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知られざる「次代の稲」イセヒカリ──災害に強く、味もコシヒカリ以上 [イセヒカリ]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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 知られざる「次代の稲」イセヒカリ
 ──災害に強く、味もコシヒカリ以上
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 今週、伊勢の神宮では、20年の一度の遷宮のクライマックスである「遷御の儀」が行われます。大神様がいよいよ本殿から神殿へとお遷りになります。

 いま私が思い起こすのは、神宮と米との関係です。

 日本最古の歴史書である『日本書紀』には、大神が天孫降臨に際して、「わが高天原にある斎庭の稲穂をわが子に与えなさい」と命じられた、と書いてあります。天孫降臨はわが国の稲作の始まりでもあります。

 神宮では昭和の御代替わりの直後、第58回式年遷宮の翌年、昭和5年の秋に、神域内で「新種」の米が発見されました。

「旧御正殿軒下の雨落際に当たるところに、珍しくも自然に発生して、まさに実を結ぼうとする1本の生々しい稲を発見」したのでした。「聖代の瑞兆」だというので「瑞垣」と命名されました。

 平成の御代替わりに時を合わせたかのように、神宮の神田で発見されたのがイセヒカリです。8年1月、「聖寿無窮を祈念し、皇大神宮御鎮座2000年を記念」して、伊勢神宮少宮司によって命名されました。

 こんどの遷宮では何が起きるのか、楽しみです。

 というわけで、総合情報誌「選択」2005年6月号に掲載された拙文「知られざる『次代の稲』イセヒカリ」を転載します。なお、若干の修正が加えられています。

 では本文です。


 平成16年の夏は猛暑でした。稲の生育は早く、農水省発表の9月の作況指数は全国平均で101でした。ところが秋雨前線の活発な活動と度重なる超大型台風の上陸で、最終的な作柄は98に落ち、二年連続の平均割れとなりました。九州周辺では90を割り込む県が目立ちました。

 超人気のコシヒカリは台風をはじめ災害に対して脆弱です。ほかの奨励品種も天候の影響で軒並み、収量と品質を落とし、倒伏して泥に埋もれ収穫を諦めた水田さえあるなかで、一人気を吐いている稲の品種がありました。平成の御代替わりに伊勢の神宮の神田で発見された「お伊勢さんの稲」イセヒカリです。

 元山口県農試場長で、イセヒカリの原種保存に取り組んできた山口イセヒカリ会(事務局=山口県神社庁内)の岩瀬平代表は、「台風のあと下関周辺の水田で立っているのはイセヒカリだけでした。全国でも同様でしょう。見事というほかはありません」と語りました。


▽伊勢神宮が生んだ未登録米

 平成元年秋に、本来は「神様に捧げる米」を作る神宮神田で発見されたのも台風一過の朝でした。一面に倒伏するコシヒカリの圃場の中央に直立し、稔るほど黄金色に輝きました。その後の試験栽培で、味はコシヒカリをしのぎ、反収は十俵を超え、耐倒伏性に優れ、病害虫にも強いなど、驚異の特性を持っていることが判明します。

 神宮ではちょうど10年前の8年、「聖寿無窮を祈念し、皇大神宮御鎮座二千年を記念」して「イセヒカリ」と命名し、全国各地の神社に種籾の下賜を認めました。

 イセヒカリの大きな特徴はこの際だった耐倒伏性で、このため台風禍に泣いた16秋来、イセヒカリ会会員で採取圃を兼ねる全国の農家には種籾提供の照会が引きも切りません。機械化一貫体系のもとにある日本の稲作では「倒れない」は稲品種の基本的条件で、最大瞬間風速50メートルを超える、穂がちぎれるほどの台風にも平然と堪えた稲は否が応でも一般農家の目を引きました。

 そればかりではありません。畜産農家からは「刈り入れを手伝わせてくれないか」と声がかかります。きわめてまれなことにウンカ耐性を持つため、害虫防除は最小限ですみ、安全な藁ができます。しかも藁重が多いのです。食用だけでなく飼料にも適し、生産調整の要らない多用途米は、稲作と畜産との連携、将来の構造改善を担える可能性を示唆しています。

 醸造家は、コシヒカリ並みの少肥栽培で作れば蛋白含量の低い酒造好適米となることに注目し、山口では名だたる蔵元六社が純米酒造りに取り組んでいます。「食べてよし、呑んでまたよし」の米はほかにありません。

 硬質米でパエリャやリゾットの材料に向くことから、国内のみならず、世界の市場で通用するという指摘もあります。高齢化した農家の稲作にも大規模経営にも対応できることは、各地の米作り名人が立証しています。

 いいことずくめの新品種ですが登録品種ではありません。神宮は「大神様から頂戴した稲なので、謹んで作ってほしい。品種の登録はしない」との姿勢で一貫しています。祭祀の厳修を第一義とする神宮としては当然ですが、品種登録のない稲は公が認める資格に欠けている、と一般には見なされてしまいます。このため現状では自家用縁故米として社会に受け入れられ、広まっています。

 明治以来、戦後はなおのこと、日本の米は「官」独占の生産システム下におかれています。品種改良は公的機関が一手に掌握してきました。品種登録、奨励品種決定、種子生産流通に民間が口を挟む余地はありません。

 神宮神田生まれのイセヒカリはこの制度の枠外にあります。いかに優れた形質を備えているとはいえ、行政には積極的に公認しようという姿勢は見られません。というより、登録品種でないために公が正規に対応しうる前提がないのです。発見から15年あまり、そして種籾の下賜から10年、栽培が広範囲に広がった最近になって、ようやく公的機関が価値を認め、試験栽培に着手する動きが出てきました。

「卓越した稲を埋もれさせるのは惜しい」。公的機関に代わって、イセヒカリの系統選抜、品種固定、原種保存、種籾生産という困難な仕事に取り組んできたのが岩瀬氏らでした。

 12年にはイセヒカリの健全普及を目的に、山口県神社庁内に篤農家をメンバーとする山口イセヒカリ会が設立されました。8年間の苦労の末、専門家の眼鏡にかなう純系の固定化選抜が達成され、8系統に選抜されたうちの系統番号2号(イセヒカリ二号)を「イセヒカリ」の原種とすることを神宮も了承し、山口県神社庁は「100年分の原種の種籾を保管する体制」を整え、同県青年神職会は組織をあげて、種籾生産および神宮奉納の事業を開始させています。


▽日本の稲作の「救世主」か

「DNA考古学」の開拓者で、16年に「浜田青陵賞」を受賞した京都・総合地球環境学研究所の佐藤洋一郎教授(植物遺伝学)はイセヒカリを「未来の稲」と評価しています。佐藤氏の監修で、紀伊國屋書店が16年に制作した教育ビデオ「稲の歴史」はイセヒカリを大きく取り上げ、「その出現は日本の稲作の新たな時代を告げるものであり、稲作の危機を救う期待を担っている」とまとめています。

 佐藤氏は「コシヒカリ一辺倒」といわれるほどに品種が単一化し、栽培が画一化した日本の稲作に警鐘を鳴らしています。米の品種は明治初期には4000を超えていたといわれ、土地に特有の米や農家独自の品種がありました。けれども戦後、栽培指導や集荷、種子供給の簡便さから品種の多様性は切り捨てられ、「奨励品種」に統一されます。さらに供給過剰時代には画一的な「売れる品種」が市場を席巻するようになりました。

 現在、栽培品種の数は水稲ウルチ米だけでも160品種以上といわれますが、作付面積ではコシヒカリを頂点とする上位十傑で6割以上になります。しかもそのほとんどが一番人気のコシヒカリと何らかの類縁関係を持っています。コシヒカリは味の良さや収穫の安定性に加えて、環境適応性に優れ、暖地、寒地を問わずに栽培できますから、じつに30府県で銘柄に指定され、全国の作付面積は4割弱におよび、県によっては7割、市町村によっては8割を超えます。驚くほどの寡占化です。

 佐藤氏によれば、稲の品種の寿命は100年もありません。コシヒカリが現れてからすでに50年。数十年後にはコシヒカリは確実に消えています。けれども次を狙う「キラッと光る品種」がいっこうに現れません。育種家はコシヒカリ以上の新品種をイメージできません。「グルメ」を自認する消費者が米の味を識別できず、料理とは無関係にブランド米ばかりを追い求めています。その結果、コシヒカリの独り勝ちに拍車がかかり、栽培不適地にまで作付けされますから、凶作の危険度が高まらないわけはありません。事実、平成5年の冷夏、16年の台風禍で、その心配は現実となっています。

 佐藤氏は「多様性を喪失し、生命力を失っている日本の稲作を蘇らせるためには、地域性を大切にした多様性豊かな環境の回復が必要だが、イセヒカリならできる」と言い切ります。熱帯ジャポニカの遺伝子を持ち、高い確率で新品種を自分で生み出す特異な遺伝形質(佐藤氏は「トランスポゾン=動く遺伝子」とみている)を有するイセヒカリこそコシヒカリ後の時代に生き残る唯一の米と確信しているのです。

 一方、イセヒカリ会は、イセヒカリが自家用縁故米の枠を抜け出し得ないなら、今後の課題として、派生的に生まれた変種の系統を品種登録にまで仕上げることが避けられないのではないか、と検討を始めました。
タグ:イセヒカリ
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平成の祭祀簡略化に似るイセヒカリ──驚異の米に官僚たちは無関心 [イセヒカリ]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です

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平成の祭祀簡略化に似るイセヒカリ
──驚異の米に官僚たちは無関心
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 知り合いの農家からイセヒカリの新米が届きました。毎年、この時季になると、収穫の喜びを伝える手紙とともに、かならず送ってくださるのです。ありがたいことです。

 けれども今年は、少し勝手が違っていました。明るい表情が見えるようないつもの文面とは異なり、悲しみに沈んでいます。

 今年は例年にない酷暑が続いただけでなく、雨がほとんど降りませんでした。そのため米農家になってはじめて不作を経験したというのです。

 県が勧める奨励品種は土地柄にあった品種のはずですが、今年はいわゆる等外米にしかならず、農協は買い上げてくれそうにありません。一等米がとれなかった現実は、米作り名人にとって不名誉としかいいようがなく、声が沈むのはもっともです。

 それでも、イセヒカリは真価を遺憾なく発揮しています。何年か前の猛暑の年もそうでしたが、熱帯ジャポニカの遺伝子を持つというイセヒカリは、炊いたときの色艶といい、食べたときの味わいといい、その輝きを失ってはいません。

 日本農業の危機の時代に、まるで記紀神話を再現するかのように、平成の御代替わりに時を合わせて、皇祖神をまつる伊勢神宮の神田で誕生した奇蹟の米であることを、あらためて実感させられます。


◇1 イセヒカリ自身が広めるイセヒカリ

 私はこのイセヒカリのことを思うとき、平成の祭祀簡略化問題が二重写しに見えてきて、ため息が出ます。

 平成の祭祀簡略化は、日本の文明の根幹と関わる天皇の祭祀を、天皇のご健康問題を口実にして、官僚たちが無軌道な簡略化を進めています。これに対して、日ごろ、皇室崇敬を表明している人たちから抗議の声が上がっているかといえば、そうではありません。昭和の時代と同様、陛下お一人が祭祀を守っておられるというのが現実でしょう。

 イセヒカリもこれに似ています。

 農政に関わる日本の官僚たちはイセヒカリにほとんどまったく無関心です。戦後の稲作りは品種改良から生産、流通にいたるまで、行政が握っています。国や県の農業試験場ではなく、神社の田んぼで突然、生まれてきたイセヒカリを、いかに優れた形質を持っていようとも、行政は対応のしようがないのです。

 これに対して、イセヒカリの価値を深く理解し、広めてきたのは、伊勢の信仰を日ごろ、唱えている人たちではなく、一般の米農家です。長年、米作りにたずさわってきた全国各地の名人たちが圧倒的なイセヒカリの力に魅了され、神に仕えるように栽培を手がけてきたというのが実態です。

 いまある県では、作況指数の算出に使われる無作為抽出のサンプルの1%がイセヒカリだと聞きますから、県全体の作付面積の百分の一がじつに伊勢神宮生まれのこの米だということが推定できます。

 伊勢神宮の関係者が宣伝したという事実などまったくないのに、これだけの広がりを持っているのは、イセヒカリがまさに驚異の米であることの何よりの証です。イセヒカリ自身がイセヒカリを広めているのです。


◇2 宮中祭祀に宣教師はいない

 県の奨励品種なら栽培方法を指導する県の担当者がいますが、イセヒカリにはそのような普及指導員はいません。

 同様に、天皇の祭祀も宣教師はいません。それどころか、日本の宗教伝統には統一的な教義もなければ、布教の発想もありません。

 戦前、国家神道なるものが日本国民の精神的支柱となり、神社や学校で国家神道が広められたという考え方がアカデミズムやジャーナリズムのなかに根強くありますが、少なくとも神社が国家神道を広めたというのはまったくの幻想だろうと思います。

 そのような力があるのなら、イセヒカリはもっと強力に広まったはずだし、平成の祭祀簡略化には猛然たる抗議がわき起こっているはずです。

 本来、多様な地域の風土に根ざした宗教伝統を、明治人たちが、押し迫る欧米勢力に対抗する必要に迫られて、国家主義的に近代化しようとする試みがあったのは事実でしょう。けれども、元来、きわめて地域的で、伝道の発想も、教義すらない神道にはそもそも無理があり、キリスト教の一神教的発想を新たに導入しなければ成功することはできなかったのであって、実際、失敗したのです。

 アカデミズムもジャーナリズムも、神道に対する見方を誤っています。

 たとえば、朝鮮神宮の創建を提案した神道人はそもそも民族の融和をこそ訴えたのであり、であればこそ天照大神や明治天皇を祭神とすることに猛反対したのです。上海戦線で日本軍が暴走するのを、当時の明治神宮の宮司らは阻止しようとしたし、靖国神社の宮司はいわゆる軍国主義の先鋭化を牽制していました。

 いまはそのような気概すら失われているかのようです。大陸侵略の先兵でも、軍国主義や超国家主義の宣教師でもあり得なかったように、祭祀簡略化を進める官僚たちに抵抗する勢力として期待もできないということでしょうか。

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温暖化時代に生き残るイセヒカリ [イセヒカリ]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成18年12月6日水曜日)からの転載です

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 農水省はきのう、今年度産米の作況指数を「やや不良」の96と発表しました。収穫量は854万6000トンです。「平成の米騒動」を招いた平成5年の凶作(作況指数90)に次ぐ不作と伝えられます。北海道は天候に恵まれて105の豊作でしたが、九州地方では台風の影響で歴史的な凶作となっています。とくに佐賀は49、長崎は68、戦後最悪でした。
http://www.maff.go.jp/tokei.html

 こうしたなかでも、平成の御代替わりに伊勢神宮の神田で発見された驚異の米イセヒカリは、病害虫に強く、環境の変化にも耐えるという特性を遺憾なく発揮したようです。

 当初からこの米に注目し、10年にわたって栽培をすすめてきた埼玉県熊谷の農家によれば、7月は日照不足、8月は逆に高温になり、県の奨励品種であるキヌヒカリなどは高温障害で病気に悩まされ、10アールあたり4〜5俵(1俵=60キロ)の収穫しかなく、品質も悪かった。けれども、イセヒカリは防除もしなかったが、品質は例年より劣るものの、収量は8俵を超え、くず米も少ない──と語っています。埼玉の作況指数は94でした。

 猛暑の夏を無防除で乗り切れたのは、イセヒカリが熱帯ジャポニカの遺伝子を持っているといわれていることと関係があるのでしょうか。

 その点、イセヒカリの育ての親ともいわれる元山口県農業試験場長の岩瀬平さんが、このところの不作について、地球の温暖化の影響を指摘していることは注目されます。

 山口の作況指数は90。今年の夏は熱帯夜が23日間、続く未曾有の酷暑でした。当然、稲もこの暑さでは消耗します。しかしイセヒカリはそうではなかったのです。9月にはカラ台風の13号が襲い、沿岸地方に塩害をもたらしました。瀬戸内地方では反収2〜3俵というところもあります。もっとも被害を受けたのが佐賀県の平坦部でした。

 ある気象学者によれば、今年は2100年の気象構造に似ている、と分析しているようです。地球の温暖化は確実なものとなっている。西日本の稲作は今後、その影響をもろに受けることになり、イセヒカリをのぞけば、今のままでは生き残れない、ということになります。農家から悲鳴が聞こえてくるのは当然です。

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伊勢神宮神田に誕生した神秘の稲「イセヒカリ」の今昔 by 岩瀬平 [イセヒカリ]

以下はインターネット新聞「お友達タイムズ」2006年4月24日号(創刊号)からの転載です

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伊勢神宮神田に誕生した神秘の稲「イセヒカリ」の今昔
by 岩瀬平(元山口県農業試験場長)
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 イセヒカリは平成元年の秋、二度の台風に襲われて全面倒伏した伊勢神宮神田のコシヒカリ中に直立する二株があり、稔るほどに黄金色に輝いて、発見された神秘の穂です。

 当時の神田管理者・森晋(もり・すすむ)さんがこの穂を採って試験栽培してみますと、作りやすく収量も多い。けれども美味しい米なのかどうか、は分からない。それで文通していた私のところへ、平成6年産の仮称「コシヒカリ晩」の稲株5、稲穂3束を送ってきて、「これまでのどういう品種に似ているか」と問い合わせてきました。「多収品種だが、藤阪5号のように不味い米なら、神様にお供えできない」からだったようです。
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 古米の玄米が添えられていたので、これを山口県農試で食味値分析(ニレコ食味計)してもらいますと、76でした。山口県の奨励品種の新米の平均食味値が75〜76ですから、合格です。

 お知らせすると、神田関係の皆さんは喜びに包まれたそうです。これには私の方が驚きました。というのも、神田は神様にお供えするお米を作るところで、あらかじめ人間が試食してみて、よかったら差し上げるというような振る舞いは一切なく、よきものを“まごころ”をもってお作りするところだと知ったからです。

 生命を養う食物は人間が作り出したものではありません。大自然の神からいただいているもので、これに慎みをもつということは洋の東西を問わず、人間の精神文化の根底をなしています。神宮神田で稲を作る方々の振る舞いに私は感動し、以来、「イセヒカリ」に打ち込むことになりました。

 イセヒカリとは、いかなる稲なのでしょうか──。

 第一に、台風にも倒れない強い稲です。機械化一貫作業で作るいまの稲作にあっては、これが第一条件でなければなりません。これを立派にクリアしています。

 第二に、病気に強く、無・低農薬栽培ができる稲です。

 第三は、地力のある田で10アール当たり750キロ作った事例もありますが、コシヒカリ並みの少ない肥料で作ると8俵の平均反収に落ちるものの、味はコシヒカリをしのぎ、とくに冷えてからの美味しさは他の品種の追随を許さぬものがあります。

 第四は、稲としては関東以西に適する中生(なかて)の早いものです。米質は、いまは姿を消した硬質米で、「寿司米に向く」と異口同音にいわれます。米を洗わないで使うパエリヤやリゾットなどの本格的欧風調理に適します。歯の悪い年寄りは軟質米のコシヒカリを選びますが、壮年以下の若者はイセヒカリに軍配を上げるはずです。

 栽培上の注意点は、まず、生活雑排水の流れ込む用水の田には作らないことです。それはコシヒカリなどに比べて、根群が1.5倍以上あり、登熟後もいつまでも根から窒素成分が吸収され、不味い米になるからです。有機栽培をする人もこの点は要注意です。

 次に、9月早々に刈り取るような早植え栽培は避けてください。夏期高温のもとでの登熟はいまひとつ味がのらない米になるからです。9月下旬から10月にかけて秋風の立つころの収穫になるような作り方が望まれます。

 肥料が少なくてすみ、夏場の農薬散布もしないでいける稲、それがイセヒカリです。山田を守る高齢農家には、都会で暮らす子供たち世帯から「美味しい」と大歓迎される米となって、耕す労苦が喜びに変わると思います。もう田を荒らす必要はありません。荒らしてはならないのです。
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 紀伊國屋書店が製作したビデオ『稲と環境』の第3巻「未来の稲」は、イセヒカリが主役です。ビデオを監修した総合地球環境学研究所(京都)の佐藤洋一郎先生は、静岡大学農学部在任中にイセヒカリの遺伝子分析をされて、イセヒカリが熱帯ジャポニカの遺伝子をもつ新品種と判定してくださいました。

 熱帯ジャポニカは縄文時代の稲で、水陸未分化の稲といわれています。先行した熱帯ジャポニカのあとに水田耕作に適する温帯ジャポニカが渡来して、弥生時代の稲作が始まりますが、日本で作れば晩生(おくて)となる熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの晩生とが交雑すると、孫(F2)の代に早生が分離して出ます。この早生を獲得することで、稲作は瞬く間に津軽まで北上することになりました。この「日本稲の南北二元説」を提唱したのが若かりしころの佐藤先生でした。

 イセヒカリの作り良さは縄文の稲・熱帯ジャポニカの血を引くからか、そして神宮神田でコシヒカリの中から出たということで、弥生以来の品種改良の成果を身につけて出現したのか、と考えるなら、イセヒカリという稲のたぐいまれな資質が理解できるような気がします。

 こうした稲を、伝統的技法の交配育種や、いま注目の遺伝子操作で創り出し得るとはちょっと考えられません。日本の稲作6000年の末にイセヒカリが誕生した歴史がそう易々と再現できるものではない、と思うからです。イセヒカリが神宮神田で誕生したことは、まさに神秘というほかありません。神様からいただいたイセヒカリは農水省に品種登録されてもいませんが、品種登録という制度が障害となって消費者の方に“幻の米”となっているのは残念です。何とかならないものか、と83歳の老爺は嘆いています。

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知られざる「次代の稲」イセヒカリ──災害に強く、味もコシヒカリ以上 [イセヒカリ]

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知られざる「次代の稲」イセヒカリ
──災害に強く、味もコシヒカリ以上
(「選択」2005年6月号)
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 平成16年の夏は猛暑でした。稲の生育は早く、農水省発表の9月の作況指数は全国平均で101でした。ところが秋雨前線の活発な活動と度重なる超大型台風の上陸で、最終的な作柄は98に落ち、二年連続の平均割れとなりました。九州周辺では90を割り込む県が目立ちました。

 超人気のコシヒカリは台風をはじめ災害に対して脆弱です。ほかの奨励品種も天候の影響で軒並み、収量と品質を落とし、倒伏して泥に埋もれ収穫を諦めた水田さえあるなかで、一人気を吐いている稲の品種がありました。平成の御代替わりに伊勢の神宮の神田で発見された「お伊勢さんの稲」イセヒカリです。

 元山口県農試場長で、イセヒカリの原種保存に取り組んできた山口イセヒカリ会(事務局=山口県神社庁内)の岩瀬平代表は、

「台風のあと下関周辺の水田で立っているのはイセヒカリだけでした。全国でも同様でしょう。見事というほかはありません」と語りました。


▢伊勢神宮が生んだ未登録米

 平成元年秋に、本来は「神様に捧げる米」を作る神宮神田で発見されたのも台風一過の朝でした。一面に倒伏するコシヒカリの圃場の中央に直立し、稔るほど黄金色に輝きました。その後の試験栽培で、味はコシヒカリをしのぎ、反収は10俵を超え、耐倒伏性に優れ、病害虫にも強いなど、驚異の特性を持っていることが判明します。神宮ではちょうど10年前の8年、「聖寿無窮を祈念し、皇大神宮御鎮座2000年を記念」して「イセヒカリ」と命名し、全国各地の神社に種籾の下賜を認めました。

 イセヒカリの大きな特徴はこの際だった耐倒伏性で、このため台風禍に泣いた16年秋来、イセヒカリ会会員で採取圃を兼ねる全国の農家には種籾提供の照会が引きも切りません。機械化一貫体系のもとにある日本の稲作では「倒れない」は稲品種の基本的条件で、最大瞬間風速50メートルを超える、穂がちぎれるほどの台風にも平然と堪えた稲は、否が応でも一般農家の目を引きました。

 そればかりではありません。畜産農家からは「刈り入れを手伝わせてくれないか」と声がかかります。きわめてまれなことにウンカ耐性を持つため、害虫防除は最小限ですみ、安全な藁ができます。しかも藁重が多いのです。食用だけでなく飼料にも適し、生産調整の要らない多用途米は、稲作と畜産との連携、将来の構造改善を担える可能性を示唆しています。

 醸造家は、コシヒカリ並みの少肥栽培で作れば蛋白含量の低い酒造好適米となることに注目し、山口では名だたる蔵元六社が純米酒造りに取り組んでいます。「食べてよし、呑んでまたよし」の米はほかにありません。

 硬質米でパエリャやリゾットの材料に向くことから、国内のみならず、世界の市場で通用するという指摘もあります。高齢化した農家の稲作にも大規模経営にも対応できることは、各地の米作り名人が立証しています。

 いいことずくめの新品種ですが登録品種ではありません。神宮は「大神様から頂戴した稲なので、謹んで作ってほしい。品種の登録はしない」との姿勢で一貫しています。祭祀の厳修を第一義とする神宮としては当然ですが、品種登録のない稲は公が認める資格に欠けている、と一般には見なされてしまいます。このため現状では自家用縁故米として社会に受け入れられ、広まっています。

 明治以来、戦後はなおのこと、日本の米は「官」独占の生産システム下におかれています。品種改良は公的機関が一手に掌握してきました。品種登録、奨励品種決定、種子生産流通に民間が口を挟む余地はありません。

 神宮神田生まれのイセヒカリはこの制度の枠外にあります。いかに優れた形質を備えているとはいえ、行政には積極的に公認しようという姿勢は見られません。というより、登録品種でないために公が正規に対応しうる前提がないのです。発見から15年あまり、そして種籾の下賜から10年、栽培が広範囲に広がった最近になって、ようやく公的機関が価値を認め、試験栽培に着手する動きが出てきました。

「卓越した稲を埋もれさせるのは惜しい」

 公的機関に代わって、イセヒカリの系統選抜、品種固定、原種保存、種籾生産という困難な仕事に取り組んできたのが岩瀬氏らでした。

 12年にはイセヒカリの健全普及を目的に、山口県神社庁内に篤農家をメンバーとする山口イセヒカリ会が設立されました。

 8年間の苦労の末、専門家の眼鏡にかなう純系の固定化選抜が達成され、8系統に選抜されたうちの系統番号2号(イセヒカリ二号)を「イセヒカリ」の原種とすることを神宮も了承し、山口県神社庁は「100年分の原種の種籾を保管する体制」を整え、同県青年神職会は組織をあげて、種籾生産および神宮奉納の事業を開始させています。


▢ 日本の稲作の「救世主」か

「DNA考古学」の開拓者で、16年に「浜田青陵賞」を受賞した京都・総合地球環境学研究所の佐藤洋一郎教授(植物遺伝学)はイセヒカリを「未来の稲」と評価しています。佐藤氏の監修で、紀伊國屋書店が16年に制作した教育ビデオ「稲の歴史」はイセヒカリを大きく取り上げ、「その出現は日本の稲作の新たな時代を告げるものであり、稲作の危機を救う期待を担っている」とまとめています。

 佐藤氏は「コシヒカリ一辺倒」といわれるほどに品種が単一化し、栽培が画一化した日本の稲作に警鐘を鳴らしています。米の品種は明治初期には4000を超えていたといわれ、土地に特有の米や農家独自の品種がありました。

 けれども戦後、栽培指導や集荷、種子供給の簡便さから品種の多様性は切り捨てられ、「奨励品種」に統一されます。さらに供給過剰時代には画一的な「売れる品種」が市場を席巻するようになりました。

 現在、栽培品種の数は水稲ウルチ米だけでも160品種以上といわれますが、作付面積ではコシヒカリを頂点とする上位十傑で6割以上になります。しかもそのほとんどが一番人気のコシヒカリと何らかの類縁関係を持っています。

 コシヒカリは味の良さや収穫の安定性に加えて、環境適応性に優れ、暖地、寒地を問わずに栽培できますから、じつに30府県で銘柄に指定され、全国の作付面積は4割弱におよび、県によっては7割、市町村によっては8割を超えます。驚くほどの寡占化です。

 佐藤氏によれば、稲の品種の寿命は100年もありません。コシヒカリが現れてからすでに50年。数十年後にはコシヒカリは確実に消えています。

 けれども次を狙う「キラッと光る品種」がいっこうに現れません。育種家はコシヒカリ以上の新品種をイメージできません。「グルメ」を自認する消費者が米の味を識別できず、料理とは無関係にブランド米ばかりを追い求めています。

 その結果、コシヒカリの独り勝ちに拍車がかかり、栽培不適地にまで作付けされますから、凶作の危険度が高まらないわけはありません。事実、平成5年の冷夏、16年の台風禍で、その心配は現実となっています。

 佐藤氏は「多様性を喪失し、生命力を失っている日本の稲作を蘇らせるためには、地域性を大切にした多様性豊かな環境の回復が必要だが、イセヒカリならできる」と言い切ります。熱帯ジャポニカの遺伝子を持ち、高い確率で新品種を自分で生み出す特異な遺伝形質(佐藤氏は「トランスポゾン=動く遺伝子」とみている)を有するイセヒカリこそコシヒカリ後の時代に生き残る唯一の米と確信しているのです。

 一方、イセヒカリ会は、イセヒカリが自家用縁故米の枠を抜け出し得ないなら、今後の課題として、派生的に生まれた変種の系統を品種登録にまで仕上げることが避けられないのではないか、と検討を始めました。


注記。この記事は総合情報誌「選択」2005年6月号に掲載された拙文「知られざる『次代の稲』イセヒカリ」に少し修正を加えたものです

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「新発見」イセヒカリの特異な遺伝形質──トラスポゾンの可能性高まる [イセヒカリ]

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「新発見」イセヒカリの特異な遺伝形質
──トラスポゾンの可能性高まる
(「神社新報」平成13年10月8日号)
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 丸粒のエンドウとしわ粒のエンドウを掛け合わせると、子供の代はすべて丸粒になるが、孫の代になると、3対1の割合で分離する──。
イセヒカリ水田.jpeg
 中学校の理科の教科書にも登場する、この「遺伝の法則」は、今日、誰でも知っています。けれども、メンデルの大発見が評価されるのには、死後16年という長い時間がかかりました。

「現代のメンデル」とよばれる女性の学説もまた、発表から30年間、社会から認められませんでした。何しろ「遺伝子が動く」というのですから、常軌を逸しています。研究成果が認知され、アメリカの遺伝学者バーバラ・マクリントックがノーベル医学・生理学賞を受賞したのは、1983年のことです。

 のちに「トランスポゾン」とよばれるようになるこの現象は、いまふたたび世界の注目を浴びようとしています。神宮神田で誕生したイセヒカリの遺伝子がどうやら「動く」らしいのです。


▽遺伝学上の大発見への予感
▽ふつうは考えられない現象

 イセヒカリの原々種の保存に黙々と取り組んでいる山口県農業試験場職員の吉松敬祐さんが、イセヒカリの遺伝子分析を手がける静岡大学農学部の佐藤洋一郎助教授のもとに電話をかけたのは、平成12年春のことでした。

「品種の系統選抜というのは、どのようにすればいいんですか」

 30年間、お米の食味分析一筋に打ち込んでできた吉松さんは、イセヒカリの美味にぞっこん惚れ込みました。だからこそ、畑違いの品種の固定化に、自宅の圃場で倫子夫人と二人三脚で挑んだのです。

 ところが、固定化は思うように進みません。鮮やかな葉色、比較的低い草丈、比較的大きな穂が重く垂れるというのがイセヒカリのイメージですが、そうではないものが不思議に毎年、現れるのです。弱った末の電話でした。

「一本植えしてください」と佐藤氏は答えました。

 しかし一本植えなら、何年も前から進めてきたことです。伊勢の神宮から根つきの稲株と玄米を譲渡された、「イセヒカリの育ての親」元山口農試場長の岩瀬平さんから、「これはいい稲だ。今後、種子対策が重要課題になる。一本植えで系統選抜してほしい」との指示を受けていたからです。

 吉松さんはふたたび佐藤さんに電話しました。
イセヒカリ稔り.jpeg
「どうしてもそろわないんです」

 佐藤さんは、そのころをふり返り、苦笑します。

「はなはだ失礼なことですが、この人は育種の素人で、やり方を知らないのではないか、とそのときは思いました」

 そうではありませんでした。几帳面な吉松さんが直面していた問題は、遺伝学上の世界的発見を予感させる、静かな序曲でした。けれども、まだ誰も、そのことに気づいてはいませんでした。

 この年の8月、佐藤さんは山口県北部、阿東町にある吉松さんの自宅を訪れました。8アールの水田に整然と植えられたイセヒカリが出穂期を迎えていました。

 平成8年以来、吉松さんは一本植えされた個体のなかから、草丈、分けつの仕方、穂長、穂相などを見定め、生育の様子をつぶさに観察しながら、翌年、その翌年と純系のイセヒカリの選抜を慎重に繰り返してきました。

 その結果、圃場では純系を中心として、いくつかの系統にイセヒカリが系統分離されています。葉色が薄いもの、茎が細いもの、開張型をしているもの、草丈が高いもの、穂の形の異なるものなどが新たに分離していました。

 なかにはぴょこんと草丈の低いものがあるのですが、3対1の比率ではありません。遺伝の法則では説明できない現象が起きています。それだけではありません。一本植えされているはずなのに、同じ稲株のなかに、草丈の高いものと低いものが一緒になっているのです。

「キメラのような、ふつうでは考えられないことが起きていたんです」

 ギリシャ神話に、頭はライオンで、胴はヤギ、尻尾は蛇、口から火を吐く「キメラ」といふ怪物が出てきます。それと似ていることから、生物学では、同一の個体に別個体の組織が混在する現象を、「キメラ」とよんでいます。アサガオやトウモロコシでよく知られているのですが、似たような現象が吉松氏の水田で起きていました。

「斑入りはないですか」

 と佐藤さんが聞くと、
イセヒカリ抜穂.jpeg
「あります」

 と吉松さんが答えました。葉っぱの上に葉緑素の失われた白い筋がタテに現れるのが「斑入り」です。

 吉松さんによれば、苗の段階で現れたのがやがて消えることもあれば、苗では現れない斑がその後、現れることもあります。他品種にも見られる現象ですが、イセヒカリは起こる確率が高いのです。

 吉松さんは当然ながら、選抜の過程で、斑入りを異種株として抜き捨ててきました。それでも、しつこいように現れるのです。計測してみると、3000分の1の確率で、斑入りは起きていました。面白いことに、斑入りの個体の種子を翌年、植えてみると、その子供は斑が消えていました。

「トランスポゾンかも知れない」

 佐藤さんの頭に、「動く遺伝子」のことがひらめきました。


▽アメリカの女性遺伝学者が発見
▽1983年にノーベル賞を受賞

 トランスポゾンはアメリカの遺伝学者バーバラ・マクリントックが発見した特異な遺伝現象で、その正体はといえば、佐藤さんによると、まだよく解明されていません。

 宮田親平著『科学者の女性史』やエブリン・フォックス・ケラー著『動く遺伝子』などによれば、マクリントックが永年のトウモロコシの遺伝子研究から「動く遺伝子」説を提唱したのは、1951年のことです。

 彼女は、粒色がまだらなトウモロコシを、何代にもわたって交配し、子細に顕微鏡で観察した結果、粒の色は色素をつくる遺伝子だけでなく、二つの調節遺伝子に影響されていることを発見します。しかもこの調節遺伝子は、同一の染色体上を自由に動き回り、ときにはひとつの染色体から別の染色体へと移動している、と彼女はシンポジウムで発表しました。

 けれども、「遺伝子が動く」という突拍子もない新説は、重苦しい沈黙に迎えられただけでした。当時、彼女の説を理解できるのは世界中でたった5人しかいなかったともいわれます。それほど独創的な発見でした。

 1945年に女性として初めてアメリカ遺伝学会の会長を務めたほど、若くして一目置かれる天才的研究者でしたが、「風変わりな新説」は、彼女に「奇人」のレッテルを貼らせたのです。

 マクリントックの発表の二年後、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックという、のちにこれまたノーベル賞を受賞する二人の生物学者によってDNAの二重らせん分子構造が発見されると、大腸菌やウイルスが主役の分子遺伝学が学会の主流となり、トウモロコシの研究にこだわり続ける女性学者は忘れ去られていったかに見えました。

 しかし60年代、70年代になって、細菌だけではなく高等生物の免疫細胞でも、「遺伝子が動く」ということが分かってきます。「動く遺伝子」は「トランスポゾン」と名付けられ、ガンウイルスもその一種であることが明らかにされました。

 古典的遺伝学では、遺伝子は染色体上に固定的につながっていると考えられましたが、そうではないことがようやく理解されるようになり、マクリントックの先駆的業績がやっと評価されることとなりました。83年にノーベル賞を受賞したとき、彼女は81歳。文字通り苦節30年、孤独と冷笑に耐えた末の栄光でした。

 トランスポゾンの可能性を指摘されるイセヒカリは、神宮神田で誕生して10年余り、篤農家や醸造家、消費者の熱い支持を集めていますが、いまだに公的な認知を受けていません。奇しき因縁というべきでしょうか。


▽1万分の1の確立でモチが発生
▽佐藤洋一郎氏が今月、学会発表
イセヒカリ抜穂祭.jpeg
 イセヒカリがトランスポゾンだとすれば、遺伝子上にいったい何が起きているのか。佐藤さんはこう説明します。

 DNAの小さなかけらがある日、突然、遊離してDNAの他の部分に入り込みます。その結果、そのDNAが担っている遺伝情報が破壊され、いままでにない新たな形質が発現します。しかし、このかけらは気まぐれで、また移動します。すると、元の状態に戻ります。

 斑入りは、受精卵の初期段階で葉緑素を作る遺伝子上でこの現象が起きたと考えられています。同様にして、お米のデンプン質を作る遺伝子に入り込むと、ウルチ稲からモチ稲が生まれることもあり得ます。

「運がよければモチ稲が出るかも知れません」

 佐藤さんが岩瀬さんに手紙で指摘したのは昨秋のことです。さっそく岩瀬さんから山口イセヒカリ会の主要メンバーに連絡がまわりました。

「モチ米が出た」と報告のあった農家のイセヒカリの米粒20万粒を、吉松さんがヨードヨードカリ呈色法で調べました。はたして23粒がモチと判定されました。

「1万分の1の確率でモチが発生している。突然変異よりはるかに高い確率です」と佐藤さん。やはり何かが起きています。

 佐藤さんはその後、研究室総出であらためて8万粒のイセヒカリを調べ直しました。孫の代ではどうなるのか、追跡調査を試みたかったからです。

 その結果、8粒のモチが確認され、このうち7粒を植えてみると、3粒に生育不全が起きました。明らかにイセヒカリのDNAに摩訶不思議な現象が起きているのです。トランスポゾンでしょうか。

「モチをつくるDNAは、4400個の塩基で形成されていることが知られています。配列も分かっています。だからDNAを調べれば、もしトランスポゾンだとすれば、分子レベルで何が起きているかが解明されます」

 佐藤さんの今後の研究は新たな遺伝学の地平を開く可能性があります。

 また、トランスポゾンなら、モチからふたたびウルチに戻るものもあるはずです。ウルチに戻る確率が高いと分かれば、トランスポゾンの可能性はより高まります。

 もしイセヒカリがトランスポゾンだとすれば、生きたままの状態で発見されるのは、佐藤さんによると、栽培植物ではきわめてまれで、学問的には画期的な発見になります。
イセヒカリ抜穂祓い.jpeg
「従来のトランスポゾンは機能を失った、化石状態で研究されてきました。しかし、イセヒカリのトランスポゾンは生きています。研究に弾みをつけることになります」

 佐藤氏は早くも若いトランスポゾン研究の専門家たちとチームを組み、本格的な研究の準備を進めています。その出発点が、10月上旬、九州大学で開かれた日本育種学会で、佐藤さんはイセヒカリのトランスポゾンの可能性をはじめて発表します。

「学会での発表後、世界中の遺伝学者がザワっと動きますよ。トランスポゾンなら日本政府は私たちの研究を財政的に支援してくれるはずです。それだけ大きな価値があるということです。もしトランスポゾンでないとすれば、もっと面白い。さらに大きな新発見につながるかも知れません」

 もしかしてノーベル賞級の発見かも--佐藤氏の目が眼鏡の奥できらりと光りました。


追伸 この記事は、宗教専門紙「神社新報」平成13年10月8日号に掲載された拙文「ひとは何を信じてきたのか 22 新発見イセヒカリの遺伝形質--トラスポゾンの可能性高まる」に、若干の修正を加えたものです。

 記事に出てくる育種学会は去る10月に開かれました。参加者によると、発表会場には立錐の余地もないほど、たくさんの方々が詰めかけたそうです。(平成13年11月)


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「イセヒカリは間違いなく新品種です」──遺伝学者佐藤洋一郎が迫る「発生の神秘」 [イセヒカリ]


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「イセヒカリは間違いなく新品種です」
──遺伝学者佐藤洋一郎が迫る「発生の神秘」
(「神社新報」平成11年12月6日号)
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「イセヒカリが新品種であることは間違いない。強く主張していいと思います」
イセヒカリ稔り2.jpeg
 そう断言するのは、静岡大学農学部の佐藤洋一郎助教授(現在は総合地球環境学研究所名誉教授)だ。

 佐藤氏は日本稲の「南北二元説」で注目される、現代の日本を代表する新進気鋭の植物遺伝学者である。

 日本の稲には遺伝的に「熱帯ジャポニカ」と「温帯ジャポニカ」の二系統がある。熱帯ジャポニカは東南アジア島嶼(とうしょ)地域から伝播した陸稲的な稲で、一方、温帯ジャポニカは中国・長江流域が起源の水稲だが、いずれも日本列島で栽培すると晩稲(おくて)となり、秋冷の早い北国では実を結ばない。ところが、両系統の稲が日本列島で自然交雑し、早稲が生まれた。そのため稲作はまたたく間に北進した

 --というのが佐藤氏の説で、稲の起源を研究テーマとする作物学者や考古学者、文化人類学者から注目されるようになった。

 その佐藤氏が、いまイセヒカリのDNA分析を続けている。伊勢の大神から授かった神秘の稲が本格的な遺伝子分析の対象となるのはもちろん初めて。半年間の研究の結果、「新品種」の太鼓判が押されたのだ。平成11年の秋、カンボジアから帰国したばかりのところを取材した。


▢神秘のベールに包まれた稲
▢既知の品種ではとの疑いも


 平成元年秋、伊勢神宮神田で生まれたイセヒカリは、大神からの授かりものにふさわしく、発生時から謎のベールに包まれてきた。「突然変異で生まれたのか、それとも自然交雑なのか」「新種なのか、もしかして従来の品種なのではないのか」という疑いさえかけられた。

 筆者が神宮神田を取材した8年3月、発見者である当時の神田管理責任者・森晋(もりすすむ)氏はこう語った。「2度の台風で、西八号田のコシヒカリはべったりと倒伏してしまったが、中央に2株、直立する稲があった」。それが、誠実な人柄で、1日3回の見回りを欠かしたことがない森氏による、イセヒカリ発見の瞬間であった。

 翌平成2年春には試験栽培が始まるのだが、森氏のいう「2株」がやがて思わぬ波紋を呼ぶことになる。「イセヒカリはコシヒカリの突然変異で生まれた」といわれてきたが、もし「2株」なら「突然変異」とはふつうには考えられないからだ。

 平成元年秋に稲株として姿を現したイセヒカリは、種子の段階では前年の昭和63年秋に実を結んだことになる。突然変異だとすれば、この年の夏、ある稲株のひとつの花に何らかの理由で変異が生じ、種となり、翌平成元年春、神田に苗として植えられ、秋に目に見える姿となって現れたと考えられる。
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(画像は台風一過の圃場。手前がコシヒカリ、奥の青々としているのががイセヒカリ。財団法人オイスカ提供)
 しかしその場合、1粒の種子は1株の稲にしかならないはずで、「2株」にはなり得ない。発生から5年以上が過ぎ、はっきりした記憶が薄れてしまっているのであろうか。あるいは同時期に同じ神田で「古代赤米」にも新種が発生していることから、記憶に混乱が生じたのか。発見者は「育種を勉強していれば、克明に記録を取っていたのだが……」と悔やんでいる。

 ともかく「2株」問題は「コシヒカリの突然変異といえるのか。ひょっとして他品種の種が混じったのではないか」という疑いを募らせることになった。

「黄金晴(こがねばれ)によく似ている」という指摘もあった。黄金晴は中部、近畿、高知、北部九州で栽培される品種だが、「草状や耐倒伏性、出穂期、成熟期、収量性などが似ている」というのだ。気の早い人は「イセヒカリは新種と考えるのは誤りではないか。黄金晴の混入ではないか」と疑った。

 しかし、平成9年に神宮から種籾が各地の神社に下賜され、全国展開することになって以後、現在では栽培面積が把握できないほど広がっているというのに、「あの稲は黄金晴ではないか」というような農家からの指摘は聞かれない。それどころか、「長門一の宮」住吉神社(山口県下関市)の御田植祭の苗づくりを長年、奉仕してきた山口県長門市の宮本孟氏などは「いままでで一番いい品種」と折り紙をつける。従来にない画期的な品種であることを「米作り名人」たちは素直に認めているのだ。

 黄金晴とイセヒカリは形態的にも生理学的にも明確に違う。栽培者によれば、「黄金晴は茎が粗剛で太い」のだが、「イセヒカリは女性的でしなやか。全体的には小振り」である。また黄金晴は秋になると、葉が白く変色するけれども、イセヒカリの葉はいつまでも青々としていて、しかも穂が見事な黄金色になる。さらに黄金晴には白葉枯れが出るが、イセヒカリは違う。

 アミロースの含量も異なる。米のデンプンにはブドウ糖分子が直線状につながったアミロースと枝状につながったアミロペクチンの2種類があり、前者はパサパサ感、後者はモチのネバネバ感のもとになっているのだが、イセヒカリはアミロース含量の高い硬質米である。黄金晴とイセヒカリのアミロース含量の有意差は田んぼの違いぐらいでは揺るがないという。

 神宮神田では、両品種が隣り合わせで植えられていたこともある。「栽培のプロ」が同一の品種を別品種として何年間も作り続けるなどということは到底あり得ない。
イセヒカリ圃場.jpeg
 そうはいっても、公的な育種機関の選抜によらず、「民間」で「偶然」に生まれ、品種登録もされないイセヒカリを公的機関などが一顧だにしないという厳しい現実のなかで、謎は謎のまま放置されてきた。

 こうして佐藤氏のDNA分析は、イセヒカリ発生の謎に迫ることにもなった。


▢「コシヒカリの突然変異」で
▢ある確立は「何十万分の一」


「美味しいお米ですね」

 電話の向こうから聞こえてきた佐藤氏の感に入ったような嘆声を、筆者は忘れることができない。

「新しいお米をいただくと生卵をかけて食べてみるんです。これが一番よく分かる。軟質米のある品種などはベチャっとして食べられない。イセヒカリはシャキっとしている。あんな変わった米、はじめて見ました」

「大神の稲」の美味が研究者の探求心を揺り動かしたのであろうか。DNA分析は平成11年春に始まった。イセヒカリはコシヒカリの突然変異なのか、栽培環境の違いで見かけ上、異なる品種のように見えるのかどうかの確認が当面の目的である。

 まず、サンプルとなる品種の種籾を発芽させ、苗が作られた。次に各品種の葉を乳鉢ですりつぶし、特殊な試薬を加え、DNAが抽出される。

 稲の細胞には、遺伝形質を伝える染色体(DNA)が12対ある。DNAは4種類の塩基(化合物)が結合したもので、二重らせん状にからまり合っている。この塩基の配列が遺伝現象の核心で、各DNAが鋳型となってコピーを作り、遺伝情報を次世代に伝えていくのである。

 試薬を加えるとDNAの配列パターンが増幅され、何千、何万通りものパターンが所・番地で表示されて比較できるようになる。

 佐藤氏の分析では、「一番地(RM1)」のDNAパターンが抽出され、比較されることになった。

 板状の寒天の上に並べられた「一番地」のDNAに100ボルトの電気を30分かける。すると、DNAが板の上をゆっくりと移動していく。そのあと特殊な方法で寒天の板を着色し、下から紫外線を当てると、バーコードのような文様がピンク色に浮かび上がる。
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「電気泳動」とよばれるこの方法で実験した結果が左の写真(佐藤洋一郎氏提供)である。左から2番目がイセヒカリ、4番目がコシヒカリだが、実験結果を見て、佐藤氏は思わず、「ああ、違う、違う」と声をあげたという。

 電気をかけられたDNAのパターンは上から下へと移動するのだが、配列パターンの長さ、つまりパターンを構成している塩基の数の多少によって、移動速度が微妙に異なる。同じ「一番地」ながらコシヒカリの方が大きく、移動速度は遅い。そのためイセヒカリより少し上の方にとどまっているのが分かる。

「一番地」のDNAパターンは稲のDNA全体の何十万分の一という、ごく一部分でしかない。したがって、もしイセヒカリがコシヒカリの突然変異だとして、この「一番地」という特定のDNAパターンだけが変化したとすれば、その確率は何十万分の一であって、「ほとんど無視していい確率」ということになる。

 イセヒカリはコシヒカリとは別の品種であり、新しい品種であることがこうして証明されたのである。


▢イセヒカリの「父親」は誰か
▢浮かび上がる「大神の神業」


 それならばイセヒカリはどのようにして生まれたのか。

 佐藤氏の推理では、「コシヒカリが他家受粉して生まれた」とする。コシヒカリの雌しべに他品種の花粉が飛んできて受粉し、実を結んだのではないかというのだ。

 母親はコシヒカリだとして、父親となった品種は何か。佐藤氏の関心は「父親探し」に移っている。

 母親のコシヒカリと父親の品種が他家受粉するためには、出穂・開花の時期が重なっていなければならない。ひとつの品種の開花期は約1週間。したがって自然交雑するには前後2週間の幅があれば十分可能だ。

 また稲の花粉は数百メートル飛ぶことが分かっている。数百メート離れた水田で作られていた品種も、開花期が重なれば、「父親候補」の可能性がある。

 となると、昭和63年の夏、神田に植えられていた日本晴、ヤマヒカリ、チヨニシキなど10品種あまりのうち、ほとんどすべてが父親となり得るが、注目されるのは「イセヒカリには熱帯ジャポニカの遺伝子が確実に含まれている」という佐藤氏の指摘である。それはイセヒカリの味に端的に現れている。

 美味しいお米には2種類がある。ひとつはコシヒカリに代表される低アミロース米で、モチモチとした柔らかさが特徴である。もうひとつは淡泊で歯ごたえのある大粒の米で、かつては旭、日の丸などの品種が知られていたという。

 このふたつの嗜好には地域性があるのが面白いところで、前者は東日本で好まれ、後者はおもに西日本で好まれてきた。後者をいまほとんど見かけなくなったのは「ササ・コシ」神話であり、「国策」らしい。育種から種子生産、販売までを公的機関が握り、画一化された農業政策のなかで駆逐されてしまったのだ。

 この失われた幻の味覚ががイセヒカリの美味であり、熱帯ジャポニカの遺伝子によるものだという。

 神宮神田で植えられている熱帯ジャポニカの遺伝子をもつ品種、それこそがイセヒカリの父親候補ということになるのだが、それは何だろう。あまりにも恐ろしいことで、軽々にいうべきことではないのだが、有力候補のひとつとして浮かび上がってくるのは瑞垣(みずがき)である。

 瑞垣は、昭和天皇の御即位の直後で、第58回式年遷宮の翌年、昭和5年秋に伊勢神宮の瑞垣内で発見された「霊稲」である。20年に一度の大神様のお引っ越しが終わった旧御正殿の軒下、こぶし大の白石が幾重にも敷き詰められた神域に1茎の稲が発生し、いまにも30粒ほどの籾が稔ろうとしていたという。

 ふつうにはあり得ないことで、古来、「お蔭詣りの年」とされる遷宮の翌年に現れた「聖代の瑞兆」だというので、「瑞垣」と命名され、神宮の広報誌の名前の由来ともなっている。以来、今日まで「門外不出の稲」として、御饌料田だけで大切に育てられてきた。
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 昭和の御代替わりに生まれたこの瑞垣を父親として、今度は平成の御代替わりにイセヒカリが生まれたのだとしたら、そこに示された大神のくすしき神業にはまったく絶句せざるをえないのだが……。


追伸 この記事は神社界の専門紙「神社新報」平成11年12月6日号に掲載された拙文「『イセヒカリは間違いなく新品種です』--遺伝学者佐藤洋一郎が迫る『発生の神秘』」に若干の修正を加えたものです。

 記事のなかで「突然変異だとすれば、昭和63年に変異が発生し、秋に種となり、翌平成元年に苗として植えられ、秋に姿を現した」と書きましたが、「昭和62年に変異が発生したことも考えられるのではないか」という指摘もあります。

「昭和62年に変異が発生し、翌63年に植えられたが、遺伝の法則に従って同年秋の段階では新品種としての形質は現れず、翌平成元年になって目に見える形となって現れた」という見方です。この推理からすれば、「2株」でも何ら不思議でない、ということになります。

 しかし、「平成2年に試験栽培を試みたとき、一粒ずつ種を蒔いて苗を作り、本田に1本植えで苗を移植したとき、100株、2列分になった」という森氏の証言からすると、最初に発生したイセヒカリは「2株」ではなく「1株」だったのではないかと考えるのが妥当であり、何かが起こったのは昭和63年から平成元年、まさに平成の御代替わりである、と見て間違いないのではないかと思います。

 けれども、イセヒカリが新品種であるにしても、また突然変異ではないとして、神宮神田でいったい何が起きたのか、「驚異の稲」イセヒカリ発生に関する謎はまだ謎のままです。佐藤先生の遺伝子分析に期待したいと思います。

伊勢神宮「神田」で誕生した「驚異の稲」イセヒカリ──コシヒカリまっ青だから出まわらない [イセヒカリ]

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伊勢神宮「神田」で誕生した「驚異の稲」イセヒカリ
コシヒカリまっ青だから出まわらない
(総合情報誌「選択」平成11年3月号)
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 日本最古の歴史書である『日本書紀』は、皇室の祖神・天照大神(あまてらすおおかみ)が天孫降臨に際して、

「わが高天原にある斎庭(ゆにわ)の稲穂をわが子に与えなさい」

 と命じられた、と書いている。天孫降臨はわが国の稲作の始まりでもある。

 この「斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅(しんちょく)」さながらに、平成の御代替わりと時を合わせて、天照大神をまつる伊勢神宮(三重県伊勢市)の神田(しんでん)で「驚異の稲」が「突然変異」で誕生した。味がコシヒカリ以上に抜群で、反収は何と10俵を超えるというから、ただごとではない。


▽ 御代替わりに時を合わせて

 平成元年の秋、伊勢地方を台風が二度も襲った。神田のコシヒカリは無惨にもべったりと倒伏した。倒れやすいのがコシヒカリの最大の欠点である。

 ところが、水田中央に直立する稲株があった。稈(かん)が太く短い。しかも成熟するにしたがって、見事な黄金色になった。コシヒカリのくすんだ色とは違う。神田の管理責任者・森晋氏(当時、写真左下)は次年度から試験栽培を試みる。

「驚異の稲」であることを知るのは、山口県農業試験場の元場長・岩瀬平氏との出会いからである。岩瀬氏は2年春、学徒出陣以来という伊勢参宮のおりに神田に足を運ぶ。育ての親同士の運命の出会いであった。

 6年秋、岩瀬氏の自宅に大きな段ボール箱が送られてきた。根つきの稲株5株と玄米、それに森氏の手紙が添えられていた。

「評価をお願いしたい」

 後輩の内田敏夫・元農試場長がやってきた。

「この稲は見事に作られていますな」
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 県内随一の稲の専門家は感嘆の声をあげた。穂長が20・9センチ、第一節間長の半分以上もあった。

 詳しい検査のため、内田氏は1株を持ち帰った。予想もしない結果が現れた。ニレコ食味計は食味値79を示したのだ。70以上が県の奨励品種だから、はるかに高い。何度計り直しても同じ値が出た。1穂あたり籾数は109、玄米千粒重は21・3グラム。反収を推算すると、軽く10俵を超える。

 内田氏も岩瀬氏も、そして森氏も驚いた。とくに森氏にとって、食味の良さは「神田でとれる米は、神様に差し上げる米なので、食べることができない」から衝撃であった。

 翌7年、岩瀬氏らは圃場栽培を試みる。長門一の宮・住吉神社(下関市)の御田植祭の苗づくりを30年以上、奉仕してきた宮本孟氏(長門市)ほか3人の米づくり名人が選ばれた。

 植え付けてみて驚いた。コシヒカリより10日以上も遅い中生(なかて)だった。水が落とされ、コシヒカリが刈り取られたあとも成熟し切らない。かたや水が落とされていない水田では、30センチもある稲穂が重く頭を垂れる。「栽培法をぜんぶ誤った」のに、1穂籾数は125。「100以下がふつう」というから、すごい。反収換算では籾で1トン、玄米で800キロ、じつに13俵に相当する。

 しかも食味値は、最高で87を記録した。

「食味値が80以上になると人間には判別がつかない。食味は十分に保証できる」

 と岩瀬氏は太鼓判を押す。

「絶対に倒れないから、機械化に対応する。この年はヤマホウシ、ヤマヒカリにイモチ病が発生したが、病気はでなかった。耐病性もありそうだ」

 8年1月、「驚異の稲」は「聖寿無窮を祈念し、皇大神宮御鎮座2000年を記念」して、伊勢神宮少宮司・酒井逸雄氏によって「イセヒカリ」と命名された。

 神宮ではこの年の秋の神嘗祭(かんなめさい)から神前に供され、逆にコシヒカリは神田から姿を消すことになった。

 同年4月、イセヒカリは宗教専門紙や一般全国紙に取り上げられ、一躍、脚光を浴びる。全国から問い合わせが殺到し、神宮は「門外不出」としてきた先例を改め、種籾の下賜(かし)を認めた。

 この年、神宮からは鹽竃(しおがま)神社(宮城県)、多賀大社(滋賀県)、鹿児島神宮(鹿児島県)など30県101社の神社に、山口県神社庁から県内69件、県外11件の種籾頒布(はんぷ)が行われた。

 岩瀬氏に真っ先に電話がかかってきたのは、埼玉県秩父市の石原儀助氏からという。

「お伊勢さんのお米を1粒でもいいから分けてほしい」

 翌9年の早春、神社庁から種籾が分譲されると、

「神様にお仕えするつもりで作らせていただきます」

 その秋、氏神の聖神社に奉納されたのを食した総代一同はその美味に驚嘆した。それもそのはず、埼玉県農試が調べた食味値は県内最高の88を示していたという。

 米の食味を研究する山口農試の吉松敬祐氏は「神々しいお米」と評する。米所のコシヒカリを食べ慣れた消費者は、「炊きあがったとき、香り、艶、腰、甘みがある。こんな美味しい米は食べたことがない」「おかずが要らないお米」と絶賛する。農家は続々と自家用米をイセヒカリに切り替えている。

 岩瀬氏がまとめた9年度産のデータでは、反収500キロ以上が7割を超え、最高は福岡県赤池町の太田欣平氏の720キロ。食味値は80以上が4割、75以上が7割を超え、最高は山口市の兼村晴定氏の96であった。
イセヒカリ田植熊谷.jpeg
「コシヒカリ並に施肥を抑え気味にすれば、収量は平均反収そこそこだが、味はコシヒカリをしのぎ、施肥を増やせば味は日本晴並に下がるが、反収700キロが実現できる」ことも分かった。

 つまり、味を重視する稲作に対応できるばかりではなく、近い将来に予想される食糧危機にも対応できる。岩瀬氏は「いかようにも作れるスケールの大きい米」と表現する。

 9年はイモチ病が蔓延し、10年はウンカが大発生した。ところがイセヒカリはいずれにも強いことが証明された。栽培農家は無農薬で、防除らしい防除もせずに乗り越えている。

 10年産は9割が食味値80を超えた。最高は鹿児島県大口市の森山善友氏、何と103を示した。台風の被害に見舞われた関東では、「コシヒカリやキヌヒカリは売り物にならないほど軒並み倒れたが、イセヒカリは王者のごとく直立して、不気味なほどだった」(埼玉県熊谷市、吉野森男氏)。

 11年2月中旬、山口県神社庁で開かれたイセヒカリ栽培者の交流研究会で、元山口農試次長の森野収氏は、「現状では最高の米」と折り紙をつけた。

「休耕田にコーヒー滓(かす)を敷き入れ、翌年、イセヒカリを植えれば、無肥料で14俵がとれる」

 また、「直播きで反収9俵、食味値90を達成した」という福岡県赤池町の太田五郎氏の発表もあり、省力化が実現できることも知らされた。


▽ 公に流通しない「幻の米」

 しかし、イセヒカリが公の市場に流通する見通しはない。登録品種でも奨励品種でもないため、原種の保存も種籾の生産も公的機関はいっさい関与しない。農協も正規には扱わない、公的には作れない、売れない、買えない「幻の米」なのである。

 西日本のある農業試験場では、栽培試験で驚くべき高い評価が現れたとも伝え聞かれるが、県は「さわらぬ神に……」で「見ざる、聞かざる、言わざる」を決め込んでいるという。

 それでも、イセヒカリは各地の神社の神饌田(しんせんでん)と篤農家を核にして、いまでは栽培農家の数が把握できないほど、着実に広がっている。

 三重県JA伊勢は10年秋、ついに店頭売りをはじめた。価格は無名の銘柄ながらコシヒカリ並の10キロ5200円。山口県内でも「扱わせてもらえないか」という小売業者が現れた。

 岩瀬氏は「タンパク含量が低いから酒米に適している。何とも端麗ないい酒ができる。ワラ重が多いのは、めったに口にできないが、飼料米としての用途利用も考えられ、将来の生産調整に対応できる」と語り、さらにこう断言する。

「政府は米の関税化を決めたが、“売るべき米”を持たない山口県の稲作は7年後、関税が50円下がれば、アメリカ米に対抗できなくなる。そのとき生き残れるのは、いまは売れないイセヒカリだけだ」
イセヒカリ収穫熊谷.jpeg
 日本の稲作の危機の時代に、稲作信仰の中心である伊勢神宮で生まれたイセヒカリ──。伊勢の大神は日本民族に何を語りかけようとしているのか。


追伸 この記事は、総合情報誌「選択」(選択出版)平成11年3月号に掲載された拙文「伊勢神宮『神田』で『驚異の稲』誕生--コシヒカリまっ青だから出まわらない」を若干、修正したものです。
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