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御成婚は「公事」と答弁した宮内庁次長  ──歴史的に考えるということ 9 [戦後皇室史]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2013年6月16日からの転載です


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 御成婚は「公事」と答弁した宮内庁次長
 ──歴史的に考えるということ 9
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 今上陛下が正田美智子さん(皇后陛下)と出会われたのは昭和32年8月といわれます。皇室会議で御結婚が可決されたのは翌33年11月、結婚の儀が行われたのは34年4月でした。

 国会で、皇太子(今上陛下)御成婚が「国事」か「私事」か、という議論が国会で行われたのは、御結婚話が大きな話題になっていた33年2月からでした。

 質問者の関心は、以前から繰り返されてきた、御成婚と恩赦との関連にありました。恩赦を期待して、公職選挙法に違反して事前運動する不心得者がいたからです。

「法律上根拠もない結婚式によって、国の刑罰請求権を消滅せしめる恩赦を発動することは、主権在民思想と全く背離した思想じゃなかろうか」(33年2月7日の衆議院法務委員会。猪俣浩三社会党議員)と指摘したのです。

 これに対して、3月10日の参議院予算委員会で、宇佐美毅宮内庁長官は「公のもの」と答弁し、岸信介首相は「私法上の関係だけではない」と補足し、御成婚は「私事」ではないという見解を示したことは、先般のメルマガでお話ししました。

 御成婚が「国事」か「私事」かという議論は、33年にはこの2件だけですが、このほかに「公事」か「私事」かという議論が行われています。


▽1 昭和33年4月4日の参議院内閣委員会

 まず、4月4日の参議院内閣委員会です。この日、皇室経済法施行法の一部改正が審議されていました。

 質問者は右派社会党の田畑金光議員で、瓜生順良宮内庁次長に対して、「皇太子の結婚は公事だとするのはどういう理由からか?」と質問しました。

 これに対して瓜生次長は、憲法に天皇の地位は世襲と定められている、御結婚によって世襲が可能になる、皇室会議の議を経ることにもなっている、御結婚に伴う祝宴は公的な性格を持っている、なかには私的なものもあると思うが、全体として公的なものが多いと考える、と答弁しました。

 田畑議員はさらに、祝宴は民間人にもあり得る、また皇室典範に基づいて皇室会議を経るということだけで公的性格を持つとするのはいまの皇室典範の精神から見て、無理がある、と反論します。

 瓜生次長は、祝宴には将来、皇太子、皇太子妃として行動なさる関係の必要上、国家的な立場で内外から招かれるのであり、公的なものと考えられる、と答弁します。

 すると、田畑議員は、皇太子であろうと民間人であろうと、地位に応じて生じる内容の違いである、現行憲法では、天皇や皇太子も公的生活と私的生活が区別されている、結婚は私事だとみるべきだ、公的性格が強いという見方は明治憲法、皇室典範の考え方である、公的な性格を強調すると恩赦の適用など重要な問題が起きてくる、と食い下がります。

 質疑応答はさらに続き、瓜生次長は、御結婚諸行事の主たる部分は公的行事なので宮廷費から支出され、そうでないものは内廷費でまかなわれる、と答弁します。

 他方、田畑議員は、内廷費は定額だから宮廷費に追加予算を要求せざるを得ないということに過ぎない、公事だとみるのは早計だ、国の予算に計上するのが公事だとすると皇室の生活には私生活がなくなってしまう、そういう解釈に立たない方がいまの憲法の建前から妥当だと考える、と反発します。

 瓜生次長は、国の予算が出るから公事だとは考えていない、内廷費は「日常の費用」であり、御結婚のための特別の費用は宮廷費でまかなわれる、とさらに答弁するのですが、田畑議員の質問がほかのテーマに移り、議論はそこで終わります。

 田畑議員と瓜生次長とのやりとりから分かるのは、次の5点です。

(1)3月10日の参議院予算委員会で宇佐美長官、岸首相が答弁したように、皇太子御成婚を全体的に公的性格があると判断した

(2)しかし3月10日の答弁とは異なり、諸行事を公的行事と私的行事とに分類した

(3)そのうえで公的行事は宮廷費から支出するとした

(4)3月10日の答弁と同様に、「国事」という表現が避けられている

(5)政教分離問題として議論されてはいない


▽2 破られていない「神事は私事」説

 問題は(2)です。

 結局、翌34年1月16日の閣議は、「結婚の儀」「朝見の儀」「宮中祝宴の儀」を「国の儀式」として行うことを決めました。

 一方、「納采の儀」や「告期の儀」、伊勢神宮、神武天皇山陵、大正天皇、貞明皇后山陵に「勅使発遣の儀」、皇太子の「賢所、皇霊殿、神殿に成約奉告の儀」、結婚式当日の宮中三殿への結婚奉告、両殿下の「皇霊殿、神殿に謁するの儀」、「供膳の儀」、「三箇夜餅の儀」、両殿下が伊勢神宮、神武天皇山陵、大正天皇、貞明皇后山陵に謁するの儀は、「国の儀式」とはされませんでした。

 政府が、諸儀式の主要な行事である、賢所大前で行われる「結婚の儀」について、公的性格を認め、公的行事とし、宮廷費からの支出を認めたことは、「天皇の祭祀は皇室の私事」とした占領期の法解釈を打ち破るものでした。

 けれども、同じ御結婚関連の諸行事を公的行事と私的行事に二分する基準が必ずしも明確とはいえません。

 瓜生次長は「内廷費は日常の費用」と説明していますが、「納采の儀」などの諸行事は日常の行事ではありませんから、矛盾は否めません。

 関連する祭祀のなかで、政府が「結婚の儀」のみを「国の儀式」としたのは、なぜなのか、はっきりしません。

 政府は、「神事は私事」とする法解釈を変更したわけではありません。

 実際、4日後の33年4月8日に開かれた、同じ参議院内閣委員会で、やはり田畑議員の質問に答え、瓜生次長は内廷費に関して説明するなかで、神事費について言及し「神事は公事ではありませんで、私事でございます」と明確に答弁しています。

 同じく宮中三殿で行われる神事なのに、皇太子同妃両殿下が結婚の誓をされる「結婚の儀」は「国の儀式」とされながら、皇太子殿下が宮中三殿に成約を奉告される「賢所皇霊殿神殿に成約奉告の儀」や、殿下に代って東宮侍従が結婚の儀を行うことを宮中三殿に奉告する「賢所皇霊殿神殿に結婚奉告の儀」は「国の儀式」とされない理由は、何だったのでしょうか?
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社会党議員が持ち出した「国事」「私事」の対比──歴史的に考えるということ 8 [戦後皇室史]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 社会党議員が持ち出した「国事」「私事」の対比
 ──歴史的に考えるということ 8
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▽1 皇太子殿下の御結婚から20年

 20年前の今日、皇太子殿下の「結婚の儀」が行われました。

 殿下は宮内庁を通じて、「月日のたつのは早いもので……」とご感想を発表されましたが、ご実感でしょう〈http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/kaiken/gokanso-h25-goseikon20.html〉。

 宮中三殿・賢所大前で行われる「結婚の儀」は、「朝見の儀」「宮中饗宴の儀」とともに、今上陛下の先例を踏襲して、「国の儀式」として行われました。

 平成5年4月13日の「朝日新聞」夕刊は、この日午前の閣議で決まり、16日の内閣告示で公示される、と伝えています。

 わが国唯一の「儀典と法律の総合ウェブページ」とされる中野文庫に、この内閣告示が載っています。


「皇太子結婚式における国の儀式について(平成5年内閣告示第1号)

一 皇太子徳仁親王殿下の結婚式における結婚の儀、朝見の儀及び宮中饗宴の儀は、国の儀式として行う。

二 結婚の儀、朝見の儀及び宮中饗宴の儀は、平成五年六月上・中旬を目途として、宮中において行う。

三 儀式の日時及び細目は、宮内庁長官が定める。」


 今上陛下のときは第2項が「二 右の諸儀を行う時期は、昭和三十四年四月中旬を目途とし、場所は、皇居とする」だったのを除き、まったく同文です。

 けれども、じつに対照的なことがありました。それは今上陛下の御成婚時とは異なり、皇太子殿下の御結婚では、新たな視点として、政教分離問題が浮かび上がったことです。


▽2 「私事」論を打破した今上天皇御成婚

 その議論の前に、もう一度、簡単に、宮中祭祀をめぐる戦後の歴史を振り返ってみます。

 昭和20年10月、アメリカ国務省のヴィンセント極東部長は対日占領政策を、ラジオ放送でアメリカ国民に説明し、「日本政府に指導され、強制された神道ならば廃止されるだろう」と述べました。

 同年暮れには、「宗教を国家から分離すること」を目的とする過酷な神道指令が発令されます。「(大祭は)天皇、皇族および官僚を率いてみずから祭典を行う」と定めていた皇室祭祀令は、「皇族および官僚を率いて」が削られるなど、変更を余儀なくされました。

 21年4月には、祭祀を担当する掌典職は官制廃止となり、職員は内廷費で雇われる天皇の私的使用人という立場になりました。公正かつ無私なる天皇の祭祀は「皇室の私事」と位置づけられることとなったのです。

 22年5月、日本国憲法の施行に伴い、皇室祭祀令など皇室令はすべて廃止されました。祭祀令に代わって祭祀存続の根拠となったのは、「従前の例に準じて、事務を処理すること」とする宮内府長官官房文書課長名による依命通牒でした。

 ところが、占領後期になると、占領軍は神道指令の解釈を、「宗教と国家の分離」から「宗教団体と国家の分離」に、変更します。「神道廃止」政策は採用されなくなり、24年11月には松平恒雄参議院議長の参議院葬が参議院公邸で、何よりも神道形式で行われました。

 さらに26年6月の貞明皇后大喪儀は、準国葬として行われました。旧皇室喪儀令に準じ、国費が支出され、国家機関が参与しました。

 このとき宮内庁の照会に対して、占領軍は、葬儀は宗教と無関係ではあり得ない、ご本人の宗教の形式で行っても憲法に違反しない、国費で支弁して差し支えない、と回答したと宮内庁職員が証言しています。

「神道の廃止」政策は採られなくなったものの、皇室の祭祀は公的性を奪われたままで、「私事」という位置づけを脱することはできなかったのでした。

 大きく変わったのが、今上陛下の御成婚でした。昭和34年4月、宮中三殿で行われる「結婚の儀」は「国の儀式」、すなわち天皇の国事に関する行為とされました。「宮中祭祀は皇室の私事」とする法解釈が破られたのです。


▽3 主権論の延長線上にあった議論

 正確にいうと、政府は「結婚の儀」「朝見の儀」「宮中祝宴の儀」を「国の儀式」として行うことを閣議決定しました。

 御成婚に関わる一連の諸儀式を全体として「国の儀式」としたわけではありません。旧皇室親族令に準じて行われていますが、名称が変更された儀式、不採用となった儀式もありました。

 また、政府の決定には「国事」という表現はありません。「国の儀式」とされなかった儀式は「皇室の私事」であるとする政府の資料もないようです。

 けれども、メディアは、「国の儀式」を「国事」と言い換え、それ以外は「私事」として行われる、「私事」は内廷費でまかなわれる、と報道したのでした。

 歴代天皇が天皇第一のお務めと信じ、実践してこられた宮中祭祀は、敗戦・占領によって「皇室の私事」に貶められ、こんどは「国の儀式」と「内廷の行事」という区分を飛び越えて、「国事」と「私事」とに色分けされることになったのです。

 なぜそのような議論が生まれることとなったのか、当時、政治の世界ではどのような議論が交わされていたのか、国会の議事録をひもといてみることにします。

「皇太子」「国事」をキーワードに、昭和33年から35年までの国会会議録を検索すると、16件がヒットします。

 33年は2件、34年は11件、35年は3件です。

 もっとも古いのは、33年2月7日の衆議院法務委員会でした。

 この日、最初に質問に立った猪俣浩三議員(社会党)は、皇太子御成婚と恩赦との関係について取り上げ、「皇太子の結婚式は法律上の国事なのか、皇室の私事なのか」「皇室中心主義の時代には皇室の私事と国家の行事とが混淆していたが、主権在民の憲法下では昔の恩赦の観念ではいけない」と政府に迫ったのでした。

「皇室の私事」か「国事」かという対比を持ち出したのは社会党議員で、議論は憲法の主権論の延長線上にありました。


▽4 「私法上の関係だけではない」と岸首相

 これに対して、亀岡康夫法制局参事官(第一部長)は、「非常に重要な問題であり、かつ難しい問題であると存じておる次第で、よく部内において協議いたしますと同時に、ただいま法制局長官が出席していないので、長官とも十分協議して、あらためてお答え申し上たいと存じます」と答えるにとどまっています。

 つまり、御成婚が「国事」か「皇室の私事」かという議論について、このころはまだ政府見解がはっきりと定まっていなかったことが分かります。

 この年、ふたたび皇太子御成婚「国事」問題が取り上げられたのは3月10日の参議院予算委員会で、質問したのは矢嶋三義議員(社会党)でした。

 答弁に立った宇佐美毅宮内庁長官は、「結婚ということは私法上の問題が原則でございますけれども、皇太子殿下の御結婚につきましては、公的機関であります皇室会議の議を経なければならないというような各種の点から、公のものと、ただいま考えておる次第でございます」と答えています。

 さらに、岸信介首相は「皇太子殿下の御結婚の問題につきましては、これをどういう形式でやるかということは、これは十分慎重に考えなければならぬと思います。将来、国の象徴たるべき方の御結婚でありますから、もちろん単純な私法上の関係だけだと見るわけには私は参らぬと思います」と補足します。

 つまり、皇太子御成婚は一般的な民法上の結婚とは性格が異なる、「私事」ではないことを重ねて説明しています。

 きわめて常識論的な議論は、御成婚全体についての見解であって、「国の儀式」と「皇室の行事」とに二分する考えが示されたわけではありませんでした。

 逆に、宮中祭祀に公的性があるという政府見解が示されたわけでもありませんでした。

 御成婚「国事」問題はこの年は、以上で終わり、国会の議論は翌年1月に政府が「結婚の儀」などを「国の儀式」として行うとした閣議決定後に持ち越されます。


 つづく。
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「国の儀式」を「国事」と言い換えて報道した大新聞  ──歴史的に考えるということ 7 [戦後皇室史]

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「国の儀式」を「国事」と言い換えて報道した大新聞
──歴史的に考えるということ 7
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 皇太子(今上陛下)御成婚について、続けます。

 まず、簡単におさらいします。

 昭和33年11月27日、皇室会議で皇太子殿下(今上陛下)と正田美智子さん(皇后陛下)の婚姻が承認されました。

 翌年34年1月14日、納采の儀が行われ、宮中三殿並びに伊勢神宮と畝傍山陵に奉告されました。

 2日後の1月16日、政府は結婚の儀、朝見の儀、宮中祝宴の儀を「国の儀式」として行うことを決めました。閣議の資料には「国事」という表現はありません。

 3月16日、告期の儀が行われました。

 4月10日、宮中三殿で結婚の儀が「国の儀式」として行われました。宮中祭祀は「皇室の私事」とされる占領期以来の法解釈がここに破られました。宮殿では朝見の儀が行われました。

 4月13日から3日間、宮中祝宴の儀が行われました。


▽1 占領時代の終わり、「政教分離」時代の始まり

 当メルマガが繰り返し述べてきたように、占領期以来、天皇の祭祀は「皇室の私事」とされました。祭祀に携わる掌典職は国家機関を離れ、職員は内廷費で雇われる私的使用人となりました。

 アメリカは「日本政府に指導され、強制された神道の廃止」を占領政策に掲げていました。占領後期になると、「神道の廃止」政策は変更され、神道形式による公葬が認められ、貞明皇后の大喪儀は準国葬として行われましたが、「皇室の私事」という位置づけを破ることはできませんでした。

 しかし独立回復から7年、賢所大前での皇太子殿下の結婚の儀は「国の儀式」とされ、ようやくにして「私事」から脱却することとなりました。

 ただ、御成婚に関する一連の行事が全体として「国の行事」とされたわけではありません。全体を「国事」としたわけでもありません。

 閣議の資料では、「国の儀式」とされた3つの儀式について、「日本国憲法第七条の儀式に関するもの」とされ、「天皇の国事に関する行為」の1つとしての「儀式」として扱われたのでした。

 第2に、当時、宮内庁が旧皇室親族令を比較参照する資料を作成していることは、「従前の例に準じて」とする依命通牒(昭和22年5月)に従って、事務を執り行っていたことを想像させます。

 けれども、「国の儀式」とされた「結婚の儀」は、旧皇室親族令附式事項にある「妃氏入宮の儀」「賢所大前の儀」を併せて、新しく称したもので、「朝見の儀」は「参内朝見の儀」の、「宮中祝宴の儀」は「宮中饗宴の儀」の名称変更でした。

 また、「勲章を賜うの儀」「贈剣の儀」「贈書の儀」は採用されなかったようです。

 つまり、宮中三殿での神道的儀礼が「国の儀式」として、天皇の国事行為として行われたことは画期的でしたが、一方で、一連の儀式を「国の儀式」とそうでないものとに二分し、名称を変更し、一部の儀式については旧例を踏襲しなかったことはその後に影響を与えずにはおかなかったものと思われます。

 昭和から平成への御代替わりでは、政府は「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」とを対立的にとらえ、皇室の伝統行事を伝統のままに行うことが憲法の「政教分離」原則に反するとして、国の行事と皇室行事とを二分し、宗教的用語や宗教的儀礼が採用されませんでした。

 その基準はもちろん「政教分離」原則でした。

 皇太子御成婚は「宮中祭祀は皇室の私事」とする占領時代の終わりであると同時に、天皇の祭祀を非宗教化する「政教分離」時代の先駆けのように、私には見えます。


▽2 昭和34年1月16日の「朝日新聞」夕刊

 もうひとつ指摘したいのは、「国事」という表現に関する混乱です。

 政府が決めたのは「国の儀式」でした。しかし、マスメディアは「国事」と言い換え、報道したのでした。

 昭和34年1月16日の「朝日新聞」夕刊は、1面トップで、「皇太子さまの結婚式 4月中旬に皇居で 『3儀式』だけが国事」と伝えています。

 また、リードは「皇太子明仁親王殿下の結婚式における『結婚の儀』『朝見の儀』および『宮中祝宴の議』は、国の儀式として行う」と閣議決定がほぼそのまま引用されていますが、記事本文には、閣議決定にはない「国事」の用語が、以下のように数回、使われています。

「ご婚儀の日取りや運びなどについて、宮内庁は宇佐美長官を委員長とする『ご婚儀委員会』で検討していたが、結婚式の諸儀式のうちどの項目を国事とするか、それによって予算措置も異なってくるし、また日取りも参議院選挙、地方選挙その他植樹祭、天皇誕生日など皇室行事のからみ合いもあって、婚約発表後早急には結論が出せなかった」

「いまの両陛下(昭和天皇・香淳皇后)の場合はご婚儀行事はすべて国事として行われたが、こんどは『結婚の儀』『朝見の儀』『宮中祝宴の儀』の三つだけを国事とし、婚約期間中の『納采の儀』『告期の儀』、伊勢神宮、神武天皇山陵、大正天皇、貞明皇后山陵に『勅使発遣の儀』、皇太子の『賢所、皇霊殿、神殿に成約奉告の儀』をはじめ、結婚式当日の宮中三殿への結婚奉告、お二人が『皇霊殿、神殿に謁するの儀』や『供膳の儀』、その後の『三箇夜餅の儀』、お二人がそろってお出かけなる伊勢神宮、神武天皇山陵、大正天皇、貞明皇后山陵に謁するの儀はすべて私事とした」

「したがって予算措置も各界代表者約三千人を招いて結婚式の翌日から三日間開かれる『宮中祝宴』を中心に国事関係費は約二千万円を計上、私事関係費は天皇家の生計費(年額五千万円)である内廷費でまかなわれる。こんどのご婚儀について宮内庁では国事、私事の諸儀式とも簡素化の基本方針をとり、贈剣、贈書、贈勲の諸儀式は取止め、ご婚儀費用は全部で三、四千万円にとどめたい、といっている」


▽3 異なるニュアンス

 この記事からうかがえるのは、昭和から平成への御代替わりとは異なり、当時の政府は予算措置について神経をとがらせていたらしいことです。予算軽減のため簡素化が求められ、一部の儀式が取り止められたのもそのためだったようです。

 もうひとつ、「国事」についてですが、政府は「国の儀式」=天皇の「国事に関する行為」の1つとしての儀式という位置づけですが、朝日の記事にある「国事」はこれとはニュアンスが異なります。

 朝日の記事が、昭和天皇のご婚儀はすべて「国事」として行われた、と解説しているのは、当然、「国事行為」ではありません。昭和天皇と香淳皇后のご婚儀は明治憲法下の大正13年だからです。

 朝日がいう「国事」とは、一般的な意味での「国家に関係する事柄」でもないものと思われます。皇位継承順位第1位にある天皇の第一皇子の御結婚が国家的な事柄でないはずはないからです。

 朝日の記事にある「国事」の尺度は、予算措置に関わることで、「国の儀式」=「国事」なら国が主催し、国の予算でまかなわれ、それ以外は内廷費から支弁されるという解釈なのでしょう。

 しかし「国の儀式」=「国事」以外はすべて「私事」とする、非常に窮屈な理解は、宮内庁関係者に取材から得られたものなのだったかどうか?

 最後に蛇足ながら補足します。

 平成5年6月の皇太子殿下の御成婚からまもなく20年になります。同年4月13日の「朝日新聞」夕刊は、「結婚の儀」「朝見の儀」「宮中饗宴の儀」が国の儀式とされ、国費で行われることが、この日午前の閣議で決まったと伝えています。

 先例が踏襲されたのですが、記事の扱いは2面のベタ記事でした。


 つづく。
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「国の儀式」とされた今上陛下「結婚の儀」──歴史的に考えるということ 6 [戦後皇室史]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2013年5月19日)からの転載です


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「国の儀式」とされた今上陛下「結婚の儀」
──歴史的に考えるということ 6
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 新たな情報を盛り込みながら、戦前・戦中から皇太子(今上天皇)御成婚までの歴史をあらためて振り返ります。

 アメリカは戦時中から、「国家神道」こそが「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉で、靖国神社がその中心施設であり、教育勅語が聖典だと考えたようです。

 なぜそう考えたのか?


▽1 海外神社、「国体の本義」、靖国神社、教育勅語

 明治以降、日本人が住む外地には、台湾神宮(明治34年)、樺太神社(明治44年創建)、朝鮮神宮(大正14年創建)、南洋神社(昭和15年創建)、関東神宮(昭和19年創建)など、多くの神社が建てられました。

 昭和12年に文部省がまとめた「国体の本義」には、「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である」とありました。

 東条内閣は、宮内省の官僚が唱えた、天照大神以前の神々を否定し、天照大神信仰に統一する官僚的な合理主義的神道論を正統とする神道論を打ち立てています。

 朝日新聞は戦時中、「戦争美術展覧会」「聖戦美術展」「大東亜戦争美術展」「陸軍美術展」など、国民の戦意を高揚させるイベントをいくつも手がけました(『朝日新聞社史』)。

 昭和14年1月には靖国神社を主な会場とする「戦車大展覧会」を、陸軍省の後援で主催し、戦車150台を連ねた「大行進」が東京市中をパレードしたことさえあります。

 明治23(1891)年秋に発布された教育勅語は、学校の式日などに奉読することとされ、昭和になると奉安殿の建設が促進されました。教育勅語の1節、「これを中外に施してもとらず」は「わが国で実践しても、外国で実践しても道理に反しない」と理解されてきました。


▽2 神道指令の発令。教育勅語の非神聖化

 もともと日本の神道は血縁共同体や地域共同体の信仰であり、布教の概念がありません。全体的に統一的な教義もありません。世界宣教などあり得ません。

 戦前、長期にわたり靖国神社の宮司を務めた賀茂百樹は「神ながらの武備は戦争のための武備ではない。戦争を未然に防止し、平和を保障するのが最上である」(「私の安心立命」昭和9年)と平和を訴えています。

 けれども、「あなたには私のほかに神があってはならない」「全世界に行って、福音を述べ伝えなさい」と教えるキリスト教に絶対神と救世主イエスがあり、聖書があり、教会があるように、日本の「国家神道」には天照大神と天皇、教育勅語、靖国神社がある、とアメリカ人には見えたのでしょうか?

 ポツダム宣言には「軍国主義」が世界から駆逐されるべきことが主張されています。「軍国主義者」が日本国民を欺き、世界征服の野望を推し進めたという理解です。アメリカ国務省が「神道の廃止」を戦略政策に掲げ、占領軍が「神道、神社は撲滅せよ」と叫び、靖国神社の「焼却」が噂されたのはその結果でしょう。

 昭和20年10月、最高司令官マッカーサーの覚書に対して、上智大学のビッテル神父が「靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源であるというなら、排除すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。いかなる宗教を信仰するものであれ、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊を祀られるようにすることを進言する」と答申し、靖国神社はひとまず守られました。

 しかし、12月15日、「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の禁止に関する件」という長い表題の付いた日本政府への覚書、いわゆる神道指令が発令され、国鉄の駅に飾られた門松や注連縄をも撤去させられるなど、神道的な宗教慣例が禁止されました。

 12月28日には宗教法人例が公布・施行され、靖国神社は国家管理を離れて、宗教法人となりました。

 他方、教育勅語は、翌21年10月、文部省が奉読と神聖的取り扱いの停止を通達し、日本国憲法施行後の23年6月には排除、失効確認の国会決議がなされました。


▽3 宮中祭祀を存続させた依命通牒第3項

 ところが、占領後期になると、GHQの政策は変わります。「神道の廃止」は採用されなくなり、神道指令の「宗教と国家との分離」は「宗教団体と国家の分離」に解釈が変更されます。

 22年5月に日本国憲法が施行されますが、24年11月には松平恒雄参議院議長の参議院葬が参議院公邸で行われ、26年6月の貞明皇后が大喪儀は旧皇室喪儀令に準じて、準国葬として行われ、国費が支出され、国家機関が参与しました。10月には吉田茂首相が靖国神社に参拝することも認められています。

 占領軍内部の神道研究が進み、みずからの「国家神道」理解を修正せざるを得なくなったものと推測できます。20年11月の靖国神社の臨時大招魂祭に参列したCIE部長のダイク准将らが「荘厳で良かった」と感激したくらいですから。

 翌27年4月の平和条約の発効で、日本は独立を回復し、神道指令も失効しました。けれども、靖国神社は民間施設にとどまりました。

 宮中祭祀も「皇室の私事」から脱することができませんでした。

 祭祀をつかさどる掌典職は21年4月に官制廃止となり、天皇の祭祀の法的根拠である皇室祭祀令は22年5月、日本国憲法の施行に伴い、廃止されました。また、皇祖神を祀り、私幣禁断の社である伊勢神宮は宗教法人となりました。

 皇室祭祀令に代わって、祭祀が存続した根拠はむろん、「皇室令及び附属法令廃止に伴い事務取扱に関する通牒(昭和二十二年五月三日宮内府長官官房文書課発第四五号依命通牒)」でした。


▽4 国会図書館が所蔵する唯一の『宮内府関係法令集』

 国立国会図書館に、依命通牒が掲載された、当時の『宮内府関係法令集』が所蔵されています。

 同図書館に納本されている唯一の『宮内府関係法令集』で、深い緑色の固い表紙に複写禁止を示す「×複写」の紙片が張られ、背表紙に「宮内府関係法令集 昭和22年12月4日現在」と表記されています。厚さは4センチ弱で、全部で四百数十ページ。各ページの紙は変色して赤茶けています。

「はしがき」には、「一、この法令集は、昭和二十二年五月三日現行の法令のうち、宮内府の事務に必要なものを選んで収録した。二、この法令集の第一部には、皇室及び宮内府に関する法令を、第二部にはその他の法令を掲げた」などと記され、最後に「昭和二十二年五月 宮内府長官官房文書課」とあります。

「目次」を見ると、「第一部」に「日本国憲法」「日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律」「日本国憲法施行の際現に効力を有する勅令の規定の効力等に関する政令」「皇室典範」「皇統譜令」などが並び、20本の法令のうち17番目に、「皇室令及び附属法令廃止に伴い事務取扱に関する通牒(昭和二十二年五月三日宮内府長官官房文書課発第四五号依命通牒)」が載っています。

「奥付」には「昭和廿二年七月五日 印刷納本 宮内府關係法令集(第一分冊)」「非売品」とあります。

 依命通牒の第3項には「從前の規定が廢止となり、新らしい規定ができていないものは、從前の例に準じて、事務を處理すること。(例、皇室諸制典の附式皇族の班位等)」と明記されています。

 皇室祭祀令の廃止後も宮中祭祀が存続できたのは、この依命通牒があるからです。皇室喪儀令が廃止されたにもかかわらず、貞明皇后の大喪儀が喪儀令に準じて斎行されたのは第3項があるからです。

 もうひとつ、指摘したいのは、依命通牒が「法令集」に掲載されているのは、「昭和二十二年五月三日現行の法令のうち、宮内府の事務に必要なもの」として選ばれたということです。

 なお、国会図書館には、現行の『宮内庁関係法規集』が「平成19年11月1日現在」版から「平成24年11月1日現在」版まで、計6冊、所蔵されていますが、これらには依命通牒は掲載されていません。

 宮内庁HPに掲載されている「関係法令」も同様です〈http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/kunaicho/hourei.html〉。

 いつの間にか、消えたのです。


▽5 克服できなかった「祭祀は皇室の私事」

 結局、占領中は「宮中祭祀は皇室の私事」とする法的位置づけを修正することはできませんでした。

 昭和35年1月、内閣の憲法調査会第三委員会で、宮内庁の高尾亮一・造営部長は次のように証言しています。

「当時、占領下にありましたので、占領軍ともその点について打ち合わせを致しました。ところが、占領末期のせいもありましたが、占領軍は、喪儀については、宗教と結びつかないものはちょっと考えられない。そうすれば国の経費であっても、ご本人の宗教でやってかまわない。それは憲法に抵触しない、といわれました。貞明皇后の信仰が神道であったならば、神道でやり、国の行事として、国の経費をもって支弁していっこう差し支えない、という解釈を下したことがございます」

 過酷な圧迫の時代は去ったけれども、宮中祭祀は私的信仰として認められるという占領期の限界が見てとれます。

 もう1点、忘れないうちに指摘しておきたいのは、占領期という特殊な状況下でさえ、依命通牒第3項によって宮中祭祀が存続し、貞明皇后大喪儀が斎行されたのに、昭和から平成への御代替わりでは素直に依命通牒に従い、旧皇室令に準じて行うことができなかったことです。

 平成3年4月25日の参院内閣委員会で宮内庁の宮尾盤次長は、「(依命通牒は)現在まで廃止の手続はとっておりません」と答弁していますから、依命通牒第3項は生きていることになります。

 ところが、生かされていないのです。なぜでしょうか? どこかにウソがあります。


▽6 公文書館が公開する資料

 さて、敗戦・占領・独立を経て、宮中祭祀は大きな節目を迎えます。皇太子(今上天皇)御成婚です。画期的なことに、賢所大前での神事を含め、政府はこれを「国事」としたとされます。

 宮内庁のHPには「皇太子明仁親王殿下のご結婚の儀式は、昭和34年4月、皇居において行われました。結婚の儀・朝見の儀は同月10日、宮中祝宴の儀は同月13日から3日間、それぞれ国事行為たる儀式として行われたのをはじめ、これを中心として一連の儀式・行事が行われました」とありますが、もう少しくわしく見てみます。

 昭和33年11月27日、仮宮殿で皇室会議が開かれ、皇太子殿下(今上陛下)と正田美智子さん(いまの皇后陛下)との婚姻が承認され、同日、宇佐美毅宮内庁長官は記者会見で婚約を発表しました。

 翌年34年1月12日に勅使発遣の儀が行われ、同14日には正田邸で納采の儀があり、同日、皇太子殿下は宮中三殿に成約を奉告され、同時に、伊勢神宮と畝傍山陵で奉告の儀が行われました。

 2日後の1月16日、政府は「国の儀式」として、結婚の儀、朝見の儀、宮中祝宴の儀を行うことを決定しました。

 3月16日に正田邸で告期の儀が行われました。

 4月10日に宮中三殿で結婚奉告の儀、さらに賢所大前で結婚の儀、宮殿で朝見の儀などがあり、4月13日から3日間、宮中祝宴の儀が行われました。

 国立公文書館は21年の秋に、天皇陛下御在位20年慶祝行事の一環で、特別展示会を開催しました。いまも公文書館のHPには再構成された「デジタル展示」が掲載され、このなかに御結婚の儀を国の儀式として行うことを決めた文書もあります〈http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/gozaii/〉。


▽7 上奏文書に「国の儀式」

 以下、デジタル文書館の資料をできるだけ忠実に再現したいと思います。事実として、何が起きたのか、考えたいからです。

 資料は4点あります。

 1点目は、岸総理から昭和天皇への上奏文書で、内閣の事務用箋に筆文字で、以下のように書かれ、昭和天皇が承認されたことを示す、赤い印が押されているのがうっすらと見えます。

 皇太子結婚式における国の儀式について
右慎んで裁可を仰ぐ。

 昭和三十四年一月十六日
   内閣総理大臣 岸 信介(内閣総理大臣印)


 2点目は、閣議の資料です。やはり筆文字です。

総甲第一号 起案昭和三十四年一月十四日 閣議決定昭和三十四年一月十六日
                    上奏昭和三十四年一月十六日
                    御下付(朱印)昭和〃年一月十六日

 内閣総理大臣(花押) 内閣官房長官(花押) 内閣参事官(朱印)
             法制局長官
              内閣官房副長官(朱印)

愛知国務大臣(花押) 坂田国務大臣(花押) 寺尾国務大臣(花押) 伊能国務大臣(花押)
藤山国務大臣     三浦国務大臣(花押) 倉石国務大臣    世耕国務大臣(花押)
佐藤国務大臣(花押) 高碕国務大臣(花押) 遠藤国務大臣(花押) 山口国務大臣(花押)
橋本国務大臣(花押) 永野国務大臣(花押) 青木国務大臣(花押)

別紙内閣総理大臣請議
 皇太子結婚式における国の儀式について

右閣議に供する。
 なお、本件は日本国憲法第七条の儀式に関するものであるので、閣議決定の上は、上奏することといたしたい。

    指 令 案

「皇太子結婚式における国の儀式について」は、請議のとおり。


 3点目は、宮内庁の資料のようで、宮内庁事務用箋に仮名タイプで記されています。

  皇太子結婚式における国の儀式について

一 皇太子明仁親王殿下の結婚式における結婚の儀、朝見の儀及び宮中祝宴の議は、国の儀式として行う。

二 右の諸儀を行う時期は、昭和三十四年四月中旬を目途とし、場所は、皇居とする。

三 儀式の日時及び細目は、宮内庁長官が定める。


 最後は参考資料です。資料は2つで、1つは儀式一覧表で、もうひとつは参照される条文です。事務用箋ではなく、資料1はわら半紙にペン書きされ、資料2は仮名タイプです。資料1は結婚の儀の期日が抜けていますので、期日が決定される前に作成されたものと考えられます。

資料一
  皇太子明仁親王殿下の結婚儀式一覧

  挙 行 案             旧皇室親族令附式事項
 諸儀名  説明  期日

一 成約
 1 神宮神武天皇大正天皇貞明皇后山陵に勅使発遣の儀 天皇が神宮山陵に成約報告のため、お使を命ぜられる。 昭和三十四年一月十二日 神宮神武天皇先帝先后山陵に勅使発遣の儀

 2 納采の儀 皇太子のお使が后となる方の邸に至って、いわゆる結納を行う。 一月十四日 納采の儀

 3 賢所皇霊殿神殿に成約奉告の儀 皇太子が宮中三殿に成約を奉告される。 同日 賢所皇霊殿神殿に成約奉告の儀

 4 神宮神武天皇大正天皇貞明皇后山陵に奉幣の儀 天皇のお使が神宮山陵に御幣物を奉り、成約を奉告する。 同日 神宮神武天皇先帝先后山陵に奉幣の儀

               勲章を賜うの儀

               贈剣の儀

二 告期の儀 天皇のお使が結婚の儀を行う期日を后となる方に伝える。 結婚の儀の約二週間前 告期の儀

               贈書の儀

三 結婚諸儀
   賢所皇霊殿神殿に結婚奉告の儀 皇太子に代って東宮侍従が結婚の儀を行うことを宮中三殿に奉告する。  月 日 賢所皇霊殿神殿に結婚奉告の儀

○2 結婚の儀 皇太子、同妃が結婚の誓をされる。 同日 后氏入宮の儀

                            賢所大前の儀

 3 皇霊殿神殿に謁するの儀 皇太子同妃が皇霊殿神殿に結婚を奉告される。 同日 皇霊殿神殿に謁するの儀

   (皇太子妃に勲章を賜う)   同日

○4 朝見の儀 皇太子同妃が天皇皇后にあいさつをされる。 同日 参内朝見の儀

 5 供膳の儀 皇太子同妃が初めてお膳を共にされる。 同日 供膳の儀

 6 三箇夜餅の儀 皇太子同妃にお祝いの餅を供する。 同日から三日間 三箇夜餅の儀

○7 宮中祝宴の儀 皇太子同妃の結婚御披露の祝宴 約三日間 宮中饗宴の儀

四 神宮神武天皇大正天皇貞明皇后山陵に謁するの儀 皇太子同妃が神宮山陵に結婚を奉告される。 結婚の儀後適宜の月日 神宮神武天皇並びに先帝先后山陵に謁するの儀

備考 ○印は国の儀式として行うものを示す。


資料二

   参照条文

  日本国憲法

第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。

 十 儀式を行ふこと。


▽8 政府の資料に「国事」はない

 以上の資料によれば、巷間、賢所大前の儀を含めて、皇太子御成婚は「国事」とされたといわれているのは、結婚式の諸儀式のうち、結婚の儀、朝見の儀および宮中祝宴の儀が「国の儀式」として行われたことを意味していることが分かります。

 つまり、政府の資料には「国事」という表現はありません。閣議の資料には「憲法第7条の儀式に関する」とありますから、天皇の国事に関する行為の1つとしての「儀式」であり、「国の行事」としての儀式=「天皇の国事行為」としての儀式と考えられていることが想像されます。

 宮内庁のHPが「国事行為たる儀式」と記述しているのは、そのためでしょう。

 ともかく、占領期以来、祭祀は「皇室の私事」とされてきたことからすれば、賢所大前での結婚の儀が、「国の行事」とされたことは時代を画するものでした。

 また、皇室親族令に準じて行われているのは、依命通牒第3項に沿ったものと思われます。

 ただ、惜しむらくは、皇太子御成婚の全体が「国の行事」とされず、諸行事が因数分解され、「国の行事」とそうでないものとに二分されたことです。

 のちに昭和から平成への御代替わり当時、政府が、「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」とを対立的にとらえ、皇室の伝統行事を伝統のままに行うことが憲法の「政教分離」原則に反するとして、国の行事と皇室行事とを二分し、挙行したことの先駆けのように見えます。

 皇太子御成婚は、占領期にゆがめられた宮中祭祀を、正常化に向けて大きく前進させたはずなのに、逆にその後の揺り戻しの出発点ともなっているようにも思えます。

 そして、実際、この10年後、揺り戻しは祭祀簡略化という形で、起きたのでした。敗戦・占領という苦難の時代に宮中祭祀の命綱となった依命通牒が、側近中の側近の手で反故にされたのです。


つづく。
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「準国葬」貞明皇后大喪儀から「国事」皇太子御成婚まで──歴史的に考えるということ 5 [戦後皇室史]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2013年5月12日)からの転載です


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「準国葬」貞明皇后大喪儀から「国事」皇太子御成婚まで
──歴史的に考えるということ 5
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 先週は、占領直後の昭和20年暮れに発令された、「宗教を国家から分離すること」を目的とする、いわゆる神道指令の解釈が、占領後期になると「宗教教団と国家の分離」に解釈変更されたというお話をしました。

 その結果、26年の貞明皇后の大喪儀も準国葬として、旧皇室喪儀令に準じて行われ、国費が支出され、国家機関が参与しました。

 小嶋和司東北大学教授(憲法学。故人)が『小嶋和司憲法論集3 憲法解釈の諸問題』に書いているように、20年末には東京駅に飾られた門松や注連縄までが撤去されるほど厳格でしたから、わずか数年で様変わりしたのです。

 その背景には、アメリカによる神道研究が進み、「国家神道」観が変化し、修正されたのだろうと推測されますが、実際に占領軍がどのような経緯で神道指令の解釈変更をしたのかは大きな謎で、GHQの文書を洗い直す今後の実証研究に期待するほかはありません。


▽1 「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉

 簡単におさらいすると、アメリカは戦争中から「国家神道」こそが「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉で、靖国神社がその中心施設であり、教育勅語が聖典だと考えていたようです。

 靖国神社は明治2(1869)年に建てられた東京招魂社が始まりで、12年に靖国神社と改称され、別格官幣社に列せられました。一般の神社とは異なり、陸海軍が管轄しました。

「靖国」という社号は明治天皇の命名によるもので、「平和な国家を建設する」という願いが込められています。同社の祭神は、国の非常時にかけがえのない一命を捧げたというただ一点において、祀られています。

 しかし、たとえば昭和14(1939)年1月、東京朝日新聞は、陸軍省の後援で、靖国神社の外苑を主な会場とする「戦車大展覧会」を主催しました。戦車150台を連ねて東京市中をパレードする「大行進」や陸軍の専門家の「大講演会」も開催されました。

 靖国神社を「軍国主義」の教会として演出した勢力がたしかに存在したのです。

 他方、明治23年秋に発布された教育勅語は、その翌日に文部大臣が、学校の式日に勅語を奉体することなどを訓示し、翌年には紀元節や元始祭などに学校で儀式を行い、教育勅語を奉読することなどが決められました。

 教育勅語それ自体は「罪のない有害とも思えない文書」(CIE[民間情報教育局]職員R・K・ホール少佐)でしたが、「これを中外に施してもとらず」の一句は「わが国で実践しても、外国で実践しても道理に反しない」と解釈され、しかも神聖化されたことで、あたかも世界宣教、世界征服の意図があるかのように受け取られたようです。


▽2 世界征服を企てた軍国主義者の追放

 昭和20年8月、日本はポツダム宣言を受け入れ、戦争は終わりました。

 同宣言には「吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ」とありました。

 軍国主義者が日本国民を欺き、世界征服の野望を推し進めた、という理解がはっきりと示されています。

 戦時国際法は占領軍が被占領国の宗教に干渉することを禁じています。またポツダム宣言自身、「言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」と謳っています。

 にもかかわらず、占領軍はいわゆる神道指令、すなわち「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」と題する覚書を発したのです。国家神道が軍国主義の源泉であるなら、軍国主義者たちを世界から永久追放するには必要だったということでしょう。

 アメリカ国務省は「神道の廃止」を占領政策の基本に掲げ、CIEの大勢は「神道、神社は撲滅せよ」と強硬で、靖国神社の「焼却」が噂になっていました。

 けれども、ビッテル神父の「靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源であるというなら、排除すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。いかなる宗教を信仰するものであれ、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊を祀られるようにすることを進言する」というマッカーサーへの回答で、靖国神社はひとまず守られました。

 20年11月、臨時大招魂祭が斎行され、昭和天皇が行幸になります。そして、参列したCIE部長のダイク准将らは「荘厳で良かった」と感激します。職員が一兵卒として応召したことも分かりました。世界征服の中心施設ではなかったことが判明したのです。

 しかし同12月、神道指令が発令されます。靖国神社は国家管理を離れ、宗教法人化せざるを得なくなります。他方、教育勅語ですが、文部省は21年10月、奉読と神聖的取り扱いの停止を通達し、日本国憲法施行後の23年6月には排除、失効確認の国会決議がなされています。


▽3 掌典職官制の廃止

 さて、宮中祭祀です。

 昭和20年12月の神道指令の発令を受け、明治41年9月に制定公布され、大祭は「天皇、皇族および官僚を率いてみずから祭典を行う」、小祭は「天皇、皇族および官僚を率いてみずから拝礼し、掌典長祭典を行う」と定めていた皇室祭祀令は、「皇族および官僚を率いて」が削られるとともに、皇室祭祀令に規定する官国幣社の祈年祭、新嘗祭班幣の項も削除されました。

 そして22年5月3日、日本国憲法が施行される前日、皇室祭祀令など皇室令のすべてが廃止され、天皇の祭祀の明文法的根拠は失われました。

 けれども、祭祀令に代わって、同日付の宮内府長官官房文書課発第45号、各部局長官宛の依命通牒が発せられ、宮中祭祀は存続しました。

 依命通牒第3項には「從前の規定が廢止となり、新らしい規定ができていないものは、從前の例に準じて、事務を處理すること。(例、皇室諸制典の附式皇族の班位等)」と記されています。

 この日、明治以来の宮内省は大機構改革によって宮内府となり、内閣総理大臣所轄の機関となりました。終戦時6000人を超えていた職員は宮内府発足とともに1500人弱に激減したと宮内庁HPに記されています〈http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/kunaicho/enkaku.html〉。

 天皇の祭祀をつかさどる掌典職はすでに前年4月に官制廃止となっていました。国家機関ではなくなり、職員は内廷費で直接、雇われる天皇の私的使用人と位置づけられることとなったのです。

 公正かつ無私なる天皇の祭りが、「皇室の私事」とされたのでしたが、異議申し立てはできません。それほど、神道指令は苛烈だったのです。


▽4 準国葬として行われた貞明皇后大喪儀

 ところが、占領後期になって、占領軍は神道指令の解釈を「宗教と国家との分離」から「宗教団体と国家の分離」に変更します。

 24年11月には、松平恒雄参議院議長の参議院葬が参議院公邸で行われるのですが、占領軍が毛嫌いしたはずの神道形式でした。占領軍はもはや「神道廃止」政策を採らなくなっていたのです。

 GHQ職員による、はっきりとした証言があります。

 26年5月、貞明皇后が崩御になり、6月に大喪儀が準国葬として行われました。旧皇室喪儀令に準じ、国費が支出され、国家機関が参与しました。

 斂葬当日の22日、全国の学校で「黙祷」が捧げられます。政府は、斂葬当日に官庁等が弔意を表することを閣議決定し、文部省は「哀悼の意を表するため黙祷をするのが望ましい」旨、次官通牒を発しました。

 その数日後、アメリカ人宣教師の投書がニッポン・タイムズ(現ジャパン・タイムズ)の読者欄に載ります。「日本の学校で戦前の国家宗教への忌まわしい回帰が起きた。生徒たちは皇后陛下の御霊に黙祷を捧げることを命令された。キリストに背くことを拒否した子供たちはさらし者にされた」。新聞紙上で宗教論争が始まりました。

 黙祷は私立校では対象外で、しかも通牒には宗教儀式の不採用、社寺不参拝が明記されており、「命令」でも「宗教儀式の強制」でもありませんでしたが、宣教師らは文部当局の説明に納得しませんでした。

 そしてサンフランシスコ平和条約調印日にふたたび学校で「黙祷」「宮城遥拝」が実施されると、「また命令された。新憲法は宗教儀式の強制を許すのか」と再抗議し、紙上論争は10月半ばまで続きました。

 ところが、GHQは宣教師たちの反神道的立場をけっして擁護しませんでした。占領中の宗教政策を担当した同職員のW・P・ウッダードは、のちに回想しています。

「神道指令は(占領中の)いまなお有効だが、『本指令の目的は宗教を国家から分離することである』という語句は、現在は『宗教教団』と国家の分離を意味するものと解されている。『宗教』という語を用いることは昭和20年の状況からすれば無理のないところであるが、現状では文字通りの解釈は同指令の趣旨に合わない」(ウッダード「宗教と教育──占領軍の政策と処置批判」)

 貞明皇后の大喪儀が準国葬として行われた事情を、昭和35年1月、内閣の憲法調査会第三委員会で、宮内庁の高尾亮一・造営部長は次のように証言しています。

「当時、占領下にありましたので、占領軍ともその点について打ち合わせを致しました。ところが、占領末期のせいもありましたが、占領軍は、喪儀については、宗教と結びつかないものはちょっと考えられない。そうすれば国の経費であっても、ご本人の宗教でやってかまわない。それは憲法に抵触しない、といわれました。貞明皇后の信仰が神道であったならば、神道でやり、国の行事として、国の経費をもって支弁していっこう差し支えない、という解釈を下したことがございます」

 宮中祭祀は私的信仰として認められるという意味なのでしょう。過酷な神道指令の時代は終わりました。その後、講和条約の発効で日本は独立を回復し、神道指令は失効します。しかし「宮中祭祀は天皇の私事」とする憲法解釈は超えられませんでした。


▽5 「国事」と閣議決定された皇太子御成婚

 大きく変化したのは、34年4月の皇太子(今上天皇)御成婚です。

 賢所での神式儀礼が「国事」と閣議決定され、国会議員らが参列しました。宮中祭祀はすべて「皇室の私事」とした神道指令下の解釈が打破されたのです。

 このときの事情を百地章日大教授(憲法学)が『政教分離とは何か』で、次のように説明しています。

「この賢所大前の儀では、皇太子、同妃両殿下が賢所内陣で玉串を奉奠(ほうてん)、拝礼の後奉告文を奏上され、賢所前幄舎(あくしゃ)には皇族、親族をはじめ首相、各閣僚、衆参両院議長、最高裁長官ら約600人が参列した。これは明らかに宗教的行事といえようが、それにもかかわらず『国事』とされた」

 その理由を宇佐美毅長官が国会(第31回国会参議院予算委員会第1分科会。34年3月26日)で答弁していることを、百地教授は紹介しています。

 この日、分科会では同年度総予算のうち、皇室費が議題となっていました。質問に立ったのは社会党左派の吉田法晴議員で、「皇太子の結婚が国事であるのか私事であるのか」と迫ったのです。

 これに対して、宇佐美毅宮内庁長官が「『賢所』で行われる『結婚の儀』は憲法7条に基づく天皇の儀式(国事行為)である」としたうえで、次のように答弁した、と百地教授は説明しています。

「その行い方につきましては、その家の方式で行う、その信ずるところで行うことが、むしろ憲法の精神に沿うのではないか。これはたとえば貞明皇后の御葬儀でも国の儀式として行われましたが、神道様式で行われておる。あるいは過去において衆議院葬を行われた、公の儀式で行いましたが、仏式で行われたようなことでございまして、私どもはそれによって憲法違反になるというふうには考えていないわけでございます」

 いよいよ核心部分に入ってきました。質疑応答をさらに掘り下げたいのですが、すでに長くなりましたので、次回、お話しします。

 つづく。
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占領後期に変更された「神道指令」解釈──歴史的に考えるということ 4 [戦後皇室史]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2013年5月5日)からの転載です


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占領後期に変更された「神道指令」解釈
──歴史的に考えるということ 4
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 先日、政府主催の「主権回復の日」式典が開かれましたが、積極的に報道するメディアは多くありませんでした。

 敗戦のあと、戦勝国の軍隊が進駐し、自国の政府がその従属化に置かれ、主権が失われた屈辱の占領期があったことを忘れているからではありませんか?

 まして占領期が前期と後期では時代の様相が異なることなど、なかなか気づきにくいことです。

 暗黒の戦中・戦後期のあと、明るい戦後期がやって来たというような、占領軍をまるで解放軍に見立てるような歴史区分では、日本の文明の根幹に関わる天皇・皇室問題にアプローチすることは至難です。


▽「宮内府関係法令集」に掲載された依命通牒

 4月29日発行の当メルマガ第280号「終戦後、天皇の祭祀はどのように存続し得たか」〈http://melma.com/backnumber_170937_5810104/〉は、日本国憲法が施行された昭和22年5月3日に立案・決裁され、同日、組織替えによって内閣総理大臣所轄の機関となった、宮内府の長官官房文書課長名による依命通牒の起案書について、お話ししました。

 依命通牒(通達)は官報には載りませんから、一般の目には触れません。依命通牒自体はその後、「宮内府関係法令集」「宮内庁関係法規集」に掲載されましたが、起案書となると、これを知る関係者はごく一部に限られたものと思います。いわゆるスクープです。

 依命通牒は、とくに第3項は、千年以上続く皇室伝統の祭祀が、敗戦・占領という未曾有の時代に辛うじて存続し得るための命綱的な明文法的根拠でした。

 あらためて、「法令集」「法規集」に掲載されていた規定を、以下、漢字使用、仮名遣いなど、できるだけ忠実に転記します。


  ○皇室令及び附屬法令廢止に伴い、事務取扱に關する通牒

宮内庁長官官房
文  書  課發第四五號

  昭和二十二年五月三日

       宮内府長官官房文書課長 高 尾 亮 一

  各部局長官殿

   依命通牒

皇室令及び附屬法令は、五月二日限り、廢止せられることになつたについては、事務は、?ね、左記により、取り扱うことになつたから、命によつて通牒する。

    記

一、新法令ができているものは、當然夫々、その條規によること。(例、皇室典範、宮内府法、宮内府法施行令、皇室經濟法、皇室經濟法の施行に關する法律、皇統譜令等)

二、政府部内一般に適用する法令は、當然、これを適用すること。(例、官吏任用敍級令、官吏俸給令等)

三、從前の規定が廢止となり、新らしい規定ができていないものは、從前の例に準じて、事務を處理すること。(例、皇室諸制典の附式皇族の班位等)

四、前項の場合において、從前の例によれないものは、當分の内の案を立てゝ、伺いをした上、事務を處理すること。(例、宮中席次等)

五、部内限りの諸規則で、特別の事情のないものは、新規則ができるまで、從來の規則に準じて、事務を處理すること。特別の事情のあるものは、前項に準じて處理すること。(例、委任規定、非常災害處務規定等)


▽「国家神道の神聖な教典」とされた教育勅語

「文藝春秋」昨年4月号に掲載された永田忠興元掌典補インタビュー〈http://melma.com/backnumber_170937_5540785/〉で語られているように、当時は占領期で、宮中祭祀は過酷な状況に置かれていました。

 昭和20年暮れにGHQが発令した、いわゆる神道指令は「宗教を国家から分離すること」を目的とし、駅の門松や神棚までも撤去させるほど過酷でした。

 アメリカは戦時中から、「国家神道」こそが「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉で、靖国神社がその中心施設であり、教育勅語が聖典だと考えていたようで、このため被占領国の宗教に干渉することを禁じた戦時国際法にあえて違反して、占領軍は神道撲滅運動に血道を上げ、靖国神社の焼却処分までが本気で企てられたのでしょう。

 たとえば、教育・宗教を担当したCIE(民間情報教育局)の政策に大きな役割を果たしたR・K・ホールは、教育勅語が「国家神道の神聖な教典」であったと理解していたようです(貝塚茂樹「戦後教育改革と道徳教育問題」日本図書センター、2001年)。

 ホールは、教育勅語そのものは「罪のない有害とも思えない文書」と考えていました。それがなぜ「国家神道の教典」となったのか? それには「ふたつの状況」があった、とホールは説明しています。

 ひとつは、教育勅語の本来の意味が、軍国主義的、超国家主義的な解釈で見失われたこと。もうひとつは、教育勅語それ自体が偏狭な愛国主義者の追従によって神聖不可侵なものとして覆い隠されたことでした。

 キリスト教には絶対神と救世主イエスがあり、聖書があり、教会があります。同様に日本の「国家神道」には天照大神と天皇、教育勅語、靖国神社がある、とまるでキリスト教の亜流のように、彼らには見えたようです。それはなぜか?


▽「これを中外に施してもとらず」

 昭和21年2月、CIE部長のダイク准将と安倍能成文相とが会談し、教育勅語に言及しています(『神谷恵美子・エッセイ集1』ルガール社、1977年。神谷は前田多門文相の長女、精神科医で、2人の会談で通訳を務めた。当時、明治の教育勅語に代わる新しい教育勅語の発布が構想されていたようです)。


安倍 新しい教育勅語とはどういうことをお考えなのか。

ダイク 明治大帝の教育勅語は偉大な文書だが、軍国主義者たちが誤用した。また誤用されうるような点がある。たとえば「これを中外に施してもとらず」という句のように、日本の影響を世界に及ぼすというような箇所をもって、神道を世界に宣伝するというふうに誤り伝えた。

安倍 仰せの「これを中外に施してもとらず」は真意はけっしてそのようなものではないし……

 教育勅語は明治23(1891)年秋に発布されました。発布の翌日、文部大臣は、学校の式日に勅語を奉体することなどを訓示し、翌年には紀元節や元始祭などに学校で儀式を行い、教育勅語を奉読することなどが決められました。

「罪のない有害とも思えない文書」のはずなのに、唯一神である天照大神の子孫である絶対的な天皇のもとで、軍事力を伴って、世界中に教え広めるということになれば、キリスト教文明と完全に対立します。

 キリスト教の聖書には「全世界に行って、福音を述べ伝えなさい」(マルコによる福音書16章15節)というイエスの言葉が記録されています。大航海時代にはローマ教皇の勅書に基づいて荒っぽい世界宣教が行われ、異教世界への侵略・殺戮・破壊が行われました。

 けれども、天照大神は唯一神ではありません。天皇は祭り主であって、「地上の支配者」ではありません。日本の宗教伝統には統一的な教義はありません。血縁共同体や地域共同体を前提とする日本の神道には布教の発想自体ありません。世界宣教などあり得ません。

 ところが、「これを中外に施してもとらず」という教育勅語の言葉は、誤用どころか、たいていは「わが国で実践しても、外国で実践しても道理に反しない」と理解されてきました。明治以後、海外に建てられた神社は少なくありません。宮城遥拝も行われました。

 誤解されるのも当然だったといえます。彼らは鏡に映った自分を見ていたということではありませんか?


▽公私の概念が異なる

 しかし、やがて時代は変わります。

 占領前期、日本政府は、皇室伝統の祭祀を守るため、当面、「宮中祭祀は皇室の私事」という解釈でしのぎ、いずれきちんとした法整備を図る、という方針でした。

 GHQは、天皇が「皇室の私事」として祭祀を続けられることについては干渉しませんでしたから、祭祀に従事する掌典職は国家機関ではなくなり、職員は公務員ではなく、内廷費で陛下に直接、雇われる、天皇の私的使用人と位置づけられました。

 永田掌典補が前掲インタビューで語っているように、終戦直後の宮内次官で、戦後初の侍従長ともなった大金益次郎は、「天皇の祭りは天皇個人の私的信仰や否や、という点については深い疑問があったけれども、何分、神道指令はきわめて苛烈なもので、論争の余地がなかった」と国会で答弁したといわれます。

 つまり、皇室における公私の概念と占領軍の公私の概念は異なるのでした。

 日本では古くは「公(おおやけ)」とは皇室を意味しました。「天皇に私なし」。公正かつ無私なるお立場で、国と民のために祈りを捧げるのが、日本の天皇です。宮中祭祀は「皇室の私事」ではあり得ません。日本の皇室が徹底して無私なるお立場にあるのは、ヨーロッパの王室と異なり、ファミリー・ネームさえないことからも分かります。

 一方、占領軍にとっては、「公」とは行政機関、公共機関を意味していましたが、日本政府にとって異議申し立ては不可能でした。

「国家神道」についての理解が変わり、したがって宮中祭祀のあり方が変わったのは、占領軍自身の神道研究が進んだからでしょう。


▽「たいへん荘厳でよかった」

 アメリカ軍の東京進駐から1カ月後の昭和20年10月6日、アメリカ国務省のヴィンセント極東部長はラジオ放送で対日本占領政策をアメリカ国民に説明し、「日本政府に指導され、強制された神道ならば廃止されるだろう」と述べました。

 GHQは放送内容を事前に知らされていませんでした。驚いたGHQは本国に照会し、国務長官バーンズは「国教としての神道、国家神道は廃されるだろう」と回答します。この回答がCIEによる神道指令起草の起点となりました。

 当時、「国家神道」の中心施設と考えられていた靖国神社では遊就館の業務が停止し、神社「焼却」が噂になっていました。アメリカ政府はCIEに、「国家神道は廃止すべきだが、民間信仰の対象としての神道は残してもいい」と訓令していましたが、CIEの大勢は「神道、神社は撲滅せよ」と強硬に主張していたのでした。

 大日本帝国最後の靖国神社招魂祭を約1カ月後に控えた10月中旬、最高司令官マッカーサーの覚書が上智大学のビッテル神父の元に届きました。ビッテルは法王使節代行も務めていました。

「司令部の将校たちは靖国神社の焼却を主張している。同社焼却にキリスト教会は賛成か否か、速やかに貴使節団の統一見解を提出されたい」

 ビッテルはバーン管区長ら数人の神父と意見を交換し、結論を出しました。

「いかなる国家も、国家のために死んだ人々に対して敬意を払う権利と義務がある。それは戦勝国か敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない。……靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源であるというなら、排除すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。いかなる宗教を信仰するものであれ、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊を祀られるようにすることを進言する」

 こうして靖国神社は守られました。

 CIE教育・宗教課で宗教班の責任者だったW・K・バンス課長らが神道研究を始めたのは、このビッテル答申の時期で、基本姿勢は「神道国家主義の根絶」だったとされます。

 靖国神社では予定通り、11月19日から臨時大招魂祭が斎行され、昭和天皇が行幸されました。

 占領軍は、靖国神社がどれほど狂信的なのか、を見定めようと、この臨時招魂祭・合祀祭を従来の形式で行うよう求めました。自由に泳がせて、その結果を見て、あらためて存廃を判断しようとしたのです(小林健三、照沼好文『招魂社成立史の研究』錦正社、昭和44年)。

 面白いことに、CIE部長のダイク准将らは「たいへん荘厳でよかった」と神社の祭典に逆に感激します。神社の職員が一兵卒として応召したことも分かりました。

「目的は宗教を国家より分離するにある」と規定する神道指令をGHQが発令したのは、1か月足らず後の12月15日でした。

 ダイク准将と安倍文相が会談し、教育勅語について語り合ったのは翌21年2月、文部省が教育勅語の奉読、神格化を止めるよう通達したのは、同年10月です。


▽「ご本人の宗教でやってかまわない」

 占領後期になると、GHQは神道指令の「宗教と国家の分離」を「宗教教団と国家の分離」に条文解釈を変更します(W・P・ウッダード「宗教と教育──占領軍の政策と処置批判」。ウッダードは占領中、宗教政策を担当していた)。

 この間、CIE内でどのような議論がなされたのかは残念ながら分かりませんが、24年11月には松平恒雄参議院議長の参議院葬が参院議長公邸において神式で行われ、26年10月には吉田首相の靖国神社参拝も認められました。

 同じ26年6月の貞明皇后の御大喪は神道形式ですが、かつての皇室喪儀令に準じて行われ、国費が支出され、国家機関が参与しました。

 貞明皇后の大喪儀が準国葬として行われた事情を、昭和35年1月、内閣の憲法調査会第三委員会で、宮内庁の高尾亮一・造営部長は次のように証言しています。

「当時、占領下にありましたので、占領軍ともその点について打ち合わせを致しました。ところが、占領末期のせいもありましたが、占領軍は、喪儀については、宗教と結びつかないものはちょっと考えられない。そうすれば国の経費であっても、ご本人の宗教でやってかまわない。それは憲法に抵触しない、といわれました。貞明皇后の信仰が神道であったならば、神道でやり、国の行事として、国の経費をもって支弁していっこう差し支えない、という解釈を下したことがございます」

 宮中祭祀はあくまで私的信仰として認められるという意味なのでしょう。

 その後、日本は独立を回復し、神道指令は失効します。宮中祭祀は存続しました。しかし「祭祀は天皇の私事」とする憲法解釈は超えられませんでした。


つづく。
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百地先生の反論こそ何よりの証明である──歴史的に考えるということ 2 [戦後皇室史]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2013年4月7日)からの転載です


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百地先生の反論こそ何よりの証明である
──歴史的に考えるということ 2
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 久しぶりに、月刊「正論」3月号に掲載された百地先生の拙文批判について書きます。

 つい先日のこと、人生の大半を民族派の国民運動に捧げている、人生の大先輩がいつものよう穏やかに、しかし毅然として、こう語られました。

「百地先生といえども神仏にあらず。斎藤さんといえども神仏にあらず」

 仰せの通り、まったく同感です。人はみな長所もあれば、短所もある。完全無欠な人間など、この世にいるはずもありません。よほどうぬぼれの強い人間でない限り、そんなことは他人から言われるまでもありません。人はみな足りないところがある。それが人間の魅力でもある。足りないところがあれば、お互いに補えばいいのです。

 だからこそ、私は共同研究を呼びかけています。目の前のさまざまな混乱を解決し、そしてやがて来る次の御代替わりに向けて、総合的な天皇研究がいまこそ必要なときはありません。けれども1人でできることは限られています。

 百地先生は、何を間違ったのか、私に欠落を指摘されて、逆ギレし、闘犬のようにわめき散らしています。まったくの期待外れでした。しかしいまからでも遅くはありません。感情的ではない、まともな反論を、当メルマガではつねに門戸を開き、お待ちしています。


▽1 「女性宮家」肯定論者に仕立て上げられた私

 さて、3月18日号に続き、歴史的に考えるということについて、書きます。

 少しおさらいをすると、私の指摘は、第1に、「(いわゆる「女性宮家」創設をめぐる)問題の発端は、羽毛田信吾宮内庁長官(当時)が野田(佳彦)首相(当時)に対して、陛下のご公務の負担軽減のためとして、『女性宮家』の創設を要請したことにある」と先生は断定しているが、確証があるのか、それとも事実の追究もしくは追及の甘さなのか、ということでした。

 しかしこれには、少なくとも3月号の拙文批判には回答がありませんでした。図星だったのだろうと私は考えています。

 いわゆる「女性宮家」創設問題は、私が知るところ10数年前に、女性天皇・女系継承容認論と一体のかたちで生まれました。小泉内閣時代の皇室典範有識者会議報告書にも、その内容は盛り込まれています。今回の創設論は議論のぶり返しであって、ご在位20年を契機に渡邉允前侍従長によって提唱されたことが資料から読み取れます。

 けれども、百地先生は歴史的にものごとを考えるということがお得意ではないのでしょう。部分を見て、全体を見渡そうとしない、「闘い」の人にはうってつけの性格も禍しているようで、不正確な新聞の「スクープ」にすっかり目を奪われ、羽毛田長官「主犯」説に固まっています。

 歴史を振り返り、全体を見渡す目をお持ちならば、いわゆる「女性宮家」創設論はもっと広い視点で読み直す必要があることに気づくはずですが、先生はあくまで「女性宮家」問題として論じています。

「いくら『戦後皇室行政史』とやらを勉強しても、『なぜ女性宮家が問題なのか』『どこに女性宮家論の危険が潜んでいるか』という『女性宮家問題の本質』についての回答は得られない」という具合です。

 それどころか、あきれたことに、私は先生によって、「女性宮家」肯定論者に仕立て上げられています。先生、冗談はおやめください。


▽2 皇室の伝統を破壊した「1・5代」論者

 歴史的にものごとを考えようとなさらないのは、「女性宮家」創設問題に限りません。

 第2に指摘したのは、依命通牒についてで、私は、「百地教授の研究に欠落している最たるものは、昭和22年5月3日の宮内府長官官房文書課長名による依命通牒が、50年8月15日の宮内庁長官室会議で廃棄されたことによる宮中祭祀の歴史の一大転換です」と指摘したのですが、これには猛反発されました。

 けれども、先生はじつのところ、依命通牒について、ほとんどご存じないのでした。「ちなみに、依命通牒が『廃棄』されたかどうか、真偽の程は定かでない」と正直に告白しています。

 これでは戦後の皇室の歴史など論じようがありません。

 戦後、日本国憲法の施行に伴い、皇室祭祀令など旧皇室令は廃止されました。皇室伝統の祭祀は、依命通牒第3項「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて、事務を処理すること」によって、辛うじて守られたのです。

 ところが、昭和40年代になり、入江相政侍従長は依命通牒を無視し、祭祀改変に取り掛かりました。50年8月15日には宮内庁長官室会議を経て、たとえば平安期からの伝統を引き継ぐ毎朝御代拝が大きく変更されたことが入江日記などから読み取れます。

 祭祀の命綱であった依命通牒が反故にされたことは明らかで、その背景には新興宗教めいた厳格な政教分離主義、つまり皇室の伝統より憲法の規定を優先させる考え方が行政全体を席巻し、富田朝彦次長(のちの長官)ら側近中の側近にまで浸透した結果であることが職員OBの証言で明らかにされています。

 けれども、百地先生はこうした歴史に関心を持とうともしません。政教分離問題の専門家であるはずなのに、です。

 皇室の伝統より憲法を優先させる考えこそ、まさに「1・5代」象徴天皇制度論であり、祭祀を簡略化させ、御代替わりの諸行事を改変させたのです。百地先生は「荒唐無稽な理屈」「的外れの批判」などと切り捨てていますが、まごう事なき現実なのです。

 宮内庁がまとめた『平成大礼記録』などには、御代替わり当時、政府が「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」とを対立的にとらえ、皇室の伝統行事を伝統のままに行うことが現行憲法の趣旨に反すると考え、実際、国の行事と皇室行事とを二分し、挙行したことが記録されています。

「1・5代」象徴天皇制度論が依命通牒を駆逐し、皇室の伝統を破壊したのです。百地先生ともあろうものが、なぜそれに気づかないのでしょうか? まさか、政府の公式記録をお読みになったことはないのでしょうか?


▽3 皇太子殿下の御成婚までしか例示できない

 第3に、私が「百地教授は政府の憲法解釈の歴史を停滞的に見ています。そこに重大な欠陥があるのではないでしょうか」という指摘したことに、先生は「いわれない批判」と強く反発しています。

 たとえば、私が、政府解釈が変更された事例として、貞明皇后の御大喪、皇太子殿下(今上陛下)の御成婚を挙げていることについて、先生は「すでに拙著『憲法と政教分離』で紹介済み」「わざわざ教えてもらう必要はない」などと突き放し、占領下の変化についても著書で紹介しているから、「『政府の憲法解釈を停滞的に見ている』などといった誹りを受ける理由はない」というのです。

 けれども、皇太子殿下の御成婚までしか例示できない、先生のこの反論こそ、「停滞的に見ている」と理解される、何よりの証拠なのです。

 先生が書いているように、「政府や宮内庁当局が神道指令下にあって、皇室祭祀をお守りすべく必死の努力をしてきた」のです。その現れが依命通牒であり、貞明皇后の御大喪であり、「努力」の延長線上にあるのが皇太子殿下の御結婚でした。

 昭和30年代まではこうした「努力」が積み重ねられました。ところが40年代に入り、ガラっと様変わりした。その歴史理解が先生には完全に欠けています。つまり、それこそが、依命通牒の破棄なのです。

「停滞的に見ている」という表現はその意味です。「停滞的」が相応しくないとすれば、「直線的」「単線的」と書くべきだったかも知れません。

 先生は、関係者が「必死の努力」をしてきたなかで、御代替わりを迎えた、と書いていますが、そうではありません。「1・5代」象徴天皇論者が宮内庁中枢にまで入り込み、先人たちの「必死の努力」が破られ、命綱の依命通牒第3項が破棄され、皇室の伝統が蹂躙されたなかで、御代替わりを迎えることとなったのです。

 戦後初の侍従長・大金益次郎が、神道指令下で「宮中祭祀は皇室の私事」とされたことについて、「天皇の祭りは天皇個人の私的信仰や否や、という点については深い疑問があったけれども、何分、神道指令はきわめて苛烈なもので、論争の余地がなかった」と国会で答弁したのと、渡邉允前侍従長が「宮中祭祀は、現行憲法の政教分離の原則に照らせば、陛下の『私的な活動』ということにならざるを得ません」と雑誌インタビューで語っているのは意味がまるで異なります。

 依命通牒第3項が生きていたなら、御代替わり当時、大掛かりな検討など必要がなかったのではありませんか? 破棄されたからこそ、先生の建言も参考にされることになったのでしょう。


▽4 「本能寺の敵」を利するオウンゴール

 けっして直線的には理解できない皇室の戦後史をまったく知らないままに、先生は御代替わりに関わってしまったということが、先生の拙文批判からはっきりと読み取れます。まったく残念というほかはありません。

 以前にも申し上げましたように、先生は「大嘗祭は皇位継承のために不可欠な重儀、つまり『皇室の公事』であって、皇位の世襲を定めた憲法の容認するところである。それゆえ、大嘗祭と皇室祭祀一般とは分けて考えるべきである」との理論を政府に建言し、「幸い政府もこの理論を採用し、大嘗祭はほぼ伝統通りに斎行することができた」と誇らしげです。

 しかし実態は、「幸い政府も採用した」ではなく、「これ幸いと『1・5代』象徴天皇論者が飛びついた」のでしょう。

 その結果、何が起きたのか? たとえば践祚(せんそ。皇位の継承)の一連の儀式は「国の行事」と「皇室行事」とに無惨にも二分され、しかも一部は「即位の礼」の一環として行われました。平安以来の践祚と即位の区別が失われたのです。

「大嘗祭はほぼ伝統通りに斎行することができた」などと評価できるでしょうか? 先生の理論は「本能寺の敵」=「1・5代」論者たちを利するオウンゴールなのです。

 慎んで先生に申し上げます。運動に走る前に、謙虚に研究をし直すべきではありませんか?

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