「膠着」どころか、着々と進む靖国神社に代わる「国の追悼施設」──日経編集委員の靖国論に反論する [靖国神社]
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「膠着」どころか、着々と進む靖国神社に代わる「国の追悼施設」──日経編集委員の靖国論に反論する
(令和3年8月14日、土曜日)
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明日の終戦記念日を前に、一昨日8月12日の日経電子版に「靖国・千鳥ケ淵・新施設…戦没者追悼の道筋なお見えず」と題する大石格・編集委員の記事が載りました。「戦没者をどう弔うのがよいのか」について、いわゆる靖国問題の経緯を振り返り、問題提起が試みられています。〈https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD1091R0Q1A810C2000000/〉
結論として、大石さんは、現状を「膠着状態」と捉えています。政府内には、「(靖国神社に代わる)新施設を推す動きはまったくない」し、「首相の公式参拝の復活は外交的にほぼ無理」だからです。
けれども違うのです。靖国神社に代わる国の追悼施設は着々と既成事実が積み上げられているからです。大石さんの見立てた「膠着状態」はむしろ、大石さん自身の頭脳内に腰を据えているのではありませんか。どういうことなのか、以下、説明します。
▽1 靖国神社は「宗教」なのか
大石さんは戦後史から書き起こしています。政府主催の戦没者追悼式も千鳥ヶ淵墓苑も「無宗教」だが、靖国神社は「宗教法人」だ、というのが議論の前提です。この論理こそ「膠着状態」の第一原因です。
靖国神社の歴史が幕末・明治維新期に遡ることは大抵の人は知っています。大石さんが戦後の歴史から書き起こしているのは「宗教法人」に着目するからでしょう。しかし創建史を無視してはいけません。
もともとは官軍の招魂社でしたが、靖国神社と改称列格されたのは、国に一命を捧げた国民の慰霊・追悼施設として確立されたことを意味しています。それは日本が近代国家として生まれ変わったことと同義です。殉国者の慰霊追悼は近代国家の責務です。慰霊追悼は宗教的行為です。
しかし国家による慰霊追悼はいかなる意味での「宗教」なのか。靖国神社は近世の義人信仰を源流としているとはいえ、一般の神社とは多くの点において異なっています。一律に「宗教」だと認めるべきでないことは、上智大学生靖国神社参拝拒否事件のときにバチカンが示した公式見解から明らかです。
ちなみに欧米で戦没者追悼の国家的儀式が行われるようになったのは、日本より遅く、第一次世界大戦休戦直後のイギリスからで、キリスト教の宗教的伝統に基づいて、いまも続いています。それに対して、政教分離の観点から批判があるとは聞きません。
大石さんは、国に命を捧げた戦没者への慰霊追悼は国が行うべきこと、それは宗教的伝統に従って行われるべきこと、政府が非伝統的儀礼を創設することは新たな国家宗教の創始であり、政教分離原則と矛盾すること、に思い至らないのでしょうか。
慰霊追悼は宗教行為そのものですが、政教分離に抵触するのかどうか。政教分離主義の源流とされるアメリカなら、同時多発テロの犠牲者の追悼ミサも、歴代大統領の葬儀も、「全国民のための教会」ワシントン・ナショナル・カテドラルで、キリスト教形式で、政府主催で行われます。ちなみに戦後の戦没者追悼式が靖国神社で行われたこともありました。それがなぜ「膠着状態」に至ることになったのか。
▽2 靖国問題の本当の核心
戦後は、たしかに大石さんが仰せのように、靖国神社は「宗教法人」となりました。しかしみずから進んで宗教法人化したわけではありません。
いわゆる神道指令発令ののち、宗教団体令の改正で、一方的に期限を示されたうえで、「宗教法人」とならなければ「解散」されたものと見做される、という切羽詰まった状況下での苦渋の選択によるものでした。靖国神社は国家的慰霊追悼の存続のため、やむを得ず宗教法人化したのです。
そして、まさにその原因となった「神道指令」です。靖国神社を標的にしたかのような指令がなぜ発令されるに至ったのか、です。国際法違反は明白なのに。
日本の敗戦はポツダム宣言の受諾によりますが、同宣言に明記された「軍国主義・超国家主義」が曲者です。アメリカはその源流を「国家神道」と見定め、その中心施設こそが靖国神社であり、その経典が教育勅語であると信じていたようです。そのことは戦時中にアメリカが新兵養成のために製作したプロパガンダ映画を見れば明らかです。
であればこそ、占領軍は靖国神社を敵視し、爆破焼却しようとも考えていたようです。しかし同社は生き残りました。靖国神社の神職が侵略戦争を指導していたと本気で考える人たちもいたようですが、実際には一兵卒として応召していたことを知って驚いたGHQ職員がいたとも伝えられます。
つまり、「国家神道」こそ幻なのです。
であればこそ、占領後期になれば、GHQの政教分離政策は限定主義に転換され、吉田茂総理の靖国神社参拝も認められています。にもかかわらず、戦後何十年も経って靖国問題が浮上し、政教分離の厳格主義が幅を効かせ、いつまで経っても問題が解決できない「膠着状態」に立ち至ったというところに、問題のほんとうの核心があるのでしょう。
アメリカでさえ卒業したはずの「国家神道」論を日本人が克服していないということです。
▽3 国にスルーされる靖国神社
大石さんは「富田メモ」を取り上げていますが、富田朝彦宮内庁長官は「無神論者」を自認する人だったことが知られています。個人の思想は自由とはいえ、宮内庁のトップでありながら、天皇の祭祀には「不参」のことが多かったと聞きます。根っからの宗教嫌いなのでしょう。
だとすれば、「富田メモ」もその前提で読み直されるべきです。
国に命を捧げた国民に対して、慰霊追悼の誠を捧げられるのは国以外にはあり得ません。それを戦後、半世紀以上も、民間任せにしてきたところに根本的問題があります。
大石さんは靖国神社当局による戦犯合祀に膠着化の原因があるかのように書いていますが、いわゆる戦犯を「戦没者」と認め、援護政策の対象としたのは日本政府です。靖国神社は政府の決定に基づいて、合祀したのです。合祀に異議があるのなら、戦犯者を戦没者と認定した政府を批判し、取り消しを要求すべきです。
靖国神社はいまも、本来、国がなすべき慰霊追悼の誠を、国に代わって、日々、捧げています。それは宗教儀礼というより国家儀礼というべきものです。昨日は現職閣僚の参拝がありましたが、宗教行為というより公人の表敬行為と見るべきでしょう。私人による参拝だから政教分離に違反しないとする政府の憲法解釈も誤っています。公人だからこそ表敬することに意味があります。
さて、大石さんは記事の最後で、「膠着状態はいつまで続くのか」と問いかけていますが、事態は水面下で着々と進んでいることにお気づきにはならないのですか。
つまり、大石さんも言及している、宗教法人靖国神社内の人間臭いゴタゴタに目を奪われている隙に、千鳥ヶ淵墓苑、防衛省メモリアルゾーンには、皇族方や総理ほか政府要人、外国政府代表者が定期的に参詣し、事実上、靖国神社に代わる国の追悼施設へと既成事実が積み重ねられています。
近代以降、唯一の国家的戦没者追悼施設である靖国神社が、ほかならぬ国によってスルーされているところに最大の問題があります。
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【関連記事】靖国を知らずに靖国を論じる愚昧──中国・韓国の靖国参拝批判に反論する その1〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-04-23-01?1628940131〉
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【関連記事】ここがポイント。「靖国参拝」「A級戦犯」批判に大反論〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-04-21-2?1628939814〉
【関連記事】朝日新聞と神道人、それぞれの戦争 戦後期 第3回 新聞人の夢を葦津珍彦に託した緒方竹虎〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-04-14-3〉
【関連記事】朝日新聞と神道人、それぞれの戦争 東条内閣期 第2回 戦時体制と闘った在野の神道人たち〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-04-10-2〉
【関連記事】朝日新聞と神道人、それぞれの戦争 日中戦争期 第1回 師弟関係にあった緒方竹虎と葦津珍彦〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-04-09-1〉
靖国神社「遊就館」見学を止める宝塚市──「侵略戦争を美化」と共産党市議に批判されて [靖国神社]
以下は斎藤吉久メールマガジン(2013年7月14日)からの転載です
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靖国神社「遊就館」見学を止める宝塚市
──「侵略戦争を美化」と共産党市議に批判されて
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「政教関係を正す会」から「はがき通信」が届きました。
テーマは、5月末に宝塚市議会で共産党議員が、市内中学校が修学旅行で「過去の侵略戦争を美化している」靖国神社の遊就館を見学していることについて問いただし、結局、「今後は利用しない」と同市学校教育部長が答弁、「屈服」したというものです。

「はがき通信」は、児童生徒による宗教施設の訪問に関して、戦後の歴史を振り返り、以下のような3つのポイントから、批判を加えています。
(1)占領時代、昭和24年の文部事務次官通達で、「文化上の目的」「強制、命令しない」という条件なら許されるとされていた。
(2)もっとも、「靖国神社、護国神社および主として戦没者をまつった神社を訪問してはならない」という留保がつけられていたが、平成19年になり、この禁止条項が失効している旨、文部科学省が回答している。
(3)平成20年に、平沼赳夫議員の質問主意書に対して、福田康夫首相が「靖国神社についても参拝してよい」と答弁している。
国政レベルで明確な見解が示されているのだから、「参拝を続けるべきではないか」というわけです。「政教関係を正す会」の「はがき通信」としては、じつにそつのない主張です。
けれども、政府見解を解説することが根本的な解決につながるのかどうか、私は疑問を感じています。
もっとも核心的な問題は戦後の日本政府の見解ではなく、過去の戦争そのもののはずですが、共産党議員が指摘した「過去の侵略戦争を美化している」云々について、「はがき通信」には反論が見当たりません。
「はがき通信」は、近代の戦争が「侵略戦争」であるとも、靖国神社が「侵略戦争を美化している」とも、認めていないはずです。靖国神社は「侵略戦争を美化している」けれども、「参拝してかまわない」ということではありません。
それなら、「美化していない」から「参拝」は許される、ということなのでしょうか? それもヘンです。
▽1 なぜ「軍国主義」の中心施設とされたのか
靖国神社の歴史は明治2(1869)年に東京招魂社が創建されたことに始まります。同7年に行幸になった明治天皇は「我国乃為をつくせる人々の名もむさし野に止むる玉かき」と詠まれ、同12年、「靖国神社」と改称されました。
イタリアの古城を模した遊就館が落成したのは同14年、お雇い外国人カペレッティの設計でした。
国に一命を捧げたという一点において殉国者を祀るのが靖国神社であり、遊就館は古来の武器陳列場でした。靖国神社に特定の歴史観はありません。
靖国神社に最大の転機が訪れたのは、敗戦直後です。
アメリカは戦時中から「国家神道」こそが「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉であり、靖国神社がその中心施設であり、教育勅語が聖典だと理解していたようです。
ボツダム宣言には、「軍国主義」が世界から駆逐されるべきことが明記され、日本政府はこれを受諾し、戦争は終わりました。
アメリカ国務省は「国教としての神道、国家神道の廃止」を占領政策に掲げ、占領軍は「神道、神社は撲滅せよ」と叫び、靖国神社の「焼却」がもっぱら噂されました。
20年暮れにいわゆる神道指令が発令され、靖国神社は国家との関係が絶たれ、翌年の宗教法人令の改正で一宗教法人となりました。
しかし、靖国神社の歴史は続いています。
靖国神社が侵略戦争を推進し、世界の平和を脅かす中心的施設だというのなら、ポツダム宣言を受諾した以上、爆破焼却されても文句は言えません。
ところが、靖国神社は「廃止」「焼却」を免れたのです。
それだけではありません。
小林健三、照沼好文『招魂社成立史の研究』錦正社、昭和44年)によると、20年11月の臨時招魂祭・合祀祭に参列したCIE(民間情報教育局)部長のダイク准将は「たいへん荘厳でよかった」と感激したことが伝えられています。
この落差は何でしょうか?
靖国神社は何をもって、「軍国主義・超国家主義」の中心施設とされたのか、が事実に基づいて、解明されるべきです。同時に、占領軍はなぜ、靖国神社を「焼却」しなかったのか、を実証的に究明すべきです。
▽2 靖国神社に優る施設があるのか
くだんの宝塚市議の活動報告には、「市内の中学校が修学旅行の平和学習として靖国神社の軍事博物館『遊就館』を見学した。過去の侵略戦争を『アジア解放の戦争』と美化する特殊な施設をこれからも平和学習として利用するのか」と質問し、「遊就館は適切ではなかった。今後は利用しない」との答弁を得たことが記されています〈http://tanakakou.exblog.jp/19648655/〉
今後、宝塚市は「平和学習」のため、中学生たちにどこの施設を見学させるつもりなのでしょうか?
戦前、30年の長きにわたって靖国神社宮司の地位にあった賀茂百樹は、「侵略戦争の美化」どころか、平和を訴え続けました。
晩年、病床で口述した「私の安心立命」(昭和9年)には「神ながらの武備は戦争のための武備ではない。戦争を未然に防止し、平和を保障するのが最上である」とあります。
靖国神社の宮司が命を振り絞って「平和」を訴えながら、それでも戦争の惨禍は止められませんでした。それが歴史です。
「平和」を願い、死者たちに静かな祈りを捧げようとしても、「軍国主義」「侵略戦争」と指弾されるのが、世界の現実です。
この厳しい歴史と現実を教えてくれるのが靖国神社です。共産党市議も宝塚市も、これにまさる「平和教育」があるとお考えでしょうか?
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靖国神社「遊就館」見学を止める宝塚市
──「侵略戦争を美化」と共産党市議に批判されて
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「政教関係を正す会」から「はがき通信」が届きました。
テーマは、5月末に宝塚市議会で共産党議員が、市内中学校が修学旅行で「過去の侵略戦争を美化している」靖国神社の遊就館を見学していることについて問いただし、結局、「今後は利用しない」と同市学校教育部長が答弁、「屈服」したというものです。

「はがき通信」は、児童生徒による宗教施設の訪問に関して、戦後の歴史を振り返り、以下のような3つのポイントから、批判を加えています。
(1)占領時代、昭和24年の文部事務次官通達で、「文化上の目的」「強制、命令しない」という条件なら許されるとされていた。
(2)もっとも、「靖国神社、護国神社および主として戦没者をまつった神社を訪問してはならない」という留保がつけられていたが、平成19年になり、この禁止条項が失効している旨、文部科学省が回答している。
(3)平成20年に、平沼赳夫議員の質問主意書に対して、福田康夫首相が「靖国神社についても参拝してよい」と答弁している。
国政レベルで明確な見解が示されているのだから、「参拝を続けるべきではないか」というわけです。「政教関係を正す会」の「はがき通信」としては、じつにそつのない主張です。
けれども、政府見解を解説することが根本的な解決につながるのかどうか、私は疑問を感じています。
もっとも核心的な問題は戦後の日本政府の見解ではなく、過去の戦争そのもののはずですが、共産党議員が指摘した「過去の侵略戦争を美化している」云々について、「はがき通信」には反論が見当たりません。
「はがき通信」は、近代の戦争が「侵略戦争」であるとも、靖国神社が「侵略戦争を美化している」とも、認めていないはずです。靖国神社は「侵略戦争を美化している」けれども、「参拝してかまわない」ということではありません。
それなら、「美化していない」から「参拝」は許される、ということなのでしょうか? それもヘンです。
▽1 なぜ「軍国主義」の中心施設とされたのか
靖国神社の歴史は明治2(1869)年に東京招魂社が創建されたことに始まります。同7年に行幸になった明治天皇は「我国乃為をつくせる人々の名もむさし野に止むる玉かき」と詠まれ、同12年、「靖国神社」と改称されました。
イタリアの古城を模した遊就館が落成したのは同14年、お雇い外国人カペレッティの設計でした。
国に一命を捧げたという一点において殉国者を祀るのが靖国神社であり、遊就館は古来の武器陳列場でした。靖国神社に特定の歴史観はありません。
靖国神社に最大の転機が訪れたのは、敗戦直後です。
アメリカは戦時中から「国家神道」こそが「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉であり、靖国神社がその中心施設であり、教育勅語が聖典だと理解していたようです。
ボツダム宣言には、「軍国主義」が世界から駆逐されるべきことが明記され、日本政府はこれを受諾し、戦争は終わりました。
アメリカ国務省は「国教としての神道、国家神道の廃止」を占領政策に掲げ、占領軍は「神道、神社は撲滅せよ」と叫び、靖国神社の「焼却」がもっぱら噂されました。
20年暮れにいわゆる神道指令が発令され、靖国神社は国家との関係が絶たれ、翌年の宗教法人令の改正で一宗教法人となりました。
しかし、靖国神社の歴史は続いています。
靖国神社が侵略戦争を推進し、世界の平和を脅かす中心的施設だというのなら、ポツダム宣言を受諾した以上、爆破焼却されても文句は言えません。
ところが、靖国神社は「廃止」「焼却」を免れたのです。
それだけではありません。
小林健三、照沼好文『招魂社成立史の研究』錦正社、昭和44年)によると、20年11月の臨時招魂祭・合祀祭に参列したCIE(民間情報教育局)部長のダイク准将は「たいへん荘厳でよかった」と感激したことが伝えられています。
この落差は何でしょうか?
靖国神社は何をもって、「軍国主義・超国家主義」の中心施設とされたのか、が事実に基づいて、解明されるべきです。同時に、占領軍はなぜ、靖国神社を「焼却」しなかったのか、を実証的に究明すべきです。
▽2 靖国神社に優る施設があるのか
くだんの宝塚市議の活動報告には、「市内の中学校が修学旅行の平和学習として靖国神社の軍事博物館『遊就館』を見学した。過去の侵略戦争を『アジア解放の戦争』と美化する特殊な施設をこれからも平和学習として利用するのか」と質問し、「遊就館は適切ではなかった。今後は利用しない」との答弁を得たことが記されています〈http://tanakakou.exblog.jp/19648655/〉
今後、宝塚市は「平和学習」のため、中学生たちにどこの施設を見学させるつもりなのでしょうか?
戦前、30年の長きにわたって靖国神社宮司の地位にあった賀茂百樹は、「侵略戦争の美化」どころか、平和を訴え続けました。
晩年、病床で口述した「私の安心立命」(昭和9年)には「神ながらの武備は戦争のための武備ではない。戦争を未然に防止し、平和を保障するのが最上である」とあります。
靖国神社の宮司が命を振り絞って「平和」を訴えながら、それでも戦争の惨禍は止められませんでした。それが歴史です。
「平和」を願い、死者たちに静かな祈りを捧げようとしても、「軍国主義」「侵略戦争」と指弾されるのが、世界の現実です。
この厳しい歴史と現実を教えてくれるのが靖国神社です。共産党市議も宝塚市も、これにまさる「平和教育」があるとお考えでしょうか?
2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国 第8回 おわりに [靖国神社]
以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です
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2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国
第8回 おわりに
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[1]「不参拝」明言の首相に期待する中国
このシリーズを書いているさなかに特別国会が開かれて、政権は長年続いてきた自民・公明両党から、民主党が国民新党、社民党と参議院工作のために連立を組んだかたちに交代した。
新しく首相の座に就いた鳩山党首に対し、中国新華社通信はただちに歓迎のメッセージを発した。そのなかには、次のような文面があった。
「中国政府は、鳩山新首相が『自分は首相になっても靖国神社には参拝しない』とかねてから明言している首相だから期待が持てる。彼の指導のもとに、新しい日本に生まれ変わることが出来ることを期待している」
中国が、まるで靖国神社の英霊たちが中国侵略の主導者であったかのような論理を作り出し、靖国神社を日本軍国主義の拠点であるかのように批判していることを、日本人はよく知っている。
そしてこれは中国政府が本気でそう思っているから発言しているのではなく、国内をまとめ、中国国内の指導部や国内情勢に不満が集中するのを避けるため、国内宣伝用に靖国神社を仮想敵に擬しての発言であることをも、我々も知っているつもりだ。
国内に大きな不満を抱える大衆を擁する中国政府は、大衆の不満をぶつける目標物の一つに日本を利用している。これは韓国など近隣のアジア諸国がよくやる手段である。
[2]もっとも安心できる攻撃対象
だがその中国も、これから自国が経済的に発展をしていくために、日本とのより深い交渉も必要である。大衆が攻撃する相手であっても、その対象は選ばなければならない。そこで靖国神社がその対象として選び出されたのだろう。
彼らとて、日本の過去の軍事脅威を本気で恐れ、非難をするつもりなら、命令されて現地に駆り出され、国の手足となって戦闘をして戦死した兵士たちよりも、生きて帰還した兵士、いや、彼らを徴兵して戦地に向かわせて攻撃するように戦略を練り、彼らを差し向けた日本の国およびその責任者を責めなければならないことぐらいは知っている。
だが、日本国やいま生きている日本国民は、これから中国が自国のために利用したいと思う相手なのだ。理屈から思えば、靖国神社の英霊などよりはるかに警戒しなければならない対象なのだが、敵にしては中国自身も困るのだ。
だとすれば、大衆の現状に対する不満のガス抜きのため、攻撃すべき対象として、日本でもっとも安心なのは、もうすでに、死んでしまって、物理的には反撃しない日本の英霊たちである。
幸いなことに、日本国内には、マスコミや進歩的文化人といわれる者などを中心に、国のために亡くなった人に対して、理屈がわかっているのかいないのか、同じようなことを平然という人がいる。
敗戦直後にアメリカ占領軍の権力と強力な圧力や洗脳教育を利用して力を得て、それ以来、占領開始直後のアメリカ軍の主張であった靖国神社を軍国主義の中心だ、との主張を続けているグループである。
[3]マスコミに乗せられる首相
もっともこんな環境を作った張本人のアメリカは、とうの昔に前言を翻して、靖国神社批判などは一切しない。靖国神社に参拝して表敬する外国の軍隊のなかでも、もっとも多いのは、国別にみるとアメリカ軍なのだ。
靖国神社を批判する勢力は、敗戦までは率先して日本軍事拡張論の先棒をかつぎ、日本を戦争へ誘い込む大きな「功績」をあげたマスコミである。
彼らはつねに流れる時流の先端に立って、とんでもない方向に社会を引っ張っても平気な顔で、時流が変わるとまた新しい勢力の先棒をかつぐ。
鳩山首相はこれまで、そんなマスコミなどの宣伝に乗せられて、自分が国の首相になって日本国の長い権利や義務を引き継ぐ立場になってからも、「靖国神社の英霊に対して敬意を表さない。そんな国の首相としての行為はしない」と発言した。
またあるときは、靖国神社に代わる、無宗教式の戦没者追悼施設を作るなどと、たとえ作っても、ほとんど誰も参拝しないような国立施設建設構想を述べたこともある。
我々にとってははなはだ困った首相であるが、中国は、そんな首相なら、大いに利用してやろうじゃないか、と思っているのだろう。
どうしてこんな歪(ゆが)みが出たのか?
[4]独立国としてのプライド
戦後の自民党政治の最大の欠陥は、敗戦でゆがみ、卑屈になった国内の状況を、健全にすっきりさせ、発展させていくという解決法を避け、問題点を国の立場で明確化せずに、あいまいのまま放置し、目先の世俗の利権のみを追い続けるところにあった。
占領中に押し付けられたさまざまな変革は、わずかではあるが従来のやり方に付け加えた方がよい知恵も混ざっていたとは思う。
だが、日本は長い歴史を誇る独立国である。
みずからの生き方を、占領軍の命令によって変えさせら、甘んじて屈辱の中に生きることはプライドが許さない。たとえば法律なども、条文の中身は同じでも、日本国民の代表者が日本の国会の場で、再度決め直すぐらいの決断があってほしかった。
いわんや、英文を和訳したような憲法という基本法をどうするのか?
日本弱体化のため、国民が国民として互いに協力し合う共同体意識を否定し、個人のわがまま勝手ばかりを助長する、占領行政の精神姿勢のもとになったのがこの憲法だ。
憲法問題、教育問題、日本文化への誇りを回復させる問題、家族や家庭の見直し、国を愛する心、義務を果たす心、教育の在り方など、見直しすべき点は多いが、少しも手をつけられないで、60年になろうとしている。
[5]日本自身の仕事
今回は靖国神社の問題に的を絞ったのでそれらの点には触れないが、さまざまな解決すべき課題があるのに、そんな問題解決には消極的で、日本の国は烏合(うごう)の衆のような状態で独立回復後も歩んできてしまった。そのために、日本はいつまでたっても戦後体制から抜けきれない。
独立国としての誇りを取り戻すことに手を抜いて、あらゆる問題をあいまいのままに先送りした政治姿勢。そんな空気が日本の国から活力を抜き去った。それをしようとしなかったために、政治は惰性に陥って、政権交代に追い込まれてしまったのだとも言えるのではないか。
今回、私が取り上げた靖国神社への対応にしても、国家護持そのものへ真剣に取り組もうとしないから、無用な混乱ばかりをいつまでも引きずって、国はまとまりの大切さも、先輩たちの苦労も知らぬ国民で、その社会としてのまとまりのなさで、日本自身が苦しむ結果が次々に積み重ねられてきた。
日本は大東亜戦争を起こしてそれに敗戦した。それは紛れもない現実である。だが、日本国はそこから何を学ぶべきなのか? なぜ負けたのか? どうしてこんなに大きな犠牲が出てしまったのか?
過去の日本の姿勢のどこが欠陥で、変えねばならないものだったのか? どこが変えてはならないものだったのか? それらをしっかり学んで、そこから新生日本の道を目指す、そんな努力をどこまで冷静にしたのだろうか?
これは日本自身がやらねばならないものであり、日本自身の仕事なのである。
世界の国々は、長い歴史の中に幾度かの敗戦の悲劇を経験し、それを機会によりしたたかな国、より知恵のある国に生まれ変わっている。だが有史以来、初めての敗戦を経験した日本は、検討すればどれだけ大きな成果が得られるのかわからないのに、それもせずに今までだらだらやってきてしまった。
[6]日本国の行うべきこと
日本には建国以来の長い一貫してきた歴史がある。そこには世界に比較する相手がないほどの長い文化の蓄積がある。そんな国の蓄積してきたものは大切にしなければならない。
歴史のなかには、この国のために命を失わざるを得ない人もたくさんあった。靖国神社はそんな人々を、忘れることのないようにまつる日本独特の組織であった。
国は靖国神社を維持することにより、国自身の軽率な行動で、悲劇の祭神を増やすことがないようにいつも心し、安らかなる国「靖国」を目指し、国の責任者は、靖国神社で英霊たちの御霊に接して、神社の祝詞にも必ず出てくる「平(たいら)けく安らけき」浦安(うらやす)の国を目指す誓いを思い出し、国民は、いまある自分らの生活の基礎には、英霊たちの尊い犠牲の積み重ねがあることを自覚してきた。
天皇陛下は靖国神社に行幸されて、悲しくも国のために死なねばならなかった彼らに対して慈しみの情をいよいよ深め、国民にこの種の犠牲者が出ることのないように祈られた。こんな機能を靖国神社は果たしてきた。
私は靖国神社の英霊たちこそ、身をもって靖国=平和の尊さを実感された方々だと思っている。
世間には靖国神社が、まるで「かたき討ち」を誓うような場所であり、参拝者は英霊を死に至らしめた相手に対して報復を誓いに集まる場所であるかのように宣伝に努めている者もいる。
だが、靖国神社へ参拝する人の姿を見れば、それがまったくの偏見であり、日本人の国民性とはまったく違うことははっきりしている。
靖国神社の英霊たちは、厳しくも悲壮な最期を迎えるにあたって、靖国神社に祀られて、そこから一本の将来が明るく伸びていく姿を見ようと亡くなられた。一日も早く靖国神社がそんな聖なる国の施設に立ち返ることを待っておられると思う。
[7]最後にお断り
この文章は、5年前、それまで30年以上奉職していた仕事を後輩たちに譲って退職し、自由な立場に立つことになった私が、かつては奉仕していた仕事の関係で、発言を控えていた私の意見を、率直かつ勝手に書き並べたものです。
たとえば、神社界や靖国神社などに奉仕をされる方々のご意見と、私の勝手なこの説とはおのずから違う主張を含むものであり、必ずしも重なるものではありません。したがって、この文章の責任はすべて私個人にあることをお断りしておきます。
☆斎藤吉久注 葦津様のご了解を得て、「私の『視角』」〈http://blog.goo.ne.jp/ashizujimusyo〉から転載させていただきました。適宜、若干の編集を加えてあります。
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2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国
第8回 おわりに
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[1]「不参拝」明言の首相に期待する中国
このシリーズを書いているさなかに特別国会が開かれて、政権は長年続いてきた自民・公明両党から、民主党が国民新党、社民党と参議院工作のために連立を組んだかたちに交代した。
新しく首相の座に就いた鳩山党首に対し、中国新華社通信はただちに歓迎のメッセージを発した。そのなかには、次のような文面があった。
「中国政府は、鳩山新首相が『自分は首相になっても靖国神社には参拝しない』とかねてから明言している首相だから期待が持てる。彼の指導のもとに、新しい日本に生まれ変わることが出来ることを期待している」
中国が、まるで靖国神社の英霊たちが中国侵略の主導者であったかのような論理を作り出し、靖国神社を日本軍国主義の拠点であるかのように批判していることを、日本人はよく知っている。
そしてこれは中国政府が本気でそう思っているから発言しているのではなく、国内をまとめ、中国国内の指導部や国内情勢に不満が集中するのを避けるため、国内宣伝用に靖国神社を仮想敵に擬しての発言であることをも、我々も知っているつもりだ。
国内に大きな不満を抱える大衆を擁する中国政府は、大衆の不満をぶつける目標物の一つに日本を利用している。これは韓国など近隣のアジア諸国がよくやる手段である。
[2]もっとも安心できる攻撃対象
だがその中国も、これから自国が経済的に発展をしていくために、日本とのより深い交渉も必要である。大衆が攻撃する相手であっても、その対象は選ばなければならない。そこで靖国神社がその対象として選び出されたのだろう。
彼らとて、日本の過去の軍事脅威を本気で恐れ、非難をするつもりなら、命令されて現地に駆り出され、国の手足となって戦闘をして戦死した兵士たちよりも、生きて帰還した兵士、いや、彼らを徴兵して戦地に向かわせて攻撃するように戦略を練り、彼らを差し向けた日本の国およびその責任者を責めなければならないことぐらいは知っている。
だが、日本国やいま生きている日本国民は、これから中国が自国のために利用したいと思う相手なのだ。理屈から思えば、靖国神社の英霊などよりはるかに警戒しなければならない対象なのだが、敵にしては中国自身も困るのだ。
だとすれば、大衆の現状に対する不満のガス抜きのため、攻撃すべき対象として、日本でもっとも安心なのは、もうすでに、死んでしまって、物理的には反撃しない日本の英霊たちである。
幸いなことに、日本国内には、マスコミや進歩的文化人といわれる者などを中心に、国のために亡くなった人に対して、理屈がわかっているのかいないのか、同じようなことを平然という人がいる。
敗戦直後にアメリカ占領軍の権力と強力な圧力や洗脳教育を利用して力を得て、それ以来、占領開始直後のアメリカ軍の主張であった靖国神社を軍国主義の中心だ、との主張を続けているグループである。
[3]マスコミに乗せられる首相
もっともこんな環境を作った張本人のアメリカは、とうの昔に前言を翻して、靖国神社批判などは一切しない。靖国神社に参拝して表敬する外国の軍隊のなかでも、もっとも多いのは、国別にみるとアメリカ軍なのだ。
靖国神社を批判する勢力は、敗戦までは率先して日本軍事拡張論の先棒をかつぎ、日本を戦争へ誘い込む大きな「功績」をあげたマスコミである。
彼らはつねに流れる時流の先端に立って、とんでもない方向に社会を引っ張っても平気な顔で、時流が変わるとまた新しい勢力の先棒をかつぐ。
鳩山首相はこれまで、そんなマスコミなどの宣伝に乗せられて、自分が国の首相になって日本国の長い権利や義務を引き継ぐ立場になってからも、「靖国神社の英霊に対して敬意を表さない。そんな国の首相としての行為はしない」と発言した。
またあるときは、靖国神社に代わる、無宗教式の戦没者追悼施設を作るなどと、たとえ作っても、ほとんど誰も参拝しないような国立施設建設構想を述べたこともある。
我々にとってははなはだ困った首相であるが、中国は、そんな首相なら、大いに利用してやろうじゃないか、と思っているのだろう。
どうしてこんな歪(ゆが)みが出たのか?
[4]独立国としてのプライド
戦後の自民党政治の最大の欠陥は、敗戦でゆがみ、卑屈になった国内の状況を、健全にすっきりさせ、発展させていくという解決法を避け、問題点を国の立場で明確化せずに、あいまいのまま放置し、目先の世俗の利権のみを追い続けるところにあった。
占領中に押し付けられたさまざまな変革は、わずかではあるが従来のやり方に付け加えた方がよい知恵も混ざっていたとは思う。
だが、日本は長い歴史を誇る独立国である。
みずからの生き方を、占領軍の命令によって変えさせら、甘んじて屈辱の中に生きることはプライドが許さない。たとえば法律なども、条文の中身は同じでも、日本国民の代表者が日本の国会の場で、再度決め直すぐらいの決断があってほしかった。
いわんや、英文を和訳したような憲法という基本法をどうするのか?
日本弱体化のため、国民が国民として互いに協力し合う共同体意識を否定し、個人のわがまま勝手ばかりを助長する、占領行政の精神姿勢のもとになったのがこの憲法だ。
憲法問題、教育問題、日本文化への誇りを回復させる問題、家族や家庭の見直し、国を愛する心、義務を果たす心、教育の在り方など、見直しすべき点は多いが、少しも手をつけられないで、60年になろうとしている。
[5]日本自身の仕事
今回は靖国神社の問題に的を絞ったのでそれらの点には触れないが、さまざまな解決すべき課題があるのに、そんな問題解決には消極的で、日本の国は烏合(うごう)の衆のような状態で独立回復後も歩んできてしまった。そのために、日本はいつまでたっても戦後体制から抜けきれない。
独立国としての誇りを取り戻すことに手を抜いて、あらゆる問題をあいまいのままに先送りした政治姿勢。そんな空気が日本の国から活力を抜き去った。それをしようとしなかったために、政治は惰性に陥って、政権交代に追い込まれてしまったのだとも言えるのではないか。
今回、私が取り上げた靖国神社への対応にしても、国家護持そのものへ真剣に取り組もうとしないから、無用な混乱ばかりをいつまでも引きずって、国はまとまりの大切さも、先輩たちの苦労も知らぬ国民で、その社会としてのまとまりのなさで、日本自身が苦しむ結果が次々に積み重ねられてきた。
日本は大東亜戦争を起こしてそれに敗戦した。それは紛れもない現実である。だが、日本国はそこから何を学ぶべきなのか? なぜ負けたのか? どうしてこんなに大きな犠牲が出てしまったのか?
過去の日本の姿勢のどこが欠陥で、変えねばならないものだったのか? どこが変えてはならないものだったのか? それらをしっかり学んで、そこから新生日本の道を目指す、そんな努力をどこまで冷静にしたのだろうか?
これは日本自身がやらねばならないものであり、日本自身の仕事なのである。
世界の国々は、長い歴史の中に幾度かの敗戦の悲劇を経験し、それを機会によりしたたかな国、より知恵のある国に生まれ変わっている。だが有史以来、初めての敗戦を経験した日本は、検討すればどれだけ大きな成果が得られるのかわからないのに、それもせずに今までだらだらやってきてしまった。
[6]日本国の行うべきこと
日本には建国以来の長い一貫してきた歴史がある。そこには世界に比較する相手がないほどの長い文化の蓄積がある。そんな国の蓄積してきたものは大切にしなければならない。
歴史のなかには、この国のために命を失わざるを得ない人もたくさんあった。靖国神社はそんな人々を、忘れることのないようにまつる日本独特の組織であった。
国は靖国神社を維持することにより、国自身の軽率な行動で、悲劇の祭神を増やすことがないようにいつも心し、安らかなる国「靖国」を目指し、国の責任者は、靖国神社で英霊たちの御霊に接して、神社の祝詞にも必ず出てくる「平(たいら)けく安らけき」浦安(うらやす)の国を目指す誓いを思い出し、国民は、いまある自分らの生活の基礎には、英霊たちの尊い犠牲の積み重ねがあることを自覚してきた。
天皇陛下は靖国神社に行幸されて、悲しくも国のために死なねばならなかった彼らに対して慈しみの情をいよいよ深め、国民にこの種の犠牲者が出ることのないように祈られた。こんな機能を靖国神社は果たしてきた。
私は靖国神社の英霊たちこそ、身をもって靖国=平和の尊さを実感された方々だと思っている。
世間には靖国神社が、まるで「かたき討ち」を誓うような場所であり、参拝者は英霊を死に至らしめた相手に対して報復を誓いに集まる場所であるかのように宣伝に努めている者もいる。
だが、靖国神社へ参拝する人の姿を見れば、それがまったくの偏見であり、日本人の国民性とはまったく違うことははっきりしている。
靖国神社の英霊たちは、厳しくも悲壮な最期を迎えるにあたって、靖国神社に祀られて、そこから一本の将来が明るく伸びていく姿を見ようと亡くなられた。一日も早く靖国神社がそんな聖なる国の施設に立ち返ることを待っておられると思う。
[7]最後にお断り
この文章は、5年前、それまで30年以上奉職していた仕事を後輩たちに譲って退職し、自由な立場に立つことになった私が、かつては奉仕していた仕事の関係で、発言を控えていた私の意見を、率直かつ勝手に書き並べたものです。
たとえば、神社界や靖国神社などに奉仕をされる方々のご意見と、私の勝手なこの説とはおのずから違う主張を含むものであり、必ずしも重なるものではありません。したがって、この文章の責任はすべて私個人にあることをお断りしておきます。
☆斎藤吉久注 葦津様のご了解を得て、「私の『視角』」〈http://blog.goo.ne.jp/ashizujimusyo〉から転載させていただきました。適宜、若干の編集を加えてあります。
3 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国 第6回 国家護持運動後の歪(ゆが)み [靖国神社]
以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2010年3月2日)からの転載です
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3 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国
第6回 国家護持運動後の歪(ゆが)み
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[1]祭神を決めるのは誰か?
靖国神社が昭和53(1978)年10月、東京裁判での刑死者など14人を新たに祭神に加えて合祀したことが、いま、靖国神社を論ずる上で大きな話題になっている。
この問題に関しては、それを正しいとする者と問題だとする者が対立して、どちらも譲らず、それは解決への糸口も見えぬところにはまり込んで、不毛な対立が続いている。
私は、東京裁判はもちろん認められるものではない、と信じている。日本をミスリードしてしまった者への責任追及は、外国などのするべきことではないからだ。主権を持つ日本自身が、どう解決するかを判断すべき唯一の権利者である。
だが、彼らを新しい靖国の英霊と認めるのは新しい判断に属するので、日本に権利があるとしても、しっかり判断する当事者は国民であり国であって、靖国神社の祭神にするか否かも、これまで祭神決定権を行使したことのない靖国神社が独自に判断しうる問題なのか否かには、異論も持っている。
もちろん、宗教法人であるいまの神社には、合法的にそれを決める法的自由はあるのだが、それを決める権利の実行は、靖国神社に宗教性を付け加え、国家護持への道を遠くすることになりかねない。
戦後の靖国神社をどうするか、この大切な問題に関して、合祀はのどに刺さった骨のような問題となってしまった。
[2]祭祀制度委員会の委員だった父・珍彦
少し脱線を許されたい。
じつは当時、私は全国神社を対象に出している週刊新聞である「神社新報」の編集長をしていて、この問題にも深いかかわりがあり、思い出もある。
そんなところから、その前後の状況、なぜこんな事態になってしまったのか、に関して解説し、私なりにどう解決を考えたらよいかを、国民にまじめに考えてもらいたい、と考えている。
前章まででもちょっと触れたが、靖国神社は明治12年に招魂社から「神社」と改称された。戦前は陸海軍省に属する機関で、同じく戦前は旧内務省系の管轄に属した全国神社とは異なるのだが、戦後は神道指令によって宗教法人として存続の道を求めねばならなくなった事情があり、全国神社の集まる「神社本庁」とは仲の良い付き合いもある。
靖国神社は「全国神社と靖国神社の違いを明瞭にして、一日も早く独立回復後は国家護持を果たしたい」との思いから、神社本庁に参加はせずに、法的には一社独立した存在としてやりながらも、日常においては、いつも連絡を取り合っていた。
両者はきわめて親しい関係にあり、ときにはお互いに神職の人事の交流も行って、共通の問題などに共に取り組むこともある。
神社本庁の報道機関として戦後すぐに発足した神社新報も、そんな関係で靖国神社とはきわめて近い間柄にあり、終戦直後に占領政策を先読みして神社本庁を設立、全国神社の存続を図った私の父・葦津珍彦(あしづ・うずひこ。神社新報創立者の一人で元主筆。明治42[1909]年生、平成4年没)は、もう一人の神社本庁からの派遣されたO役員とともに、靖国神社の祭祀制度委員会の委員をも兼ねていた。
[3]手探りの組織運営
この祭祀制度委員会とはどんな組織だったのか、を説明すると……。
国家の施設であった時代の靖国神社には、国が定めた英霊をまつり、儀式を行うが、祭神決定権は持っていなかった。戦後、やむなく宗教法人として独立はしたが、独立をしたのちになっても、その軍の施設であった最後のときに行った臨時大招魂祭により、従来の国の祭祀基準に合致する祭神は合祀できる道だけは確保していた。けれども、その他の祭神合祀に関しては決まりも持たなかった。
そんなままで、外見は独立した宗教法人に法制度上は移ったのだが、その後の新しい事態が起こるたびに、どう対応するか、祭式、催事などの運営にどう対応するかなども、模索しながら進む状況にあった。
しかも将来は、速やかに国の機関に復古をしたいという思いもある。そんな条件付きでの運営だったのだが、そんな神社の活動していく基本方針を審議するためにはかなりの配慮が必要になる。
そこで宮司直轄の機関として設けられたのが、この祭祀制度委員会であった。
靖国神社には宗教法人になってからも、厚生省から新たな祭神名簿は次々に送られてきていた。そのたびに神社では新しく祀る英霊を宮中に報告、陛下の御内覧の後に合祀をしていた。
それらはかつての管轄であった陸海軍省が、官房の審議室で審査し決定した英霊の条件に従っていた。政府は20年11月の臨時大招魂祭で、調べ残した英霊があることを予想して、それらの霊も合わせて霊を招く祭りを末に実施していた。
これがあるから、当時の基準を満たすかぎり、祭神のお名前を付け加えることが、いままでとまったく変わらぬ、という解釈の下に、できたのである。
[4]国家護持回復が先決
だが、昭和41年、厚生省からは先の東京裁判の刑死者並びに拘禁中の刑死者の名簿が届けられた。
東京裁判が国際法にも違反する裁判の名を借りた報復劇であることは、日本の国会でも認めている。したがって、厚生省では彼らに対して、すでに恩給や年金を支給しているし、少なくとも厚生省の判断からみれば、彼らは先の大東亜戦争により、戦死した殉職者ということになるのだろう。
厚生省から通知があったことを知り、靖国神社の総代会は、彼らを新たに祭神に合祀すべきだと決議を行った。
靖国神社が一般の宗教法人なら、ここで合祀の検討に入るところだろう。だが、祭詞制度委員会で合祀延期を提案したのが、葦津珍彦と神社本庁の委員O氏だった。
その理由はこうである。
「宗教法人であるいまの靖国神社には、法的には祭神決定の権利がある。しかし、それまでの靖国神社にはそれはなかった。それを取り入れることは、靖国神社の姿を靖国神社の方で以前と変わったものにすることになる。しかも、東京裁判に関してはそれを肯定するような理屈のわからぬ勢力もあり、大きな波紋を招く事態も考えられる。いまの靖国神社は総力を挙げて国家護持を回復し、英霊たちの御霊を慰めるべき時期なのだ。まずは国家護持を実現する運動に取り組み、余計な批判の種になると予想される問題は避けるべきだ」
これは葦津の意見だった。
[5]前例のない処理をすべきでない
「靖国神社の関係者が、彼らを祭神に加えてほしいと思う気持ちは理解する。しかし彼らは日本国の兵士ではなく、指導者であった。いま、神社は国家護持回復を最大の目標に運動している最中だ。靖国神社に祀られている部下の英霊たちは、一日も早い国の慰霊追悼を受ける日が来るのを待っている。その日が来るまで、あなた方は指導者なのだから待ってください、と東京裁判殉難者に言えば、これらの祭神も我慢してくれるはずだと思う」
このように葦津は力説して、この件は宮司預かりにして、直ちに合祀はしないことを主張した。
かくしてこの問題は、葦津らの提案を受けて、宮司預かりとなり、合祀は先送りされることになった。
葦津珍彦は私の父である。父は、国から預かっている靖国神社は、できるだけそのままの形で国に戻したい、と考えていた。
祭神決定権は宗教法人の最も大切な基本である。しかし東京裁判のようなケースは、負けたことのない日本の過去の歴史で、経験したことがなかったケースだった。前例はもちろんない。
戦時中には、今まででも、各地で軍事裁判によりさまざまなケースがあった。いわゆるB、C級とされる裁判の処刑者などは、前例に従ってそれで処理ができた。だが、従来の日本になかった種類の死亡者を靖国神社にまつるのは、神社がいままでの方針を変更して、宗教的機能を発揮することに繋がるものだ。
この種のものはやはり、祀りたいと思っても、国に神社をお返しして、国が国の方針として決めるのが妥当だ、と考えたのだ。
[6]松平宮司を問い糾したが
だが、こんな葦津の主張の意図する肝心なところは、靖国神社に充分に伝えることができなかったようだ。それで靖国神社は、その後、混乱に巻き込まれることになった。
祭神合祀を預かっていた筑波宮司が死亡して、新任宮司に松平永芳氏が就任した。
宮司が死亡しても、審議のときに同席していた権宮司(ごんぐうじ)は残っている。祭詞制度委員会も存続していた。神社は新任宮司に、どこまで細かく説明し、松平宮司に説明したのかはわからない。
昭和53年、松平宮司は東京裁判関係者を合祀してしまった。
私はこのことを知って、父の代理として何度か松平宮司を訪問し、今回の判断が軽率であり、しかも提案者には何の報告もなく実施された。今後に大きな禍根を残す恐れがあると抗議し、あえて判断を変更して合祀に踏み切ったその動機を問うた。
松平氏は、理屈はよくわかる人だが、父の代理で訪れた私に、どんなに私が説明しても「失敗だった」とは言われなかった。
「なぜこんなことになったのか」との問いに対しても、「すでにお上(陛下)にもご報告して合祀してしまったことだ」と、それ以外は口をつぐんだままだった。
「部下にミスがあった」「引き継ぎのミスだった」などとは、あの人の性格である。口が曲がっても言えないのだろう、と思った。男子がひとたび行った行為の結果は、たとえどんなミスがあろうとも甘んじて受けて責任をとる。そんな頑なな姿勢に、私は何度か訪問の末に諦めた。
その後、松平宮司は、国家護持の活動よりも、国民護持を旗印に、宗教法人のままで独立して経営力を高めていく、との方針を打ち出して、私どもの考える方針とはやや違った方向に神社を強力に引っ張って行こうとされた。
私とはあのときかなり強引な言い争いを展開したが、その後も格別に親しいお付き合いをいただいた。
[7]奥までたるみ果てた宮中
東京裁判をめぐる祭神合祀に関しては、いくつもの誤解や誤認が積み重なっていると思う。それからはまた10年以上も後の話になるが、元宮内庁長官の「富田メモ」などが伝える昭和天皇のお怒り騒動なども、混乱をいよいよ大きくした。
昭和天皇がご高齢になられてからの、それも宮中内部においての晩年の私的なご発言とされるメモが、こともあろうに前長官の筋からスクープのように発表されるという、あってはならない事件があった。
国民の個人個人に対する批判などは、公ではとくに気にされて慎んでこられた陛下である。しかも松平宮司が合祀に当たっては宮中に名簿は提出し、ご覧になったのは、かなり以前にはなるが、間違いない問題だ。
それにも関わらず、かなりの時間が経過した陛下の晩年に、きわめてご不満であったと洩らされたとのご発言メモが表に出されたのだ。
いくら御不快に感じられても、それをいくらお歳を召されたとはいえ、表に出されるような陛下ではないはずだ。しかも陛下は明治天皇を誰よりも崇拝され、その御心を継いでいくことを生涯のお役目と信じて終始された。靖国神社に対してのお気持ちも、変わるところがなかった、と私は拝察申し上げる。
それにもし、万一に、迂闊(うかつ)にもそんなご発言があったのなら、忠義な臣下であったなら、なぜその場で陛下をお諫(いさ)めしなかったのか?
日本伝統の忠義の道は、西欧などの絶対君主に接するように、「イエスマン」に徹することではない。
一億国民一人一人のことを思ってお祭りをされる陛下は、民の声、批評や意見をつねに御歌に託して、聞きたい、とお洩らしになっておられる。そんな陛下に対しては、間違いは間違いだ、と真正面からお諫めしながら接してこそ、日本における忠義者である。
似たような陛下もお気持ちというものが、侍従長はじめ陛下の側近からいくつか漏らされて、国民を不安に陥れた。困ったものである。宮中のもっとも奥までがたるみ果てている。
こんな無神経な陛下との応対をし、そのうえ不用意なメモなどを残したり、自分の回顧録などを芸能人のエピソードでも書くような気軽さで後に残す軽率な側近などが出るから、歴代の天皇がもっとも御心を寄せられた靖国神社の英霊たちまでが、さびしい思いをすることになる。
だが、それよりも重要なのは、日本の主権が回復した講和条約が締結されて60年近く、靖国神社に祀られている英霊を放置し、歯を食いしばってお守りしてきた留守を預かる関係者にねぎらいの言葉も掛けず、逃げ回ってばかりいる政府や国会議員の無責任だろう。
[8]問題を放置してきた為政者たちの責任
護持をしてきた連中にも、もうあれから60年を超えている。疲れも見え、ときには思わぬことが起こるのも人間だから当然ではないか。
靖国神社の問題は、これは前にも第2回「宗教的儀式に対する憲法の立場」〈http://www.melma.com/backnumber_170937_4750317/〉で述べたように、まともに憲法を見て解釈をすれば、直ちに解決しうる問題である。
だが、それでもこんな難問が次々に出てくるのは、日本が戦争に負けたという重い現実があるからなのだろう。
憲法をひねくりまわして解釈し、憲法条文を骨抜きにしてやっと可能にしている防衛問題などより、取り組もうとすれば素直で簡単な問題でも、解決しない背後には、復古させたくない力もまたあるからなのだろう。
それに、日本には、政府にも国会議員にもマスコミにも、国のために自分の意志ではなく命まで失い、単純に国の命ずるために死んだのに、何かの意図をもって彼らが動いたかのように、曲げて解釈する気風もある。
軍国主義のレッテルまで、現場のものに押し付けて、真の命令責任はどこにあったのかなどには、頬(ほお)かむりして平然としている、いまの無責任な体質も問題である。何とかしなければならない問題は山ほどある。
英霊たちは国の主権行為である戦争の指導者ではない。責任があるとすれば、それは日本国を引き継いだ指導者たち、国や日本を導いてきたマスコミなどが負うべき問題なのだ。(つづく)
☆斎藤吉久注 葦津様のご了解を得て、「私の『視角』」〈http://blog.goo.ne.jp/ashizujimusyo〉から転載させていただきました。適宜、若干の編集を加えてあります。
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3 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国
第6回 国家護持運動後の歪(ゆが)み
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[1]祭神を決めるのは誰か?
靖国神社が昭和53(1978)年10月、東京裁判での刑死者など14人を新たに祭神に加えて合祀したことが、いま、靖国神社を論ずる上で大きな話題になっている。
この問題に関しては、それを正しいとする者と問題だとする者が対立して、どちらも譲らず、それは解決への糸口も見えぬところにはまり込んで、不毛な対立が続いている。
私は、東京裁判はもちろん認められるものではない、と信じている。日本をミスリードしてしまった者への責任追及は、外国などのするべきことではないからだ。主権を持つ日本自身が、どう解決するかを判断すべき唯一の権利者である。
だが、彼らを新しい靖国の英霊と認めるのは新しい判断に属するので、日本に権利があるとしても、しっかり判断する当事者は国民であり国であって、靖国神社の祭神にするか否かも、これまで祭神決定権を行使したことのない靖国神社が独自に判断しうる問題なのか否かには、異論も持っている。
もちろん、宗教法人であるいまの神社には、合法的にそれを決める法的自由はあるのだが、それを決める権利の実行は、靖国神社に宗教性を付け加え、国家護持への道を遠くすることになりかねない。
戦後の靖国神社をどうするか、この大切な問題に関して、合祀はのどに刺さった骨のような問題となってしまった。
[2]祭祀制度委員会の委員だった父・珍彦
少し脱線を許されたい。
じつは当時、私は全国神社を対象に出している週刊新聞である「神社新報」の編集長をしていて、この問題にも深いかかわりがあり、思い出もある。
そんなところから、その前後の状況、なぜこんな事態になってしまったのか、に関して解説し、私なりにどう解決を考えたらよいかを、国民にまじめに考えてもらいたい、と考えている。
前章まででもちょっと触れたが、靖国神社は明治12年に招魂社から「神社」と改称された。戦前は陸海軍省に属する機関で、同じく戦前は旧内務省系の管轄に属した全国神社とは異なるのだが、戦後は神道指令によって宗教法人として存続の道を求めねばならなくなった事情があり、全国神社の集まる「神社本庁」とは仲の良い付き合いもある。
靖国神社は「全国神社と靖国神社の違いを明瞭にして、一日も早く独立回復後は国家護持を果たしたい」との思いから、神社本庁に参加はせずに、法的には一社独立した存在としてやりながらも、日常においては、いつも連絡を取り合っていた。
両者はきわめて親しい関係にあり、ときにはお互いに神職の人事の交流も行って、共通の問題などに共に取り組むこともある。
神社本庁の報道機関として戦後すぐに発足した神社新報も、そんな関係で靖国神社とはきわめて近い間柄にあり、終戦直後に占領政策を先読みして神社本庁を設立、全国神社の存続を図った私の父・葦津珍彦(あしづ・うずひこ。神社新報創立者の一人で元主筆。明治42[1909]年生、平成4年没)は、もう一人の神社本庁からの派遣されたO役員とともに、靖国神社の祭祀制度委員会の委員をも兼ねていた。
[3]手探りの組織運営
この祭祀制度委員会とはどんな組織だったのか、を説明すると……。
国家の施設であった時代の靖国神社には、国が定めた英霊をまつり、儀式を行うが、祭神決定権は持っていなかった。戦後、やむなく宗教法人として独立はしたが、独立をしたのちになっても、その軍の施設であった最後のときに行った臨時大招魂祭により、従来の国の祭祀基準に合致する祭神は合祀できる道だけは確保していた。けれども、その他の祭神合祀に関しては決まりも持たなかった。
そんなままで、外見は独立した宗教法人に法制度上は移ったのだが、その後の新しい事態が起こるたびに、どう対応するか、祭式、催事などの運営にどう対応するかなども、模索しながら進む状況にあった。
しかも将来は、速やかに国の機関に復古をしたいという思いもある。そんな条件付きでの運営だったのだが、そんな神社の活動していく基本方針を審議するためにはかなりの配慮が必要になる。
そこで宮司直轄の機関として設けられたのが、この祭祀制度委員会であった。
靖国神社には宗教法人になってからも、厚生省から新たな祭神名簿は次々に送られてきていた。そのたびに神社では新しく祀る英霊を宮中に報告、陛下の御内覧の後に合祀をしていた。
それらはかつての管轄であった陸海軍省が、官房の審議室で審査し決定した英霊の条件に従っていた。政府は20年11月の臨時大招魂祭で、調べ残した英霊があることを予想して、それらの霊も合わせて霊を招く祭りを末に実施していた。
これがあるから、当時の基準を満たすかぎり、祭神のお名前を付け加えることが、いままでとまったく変わらぬ、という解釈の下に、できたのである。
[4]国家護持回復が先決
だが、昭和41年、厚生省からは先の東京裁判の刑死者並びに拘禁中の刑死者の名簿が届けられた。
東京裁判が国際法にも違反する裁判の名を借りた報復劇であることは、日本の国会でも認めている。したがって、厚生省では彼らに対して、すでに恩給や年金を支給しているし、少なくとも厚生省の判断からみれば、彼らは先の大東亜戦争により、戦死した殉職者ということになるのだろう。
厚生省から通知があったことを知り、靖国神社の総代会は、彼らを新たに祭神に合祀すべきだと決議を行った。
靖国神社が一般の宗教法人なら、ここで合祀の検討に入るところだろう。だが、祭詞制度委員会で合祀延期を提案したのが、葦津珍彦と神社本庁の委員O氏だった。
その理由はこうである。
「宗教法人であるいまの靖国神社には、法的には祭神決定の権利がある。しかし、それまでの靖国神社にはそれはなかった。それを取り入れることは、靖国神社の姿を靖国神社の方で以前と変わったものにすることになる。しかも、東京裁判に関してはそれを肯定するような理屈のわからぬ勢力もあり、大きな波紋を招く事態も考えられる。いまの靖国神社は総力を挙げて国家護持を回復し、英霊たちの御霊を慰めるべき時期なのだ。まずは国家護持を実現する運動に取り組み、余計な批判の種になると予想される問題は避けるべきだ」
これは葦津の意見だった。
[5]前例のない処理をすべきでない
「靖国神社の関係者が、彼らを祭神に加えてほしいと思う気持ちは理解する。しかし彼らは日本国の兵士ではなく、指導者であった。いま、神社は国家護持回復を最大の目標に運動している最中だ。靖国神社に祀られている部下の英霊たちは、一日も早い国の慰霊追悼を受ける日が来るのを待っている。その日が来るまで、あなた方は指導者なのだから待ってください、と東京裁判殉難者に言えば、これらの祭神も我慢してくれるはずだと思う」
このように葦津は力説して、この件は宮司預かりにして、直ちに合祀はしないことを主張した。
かくしてこの問題は、葦津らの提案を受けて、宮司預かりとなり、合祀は先送りされることになった。
葦津珍彦は私の父である。父は、国から預かっている靖国神社は、できるだけそのままの形で国に戻したい、と考えていた。
祭神決定権は宗教法人の最も大切な基本である。しかし東京裁判のようなケースは、負けたことのない日本の過去の歴史で、経験したことがなかったケースだった。前例はもちろんない。
戦時中には、今まででも、各地で軍事裁判によりさまざまなケースがあった。いわゆるB、C級とされる裁判の処刑者などは、前例に従ってそれで処理ができた。だが、従来の日本になかった種類の死亡者を靖国神社にまつるのは、神社がいままでの方針を変更して、宗教的機能を発揮することに繋がるものだ。
この種のものはやはり、祀りたいと思っても、国に神社をお返しして、国が国の方針として決めるのが妥当だ、と考えたのだ。
[6]松平宮司を問い糾したが
だが、こんな葦津の主張の意図する肝心なところは、靖国神社に充分に伝えることができなかったようだ。それで靖国神社は、その後、混乱に巻き込まれることになった。
祭神合祀を預かっていた筑波宮司が死亡して、新任宮司に松平永芳氏が就任した。
宮司が死亡しても、審議のときに同席していた権宮司(ごんぐうじ)は残っている。祭詞制度委員会も存続していた。神社は新任宮司に、どこまで細かく説明し、松平宮司に説明したのかはわからない。
昭和53年、松平宮司は東京裁判関係者を合祀してしまった。
私はこのことを知って、父の代理として何度か松平宮司を訪問し、今回の判断が軽率であり、しかも提案者には何の報告もなく実施された。今後に大きな禍根を残す恐れがあると抗議し、あえて判断を変更して合祀に踏み切ったその動機を問うた。
松平氏は、理屈はよくわかる人だが、父の代理で訪れた私に、どんなに私が説明しても「失敗だった」とは言われなかった。
「なぜこんなことになったのか」との問いに対しても、「すでにお上(陛下)にもご報告して合祀してしまったことだ」と、それ以外は口をつぐんだままだった。
「部下にミスがあった」「引き継ぎのミスだった」などとは、あの人の性格である。口が曲がっても言えないのだろう、と思った。男子がひとたび行った行為の結果は、たとえどんなミスがあろうとも甘んじて受けて責任をとる。そんな頑なな姿勢に、私は何度か訪問の末に諦めた。
その後、松平宮司は、国家護持の活動よりも、国民護持を旗印に、宗教法人のままで独立して経営力を高めていく、との方針を打ち出して、私どもの考える方針とはやや違った方向に神社を強力に引っ張って行こうとされた。
私とはあのときかなり強引な言い争いを展開したが、その後も格別に親しいお付き合いをいただいた。
[7]奥までたるみ果てた宮中
東京裁判をめぐる祭神合祀に関しては、いくつもの誤解や誤認が積み重なっていると思う。それからはまた10年以上も後の話になるが、元宮内庁長官の「富田メモ」などが伝える昭和天皇のお怒り騒動なども、混乱をいよいよ大きくした。
昭和天皇がご高齢になられてからの、それも宮中内部においての晩年の私的なご発言とされるメモが、こともあろうに前長官の筋からスクープのように発表されるという、あってはならない事件があった。
国民の個人個人に対する批判などは、公ではとくに気にされて慎んでこられた陛下である。しかも松平宮司が合祀に当たっては宮中に名簿は提出し、ご覧になったのは、かなり以前にはなるが、間違いない問題だ。
それにも関わらず、かなりの時間が経過した陛下の晩年に、きわめてご不満であったと洩らされたとのご発言メモが表に出されたのだ。
いくら御不快に感じられても、それをいくらお歳を召されたとはいえ、表に出されるような陛下ではないはずだ。しかも陛下は明治天皇を誰よりも崇拝され、その御心を継いでいくことを生涯のお役目と信じて終始された。靖国神社に対してのお気持ちも、変わるところがなかった、と私は拝察申し上げる。
それにもし、万一に、迂闊(うかつ)にもそんなご発言があったのなら、忠義な臣下であったなら、なぜその場で陛下をお諫(いさ)めしなかったのか?
日本伝統の忠義の道は、西欧などの絶対君主に接するように、「イエスマン」に徹することではない。
一億国民一人一人のことを思ってお祭りをされる陛下は、民の声、批評や意見をつねに御歌に託して、聞きたい、とお洩らしになっておられる。そんな陛下に対しては、間違いは間違いだ、と真正面からお諫めしながら接してこそ、日本における忠義者である。
似たような陛下もお気持ちというものが、侍従長はじめ陛下の側近からいくつか漏らされて、国民を不安に陥れた。困ったものである。宮中のもっとも奥までがたるみ果てている。
こんな無神経な陛下との応対をし、そのうえ不用意なメモなどを残したり、自分の回顧録などを芸能人のエピソードでも書くような気軽さで後に残す軽率な側近などが出るから、歴代の天皇がもっとも御心を寄せられた靖国神社の英霊たちまでが、さびしい思いをすることになる。
だが、それよりも重要なのは、日本の主権が回復した講和条約が締結されて60年近く、靖国神社に祀られている英霊を放置し、歯を食いしばってお守りしてきた留守を預かる関係者にねぎらいの言葉も掛けず、逃げ回ってばかりいる政府や国会議員の無責任だろう。
[8]問題を放置してきた為政者たちの責任
護持をしてきた連中にも、もうあれから60年を超えている。疲れも見え、ときには思わぬことが起こるのも人間だから当然ではないか。
靖国神社の問題は、これは前にも第2回「宗教的儀式に対する憲法の立場」〈http://www.melma.com/backnumber_170937_4750317/〉で述べたように、まともに憲法を見て解釈をすれば、直ちに解決しうる問題である。
だが、それでもこんな難問が次々に出てくるのは、日本が戦争に負けたという重い現実があるからなのだろう。
憲法をひねくりまわして解釈し、憲法条文を骨抜きにしてやっと可能にしている防衛問題などより、取り組もうとすれば素直で簡単な問題でも、解決しない背後には、復古させたくない力もまたあるからなのだろう。
それに、日本には、政府にも国会議員にもマスコミにも、国のために自分の意志ではなく命まで失い、単純に国の命ずるために死んだのに、何かの意図をもって彼らが動いたかのように、曲げて解釈する気風もある。
軍国主義のレッテルまで、現場のものに押し付けて、真の命令責任はどこにあったのかなどには、頬(ほお)かむりして平然としている、いまの無責任な体質も問題である。何とかしなければならない問題は山ほどある。
英霊たちは国の主権行為である戦争の指導者ではない。責任があるとすれば、それは日本国を引き継いだ指導者たち、国や日本を導いてきたマスコミなどが負うべき問題なのだ。(つづく)
☆斎藤吉久注 葦津様のご了解を得て、「私の『視角』」〈http://blog.goo.ne.jp/ashizujimusyo〉から転載させていただきました。適宜、若干の編集を加えてあります。
2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国 第5回 戦後の靖国神社 [靖国神社]
以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です
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2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国
第5回 戦後の靖国神社
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[1]爆破焼却してしまえ
神道指令という全国の神社に大きな改革を迫る占領軍命令で、米国からもっとも厳しい圧力を加えられた靖国神社は、廃絶するか、あるいはどんな形をとってでも英霊追悼の施設として占領中を生き残るか、の厳しい選択を迫られることになった。
全国の神社は神社本庁というまとまった組織を新設し、その下に「宗教団体」として国の手から離れて生き残る方策を模索する道を着々と進んでいるのを見て、靖国神社もこれにならって暫時、生き残りを図ることになる。
だが、そんな道を靖国神社が求めだしたのは、昭和20(1945)年の末からのことであった。
当初、靖国神社は、みずからがどの国にもある無名戦士の慰霊施設のようなもので、軍がなくなっても、施設そのものが国から切り離されるという切迫感はなかったようだ。
しかし占領軍の総司令部(GHQ)の中には、占領以前から、「靖国神社は日本国の精神的な団結の象徴的な施設であり、在来の国家の戦う機能を完全に破壊するためには、爆破焼却してなくしてしまえ」という意見が出るほど敵対の意識は強かった。
それは戦時中に練られた対日占領方針にも濃厚に出されて、とても所轄が代わって残れるような条件にはなかったのだった。
幸い靖国神社の爆破は、当時カトリックの教皇使節代行をしていたビッテル神父などによって救われた。マッカーサー総司令部総統は爆破の可否を彼に質したのだが、彼は強く軍の靖国神社破砕方針をいさめた。
[2]後手に回る日本の対応
「いかなる国家も、国家のために死んだ人々に対して敬意を払う権利と義務がある。それは戦勝国か敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない。
もし靖国神社を焼き払ったとすれば、米軍の歴史にとって不名誉きわまる汚点となって残る。神社の焼却、廃止は米軍の占領政策と相容れない犯罪行為である。
靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源だというなら、排除すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。いかなる宗教を信仰するものであれ、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊をまつられるようにすることを進言する」
こんなことなどもあって、神社は破壊からは救われたのだが、神社の前には厳しい難問が控えることになった。
戦争というものの実体験がない戦後の日本人の間には、最近の戦争は、国際法で決められた条件さえも無視して、あらゆる戦争やその後の占領行政が行われやすいという現状を、実感するのが難しいかもしれない。
「話し合いで戦争が防げる」などという信仰が、現実のものと思われている思考からは、戦争というものの恐るべきエネルギーと従事する者の感情などは、なかなか想像できないからである。
一種の平和ボケの状態でいるからだ。
だが、そんな人たちのことはさておいて、あの大戦ののちの日本政府もまた、降伏しても、占領支配が国際法の原則の下に行われるだろうと勝手に信ずるような空気が強く、日本側の対応は占領軍の後手後手を、あわててついていくような状態だった。
[3]国の施設でなくなる
戦いが終わった直後だ。
戦地からは続々復員する兵士たちが戻ってくるが、それとともに遺骨も戻り、戦没兵士たちの新しい名簿もどんどんこれからは増える。
降伏条件により、祭神を決定する管轄である軍はなくなることになっている。
そこで陸海軍省では、軍がなくなる前に、その後に別の部署に靖国神社の管轄が移ってもよいように、靖国神社で、これから判明する英霊を含めて、満洲事変以降の未合祀者で将来、靖国神社に合祀されるべき英霊を一度に招魂する臨時大招魂祭を開かせた。
これは今後の大東亜戦争での戦没英霊合祀への筋道をつけ、所轄が変わっても、来るべき軍が不在の時代に同じ条件で連続的に祭神を加える道を講じ、占領時代に備えようとしたものだった。
たが、その祭典実施の直後に「神道指令」が出され、それどころではなくなった。
指令によって靖国神社が、国の施設でいられなくなってしまったのだ。
軍による祭神の決定が軍でできなくなっても、祭神の決定権はこの祭典によって、以後は政府の新機関などから従来の合祀基準に照らした名簿の提供が有れば何とかいける、靖国神社の連続性は確保された、と神社がホッとした直後のことだった。
[4]「宗教」として生き残りを図る
「神道指令」は、神社などの組織は国など公共の設備としては存続が許されず、国が今後は靖国神社の行事に参加することさえも制約され、しかも国とつながったままでは存続を許さない、という占領中の絶対命令であった。
こんな動きが出るだろうことを事前に察知した全国の神社界は、早くから動いていた。
全国の神社は、これもすべて国の機関とされていたが、すでに財団法人的な存続策を図って神社本庁を設けて存続する道を、終戦以来、探っていたのだ。
しかしこの指令で、GHQが「宗教団体」としての存続を図る以外に、神社の存続は許さないという方針だと知ると、直ちに「宗教団体」として生き残る道を模索しはじめた。
靖国神社にも旧軍関係者や遺族や英霊の戦友、一般の国民などから、指令が出ても「何としても神社の存続の道を求めてほしい」との声が強かった。
そこで神社界などの話も聞いて、全国の神社にならい、靖国神社も21年の4月、民間の宗教団体として独立することを決定した。
何でこんなことをくどくど書いているのか、と思われる読者がいるかもしれない。
だがこれからの靖国神社を考えるとき、これはきわめて重要な分岐点なのである。
[5]当面の留守番役
〈1〉国は靖国神社を、できれば軍が解体した後も、国の一施設として残したかった。だがそれは神道指令で占領軍の認めるところでなくなったと知った。
〈2〉他方、占領軍は、全国の神社などが在野の団体であっても、宗教団体以外になる道は認めない、との方針でいた。
〈3〉靖国神社は国民に対して、布教などの宗教活動をする組織ではなかった。祭神の決定という宗教団体にとってはもっとも重要なことにも、従来は関わってはいなかった。
軍の決めた祭神を合祀するだけの機能しか持っていなかった。だから公機関から離れても、祭祀だけをする民法法人になるのが望ましいと思った。
だが、情勢は宗教法人になる以外、存続の道がないことを知らされた。
〈4〉加えて、靖国神社は神社より、厳しい環境の下に発足せざるを得なかった。
宗教団体はそののち憲法が代わり法人として存続することになるが、米軍は、全国の神社に認める境内地の払い下げなども、靖国神社には認めなかった。
米軍がつぶそうと思ったら、その土地から出ていけ、といえば、それだけで神社は成り立たない。米軍は靖国神社をいつでもつぶせる状況の下に続けさせて、占領が終わるときまで監視をし続けたのだった。
このような状況下に宗教団体として発足した靖国神社は、あくまでも米軍の占領中、日本国が自主的に政治をおこなう権限がないという特殊の条件の下で生き残ろうとする暫定組織であり、独立を回復したその後には、ふたたび国の機関に復活しようという含みを持った暫定組織であった。
靖国神社は宗教団体として発足したが、その決定機関である責任役員も総代も奉仕者も、規則にどう謳われているかにかかわらず、極論すれば、国という機関が手をつけられないでいる間の留守番人ともいえる存在だった。
[6]独立回復後の新たな難題
そんな靖国神社だったので、講和条約もでき、日本がふたたび独立を回復する前からも、靖国神社をふたたび国の施設に戻したいという声は、国民の間に広く盛り上がるようになってきた。
靖国神社を支える人たち、さらに英霊の遺族たちの間には、「お国のために死んだ人は国が祀るのが当然だ」という意識は強い。
昭和26年秋、講和条約を締結して帰国した吉田茂首相は、まず第一に靖国神社に正式参拝、英霊たちに不自由をわびるとともに独立をふたたび回復したことを報告した。
当時の大多数の国民たちは、靖国神社をふたたび国家護持することを熱望していた。
占領軍命令の神道指令は、独立回復の時点で失効する。これからは憲法がすべての基本法になる時代になった。その憲法には、この連載の2回目〈http://www.melma.com/backnumber_170937_4750317/〉で記したように、障害になる条項は見当たらない。
国家護持を求める声は、講和条約の締結前から各地でわきあがり、国会などにも請願が相次いでいた。靖国神社法も国会に提出された。
だが、占領の時代は日本に、それまでにはなかった新たな難題を作り出していた。
占領軍が政府や国会の上に君臨する時代は、占領軍の意のままに動き、その方針や解釈を国民生活以上に重視する政府や国会議員、マスコミ、学者、文化人などを生みだして、彼らが国のあらゆる機関を維持運営する要職に就いていた。
彼らにとって、彼らが国内で力を得ることができるようになった源泉は、占領政策そのものの権威であった。彼らは靖国神社の再護持について、まるで神道指令が出された初期の米軍のように、神社という宗教の儀式を、国の制度に持ち込むことはできないと反対した。
役人も占領時代の空気にすっかり馴染んでいて、それ以外の解釈をかたくなに否定する。靖国神社法案はそんな占領時代の空気の中に、法案さえも骨抜きにされ、しかも国会ではたなざらしにされ、そのうち国会に出されることもなくなってしまった。
[7]首相の公式参拝要求に後退
靖国神社法案が多くの国民の支持を受け、強い国民の熱意があったのにかかわらず、いつの間にか消えていってしまった背景には、とくに熱心であった人々、英霊の家族や英霊の戦友、かつての軍の関係者など、運動の前線にいた人が長い運動が続く間に命が尽きて、相次いで去ってしまったことが大きい。
国民の要望を受けて靖国神社法の成立を約束して票を得て当選した国会議員たちも、占領軍の解釈そのままに筋道を立てることのみを考えて、国民の心を無視した役人たちの「国家護持には条件がある」と宗教性排除を根拠に反対する動きの前に、はなはだ熱意が乏しく、そのうち議員側の提案により、この運動は首相の公式参拝を求める運動に後退させられた。
首相の正式参拝などは、すでに占領中の吉田首相以来、何人もの首相によって行われているごく当たり前のことだった。それで充分に首相の参拝として成り立っていた。
公式参拝という言葉は「非公式な参拝」に対する造語であり、正式参拝と略式参拝に参拝方式を分類するこの種の施設に関する慣習に馴染むものではない。
国会では参拝の作法や玉ぐし料の出どころなどを根拠に論じているようだが、それでは靖国神社に公的に敬意を表するために参拝する諸外国の軍隊や外国公人の参拝は、個人の立場ということになってしまうのか。奇妙な話である。
それは三木首相が参拝を「個人の立場で参拝する」と発言して以来、日本だけでの珍妙な問答として8月15日の新聞用の言葉としてクローズアップされたに過ぎなかった。
三木首相はお忍びで、英霊たちに「おれはこの国の首相ではないよ」と隠れて参拝しなければならない理由でもあったのだろうか?
[8]昭和40年代以後、冬の時代に
この言葉に、マスコミがまるで鬼の首でも取ったように飛びついた。
これ以来、「公的参拝ですか? 私的参拝ですか?」などという珍妙なやり取りが、8月15日だけ、しかも靖国神社だけで、マスコミとの間で交わされるという奇妙な風景が、ほかの施設ではまったくないのに、ここだけで繰り返されるようになった。
運動は一度つまずくと、際限もなく混乱し、やがて何を目標に運動していたのかさえも見えなくなって、いつの間にやら挫折する。靖国神社の国家護持は、かくして戦時中の時代を知る国民の旧態回復の運動としては頓挫(とんざ)して、のちの世代の課題に引き継がれた形となった。
さらに戦後の靖国神社の地位復活に関する運動に関しては、それを成し遂げようとする情熱が、だんだん弱くなった事情もある。
敗戦までの時代を生き、戦後の無念さが忘れていない人が、年月の経過とともにだんだん数を減らしてくるのとともに、占領中の米占領軍の行った占領政策、とくにマスコミなどのメディアや教育などを通して徹底的に行った洗脳工作が徐々に効果を発揮してきた。日本の独立回復後もその洗脳工作を強く受けた昭和生まれの連中が国民の中の比率を高めてくるにつれて、年を追うごとに運動が難しくなったことがあげられる。
そんな傾向は、当時義務教育を受けていた昭和ふたケタ生まれの連中が、社会の中心で活躍する時代になる昭和40年代あたりから、急速に感ぜられるようになってきた。
しかも日本の最高学府である東大の法学部では、戦時中は日本の大東亜戦争に進む時代に、軍や政府の理論的支持者であった宮沢俊義氏が説を180度転回して、日本はあの昭和20年に革命を経験してそれまでの時代とは断絶したのだとして、占領軍のまだ先を行くような日本の伝統を無視する教育を行い、その影響を受けたものが日本の官界などの中枢を占める時代にもなってきた。
独立を経験したのちに、いよいよ戦後体制への傾斜が見られる。歴史上でも特異な傾向かもしれないが、日本の歴史にとって、こんな冬の時期も訪れてきて、靖国神社の国家護持運動は、ちょうどそのころ盛り上がりつつあった自主憲法の制定運動とともに、いよいよ厳しい時期を迎えることになった。
[9]混乱が長引いたために
靖国神社は、国の機関から離れる際、民間の一宗教法人として施設を維持管理するのは占領という一時期であり、独立が回復されたらやがては国の施設に回復したい、と考えて、その暫定期間と思っての歩みを続けてきた。
ただ、その間は国からの維持管理費の負担は期待できない。
そこで法人格を取得した翌年には、7月の盆の時期に提灯を境内に飾って英霊の霊を慰める「みたま祭り」を開始し、民間の人々に支えてもらっての存続方策を図ったり、一般の神社と同様に年中行事の特別参拝を始めたり、七五三、結婚式、さまざまの規格を取り入れてきた。
いま、靖国神社を訪れる人には「靖国神社は他の神社とは違うといわれるけれども、その姿を見れば、ほとんど同じものではないか」との感想を持つ人も多いだろう。
だがそれは、ほとんどが戦後の時代を生き残ろうとした靖国神社の新しいものなのである。
また、戦後の混乱が長引いたために、政治的な環境など、国家護持の運動や靖国神社の運営に関して、いろいろと問題を生んできた面も大きかった。
そんな時代がはじまり、国家護持がなかなか実現しない空気の中で、いま、騒がれている東京裁判殉難者の霊の合祀問題なども起こるのだが、これについては次回以降に触れる。(つづく)
☆斎藤吉久注 葦津様のご了解を得て、「私の『視角』」〈http://blog.goo.ne.jp/ashizujimusyo〉から転載させていただきました。適宜、若干の編集を加えてあります。
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2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国
第5回 戦後の靖国神社
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[1]爆破焼却してしまえ
神道指令という全国の神社に大きな改革を迫る占領軍命令で、米国からもっとも厳しい圧力を加えられた靖国神社は、廃絶するか、あるいはどんな形をとってでも英霊追悼の施設として占領中を生き残るか、の厳しい選択を迫られることになった。
全国の神社は神社本庁というまとまった組織を新設し、その下に「宗教団体」として国の手から離れて生き残る方策を模索する道を着々と進んでいるのを見て、靖国神社もこれにならって暫時、生き残りを図ることになる。
だが、そんな道を靖国神社が求めだしたのは、昭和20(1945)年の末からのことであった。
当初、靖国神社は、みずからがどの国にもある無名戦士の慰霊施設のようなもので、軍がなくなっても、施設そのものが国から切り離されるという切迫感はなかったようだ。
しかし占領軍の総司令部(GHQ)の中には、占領以前から、「靖国神社は日本国の精神的な団結の象徴的な施設であり、在来の国家の戦う機能を完全に破壊するためには、爆破焼却してなくしてしまえ」という意見が出るほど敵対の意識は強かった。
それは戦時中に練られた対日占領方針にも濃厚に出されて、とても所轄が代わって残れるような条件にはなかったのだった。
幸い靖国神社の爆破は、当時カトリックの教皇使節代行をしていたビッテル神父などによって救われた。マッカーサー総司令部総統は爆破の可否を彼に質したのだが、彼は強く軍の靖国神社破砕方針をいさめた。
[2]後手に回る日本の対応
「いかなる国家も、国家のために死んだ人々に対して敬意を払う権利と義務がある。それは戦勝国か敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない。
もし靖国神社を焼き払ったとすれば、米軍の歴史にとって不名誉きわまる汚点となって残る。神社の焼却、廃止は米軍の占領政策と相容れない犯罪行為である。
靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源だというなら、排除すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。いかなる宗教を信仰するものであれ、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊をまつられるようにすることを進言する」
こんなことなどもあって、神社は破壊からは救われたのだが、神社の前には厳しい難問が控えることになった。
戦争というものの実体験がない戦後の日本人の間には、最近の戦争は、国際法で決められた条件さえも無視して、あらゆる戦争やその後の占領行政が行われやすいという現状を、実感するのが難しいかもしれない。
「話し合いで戦争が防げる」などという信仰が、現実のものと思われている思考からは、戦争というものの恐るべきエネルギーと従事する者の感情などは、なかなか想像できないからである。
一種の平和ボケの状態でいるからだ。
だが、そんな人たちのことはさておいて、あの大戦ののちの日本政府もまた、降伏しても、占領支配が国際法の原則の下に行われるだろうと勝手に信ずるような空気が強く、日本側の対応は占領軍の後手後手を、あわててついていくような状態だった。
[3]国の施設でなくなる
戦いが終わった直後だ。
戦地からは続々復員する兵士たちが戻ってくるが、それとともに遺骨も戻り、戦没兵士たちの新しい名簿もどんどんこれからは増える。
降伏条件により、祭神を決定する管轄である軍はなくなることになっている。
そこで陸海軍省では、軍がなくなる前に、その後に別の部署に靖国神社の管轄が移ってもよいように、靖国神社で、これから判明する英霊を含めて、満洲事変以降の未合祀者で将来、靖国神社に合祀されるべき英霊を一度に招魂する臨時大招魂祭を開かせた。
これは今後の大東亜戦争での戦没英霊合祀への筋道をつけ、所轄が変わっても、来るべき軍が不在の時代に同じ条件で連続的に祭神を加える道を講じ、占領時代に備えようとしたものだった。
たが、その祭典実施の直後に「神道指令」が出され、それどころではなくなった。
指令によって靖国神社が、国の施設でいられなくなってしまったのだ。
軍による祭神の決定が軍でできなくなっても、祭神の決定権はこの祭典によって、以後は政府の新機関などから従来の合祀基準に照らした名簿の提供が有れば何とかいける、靖国神社の連続性は確保された、と神社がホッとした直後のことだった。
[4]「宗教」として生き残りを図る
「神道指令」は、神社などの組織は国など公共の設備としては存続が許されず、国が今後は靖国神社の行事に参加することさえも制約され、しかも国とつながったままでは存続を許さない、という占領中の絶対命令であった。
こんな動きが出るだろうことを事前に察知した全国の神社界は、早くから動いていた。
全国の神社は、これもすべて国の機関とされていたが、すでに財団法人的な存続策を図って神社本庁を設けて存続する道を、終戦以来、探っていたのだ。
しかしこの指令で、GHQが「宗教団体」としての存続を図る以外に、神社の存続は許さないという方針だと知ると、直ちに「宗教団体」として生き残る道を模索しはじめた。
靖国神社にも旧軍関係者や遺族や英霊の戦友、一般の国民などから、指令が出ても「何としても神社の存続の道を求めてほしい」との声が強かった。
そこで神社界などの話も聞いて、全国の神社にならい、靖国神社も21年の4月、民間の宗教団体として独立することを決定した。
何でこんなことをくどくど書いているのか、と思われる読者がいるかもしれない。
だがこれからの靖国神社を考えるとき、これはきわめて重要な分岐点なのである。
[5]当面の留守番役
〈1〉国は靖国神社を、できれば軍が解体した後も、国の一施設として残したかった。だがそれは神道指令で占領軍の認めるところでなくなったと知った。
〈2〉他方、占領軍は、全国の神社などが在野の団体であっても、宗教団体以外になる道は認めない、との方針でいた。
〈3〉靖国神社は国民に対して、布教などの宗教活動をする組織ではなかった。祭神の決定という宗教団体にとってはもっとも重要なことにも、従来は関わってはいなかった。
軍の決めた祭神を合祀するだけの機能しか持っていなかった。だから公機関から離れても、祭祀だけをする民法法人になるのが望ましいと思った。
だが、情勢は宗教法人になる以外、存続の道がないことを知らされた。
〈4〉加えて、靖国神社は神社より、厳しい環境の下に発足せざるを得なかった。
宗教団体はそののち憲法が代わり法人として存続することになるが、米軍は、全国の神社に認める境内地の払い下げなども、靖国神社には認めなかった。
米軍がつぶそうと思ったら、その土地から出ていけ、といえば、それだけで神社は成り立たない。米軍は靖国神社をいつでもつぶせる状況の下に続けさせて、占領が終わるときまで監視をし続けたのだった。
このような状況下に宗教団体として発足した靖国神社は、あくまでも米軍の占領中、日本国が自主的に政治をおこなう権限がないという特殊の条件の下で生き残ろうとする暫定組織であり、独立を回復したその後には、ふたたび国の機関に復活しようという含みを持った暫定組織であった。
靖国神社は宗教団体として発足したが、その決定機関である責任役員も総代も奉仕者も、規則にどう謳われているかにかかわらず、極論すれば、国という機関が手をつけられないでいる間の留守番人ともいえる存在だった。
[6]独立回復後の新たな難題
そんな靖国神社だったので、講和条約もでき、日本がふたたび独立を回復する前からも、靖国神社をふたたび国の施設に戻したいという声は、国民の間に広く盛り上がるようになってきた。
靖国神社を支える人たち、さらに英霊の遺族たちの間には、「お国のために死んだ人は国が祀るのが当然だ」という意識は強い。
昭和26年秋、講和条約を締結して帰国した吉田茂首相は、まず第一に靖国神社に正式参拝、英霊たちに不自由をわびるとともに独立をふたたび回復したことを報告した。
当時の大多数の国民たちは、靖国神社をふたたび国家護持することを熱望していた。
占領軍命令の神道指令は、独立回復の時点で失効する。これからは憲法がすべての基本法になる時代になった。その憲法には、この連載の2回目〈http://www.melma.com/backnumber_170937_4750317/〉で記したように、障害になる条項は見当たらない。
国家護持を求める声は、講和条約の締結前から各地でわきあがり、国会などにも請願が相次いでいた。靖国神社法も国会に提出された。
だが、占領の時代は日本に、それまでにはなかった新たな難題を作り出していた。
占領軍が政府や国会の上に君臨する時代は、占領軍の意のままに動き、その方針や解釈を国民生活以上に重視する政府や国会議員、マスコミ、学者、文化人などを生みだして、彼らが国のあらゆる機関を維持運営する要職に就いていた。
彼らにとって、彼らが国内で力を得ることができるようになった源泉は、占領政策そのものの権威であった。彼らは靖国神社の再護持について、まるで神道指令が出された初期の米軍のように、神社という宗教の儀式を、国の制度に持ち込むことはできないと反対した。
役人も占領時代の空気にすっかり馴染んでいて、それ以外の解釈をかたくなに否定する。靖国神社法案はそんな占領時代の空気の中に、法案さえも骨抜きにされ、しかも国会ではたなざらしにされ、そのうち国会に出されることもなくなってしまった。
[7]首相の公式参拝要求に後退
靖国神社法案が多くの国民の支持を受け、強い国民の熱意があったのにかかわらず、いつの間にか消えていってしまった背景には、とくに熱心であった人々、英霊の家族や英霊の戦友、かつての軍の関係者など、運動の前線にいた人が長い運動が続く間に命が尽きて、相次いで去ってしまったことが大きい。
国民の要望を受けて靖国神社法の成立を約束して票を得て当選した国会議員たちも、占領軍の解釈そのままに筋道を立てることのみを考えて、国民の心を無視した役人たちの「国家護持には条件がある」と宗教性排除を根拠に反対する動きの前に、はなはだ熱意が乏しく、そのうち議員側の提案により、この運動は首相の公式参拝を求める運動に後退させられた。
首相の正式参拝などは、すでに占領中の吉田首相以来、何人もの首相によって行われているごく当たり前のことだった。それで充分に首相の参拝として成り立っていた。
公式参拝という言葉は「非公式な参拝」に対する造語であり、正式参拝と略式参拝に参拝方式を分類するこの種の施設に関する慣習に馴染むものではない。
国会では参拝の作法や玉ぐし料の出どころなどを根拠に論じているようだが、それでは靖国神社に公的に敬意を表するために参拝する諸外国の軍隊や外国公人の参拝は、個人の立場ということになってしまうのか。奇妙な話である。
それは三木首相が参拝を「個人の立場で参拝する」と発言して以来、日本だけでの珍妙な問答として8月15日の新聞用の言葉としてクローズアップされたに過ぎなかった。
三木首相はお忍びで、英霊たちに「おれはこの国の首相ではないよ」と隠れて参拝しなければならない理由でもあったのだろうか?
[8]昭和40年代以後、冬の時代に
この言葉に、マスコミがまるで鬼の首でも取ったように飛びついた。
これ以来、「公的参拝ですか? 私的参拝ですか?」などという珍妙なやり取りが、8月15日だけ、しかも靖国神社だけで、マスコミとの間で交わされるという奇妙な風景が、ほかの施設ではまったくないのに、ここだけで繰り返されるようになった。
運動は一度つまずくと、際限もなく混乱し、やがて何を目標に運動していたのかさえも見えなくなって、いつの間にやら挫折する。靖国神社の国家護持は、かくして戦時中の時代を知る国民の旧態回復の運動としては頓挫(とんざ)して、のちの世代の課題に引き継がれた形となった。
さらに戦後の靖国神社の地位復活に関する運動に関しては、それを成し遂げようとする情熱が、だんだん弱くなった事情もある。
敗戦までの時代を生き、戦後の無念さが忘れていない人が、年月の経過とともにだんだん数を減らしてくるのとともに、占領中の米占領軍の行った占領政策、とくにマスコミなどのメディアや教育などを通して徹底的に行った洗脳工作が徐々に効果を発揮してきた。日本の独立回復後もその洗脳工作を強く受けた昭和生まれの連中が国民の中の比率を高めてくるにつれて、年を追うごとに運動が難しくなったことがあげられる。
そんな傾向は、当時義務教育を受けていた昭和ふたケタ生まれの連中が、社会の中心で活躍する時代になる昭和40年代あたりから、急速に感ぜられるようになってきた。
しかも日本の最高学府である東大の法学部では、戦時中は日本の大東亜戦争に進む時代に、軍や政府の理論的支持者であった宮沢俊義氏が説を180度転回して、日本はあの昭和20年に革命を経験してそれまでの時代とは断絶したのだとして、占領軍のまだ先を行くような日本の伝統を無視する教育を行い、その影響を受けたものが日本の官界などの中枢を占める時代にもなってきた。
独立を経験したのちに、いよいよ戦後体制への傾斜が見られる。歴史上でも特異な傾向かもしれないが、日本の歴史にとって、こんな冬の時期も訪れてきて、靖国神社の国家護持運動は、ちょうどそのころ盛り上がりつつあった自主憲法の制定運動とともに、いよいよ厳しい時期を迎えることになった。
[9]混乱が長引いたために
靖国神社は、国の機関から離れる際、民間の一宗教法人として施設を維持管理するのは占領という一時期であり、独立が回復されたらやがては国の施設に回復したい、と考えて、その暫定期間と思っての歩みを続けてきた。
ただ、その間は国からの維持管理費の負担は期待できない。
そこで法人格を取得した翌年には、7月の盆の時期に提灯を境内に飾って英霊の霊を慰める「みたま祭り」を開始し、民間の人々に支えてもらっての存続方策を図ったり、一般の神社と同様に年中行事の特別参拝を始めたり、七五三、結婚式、さまざまの規格を取り入れてきた。
いま、靖国神社を訪れる人には「靖国神社は他の神社とは違うといわれるけれども、その姿を見れば、ほとんど同じものではないか」との感想を持つ人も多いだろう。
だがそれは、ほとんどが戦後の時代を生き残ろうとした靖国神社の新しいものなのである。
また、戦後の混乱が長引いたために、政治的な環境など、国家護持の運動や靖国神社の運営に関して、いろいろと問題を生んできた面も大きかった。
そんな時代がはじまり、国家護持がなかなか実現しない空気の中で、いま、騒がれている東京裁判殉難者の霊の合祀問題なども起こるのだが、これについては次回以降に触れる。(つづく)
☆斎藤吉久注 葦津様のご了解を得て、「私の『視角』」〈http://blog.goo.ne.jp/ashizujimusyo〉から転載させていただきました。適宜、若干の編集を加えてあります。
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2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国 第3回 問われる国家の責任 [靖国神社]
以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です
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2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国
第3回 問われる国家の責任
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[1]国が英霊を作り、神社に祀った
国の戦没者追悼式は、国が祖国のために命をささげた靖国神社の英霊をことさらに避けるように見え、さらに戦没者追悼式を見ると、英霊を祭る方式では、憲法を60年前の敵国だった戦勝アメリカ進駐軍の日本を立ち上がれなくしようという占領指令を、いまも忠実に守り続けることによって、二重の逃げをしている行事に見えることを、多少怒りの感情とともに述べてきた。
表現はきついが、おそらく同じような思いを持って眺める国民も多いだろう。
靖国神社には、国の条件で審査して祭神を決定し、選ばれた約250万柱の英霊が眠っている。
靖国神社に祀られている英霊は、先の大東亜戦争における戦没英霊のみではない。
明治維新の戊辰戦争以来、日本は数々の戦争を経験してきた。
それらの戦いに、国の命令に従って従軍して亡くなった英霊たちが祭神なのだ。その内訳は(明治維新の活動者など内戦での合祀者は近代国に脱皮する前の祭神だから別としても)日清戦争1万3000、日露戦争8万8000、満州事変1万7000、支那事変19万1000など、国際紛争でなくなった英霊たちが30万柱近くにも達している。
これらの御霊(みたま)は、明治維新によって創立初期の時代に祀られた祭神以外は、すべて明治以来の日本国が従軍させた武力衝突で、日本政府の方針に従って軍事衝突により戦死した人たちであり、日本政府の戦死者の審査、手続きによって祭神とされ、宮中にその名簿をお見せしたのちに、国の意思によって靖国神社に祀られた。
そんな事情があるので、靖国神社では国家としての祭りを丁重に行ってきたが、その靖国神社の祭りは、国として英霊たちを顕彰し、彼らに栄誉を与えるものであった(靖国神社では、このほか参拝を希望する遺族や国民の拝礼なども受け付けて行ってきた。それは数においては、国(軍など)の行う行事より、その回数はむしろ多かったが、それは、公の祭りとは別の、靖国神社という祭祀施設が中心で行ってきたものと解釈される)。
[2]祭儀を放棄したままの60年
国の行う行事には、公的に英霊に捧げる表敬の儀式であるとともに、その裏側に、戦乱がなければ、平凡な国民として、穏やかな生涯を終えたであろう人生を、自らの命令によって死に至らしめてしまった英霊に対する、死なせた責任を強く感ずる国の、責任を痛感し、哀悼と慰霊をする思いも含まれていたと解すべきものでもあった。
靖国神社は、諸外国の無名戦士の墓のような側面も持っていたのである。
国家には、国民の前にあからさまには示されなかったが、彼らを生きてふたたび郷里へ復員させることができず、戦没英霊にしてしまった重大な責任意識があり、国がそれを強く自覚し、英霊の前に頭を下げなければならぬ関係もある面は見落としてはならない。
そんな大切な御霊を祀る靖国神社を、日本国は敗戦時の有無を言わせぬ戦勝占領国の命令によって、国の大切な祭祀施設から切り離さなければならなくなった。
これについては後に詳しく触れるが、そこでせめて占領終結までの間、民間でしばらく預かってくれる占領中の留守番役にまかせなければならない事態が生じ、その役目を進んで引き受けたのが、いまの宗教法人の靖国神社であった。
国から離れた当時の靖国神社の関係者や国は、日本国が、ふたたび独立して、自由を回復したあかつきには、ふたたび国の機関に回復させようという点で一致していた。だが、いろいろの問題が重なって、国がその祭儀を、放棄したままに60年、長い時間がいままでの間にすぎてしまっている。
いま、遺族や国民の間に、靖国神社の公式参拝を求める声が強く、熱心にそのために運動をしている人も多い。
私自身は公式参拝という概念はあいまいであまり好きではないが、靖国神社にはぜひ首相はじめ政府の責任者に、公式に敬意を表してもらいたい、と切望する英霊の遺族や国民には深い共感を覚える。
このような政府の戦没英霊を作り出してしまった責任を、いつまでも国としてはっきりさせず、国家護持も放棄したままで平然としているような態度が残念で、国家護持の回復には時間がかかっても、せめて英霊たちに国で責任もって慰霊のできない状況を公式参拝して英霊に詫びろ、と求めているものと見なければなるまい。
[3]第三者的に憐れみ悼むのではなく
政府は全国戦没者追悼式を行い、先の大東亜戦争の英霊を含む全犠牲者を追悼する式典を主催している。
政府はこんな式典をしているのだから、靖国神社にこのほかに国としての敬意を表する必要がないように思う人もいるだろう。
だが、これに関しては、私はそれで充分とは決して言えないと思っている。戦没者追悼式は、単にこの前の戦争だけの、巻き添えで亡くなった、戦争被害者を含む追悼の式典であるに過ぎない。
だが靖国神社には、軍や政府の主権活動として行った戦闘行為で命を失う羽目に追い込まれた英霊がまつられている。彼らは、戦争による犠牲者でもあるが、それとともに、国によって直接的に命を失う戦闘行為に従事して戦死した国の犠牲者でもある。召集令状の赤紙が来なかったら、穏やかな生涯を家族や隣人とともに暮らしたであろう人がたくさん含まれているのだ。国は彼らを第三者のような形で追悼する以上の深い責任がある。
政府の自ら彼らを戦死に至らしめた責任を痛感して、彼らにこれから、同じような被害者が出ないように国としても精いっぱいに努力すると誓う儀式は、国が単なる憐み悼む追悼式を行うのとは別に、はっきり行うべき義務があると思う。
日本政府は、明治の開国以来の日本国のすべての権利義務、領土や国民を引き継いでいる。
数々の国際的な戦闘行為を行ったことに対する、従事した戦死者への慰霊の儀式は、大切な日本国の引き継ぎ事項としていまの政府にもあるはずである。
[4]新追悼施設建設のナンセンス
この問題に関してガンとなっているのが、前回も記した日本国の公務員たちが、占領軍の占領当初に出した神道指令の命令通りの頭のままで、憲法解釈上、国が靖国神社にかかわるのは一宗教法人に手を貸すことになり、許されないという主張をいまでも繰り返し、政治家や国会議員たちの行動を牽制(けんせい)し続ける現状である。
それが常識的な憲法の見方ではないことは先に述べた。だが、そんな状況を見て、「いままで靖国神社に祀ってきた行為を国が詫びて、英霊に謝罪して、新しく無宗教式の施設を作り、英霊をまつりなおせばよい」などと、こともなげにいう説も、一部の国会議員などにある。
無宗教方式なら許されるという発想は、役人のレクチャーを受け、同じくおかしな判決を出し続ける裁判所の姿勢にも合わせようとしたものなのだろうが、そんな国の将来への逃げ腰の姿勢に、どんな効果があると思っているのか。
表面だけをちょっといじって、無宗教という政府の作りだした宗教が、靖国神社の行き方とどれだけ違うものなのか、前章で書いたように、まったく屁理屈にもならないと私は思う。それは日本中にある伝統的な宗教に違和感を感じさせる宗教的効果のあることを政府がすることにもつながってくる。
心のこもっていないいまの政府や役人が、表面だけを取り繕おうとこんな発想を持ちだして、施設に膨大な費用をかけて作ってみても、それは愚かな予算の無駄遣いに過ぎぬ。
その上、いったい国民心理にその施設はどんな効果があるというのだろう。
国民はそんなものには満足しない。まるで郵政省か厚生労働省が、役にも立たない箱モノを作ったのと、同じようなものに見える。
それにこれは最も大切なことであるが、思い出しても見るがよい。
英霊たちが、はたしてそれを認め満足するというのだろうか。
靖国神社に祀られている英霊たちが、まだ存命ででもあるのなら、国が正式に陳謝して、慰謝料でも支払って事態をやり直すこともできるだろう。
だが英霊たち、とくに近時の英霊たちは、「万一のときは靖国神社で会おう」との別れの挨拶をし、死ねば国によって丁重に靖国神社という特別の施設に祀られることを信じて戦地におもむいた。
死者との約束、しかも死者は国が責任のある国権の発動である戦争に、好むと好まざるとにかかわらず従事して、命を散らした人々なのだ。国は誠意を尽くして対応しなければならない重さを持っている。死んだ人の霊などは相手にしようがないというのなら、もともと新追悼施設などの構想はナンセンスである。
[5]占領軍に抵抗できなかった
靖国神社切り捨て当時の責任は問うまい。
細かい事情はのちに譲るが、敗戦後の日本政府には、靖国神社を放棄せざるを得ない事情があった。
敗戦とともに日本は、進駐してきた米国など連合国の支配のもとに入り、政府はその命令を拒否できないという占領下におかれた。
占領軍は日本の国が戦力や資源は米国などに比べてはるかに劣るのに、それまで頑強に抵抗した力は、日本が、国のためだということになると全国民が一つにまとまる国であり、その精神的な柱となっているのは靖国神社への国民の一致した崇敬心と神社への信仰によるまとまり、そしてそれらの基礎にある皇室への忠誠の心にあるとみた米軍は、それを徹底して破砕しようとした。
そこで米軍は靖国神社を日本国が保持し、維持するのを厳しく禁止した。日本政府などは無視した占領軍の命令であった。
敗戦に伴う降伏条件には、日本国政府はすべての権限を占領軍総司令部(GHQ)に従属することを定めていた。
こんな中で靖国神社は国の施設から放り出されてしまった。
このことを指して、国は無責任だったと責める声も多い。
現にあの靖国神社を国の施設から切断させ、焼却しようとの声が占領軍内部に起こったとき、国民の間にも一命をかけてでも靖国神社を奉護しようと決断した人も多かった。
靖国神社の切り捨てを、国としてあってはならないミスだったという声もある。
しかし、まだ幼かったがこの目で戦後の時代を現実に眺めてきた私は、故意に犯した無責任だと国を責める気にはなれない。
主権も奪われた日本国政府は、それに抵抗する手段もなかったのだ。
[6]厄介なことは先送り
しかし、日本が講和条約を締結し、再び独立を回復し、自分の責任で国の運営ができるようになった7年後から、この国家として国のために死んだ人たち(厳しい言い方をすれば、国の方針によって生命を断たれた人たち)への責任にもまったく触れようとせず、ただただ死者の尊厳を無視して生きている者への言い逃れのような応対に明け暮れてきたその後の50年以上は、明らかに無責任であった。
靖国神社の再国家護持への道には、この上に占領軍の出した神道指令に基づく政教分離の問題の下手な取り扱いの後遺症も重なっていた。
それらに対して、国はあれだけ膨大な損失をあえて犯した行為への戦後処理である。真正面から正攻法で取り組むべきであった。
だが戦後の日本国は、あらゆる面で厄介な面は先送りして、その場を過ぎればよいとのみ思って難問を回避する基本的な性格を持ってしまっていた。
靖国神社の再国家護持には、逃げばかりではない取り組みが必要なのだが。
政府は、やればできることも、反対する少数者がいるという理由だけで、説得が厄介だからしようとはしない。
そんな疑いが積み重ねられるような現状は無視できない。
靖国神社の問題のあいまいな対応が及んで、千鳥が淵戦没者墓苑もまた、同様に正常な施設としての説明があいまいなままになっている。
日本は戦後64年を経ているが、8月15日の光景を見ると、日本はまだ、占領時代に歪められ、それに手もつけないでいるのだと言わなければならない現状のようである。(つづく)
☆斎藤吉久注 葦津様のご了解を得て、「私の『視角』」〈http://blog.goo.ne.jp/ashizujimusyo〉から転載させていただきました。適宜、若干の編集を加えてあります。
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2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国
第3回 問われる国家の責任
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[1]国が英霊を作り、神社に祀った
国の戦没者追悼式は、国が祖国のために命をささげた靖国神社の英霊をことさらに避けるように見え、さらに戦没者追悼式を見ると、英霊を祭る方式では、憲法を60年前の敵国だった戦勝アメリカ進駐軍の日本を立ち上がれなくしようという占領指令を、いまも忠実に守り続けることによって、二重の逃げをしている行事に見えることを、多少怒りの感情とともに述べてきた。
表現はきついが、おそらく同じような思いを持って眺める国民も多いだろう。
靖国神社には、国の条件で審査して祭神を決定し、選ばれた約250万柱の英霊が眠っている。
靖国神社に祀られている英霊は、先の大東亜戦争における戦没英霊のみではない。
明治維新の戊辰戦争以来、日本は数々の戦争を経験してきた。
それらの戦いに、国の命令に従って従軍して亡くなった英霊たちが祭神なのだ。その内訳は(明治維新の活動者など内戦での合祀者は近代国に脱皮する前の祭神だから別としても)日清戦争1万3000、日露戦争8万8000、満州事変1万7000、支那事変19万1000など、国際紛争でなくなった英霊たちが30万柱近くにも達している。
これらの御霊(みたま)は、明治維新によって創立初期の時代に祀られた祭神以外は、すべて明治以来の日本国が従軍させた武力衝突で、日本政府の方針に従って軍事衝突により戦死した人たちであり、日本政府の戦死者の審査、手続きによって祭神とされ、宮中にその名簿をお見せしたのちに、国の意思によって靖国神社に祀られた。
そんな事情があるので、靖国神社では国家としての祭りを丁重に行ってきたが、その靖国神社の祭りは、国として英霊たちを顕彰し、彼らに栄誉を与えるものであった(靖国神社では、このほか参拝を希望する遺族や国民の拝礼なども受け付けて行ってきた。それは数においては、国(軍など)の行う行事より、その回数はむしろ多かったが、それは、公の祭りとは別の、靖国神社という祭祀施設が中心で行ってきたものと解釈される)。
[2]祭儀を放棄したままの60年
国の行う行事には、公的に英霊に捧げる表敬の儀式であるとともに、その裏側に、戦乱がなければ、平凡な国民として、穏やかな生涯を終えたであろう人生を、自らの命令によって死に至らしめてしまった英霊に対する、死なせた責任を強く感ずる国の、責任を痛感し、哀悼と慰霊をする思いも含まれていたと解すべきものでもあった。
靖国神社は、諸外国の無名戦士の墓のような側面も持っていたのである。
国家には、国民の前にあからさまには示されなかったが、彼らを生きてふたたび郷里へ復員させることができず、戦没英霊にしてしまった重大な責任意識があり、国がそれを強く自覚し、英霊の前に頭を下げなければならぬ関係もある面は見落としてはならない。
そんな大切な御霊を祀る靖国神社を、日本国は敗戦時の有無を言わせぬ戦勝占領国の命令によって、国の大切な祭祀施設から切り離さなければならなくなった。
これについては後に詳しく触れるが、そこでせめて占領終結までの間、民間でしばらく預かってくれる占領中の留守番役にまかせなければならない事態が生じ、その役目を進んで引き受けたのが、いまの宗教法人の靖国神社であった。
国から離れた当時の靖国神社の関係者や国は、日本国が、ふたたび独立して、自由を回復したあかつきには、ふたたび国の機関に回復させようという点で一致していた。だが、いろいろの問題が重なって、国がその祭儀を、放棄したままに60年、長い時間がいままでの間にすぎてしまっている。
いま、遺族や国民の間に、靖国神社の公式参拝を求める声が強く、熱心にそのために運動をしている人も多い。
私自身は公式参拝という概念はあいまいであまり好きではないが、靖国神社にはぜひ首相はじめ政府の責任者に、公式に敬意を表してもらいたい、と切望する英霊の遺族や国民には深い共感を覚える。
このような政府の戦没英霊を作り出してしまった責任を、いつまでも国としてはっきりさせず、国家護持も放棄したままで平然としているような態度が残念で、国家護持の回復には時間がかかっても、せめて英霊たちに国で責任もって慰霊のできない状況を公式参拝して英霊に詫びろ、と求めているものと見なければなるまい。
[3]第三者的に憐れみ悼むのではなく
政府は全国戦没者追悼式を行い、先の大東亜戦争の英霊を含む全犠牲者を追悼する式典を主催している。
政府はこんな式典をしているのだから、靖国神社にこのほかに国としての敬意を表する必要がないように思う人もいるだろう。
だが、これに関しては、私はそれで充分とは決して言えないと思っている。戦没者追悼式は、単にこの前の戦争だけの、巻き添えで亡くなった、戦争被害者を含む追悼の式典であるに過ぎない。
だが靖国神社には、軍や政府の主権活動として行った戦闘行為で命を失う羽目に追い込まれた英霊がまつられている。彼らは、戦争による犠牲者でもあるが、それとともに、国によって直接的に命を失う戦闘行為に従事して戦死した国の犠牲者でもある。召集令状の赤紙が来なかったら、穏やかな生涯を家族や隣人とともに暮らしたであろう人がたくさん含まれているのだ。国は彼らを第三者のような形で追悼する以上の深い責任がある。
政府の自ら彼らを戦死に至らしめた責任を痛感して、彼らにこれから、同じような被害者が出ないように国としても精いっぱいに努力すると誓う儀式は、国が単なる憐み悼む追悼式を行うのとは別に、はっきり行うべき義務があると思う。
日本政府は、明治の開国以来の日本国のすべての権利義務、領土や国民を引き継いでいる。
数々の国際的な戦闘行為を行ったことに対する、従事した戦死者への慰霊の儀式は、大切な日本国の引き継ぎ事項としていまの政府にもあるはずである。
[4]新追悼施設建設のナンセンス
この問題に関してガンとなっているのが、前回も記した日本国の公務員たちが、占領軍の占領当初に出した神道指令の命令通りの頭のままで、憲法解釈上、国が靖国神社にかかわるのは一宗教法人に手を貸すことになり、許されないという主張をいまでも繰り返し、政治家や国会議員たちの行動を牽制(けんせい)し続ける現状である。
それが常識的な憲法の見方ではないことは先に述べた。だが、そんな状況を見て、「いままで靖国神社に祀ってきた行為を国が詫びて、英霊に謝罪して、新しく無宗教式の施設を作り、英霊をまつりなおせばよい」などと、こともなげにいう説も、一部の国会議員などにある。
無宗教方式なら許されるという発想は、役人のレクチャーを受け、同じくおかしな判決を出し続ける裁判所の姿勢にも合わせようとしたものなのだろうが、そんな国の将来への逃げ腰の姿勢に、どんな効果があると思っているのか。
表面だけをちょっといじって、無宗教という政府の作りだした宗教が、靖国神社の行き方とどれだけ違うものなのか、前章で書いたように、まったく屁理屈にもならないと私は思う。それは日本中にある伝統的な宗教に違和感を感じさせる宗教的効果のあることを政府がすることにもつながってくる。
心のこもっていないいまの政府や役人が、表面だけを取り繕おうとこんな発想を持ちだして、施設に膨大な費用をかけて作ってみても、それは愚かな予算の無駄遣いに過ぎぬ。
その上、いったい国民心理にその施設はどんな効果があるというのだろう。
国民はそんなものには満足しない。まるで郵政省か厚生労働省が、役にも立たない箱モノを作ったのと、同じようなものに見える。
それにこれは最も大切なことであるが、思い出しても見るがよい。
英霊たちが、はたしてそれを認め満足するというのだろうか。
靖国神社に祀られている英霊たちが、まだ存命ででもあるのなら、国が正式に陳謝して、慰謝料でも支払って事態をやり直すこともできるだろう。
だが英霊たち、とくに近時の英霊たちは、「万一のときは靖国神社で会おう」との別れの挨拶をし、死ねば国によって丁重に靖国神社という特別の施設に祀られることを信じて戦地におもむいた。
死者との約束、しかも死者は国が責任のある国権の発動である戦争に、好むと好まざるとにかかわらず従事して、命を散らした人々なのだ。国は誠意を尽くして対応しなければならない重さを持っている。死んだ人の霊などは相手にしようがないというのなら、もともと新追悼施設などの構想はナンセンスである。
[5]占領軍に抵抗できなかった
靖国神社切り捨て当時の責任は問うまい。
細かい事情はのちに譲るが、敗戦後の日本政府には、靖国神社を放棄せざるを得ない事情があった。
敗戦とともに日本は、進駐してきた米国など連合国の支配のもとに入り、政府はその命令を拒否できないという占領下におかれた。
占領軍は日本の国が戦力や資源は米国などに比べてはるかに劣るのに、それまで頑強に抵抗した力は、日本が、国のためだということになると全国民が一つにまとまる国であり、その精神的な柱となっているのは靖国神社への国民の一致した崇敬心と神社への信仰によるまとまり、そしてそれらの基礎にある皇室への忠誠の心にあるとみた米軍は、それを徹底して破砕しようとした。
そこで米軍は靖国神社を日本国が保持し、維持するのを厳しく禁止した。日本政府などは無視した占領軍の命令であった。
敗戦に伴う降伏条件には、日本国政府はすべての権限を占領軍総司令部(GHQ)に従属することを定めていた。
こんな中で靖国神社は国の施設から放り出されてしまった。
このことを指して、国は無責任だったと責める声も多い。
現にあの靖国神社を国の施設から切断させ、焼却しようとの声が占領軍内部に起こったとき、国民の間にも一命をかけてでも靖国神社を奉護しようと決断した人も多かった。
靖国神社の切り捨てを、国としてあってはならないミスだったという声もある。
しかし、まだ幼かったがこの目で戦後の時代を現実に眺めてきた私は、故意に犯した無責任だと国を責める気にはなれない。
主権も奪われた日本国政府は、それに抵抗する手段もなかったのだ。
[6]厄介なことは先送り
しかし、日本が講和条約を締結し、再び独立を回復し、自分の責任で国の運営ができるようになった7年後から、この国家として国のために死んだ人たち(厳しい言い方をすれば、国の方針によって生命を断たれた人たち)への責任にもまったく触れようとせず、ただただ死者の尊厳を無視して生きている者への言い逃れのような応対に明け暮れてきたその後の50年以上は、明らかに無責任であった。
靖国神社の再国家護持への道には、この上に占領軍の出した神道指令に基づく政教分離の問題の下手な取り扱いの後遺症も重なっていた。
それらに対して、国はあれだけ膨大な損失をあえて犯した行為への戦後処理である。真正面から正攻法で取り組むべきであった。
だが戦後の日本国は、あらゆる面で厄介な面は先送りして、その場を過ぎればよいとのみ思って難問を回避する基本的な性格を持ってしまっていた。
靖国神社の再国家護持には、逃げばかりではない取り組みが必要なのだが。
政府は、やればできることも、反対する少数者がいるという理由だけで、説得が厄介だからしようとはしない。
そんな疑いが積み重ねられるような現状は無視できない。
靖国神社の問題のあいまいな対応が及んで、千鳥が淵戦没者墓苑もまた、同様に正常な施設としての説明があいまいなままになっている。
日本は戦後64年を経ているが、8月15日の光景を見ると、日本はまだ、占領時代に歪められ、それに手もつけないでいるのだと言わなければならない現状のようである。(つづく)
☆斎藤吉久注 葦津様のご了解を得て、「私の『視角』」〈http://blog.goo.ne.jp/ashizujimusyo〉から転載させていただきました。適宜、若干の編集を加えてあります。
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岡田東京大司教様、靖国神社にお詣りください──国に命を捧げた信者たちが待っています [靖国神社]
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岡田東京大司教様、靖国神社にお詣りください
──国に命を捧げた信者たちが待っています
(「正論」平成19年5日号から)
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岡田武夫東京大司教様、(平成19年)2月下旬に日本カトリック司教団が発表した「信教の自由と政教分離メッセージ」を拝読しました。
今回の司教団メッセージは戦後60年の「非暴力による平和への道」に次ぐものでした。450年にわたる日本キリスト教史を振り返って迫害を強調し、とくに戦前、教会が戦争協力を迫られた歴史を反省したうえで、信教の自由の尊重を訴え、目下進行中の憲法改正の動きに対して「政教分離原則をなし崩しにする」と強く牽制しています。
臨時司教総会が可決承認した、権威あるメッセージですが、残念なことに、そこから浮かび上がってくるのは、宗教的な魂の平安より世俗社会の自由と平和を優先させる政治性、バチカンも採用していないはずの絶対的平和主義、教会を過度に「被害者」の立場に置く、きわめて偏見に満ちた歴史理解などです。
誤った歴史認識と理解のうえに立って、「もう戦争も迫害もこりごり」とばかりに、靖国反対、改憲反対の政治的メッセージを信者に送ることは、古来、宗教的共存を実現してきた日本の多神教的文明に無用の混乱をもたらし、迷える羊をますます迷いのなかに追い込むものと危惧されます。
最大の矛盾は、神への信仰を世俗の憲法で守ろうとする姿勢で、これは教えに殉じた殉教者への冒瀆(ぼうとく)となりませんか。
杞憂であれば、と願いつつ、以下、謹んで申し上げます。
1、キリシタン「迫害」には理由がある
司教団メッセージは、「信教の自由」の価値を訴えるために、近世の国家的なキリシタン迫害・殉教から書き起こしています。しかし、その背景に何があったのか、説明は不十分で、むしろ教会の内的要因に蓋(ふた)するものといえます。
キリシタン時代の「迫害」は日本の宗教史上、苛酷なものですが、大航海時代の教会の世界宣教は、ポルトガル、スペイン両国の武力による「世界二分割征服論」という荒々しい野望が秘められていました(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店、1977年など)。教会法に基づいた異教の地への侵略と征服こそ、禁教・弾圧を招いた第一の原因でしょう。火種は教会内部にあります。
司教団メッセージは近代の「神社参拝強要」の歴史を語り、信教の自由の尊重を謳い上げますが、戦国時代末期の教会の布教こそじつに荒っぽいもので、九州のキリシタン大名の領地では南蛮貿易に目がくらんだ領主によって領民が強制的に改宗させられ、神社や寺院が焼き払われました。
教皇は日本を潜在的なポルトガル領と認め、実際、長崎地方はイエズス会に寄進されています。宣教師たちは奴隷制を持ち込み、日本人を明、朝鮮、南蛮に売り飛ばしていたといわれます(松田毅一『豊臣秀吉と南蛮人』朝文社、1992年など)。明らかに侵略です。
禁教・迫害にはカトリックとプロテスタントの宗教戦争の影響もありました。
島原の乱のとき、幕府の要請によって、原城に立てこもる一揆勢を沖合から砲撃したのはプロテスタント国のオランダです。オランダは南蛮貿易の独占をはかって、カトリック国の侵略的意図を吹き込みました。一揆はポルトガル追い落としのチャンスでした。
幕府がポルトガル船の来航禁止を決めたとき、バタビアのオランダ総督府では盛大な祝賀会が催されたといわれます。貿易と布教を天秤にかけ、貿易で信仰を釣ろうとした教会の布教戦略の敗退です。
こうして禁教の時代が始まりますが、近世の殉教史が日本宗教史上もっとも苛酷なものであったとしても、世界に例を見ないほどに残虐だったわけではありません。
もっと悲惨な例として、ほかでもないヨーロッパのキリスト教諸国とその植民地で数十万人から数百万人が処刑された陰惨な宗教裁判、魔女裁判があげられています(松田「キリシタンの殉教」=西川孟『日本キリシタン史』所収、主婦の友社、1984年など)。
したがって「国家による迫害」を過度に強調すべきではありません。論より証拠、秀吉によるキリシタン26人の処刑後、かえって教勢が拡大し、長崎に東洋一の「被昇天のサンタマリア教会」が建てられ、全国の信徒数は75万を数えるようになったといわれます。
他方、近世の日本がキリスト教文化を受け入れていたという歴史もあります。
京都・祇園祭に登場する函谷鉾(かんこぼこ)の正面を飾る前掛けのタピストリーは、16世紀にヨーロッパで製作されたもので、オランダ商館長が将軍徳川家光に献上し、のちに京都の豪商の手にわたったといわれます。
山鉾巡行を描いた18世紀半ばの木版画にこの前掛けが確認できますが、そのデザインは旧約聖書のイサクの嫁選びがテーマであることが20年ほど前に明らかになっています(梶谷宣子、吉田孝次郎『祇園祭山鉾懸装品調査報告書−−─渡来染織品の部』祇園祭山鉾連合会、1992年など)。
鎖国・禁教の時代に、そして幕府が社寺の祭礼をきびしく統制していた時代に、京都の町衆は年に一度の八坂神社の祭りでキリスト教美術を鑑賞していたのです。〈http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/gion_matsuri.html〉
司教団はこうした歴史の真相を追究することなく、みずからの好戦的布教方法の誤りを省みることもなく、日本の多宗教的文明への理解を欠いたまま、「中央集権化の妨げになると考えられ、排斥された」ともっぱら被害者を装った教会史を描いています。一面的といわざるを得ません。
2、戦前の方が政教分離は厳格だった
司教団メッセージは、明治政府の弾圧が欧米の批判を受けたこともあって、憲法に「信教の自由」を盛り込んだが、「安寧秩序を妨げず、臣民の義務に背かない限り」という条件付きだった、と戦前の信教の自由の不完全性を述べていますが、これも一般常識論的な歴史理解にとどまるものです。
26人の処刑後、キリスト教が盛んになった一方、長崎では諏訪・森崎・住吉の三つの神社が破壊されました。キリシタン武将による贈収賄事件などをきっかけに、幕府は禁教令を発し、今度は逆に教会が破壊され、多くの信者が処刑されました。
めまぐるしい興亡のあと再建された諏訪神社には、本殿に同居するかたちで森崎神社がまつられています。謎の神社で、以前、長崎岬の突端、森崎の地に鎮まっていたこと以外、詳しいことは分かりませんが、「キリシタンをまつる神社」ともいわれます。
キリスト教がヨーロッパに浸透していく過程で、聖なる森を破壊し、教会を建てたように、キリシタンによって森の中の神社が破壊され、その地にサンタマリア教会が建てられ、禁教後、今度はその教会が破壊されたものの、信者はその跡地に教会をしのぶ祠(ほこら)を置いた。やがて諏訪神社の再建時に同じ本殿にまつったのではないか、とも想像されています。
森崎神社の御霊代(みたましろ)が諏訪神社、住吉神社とは異なって並外れて重いことに注目し、もしかしたら教会の遺構に関係するものではないか、と語る関係者もいます。
当時の長崎はほとんどが信者でしたから、神社信仰にかたちを変えて、篤い信仰を守ったのかも知れません。森崎神社の祭神は国生み神話の男女二柱の神ですが、カトリックは救世主と聖母を信仰し崇敬します。
長崎にはほかにもキリシタンの神社が知られるし、つい最近まで神主を呼んでキリシタンの祭祀が行われていた事例もあります。司教団が批判するほかならぬ神道が、その多神教的大らかさゆえに、信者の信仰を守ってきたと見ることもできます。〈http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/nagasaki_suwa_jinja.html〉
時代がくだり、250年後、開港した長崎にフランス人による「日本二十六聖人」教会(大浦天主堂)が完成し、浦上の農民たちが見物にやってきました。潜伏していたキリシタンです。
当時の日本は世界に冠たる法治国家ですが、ちょうど26人が列聖したばかりで、欧米人は日本をキリスト教が邪教視される「暗黒の国」と見ていました。そこに降って湧いたキリシタン「復活」とそれに続く弾圧の再来が欧米人の目にどのように映ったかはいわずもがなです。
しかし浦上の全村民が信者だったという驚きの事実の理由は何か、どのように信仰を守ってきたのか、を考えるとき、司教団の「信仰を表明して立ち上がった」という記述は納得できるものとはいえません。
司教団メッセージは、明治憲法が「信教の自由」を盛り込んだけれども限界性があった、と説明しますが、それどころか、明治時代から昭和にかけて、日本にはまともな宗教行政の枠組みすらなかったというのが実態でしょう。何しろ宗教に関する基本法さえありませんでした。新宗教法の制定は以前からの懸案であったにもかかわらず、手つかずのまま放置されていました。
それでも政府は世界の大勢にならって「国家は宗教に干渉せず」を基本姿勢とし、信教の自由の徹底をはかり、意外にも今日以上の厳格な分離政策を布いていました。
たとえば、大正12年の関東大震災後に行われた東京府市合同の追悼式は、神道にも仏教にも偏しない「宗教的儀礼を抜きにした」無宗教形式で行われ、このため「行政は宗教に無理解」と宗教界が強く反発し、軋轢(あつれき)が生じた、と当時の新聞に書かれています。
今日、東京都慰霊堂の慰霊法要は完全な仏式です。戦前は政教分離が不完全で、戦後になって確立された、という司教団メッセージの歴史理解は間違いです。
3、戦前の「迫害」は司教団の妄想である
昭和初期に教会が弾圧と迫害にさらされていた、といわんばかりの理解も誤りです。
当時のカトリック新聞によれば、貞明皇后がハンセン病療養所など教会の社会事業を支援されていたし、皇室と教皇庁との交流もありました。教皇庁は斎藤実首相に、朝鮮総督時代、教会の布教に貢献した、として最高の勲章を授与しています。昭和8年には長崎の大浦天主堂が国宝に指定されました。
大司教様がおられた埼玉の浦和教会は公有地(師範学校付属小学校跡地)の一部払い下げを許可されて建てられました。それ以前は宣教師が知事舎などでミサを行っていた、と教会のホームページに書かれています。これは逆に優遇です。〈http://www.urawa-catholic.net/rekisi.html〉
軍部による陰湿な個別の嫌がらせはともかく、ナチスによるユダヤ人虐殺やアメリカでの日系人迫害のような、日本の信者や教会が政策的に弾圧・迫害を受けたという事実は、日米開戦後でさえ、ないはずです。
国家と国家神道が一体となって戦争に邁進するなか、神社参拝が強要され、教会は靖国神社参拝の是非をめぐって問題を突きつけられた、とする司教団の歴史理解は、妄想以外の何ものでもないでしょう。
たとえば、迫害の象徴として司教団メッセージは昭和7年の上智大学生靖国神社参拝拒否事件を取り上げていますが、事実認識は大学当局と異なります。
まず司教協議会社会司教委員会が一昨年、まとめた小冊子「非暴力による平和への道」を見ると、こう説明されています。
──明治政府は靖国神社を、宗教を超越したものと位置づけ、崇敬を「強制」しようとした。教会は、事件をきっかけに軍部と世論による迫害を受け、存亡の危機に陥った。
これを回避するため、参拝は教育上の理由で行われ、敬礼を愛国心と忠誠の表現と公式に理解し、靖国神社の本質的な宗教性にふれず、宗教的参拝を儀礼として容認するという過ちを犯した。
教会は神社参拝を奨励し、戦争協力への道を歩んだ。
しかし、大学の当事者はそうは見ていません。渦中の人だった丹羽孝三幹事(学長補佐)の回想(『上智大学創立六十周年─未来に向かって─ソフィアンは語る』上智大学ソフィア会、昭和48年、非売品)などには、次のように描かれています。
──軍縮の時代が到来し、軍は将校を失業対策に配属した。上智大学の配属将校は、昭和7年5月、課外授業は学長の許可を要するという規則を破って、学生を靖国神社に参拝させた。面白半分の個人プレーである。
信者の学生が非キリスト教形式の拝礼を拒否し、将校が憤激したのを、翌日の新聞は「参拝拒否」「軍部激怒」と書き立てた。しかし文部省は軍に批判的だったし、丹羽幹事と陸相との面談で事態は収拾した。
ところが10月になって事件はぶり返され、「邪教」「売国奴」「スパイ」という批判が教会に対して浴びせられる。軍部による政党打倒運動に事件が利用されたのだ。
そもそも濡れ衣だったから、支援者は少なくなかった。不穏な動きがあれば、信者の警察署長から情報が伝えられ、神道や仏教関係者が見舞いにきた。軍内部からも極秘資料が届けられた。
宮様師団長のお耳に達するところとなり、事件は急速に解決する。
大学の公式資料が描く真相は、軍縮時代の将校の権限逸脱、メディアの虚報、軍部の政治工作への利用です。事件を解決させたのが、今日の司教団が批判的に見る皇室の権威だったとは、何という皮肉でしょうか。
たしかに配属将校が引き揚げ、後任者が決まらない事態となり、卒業生は幹部候補生となる特典を失うなど、学生にとっては深刻でした。志望者が減った大学も困難な状況に置かれましたが、戦争の時代の「国家による宗教統制」と見るのは曲解です。
決定版ともいえる『上智大学史資料集』全六巻(上智大学、1982〜95年、非売品)は、当事者である学生の証言をふくめ、多くのページを割き、事件の一次資料を網羅していますが、「弾圧と迫害」の事実を読み取るのは不可能です。
4、靖国参拝は宗教儀礼ではなく国民儀礼
よほど居心地がよかったのか、退役後、引き続き職員として大学に勤めた将校もいたほどで(『上智大学五十年史』上智大学出版部、昭和38年)、「軍部の迫害」とはほど遠いものでしたが、信者にとって神と人間の信仰上の問題をはらんでいたのも事実です。
キリスト教は一神教ですから、敬虔な信者であればあるほど、唯一神以外の神への拝礼はあり得ません。事件の本質は、日本のような多神教的、多宗教的異教世界で一神教信仰を守りつつ、祖国に対する国民の義務をどのように果たすべきか、という信仰問題でしょう。神社参拝は信徒にとって宗教行為なのか否か、神社は宗教か否か、いわゆる神社問題が問われたのです。
国家の宗教政策問題としてとらえる司教団メッセージは一面的で、信仰問題を神不在の政治論にすり替えるものといえます。
信仰上の疑問を解くため、事件のさなか、シャンボン東京大司教は鳩山一郎文相に、学生らの神社の儀式への参列は愛国心と忠誠を表すものなのか、それとも宗教に関するものか、書簡で回答を求め、文部省は「神社参拝は教育上の理由に基づくもので、学生らの敬礼は愛国心と忠誠とを表すものにほかならない」と答えました。
このように参拝は愛国的行為であり、敬礼は宗教的意義を有さない、という公式回答を得て、信者の信仰問題は解決されました(田口芳五郎『カトリック的国家観』カトリック中央出版部、昭和7年など)。
この判断をバチカンは追認しています。日本の教会は、信者が異教儀礼に由来するような行為を公的に求められた場合の対応について照会し、バチカンは靖国神社の儀礼参加を国民的儀礼として許したのです。戦没者への敬意は宗教儀礼ではなく、国民の義務だという判断です。これが最近、広く知られるようになった1936年の指針「祖国に対する信者のつとめ」です。
司教団メッセージは、当時の教会がこの指針に基づいて、政府から命じられた神社の儀式は宗教的なものではなく、天皇への忠誠心と愛国心を表す「社会的儀礼」であるとして、信者の神社参拝を許容し、戦争協力の道へ向かった、と述べていますが、これは明らかに読み違えでしょう。
指針は、国家神道神社での国家的な儀礼と宗教としての神道の礼拝との区別を認めています。靖国神社は軍の管理下にあり、一般神社は内務省の管轄です。公立学校などでは宗教教育と宗教儀式が禁じられています。靖国神社の儀礼は、非宗教的な国民的儀礼だからこそ参加が許されたのです。
指針は同時に、他の宗教に由来するものであったとしても、社交の範囲で、葬儀や結婚式など私的な儀礼への参加を許可するとともに、議論を避けて指針に素直に従うべきことを強調しています。
司教団が主張するように、社会儀礼としての異教施設表敬さえ認められないなら、司教団が強調する「諸宗教の中に見いだされる真実で尊いものを何も排斥しない」と宣言した第二バチカン公会議の精神をかえって逆に否定することになり、昨年暮れ、宗教対話を求めてトルコのブルー・モスクを表敬し黙祷した現教皇様は、さしずめ異端分子となってしまいます。
さらにいえば、靖国神社などでしばしば行われる戦没者追悼の黙祷はほかならぬキリスト教に由来するといわれます。また、伝統的には白だった喪服の色を欧米風に黒に変え、広く社会に浸透させたのは遺族の靖国神社の儀礼参加だとも聞きます。欧米のキリスト教的儀礼文化を受容している靖国神社を、司教団はなぜ否定しようとするのでしょうか。〈http://homepage.mac.com/saito_sy/yasukuni/SRH1802mokutou.html〉
5、中国で成功したイエズス会の適応政策
司教団メッセージは言及していませんが、1936年の指針が注目されるのは、同じ布教聖省が1659年に宣教師に与えた指針を冒頭に引用していることです。
布教聖省が日本の信者らの懸念を払拭するため引き合いにした300年前の指針は、中国に布教する宣教団に与えられたものでした。信者の異教的儀礼参加の是非論は昨日、今日に始まったことではありません。そしてこれが、異教文化を排除しない教会の布教戦略の出発点でした。
「各国民の儀礼や慣習などが信仰心や道徳に明らかに反しないかぎり、それらを変えるよう国民に働きかけたり、勧めたりしてはならない」
「キリスト教信仰はいかなる国民の儀礼や習慣をも、それが悪いものでないかぎり、退けたり傷つけたりせず、かえってそれらが無事に保たれるように望んでいる」
「この賢明な原則」と古い指針を表現し、これを想起するのは有益である、と1936年の指針は述べています。
それなら、17世紀の指針はどのような状況で出されたのでしょうか。
「日本最初の宣教師」ザビエルは、「いままでに発見された国民のなかで最高」と日本人を絶賛しました。そのザビエルが日本宣教の志半ばで中国大陸に渡ったのは、日本人があこがれをもつ中国に布教することが先決だ、と考えたからといわれます。
こうして16世紀末、中国宣教を開始したイエズス会は、現地語を学び、現地語で説教し、儒者の身なりや中国流の礼儀作法を採り入れ、絶対神デウスを「天」「上帝」と表現し、さらに中国皇帝による国家儀礼や孔子崇拝、祖先崇拝に参加することを認めました。中国人が尊敬するインテリ層から布教しようという戦略でした。
当時としては画期的な、この適応政策は功を奏し、イエズス会による中国宣教は大成功を収めました。イエズス会士は皇帝の臣下となり、高級官僚に取り立てられ、信者は増え、キリスト教は公許を得ます。
しかし、その成功ゆえに、遅れてやってきた他の修道会の嫉妬と反感を買い、人間くさい陰湿な対立抗争を招きました。対立する修道会が適応政策をとらず、そのために迫害を受け、中国から追放されたとあればなおのことです。そしていわゆる典礼問題が発生し、孔子崇拝の儀礼参加の是非がバチカンで論争になりました。結局、イエズス会は敗北し、やがて解散させられます。
しかし20世紀になって、適応主義は蘇ります。日本の教会に対しては1936年に靖国参拝が認められ、中国に対しては39年に孔子廟での儀式参加が許されたのです(矢沢利彦『中国とキリスト教』近藤出版社、1972年など)。
司教団は、国家神道時代の国家による宗教統制や教会の戦争協力という誤った視点で上智大学生事件以後の歴史をとらえ、1936年の指針の有効性を見直そうとしていますが、もっと広く教会の世界布教史から考えるべきです。政教分離問題ではなくて信仰問題として、国家政策論ではなくて布教戦略論として考えるべきです。
司教団メッセージは、1960年代に開かれた第二バチカン公会議以後、教会は諸民族の文化・伝統を尊重する態度に変わったと主張していますが、中国でのイエズス会の適応政策、そして1936年の指針こそ時代の先取りではなかったでしょうか。
バチカンが靖国参拝を認めたのは、日本政府の宗教統制に受け身的に迫られた結果ではなく、数世紀間におよぶ教会の積極的布教戦略の成果でしょう。初期のイエズス会は、異教文化を否定する布教が文明的に発達した日本や中国などでは通用しないことを見抜き、バチカンも理解したのでしょう。
もし異教世界での戦没者追悼の文化・伝統を社会的儀礼としても認めないというのであれば、否定と排除の論理を振り回し、力ずくで一神教化する以外に世界布教の道は失われ、教会が新大陸の異教文明を破壊した愚かな歴史を繰り返すことになります。ローマやケルトの文化を吸収しながらヨーロッパに浸透していったキリスト教の歴史を自己否定することにもなります。
6、結局、制定されなかった神社法
司教団メッセージは、昭和戦前期の宗教統制を批判しますが、逆に、この時期、キリスト教会は法的に認められた、というのが正しい見方でしょう。
日本初の宗教基本法たる宗教団体法が成立、公布されたのは戦時体制下の昭和14年です。最初の法案が議会に提案されて以来、じつに40年の歳月を経て、名前も改まり、非常時の波に乗って国会を通過したのでした(杉山元治郎『宗教団体法詳解』昭和14年)。
同法は第1条で「本法において宗教団体とは教派神道、仏教宗派およびキリスト教その他をいう」と定め、「弾圧と迫害」どころか、キリスト教を公認しています。
一方、神道については「教派神道」とあるだけで、宗教団体法は神社を宗教団体としては認めませんでした。これは教会が主張するように、「宗教法人とはせず、宗教を超越したものと位置づけた」(前掲「非暴力による平和への道」)からでしょうか。そうではなく、当時の政府には、神社は神社法によって位置づけようという考え方があったのでした。
当時の帝国議会の議事速記録には、プロテスタントで、戦前から国政に参加し、戦後は衆院副議長を務めた杉山元治郎議員と、荒木貞夫文相、木戸幸一内相の次のような質疑応答が記録されています。
杉山「神社を宗教団体法の外に置いているが、神社法を制定するのか、神社は宗教だという人もいるが、宗教ではないという人もいる。神社は宗教以上のもの、超越したものと位置づけるために宗教団体法には包括しなかったのか。特別の神社法を制定しようということなのか」
荒木「神社が宗教であるか否か、議論があるが、神社は『国家の宗旨』であり、宗教の外にあるとされている。神社法の制定によって定められる」
木戸「昭和四年以来、神社制度調査会を設けて、慎重に研究している。神社法の制定は慎重に考慮すべき点があり、議会への提案は未定である」
戦時体制下の議会にキリスト教徒の議員がいて、率直な議論が交わされ、官報に記録されていたことこそ、迫害の不在の何よりの証明ですが、ともあれ神社法制定は困難でした。浄土真宗は神社非宗教を主張し、逆にキリスト教は、神社は宗教だと見ていました。神社側にも多様な意見がありました。文部省と内務省にも姿勢にズレがあり、結局、神社法は制定されませんでした。
日本の教会が主張するように、戦前の政府が宗教を超越したものとして神社を位置づけたのではなく、行政上の位置づけに成功しなかったというべきでしょう。そしてそのツケは、宗教行政の混乱となって、いまも続いています。
さて、戦後です。司教団メッセージは、戦後、国家神道が解体され、靖国神社は一宗教法人になった、と時代の変化を指摘しますが、司教団の国家神道論は根拠があるのでしょうか。
戦時国際法は占領軍が被占領国の宗教を尊重すべきことを規定し、ポツダム宣言には「宗教・思想の自由は確立せらるべし」の項目があります。ところがGHQはこれらに公然と違反して日本の宗教に干渉しました。
それは「国家神道」に対する誤解と偏見があったからです。アメリカは戦時中から「国家神道」こそが「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉で、これが「侵略」戦争を導いた、と理解し、国務省は「国家神道の廃止」を方針としていました。
その中心施設と考えられていた靖国神社は、アメリカ軍の東京進駐後、「焼却」が噂になっていました。それを救ったのは、戦時中、上智大学の院長だったビッテル神父のマッカーサーへの進言です。
「いかなる国家も、国家のために死んだ人々に対して敬意を払う義務がある」(『マッカーサーの涙─ブルノー・ビッテル神父にきく』朝日ソノラマ編集部編、昭和48年)。進言は明らかに1936年のバチカンの指針を踏襲しています。
神父の助言で靖国神社は救われましたが、昭和20年の暮れには、いわゆる神道指令が発布されました。「目的は宗教を国家より分離するにある」と規定しつつ、実際は拡大解釈で日本の民族宗教である神道に対して差別的圧迫が加えられました。
靖国神社が一宗教法人となったのは翌年ですが、そうしなければ解散したものとみなされるというせっぱ詰まった状況下でのぎりぎりの選択でした。
しかし占領後期になると、GHQの対応は変わり、神道指令の「宗教と国家の分離」は「宗教団体と国家の分離」に解釈が変更されます。
占領中の宗教政策を担当したGHQ職員のW.P.ウッダードは、「神道指令は(占領中の)いまなお有効だが、『目的は宗教を国家から分離することである』という語句は、現在は『宗教教団』と国家の分離を意味するものと解されている」とのちにある論攷に書いています(ウッダード「宗教と教育──占領軍の政策と処置批判」=国際宗教研究所紀要4、昭和31年所収)。アメリカが敵視した国家神道の幻影がもはや消えています。
緩やかなアメリカ型の政教分離主義に解釈変更されたからこそ、昭和26年、貞明皇后の御大喪はおおむね皇室の伝統に従って行われたし、カトリック信者だった有名な永井隆博士の公葬が長崎市葬というかたちで浦上天主堂で行われました。同じ年、吉田茂首相は6年ぶりの首相の靖国参拝を果たしました。
かつて神社焼却を強硬に主張したGHQは首相参拝を認めたのです。その後、長崎市の市有地にイエズス会が二十六聖人記念館および巨大レリーフを建設することも認められました。
とすれば、司教団メッセージは「教会は国家に拘束されてはならない」と述べて、現憲法が完全分離主義の立場をとっているかのように理解していますが、間違いでしょう。ウッダードが指摘したように、絶対分離主義は宗教の否定につながります。
ちなみにアメリカでは、「全国民の教会」と位置づけられるワシントン・ナショナル・カテドラルで、しばしばホワイト・ハウスの依頼によって公的な追悼ミサが行われ、歴代大統領や政府高官が参列します。イギリスでは毎年11月に戦没者追悼記念碑セノタフで政府主催の式典が行われ、国教会のロンドン司教が短い儀式を行います。
これらは日本の司教団の論理に従えば、政教分離違反となるのでしょうか。イスラムや仏教を信じる国民にとって、両国には信教の自由がないことになるのでしょうか。
7、戦後、バチカンが再確認した適応政策
信者の靖国神社参拝を祖国に対する義務として許可した1936年の指針は、靖国神社が宗教法人となり、第二バチカン公会議を経験したいまとなっては、「そのまま現在に当てはめることができない」と司教団は無効性を主張しています。
偏見をもって歴史を回顧し、バチカンの指針を「もう古い」といって有効性を否定する司教団の判断にバチカンは同意しているのか、といえば、そうではありません。
1951年、布教聖省は1936年の指針を確認する新たな指針を与えています。「戦没者への敬意は宗教儀礼ではなく、国民儀礼と見なされてきた。この数世紀間に儀式の意味は変化した。だから靖国参拝は許可され、教皇特使は(昭和12年に)参拝したのだ」。「数世紀間」という表現に、異教文化の排除から容認へという世界宣教史の変遷が明確に感じられます。
バチカンの指針を見直すべき権限は、当然、バチカンにあります。そしてバチカンが70年前の指針を見直し、神社参拝を禁止した、とは聞きません。
時代の変化は無論ですが、異教の文化・伝統を尊重し、戦没者慰霊を国民儀礼として容認し、参加を許可する1936年の指針の精神は、第二バチカン公会議以後、逆に重要性を増している、と考えるべきでしょう。
ところが、日本の司教団は戦後の新しい指針についてまったく触れず、そのうえ公会議を根拠にして戦前の指針を切り捨て、改憲阻止という政治行動に突き進もうとしています。まるで反バチカン的分派活動であり、聖職者の召命からの逸脱ではありませんか。
かつて聖書と讃美歌を手に特攻機に乗った若者もいます。そのようにして祖国に一命を捧げた兵士たちが、靖国神社には生前の思想・信条などの別なく合わせ祀られています。神社は国民的慰霊の場であり、戦死者との魂の交感の場です。カトリック教会はむろん死者との交流を認めています。
岡田大司教様、どうぞ靖国神社にお詣りください。教皇様がイラクで落命したイタリア人兵士を「わが息子」と呼び、追悼したように、日本の教会の立場を代表して、国に殉じた信者たちを追憶し、主なる神に感謝を捧げ、平和を祈るのは、大司教様のつとめのはずです。
岡田東京大司教様、靖国神社にお詣りください
──国に命を捧げた信者たちが待っています
(「正論」平成19年5日号から)
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岡田武夫東京大司教様、(平成19年)2月下旬に日本カトリック司教団が発表した「信教の自由と政教分離メッセージ」を拝読しました。
今回の司教団メッセージは戦後60年の「非暴力による平和への道」に次ぐものでした。450年にわたる日本キリスト教史を振り返って迫害を強調し、とくに戦前、教会が戦争協力を迫られた歴史を反省したうえで、信教の自由の尊重を訴え、目下進行中の憲法改正の動きに対して「政教分離原則をなし崩しにする」と強く牽制しています。
臨時司教総会が可決承認した、権威あるメッセージですが、残念なことに、そこから浮かび上がってくるのは、宗教的な魂の平安より世俗社会の自由と平和を優先させる政治性、バチカンも採用していないはずの絶対的平和主義、教会を過度に「被害者」の立場に置く、きわめて偏見に満ちた歴史理解などです。
誤った歴史認識と理解のうえに立って、「もう戦争も迫害もこりごり」とばかりに、靖国反対、改憲反対の政治的メッセージを信者に送ることは、古来、宗教的共存を実現してきた日本の多神教的文明に無用の混乱をもたらし、迷える羊をますます迷いのなかに追い込むものと危惧されます。
最大の矛盾は、神への信仰を世俗の憲法で守ろうとする姿勢で、これは教えに殉じた殉教者への冒瀆(ぼうとく)となりませんか。
杞憂であれば、と願いつつ、以下、謹んで申し上げます。
1、キリシタン「迫害」には理由がある
司教団メッセージは、「信教の自由」の価値を訴えるために、近世の国家的なキリシタン迫害・殉教から書き起こしています。しかし、その背景に何があったのか、説明は不十分で、むしろ教会の内的要因に蓋(ふた)するものといえます。
キリシタン時代の「迫害」は日本の宗教史上、苛酷なものですが、大航海時代の教会の世界宣教は、ポルトガル、スペイン両国の武力による「世界二分割征服論」という荒々しい野望が秘められていました(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店、1977年など)。教会法に基づいた異教の地への侵略と征服こそ、禁教・弾圧を招いた第一の原因でしょう。火種は教会内部にあります。
司教団メッセージは近代の「神社参拝強要」の歴史を語り、信教の自由の尊重を謳い上げますが、戦国時代末期の教会の布教こそじつに荒っぽいもので、九州のキリシタン大名の領地では南蛮貿易に目がくらんだ領主によって領民が強制的に改宗させられ、神社や寺院が焼き払われました。
教皇は日本を潜在的なポルトガル領と認め、実際、長崎地方はイエズス会に寄進されています。宣教師たちは奴隷制を持ち込み、日本人を明、朝鮮、南蛮に売り飛ばしていたといわれます(松田毅一『豊臣秀吉と南蛮人』朝文社、1992年など)。明らかに侵略です。
禁教・迫害にはカトリックとプロテスタントの宗教戦争の影響もありました。
島原の乱のとき、幕府の要請によって、原城に立てこもる一揆勢を沖合から砲撃したのはプロテスタント国のオランダです。オランダは南蛮貿易の独占をはかって、カトリック国の侵略的意図を吹き込みました。一揆はポルトガル追い落としのチャンスでした。
幕府がポルトガル船の来航禁止を決めたとき、バタビアのオランダ総督府では盛大な祝賀会が催されたといわれます。貿易と布教を天秤にかけ、貿易で信仰を釣ろうとした教会の布教戦略の敗退です。
こうして禁教の時代が始まりますが、近世の殉教史が日本宗教史上もっとも苛酷なものであったとしても、世界に例を見ないほどに残虐だったわけではありません。
もっと悲惨な例として、ほかでもないヨーロッパのキリスト教諸国とその植民地で数十万人から数百万人が処刑された陰惨な宗教裁判、魔女裁判があげられています(松田「キリシタンの殉教」=西川孟『日本キリシタン史』所収、主婦の友社、1984年など)。
したがって「国家による迫害」を過度に強調すべきではありません。論より証拠、秀吉によるキリシタン26人の処刑後、かえって教勢が拡大し、長崎に東洋一の「被昇天のサンタマリア教会」が建てられ、全国の信徒数は75万を数えるようになったといわれます。
他方、近世の日本がキリスト教文化を受け入れていたという歴史もあります。
京都・祇園祭に登場する函谷鉾(かんこぼこ)の正面を飾る前掛けのタピストリーは、16世紀にヨーロッパで製作されたもので、オランダ商館長が将軍徳川家光に献上し、のちに京都の豪商の手にわたったといわれます。
山鉾巡行を描いた18世紀半ばの木版画にこの前掛けが確認できますが、そのデザインは旧約聖書のイサクの嫁選びがテーマであることが20年ほど前に明らかになっています(梶谷宣子、吉田孝次郎『祇園祭山鉾懸装品調査報告書−−─渡来染織品の部』祇園祭山鉾連合会、1992年など)。
鎖国・禁教の時代に、そして幕府が社寺の祭礼をきびしく統制していた時代に、京都の町衆は年に一度の八坂神社の祭りでキリスト教美術を鑑賞していたのです。〈http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/gion_matsuri.html〉
司教団はこうした歴史の真相を追究することなく、みずからの好戦的布教方法の誤りを省みることもなく、日本の多宗教的文明への理解を欠いたまま、「中央集権化の妨げになると考えられ、排斥された」ともっぱら被害者を装った教会史を描いています。一面的といわざるを得ません。
2、戦前の方が政教分離は厳格だった
司教団メッセージは、明治政府の弾圧が欧米の批判を受けたこともあって、憲法に「信教の自由」を盛り込んだが、「安寧秩序を妨げず、臣民の義務に背かない限り」という条件付きだった、と戦前の信教の自由の不完全性を述べていますが、これも一般常識論的な歴史理解にとどまるものです。
26人の処刑後、キリスト教が盛んになった一方、長崎では諏訪・森崎・住吉の三つの神社が破壊されました。キリシタン武将による贈収賄事件などをきっかけに、幕府は禁教令を発し、今度は逆に教会が破壊され、多くの信者が処刑されました。
めまぐるしい興亡のあと再建された諏訪神社には、本殿に同居するかたちで森崎神社がまつられています。謎の神社で、以前、長崎岬の突端、森崎の地に鎮まっていたこと以外、詳しいことは分かりませんが、「キリシタンをまつる神社」ともいわれます。
キリスト教がヨーロッパに浸透していく過程で、聖なる森を破壊し、教会を建てたように、キリシタンによって森の中の神社が破壊され、その地にサンタマリア教会が建てられ、禁教後、今度はその教会が破壊されたものの、信者はその跡地に教会をしのぶ祠(ほこら)を置いた。やがて諏訪神社の再建時に同じ本殿にまつったのではないか、とも想像されています。
森崎神社の御霊代(みたましろ)が諏訪神社、住吉神社とは異なって並外れて重いことに注目し、もしかしたら教会の遺構に関係するものではないか、と語る関係者もいます。
当時の長崎はほとんどが信者でしたから、神社信仰にかたちを変えて、篤い信仰を守ったのかも知れません。森崎神社の祭神は国生み神話の男女二柱の神ですが、カトリックは救世主と聖母を信仰し崇敬します。
長崎にはほかにもキリシタンの神社が知られるし、つい最近まで神主を呼んでキリシタンの祭祀が行われていた事例もあります。司教団が批判するほかならぬ神道が、その多神教的大らかさゆえに、信者の信仰を守ってきたと見ることもできます。〈http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/nagasaki_suwa_jinja.html〉
時代がくだり、250年後、開港した長崎にフランス人による「日本二十六聖人」教会(大浦天主堂)が完成し、浦上の農民たちが見物にやってきました。潜伏していたキリシタンです。
当時の日本は世界に冠たる法治国家ですが、ちょうど26人が列聖したばかりで、欧米人は日本をキリスト教が邪教視される「暗黒の国」と見ていました。そこに降って湧いたキリシタン「復活」とそれに続く弾圧の再来が欧米人の目にどのように映ったかはいわずもがなです。
しかし浦上の全村民が信者だったという驚きの事実の理由は何か、どのように信仰を守ってきたのか、を考えるとき、司教団の「信仰を表明して立ち上がった」という記述は納得できるものとはいえません。
司教団メッセージは、明治憲法が「信教の自由」を盛り込んだけれども限界性があった、と説明しますが、それどころか、明治時代から昭和にかけて、日本にはまともな宗教行政の枠組みすらなかったというのが実態でしょう。何しろ宗教に関する基本法さえありませんでした。新宗教法の制定は以前からの懸案であったにもかかわらず、手つかずのまま放置されていました。
それでも政府は世界の大勢にならって「国家は宗教に干渉せず」を基本姿勢とし、信教の自由の徹底をはかり、意外にも今日以上の厳格な分離政策を布いていました。
たとえば、大正12年の関東大震災後に行われた東京府市合同の追悼式は、神道にも仏教にも偏しない「宗教的儀礼を抜きにした」無宗教形式で行われ、このため「行政は宗教に無理解」と宗教界が強く反発し、軋轢(あつれき)が生じた、と当時の新聞に書かれています。
今日、東京都慰霊堂の慰霊法要は完全な仏式です。戦前は政教分離が不完全で、戦後になって確立された、という司教団メッセージの歴史理解は間違いです。
3、戦前の「迫害」は司教団の妄想である
昭和初期に教会が弾圧と迫害にさらされていた、といわんばかりの理解も誤りです。
当時のカトリック新聞によれば、貞明皇后がハンセン病療養所など教会の社会事業を支援されていたし、皇室と教皇庁との交流もありました。教皇庁は斎藤実首相に、朝鮮総督時代、教会の布教に貢献した、として最高の勲章を授与しています。昭和8年には長崎の大浦天主堂が国宝に指定されました。
大司教様がおられた埼玉の浦和教会は公有地(師範学校付属小学校跡地)の一部払い下げを許可されて建てられました。それ以前は宣教師が知事舎などでミサを行っていた、と教会のホームページに書かれています。これは逆に優遇です。〈http://www.urawa-catholic.net/rekisi.html〉
軍部による陰湿な個別の嫌がらせはともかく、ナチスによるユダヤ人虐殺やアメリカでの日系人迫害のような、日本の信者や教会が政策的に弾圧・迫害を受けたという事実は、日米開戦後でさえ、ないはずです。
国家と国家神道が一体となって戦争に邁進するなか、神社参拝が強要され、教会は靖国神社参拝の是非をめぐって問題を突きつけられた、とする司教団の歴史理解は、妄想以外の何ものでもないでしょう。
たとえば、迫害の象徴として司教団メッセージは昭和7年の上智大学生靖国神社参拝拒否事件を取り上げていますが、事実認識は大学当局と異なります。
まず司教協議会社会司教委員会が一昨年、まとめた小冊子「非暴力による平和への道」を見ると、こう説明されています。
──明治政府は靖国神社を、宗教を超越したものと位置づけ、崇敬を「強制」しようとした。教会は、事件をきっかけに軍部と世論による迫害を受け、存亡の危機に陥った。
これを回避するため、参拝は教育上の理由で行われ、敬礼を愛国心と忠誠の表現と公式に理解し、靖国神社の本質的な宗教性にふれず、宗教的参拝を儀礼として容認するという過ちを犯した。
教会は神社参拝を奨励し、戦争協力への道を歩んだ。
しかし、大学の当事者はそうは見ていません。渦中の人だった丹羽孝三幹事(学長補佐)の回想(『上智大学創立六十周年─未来に向かって─ソフィアンは語る』上智大学ソフィア会、昭和48年、非売品)などには、次のように描かれています。
──軍縮の時代が到来し、軍は将校を失業対策に配属した。上智大学の配属将校は、昭和7年5月、課外授業は学長の許可を要するという規則を破って、学生を靖国神社に参拝させた。面白半分の個人プレーである。
信者の学生が非キリスト教形式の拝礼を拒否し、将校が憤激したのを、翌日の新聞は「参拝拒否」「軍部激怒」と書き立てた。しかし文部省は軍に批判的だったし、丹羽幹事と陸相との面談で事態は収拾した。
ところが10月になって事件はぶり返され、「邪教」「売国奴」「スパイ」という批判が教会に対して浴びせられる。軍部による政党打倒運動に事件が利用されたのだ。
そもそも濡れ衣だったから、支援者は少なくなかった。不穏な動きがあれば、信者の警察署長から情報が伝えられ、神道や仏教関係者が見舞いにきた。軍内部からも極秘資料が届けられた。
宮様師団長のお耳に達するところとなり、事件は急速に解決する。
大学の公式資料が描く真相は、軍縮時代の将校の権限逸脱、メディアの虚報、軍部の政治工作への利用です。事件を解決させたのが、今日の司教団が批判的に見る皇室の権威だったとは、何という皮肉でしょうか。
たしかに配属将校が引き揚げ、後任者が決まらない事態となり、卒業生は幹部候補生となる特典を失うなど、学生にとっては深刻でした。志望者が減った大学も困難な状況に置かれましたが、戦争の時代の「国家による宗教統制」と見るのは曲解です。
決定版ともいえる『上智大学史資料集』全六巻(上智大学、1982〜95年、非売品)は、当事者である学生の証言をふくめ、多くのページを割き、事件の一次資料を網羅していますが、「弾圧と迫害」の事実を読み取るのは不可能です。
4、靖国参拝は宗教儀礼ではなく国民儀礼
よほど居心地がよかったのか、退役後、引き続き職員として大学に勤めた将校もいたほどで(『上智大学五十年史』上智大学出版部、昭和38年)、「軍部の迫害」とはほど遠いものでしたが、信者にとって神と人間の信仰上の問題をはらんでいたのも事実です。
キリスト教は一神教ですから、敬虔な信者であればあるほど、唯一神以外の神への拝礼はあり得ません。事件の本質は、日本のような多神教的、多宗教的異教世界で一神教信仰を守りつつ、祖国に対する国民の義務をどのように果たすべきか、という信仰問題でしょう。神社参拝は信徒にとって宗教行為なのか否か、神社は宗教か否か、いわゆる神社問題が問われたのです。
国家の宗教政策問題としてとらえる司教団メッセージは一面的で、信仰問題を神不在の政治論にすり替えるものといえます。
信仰上の疑問を解くため、事件のさなか、シャンボン東京大司教は鳩山一郎文相に、学生らの神社の儀式への参列は愛国心と忠誠を表すものなのか、それとも宗教に関するものか、書簡で回答を求め、文部省は「神社参拝は教育上の理由に基づくもので、学生らの敬礼は愛国心と忠誠とを表すものにほかならない」と答えました。
このように参拝は愛国的行為であり、敬礼は宗教的意義を有さない、という公式回答を得て、信者の信仰問題は解決されました(田口芳五郎『カトリック的国家観』カトリック中央出版部、昭和7年など)。
この判断をバチカンは追認しています。日本の教会は、信者が異教儀礼に由来するような行為を公的に求められた場合の対応について照会し、バチカンは靖国神社の儀礼参加を国民的儀礼として許したのです。戦没者への敬意は宗教儀礼ではなく、国民の義務だという判断です。これが最近、広く知られるようになった1936年の指針「祖国に対する信者のつとめ」です。
司教団メッセージは、当時の教会がこの指針に基づいて、政府から命じられた神社の儀式は宗教的なものではなく、天皇への忠誠心と愛国心を表す「社会的儀礼」であるとして、信者の神社参拝を許容し、戦争協力の道へ向かった、と述べていますが、これは明らかに読み違えでしょう。
指針は、国家神道神社での国家的な儀礼と宗教としての神道の礼拝との区別を認めています。靖国神社は軍の管理下にあり、一般神社は内務省の管轄です。公立学校などでは宗教教育と宗教儀式が禁じられています。靖国神社の儀礼は、非宗教的な国民的儀礼だからこそ参加が許されたのです。
指針は同時に、他の宗教に由来するものであったとしても、社交の範囲で、葬儀や結婚式など私的な儀礼への参加を許可するとともに、議論を避けて指針に素直に従うべきことを強調しています。
司教団が主張するように、社会儀礼としての異教施設表敬さえ認められないなら、司教団が強調する「諸宗教の中に見いだされる真実で尊いものを何も排斥しない」と宣言した第二バチカン公会議の精神をかえって逆に否定することになり、昨年暮れ、宗教対話を求めてトルコのブルー・モスクを表敬し黙祷した現教皇様は、さしずめ異端分子となってしまいます。
さらにいえば、靖国神社などでしばしば行われる戦没者追悼の黙祷はほかならぬキリスト教に由来するといわれます。また、伝統的には白だった喪服の色を欧米風に黒に変え、広く社会に浸透させたのは遺族の靖国神社の儀礼参加だとも聞きます。欧米のキリスト教的儀礼文化を受容している靖国神社を、司教団はなぜ否定しようとするのでしょうか。〈http://homepage.mac.com/saito_sy/yasukuni/SRH1802mokutou.html〉
5、中国で成功したイエズス会の適応政策
司教団メッセージは言及していませんが、1936年の指針が注目されるのは、同じ布教聖省が1659年に宣教師に与えた指針を冒頭に引用していることです。
布教聖省が日本の信者らの懸念を払拭するため引き合いにした300年前の指針は、中国に布教する宣教団に与えられたものでした。信者の異教的儀礼参加の是非論は昨日、今日に始まったことではありません。そしてこれが、異教文化を排除しない教会の布教戦略の出発点でした。
「各国民の儀礼や慣習などが信仰心や道徳に明らかに反しないかぎり、それらを変えるよう国民に働きかけたり、勧めたりしてはならない」
「キリスト教信仰はいかなる国民の儀礼や習慣をも、それが悪いものでないかぎり、退けたり傷つけたりせず、かえってそれらが無事に保たれるように望んでいる」
「この賢明な原則」と古い指針を表現し、これを想起するのは有益である、と1936年の指針は述べています。
それなら、17世紀の指針はどのような状況で出されたのでしょうか。
「日本最初の宣教師」ザビエルは、「いままでに発見された国民のなかで最高」と日本人を絶賛しました。そのザビエルが日本宣教の志半ばで中国大陸に渡ったのは、日本人があこがれをもつ中国に布教することが先決だ、と考えたからといわれます。
こうして16世紀末、中国宣教を開始したイエズス会は、現地語を学び、現地語で説教し、儒者の身なりや中国流の礼儀作法を採り入れ、絶対神デウスを「天」「上帝」と表現し、さらに中国皇帝による国家儀礼や孔子崇拝、祖先崇拝に参加することを認めました。中国人が尊敬するインテリ層から布教しようという戦略でした。
当時としては画期的な、この適応政策は功を奏し、イエズス会による中国宣教は大成功を収めました。イエズス会士は皇帝の臣下となり、高級官僚に取り立てられ、信者は増え、キリスト教は公許を得ます。
しかし、その成功ゆえに、遅れてやってきた他の修道会の嫉妬と反感を買い、人間くさい陰湿な対立抗争を招きました。対立する修道会が適応政策をとらず、そのために迫害を受け、中国から追放されたとあればなおのことです。そしていわゆる典礼問題が発生し、孔子崇拝の儀礼参加の是非がバチカンで論争になりました。結局、イエズス会は敗北し、やがて解散させられます。
しかし20世紀になって、適応主義は蘇ります。日本の教会に対しては1936年に靖国参拝が認められ、中国に対しては39年に孔子廟での儀式参加が許されたのです(矢沢利彦『中国とキリスト教』近藤出版社、1972年など)。
司教団は、国家神道時代の国家による宗教統制や教会の戦争協力という誤った視点で上智大学生事件以後の歴史をとらえ、1936年の指針の有効性を見直そうとしていますが、もっと広く教会の世界布教史から考えるべきです。政教分離問題ではなくて信仰問題として、国家政策論ではなくて布教戦略論として考えるべきです。
司教団メッセージは、1960年代に開かれた第二バチカン公会議以後、教会は諸民族の文化・伝統を尊重する態度に変わったと主張していますが、中国でのイエズス会の適応政策、そして1936年の指針こそ時代の先取りではなかったでしょうか。
バチカンが靖国参拝を認めたのは、日本政府の宗教統制に受け身的に迫られた結果ではなく、数世紀間におよぶ教会の積極的布教戦略の成果でしょう。初期のイエズス会は、異教文化を否定する布教が文明的に発達した日本や中国などでは通用しないことを見抜き、バチカンも理解したのでしょう。
もし異教世界での戦没者追悼の文化・伝統を社会的儀礼としても認めないというのであれば、否定と排除の論理を振り回し、力ずくで一神教化する以外に世界布教の道は失われ、教会が新大陸の異教文明を破壊した愚かな歴史を繰り返すことになります。ローマやケルトの文化を吸収しながらヨーロッパに浸透していったキリスト教の歴史を自己否定することにもなります。
6、結局、制定されなかった神社法
司教団メッセージは、昭和戦前期の宗教統制を批判しますが、逆に、この時期、キリスト教会は法的に認められた、というのが正しい見方でしょう。
日本初の宗教基本法たる宗教団体法が成立、公布されたのは戦時体制下の昭和14年です。最初の法案が議会に提案されて以来、じつに40年の歳月を経て、名前も改まり、非常時の波に乗って国会を通過したのでした(杉山元治郎『宗教団体法詳解』昭和14年)。
同法は第1条で「本法において宗教団体とは教派神道、仏教宗派およびキリスト教その他をいう」と定め、「弾圧と迫害」どころか、キリスト教を公認しています。
一方、神道については「教派神道」とあるだけで、宗教団体法は神社を宗教団体としては認めませんでした。これは教会が主張するように、「宗教法人とはせず、宗教を超越したものと位置づけた」(前掲「非暴力による平和への道」)からでしょうか。そうではなく、当時の政府には、神社は神社法によって位置づけようという考え方があったのでした。
当時の帝国議会の議事速記録には、プロテスタントで、戦前から国政に参加し、戦後は衆院副議長を務めた杉山元治郎議員と、荒木貞夫文相、木戸幸一内相の次のような質疑応答が記録されています。
杉山「神社を宗教団体法の外に置いているが、神社法を制定するのか、神社は宗教だという人もいるが、宗教ではないという人もいる。神社は宗教以上のもの、超越したものと位置づけるために宗教団体法には包括しなかったのか。特別の神社法を制定しようということなのか」
荒木「神社が宗教であるか否か、議論があるが、神社は『国家の宗旨』であり、宗教の外にあるとされている。神社法の制定によって定められる」
木戸「昭和四年以来、神社制度調査会を設けて、慎重に研究している。神社法の制定は慎重に考慮すべき点があり、議会への提案は未定である」
戦時体制下の議会にキリスト教徒の議員がいて、率直な議論が交わされ、官報に記録されていたことこそ、迫害の不在の何よりの証明ですが、ともあれ神社法制定は困難でした。浄土真宗は神社非宗教を主張し、逆にキリスト教は、神社は宗教だと見ていました。神社側にも多様な意見がありました。文部省と内務省にも姿勢にズレがあり、結局、神社法は制定されませんでした。
日本の教会が主張するように、戦前の政府が宗教を超越したものとして神社を位置づけたのではなく、行政上の位置づけに成功しなかったというべきでしょう。そしてそのツケは、宗教行政の混乱となって、いまも続いています。
さて、戦後です。司教団メッセージは、戦後、国家神道が解体され、靖国神社は一宗教法人になった、と時代の変化を指摘しますが、司教団の国家神道論は根拠があるのでしょうか。
戦時国際法は占領軍が被占領国の宗教を尊重すべきことを規定し、ポツダム宣言には「宗教・思想の自由は確立せらるべし」の項目があります。ところがGHQはこれらに公然と違反して日本の宗教に干渉しました。
それは「国家神道」に対する誤解と偏見があったからです。アメリカは戦時中から「国家神道」こそが「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉で、これが「侵略」戦争を導いた、と理解し、国務省は「国家神道の廃止」を方針としていました。
その中心施設と考えられていた靖国神社は、アメリカ軍の東京進駐後、「焼却」が噂になっていました。それを救ったのは、戦時中、上智大学の院長だったビッテル神父のマッカーサーへの進言です。
「いかなる国家も、国家のために死んだ人々に対して敬意を払う義務がある」(『マッカーサーの涙─ブルノー・ビッテル神父にきく』朝日ソノラマ編集部編、昭和48年)。進言は明らかに1936年のバチカンの指針を踏襲しています。
神父の助言で靖国神社は救われましたが、昭和20年の暮れには、いわゆる神道指令が発布されました。「目的は宗教を国家より分離するにある」と規定しつつ、実際は拡大解釈で日本の民族宗教である神道に対して差別的圧迫が加えられました。
靖国神社が一宗教法人となったのは翌年ですが、そうしなければ解散したものとみなされるというせっぱ詰まった状況下でのぎりぎりの選択でした。
しかし占領後期になると、GHQの対応は変わり、神道指令の「宗教と国家の分離」は「宗教団体と国家の分離」に解釈が変更されます。
占領中の宗教政策を担当したGHQ職員のW.P.ウッダードは、「神道指令は(占領中の)いまなお有効だが、『目的は宗教を国家から分離することである』という語句は、現在は『宗教教団』と国家の分離を意味するものと解されている」とのちにある論攷に書いています(ウッダード「宗教と教育──占領軍の政策と処置批判」=国際宗教研究所紀要4、昭和31年所収)。アメリカが敵視した国家神道の幻影がもはや消えています。
緩やかなアメリカ型の政教分離主義に解釈変更されたからこそ、昭和26年、貞明皇后の御大喪はおおむね皇室の伝統に従って行われたし、カトリック信者だった有名な永井隆博士の公葬が長崎市葬というかたちで浦上天主堂で行われました。同じ年、吉田茂首相は6年ぶりの首相の靖国参拝を果たしました。
かつて神社焼却を強硬に主張したGHQは首相参拝を認めたのです。その後、長崎市の市有地にイエズス会が二十六聖人記念館および巨大レリーフを建設することも認められました。
とすれば、司教団メッセージは「教会は国家に拘束されてはならない」と述べて、現憲法が完全分離主義の立場をとっているかのように理解していますが、間違いでしょう。ウッダードが指摘したように、絶対分離主義は宗教の否定につながります。
ちなみにアメリカでは、「全国民の教会」と位置づけられるワシントン・ナショナル・カテドラルで、しばしばホワイト・ハウスの依頼によって公的な追悼ミサが行われ、歴代大統領や政府高官が参列します。イギリスでは毎年11月に戦没者追悼記念碑セノタフで政府主催の式典が行われ、国教会のロンドン司教が短い儀式を行います。
これらは日本の司教団の論理に従えば、政教分離違反となるのでしょうか。イスラムや仏教を信じる国民にとって、両国には信教の自由がないことになるのでしょうか。
7、戦後、バチカンが再確認した適応政策
信者の靖国神社参拝を祖国に対する義務として許可した1936年の指針は、靖国神社が宗教法人となり、第二バチカン公会議を経験したいまとなっては、「そのまま現在に当てはめることができない」と司教団は無効性を主張しています。
偏見をもって歴史を回顧し、バチカンの指針を「もう古い」といって有効性を否定する司教団の判断にバチカンは同意しているのか、といえば、そうではありません。
1951年、布教聖省は1936年の指針を確認する新たな指針を与えています。「戦没者への敬意は宗教儀礼ではなく、国民儀礼と見なされてきた。この数世紀間に儀式の意味は変化した。だから靖国参拝は許可され、教皇特使は(昭和12年に)参拝したのだ」。「数世紀間」という表現に、異教文化の排除から容認へという世界宣教史の変遷が明確に感じられます。
バチカンの指針を見直すべき権限は、当然、バチカンにあります。そしてバチカンが70年前の指針を見直し、神社参拝を禁止した、とは聞きません。
時代の変化は無論ですが、異教の文化・伝統を尊重し、戦没者慰霊を国民儀礼として容認し、参加を許可する1936年の指針の精神は、第二バチカン公会議以後、逆に重要性を増している、と考えるべきでしょう。
ところが、日本の司教団は戦後の新しい指針についてまったく触れず、そのうえ公会議を根拠にして戦前の指針を切り捨て、改憲阻止という政治行動に突き進もうとしています。まるで反バチカン的分派活動であり、聖職者の召命からの逸脱ではありませんか。
かつて聖書と讃美歌を手に特攻機に乗った若者もいます。そのようにして祖国に一命を捧げた兵士たちが、靖国神社には生前の思想・信条などの別なく合わせ祀られています。神社は国民的慰霊の場であり、戦死者との魂の交感の場です。カトリック教会はむろん死者との交流を認めています。
岡田大司教様、どうぞ靖国神社にお詣りください。教皇様がイラクで落命したイタリア人兵士を「わが息子」と呼び、追悼したように、日本の教会の立場を代表して、国に殉じた信者たちを追憶し、主なる神に感謝を捧げ、平和を祈るのは、大司教様のつとめのはずです。
バチカンは靖国神社を一貫して認めてきた──教皇庁の指針を否定する日本の教会指導者 [靖国神社]
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バチカンは靖国神社を一貫して認めてきた
──教皇庁の指針を否定する日本の教会指導者
(「神社新報」平成19年2月26日号から)
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過去30年間、靖国神社の国家護持運動や首相参拝に強く反対してきた日本のカトリック教会の指導者たちが、今度は信者の靖国参拝を認めるバチカンの公文書を無効とする挙に及び、反靖国的姿勢を募らせています。
カトリック中央協議会が「戦前・戦中と戦後のカトリック教会の立場」と題する小冊子を発行したのは昨年(平成18年)秋でした。1936(昭和11)年にバチカンの布教聖省が日本の教会に与えた指針「祖国に対する信者のつとめ」は、国家神道の神社(靖国神社)の儀礼は宗教的なものではない、とみなし、信者の参加を公的に認めていましたが、今回の冊子は
「70年が経過し、状況が変わった以上、そのまま今の教会に適応できない」
と効力を否定し、
「信者の参列は差し支えないとはいえない」
と主張しています。
しかし東京大司教が執筆し、司教協議会が編集した冊子は、史的理解が正確でないなど、多くの問題点が指摘されます。
▢ 儀礼は宗教的か否か
このバチカンの指針は、昭和7年の上智大学生靖国参拝拒否事件のあとに出されました。
事件は、軍事教練の配属将校に引率され、靖国神社まで行軍した学生のうち信者数人が参拝(敬礼)を「拒否」したのをきっかけに大混乱に発展したもので、今日の教会は戦前の「迫害」の象徴ととらえています。今回の小冊子も
「教会は弾圧と迫害にさらされていた」
と書いています。
しかしほんとうにそうでしょうか。『上智大学史資料集』は多くのページを割き、事件に関する一次資料を網羅しています。ちょうど日本の教会指導者が反靖国的傾向を強めていった時期に編集、刊行されていますが、「弾圧と迫害」の事実を読み取るのは不可能です。
渦中にいた大学関係者は
「軍部による政党打倒運動に事件が利用された」
と回想しているほどで(『未来に向かって』など)、軍部の嫌がらせはともかく、日本政府が政策的に教会を弾圧した歴史はないはずです。
ただ、信者にとって信仰上の問題をはらんでいたのは事実でしょう。キリスト教は一神教です。敬虔な信者であればあるほど、唯一神以外の神を礼拝することは許されません。靖国神社での敬礼は宗教行為なのか否か、事件は問いかけたのです。
今回の小冊子は、靖国神社を宗教と断定し、その前提で、事件を政教分離問題として政治的に理解しようとしていますが、問題の本質はそうではなく、異教の国での戦没者追悼という国民儀礼に一神教の信仰者は参加を許されるのか否か、という信仰問題なのでしょう。
であればこそ、事件さなかの昭和7年9月、シャンポン東京大司教は鳩山文相宛に書簡を送り、学生らの神社の儀式への参列は愛国心と忠誠を表すものなのか、宗教に関するものか、回答を求め、これに対して文部省は、
「神社参拝は教育上の理由に基づくもので、学生らの敬礼は愛国心と忠誠とを表すものにほかならない」
と答えました。
靖国神社での敬礼は宗教的意義を有さない、という公式回答を得て、信者らは安心して参拝できるようになったのです(田口芳五郎『カトリック的国家観』など)。
この教会の判断はバチカンによって追認されました。それが1936年の指針です。
日本の教会は、異教儀礼に由来すると思われる行為などを公的に求められたときの信者の対応について何度も照会し、これに応じて布教聖省はこの指針を発したのです。
この指針が注目されるのは、同じ布教聖省が一六五九年に宣教師に与えた古い指針を冒頭に引用していることです。
「各国民の儀礼や慣習などが信仰心や道徳に明らかに反しないかぎり、それらを変えるよう国民に働きかけたり、勧めたりしてはならない」
「キリスト教信仰はいかなる国民の儀礼や習慣をも、それが悪いものでないかぎり、退けたり傷つけたりせず、かえってそれらが無事に保たれるように望んでいる」
この賢明な原則を想起するのは有益である、と1936年の指針は述べています(カトリック中央協議会編『歴史から何を学ぶか』など)。
布教聖省が約300年前の指針を引き合いにしたのには理由があります。古い指針は中国に布教する宣教団に与えられたものです。キリスト教徒が異教世界の儀礼に参加することの是非論は昨日、今日に始まったものではないのです。
16世紀末に中国宣教を開始したイエズス会は、中華思想に固まり、排外的で自尊心の強い中国人に布教するため、画期的な「適応」政策を編み出しました。現地語を学び、現地の習俗、習慣を積極的に採り入れ、絶対神デウスを中国流に「天」「上帝」と表現し、皇帝による国家儀礼や孔子崇拝、祖先崇拝の儀礼に参加することをも認めました。
この布教戦略は功を奏し、イエズス会士は宮廷に迎えられ、高級官僚となり、やがて信者は増え、1692年にはキリスト教は公許されました。
「適応」政策の成功は、その成功ゆえに、遅れてやってきたドミニコ会やフランシスコ会の嫉妬と反感を買い、修道会同士の人間臭い陰湿な対立抗争を招きました。そして典礼問題が発生し、孔子崇拝の儀礼参加の是非がバチカンで論争になります。結局、イエズス会が敗北を喫し、1773年には解散させられます。
しかし20世紀になって適応主義は蘇ります。日本の教会は1936年に靖国参拝が認められ、中国では39年に孔子廟での儀式参加が許されました(矢沢利彦『中国とキリスト教』など)。
東京大司教の冊子には、こうした広い世界宣教史的視点が欠けています。
▢ 指針を見直す権限
今回の小冊子は70年の時の経過で、1936年の指針の効力が失われている、と主張していますが、靖国神社の儀礼参加を認めた指針の有効性は、戦後、1951年に出されたバチカンの新しい指針が確認しています。
「戦没者への敬意は宗教儀礼ではなく、国民儀礼と見なされてきた。日本政府は明確に言明してきたし、この数世紀間に儀式の意味は変化した。だから靖国参拝は許可され、教皇特使ドハーティ枢機卿は昭和12年に参拝したのだ」
「この数世紀間に」という文言に、三百数十年の典礼論争を経た教会にとっての靖国問題の本質が見えます。しかし今回の小冊子には新しい指針への言及がありません。バチカンの指針を見直す権限は、当然、バチカンにあるでしょう。そしてバチカンが70年前の神社参拝許可を取り消した、という事実は聞きません。
バチカンは靖国神社を一貫して認めてきた
──教皇庁の指針を否定する日本の教会指導者
(「神社新報」平成19年2月26日号から)
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過去30年間、靖国神社の国家護持運動や首相参拝に強く反対してきた日本のカトリック教会の指導者たちが、今度は信者の靖国参拝を認めるバチカンの公文書を無効とする挙に及び、反靖国的姿勢を募らせています。
カトリック中央協議会が「戦前・戦中と戦後のカトリック教会の立場」と題する小冊子を発行したのは昨年(平成18年)秋でした。1936(昭和11)年にバチカンの布教聖省が日本の教会に与えた指針「祖国に対する信者のつとめ」は、国家神道の神社(靖国神社)の儀礼は宗教的なものではない、とみなし、信者の参加を公的に認めていましたが、今回の冊子は
「70年が経過し、状況が変わった以上、そのまま今の教会に適応できない」
と効力を否定し、
「信者の参列は差し支えないとはいえない」
と主張しています。
しかし東京大司教が執筆し、司教協議会が編集した冊子は、史的理解が正確でないなど、多くの問題点が指摘されます。
▢ 儀礼は宗教的か否か
このバチカンの指針は、昭和7年の上智大学生靖国参拝拒否事件のあとに出されました。
事件は、軍事教練の配属将校に引率され、靖国神社まで行軍した学生のうち信者数人が参拝(敬礼)を「拒否」したのをきっかけに大混乱に発展したもので、今日の教会は戦前の「迫害」の象徴ととらえています。今回の小冊子も
「教会は弾圧と迫害にさらされていた」
と書いています。
しかしほんとうにそうでしょうか。『上智大学史資料集』は多くのページを割き、事件に関する一次資料を網羅しています。ちょうど日本の教会指導者が反靖国的傾向を強めていった時期に編集、刊行されていますが、「弾圧と迫害」の事実を読み取るのは不可能です。
渦中にいた大学関係者は
「軍部による政党打倒運動に事件が利用された」
と回想しているほどで(『未来に向かって』など)、軍部の嫌がらせはともかく、日本政府が政策的に教会を弾圧した歴史はないはずです。
ただ、信者にとって信仰上の問題をはらんでいたのは事実でしょう。キリスト教は一神教です。敬虔な信者であればあるほど、唯一神以外の神を礼拝することは許されません。靖国神社での敬礼は宗教行為なのか否か、事件は問いかけたのです。
今回の小冊子は、靖国神社を宗教と断定し、その前提で、事件を政教分離問題として政治的に理解しようとしていますが、問題の本質はそうではなく、異教の国での戦没者追悼という国民儀礼に一神教の信仰者は参加を許されるのか否か、という信仰問題なのでしょう。
であればこそ、事件さなかの昭和7年9月、シャンポン東京大司教は鳩山文相宛に書簡を送り、学生らの神社の儀式への参列は愛国心と忠誠を表すものなのか、宗教に関するものか、回答を求め、これに対して文部省は、
「神社参拝は教育上の理由に基づくもので、学生らの敬礼は愛国心と忠誠とを表すものにほかならない」
と答えました。
靖国神社での敬礼は宗教的意義を有さない、という公式回答を得て、信者らは安心して参拝できるようになったのです(田口芳五郎『カトリック的国家観』など)。
この教会の判断はバチカンによって追認されました。それが1936年の指針です。
日本の教会は、異教儀礼に由来すると思われる行為などを公的に求められたときの信者の対応について何度も照会し、これに応じて布教聖省はこの指針を発したのです。
この指針が注目されるのは、同じ布教聖省が一六五九年に宣教師に与えた古い指針を冒頭に引用していることです。
「各国民の儀礼や慣習などが信仰心や道徳に明らかに反しないかぎり、それらを変えるよう国民に働きかけたり、勧めたりしてはならない」
「キリスト教信仰はいかなる国民の儀礼や習慣をも、それが悪いものでないかぎり、退けたり傷つけたりせず、かえってそれらが無事に保たれるように望んでいる」
この賢明な原則を想起するのは有益である、と1936年の指針は述べています(カトリック中央協議会編『歴史から何を学ぶか』など)。
布教聖省が約300年前の指針を引き合いにしたのには理由があります。古い指針は中国に布教する宣教団に与えられたものです。キリスト教徒が異教世界の儀礼に参加することの是非論は昨日、今日に始まったものではないのです。
16世紀末に中国宣教を開始したイエズス会は、中華思想に固まり、排外的で自尊心の強い中国人に布教するため、画期的な「適応」政策を編み出しました。現地語を学び、現地の習俗、習慣を積極的に採り入れ、絶対神デウスを中国流に「天」「上帝」と表現し、皇帝による国家儀礼や孔子崇拝、祖先崇拝の儀礼に参加することをも認めました。
この布教戦略は功を奏し、イエズス会士は宮廷に迎えられ、高級官僚となり、やがて信者は増え、1692年にはキリスト教は公許されました。
「適応」政策の成功は、その成功ゆえに、遅れてやってきたドミニコ会やフランシスコ会の嫉妬と反感を買い、修道会同士の人間臭い陰湿な対立抗争を招きました。そして典礼問題が発生し、孔子崇拝の儀礼参加の是非がバチカンで論争になります。結局、イエズス会が敗北を喫し、1773年には解散させられます。
しかし20世紀になって適応主義は蘇ります。日本の教会は1936年に靖国参拝が認められ、中国では39年に孔子廟での儀式参加が許されました(矢沢利彦『中国とキリスト教』など)。
東京大司教の冊子には、こうした広い世界宣教史的視点が欠けています。
▢ 指針を見直す権限
今回の小冊子は70年の時の経過で、1936年の指針の効力が失われている、と主張していますが、靖国神社の儀礼参加を認めた指針の有効性は、戦後、1951年に出されたバチカンの新しい指針が確認しています。
「戦没者への敬意は宗教儀礼ではなく、国民儀礼と見なされてきた。日本政府は明確に言明してきたし、この数世紀間に儀式の意味は変化した。だから靖国参拝は許可され、教皇特使ドハーティ枢機卿は昭和12年に参拝したのだ」
「この数世紀間に」という文言に、三百数十年の典礼論争を経た教会にとっての靖国問題の本質が見えます。しかし今回の小冊子には新しい指針への言及がありません。バチカンの指針を見直す権限は、当然、バチカンにあるでしょう。そしてバチカンが70年前の神社参拝許可を取り消した、という事実は聞きません。
雪中行軍遭難者が合祀されない理由 [靖国神社]
以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年2月20日火曜日)からの転載です
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雪中行軍遭難者が合祀されない理由
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青森の東奥日報によると、14日に八甲田山で発生した雪崩事故の捜索に加わった陸上自衛隊の隊員が、毎年恒例となっている演習中の昨日、八甲田雪中行軍・後藤伍長銅像前で、両方の犠牲者の死を悼む捧げ銃の追悼式を行いました。
新田次郎の小説でひろく知られるようになった八甲田雪中行軍遭難事件が起きたのは明治35年1月、冬季訓練に参加した210名中199人が死亡するという日本の冬山登山史上最悪の事故といわれます。立ったまま仮死状態で発見されたのが後藤伍長でした。幸いにして生き残った将兵も重い凍傷にかかり、四肢を切断せざるを得なかったといわれます。
まことに苛酷な事故ですが、犠牲になった将兵は靖国神社にはまつられていません。戦時の戦死ではなく、平時の殉職だからです。
そのことについて、戦前、30年の長きにわたって宮司をつとめた賀茂百樹が、当時最先端のメディアであるラジオで講演したことがありました。柳条湖事件で満州事変が始まってから半年、昭和7年4月のことでした。
戦時色が強まりつつあった時代ながら、その時代でさえ靖国神社は誤解されていました。いまと同じように、「靖国神社は軍人ばかりをまつっている。不公平だ」という批判があったのです。それどころか「警察官や鉄道員も公平にまつるべきだ」という署名運動が起こり、しかもその署名簿に名士の名前がずらりと並んでいることに衝撃を受けたのが、賀茂宮司の講演のきっかけでした。ある種、リベラルな時代だったといえます。
明治35年の青森・雪中行軍の殉職者は199人、同41年の軍艦松島爆沈では207人、大正7年の軍艦河内爆沈では615人、同11年の軍艦新高遭難事故では320人、しかしこれら平時の殉職者はひとりも合祀されてはいない、と賀茂宮司はマイクの前で語りはじめます。
「平時に殉職した軍人はおびただしい数にのぼり、各官衙の文官の殉職者総数をあわせても比較にならない。悲惨をきわめる多数の殉職者は気の毒千万だが、靖国神社にまつられてはおりませぬ」というのです。
それならどういう人が合祀されているのか。宮司はこう説明します。
「日本国民にして職役および事変に際して国難に殉じたものが合祀の栄典に浴するのです。国家危急のときに当たり、自己の生命を国家の生命に継ぎ足した、神たるの資格のあるものがまつられるのです」
戦時であれば、戦闘死でなくてもまつられます。「直接戦死にあらざるも、出征して死因が戦役に関係あるものは病死といえども、特別合祀の恩典に浴することとなっています」
「いつも軍人が国防の第一線に立ちますから、殉難するものが多く、したがって合祀される人も軍人が多数を占める結果となります」
しかし「軍人以外でまつられた人々は多数あります」として、賀茂宮司は地方官、外交官、鉄道員、警察官などをあげています。
なぜ戦時の殉難者をまつり、平時の殉職者はまつられないのか。宮司は次のように説明します。
「戦争の勝敗は国家興亡の分かれるところ、出征将士の責任は重大であり、一段の決心をもって生還を期しません。戦争における戦死や負傷は不意のケガではなく、覚悟の前の結果であります」
この覚悟こそが普通人の学びがたい精神であり、それゆえに古来、わが国では神として祀ってきたのだ、と賀茂宮司は述べています。
誤解のないように申し添えますが、「だから国家に率先して命を捧げよ」などと、国民を鼓舞しているのではありません。昭和9年、脳溢血で倒れた宮司が病床で口述した冊子の中で、こう語っています。
「カムナガラの武備は戦争のための武備ではない。戦争を未発に防止し、平和を保障するのが最上である。国をとるとか、資源権利を獲得するためではない」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
雪中行軍遭難者が合祀されない理由
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青森の東奥日報によると、14日に八甲田山で発生した雪崩事故の捜索に加わった陸上自衛隊の隊員が、毎年恒例となっている演習中の昨日、八甲田雪中行軍・後藤伍長銅像前で、両方の犠牲者の死を悼む捧げ銃の追悼式を行いました。
新田次郎の小説でひろく知られるようになった八甲田雪中行軍遭難事件が起きたのは明治35年1月、冬季訓練に参加した210名中199人が死亡するという日本の冬山登山史上最悪の事故といわれます。立ったまま仮死状態で発見されたのが後藤伍長でした。幸いにして生き残った将兵も重い凍傷にかかり、四肢を切断せざるを得なかったといわれます。
まことに苛酷な事故ですが、犠牲になった将兵は靖国神社にはまつられていません。戦時の戦死ではなく、平時の殉職だからです。
そのことについて、戦前、30年の長きにわたって宮司をつとめた賀茂百樹が、当時最先端のメディアであるラジオで講演したことがありました。柳条湖事件で満州事変が始まってから半年、昭和7年4月のことでした。
戦時色が強まりつつあった時代ながら、その時代でさえ靖国神社は誤解されていました。いまと同じように、「靖国神社は軍人ばかりをまつっている。不公平だ」という批判があったのです。それどころか「警察官や鉄道員も公平にまつるべきだ」という署名運動が起こり、しかもその署名簿に名士の名前がずらりと並んでいることに衝撃を受けたのが、賀茂宮司の講演のきっかけでした。ある種、リベラルな時代だったといえます。
明治35年の青森・雪中行軍の殉職者は199人、同41年の軍艦松島爆沈では207人、大正7年の軍艦河内爆沈では615人、同11年の軍艦新高遭難事故では320人、しかしこれら平時の殉職者はひとりも合祀されてはいない、と賀茂宮司はマイクの前で語りはじめます。
「平時に殉職した軍人はおびただしい数にのぼり、各官衙の文官の殉職者総数をあわせても比較にならない。悲惨をきわめる多数の殉職者は気の毒千万だが、靖国神社にまつられてはおりませぬ」というのです。
それならどういう人が合祀されているのか。宮司はこう説明します。
「日本国民にして職役および事変に際して国難に殉じたものが合祀の栄典に浴するのです。国家危急のときに当たり、自己の生命を国家の生命に継ぎ足した、神たるの資格のあるものがまつられるのです」
戦時であれば、戦闘死でなくてもまつられます。「直接戦死にあらざるも、出征して死因が戦役に関係あるものは病死といえども、特別合祀の恩典に浴することとなっています」
「いつも軍人が国防の第一線に立ちますから、殉難するものが多く、したがって合祀される人も軍人が多数を占める結果となります」
しかし「軍人以外でまつられた人々は多数あります」として、賀茂宮司は地方官、外交官、鉄道員、警察官などをあげています。
なぜ戦時の殉難者をまつり、平時の殉職者はまつられないのか。宮司は次のように説明します。
「戦争の勝敗は国家興亡の分かれるところ、出征将士の責任は重大であり、一段の決心をもって生還を期しません。戦争における戦死や負傷は不意のケガではなく、覚悟の前の結果であります」
この覚悟こそが普通人の学びがたい精神であり、それゆえに古来、わが国では神として祀ってきたのだ、と賀茂宮司は述べています。
誤解のないように申し添えますが、「だから国家に率先して命を捧げよ」などと、国民を鼓舞しているのではありません。昭和9年、脳溢血で倒れた宮司が病床で口述した冊子の中で、こう語っています。
「カムナガラの武備は戦争のための武備ではない。戦争を未発に防止し、平和を保障するのが最上である。国をとるとか、資源権利を獲得するためではない」
戦没者を「神」として祀る靖国神社の伝統 ──「非宗教化」に反論する五つの視点 [靖国神社]
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戦没者を「神」として祀る靖国神社の伝統
──「非宗教化」に反論する五つの視点
(「神社新報」平成18年8月21日号)
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この記事が新聞に掲載されるのは終戦記念日のあとだから、注目される小泉首相の参拝のことなど靖国神社を取り巻く状況はさらに進んでゐるに違ひない。だからここに書きつづることは読者には旧聞と映るかもしれないが、避けて通るわけにはいかないと思ふので、あへて書くことにする。
それはこの数週間、ポスト小泉に名乗りを上げる政治家などが口にしてゐる靖国神社の「無宗教化」である。いはゆるA級戦犯(靖国神社がいふ昭和殉難者)の「分祀」を目的とする国立施設化はじつは非宗教化であって、したがって明治天皇の聖旨に基づく創建以来の祈りの伝統を破壊し、神を冒涜することにほかならないことを指摘しないわけにはいかない、と思ふからである。
▽ 「分祀」目的の国営化
たとへば先月末、自民党の古賀誠・元幹事長は、テレビ番組に出演し、「国民全体が尊崇の念をもてる施設として残すためには無宗教化があっていい」と語った。激しさを増す靖国批判に日本遺族会会長の立場から反論する、といふのならまだしも、逆に神社の宗教法人格を外すことに含みをもたせ、A級戦犯の合祀を取り下げるといふ意味での「分祀」を促す発言をしたと伝へられる。
古賀氏は、徴兵で召集され戦死した一般戦没者と戦争指導者とは区別すべきであり、いっしょに祀られるべきではない、といふ考へで、「分祀」の検討を以前から主張し、「国家護持の施設として宗教法人格を外す議論を始めないといけない」と述べてゐる。
古賀氏は靖国神社の総代でもあったが、「分祀」に関する考へ方の相違から、さすがに総代を六月に辞任してゐる。けれども遺族会は自民党の総裁選後、「分祀」論の本格的議論を開始させると伝へられてゐる。
続いて自民党の中川秀直政調会長は今月六日、テレビ番組などで「国が責任をもち、非宗教法人で誰を合祀するかは政府が決めるといふかつての(靖国神社)法案のやうなものを党と(日本)遺族会とで検討していくべきだ」と、A級戦犯「分祀」を視野に入れた非宗教法人化の考へを述べたといはれる。
さらにその二日後、麻生太郎外務大臣は、靖国神社が自主的に解散したあと、国立の特殊法人の国立施設に移行し、祭式は非宗教的・伝統的なものに変更する、慰霊対象は国会審議で決定する、とする非宗教法人化への見解を発表した。A級戦犯「分祀」を可能にする案で、谷垣禎一財務相も賛同したと伝へられる。
これらの主張は、たとへば麻生氏が「靖国神社の代替施設はあり得ない」とし、「神社を可能な限り政治から遠ざけ、静謐な祈りの場として、未来永劫に保っていく」ことが必要だと強調してゐるやうに真摯な考へではあらうが、結局は靖国の祈りの伝統を蔑ろし、戦没者慰霊についての世界的な流れからもかけ離れてゐるといへる。靖国問題の解決はA級戦犯「分祀」か国立追悼施設建設かのいづれかの選択しかない、とする短絡的思考は認めようがない。
まづ第一に、靖国神社はいまは民間の一宗教法人だが、これは終戦直後の占領下に宗教法人化しなければ廃止のやむなきに陥る、といふせっぱ詰まった状況下で苦渋の選択をしたといふのが歴史の真実である。
国の非常時に命を捧げた国民を慰霊する責務をまづ果たすべきなのは、間違ひなく国である。国家同士が激しく火花を散らした近代といふ過酷な時代に、国の中心的慰霊施設として機能してきたのが靖国神社であり、戦後は国に代はって日々、祭祀が斎行されてきた。
その歴史は簡単に忘れられるべきではない。
第二に、A級戦犯の合祀は靖国神社が勝手に進めたことではない。
殉国者を認定できるのは国以外にはない。A級戦犯の十四人が合祀されたのは、東京裁判で絞首刑になった七人、公判中に病死した二人、受刑中に死亡した五人の死を、日本政府が公務死と認めたからである。
もし日本政府として靖国神社のA級戦犯合祀を問題視するのなら、国が認定した十四人の公務死を取り消し、戦犯遺家族に支払った年金などを返還請求しなければならないだらう。そんなことができるだらうか。
第三に、前線で戦ひ落命した一般戦没者と戦争指導者とは区別すべきであるといふ考へもおかしい。国は分け隔てなく戦没者と認めたのであり、だからこそ神社も一座の神として祀ってゐる。徴兵され命を落とした兵士以外は「分祀」すべきだといふことになれば、合祀されてゐる外交官や警察官、樺太・真岡の女性郵便局員や沖縄・ひめゆり部隊なども「分祀」しなければならなくなる。
そもそも一部の祭神の合祀を取り下げる、といふ意味での「分祀」はあり得ない。一座に合はせ祀られてゐる神霊を分割することは不可能だし、神霊をよそに分けたとしても元の神霊はそのまま残る。これが日本人の伝統的霊魂観である。
第四に、靖国神社の国家機関化はむしろ神社側が表明してきたことである。数年前にも、そして最近も神社の最高責任者が「いづれは国にお返ししたい」と表明してゐる。
殉国者の慰霊は国家の責務であり、この六十年、靖国神社の慰霊に国が主体的に関はれなかった歪さこそ正されなければならない。しかしだからといって、百数十年の歴史と伝統を曲げるべきではないし、憲法の政教分離の原則からいってもその必要はない。
なぜなら、たとへば厳格な政教分離主義の本家本元であるアメリカではワシントン・ナショナル・カテドラルといふキリスト教会で国の慰霊行事が行はれてゐる。靖国神社を全体的に非宗教施設に移行させる必要はない。靖国批判に余念のない韓国では国立墓地で宗教者による慰霊式が催されてゐる。祭式を無宗教化する必要はない、といふことになる。
▽ 国民の祈りの重み
最後に、なぜ日本では戦没者を神として祀ってきたのか。靖国神社はなぜ神社といふ形態をとってきたのか、その本質をあらためて考へてみるべきではないだらうか。
イギリスでは十一月の戦没者追悼記念日に記念碑セノタフで国王や政府関係者が参列する式典が催され、追憶と感謝が捧げられる。宗教儀式もあるが、戦没者はGodではない。セノタフより古い歴史をもつ靖国神社が、殉国者を神として祀るのは、近世の義人信仰を引き継ぐもので、これ以上丁重な戦没者に敬意を表する方法が考へられないからではないか。
靖国神社の本殿には大都会の真ん中にありながらも、外界の喧噪とは隔絶した静寂があり、社頭では気づかない神気が漂ってゐる。ここに神あり、として日本国民が日々、捧げてきた祈りの重みが迫ってくる。
国家存亡のときにかけがへのない命を捧げた戦没者たち、私を去って公に殉じた精神を神として祀ってきた歴史を、なぜいま否定しなければならないのであらうか。
戦没者を「神」として祀る靖国神社の伝統
──「非宗教化」に反論する五つの視点
(「神社新報」平成18年8月21日号)
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この記事が新聞に掲載されるのは終戦記念日のあとだから、注目される小泉首相の参拝のことなど靖国神社を取り巻く状況はさらに進んでゐるに違ひない。だからここに書きつづることは読者には旧聞と映るかもしれないが、避けて通るわけにはいかないと思ふので、あへて書くことにする。
それはこの数週間、ポスト小泉に名乗りを上げる政治家などが口にしてゐる靖国神社の「無宗教化」である。いはゆるA級戦犯(靖国神社がいふ昭和殉難者)の「分祀」を目的とする国立施設化はじつは非宗教化であって、したがって明治天皇の聖旨に基づく創建以来の祈りの伝統を破壊し、神を冒涜することにほかならないことを指摘しないわけにはいかない、と思ふからである。
▽ 「分祀」目的の国営化
たとへば先月末、自民党の古賀誠・元幹事長は、テレビ番組に出演し、「国民全体が尊崇の念をもてる施設として残すためには無宗教化があっていい」と語った。激しさを増す靖国批判に日本遺族会会長の立場から反論する、といふのならまだしも、逆に神社の宗教法人格を外すことに含みをもたせ、A級戦犯の合祀を取り下げるといふ意味での「分祀」を促す発言をしたと伝へられる。
古賀氏は、徴兵で召集され戦死した一般戦没者と戦争指導者とは区別すべきであり、いっしょに祀られるべきではない、といふ考へで、「分祀」の検討を以前から主張し、「国家護持の施設として宗教法人格を外す議論を始めないといけない」と述べてゐる。
古賀氏は靖国神社の総代でもあったが、「分祀」に関する考へ方の相違から、さすがに総代を六月に辞任してゐる。けれども遺族会は自民党の総裁選後、「分祀」論の本格的議論を開始させると伝へられてゐる。
続いて自民党の中川秀直政調会長は今月六日、テレビ番組などで「国が責任をもち、非宗教法人で誰を合祀するかは政府が決めるといふかつての(靖国神社)法案のやうなものを党と(日本)遺族会とで検討していくべきだ」と、A級戦犯「分祀」を視野に入れた非宗教法人化の考へを述べたといはれる。
さらにその二日後、麻生太郎外務大臣は、靖国神社が自主的に解散したあと、国立の特殊法人の国立施設に移行し、祭式は非宗教的・伝統的なものに変更する、慰霊対象は国会審議で決定する、とする非宗教法人化への見解を発表した。A級戦犯「分祀」を可能にする案で、谷垣禎一財務相も賛同したと伝へられる。
これらの主張は、たとへば麻生氏が「靖国神社の代替施設はあり得ない」とし、「神社を可能な限り政治から遠ざけ、静謐な祈りの場として、未来永劫に保っていく」ことが必要だと強調してゐるやうに真摯な考へではあらうが、結局は靖国の祈りの伝統を蔑ろし、戦没者慰霊についての世界的な流れからもかけ離れてゐるといへる。靖国問題の解決はA級戦犯「分祀」か国立追悼施設建設かのいづれかの選択しかない、とする短絡的思考は認めようがない。
まづ第一に、靖国神社はいまは民間の一宗教法人だが、これは終戦直後の占領下に宗教法人化しなければ廃止のやむなきに陥る、といふせっぱ詰まった状況下で苦渋の選択をしたといふのが歴史の真実である。
国の非常時に命を捧げた国民を慰霊する責務をまづ果たすべきなのは、間違ひなく国である。国家同士が激しく火花を散らした近代といふ過酷な時代に、国の中心的慰霊施設として機能してきたのが靖国神社であり、戦後は国に代はって日々、祭祀が斎行されてきた。
その歴史は簡単に忘れられるべきではない。
第二に、A級戦犯の合祀は靖国神社が勝手に進めたことではない。
殉国者を認定できるのは国以外にはない。A級戦犯の十四人が合祀されたのは、東京裁判で絞首刑になった七人、公判中に病死した二人、受刑中に死亡した五人の死を、日本政府が公務死と認めたからである。
もし日本政府として靖国神社のA級戦犯合祀を問題視するのなら、国が認定した十四人の公務死を取り消し、戦犯遺家族に支払った年金などを返還請求しなければならないだらう。そんなことができるだらうか。
第三に、前線で戦ひ落命した一般戦没者と戦争指導者とは区別すべきであるといふ考へもおかしい。国は分け隔てなく戦没者と認めたのであり、だからこそ神社も一座の神として祀ってゐる。徴兵され命を落とした兵士以外は「分祀」すべきだといふことになれば、合祀されてゐる外交官や警察官、樺太・真岡の女性郵便局員や沖縄・ひめゆり部隊なども「分祀」しなければならなくなる。
そもそも一部の祭神の合祀を取り下げる、といふ意味での「分祀」はあり得ない。一座に合はせ祀られてゐる神霊を分割することは不可能だし、神霊をよそに分けたとしても元の神霊はそのまま残る。これが日本人の伝統的霊魂観である。
第四に、靖国神社の国家機関化はむしろ神社側が表明してきたことである。数年前にも、そして最近も神社の最高責任者が「いづれは国にお返ししたい」と表明してゐる。
殉国者の慰霊は国家の責務であり、この六十年、靖国神社の慰霊に国が主体的に関はれなかった歪さこそ正されなければならない。しかしだからといって、百数十年の歴史と伝統を曲げるべきではないし、憲法の政教分離の原則からいってもその必要はない。
なぜなら、たとへば厳格な政教分離主義の本家本元であるアメリカではワシントン・ナショナル・カテドラルといふキリスト教会で国の慰霊行事が行はれてゐる。靖国神社を全体的に非宗教施設に移行させる必要はない。靖国批判に余念のない韓国では国立墓地で宗教者による慰霊式が催されてゐる。祭式を無宗教化する必要はない、といふことになる。
▽ 国民の祈りの重み
最後に、なぜ日本では戦没者を神として祀ってきたのか。靖国神社はなぜ神社といふ形態をとってきたのか、その本質をあらためて考へてみるべきではないだらうか。
イギリスでは十一月の戦没者追悼記念日に記念碑セノタフで国王や政府関係者が参列する式典が催され、追憶と感謝が捧げられる。宗教儀式もあるが、戦没者はGodではない。セノタフより古い歴史をもつ靖国神社が、殉国者を神として祀るのは、近世の義人信仰を引き継ぐもので、これ以上丁重な戦没者に敬意を表する方法が考へられないからではないか。
靖国神社の本殿には大都会の真ん中にありながらも、外界の喧噪とは隔絶した静寂があり、社頭では気づかない神気が漂ってゐる。ここに神あり、として日本国民が日々、捧げてきた祈りの重みが迫ってくる。
国家存亡のときにかけがへのない命を捧げた戦没者たち、私を去って公に殉じた精神を神として祀ってきた歴史を、なぜいま否定しなければならないのであらうか。