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「やすくにの四季」を読む by 湯澤貞(前・靖国神社宮司) [靖国神社]

以下はインターネット新聞「お友達タイムズ」平成18(2006)年5月3日号(第2号)からの転載です

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 「やすくにの四季」を読む
 by 湯澤貞(前・靖国神社宮司)
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 所属の俳句結社・若葉の月刊誌の四月号に特別作品二十句を発表した。それは「やすくにの四季」と題するもので、五十年になんなんとする神職の経験から、神域の風情を俳句に託したものである。

 その二十句の中からさらに拾い出し、自註を試みたものが本稿である。


 斎館に新年祭の御装束

 神社の一年は元旦の祭典から始まる。すでに午前零時の号鼓と同時に、いままでじっと時の来るのを待っていた多くの参拝者はいっせいに大歓声をあげ、行動を開始した。

 一方、夜明けを待って始める新年祭にはまだ少し間があり、白々と夜の明けてきた斎館の大広間には、早々と用意された白無垢の斎服が整然と並べられ、下臈(下位の者)より参着して着装を始める。その参着までの静寂な空間を句として捉えた。


 神に侍す寒の禊に身を浄め

 神職にはつねに清浄なることが要求される。神社界では「浄明正直」を神社奉祀の根本に置いている。したがって神前に出仕するには、まず心身を浄めることを第一とし、寒中に水を被いて身を浄めることもするのである。


 母子像気高く愛し若桜

 戦場に華々しく散っていった勇士がいる。その勇士には年老いた両親も、兄弟もいるが、さらには最愛の妻や幼子もいる。残された妻や子をいとおしむ勇士の心。

 残された妻は、悲しみに浸ってばかりいられない。母として夫亡き後、気丈に生きて子供たちを立派な人間に育てなければならない。そのような凛々しい心が結集して母子の像となった。戦争とは悲しいものである。


 力士来て奉納相撲八重桜

 相撲協会は、靖国神社御創建(明治二年)以来、毎年春の八重桜の咲く頃、協会役員、横綱以下、そろって参拝の後、境内の相撲場で戦没者慰霊の奉納相撲を行っている。

 戦後六十年を過ぎても忘れることなく毎年の奉納で、ただただ頭が下がる。


 夜店の灯金魚掬ひの子ら照らす

 毎年七月のみたままつりに、大鳥居から始まる参道の左右の慰霊の大提灯数万灯のその下に何百軒の露店が並び、昔懐かしいラムネ売りや焼きそば、金魚掬いの店も開いている。浴衣に身を包んだ子供たちが夢中で金魚掬いをしている。この心和む風景は、日本が平和であるこその風景だと実感する。


 花嫁人形亡き子に捧ぐたままつり

 靖国神社には二百四十六万余柱の英霊が祀られている。その多くは未婚の青年たちであった。国の危急存亡に際し、私情を捨て、大義のために戦場に赴き、無言の凱旋となった。

 その家族たち、とくに母親は不憫にも未婚のまま神となられた息子に、せめて人形なりとも花嫁を添わしてやりたいという心情を、誰が笑うことができようか。こうして花嫁人形が多く神社に寄せられた。遺族にとって英霊は何年経っても戦没した年齢のままの青年である。


 たままつり煙草サイダー神饌に

 英霊をお慰めするために、新暦のお盆の七月十三日から十六日まで、毎晩慰霊の祭典を行う。

 境内の大鳥居から神門にいたる参道の両側に何段もの提灯が設えられ、その下に三百余の夜店が並び、神垣の奥には有名人の揮毫による雪洞が下げられ、その他地方の有名灯籠なども飾られ、夕刻それらに灯が入ると、さながら光の祭典となる。

 毎夜六時から本殿にてみたままつりが執り行われ、生者に差し上げるように、煙草やサイダー、そしてご遺族御奉納の品々をもお供えして、懇ろなまつりが繰り広げられる。

 境内の能楽堂では奉納芸能が、外苑の大村益次郎の銅像の周りでは盆踊りが奉納され、夏の夜は刻々と過ぎていく。


 蔀戸を挙げて涼風たてまつる

 神社の建物はどちらかといえば夏型にできているが、神々の御前も相当な暑さである。そんなときに境内の樹の間を潜ってきた涼風にほっと救われた思いがする。神様にも涼しい風をどうぞといった気持ちが句になった。


 木枯や益荒男海に征きしまま

 山口誓子に「海に出て木枯帰るところなし」という名句があるが、この句は特攻戦死された縁者の青年を惜しんで詠まれた句だという。木枯が吹くとどうしてもこの句が思い出され、今次の大戦で海に散華された多くの英霊に対し心から哀悼と感謝の誠を捧げたい。


 御神楽は佳境其駒声高く

 御神楽は宮中の賢所の前庭などで夜間奏される雅楽の一つだが、神社仏間などでも奉奏することがある。

 御神楽のなかの其駒という曲を奏者も舞人も一生懸命学んで演じ、神々の御嘉納を戴こうと励む姿は美しい。それには一にも二にも弛みない稽古が欠かせない。

 誠心誠意が大切である。


タグ:靖国神社
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靖國神社批判が収まらない──官僚、メディア、政治家の誤解と曲解 [靖国神社]


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靖國神社批判が収まらない──官僚、メディア、政治家の誤解と曲解
(「神社新報」平成18年3月27日号)
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 根拠に乏しい靖国批判が一向に収まらない。

 栗山尚一・元駐米大使は日本で唯一の外交問題専門のオピニオン誌といはれる「外交フォーラム」1・2月号に連載された論攷で、日本外交の重要課題は近隣諸国との和解で、その実現には過去の過ちを認め、対外行動に反映させる努力が必要だ、と主張し、小泉首相の靖國神社参拝を「支持できない」と断じてゐる。


▢「謂はれなき侵略」

 栗山氏は、戦歿者の追悼に外国が干渉するのは不当だが、と前置きしながらも、遊就館の展示説明文などを引き合いにして「靖國神社の歴史観」を批判し、「国策の誤り」「植民地支配」「侵略」を表明した終戦50年の村山首相談話とも、

「我が国の戦後の歴史は戦争への反省を行動で示した」

 とうたふ終戦60年の小泉首相談話とも相容れない、と指摘する。

 たとへば靖國神社が一貫して使用する「大東亜戦争」といふ呼称は当時の日本政府が戦争を正当化するために掲げた大東亜共栄圏構想と表裏の関係にあり、首相参拝は神社の「大東亜戦争」肯定史観を共有してゐるとの印象を与へかねない。したがって参拝は控へるべきだ、といふのである。

 だが栗山氏は完全に誤解してゐる。靖國神社は創建以来、国事に殉じた戦歿者の慰霊を第一義とする祭祀施設である。韓国の国立墓地や中国の人民英雄記念碑とは異なり、特定の歴史観に基づくものではないし、神社は歴史批判の機能を持つものではない。遊就館の展示説明から「侵略戦争肯定」と決めつけるのは濡れ衣である。

 誤解の最たるものは「支配者と被支配者、侵略者と被侵略者との間の和解」といふ階級闘争史観もどきの二項対立的史論の立て方にある。

 栗山氏は村山談話を

「政府の歴史認識をはじめて包括的に内外に明らかにしたものとして画期的」

 と絶賛してゐるが、

「植民地支配と侵略によってアジアの人々に多大の損害と苦痛を与へた」

 といふ談話の認識は観念的すぎないか。

 たとへば外務省は「侵略」を「aggression」と訳してゐる。英単語の語義からいって

「挑発もないのに謂はれなき侵略を敢行した」

 といふ意味に受け取れるが、政府が

「日本は挑発がないのに中国を攻撃した」

 といふ歴史認識を持ってゐるのだとすれば、史実に忠実といへるのかどうか、疑問を呈さざるを得ない。

 マスコミでは若宮啓文・朝日新聞論説主幹と渡辺恒雄・読売新聞主筆が朝日新聞発行「論座」2月号の対談で意気投合し、

「遊就館がをかしい。あれは軍国主義礼賛の施設」(渡辺氏)、

「首相参拝が結果的に『A級戦犯がなぜ悪い』『A級戦犯は濡れ衣ぢゃないか』といふ遊就館につながる思想の人たちを喜ばせ、力をつけさせてゐる」(若宮氏)

 などと靖国批判を展開、国立追悼施設の建設を合唱してゐる。

 渡辺氏は

「殺した人間と被害者とを区別しなければいかん。加害者の責任の軽重を問ふべきだ」と主張し、若宮氏は

「A級戦犯の合祀に昭和天皇は不快感を表明し、天皇陛下は四半世紀以上も参拝してゐない。だから陛下が晴れて追悼に行けるやうな国立施設を造ったらいい」と応じてゐる。

 また渡辺氏は

「宮司のいふ神道教学は、国教は神道だけだといふ明治以降の国家神道の教学だ。そんなもののために国民が二分され、アジア外交がめちゃくちゃにされてゐる」

 と靖國神社批判、首相参拝批判を語り、若宮氏は

「東条英機らを称へる神社に首相が参拝を続けてはばからない」と同調してゐる。

 日本を代表する大新聞の最高幹部の対談は、元エリート外務官僚と同様の誤解から抜け出せないでゐる。

 靖國神社は「A級戦犯を合祀してゐる」のではない。独立恢復後、日本政府が戦犯の刑死・獄死を「公務死」と認めたことから、戦犯刑死者は一般戦没者と同様の待遇を受けられるやうになり、それが「戦犯」合祀の道を開いたのである。

 英霊は一視同仁、生前の位階勲等、年齢・性別などの区別なく一座の神として祀られてゐる。責任の重さも無関係で、一命を祖国に捧げたといふただ一点において「靖国の神」となる。慰霊の祭場を「軍国主義」呼ばはりするのは的外れだ。

「昭和天皇の不快感」に到っては下種の勘ぐりといふべきで、年2回の例大祭には変はることなく勅使が差遣され、幣帛が奉られてゐる。

 戦争の惨禍を繰り返さないために歴史検証は必要だが、それは歴史家の仕事であらう。殉国者への慰霊と歴史批判は区別されなければならない。


▢「国家神道の象徴」

 政界の靖國神社批判も激化してゐる。

 小泉首相は年頭会見で記者の質問に答へ、

「靖国参拝は外交問題にしない方がいい。哀悼の念をもって参拝し、不戦の誓いを立てることがなぜ批判されるのか、理解できない」

 と語ったのに対して、政権与党の神崎武法・公明党代表はNHKの政治討論で

「首相、外相、官房長官は参拝を自粛すべきだ。宗教的に中立な国の追悼施設を造ることが大事だが、追悼施設建設は必ずしも靖国問題の解決にはならない」と批判を強めてゐる。

 公明党の機関紙「公明新聞」は一昨年(平成16年)夏、

「靖國神社問題に終止符を打つためには、国立追悼施設を創設する以外にない」

 と書き、昨年暮れに追悼施設議連が発足したあとには

「公式の追悼施設ができ、国家の式典がおこなはれていくなら、靖國神社も一宗教法人の本来の姿に立ち返ることができる」

 と追悼懇の座長代理を務めた山崎正和氏に語らせてゐたが、追悼施設建設構想が進まないことにしびれを切らせたのか、それとも自民・民主「大連立」構想への反撥からか、靖國神社を「国家神道の象徴的な施設」(公明新聞)と断定する公明党の神崎氏は、

「次の首相は参拝すべきでない」

 と「ポスト小泉」にまで注文をつけてはばからない。


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靖国神社──A級戦犯分祀が『あり得ない』理由 [靖国神社]

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靖国神社──A級戦犯分祀が『あり得ない』理由
(「選択」2005年2月号)
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 平成16年12月9日、山崎拓首相補佐官が東京・九段の靖国神社をたずね、新任の南部利昭宮司ら幹部神職と面会し、

「神社にまつられている東条英機元首相らA級戦犯十四人を『分祀(ぶんし)』できないか」

 と打診しました。新聞報道によると、首相の名代としてではなく、中曽根康弘元首相の意を受けての働きかけでした。神社側は「拒否」したと伝えられています。

 打診は同じ年の3月にもありました。自民党の島村宜伸議員が神社を訪問し、湯澤貞宮司(当時)と二人の権宮司(ごんぐうじ)に、

「できれば考えていただけないか」

 と持ちかけました。発信源はやはり中曽根元首相だったといいます。

「自分はそうは思わないんだが、中曽根さんが主張している」

 元首相は雑誌インタビューなどで、「別に尊厳なる社を造ってA級戦犯の霊をお迎えする」ことを提案してきました。「分祀」すれば神霊を取り除くことができるという発想が中曽根「分祀」論の前提でしょうが、それは神道の信仰上、あり得ないといわれます。


▢ 神道にも仏教にも共通した霊魂観


 宮司らは島村議員に「ロウソクの火」を例にあげて説明したといわれます。

「大きなロウソクから火を分けても、元のロウソクの火は残る。『分祀』しても、元の神霊は残る。元の神霊も分霊(ぶんれい)もそれぞれ全神格を有する」

 たとえば、千葉県内のある大手企業の社有地に琴平神社が鎮まっています。江戸後期、創業家の当主が讃岐の金刀比羅宮(ことひらぐう)に参籠(さんろう)し、「腕香(わんこう)」という荒行(あらぎょう)を行い、激痛に耐えながら家業と町の発展を祈願し、分霊を敷地内に勧請(かんじょう)した、と伝えられます。

 荒行はともかく、分霊を本社の外にまつるのが、神道の「分祀」であって、「分祀」したからといって本社の金刀比羅宮に祀られた神霊が消えてなくなることはありません。神霊には形も大きさもないからです。

 だからこそ、たとえば京都・伏見稲荷大社の分霊を祀る神社が九州から北海道まで3万2000社、同じく京都、石清水八幡宮の場合は2万5000社、伊勢の神宮は1万8000社というように、同じ神をまつる神社が全国に多数分布しています。

 この神霊観念は日本の仏教にも共通します。祖先の霊は墓所や仏壇などそれぞれに宿ると考えられ、それゆえに供養は自宅でも寺でも墓でも行われ、日本人は遺骸、遺骨、位牌、墓石、遺影それぞれに手を合わせます。

 中曽根元首相のいう「分祀」は日本人の伝統的信仰心に基づく「分祀」とは完全に異なることになります。

 元首相は〈A級戦犯を合祀した当時は頑固な宮司がいたが、時が移り、いまなら「分祀」が可能〉と考えたようです。しかし神社側は「昔も今も同じ。できないものはできない」と説明し、島村議員も納得したといいます。けれども元首相自身は理解したのかどうか、はわかりません。


▢ 合祀を「取り下げ」ようがない


 中曽根「分祀」論はつまるところ、「合祀取り下げ」要求にほかなりません。けれども「取り下げ」こそあり得ません。

 韓国・ソウルの韓国国立墓地「顕忠院」と比較するとよく分かります。

 顕忠院には「抗日独立」戦争や朝鮮戦争で落命した韓国人16万3000余の墓石が並んでいます。中央にそびえる顕忠塔の内部には朝鮮戦争当時の戦死者10万4000人の位牌(いはい)、地下には無名戦士6200余柱の遺骨を納める納骨堂があります。6月6日の「顕忠日」には首相直属の機関が主催し、政府関係者や各界代表、各国在外公館関係者などが参列する式典が行われ、大統領が献花、焼香するそうです。

 けれども日本の靖国神社には遺骨も位牌もありません。朝鮮半島出身者の遺族などが

「位牌を返せ」

 と要求していると伝えられたことがありますが、もともと存在しない位牌を返還することは不可能です。

 韓国には、日本統治時代の「親日派」を糾弾する「親日反民族特別法」に関連して、

「親日派軍人の墓を国立墓地から追放せよ」

 と声を荒げる国会議員もいます。戦没者個人の遺骨や墓があるなら、それも可能でしょう。しかし靖国神社は戦没者の神霊をまつっています。かりにA級戦犯の「合祀取り下げ」要求を受け入れたとして、「取り下げ」ようがないのです。

 神社には祭神の霊璽簿(れいじぼ)ならあります。幕末の戊辰(ぼしん)戦争から大東亜戦争(第二次世界大戦)まで、246万6495柱(平成15年秋現在)の祭神について、階級、氏名、本籍などが毛筆で記され、本殿後背の霊璽簿奉安殿に収められています。けれども、たとえA級戦犯の祭神名を書類上、抹消したとしても、「取り下げ」にはなりません。霊璽簿は副霊璽という重い扱いですが、神霊そのものではないからです。

 靖国神社では毎秋、合祀祭が行われます。

 合祀までには創建以来の厳密な手続きがあります。厚生省や都道府県に照会し、得られた戦没者の資料にもとづき、旧陸海軍が採用した前例を踏襲して、合祀の取扱は決定されます。階級、氏名、死没年月日、死没区分(戦死、戦病死等)、死没場所、本籍、遺族名などが記載された合祀名簿が作成され、戦前は天皇に上奏され、御裁可を経て、合祀されました。

 一宗教法人となった戦後は御裁可の制度はありませんが、前例に準じて上奏され合祀が行われているといわれます。


▢ 一柱の神のごとく鎮まる


 神社が「昭和殉難者」と呼ぶ、東京裁判で絞首刑の宣告を受けて処刑され、または未決拘留中・受刑中に死亡したA級戦犯14柱が合祀されたのは、昭和53年秋です。日本国民の感情と日本政府の政策に依拠し、十余年にわたる社内検討の末に実行されました。

 サンフランシスコ講和条約の発効を機に、日弁連など民間団体は戦犯赦免運動を展開し、のべ4000万人ともいわれる署名を集めました。戦争裁判の受刑者に同情的な国民感情に後押しされて、政府は重い腰を上げ、講和条約や関係各国との合意に基づいて、戦犯の減刑・赦免が進められました。その結果、巣鴨プリズンで服役していた有期刑のA級戦犯は31年3月までに、B・C級は33年5月までに釈放されました。

 一方でポツダム宣言受諾後、停止されていた軍人恩給が28年に復活します。当初は「戦犯」は対象外とされましたが、

「一般戦没者と同様に取り扱うべきだ」

 という世論の高まりを受け、翌29年の恩給法改正で戦犯の家族にも恩給が支給されるようになります。また、講和条約発効前の戦犯の刑死・獄死を「在職中の公務死」と見なして、政府は戦犯者に対する援護措置を充実させていきました。これがA級戦犯合祀の契機となります。

 合祀祭(霊璽奉安祭)は秋季例大祭当日の前夜、浄闇(じょうあん)の中、おごそかかに執り行われます。

 本殿相殿(あいどの)には昭和20年11月の臨時招魂祭で祭神名が判明しないまままつられた英霊の神霊が鎮(しず)まっています。祭典ではこのうち新たに合祀される神霊を作成されたばかりの霊璽簿にいったんお遷(うつ)しし、引き続いて本殿中央、内陣に奉安された御霊代(みたましろ)に合わせまつられます。

 246万余柱の英霊は一視同仁、生前の位階勲等や思想・信条、年齢、男女の性別、内地や台湾・朝鮮半島など出身地の別なく、あたかも一柱の神のように、一つの神座に鎮まるのです。

 平成16年も、終戦から半世紀以上が経って、ようやく戦死が判明した37柱が合祀されました。

 一つの神座に鎮まっている以上、部分的な「合祀取り下げ」は不可能です。そもそもいったん神に祀った神霊を人間の都合で、引きずりおろすことはできません。たとえ「大勲位」であれ、神の領域を侵すことは不可能であり、考えること自体が不敬だということになります。


▢ 「軍神」「英雄」とは限らない


 日本人はなぜ戦没者を神として祀るのでしょうか。イギリスや中国と比較してみましょう。

 毎年11月14日に近い日曜日、午前11時から2分間、イギリスは国を挙げて戦没者を追悼する沈黙の祈りに包まれます。

 第一次世界大戦の休戦協定発効が1918年11月11日の午前11時だったことから、この日に近い日曜日が「戦没者追悼記念日」と定められ、ロンドンの官庁街にそびえる記念碑セノタフを会場に、国王エリザベス二世や政府首脳、数千人の退役軍人、宗教関係者が参列し、二度の大戦と湾岸戦争などで落命した戦没者の追悼式典が催されるのです。

 ビッグ・ベンの鐘の音と騎馬隊の一斉射撃を合図に「二分間の黙祷」が捧げられたあと、女王は碑前に大きな花環を捧げます。国民はこの日のために、「感謝」を表す真っ赤なポピーの造花を胸につけます。

「二分間の黙祷」は、第一次大戦休戦一周年に国王ジョージ五世の呼びかけで始まりました。国王は

「すべての交通機関を止め、完全な静寂の中で、すべての人々は思いを英霊への敬虔な追憶に集中させよ」

 と訴えました。翌年の記念日にはウエストミンスター寺院内に無名戦士の墓が設けられました。

 セノタフの式典では英国国教会のロンドン司教が宗教儀式を行い、讃美歌が歌われ、キリスト教の祈りが続きます。近年は諸宗教の代表者も参列します。けれどもいうまでもなく、戦没者はGodではありません。

 セノタフより歴史の古い日本の靖国神社は、イギリス風の「追憶」や「感謝」を超え、戦没者を神としてまつっています。

 氏族の祖神、国土開発の功労者など祖先や人霊(じんれい)をまつる神社は古来、枚挙にいとまがありません。近世には義人信仰が顕著になり、明治以後、神社に発展した例も数多くあります。けれどもその神観は単純ではありません。同じく菅原道真公をつまる神社であるにもかかわらず、福岡の太宰府天満宮は人徳を慕う追慕の念に発しているのに対して、京都の北野天満宮の創建は怨霊(おんりょう)信仰の結果といわれます。

 同様に靖国の英霊は「軍神」「英雄」とは限りません。


▢ 特定の歴史観を前提とせず


 中国はどうでしょう。杭州の岳飛廟(がくひびょう)では「救国の英雄」岳飛は神にまつられ、「裏切り者」の秦檜(しんかい)は死んでなおツバを吐きかけられています。「罪人」は死んでも「罪人」のままですが、日本は違います。

 北京・天安門広場の人民英雄記念碑は中国共産革命に命を捧げた「英雄」をまつり、あまつさえ天安門事件で死んだ兵士をも祀っているといいます。中国の「英雄」は共産主義の階級闘争史観を前提とし、だからこそ帝国主義戦争の首謀者(戦犯)は悪、侵略の被害を受けた人民はすべて善という解釈になるのでしょうが、靖国神社は特定の歴史観、戦争観を前提としていません。

 中曽根元首相は

「A級戦犯については、日本国民自身が人物ごとに中身を判別し、重い責任者は分祀する」

 と主張しているようですが、靖国神社は個々の祭神を人物評価した上で合祀しているわけではありません。責任の重さも無関係です。

 靖国の英霊は、戦争という国家の非常時に、かけがえのない命を祖国に捧げた、という一点において神としてまつられています。国家の危機に私を去って、公に殉ずる。その悲痛な精神こそが靖国の神だといえます。その悲しいほどの忠誠心ゆえに、天皇は生前の臣下の前で頭を垂れたまい、また春秋の例大祭に勅使が差遣され、幣帛(へいはく)が奉られます。


▢ 「取り下げ」に反対した遺族


 元首相による「分祀」の働きかけは昭和60年に始まります。同年の終戦記念日、元首相は「戦後政治の総決算」の核心として靖国神社に「公式参拝」しました。数千人規模の青年交流など新たな日中関係が模索されるなかでの参拝は戦後政治に大きな足跡を残すはずでしたが、事態は一転、中国国内の保守派が猛烈に反発し、元首相は秋以降の参拝を中止しました。

 個人的にも肝胆(かんたん)相照らす仲となった改革派・胡耀邦総書記の立場が悪化しかねない、という情報が首相を動かしたとされていますが、中嶋嶺雄・国際教養大学学長(現代中国学)は宗教専門紙のインタビューで、

「信念の問題でしょう。一見強く見えるけれど、どこが弱点か、中国はちゃんと見ていた。弱みをついたら、見事にぐらついた。そこが靖国問題の原点だと思う」

 と解説しています。強固な政治的信念に欠け、状況を見て豹変する「風見鶏」の習性を中国の対日強硬派は見抜いていたということでしょうか。

 元首相は「日中関係改善のため」と称し、「陰の首相指南役」四元義隆氏や金丸信自民党幹事長らを動かして松平永芳宮司に「分祀」を要求し、一方では板垣正参議院議員(いずれも当時)に戦犯遺族の説得を依頼したといいます。

 板垣議員はA級戦犯・板垣征四郎陸軍大将の子息です。長く日本遺族会に勤務し、当選後は「公式参拝」実現に取り組んでいました。

「合祀問題はA級戦犯の遺族が神社と話し合って決着させる以外にない。A級戦犯自身、取り下げを望んでいるのではないか。密かに祀られたのなら、密かに取り下げるのが理想」

 という旧軍の先輩の助言に動かされ、白菊遺族会(戦犯遺族会)の木村可縫会長(木村兵太郎陸軍大将未亡人)と相談し、まず東条輝雄氏(東条元首相の次男)と接触します。

 東条氏は「取り下げ」に反対でした。けれども板垣議員によると、

「主張は正論そのもので、議論の余地はなかった」。

「『A級戦犯が祀られているから、首相が参拝することは妥当ではない』というのは戦勝国の論理。遺族として同調できない」

「日中間の靖国問題は両国の政治家が不適当な言動を行ったために起こった。遺族が解決に当たらねばならぬ筋合いはない」

 と東条氏は主張しました。

 結局、神社側の反対と、遺族の声が「合祀取り下げ」を阻んだといわれます。いまでは全遺族が「分祀」反対の立場だといいます。


▢ 政治に翻弄される英霊たち


 靖国神社は現実の権力政治とは一線を画し、ひたすら祭祀を厳修することを第一義としています。その靖国神社が平成16年春に「分祀案に対する見解」を発表しました。奇しくも島村議員が神社を訪問したちょうどその日にでした。テレビ朝日「サンデープロジェクト」で中曽根元首相が「分祀」案に言及し、

「以前は神社が頑固に反対したが、いまは遺族の同意も得られそうだ」

 と語ると、神社に問い合わせが殺到し、意思表示を迫られたのでした。

 靖国神社がみずからの意思を示した初のケースで、「見解」は「分祀はあり得ない」と言い切っています。

 16年春の例大祭では、湯澤宮司(当時)は祭神と参列者を前に、

「中曽根発言は国民を惑わす。首相参拝問題の混乱は元首相の参拝取りやめに端を発している」

 と強く批判し、

「できない分祀論よりも内政干渉の排除に最後の政治生命を注いでいただきたい」

 と訴えました。

 同年11月下旬、日中首脳会談で胡錦涛主席、温家宝首相は小泉純一郎首相の靖国神社参拝を相次いで批判しました。直接の批判ははじめてでした。翌月の山崎補佐官の神社訪問、「分祀」打診はこの批判を受けたものであることは間違いないでしょう。

「政治にタッチせず」

 を基本姿勢とする靖国神社ですが、政治にもまれていくのは歴史の綾でしょうか。一度きりの人生で、図らずも国際政治の荒波に巻き込まれ、国に命を捧げた靖国の英霊は死してなお、魂の安らぐことがありません。

 その背景には政治の貧困があることはいうまでもないでしょう。日本の為政者は体を張って国を守ろうとする気概がないどころか、外国に尻尾を振って恥じることがないかのようです。歴史の真実を真摯に追究し、検証することもせず、逆に殉国者への慰霊の誠を失い、物言わぬ英霊と遺族と靖国神社に責任を転化しているのではありませんか。

 終戦六十年を経て、日中の喉元に突き刺さった靖国問題の解決は「参拝中止」でも「分祀」でもない第三の道が模索されるべきですが、それのできる大政治家はいるのでしょうか。

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解説 中曽根「A級戦犯分祀」の顛末──失政の因は誤った歴史認識にあり [靖国神社]

以下は「神社新報」(平成16年3月15日)からの転載です


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解説
中曽根「A級戦犯分祀」の顛末
──失政の因は誤った歴史認識にあり
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中国内の権力闘争
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「A級戦犯分祀」論が再びうごめき始めた。震源はまたも中曽根康弘元首相である。日中関係改善のために分祀を促したい意向らしいが、靖國神社首相参拝をめぐって国際的混乱の火種が生まれたのはほかならぬ中曽根内閣時であった。

「戦後政治の総決算」を掲げる中曽根内閣は、「戦後四十年」の節目に当たる昭和六十年の前年夏に藤波孝生内閣官房長官の諮問機関いはゆる靖國懇を発足させた。「民主主義の岩盤を作るのは健全なナショナリズムである」と考へる首相にとって、参拝は「総決算」の核心であった。

「靖國神社は戦歿者追悼の中心的施設。国民や遺族の多くは首相や閣僚の参拝を望んでゐる」とする懇談会の提言に基づいて、首相は翌年八月十五日に参拝する。戦後政治に大きな足跡を残すはずだったが、事態は一転した。

 中国外務省は「日本軍国主義により被害を受けた中日両国人民を含むアジア各国人民の感情を傷つける」と批判、首相は「軍国主義や超国家主義の復活、戦前の国家神道にもどることは絶対にない」と反論したが、中国の視点はもとより別のところにあった。中国国内の権力闘争である。

 対日関係を重視する胡耀邦、鄧小平両首脳は事態の深刻化を望まなかったが、時あたかも「抗日戦争四十周年」、過去の記憶を呼び覚まされた長老たちは違ってゐた。保守派の対日批判はやがて胡総書記の「対日柔軟外交」への攻撃に発展し、親日派の総書記は追ひつめられたといふ。

 中曽根首相の言ひ分では中国の反撥を考慮し、六十年秋の例大祭時の参拝を中止したとされる。首相は翌年の正月も春の例大祭にも参拝しなかった。ダブル選圧勝といふ追ひ風にもかかはらず、終戦記念日の参拝を見送った。個人的にも肝胆相照らす仲となった胡総書記の立場が悪化しかねないといふ情報が首相を動かしたといふのだが、ほんとうの理由はほかにあったのではないか。


参拝見送りの経緯

 ブレーンであった香山健一・学習院大学教授の首相宛、同年七月の手紙が残されてゐる。「参拝は如何なる形にせよおこなはないと決断」することが「唯一の上策」と結論する進言書だが、「国家神道は古来の惟神道を大きく踏み外したもので、戦争責任がある」「明治以降、神道は欧米の一神教に似たものに変質した」などとする近代神道史に関する認識は正しいとはいへまい。誤った歴史認識が誤った政治行動を導いたのではないか。

 首相は同じ頃、訪中する稲山嘉寛経団連会長に中国首脳部の本音を探ってほしい、と依頼してゐる。首相は稲山人脈をもっとも信頼してゐた。中国では参拝への拒絶反応が全般的に強かったが、稲山氏の感触を決定づけたのは、帰国前日の早朝にホテルに訪ねてきた胡耀邦側近の話だった。

 側近はかう語ったといふ。重要なのは「戦犯」が祀ってあることだ。内政問題ではない。一国の首脳が世界公認の「戦犯」を公式参拝すれば、中国人民の感情を傷つけると同時に、日本政府の国際的イメージを損なふ。多くの国が日本軍国主義の復活を警戒してゐる。もっと強烈な反応が出てくれば、総書記といへども困った立場に立つ──。

「稲山メモ」が極秘扱ひで官邸に届けられた。首相は後藤田正晴官房長官と相談、「開放・改革路線の総書記の立場を悪くすることはできない」との理由で参拝見送りを決めたとされる。

 終戦記念日の当日、十六人の閣僚が参拝したが首相は参拝せず、その理由を「日本は中国を侵略するなど、アジア諸国へ多大の被害を与へた。靖國神社にその責任者が祀られてゐるのを知らなかった。中国などの現政権は日本に友好的だが、必ずしも安定してゐない。公式参拝で内部抗争が激化し、日本との友好が損なはれれば、利を得るのは北の方だらう」と語る。

「知らなかった」とは信じがたいが、「外圧に屈し、国益を軽んじた」との批判をソ連脅威論でかはしたといふことか。


政府の協力で合祀

 中曽根首相はいはゆるA級戦犯分祀にも動く。

 A級戦犯(昭和殉難者)十四柱が合祀されたのは昭和五十三年秋である。日本国民の感情と日本政府の政策に依拠し、十余年にわたる社内検討の末におこなはれた。

 講和条約発効を機に日弁連など民間団体は戦犯赦免運動を展開、一千万を超える署名を集めた。戦争裁判の受刑者に同情的な国民感情に後押しされて、政府は重い腰を上げ、講和条約や関係各国との合意に基づき減刑・赦免がおこなはれた。その結果、A級戦犯は三十一年三月までに、B・C級は三十三年五月までにすべて釈放された。

 一方でポツダム宣言受諾後、停止されてゐた軍人恩給が二十八年に復活する。当初は「戦犯」は対象外とされたが、「一般戦歿者と同様に取り扱ふべきだ」といふ世論の高まりを受け、翌年の恩給法改正で戦犯の家族にも恩給が支給されるやうになった。また戦犯の刑死・獄死を「在職中の公務死」と見なし、政府は戦犯者に対する援護措置を充実させていった。これがやがて昭和殉難者合祀へとつながっていく。

 マスコミが合祀を大々的に報道したのは五十四年だが、野党やマスコミの批判は六十年の中曽根参拝後、中国など近隣諸国に飛び火した。首相はA級戦犯分祀のために、「陰の首相指南役」四元義隆氏や金丸信自民党幹事長らを動かして松平永芳宮司を説得し、一方では板垣正参議院議員に遺族の説得を依頼したといふ。結局、神社側の反対と、「『A級戦犯が祀られてゐるから、首相が参拝することが妥当ではない』といふのは戦勝国の論理。同調できない」とする遺族の声が「合祀取り下げ」を阻んだ。

 中曽根首相の参拝見送り、分祀画策は「戦後政治の総決算」どころか靖國神社問題の複雑化を招き、混乱はいまも続いてゐる。(参考文献・『中曽根内閣史』、『Voice』平成十五年八月号など)


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「創立130年」靖国神社の崖っぷち──支えるヒトもカネもなし [靖国神社]

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「創立130年」靖国神社の崖っぷち──支えるヒトもカネもなし
(「選択」平成11年5月号)
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靖国神社とその周辺があわただしい。
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「日本最初の近代博物館」ともいわれる遊就館(ゆうしゅうかん)では4月1日(平成11年)から、神社が主催し、産経新聞社・日本工業新聞社が後援する創立130年記念特別企画展「靖国の祈り──目で見る明治・大正・昭和・平成」が始まり、最初の2週間で1万5000人が来館した。

相撲場では4月上旬、第1回全国鎮守の森こども相撲大会(全国氏子青年協議会主催、神社本庁・産経新聞社などが後援、日本相撲協会・日本相撲連盟が特別協賛)が開かれ、ちびっ子力士24チーム、170人の元気な歓声がこだました。

他方、かつての「在郷軍人会館」(九段会館)に併設するように、神社の避難地であったゆかりの地に、戦中・戦後の国民生活の資料などを収集・展示する厚生省の「昭和館」が紆余曲折の末、3月下旬にオープンした。

また、今年(平成11年)に出版された若手評論家・坪内祐三氏の『靖国』は、従来の政治論とはひと味違う文化論の新鮮さから、話題となっている。


▽1 官軍が建てた招魂社

靖国神社の歴史は130年前、戊辰(ぼしん)戦争が北海道函館の五稜郭開城で幕を開けてから1カ月後の明治2(1869)年6月、東京招魂社が創建されたことに始まる。
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建設計画が持ち上がったのは同年3月の東京奠都(てんと)の後という。会津征討総督を務めた軍務官知官事・小松宮嘉彰親王は明治天皇の命を受け、副知官事・大村益次郎らに境内地を調査させ、九段坂上の旧幕府歩兵屯所跡地を東京府から受領することが決まる。

6月下旬に仮殿が竣工し、29日から7月3日まで鎮祭式が行われた。戊辰戦争の戦没者3588柱の神霊を招き降ろす招魂式は28日の深夜、丑の刻に斎行された。翌29日には弾正大弼・五辻安仲が勅使として参向し、勅幣を神前に奉る。嘉彰親王は祭主を務め、祝詞を読み上げた。

祝詞は「天皇の大御詔によりて軍務知官事宮嘉彰申さく……」で始まり、官軍の武勇武勲を賞賛し、天皇の治世がとこしえに続くことを祈願する内容となっている。祭神は錦の御旗のもとで戦いたおれた薩長諸藩の官軍兵士で、農民や僧侶も含まれる。

義人をまつる信仰形態がとくに顕著になるのは近世以降で、非命にたおれた義民が没後、50年、100年を経て、神として各地域で祀られた。戦没者を死の直後にまつり、しかも「天皇の思召し(おぼしめし)」によって国家が神社を創建するようになったのは近代以降の現象といわれる。

6月30日から7月3日までは相撲、花火などの余興があり、大砲隊、遊軍隊などが祝砲をとどろかせた。

8月には「御沙汰」によって「永世祭祀料一万石」が下付され、伊勢の神宮につぐ厚遇が与えられる。

しかし実際は財政逼迫のため、5000石の返上を軍務官あらため兵部省が願い出て受理される。政府は火の車であった。「永世祭祀料」は名目にすぎず、社費は兵部省から分離独立した陸軍省の経費から支出されていた。このため陸軍省は社費の別途支給を再三、大蔵省に要求したという。

7年1月には明治天皇が行幸(ぎょうこう)になる。御年21歳の天皇はこう詠まれた。

我国乃為をつくせる人々の名もむさし野に止むる玉かき

佐賀の乱、西南戦争後にも、神社となってからは4度、天皇は行幸される。


▽2 誰が神社を支えていくのか

招魂社が「靖国神社」と改称され、「別格官幣社(べっかくかんぺいしゃ)」に列格されたのは12年6月である。

なぜ「神社」となったのか。国学院大学の阪本是丸教授(近代神道史)によると、最大の要因は「神官設置問題」であった。

陸軍省によって「社格」などは念頭外で、ただ「神官を置いて神社らしくしたい」と願っただけだという(阪本『国家神道形成過程の研究』)。それ以前は正式な神社ではなかったから、神官も置かれず、財政困難を強いられていたらしい。

改称列格後は内務・陸・海軍3省が神社を管轄し、祭典は神社祭式に準拠して陸海2省の官員が執り行うことになる。14年5月には古来の武器陳列場として「遊就館」が落成し、翌年2月に開館する。イタリアの古城を模した西欧風建築は工部省お雇い外国人カペレッティの設計による。

明治以来の歴史に最大の転機が訪れたのは、いうまでもなく第二次世界大戦直後である。
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昭和20年末の「神道指令」で神社は創設者である国家との関係を絶たれ、翌年の宗教法人令改正でやむなく民間の一宗教法人となり、解散を回避する。GHQは靖国神社を「軍国的神社」とみなし、爆破計画さえあった。破壊を免れたのは、あるカトリック神父の意見具申があったからといわれる。

その後、神社を物心ともに支えてきたのは第二次大戦で落命した二百数十万の戦没者の遺族であり、生き残った戦友たちである。しかし戦後50年を経て、未亡人や遺児、戦友は高齢化し、多くは鬼籍の人となった。戦争世代が完全に姿を消す日は目前に迫っており、今後、誰が神社を支えていくかは死活の問題だ。

かたや「時代の逆風」も重く響く。愛媛玉串料訴訟の最高裁違憲判決しかり、「靖国神社は軍国主義」と記述する歴史教科書しかりである。

大転換期に直面して、神社は数年前から将来構想を練り始めた。「創立130年」は崖っぷちで踏ん張りつつ、信仰的かつ経済的基盤を根本的に立て直すラストチャンスなのだろう。

内部検討の結果、①「崇敬奉賛会」の設立(従来の「靖国講」と「奉賛会」とを統合。会長は元侯爵土佐山内家18代・山内豊秋氏。会員約5万人)、②祭神台帳のコンピュータ化(246万6000余柱のデータをハードディスクで保存管理)、③遊就館の改修と増築(大画面の映像ホールを持つ総ガラス張りの新館の増築)、④祭儀所、参集所の拡充、⑤内苑・外苑の整備──を柱とする中長期計画が昨年(平成10年)末に公表された。

また、同時に今後の広報活動について、学識経験者・文化人に意見を求める「靖国神社を考える会」(委員長=小堀桂一郎明星大教授)の会合も3回ほど重ねられた。

だが、こうした努力がどこまで有効なのか。


▽3 平和は未来永劫続かない

「考える会」では「イベントがあり、花があり、鳩がいるだけで十分。戦争論や宗教論を出すと人は来ない」という靖国固有の歴史を否定するような意見まで飛び出したらしい。

「崇敬奉賛会」の新規入会は多いというが、会員の平均年齢はそもそも高い。

「目標50億円」の記念事業募金も順調のようだが、小田村四郎(拓殖大学総長。東京帝大在学中に学徒出陣)、阿南惟正(終戦時に自決した阿南惟幾陸将の3男。元新日本製鐵副社長)、山本卓眞(富士通名誉会長。陸軍航空士官学校卒。特攻隊)氏ら崇敬者総代は別として、昭和4年生まれの湯澤貞宮司ほか約100人の職員に戦争経験者がいないという現実のなかで、「英霊の心」を若い世代に伝えるのは至難のことに違いない。

時あたかも「周辺有事」が語られ、ガイドライン関連の論議が活発に展開されている。

ここ半世紀、日本は世界史にまれなる平和を享受してきたけれども、これが未来永劫に続くはずはない。もし国民が尊い命を国に捧げなければならない新たな事態が生まれたとき、国はどう対応するつもりなのか。

政府が管理する千鳥ヶ淵戦没者墓苑も、政府が主催する夏の全国戦没者追悼式も、対象は「支那事変以降」の戦没者であり、明治以来の戦没者を慰霊する全国的な施設は靖国神社以外にはない。
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今年(平成11年)、1000本といわれる境内の桜は天候にも恵まれ、ことのほか見事で、「さくら祭り」期間中、25万人が悲しいほどの美しさに酔った。木戸孝允が亡き志士たちをしのんで泣きながら植えたのが最初といわれる桜だが、まさか「最後の繚乱」ではあるまい。

秋(同年)には記念の大祭が予定される。


追伸 この記事は総合情報誌「選択」(選択出版)平成11年5月号に掲載された拙文「『創立130年』靖国神社の崖っぷち--支えるヒトもカネもなし」に若干の修正を加えたものです。

先日、韓国から来られたある大学の先生の講演会がありました。

時節がら「日本の歴史教科書の歪曲」に言及し、「歴史の歪曲」ときびしく批判されるので、「お話になった教科書は検定合格が発表されたばかりで見本本もできていない。また検定中は非公開のはずだが、先生は教科書の原稿をお読みになった上で『歪曲』とおっしゃっているのですか」と質問したところ、「非公開とは知らなかった。原稿も読んでいない」とお答えになりました。

抜き差しならぬ外交問題に発展した教科書問題ですが、大学教授という社会的な地位にある方でさえ、客観的、実証的な議論ができないのは日韓両国にとってじつに不幸なことです。

とかく議論が感情的、政治的に走るのは、とりわけこの靖国神社問題が典型的ですが、この先生は、「見もせず、読みもせずにものを語るべきではない」とお考えになって、忙しい日程をやりくりして、翌日、靖国神社にお詣りされたそうです。

そのご報告を聞いて、韓国にも立派な方がおられるな、と私は感銘を覚えたものです。あざなえる縄のごとき靖国神社問題の解決は、まず歴史と現実を冷静に客観的に見据えるところから始まるのではないかと思います。


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