、励まされています。漢文による潤色があるとはいえ、古代から今日に至るまで、天皇の国民を慈しまれる、無私の大御心の一貫していることは、六国史をはじめとする国典に明らかです。

 古い書物の伝えるところもそうですが、明治29年6月の災害時に、明治天皇は「深く軫念あらせられ、是の日侍従子爵東園基愛を罹災地に差遣して其の状を視察せしめ、二十二日、天皇・皇后より岩手県に金一万円、宮城県に金三千円、青森県に金千円を下賜して、共に救恤の資に充てしめ」給われています。災害からわずか一週間後のことでした。

 また関東大震災では摂政(のちの昭和天皇)御名として「皇都復興に関する詔書」において、「朕、前古無比の天殃(てんおう=天の下した災禍)に際会して、?民(じゅつみん=たみをあわれむ))の心愈ゝ(いよいよ)切に、寝食為に安からず」と宣べられています。また昭和21年元旦の「年頭、国運振興の詔書」では「朕は朕の信頼する国民が朕と其の心を一にして、自ら奮い、自ら励まし、以て此の大業を成就せんことを庶幾(こひねが)ふ」と語られました。

 これらの延長線上にある終戦後の昭和天皇のご巡幸と、この度の天皇、皇后両陛下の被災地ご訪問が「全くの別物」とは、やはり違和感が残ります。

 たしかにインタビュー記事は、短かすぎて回答者の意を尽くせないものになっていることは、まちがいなくあるでしょう。しかしそのことを考慮しても、歴史的御位にある天皇の一貫性こそ、まず第一に客観的な事実として語られるべきではなかったかと感じます。

▽3 現人神論は宣命解釈を誤った結果である

 もう一つは、戦後の天皇の全国ご巡幸は「現人神で大元帥だった天皇が『人間』に変身し、学習する過程だった。今回のお見舞いと比較するのは適当ではない」とのコメントです。とても政治学の専門家の言説とは思えません。

 歴代天皇がそれぞれご自身を現人神(現御神・明神)と称されたことは一度もありません。即位の宣命などにある、「明神(止)御宇日本天皇」は「現御神のお立場で(=無私の精神で、先祖の叡智にしたがって)国をお治めになる、その天皇が……」という意味であり、木下道雄『宮中見聞録』に記されているとおり、「現御神と」は「しろしめす」の副詞です。天皇=現御神(現人神)ではありません。「現御神と」と「しろしめす」は不可分となっています。もちろん「明神天皇」はなく、「明神御宇」と用いられています。

 津田左右吉や石井良助らは、天皇=現御神であったが、天皇が宗教的崇拝対象となっていた事実は見あたらない、と書き残しています。公式文書には「現御神と」は「しろしめす」の副詞として用いられていますから、天皇=現御神はひとつもないのが歴史の事実です。天皇現御神論は、即位の宣命などを誤って解釈してきた結果としか思えません。

 ただ昭和12年に文部省が発行した『国体の本義』は天皇=現御神でした。したがってこれは大日本帝国憲法に違背したものです。当然のことですが、昭和天皇にご自身が(宗教的崇拝対象としての)現御神である、という意識はありません。木下道雄侍従次長に、後水尾天皇が灸治療の際に側近から現御神の天皇に灸とは、という反対から、やむなくご退位の上、治療をうけさせられたというエピソードを話されています。昭和52年の記者会見において、「神格とかそういうことは二の問題でした」のお言葉に、すべてが表わされていると思います。

 国典を誤って(あるいは天皇を利用するために)解釈した結果が、昭和戦前の天皇=現御神(現人神)論です。そして当時、国民が誤った解釈を指導された事実はありました。しかしこのコメントからすると、現在でも誤って解釈している人のあることがわかります。

「現御神と」は英米でいう「コモンローにしたがって」であり、「惟神の道」も「先祖の叡智にしたがって」「恣意性を排除して」というような意味であると思います。とにかく「無私」なのです。したがっていわゆる「人間宣言」とは、国民の誤った詔勅の解釈をたしなめられた詔書である、と言う方が正確です。

▽4 神ではないからこそバチカンに使節を派遣

 昭和天皇は、のちに駐バチカン公使となる原田健にたいし、次のように伝えられていたことが原田健から、『PEACE WITHOUT HIROSHIMA』の著者キグリーへの手紙にあるそうです。これを裏付けるバチカンへの使節派遣のことが『木戸幸一日記』にありますし、バチカン発の和平工作に関する(日本政府が黙殺した)電報も二通、国立公文書館に残されています。

「この職に任命されたとき、私は天皇陛下ご自身から、和平の可能性を見逃さないようにとのご指示を賜ったのだ。ヴァニョッツイのこの提案は奇妙で異常な話ではあるが、畏れ多くも天皇陛下が予見あそばされた和平の可能性ととらえて差し支えなかろう」

「ぜひ指摘しておかなければならないことですが、真珠湾攻撃の二か月も前に和平の道を見通しておられたのは天皇陛下ただお一人でした。それだけに、陛下の特使としてバチカンにいながら、陛下の当初の思し召しにかなう働きができなかったことを実に申し訳なく思っております。」

 昭和天皇が(宗教的崇拝対象としての)現御神だとしたら、バチカンの法皇庁にそもそもなぜ使節を派遣したいと発意されたのでしょうか。

「開戦后、私は「ローマ」法皇庁と連絡のある事が、戦の終結時期に於て好都合なるべき事、又世界の情報蒐集の上にも便宜あること並に「ローマ」法皇庁の全世界に及ぼす精神的支配力の強大なること等を考へて」公使派遣を要望されたと語られました。この当時、世界の情勢について、リアリティを失わなかったのも、昭和天皇お一人だったのかもしれません。

▽5 識者に共通する陛下への畏敬の念

 これらからも、昭和天皇が「人間」に変身、はありえませんし、コメントにあるような、そのことへの「学習」もありえません。

「戦のわざはひうけし国民(くにたみ)をおもふこころにいでたちてきぬ」

 昭和天皇ご巡幸の大御心や、今上陛下のこの度のご訪問に、国民は共通して「かたじけなさに涙こぼるる」思いを感じたのではないでしょうか。

 ただ、さまざまな見方や言い方があっても、各識者のコメントには今上陛下の国民を想われる姿勢への畏敬の念がみてとれます。記者の限定された質問に、一言二言で回答せざるをえないコメンテイターに、これ以上はフェアではないと思いますから、批判はこの辺にしておきます。


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「避難区域」設定はどこまで科学的なのか──このままでは被災地の歴史が途絶えてしまう [東日本大震災]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 「避難区域」設定はどこまで科学的なのか
 ──このままでは被災地の歴史が途絶えてしまう
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 巨大地震発生からまもなく2か月になろうとしていますが、震災復興の努力を裏切るような、とんでもないことが起きているのではないかと思えてなりません。それは国の政策の誤りによる郷土の歴史の解体・喪失です。

 昨日のメルマガ(vol.186)に掲載した「勝手に飯舘村を応援する会」の緊急アピールにもありますように、政府は福島第一原発から半径20キロ圏内を「警戒区域」に設定し、立ち入りを禁止しています。20キロ圏外の「計画的避難区域」では1か月以内に避難するよう呼びかけています。

 警戒区域などの設定に科学的合理性があるのならまだしもなのですが、どうもそのようには見えないところに問題があります。政府の説明が不十分なのはもちろんで、「緊急アピール」への賛同を呼びかける荒木さんの文章にあったように、「政府は避難を指示するだけで何もしていない」というのではお話になりません。

 たとえば人口6千人の相馬郡飯舘村は、計画的避難区域に設定されて、私の郷里に役場機能が移されることになりました。報道では、村の学校の校庭で、最高毎時18・2マイクロシーベルトという、周辺より高い数値の放射線量が記録された、というのですが、この放射線レベルが、科学的に見て、どの程度の危険性があるのか。どうしても避難しなければならないほどのレベルなのかどうか。


▽1 レベルの「低さ」を認識できていない

 経済専門誌の「週刊ダイヤモンド」が、チェルノブイリ事故で放射線被爆治療に関わった経験を持つ、ロバート・ゲイル博士のインタビューを載せていました。博士はずばりこういっています。
http://diamond.jp/articles/-/11772

「政府内に放射線に詳しい専門家がいないため、かえって混乱を招くだけの結果になっている。国民が理解できるような方法でデータを噛み砕いて伝えることができていない」

 たとえば、「日本政府が現在、飲料水では放射性ヨウ素が1リットルあたり300ベクレルを超えると好ましくない、というメッセージを国民に伝えている」ことについて、博士は、「この数値は何も目の前のコップに入った水を飲むと危険だ、ということを示しているのではない。20杯飲んでも大丈夫なはずだ。その値以上の飲料水を5リットルほど毎日1年間飲み続けたら、ガンになる確率が1万分の1上がる可能性がわずかにある、ということだ。そういう説明を、自信を持ってできる人間が政府内にいないことが問題なのだ」と博士は指摘します。

 政府の説明不足だけではありません。危険性のレベルの低さを政府自身が認識できていないのです。情報は垂れ流しされ、かえって危険性をあおっている。そして避難指示が出されたのです。

 その結果、何が起きようとしているのか。


▽2 天皇を否定する菅首相の歴史観

 飯舘村では、村の経済を支えてきた農業が崩壊の危機にさらされています。畜産業しかり、稲作しかりです。政府は、今年は稲を作付けしないよう指示しています。一年間の耕作放棄で済むならまだしも、長期化すれば、第一次産業のみならず、農村そのものが消滅しかねません。

 住民の安全を確保することが目的のはずの避難区域や計画的避難区域の設定と避難指示、あるいは生産物の出荷停止指示が、祖先から受け継がれてきた地域の自然と文化を破壊するという、取り返しのつかない結果をもたらすのではないかと、と恐れるのです。

 このメルマガで何度も申し上げましたように、巨大地震発生以来、菅首相が発した国民へのメッセージには犠牲者への追悼の言葉がありません。いま命をつないでいる人たちはまだしも、過去においてこの地に生を享け、この地に生きた、数多くの人々への眼差しが欠けています。人間の歴史という視点が見えないのです。

 悠久なる日本人の歴史を体現しているのが、神代にまで連なると信じられてきた天皇ですが、菅首相には天皇の歴史がすっぽりと抜けています。

 昨年11月の議会開設120年記念式典で、菅首相は次のような総理大臣祝辞を述べています。
http://www.kantei.go.jp/jp/kan/statement/201011/29syukuji.html

「我が国の議会制度は、明治二十三年、自由民権運動の高まりを背景に誕生しました。爾来、幾多の試練に直面しつつも、先人達により、民意を国政に反映するための尊い努力が積み重ねられてきました」

 さすが元市民運動家の本領発揮というべきでしょうか、個々に解体された市民の運動の高揚によって日本の議会制度が生まれたというような歴史理解ですが、近代議会制度確立に果たした天皇の役割を完全に無視しています。

 当メルマガの読者なら誰でもご存じのように、慶応4(1868)年に明治天皇の名で示された明治政府の基本方針「五箇条の御誓文」の第一条は「広く会議を興し、万機公論に決すべし」でした。日本の議会主義は天皇の思召し、呼びかけが出発点です。


▽3 被災地が望むまともな政府

 戦後の新憲法下における議会政治も同様です。

 菅首相の祝辞は「戦後、国民主権を基本原理とする日本国憲法の下、国会は、全国民を代表する機関として極めて重要な地位を有することとなりました」と述べていますが、戦後の議会制民主主義の原点は新憲法ではありません。

 昭和21年元日の昭和天皇の詔書、いわゆる「人間宣言」は、冒頭、「ここに新年を迎ふ。顧みれば、明治天皇、明治の初め、国是として五箇条の御誓文を下し給へり」で始まります。

 天皇を否定する菅首相には、過去から未来への歴史の継続性を重視するのではなくて、過去を否定する革命的発想が透けて見えます。だとすれば、被災地で祖先たちが息づいてきた山紫水明が失われようとも、地域が無人化し、産業と文化が水泡に帰したとしても、いささかの痛痒も感じることはないでしょう。

 もし避難する必要がないのに、避難させられるだけではなく、ヒト・モノ・カネをつぎ込んで、被災地をゴーストタウン化させることは、壮大なムダであるばかりでなく、喜劇といわざるを得ません。

 大震災復興構想会議の五百旗頭議長は被災地の意向を反映させていく考えを表明していますが、原発事故に苦しむ被災地がもっとも望むことは、まともな政府とまともな政策ではないのでしょうか。

 しかし、なんという皮肉でしょう。菅内閣の体たらくを救い、社会の絆をつなぎ止めているのは、菅首相が否定する天皇の祈りと獅子奮迅の行動なのですから。陛下は皇后陛下とともに、来週、いよいよ福島県を訪問されます。



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今上陛下が明日、被災地岩手へ──皇后陛下ともに獅子奮迅の御巡幸 [東日本大震災]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 今上陛下が明日、被災地岩手へ
 ──皇后陛下ともに獅子奮迅の御巡幸
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 今上陛下が皇后陛下とともに、明日、大震災の被災地・岩手を御訪問になります。

 当初は2日に訪問され、釜石、宮古両市の避難所をお見舞いになる予定でしたが、現地が強風のため、自衛隊のヘリコプターによる移動に支障があるとの判断で延期となりました。

 当メルマガは3月19日号(vol.176)で、90年前の関東大震災当時、摂政宮(のちの昭和天皇)や皇族方が獅子奮迅の活動を展開されたことをお伝えしましたが、今回の東日本大震災で、犠牲者を悼み、被災者を励まされる今上陛下の行動は、先帝陛下と同様に、獅子奮迅というべきです。

 今回の岩手県御訪問は、埼玉県や都内への避難者お見舞いを別にして、4月14日の千葉県旭市御訪問、4月22日の茨城県北茨城市御訪問、4月27日の宮城県東松島市、南三陸町、仙台市御訪問に次ぐ被災地御訪問で、震災発生2か月目の11日には原発事故に苦しむ福島県御訪問が予定されていると伝えられます。

 民の声を聞き、民の心を知る、そして民の喜びのみならず、悲しみや憂い、命までも共有しようとされるのが天皇ですが、今上天皇は、3月11日の震災発生の三日後から、皇后陛下とともに、連日のように情報収集に努められ、犠牲者を追悼し、被災者を励まされています。


▽1 ニュージーランド震災犠牲者に御黙祷

 宮内庁がHP上に発表しているところによれば、以下の通りです。(一部、ニュージーランド震災に関するもの、皇后陛下のみのケースも載せました)

3月15日(火) (1)皇后陛下とともに、御所で、前原子力委員会委員長代理から原子力発電所の仕組みと安全対策について説明を受けられました。(2)皇后陛下とともに、御所で、警察庁長官から東北地方太平洋沖地震被災状況及び救助活動等について、ご説明を受けられました。

3月16日(水) (1)御所で、東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下おことばのビデオ収録が行われました。(2)皇后陛下とともに、御所で、東京大学大学院医学系研究科教授から放射線被曝について、ご説明を受けられました。

3月17日(木) 皇后陛下とともに、御所で、日本赤十字社社長および同副社長から、東北地方太平洋沖地震に対する日赤の救護活動等について、ご説明を受けられました。

3月18日(金) (1)皇后陛下とともに、御所で、ニュージーランドでの地震被災者黙祷に合わせ、御黙祷を捧げられました。(2)皇后陛下とともに、御所で、海上保安庁長官から、東北地方太平洋沖地震被災地の救助、救援活動等について、ご説明を受けられました。

3月23日(水) 皇后陛下が御所で、日本看護協会会長から、東北地方の災害に対する救護活動等について、ご聴取されました。

3月24日(木) 皇后陛下が御所で、日本看護協会副会長から、東北地方の災害に対する救護活動(放射線健康管理等)について、ご聴取されました。

3月28日(月) 皇后陛下とともに、御所で、宮内庁総務課長から、東京武道館における避難者お見舞いにつきご説明を受けられました。

3月29日(火) 皇后陛下が御所で、東京大学医学部附属病院院長から乳児と放射線被曝について、ご説明を受けられました。

3月30日(水) (1)皇后陛下とともに、御所で、外務事務次官から、東北地方太平洋沖地震と国際社会-支援その他-について、ご説明を受けられました。(2)皇后陛下とともに、東京武道館(足立区))で、東北地方太平洋沖地震に伴う避難者をお見舞になりました。


▽2 震災1か月の御黙祷

4月1日(金) 皇后陛下とともに、御所で、防衛大臣、統合幕僚長から、東北地方太平洋沖地震及び福島原子力発電所に対する自衛隊の活動状況について、ご説明を受けられました。

4月4日(月) 皇后陛下とともに、御所で、文部科学省研究振興局長、京都大学名誉教授、名古屋大学医学部保健学科教授、学習院大学理学部化学科教授から、放射性物質の環境影響について、ご説明を受けられました。

4月5日(火) 皇后陛下とともに、宮内庁総務課長から、旧騎西高等学校(埼玉県加須市)における避難者お見舞につき、ご説明を受けられました。

4月8日(金) 皇后陛下とともに、旧騎西高等学校(埼玉県加須市)で、東日本大震災に伴う避難者をお見舞になりました。

4月11日(月) (1)皇后陛下とともに、皇居東御苑で、東日本大震災に伴う都内避難者(皇居東御苑見学会参加者)にお会いになりました。(2)皇后陛下とともに、御所で、財団法人国際科学技術財団会長、同理事長から、日本国際賞受賞者について、ご説明を受けられました(東日本大震災に伴い、2011年(第27回)日本国際賞授賞式及び祝宴中止に当たり)。(3)皇后陛下とともに、御所で、宮内庁総務課長から、東日本大震災被災地(千葉県旭市)お見舞につき、ご説明を受けられました。(4)皇后陛下とともに、御所で、東日本大震災から1か月目に当たり、御黙祷を捧げられました。

4月12日(火) 皇后陛下とともに、御所で、東京工業大学原子炉工学研究所所長から福島原子力発電所について、ご説明を受けられました。

4月13日(水) 皇后陛下とともに、御所で、農林水産大臣から、東日本大震災による農水産物被害と原子力発電所事故に伴う農水産物への影響について、ご説明を受けられました。

4月14日(木) 千葉県行幸。皇后陛下とともに、東日本大震災被災地(千葉県旭市)をお見舞になりました。

4月15日(金) (1)皇后陛下が御所で、日本看護協会会長、日本看護協会常任理事から、東日本大震災における保健師の救護活動等について、活動状況をご聴取になりました。(2)皇后陛下が、皇居東御苑で、東日本大震災に伴う都内避難者(皇居東御苑見学会参加者)にお会いになりました。


▽3 福島県御訪問につき総務課長からご説明

4月18日(月) (1)皇后陛下とともに、御所で、宮内庁総務課長から、東日本大震災被災地(茨城県)お見舞につき、ご説明を受けられました。(2)皇后両陛下とともに、御所で、みどりの学術賞選考委員長他から、みどりの学術賞受賞者について、ご説明を受けられました(東日本大震災に伴い第5回みどりの式典及びレセプション中止に当たり)。

4月20日(水) 皇后陛下とともに、御所で、東京大学地震研究所地震火山情報センター長から、地震のメカニズムと東北地方太平洋沖地震等について、ご説明を受けられました。

4月21日(木) 皇后陛下とともに、御所で、宮内庁総務課長から、東日本大震災被災地(宮城県・岩手県)お見舞につき、ご説明を受けられました。

4月22日(金) 茨城県行幸啓。東日本大震災に伴う被災地(茨城県)をお見舞になりました。

4月25日(月) (1)皇后陛下とともに、御所で、宮内庁管理課長から被災者へ那須御用邸入浴施設提供の状況につき、宮内庁庭園課長から宮城県でのボランティア活動の体験につき、ご報告を受けられました。(2)皇后陛下とともに、消防庁長官から、東日本大震災における消防の活動状況につき、ご説明を受けられました。

4月26日(火) 皇后陛下とともに、御所で、宮内庁総務課長から、東日本大震災被災地(宮城県・岩手県)お見舞につき、ご説明を受けられました。(2)皇后陛下とともに、 御所で、厚生労働副大臣から、東日本大震災に伴う医療・看護等厚生労働関係業務への影響と対応策につき、ご説明を受けられました。

4月27日(水) 宮城県行幸啓。東日本大震災に伴う被災地(宮城県)をお見舞になりました。

4月28日(木) 皇后陛下とともに、御所で、宮内庁総務課長から、東日本大震災被災地(福島県)お見舞につき、ご説明を受けられました。



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全国天満宮の被災地支援リポート──宮司みずから支援物資を届ける [東日本大震災]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 全国天満宮の被災地支援リポート──宮司みずから支援物資を届ける
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 巨大地震発生以後、メディアは休むことなく、千年に一度ともいう大震災を追い続けていますが、逆にほとんど取り上げられないテーマの1つに宗教界の救援活動があります。

 たとえば、太宰府天満宮、北野天満宮、大阪天満宮、道明寺天満宮、湯島天満宮、亀戸天満宮、防府天満宮、潮江天満宮など、全国に約1万社あるといわれる、学問の神様・菅原道真公をまつる天満宮、天神様の全国組織・全国天満宮梅風会の活動です。

 愛知県岡崎市・岩津天満宮の服部宮司さんのリポートをもとに、活動の一端をお伝えします。


▽1 イスタンブールで大震災を知る

3月11日。トルコのイスタンブールで、震災発生のニュースを知った。研修旅行の最終日だった。お悔やみとお見舞いを申し上げる。

3月12日。NHK・BS放送が被害状況を次々に映し出している。同行する被災地の神職が気をもんでいる。

3月13日。帰国の便にはトルコのレスキュー隊が同乗していた。

3月14日。連日の報道で甚大な被害状況が分かってきた。とくに原発事故は被災者に追い打ちをかけている。マグニチュード9.0の大地震とすさまじい津波で日本の原発安全神話は崩れた。一刻も早く、収束に向けた対応を、官民一体で進めてほしい。

3月15日。神社界では復興支援のため、義援金が呼びかけられた。お宮でも社頭募金を開始させた。

 その夜遅く、富士宮市を震源とする震度6強の地震があった。当地は震度3だった。そのうち来るぞ、と思っていたところだった。

3月16日。陛下のビデオ・メッセージが発表された。陛下の「無私」のお心がひしひしと伝わってきた。

 被災地の盛岡では、親しくする神社の宮司さんが県内を駆け巡り、若い神職たちと支援物資を届ける準備を進めている。そのブログには言語を絶する光景が載っている。


▽2 被災地から切々たるメッセージ

3月19日。神社庁支部で伊勢神宮の大麻頒布終了奉告祭が行われたのに合わせ、震災復興の祈願祭が行われた。

 被災状況はメディアを通じて伝えられているが、どうしても間接的で、部分的でしかない。今すぐ現地へ行こうとも思うが、それもかなわないのはいたたまれない。

3月21日。春季皇霊祭の遥拝をすませると、境内で遅咲きの八重紅梅が満開なのに気づいた。心が安らぐひとときである。

3月23日。困窮する福島県の神社庁から切々たるメッセージが届いた。「県民は政府と県当局に対する不信感と怒りを極度に募らせております。県民の恐怖感と絶望感もまた極限に達しております」。

3月25日。神社の例祭をご奉仕した。大震災の復興を合わせて祈願した。

3月30日。被災地・宮城県気仙沼市の神職から葉書が届いた。ご無事で何よりだった。文面から陛下のお言葉が大きな力となっていると実感した。


▽3 短期間で集まった支援物資

3月31日。「新学期が始まるのにランドセルや文房具を失った子供たちがたくさんいる。天神様のご支援を願いたい」。被災地・岩手の神職からの依頼を受け、全国の天満宮が立ち上がった。8日までに届くようにしてほしいという。

4月2日。境内の桜が開花した。被災地の復興を祈った。

4月4日。大阪から突然、荷物が届いた。ブログを読んだ読者が支援物資を送ってくださったのだ。かわいらしい絵柄の色鉛筆だった。

4月5日。多くの方々から支援の学用品が届き、職員総出で仕分けが始まった。

4月6日。全国の天満宮の呼びかけで、短期間ながらたくさんの支援物資が集まった。

 ランドセル252個。
 鉛筆13,388本。
 色鉛筆1,503本。
 色鉛筆セット2,252セット。
 ノート2,221個など。

4月7日。早朝、お祓いのあと、トラックで神社を出発。名誉宮司が寒いなか、見送ってくれた。盛岡へ向けて、Y権禰宜と交替でハンドルを握る。

 穂高連峰、妙高山、磐梯山を眺めながら、夕刻、盛岡八幡宮に到着。職員の方々のお手伝いで、支援物資を参集殿に運んだ。

 その夜、震度6強の余震で、停電。ほとんど暗闇の寒い夜となった。


▽4 想像以上の風評被害

4月8日。信号の点いていない盛岡市内をおそるおそる走り、八幡宮へ。参拝後、F宮司に挨拶。被災状況などをうかがう。「沿岸では、高台にある神社は被害が少ないが、氏子は何もかにも津波で持って行かれた」。復興は長い道のりと実感した。

 昨夜の余震で東北自動車道の一部区間が通行止めになったので、国道4号線を南へひた走る。沿道の店はほとんど閉まり、コンビニには長蛇の列ができていた。ガソリンスタンドは停電のため休業。高速のPAでは給油待ちの車が10列ほども並んでいた。

 国道4号線も信号が点いていない。復旧工事で段差が無くなったのもつかの間、余震でふたたび段差が生じ、そのためどこもかしこも大渋滞である。

 夕刻、仙台を抜け、岩沼へ。午後7時半過ぎ、白石の鎌先温泉にたどり着いた。さすがに疲れた。岩沼、仙台のホテルは復興支援の滞在者でどこも満室だった。

4月9日。福島市の稲荷神社へ。T宮司から県内の状況を聞いた。浜通では神職も氏子も集団疎開の状態だという。風評被害も想像以上だった。支援の継続を約束した。

 磐梯から北陸道、中央道を通り、午後9時前、神社に帰着した。

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祈りの力について考える──東日本大震災から立ち上がるために [東日本大震災]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2011年4月6日)からの転載です


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祈りの力について考える
──東日本大震災から立ち上がるために
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▽1 おばあちゃんの祈り

♪トイレには、それはそれはキレイな女神様がいるんやで
 おばあちゃんがくれた言葉は、今日の私をべっぴんさんにしてくれてるかな

 植村花菜さんの歌「トイレの神様」には、孫娘の幸せを一途に思うおばあちゃんの優しい心情がつづられていて、感動的です。

 考えてみると、おばあちゃんというのは不思議な存在です。活発な経済活動をしているわけではまったくない、年金暮らしで、もしかしたら寝たきりかも知れない。しかし家族にとって、なくてはならない中心的存在です。

 おばあちゃんを家族の中心においているのは、この歌にも歌われている他者を思う思いやりの言葉、つまり祈りではないでしょうか。他者への思いや祈りには強権的政治力や圧倒的経済力に勝るとも劣らない、他者を精神的に支え、動かす大きな現実的力があります。

 祈りには重い心臓病を癒す効果さえあり、そのことは実験的に証明されている──アメリカの医師で医学学術情報誌の編集主幹を務めるラリー・ドッシー博士が、著書の『祈る心は、治る力』に紹介しています。

「130種以上の実験で、祈りや思いやり、共感、愛がさまざまな生物に健康上プラスの変化をもたらすことが統計学的に示されている。希望には治癒効果があり、絶望は命を奪う」というのです。

 植村さんが歌うおばあちゃんの祈りは、家族にとって、生きる力の源なのです。


▽2 今上陛下のビデオ・メッセージ

 日本の天皇は「祈る王」といわれます。キリスト教世界の王が絶対神に根拠をおく「地上の支配者」であるとのはまったく異なり、国と民のため、ひたすら祈る祭祀王です。

 皇祖天照大神はキリスト教の絶対神とは違って、神話のなかでは弱々しくさえ見えますが、けっして無力ではありません。むしろ逆です。世界最古の王朝が今日まで続いている理由は、祈りの力でこの国を治めてこられたからからでしょう。

 今上天皇は巨大地震発生の5日後、初のビデオ・メッセージを発表され、いたわり合いによる災害の克服と復興への決意を国民に直接、呼びかけられ、多くの国民の感動と勇気を与えました。悲しみや憂いをも共有しようとされる天皇の祈りは、犠牲者を慰め、被災者をいやし、日本を復興させる精神的出発点です。
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 天皇の公正かつ無私なる祈りと皇室に対する国民の信頼が続くかぎり、日本は新たな命を得、蘇ります。

 であればこそ、側近たちの偏見や原理主義的憲法解釈、官僚的先例主義によって簡略化された宮中祭祀の正常化を、私は心から願わずにはいられません。


▽3 平成の今泉定助

 歴史を振り返れば、90年前、大正12年の関東大震災のとき、今泉定助という神道思想家がいました。近代神道史上、もっとも大きな社会的影響力をもった神道思想家といわれます。震災当時は、伊勢神宮の崇敬団体・神宮奉斎会の会長でした。

 神宮奉斎会長としては焼失した日比谷大神宮の復興が当面の任務でした。しかし今泉は「目に見える神殿の建設より、国民精神の再建が急務である」と考え、退廃する人心をただす精神運動の先頭に立ちました。神宮大麻普及の啓発、門松・国旗の普及に努め、その結果、震災後のバラックの民家にも神棚がまつられるようになったと伝えられます。

 いま戦後最大の自然災害で、経済の萎縮が心配されています。冬の時代は当分続くのでしょう。冬は春を待つ祈りのときです。しかし冬の厳しさこそ、あたたかい春の前触れです。世界中の祈りは日本の春を待ち望んでいます。

 関東大震災後、東京復興を指導した後藤新平の名前はよく知られています。いま「平成の後藤新平、出でよ」という声が聞かれますが、もう1人、求められる「平成の今泉定助」は現れるでしょうか。


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抽象論に終始する復興準備──大震災発生から2週間の首相談話 [東日本大震災]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 抽象論に終始する復興準備──大震災発生から2週間の首相談話
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 東北地方太平洋沖地震発生から2週間がたち、菅首相は25日夕刻、記者会見で、国民への談話を発表しました。
http://www.kantei.go.jp/jp/kan/statement/201103/25message.html

 驚いたことに、大震災発生当日11日の記者会見以来、国民に向けた数回のメッセージで、18日の談話を唯一の例外として、亡くなった犠牲者へのお悔やみの言葉がありません。
http://www.kantei.go.jp/jp/kan/statement/201103/11kishahappyo.html

 死者・行方不明者が2万人を優に超え、戦後最悪の自然災害といわれる大震災なのに、です。国政のトップが犠牲者への哀悼の意をほとんど示さないというのは、信じがたい気がします。亡き人々への哀悼こそが復興への出発点であると、首相はお考えにならないのでしょうか。


▽1 復興を望みようがない

 さらに驚いたのは、復興への具体的政策が見当たらないことです。首相は(1)原発事故の収集と放射能汚染への対応、(2)被災者への支援と復興への本格的準備、の2点について全力を挙げている、と述べましたが、抽象論に終始しているように見えます。

 原発事故に関する説明は、冷却機能復旧、放射能汚染の影響と情報開示、農家などへの補償・支援の表明ですが、いずれも具体性に乏しく、将来に向けた大局的発想もうかがえません。被災者支援、復興準備については「地域全体、暮らし全体の再建が必要と考えている」「勇気をふるって歩んでいきたい」と評論や希望を述べているに過ぎません。

 大震災発生からすでに2週間が過ぎたのです。百年に一度の自然災害にも負けない国土建設を呼びかけ、そのための国家プロジェクトを具体的に立ち上げる段階に来ているのではないのでしょうか。

 被災者にとって大震災は現実です。政治も現実のはずです。ところが首相は観念論にとどまっています。一刻の猶予も許されないのに、これでは被災者の不安は増すばかりであり、震災復興は望みようがありません。


▽2 陛下のメッセージも聞こえない

 哲学者の上山春平が指摘したように、プラトンは君主制と民主制とを兼備していなければ善い国家とはいえないと述べ、アリストテレスは多くの国制が混合された国制ほど優れていると書いたのでした。

 日本では、摂関政治の始まり、武家政権の確立、建武の中興、封建制の確立など、数々の政治的変革を経験してきたにもかかわらず、古来、天皇の制度が世界に例を見ないほど長期的に継続しているのは、この望ましい混合体制が実現されてきたからでしょう。しかしいま、精神と権威の頂点である天皇と権力政治をになう議会との棲み分けがほとんどまったく機能していません。

 菅首相は昨年11月、議会開設120年記念式典の首相祝辞で、市民運動家の面目躍如というべきか、「わが国の議会制度は自由民権運動の高まりを背景の誕生した」と述べました。日本の近代議会制度の歴史が「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と宣言した、慶応4年の五箇条の御誓文に始まることを完全に見落としています。
http://www.kantei.go.jp/jp/kan/statement/201011/29syukuji.html

 近現代政治史に天皇が貢献した歴史が見えないとすれば、今上陛下が大震災発生の五日後に発表され、多くの国民に感動と勇気を与えた異例のビデオ・メッセージも、首相の耳には届かないでしょうし、陛下が述べられた「地域の復興の道のり」を現実に具体化する政治力は期待できないのでしょう。

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