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朝日新聞縮刷版で読む「A級戦犯」の赦免──国民運動が高まり、国際社会が合意した [A級戦犯]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


 昨日付の朝鮮日報の社説が、アメリカの外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」に載った安倍総理のインタビュー〈http://www.foreignaffairsj.co.jp/essay/201306/Abe.htm〉を、「二つのうそを言った」と厳しく批判しています〈http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/05/21/2013052100763.html〉。

「一つは靖国神社参拝を米国ワシントン郊外にあるアーリントン墓地への参拝と同じものとした点だ」「二つ目のうそは、韓国がこれまで日本の首相による靖国神社参拝を問題視しなかったという主張だ」と指摘しています。

 一つ目については、「ドイツで行われたニュルンベルク裁判で有罪判決を受けたナチスの戦犯たちに対し、首都の中心部に祭ってドイツの首相や閣僚、政治家などが日本のように参拝したらどうなるだろうか」と問いかけ、「日本のA級戦犯たちはナチスの戦犯たちと何ら変わらない。A級戦犯を祭る施設を東京の中心部に置き、日本の政治指導者たちが毎年参拝することを、米国のアーリントン墓地の参拝に例えるなど詭弁(きべん)以外の何物でもない」と反発しています。

 しかし、これこそ「ウソ」と「詭弁」でしょう。

 日本の戦時指導者とナチスとを同列で論じることは無謀ですし、日本の「戦犯」は、ナチスの「戦犯」とは異なり、国際ルールに従って、国際社会の合意に基づいて、赦免・減刑・釈放されました。

 いまや韓国国民の3人に1人はキリスト者だそうですが、「戦犯」の赦免・減刑にキリスト者が果たした役割は少なくありません。日本国内で戦犯者の助命、減刑を嘆願する署名運動には多くのキリスト社が参加しています。海外でまっ先にフィリピンが日本人「戦犯」を赦免したのは、「敵を赦せ」というキリスト教精神に基づいています。

 韓国・朝鮮人の頑なで、非キリスト教的な態度は何に由来いるのでしょうか?

 というわけで、平成14年8月に宗教専門紙に連載された拙文をまとめて転載します。当時もまた「A級戦犯」問題が沸騰し、日本ではいわゆる追悼懇が靖国神社に代わる追悼施設建設を模索していたのでした。

 それでは本文です。なお一部に加筆修正があります。同紙の編集方針に従い、歴史的仮名遣いで書かれています。


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朝日新聞縮刷版で読む「A級戦犯」の赦免
──国民運動が高まり、国際社会が合意した
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◇昭和二十七年 独立回復
◇「戦犯」赦免の一千万署名はじまる

 内閣官房長官の諮問会議「追悼・平和懇」は五月下旬の第六回会合のあと、開かれてゐない。「次回は八月中に」(事務局)とも聞くが、どうなるのか。

 議事録を見るかぎり、議論は堂々めぐり。だが確実に、着実に、「靖國神社に代はる」国立追悼施設の建設へと向かってゐるかに見える。新施設が追悼の対象と予定するのは明治維新以来の戦歿者であり、議事録には「靖國神社に祀られてゐる人が全部ここに移ってくる」といふ発言が記録されてゐる。

 新施設は靖國神社の慰霊・追悼の歴史を認めないらしい。根っこには「A級戦犯」(昭和殉難者)問題がある。近隣諸国の「わだかまり」もここにある。なるほど同社は戦後、A級、BC級の別なく戦争裁判の刑死者らを合祀してきた。

 けれどもその前提となる重い歴史が忘れられてゐないか。独立回復後、戦犯赦免の国民運動がわき起こり、日本政府を動かし、さらに関係各国政府が釈放に同意したといふ歴史である。

 昭和三十一年三月に「最後のA級戦犯」といわれる、元軍務局長で陸軍中将の佐藤賢了氏が釈放されるまで、どのやうな経緯があったのか。いまや靖國神社批判の急先鋒の観がある朝日新聞の記事をめくりつつ、ふり返ってみたい。

 昭和二十六年九月、米サンフランシスコで日本を含む四十九カ国が対日平和条約に調印した。戦犯の赦免・減刑が具体的に動き出すのはその翌年の二十七年、最初はフィリピンである。


▽フィリピン死刑囚に涙する朝日新聞記者

 二十七年の年明け早々、来日した複数のフィリピン国会議員が「モンティンルパの収容所にゐる日本人戦犯百十三人は講和発効後、死刑は無期懲役になるなど、それぞれ減刑・赦免され、日本に送還されるだらう」との情報をもたらす。

 一月二十八日付の朝日新聞の朝刊は、特派員のモンティンルパ訪問記を載せてゐる。
「僕たちのためにと無理に多額の賠償を払ふやうなことがないやうに」と金網越しに語る若い死刑囚に、特派員は「罪は日本人全体が負ふべきだ」との思ひをかみしめ、溢れる涙をこらへつつ、「無事に帰国できるやう、日本に伝へます」と約束してゐる。

 二月になると、モンティンルパの戦犯、ニューギニアのマヌス島に収容されてゐたオーストラリアの戦犯が日本に送還されるやうになる。

 フィリピンの大統領官邸で開かれた国家最高会議では服役中の日本人戦犯の減刑・日本送還が提議され、朝日の特派員は、フィリピン首脳が「今後、死刑囚の処刑はあり得ない」と言明したとの情報を得る。キリノ大統領は「戦犯を日本に返したい」と言明する。

 フィリピンの日本人戦犯と一般市民との交流も盛んになる。

 三月十四日付の朝刊には、在比戦犯から留守家族への手紙百数十通が届いたといふ記事が載ってゐる。きっかけはモンティンルパの刑務所と東京都内のキリスト教系病院の看護婦たちとの文通であった。このころの朝日には、「私を身代はりに」などと、死刑囚を激励する手紙が殺到してゐた。


▽署名運動の中心に浄土真宗の関係者

 四月二十八日、アルゼンチン、オーストラリア、カナダ、フランス、メキシコ、ニュージーランド、パキスタン、英、米および日本との間に平和条約が正式に発効する。

 昭和天皇は独立回復のお喜びを「風さゆるみ冬は過ぎてまちにまちし八重桜咲く春となりけり」と詠はれた。

 講和発効を境に、巣鴨の戦犯赦免は急展開を見せる。日弁連など民間団体が赦免運動を巻き起こすのだ。

 四月中旬、A級戦犯弁護人は全戦犯の釈放を政府に要請し、BC級戦犯弁護人団がBC級戦犯釈放のための署名運動開始を決める。

 五月二日、昭和天皇親臨のもと新宿御苑で全国戦歿者追悼式が催され、三日には皇居前広場で独立記念式典が催された。

 天声人語は「独立式典に先立って慰霊するのが順序。結構だ」との見識を示してゐる。

 六月五日、戦犯者の助命、減刑、内地送還を嘆願する署名運動が全国一斉に始まった。東京では愛の運動東京都協議会を中心に東京留守家族会、戦犯受刑者世話会、キリスト教を含む各宗教団体が参加した。

 翌六日、日弁連は戦犯保釈特別委員会の第一回総会を開き、戦犯の全面赦免を要請すべきであると合意する。

 愛の運動東京都協議会が集めた戦犯助命の署名は七月には五百五十万人(東京五十万、関東五百万)になり、八月には一千万人を超える。

 終戦記念日を前に東京では「講和に取り残された戦犯を救はう」といふ署名運動が始まる。運動の中心には全日本華道婦人友愛連盟。その代表は大谷嬉子裏方(浄土真宗本願寺派)で、同連盟らは百万人の署名を集め、政府に陳情した。


▽トルーマン大統領が減刑保釈委員会設置

 国民の要望を受けて、日本政府がいよいよ重い腰を上げる。

 六月十一日、吉田首相は戦犯の赦免、減刑、仮出所などについて関係各国に了解を求めるやう、手続きを進めることを保利官房長官に指示した。

 同十六日、参議院厚生委員会は、服役中の戦犯を未復員者、特別未帰還者と同様に扱ひ、給料、扶養手当を支給する「未復員者給与法案の一部改正案」を、労農党と共産党をのぞく共同提案で参議院に提出する。

 各方面からの釈放要請のなか、八月上旬、保利官房長官が巣鴨を慰問する。

 数日後には木村法相が記者会見で、「政府はこれまで戦犯二百三十二人の仮出所を勧告した。今月中旬には勧告を終了する。赦免についても終戦記念日までに終はる予定。海外戦犯者三百十七名は内地送還に努力したい。戦犯家族救済には近く内閣に総合機関を発足させる」と語る。

 平和条約は戦犯赦免などに関して、裁判に関係した複数政府の決定と日本の勧告が必要だと定めてゐる。これに基づいて、政府は八月十五日、BC級戦犯全員の赦免を関係国に勧告したのだ。

 そのあとアメリカでは九月にトルーマン大統領が日本人戦犯の減刑保釈委員会設置を命じ、翌十月に同委員会は日本人戦犯の審査を開始する。


▽立太子の礼を機会にA級戦犯赦免を要請

 A級戦犯赦免のきっかけは、十一月十日の立太子の礼であった。政府はこれを機に、国内外の戦犯の赦免・減刑を関係各国に要請する。

 その後、アメリカ政府はA級戦犯の赦免・減刑について、極東裁判参加国と協議を開始した。

 同二十三日、A級戦犯を含む戦犯六百四十名が後楽園で野球見物を楽しんだ。初めての外出であった。

 しかし処刑者の遺家族の境遇は苦しかった。

 十二月四日の朝日の朝刊に「置き去りの戦犯遺家族」といふ記事が載ってゐる。

 全国千百世帯の戦犯遺家族は「援護法」の適用が受けられず、遺家族年末特別給与金などの「恩典」からも締め出されてゐる。フィリピンで処刑された陸軍中将の未亡人は「夫は責任を負って処刑された。厚かましいが罪は償はれたのではないか。しかし靖國神社にも祀っていただけない。政府は死人にまでむち打つつもりかしら」と述べた。

 記事は遺家族に同情的で、都職員に「本当にお気の毒」と語らせてゐる。

 しかし明るいニュースが飛び込んできた。十一月中旬にインドが、十二月上旬に台湾の国民政府が、A級戦犯釈放を欧米関係各国に先駆けて承認するのだ。

 A級戦犯の処刑命日に当たる十二月二十三日、愛の運動東京都協議会は戦争刑死者千百余柱を対象とする全国で初めての戦争刑死者慰霊祭を東京の築地本願寺で催した。

 同二十四日には、戦犯の仮出所など処遇を緩和するための戦犯処理法の改正案が、衆院法務委員会で最終決定の上、衆院本会議に上程可決された。


◇昭和二十八年 特赦
◇独立記念日でフィリピン大統領が決断

 昭和二十八年一月中旬、日弁連は政府に要望書を提出した。

「講和発効から二年目、いまなほ千百名に上る戦犯が内外で拘禁されてゐる。国会や政府、各種団体が赦免の努力を重ねたが、二十五人が仮出所したにすぎない。戦犯には無実の者や事実以上に重刑を課せられてゐる者も多い。関係各国とローマ法王庁に使節団を至急派遣し、平和条約一周年までに全戦犯釈放の実現を期するやう要望する」

 アメリカの壁は意外に厚かった。

 前年暮れ、戦犯の仮出所など処遇を緩和する戦犯処理法が日本の国会で成立し、一月に施行されたのに対して、同国政府は「戦犯の服役を有名無実化し、平和条約の趣旨に違反する」と正式に抗議したほどだ。

 日本は二月に「法律の運用に慎重を期す」と回答せざるを得なかった。

 しかし三月になると、アメリカ、イギリス、カナダ、フランス、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、パキスタンの八カ国にそれぞれ「A級戦犯」をふくむ戦犯の仮出所減刑に関する審査機構が設置される。下旬には八カ国の在京大使館・公使館が日本外務省に、「日本政府の勧告があれば、戦犯赦免について、個別に審査する」と通告する。

 いよいよ戦犯赦免が動き出したのだ。


▽妻子を殺された憎しみを越えて

 六月下旬、フィリピンからビッグ・ニュースがAP電で飛び込んできた。

 キリノ大統領が在比戦犯百十三名全員に対する特赦令に署名し、死刑囚は終身刑に減刑し、巣鴨に移管することを承認したといふのだ。七月四日のフィリピン独立記念日を機会とする大統領の特赦は秘密裡に進められてゐた。ところが地元紙がすっぱ抜き、取り急ぎ政府発表となった。

 二十七日朝、戦犯釈放を求める日本人五百万名の署名簿が空路、フィリピン外務省に届けられた。奇しくも特赦令発表はそれとほぼ同時だった。

 キリノ大統領は日本人のために妻子を殺され、日本人をいちばん赦しがたい立場にあった。ある日本人が戦犯赦免を願ひ出ると、大統領は涙を浮かべ、「多くの国民は日本人を赦せないと思ってゐる。しかしキリスト教精神で何とか赦さうとしてゐる」と答へた。

 大統領だけではない。戦犯の弁護人に任命された一群のフィリピン軍将校はしばしば同胞から投石や暴言を浴びた。それでも愛憎を越えて献身的に活動した。戦犯特赦はその結果であった。

 それから数日後、今度はマヌス島に収容されてゐる戦犯百六十五名の日本送還が、オーストラリア政府から正式に発表される。


▽現実からほど遠いソ連収容所訪問記

 在比、在豪戦犯の日本送還が完了すると、残されたのは在ソ、在中戦犯であった。

 七月下旬、大山郁夫参院議員がモスクワでモロトフ外相と会見し、戦犯釈放が話題になったのをきっかけに、在ソ戦犯や戦犯容疑者の留守家族たちが日本送還を求めて全国的な署名運動を展開する。

 八月下旬にはジュネーブの国連捕虜特別委員会で日本代表の有田八郎氏がソ連および中国大陸内の未帰還者とその状況を訴へ、引揚促進を国連加盟各国に強く呼びかけた。

 十月下旬の天声人語は「ロシア民族の変はらぬヒューマニティをこの機会に再認識させてほしい」と訴へるのだが、十月末にモスクワで始まった日ソ赤十字会談は思ふやうに進展しなかった。

 何しろ戦犯の数さへ揃はない。ソ連抑留中の日本人戦犯八百十名の送還が発表されたのは、十一月十四日のことだった。

 日赤代表団に同行してモスクワ郊外の収容所を訪問した特派員の訪問記が当時の朝日新聞に載ってゐる。

 だが、「食事は魚や肉も」「週に一度は映画も」といふ記事は、平均的な収容所像からはほど遠い。帰国者の話では、軍隊時代の階級を打破する「反軍闘争」が収容所では展開され、樺太の婦人たちはソ連人女囚と雑居の日々を送らされてゐたのである。


▽一番後に残された中国大陸抑留戦犯

 いよいよ最後に残ったのが中国大陸内に抑留された戦犯である。七月の時点で、中共赤十字社の代表は日赤の特赦依頼に対して、「中共の法律を守る日本人だけ引揚の援助をする。違反者は制裁を受けるべきだ」とあくまで冷淡だった。

 しかし十一月中旬、中共赤十字社が日本居留民の集団帰国打ち切りを通告してくると、日本側はあわてる。「相当数の日本人が旅順、大連地区に残ってゐる」からだ。

 打開の糸口は中共赤十字社長・李徳全女史の招待問題だったが、「竹のカーテン」を越えて正式の賓客を迎へることに外務省は消極的で、問題解決は年を越すことになる。

 年も押し詰まった十二月二十八日、フィリピンのキリノ大統領は、今度は巣鴨で服役中の同国関係全戦犯の即時釈放を命じる。任期残り三日の同大統領の決断であった。

 三十日、「死刑」から「無期」「釈放」と半年間に「運命の二段跳び」をした横山静雄元陸軍中将ら五十二人はそろって出所する。

 慰問に訪れた歌手の渡辺はま子さんが「モンティンルパの夜はふけて」を歌ふと、たちまち合唱がわき上がり、巣鴨の空を温かく揺さぶった、と記事にある。


◇昭和二十九年 恩給法改正
◇戦犯の「刑死」「獄死」を「公務死」と見なす

 昭和二十九年、日本国内では、戦犯への処遇が大きく様変はりする。


▽戦犯にも恩給を。国民の強い要望

 国会は前年夏、軍人恩給の復活を含む恩給法改正を圧倒的多数で決めたのだが、戦犯は対象外だった。ところが「戦犯にも恩給を」といふ国民の要望は強く、政府は二十九年三月に同法改正案を国会に提出、六月に成立させる。

 六月十八日の朝刊に、「恩給法改正」についてのほぼ全面を使った解説記事が載ってゐる。

 改正点は二点で、一つは従来、拘禁されてゐる戦犯は恩給権を行使できなかったが、戦犯が指定する家族に普通恩給が支給されるやうになったこと。二点目は拘禁中に刑死・獄死した戦犯の遺族に、公務扶助料に相当する額の扶助料が支給されるやうになったことである。

 第二点に関して記事は、左右両派社会党は「国民感情が許さない」と反対し、政府筋も「戦犯なるがゆゑにその家族を優遇する結果になるのは対外的にいかがなものか」と疑問視した。恩給局も戦犯者の刑死・獄死が在職中の公務死と見なせるか、恩給法の建前から問題視してゐる、と説明したうへで、「しかし国民多数の意思が戦犯者を殉難者と見るのは時の流れと見る向きもある」と解説してゐる。

 戦犯の「刑死」を「公務死」と見なすことは、やがて靖國神社の「戦犯合祀」へとつながっていく。最近の朝日新聞は「A級戦犯合祀」を事あるごとに批判する傾向にあるが、とりわけ五十年前の国民には自然な気持ちであり、当時の朝日新聞も無理解ではなかった。


▽洗脳教育を窺はせる中国共産党地区戦犯の赦免

 七月中旬、アメリカ政府が動き出す。日本政府がかねてBC級戦犯の全面釈放を要請したのに対して、「十年間の服役後、仮出所の資格を与へる」と回答してきたのだ。続いて、イギリスもBC級戦犯の仮出所条件の緩和について検討を始める。

 同月末には頑なな態度をとり続けてきた北京政府から、「戦犯釈放の用意がある」との李徳全・中共赤十字社長のメッセージが日赤本社などにもたらされる。

 条件は前年から持ち越しになってゐる李女史の招請問題だった。しかし、岡崎外相がどうしても承諾しない。北京政府と交渉してきた日赤、日中友好、平和連絡の三団体のうち、日赤以外の二団体の「政治性」を外相は容認できなかったらしい。

 けれども八月下旬、北京放送が「日本人戦犯四百十七名を寛大な精神で赦免した。彼らは侵略戦争に荷担し、中国人民を敵としてきたが、罪を認めたので、赦免する。彼らは喜び、感激してゐる」と放送すると、外務省の対応は変はり、三団体との協議が始まり、戦犯引揚が急展開する。

 九月上旬に北京放送は、赦免された日本人戦犯の座談会を放送した。戦犯たちは旧悪を懺悔し、謝罪するとともに戦争反対を叫び、赦免の感動を語った。さらに収容所の楽しい思ひ出や日中友好の決意を述べた。しかし帰国の喜びや希望はほとんどなく、「一生、中国に留まりたい」といふ発言さへあった、と朝日新聞はきはめて客観的に伝へてゐる。

 帰国は同下旬。台風一過の舞鶴に帰ってきた戦犯たちは、「偉大的祖国」と口々に中共を讃へたと記事にある。収容所で受けたであらう洗脳教育を彷彿とさせる。


▽「いい加減に帰して」と訴へる天声人語

 十月中旬、周恩来首相は「四百名を帰国させたが、まだ千名余り残ってゐる。寛大に、早く処理したい」と訪中議員団に語り、李・中共赤十字社長は同議員団に「蒋介石の軍隊に加はった戦犯も十一月か、来年一月頃には帰れるだらう」と語るのだが、結局は空手形に終はる。

 同下旬、東京裁判参加国政府からA級戦犯の畑俊六元元帥、岡敬純元海軍中将が病気療養を理由に仮出所を認められた数日後、李女史一行が鳴り物入りで来日する。天声人語は「これを機会にきれいさっぱりと同胞を帰してもらひたい。日本はいはば人質を握られてゐる形だ」と訴へた。

 この来日で、留守家族大会に出席した廖承志副団長は千人を超える日本人戦犯の名簿を日赤に提出し、「戦犯の絶対的大部分は近く寛大な処置を受ける」と挨拶して、関係者に期待を持たせたが、あくまで期待にすぎなかった。

 廖氏は帰国間際に衆院引揚特別委員会代表と懇談した際には、「来年一月までに送還するのは、昨年までの集団引揚で帰国できなかった一般居留民だけで、戦犯は含まれない」と言明するのだ。

 この年、戦犯赦免の交渉は思ったほどには前進しなかった。しかし北京政府以上に進展しなかったのはソ連で、天声人語は「もういい加減に帰してくれたって良いではないか」と国民のいらだちを代弁してゐる。

 時代の良識を示してゐた朝日新聞がその後、近隣諸国と付和雷同して、靖國神社批判を展開するやうになった背景には何があるのか?


◇昭和三十年 終戦十周年
◇アメリカほか関係国がA級戦犯「仮釈放」を許可

 三十年三月十九日の夕刊が、ひめゆり部隊の靖國神社合祀を伝へてゐる。

 悲惨をきはめた学徒兵の死を悼む国民から「靖國の社頭に」と望む声が強く上がってゐたのを受けて、厚生省が調査を重ね、八十八人を「軍属として戦死」と認定、合祀されることになったのだ。

 ひめゆり部隊の合祀に関連して、厚生省の職員は「やがて軍人、民間人を問はず祀られることにならう」と語り、「靖國神社では将来、戦犯刑死者や終戦時の自決者の合祀を考慮してゐます」と朝日の記事にあるが、政府・国会は恩給法など戦争犠牲者関係三法の改正によってこれを実体化させていく。

 恩給法の主な改正点は、旧軍人の恩給などを文官並みに引き上げること、終戦時に責任自決したものを公務死と見なすこと、戦犯服役期間を公務服役期間に準じて取り扱ひ恩給法を適用すること、などであった。

 改正にはもちろん反対もあった。

 大蔵省は「軍人恩給の急速な引き上げは予算編成を圧迫する」と反対したし、全労会議書記長は朝日の「論壇」欄でやはり財政論的な視点から「恩給亡国への途」と批判した。

 しかし、左翼陣営の反対でさへ「軍人は戦犯で、国民は被害者であるといふやうなひねくれた見方には反対」と明言するほどで、少なくとも当時は戦犯赦免、靖國神社合祀が国民が納得する自然の流れだったことがうかがへる。


▽拘禁満十年が条件。全戦犯釈放に希望

 六月になってA級戦犯の荒木貞夫元陸相・陸軍大将が、前年十月の畑俊六、岡敬純両氏に続いて病気療養のため、仮出所を許可された。

 七月には恩給法改正案成立を前にして、戦犯問題を処理する唯一の国内機関・中央更生保護審査会が終戦十周年の八月十五日を期して巣鴨の全戦犯を赦免するやう、アメリカなど関係諸国に要請することを決める。しかしアメリカは大量釈放には反対だった。

 アメリカがA級戦犯釈放に踏み切るのは八月下旬になってである。日米会談の席上、ダレス国務長官は重光外相に「A級戦犯釈放については関係各国と協議中だが、話し合ひは順調で、近く釈放されるだらう」と表明するのだ。

 橋本欣五郎元大政翼賛会総務・陸軍大佐、賀屋興宣元蔵相、鈴木貞一元企画院総裁・陸軍中将の三人が仮出所するのは九月中旬。

 これについて、同二十日の朝刊にほぼ全面を使った解説記事が載ってゐる。

 いままでは「病気療養」が理由だったが、今回は「無条件の仮出所」。必要な手続きを怠らなければ「釈放」と何ら変はらない。また、「拘禁十年完了」が仮出所の条件とされたことから、BC級戦犯にも、さらには三氏より逮捕が遅い、残る四人のA級戦犯にも明るい見通しが出てきた、と記事にある。

 実際、十二月には星野直樹元満洲国総務長官、さらに木戸幸一元内大臣、大島浩元駐独大使が、翌年三月には「最後のA級戦犯」佐藤賢了元軍務局長・陸軍中将が仮出所する。


▽誠意のないソ連。口先だけの北京政府

 依然、進まないのは、ソ連と北京政府の戦犯赦免であった。

 七月の日ソ会談でマリク全権が「刑期を終へた戦犯十六名を直ちに帰還させる」と通告すると、天声人語は「ほんの寸志みたいなもの」と指摘し、「在ソ戦犯をせめて巣鴨に移してほしい。残虐行為をしたわけでもないし、宣戦はソ連から布告された。それでゐて、米英やアジア諸国以上にきびしい幽囚を加へられてゐる」と訴へてゐる。

 だがソ連は赦免どころか、フルシチョフ第一書記が「日本政府が故意に日ソ交渉を引き延ばしてゐる」と逆に批判する始末で、交渉は停滞した。

 一方の北京政府も「居留民の帰国問題は満足に解決した」「戦犯釈放は国交正常化後に」といふ姿勢を崩さなかった。

 十月になって毛沢東主席は訪中議員団に、「過去は過去。問題は将来のことです」と語り、期待を持たせるのだが、周恩来首相は「戦犯問題は戦争終結の問題で、戦争状態が終結すればすぐに解決する」と釘を刺してゐる。

 けれども十一月に巣鴨のA級戦犯釈放が具体化するやうになると、アメリカの存在を多分に意識してゐるであらう毛主席は訪中団に対して、中国大陸に抑留されてゐる戦犯の過半数に当たる六百~七百人を帰国させると言明する。

 十二月には周首相が「きはめて早期に」と付け加へるのだが、年内に実現したのは中国人の夫をもつ民間人などの集団帰国と張作霖爆死事件の首謀者とされる河本大作元大佐ら四十柱の遺骨返還だけだったらしい。


▽いまも昔も戦犯を政治利用する中国共産党
 二十九年当時、周首相は「中国侵略に加はった戦犯については、すでに国民党が処理した」と言明してゐる。にもかかはらず北京政府は、早期に実現した独ソ国交回復を横目でにらみ、ソ連と共闘しながら、国交正常化を日本に迫り、結果を引き出すためになほ残されてゐる日本人居留民と戦犯を政治利用した。

 天声人語には「人質」とも表現されてゐる。

 冷戦期の政治手法はいまも使はれてゐる。北京政府にとって靖國神社、A級戦犯は日本批判の「人質」にほかならない。

 他方、東京裁判に参加したアメリカなど関係八カ国は紆余曲折を経ながらも、A級戦犯の赦免、釈放に合意した。その背後には日本国民が千万人単位で協力した署名運動があり、刑死者たちの靖國神社合祀には恩給法改正など日本政府の施策が前提としてある。

 昨年末、小泉首相は靖國神社首相参拝に対する近隣諸国の「わだかまり」解消をめざし、内閣官房長官の諮問会議「追悼・平和懇」を発足させた。「靖國神社に代はる」国立追悼墓地を建設することで中国や韓国をなだめようといふのだが、笑止の極みといはざるを得ない。

 最後に付け加へるが、数十年前は戦犯赦免にむしろ深い理解を示し、近年は掌を返したやうに靖國神社批判の急先鋒を演じてゐる朝日新聞とはいったい何者なのか。
タグ:A級戦犯
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「A級戦犯」東郷茂徳元外相は朝鮮陶工の子孫──「戦争犯罪者」の烙印を押して顧みない韓国政府 [A級戦犯]


以下は斎藤吉久メールマガジン(2013年4月24日)からの転載です


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 「A級戦犯」東郷茂徳元外相は朝鮮陶工の子孫
 ──「戦争犯罪者」の烙印を押して顧みない韓国政府
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 昨日、日本の国会議員168人が靖国神社を参拝したことについて、韓国外務省の趙泰永報道官は会見で強く非難しました。

「韓国政府は『絶対に譲らない』外交原則で対処する。靖国神社は第二次世界大戦の日本人の戦争犯罪者が合祀された場所で、戦争を美化する施設だ。日本当局は、靖国神社参拝による周辺諸国の国民への影響を配慮すべきだ」と主張したというのです。

 韓国政府の一官僚の発言ですから、とくに目くじらを立てるほどのものでもありませんが、曲解は正されなければなりません。靖国神社はあくまで戦死者を慰霊追悼する施設であって、戦争犯罪者を神として祀っているわけでも、戦争を美化する施設でもありません。

 たとえば、東郷茂徳という人がいます。朝鮮陶工の子孫で、日米開戦および終戦時は日本の外務大臣でした。そのため東京裁判で訴追され、禁錮20年の判決を受け、服役中に病没、靖国神社に祀られています。

 日米交渉に当たりながらも、開戦を回避できず、さらに終戦工作に力を尽くした彼に、韓国政府は無慈悲にも「戦争犯罪者」の烙印を押すのでしょうか?

 というわけで、平成17年2月に宗教専門紙に掲載された拙文を転載します。一部に加筆修正があります。新聞の編集方針に従って、歴史的仮名遣いで書かれています。



 小泉首相と盧武鉉(ノムヒョン)韓国大統領との首脳会談が昨年十二月、鹿児島県指宿(いぶすき)市で開かれた。自由貿易協定交渉の促進、日韓国交正常化四十周年の今年を「日韓友情年」と位置づける交流計画、北朝鮮問題などが話し合はれたと伝へられる。

 翌日、大統領は同県東市来町美山(苗代川)に薩摩焼の十四代宗家、韓国名誉総領事の沈寿官氏を訪ねた。

 緑の中に低い石垣と瓦を連ねた民家が並ぶ集落は、秀吉の時代、「茶碗戦争」といはれる文禄・慶長の役で島津勢の捕虜となり、日本に連れてこられた陶工たちが住み着いた歴史的土地柄で、沈氏はその子孫である。

 一昨年、ソウルでの大統領就任式に駆けつけた沈氏に、大統領は「大変だったな」と声をかけた。薩摩焼の里での再会では、異国の地で独自の発展を遂げた陶磁器の美しさに驚嘆し、「我々の誇り」と賞賛したといふ。


▽ 檀君を祀る神社

 沈氏によると、宝石や玉を産しない日本では、室町以後、陶磁を頂点とする美の体系が組み上げられた。

 折しも朝鮮に出兵した武将たちは、李朝の陶磁の見たこともない美しさに目を奪はれた。陶工たちが日本に連行されることを余儀なくされた理由はここにある。

 時代が変はり、日朝の和平が成立して、陶工たちの帰国が約束されたが、帰還者は集まらなかった。囚はれの身のはずが、名字帯刀までも許され、保護されてゐたからだ。故郷への思ひがなかったはずはないが、儒教社会の朝鮮に帰れば、工人といふ最下層の身分に戻される。帰りやうがなかった。

 苗代川にとどまった陶工たちは、丘の上に檀君を祀る神社を建て、はるか沖合に浮かぶ甑島の島影に望郷の心を慰めた。

「♪寝ても覚めても、神がどうして忘れられやう」

 秋祭りには故国の礼服を着て、歌ひ、舞ひ踊った。現在は神社本庁傘下の玉山神社(玉山宮)を、藩は庇護した。

 境内の大灯籠に、寄進者の名前が「朴寿勝」と刻まれてゐる。

 明治初期の陶芸家で敬神家。大東亜戦争開戦および終戦時の外相を務め、その後、二十八人の「A級戦犯」の一人として訴追され、東京裁判で禁固二十年の刑を受けて獄死した東郷茂彦元外相の父である。

 長男茂徳氏は明治十五年、苗代川に生まれた。

 東郷姓に変はるのは五歳の時。明治維新で藩の保護を失った上に、平民に編入されることになった朴家は、新時代を生き抜くため士族株を購入したのだ。

 明治天皇崩御の年、外交官試験合格。郷里では全村民を招待しての宴が一週間続いた。初任地は満洲の奉天。まもなく第一次大戦が始まる。やがて満洲の権益をめぐる日中間の溝が深まっていった。

 妻はベルリン在任中に知り合った独人エディータ。一人娘いせは夫婦で参宮したころに授かったことから命名されたといふ。

 ワシントンの日本大使館主席書記官時代、日本人移民排斥問題で日米関係は大きく緊張してゐた。盧溝橋事件の年に駐独大使。ナチスの絶頂期だった。信条的に相容れぬ東郷はベルリンを追はれた。次の任地はモスクワ。日独防共協定成立以後、日ソ関係は最悪の状況で、つひにはノモンハンで武力衝突する。

 外相としての初入閣のとき、玉山神社では健康と奮闘を祈る祈願祭が行はれ、境内は参列者であふれた。日米開戦への道を回避するために心血を注ぎ、非戦に努力することを約束しての入閣だった。あへて火中の栗を拾ったのだが、日米交渉が行き詰まり、戦争が始まる。

 大東亜省設置に反対して辞任。野に下ったとき、娘いせが結婚。相手の親戚筋の祖先は朝鮮に出兵した武将だった。歴史の妙である。


▽ 生家に建つ頌徳碑

 東京裁判でも戦ひは続いた。

 東郷氏は問ひかける。「日本が戦争を企てたと捉へるのは皮相な見方だ。戦争責任が侵略戦争の開始にあるのなら、日本だけが責任を問はれるべきだらうか」。

 なぜ日米は開戦したのか。日本は世界でもっとも海外依存度が高い。自由に利用できる資源を求めて大陸や南方に進出したのが戦争の原因だ。日米戦争は中国の資源と市場をめぐる争奪戦である。

 日米交渉はなぜ失敗したのか。米政府は日本の暗号電報をすべて傍受解読してゐた。ところが致命的な誤訳があった。日華事変解決のための最重要提案とされてゐた甲案は、英語訳のミスのため、不誠実な日本が米国を誤魔化すために交渉を続けてゐるといふ印象を与へてゐた。交渉決裂は当然だった。

 弁護側は正確な英訳を証拠として提出、受理されたが、判決は一顧だにせず、誤訳の電文をそのまま掲載した。

 全体的共同謀議と侵略戦争遂行の責任を問はれ、禁固二十年が宣告された。弁護に渾身の努力を傾けた米人ブレイクニーは判決後、決定の放棄を訴へたが、マッカーサーは却下した。

 獄中で歌作が始まる。その一首──。

 あまそそる高千穂の峯は雄々しくも遠つ昔の姿なりけり

 かつては玉山神社から高千穂の峰が見えたといふ。

 もう一首──。

 すめろぎに凡てを捧げまつらむと定めし心今も揺るがず

 獄死のあと、服役中のA級戦犯十五人は「ラジオで訃報を聞き、驚きました。御愁傷に察し申し上げます」との手紙を遺族に書き送った。葬儀は神式だった。

 生家の庭に建つ頌徳碑は、終戦時の内閣書記官長・迫水久常の筆になる。裏面の経歴は「終戦工作の主役を演じ、大業を完成し、国家と国民を救った」と結ばれてゐる。

 昨年暮れの日韓首脳会談後の記者会見で歴史問題についての質問が出たとき、盧大統領は「歴史を学ぶのは正しい理解のため」と答へた。だが、日韓の歴史を学ぶ良き教材であるはずの玉山神社にも、東郷氏の生家にも、足を向けることはなかった。(参考文献=萩原延壽『東郷茂徳』、東郷茂彦『祖父東郷茂徳の生涯』など)
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中国にとって日本人「戦犯」とは何か ──一貫して政治利用する中国共産党 [A級戦犯]

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中国にとって日本人「戦犯」とは何か
──一貫して政治利用する中国共産党
(「神社新報」平成17年7月11日号)◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「戦後60年」の今年(平成17年)、中国や韓国で「A級戦犯」(昭和殉難者)を祀る靖国神社への風当たりがいよいよ強まり、小泉首相の参拝を阻止する外交攻勢は、日本の政治家をも巻き込んで激しさを増している。

 しかし中国共産軍が「八路軍」と称して蒋介石の国府軍の指揮下にあったとはいえ、交戦国はあくまで国民党政府であったし、東京裁判後に政権を樹立した共産中国は「A級戦犯」との直接的接点はない。

 にもかかわらず多年にわたって多数の「戦犯」を拘束し、政治的に利用し、いまも政治的な批判を加えている。

 中国にとって「戦犯」とは何なのか。あの戦争とは何だったのか。三人の「戦犯」を通して考えてみたい。


▢ 「山西独立軍」を創設した城野宏
▢ 共産党軍と戦って「禁固18年」

 北京の西南、山西省。面積は日本とほぼ同じだが、石炭、石灰石、石膏など地下資源の埋蔵量は桁違いで、採鉱、製鉄、軍事産業から軽工業まであり、独立した経済が可能だった。

 日本の敗戦まで30年間、ここを支配していた、日本陸軍士官学校卒の知日派軍閥・閻錫山(えんしゃくざん)は、蒋介石とは対等で、共産党とは相容れなかった。

 終戦とほぼ同時に、国民党政府と共産党軍との内戦が始まった。このとき閻錫山軍と提携し、毛沢東軍と戦った多数の日本人たちがいた。

▽日本復興をにらみ

 中心人物の城野宏は大正2年、長崎の生まれ、東京帝国大学で中国語を学んだ。東大で中国語を学んだ第一号という。

 日中対立が激化していた当時、驚くべきことに、文官養成の最高機関たる東大法学部に中国語のできる中国研究者はいなかった。日本人の中国観は偏り、ときに正確な知識もなしに蔑視していた。

 城野は徴兵で中国に渡り、昭和16年、中華民国山西省政府の顧問補佐官として民政・警察・軍隊を主管、日本軍とともに共産軍と戦った。

 一緒に戦う中国人は敵の砲撃から身をもってかばい、「俺たちは友人なのに、なぜ戦わねばならないのか」といって泣いた。

 大東亜戦争終結。部隊幹部に日本の降伏を告げると、彼らは涙を流し、「いつまでもともに行動してくれ」と手を握った。

「祖国復興・山西独立」をスローガンに、山西独立軍が創設された。

 目的は、来るべき日本国家復興をにらみ、三国志よろしく蒋介石と毛沢東を競わせて、その中を絶ち、省内の重工業をおさえ、同省を日本の供給基地として確保することだった。

 共鳴した日本軍残留部隊1万5000に中国人兵士が結集、さらに閻錫山の軍隊六万と合作、毛沢東軍と対峙した。

 最終的には50万の兵力を誇ったが、蒋介石軍が共産党軍の勢いに押され、しかも降参するたびにそのまま共産党軍に変貌する。三国志の構想は崩れた。

 当時の読売新聞が、省都・太原を死守する日本人中将今村方策との会見記事(米シカゴ・トリビューン紙)の翻訳を載せている。今村は、共産軍の包囲下にあること4カ月、和平か抗戦かの岐路に立っていた。

「飛行機が数百機あれば敵の交通線を遮断できるが、残念ながらそれがない」

「中国共産軍が全中国を占領すれば、日本も必ず同じ運命をたどる」

 そばにいた城野少将が強くうなずいた──と記事にある。

▽国交正常化の模索

 やがて共産軍との直接対決、半年以上の攻防戦、市街戦の末、山西独立軍は24年4月に降参、4000人が「捕虜」になり、うち140人が太原監獄に収容された。

 最後まで刃向かった城野らは「罪が重い」(周恩来)とされ、監獄の待遇は悪かった。6畳ほどの部屋に20人ばかりが詰め込まれた。

 31年、城野は太原特別軍事法廷で「禁固18年」の刑を受ける。

 中国側は「反革命分子」として裁くか、「日本帝国主義の侵略分子」として裁くか、迷ったのではないか、と城野は推理する。「反革命分子」なら銃殺刑は免れない。

 けれども当時、中ソ対立から日本との国交正常化を模索していた中国は、「国民党に協力し、共産党・人民解放軍に銃を向けた」「日本帝国主義の侵略分子」と見なす「寛大な処理」をする。

「戦犯」の政治利用である。


▢「思想改造」された藤田茂師団長
▢ 供述書で「反天皇」闘争を宣言

 終戦間際、ソ連は突如、満洲に攻め込んだ。

 日本の降伏後、さらに中共軍、国府軍が進駐、両軍による内戦が展開され、ふたたび満洲は戦場と化し、暴行・略奪の悪夢が横行する。

 にわか作りの「偽八路軍」は日本人を襲撃し、中共軍は在留邦人を一網打尽に検挙、民衆裁判で多数の日本人を処刑した。その犠牲者は3500人ともいわれる。

 朝鮮戦争勃発直後の50(昭和25)年7月、スターリンの提案で、シベリアに抑留されていた満洲国政府指導者ら969人が毛沢東に引き渡された。「北京政府の主権が国際的に認められ、国連に承認されるため」(ソ連外相)の道具とされた。

 満洲の日本軍は陛下の御命令に従って自発的に武装解除したのであり、「捕虜」ではない。ところがソ連は「軍事捕虜」と位置づけ、抑留した。そして今度は「戦犯」の烙印が押された。

▽周恩来の深謀遠慮

「戦犯」は遼寧省・撫順戦犯管理所に収容された。

「民族協和」「王道楽土」のスローガンに従い、満洲では治外法権が撤廃され、日本人にも適用される法体系が整備され、日本人が入れる監獄も作られた。

 皮肉にも作った本人らが収容され、「思想改造」をうけた。のちに「天皇制軍国主義思想から抜け出し、新しい人間に生まれ変わった」と評価された。

「戦犯」管理は周恩来が指揮した。「戦犯の人格を尊重し、侮辱したり、殴ったりしてはいけない。死亡者、逃亡者を出してはならない」。

 過酷なシベリア抑留とは天と地。国際法に基づいて処遇され、城野の太原監獄とは違って、日本式の食事が一日三食与えられた。「一人ひとりの人格を尊重する。思想面から教育と改造をおこなう」が政策だった。

 50年秋、朝鮮戦争が激しさを増し、撫順が戦火にさらされた。「戦犯」たちは米国の勝利を確信していたが、中国人民解放軍の参戦で米軍は後退、やがて停戦。

「戦犯」たちは衝撃を受けた。「日本が勝てなかった米国に中国は事実上、勝利した」。

 このときから「戦犯」の態度が変わる。「献身的に世話する職員を尊敬するようにさえなった」というのだが、むしろ「あきらめと受容の心境」ではなかったか。

 翌51年9月、49カ国がサンフランシスコ平和条約に調印。翌年から連合国関係戦犯の赦免・減刑が具体的に動き出す。

 けれども冷戦まっただ中、条約に調印しなかったソ連との戦犯赦免交渉は遅れ、「竹のカーテン」を隔てた中国との交渉はさらに遅れた。

 朝鮮戦争の休戦後、撫順では「学習」が始まった。「ダモイ(帰国)」の夢は破れ、米軍による解放の希望も消えて、嵐のような「認罪」運動が起こった。「自白すれば罪は軽く」のチラシが貼られて、「逃げ場」はなくなった。

 明治22年広島生まれ、44年陸軍士官学校卒の第59師団長、藤田茂・陸軍中将は社会主義経済、マルクス経済学の勉強を始めた。

「日清・日露、第一次大戦は結局、自分の欲望を満たす侵略戦争だと知った」
「大東亜戦争の八紘一宇、聖戦にも疑問を持ち始めた」
「捕虜を殺し、過酷に使役した自分たちの軍国主義思想には良心のかけらもなかった」
「満洲事変は中国侵略戦争であることは明らかである」。

 54年1月、「戦犯」の罪状調査が本格的に始まった。審問と調査に基づいて起訴状が作られた。死刑70名、無期以下110名。

 しかし周恩来は命じた。「1人も死刑にしてはならない」。

 周恩来は未来を見据え、「侵略戦争で罪を犯した者が反省し、その体験を日本人に話すことは、中国共産党員が話すより効果的」と考えていた。

 56年4月、中国政府は寛大な「戦犯」処理の方針を発表した。「数年来の中日両国人民の友好発展を考慮する」「戦犯の大多数が改悛の情を示していることを考慮する」。

 同年六月、柳条湖に近い劇場を改修し、最高人民法院特別軍事法廷が開かれた。傍聴席が連日、1400人の中国人で埋まった。

▽人民を納得させる

 住民「屠殺」、糧食略奪、強姦など七件の罪状で起訴された藤田は、すべての「罪」を認め、最終陳述では天皇の「戦争責任」に言及し、供述書に「自分に罪行を犯させた裕仁に対し、心よりの憎悪と闘争を宣言する」と記した。

「極刑は免れない」と腹を決めていた藤田だが、判決は「禁固十八年」。

 日本に帰れる。「不幸のどん底から幸福の先端まで走った」。

 裁判長に促されて、「感謝しています。被害者の方々は納得されないでしょう」と感想を述べ、絶句した。

 しかし本当に「感謝」したのは中国側だった。「極刑」を望む人民を納得させるには「思想改造」の成果が必要だった。

 帰国した「戦犯」たちは「中国帰還者連絡会」を組織した。目的は「中国侵略に参加し、幾多の罪業を犯した者が人道的反省の上に立って侵略戦争に反対し、平和と日中友好に貢献する」ことだった。

 中帰連初代会長は藤田で、終生、その地位にあり、「中国が期待したとおりの後半生」を送ったといわれる。


▢ 満洲国最高官吏だった古海忠之
▢ 日本政府とのパイプ役を期待され釈放

 撫順に収容され、「財政金融面で中国人民を搾取した」などと「認罪」しながらも、藤田とは異なる後半生を送ったのは満洲国の高級官僚だった古海忠之である。

 明治33年、京都生まれ。三高、東大法学部を卒業後、大正13年、大蔵省に入省。昭和7年、満州国の財政・金融を日本の大蔵省で引き受けてほしいという要請を受け、10人ほどの官僚が同国政府に派遣されたうちの1人だった。

 満洲国の予算や政策は国務院総務庁次長の古海が立案した。事実上の総理だったという。

▽「池田さんによろしく」

 終戦直後の20年9月、新京でGPUに逮捕され、10カ所のラーゲリを転々とした。中国に身柄が引き渡されたのは、中国の意向が強く働いていた、と古海は見ている。

 日本と手を握っていかないと国の発展はない、と中国は考えていた。その点、蒋介石も毛沢東も同じで、そのため早々と日本総軍や関東軍の幹部たちを日本に帰した。

 ところが中国の一般大衆は納得しない。とくに関東軍が無謀を働いた華北では、日本の軍国主義者を建前として罰する必要が生じた。すでに日本軍の幹部は帰国していたため、ソ連抑留者から戦犯容疑者が引き渡された──というのである。

 奉天の軍事裁判では、古海をよく知りもしない満洲国皇帝の溥儀が古海の罪状を証言した。「軍国主義者」「帝国主義者」を処罰する裁判は映画「寛大なる裁判」に記録され、中国各地で放映された。

 古海は「禁固18年」の刑を受け、古海が満洲国国務院総務院主計処長時代に建てた撫順監獄に入れられた。

 あと半年の刑期を残して釈放後、3カ月間、中国国内の見学旅行に招待された。最高級のラシャの新品を着せられ、山西から長安、上海、蘇州、江州、北京へ。ホテルは最上の部屋。国賓待遇の大名旅行だった。

 撫順監獄での釈放式典のあとには周恩来との対面が待っていた。周恩来は日中関係改善を考え、中国の政策を詳細に説明した。

「池田(勇人)さんによろしく伝えてください。岸(信介)さんはちょっと困ります」

 古海にとって、岸は通産省と満洲時代の先輩、池田は後輩だった。

 帰国を前に、中国政府と日本関係者が送別会を開いた。その席で古海は表明した。

「刑期中、一所懸命、左翼の勉強して、帰国したら共産党に入党し、左翼革命を起こす使命を感じたこともあったが、いま帰国するに際して、その意思はサラサラございません」

 嫌な顔の一つも見せるだろう、と期待していたのだが、反応は違っていた。

 中国は日本政府や財界などとのパイプ役を期待していたのだ。それまで中国は日本の左翼との付き合いしかなかった。それでは日中友好は促進できない。中国は現実を理解していた。

 古海は満洲の民族協和は「見果てぬ夢」だと回顧する。

 相手の民族性を理解せずして協和はあり得ないが、日本人は他民族に対する感覚が鈍感で、ひとりよがり。しかも民族的な優越感と相まって裏目に出た。民族共和に努力しながら、善意がかえって理解されず、実を結ばなかった。

 満洲国の歴史は、侵略的事績と理想国家建設の事績との矛盾する事績が、縄のように絡み合っていた。しかし世界の列強が侵略的に植民地獲得に専念していたとき、満洲に理想国家をあえて創ろうとし、短期間であるにしても近代的国家の形を整え、急発展したことは、日本民族の誇りである──。

▽犯罪者といえない

 中国の「戦犯」裁判は正当とはいいがたい。シベリアの強制労働のような過酷さはないが、心理的な脅迫や暴力の中で、撫順の「戦犯」たちが針小棒大に「認罪」したことは想像に難くない。

 あの戦争をファシズム戦争と断ずるのは一方的すぎる。イタリア語の「ファッショ」は「結束」、「ファシスト」は「結束した同盟者の集まり」を意味するが、当時の日本は逆に「結束」を失い、戦争の泥沼にはまっていった。

 資本主義の最終段階に到達した日本帝国の指導者がファッショ化し、資本主義の矛盾を解決するために、中国「侵略」を始めたというような事実はない。満洲事変は日本政府の意思に反して、関東軍が引き起こしたのであった。

 日本の指導者は無能で、情勢を展開できなかったが、犯罪者ではない。侵略主義者でもない。好戦国が平和国に襲いかかったという一方的な見方はできない。

 天皇の名において「侵略」が正当化されたわけでもない。逆に天皇の精神的権威は「征服」の野望を許さなかった。

 しかし撫順の「戦犯」たちによる玉石混淆の供述書は、日本人自身による「侵略」戦争の重要な証言として北京に保管されている。

 中国「侵略」を日本の当事者が認め、中国が「寛大」に対処したとする「歴史」の証拠は、共産中国の対内的・対外的な歴史カードの「武器」となっている。

(参考文献=城野宏『祖国復興に戦った男たち』、古海忠之『忘れ得ぬ満州国』、新井利男、藤原彰編『侵略の証言』、満蒙同胞援護会編『満蒙終戦史』、葦津珍彦『明治維新と東洋の解放』など)


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「A級戦犯」松井石根が建立した興亜観音の60年 [A級戦犯]

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「A級戦犯」松井石根が建立した興亜観音の60年
(「神社新報」平成9年12月8日号から)
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 昭和12年の秋、昭和天皇はどのような思いで、新嘗祭を親祭になったのだろう。この年の7月、支那事変が勃発、政府の不拡大方針にもかかわらず、戦線は拡大した。

 翌年の歌会始で、天皇はこう詠まれた。

静かなる神のみそのの朝ぼらけ 世のありさまもかかれとぞ思ふ

「南京大虐殺」が起こったとされるのは、60年前の12年の暮れである。

 中支派遣軍司令官の松井石根大将は「昭和の聖将」ともいわれる人物だったらしい。孫文を敬愛し、中国文学に親しみ、「アジア人のアジア」を信条とした。

 南京入場後は戦陣に散った日中双方の将兵の御霊(みたま)を慰めたいと、血潮に染まった激戦地の土を集めさせた。これを持ち帰り、瀬戸焼にして高さ1丈の観音像を建立したのが、熱海・伊豆山の興亜観音である。

 松井氏は「縁起」に、「支那事変は友隣相撃ちて莫大の生命を喪滅す 実に千載の悲惨事なり……観音菩薩の像を建立し 此の功徳を以て永く怨親平等に回向し 諸人と倶に彼の観音力を念じ 東亜の大光明を仰がん事を祈る」と書いた。

 中国、朝鮮からも多くの寄進を受け、14年の冬、興亜観音は落慶した。

 退役した松井氏は文子夫人と2人、山麓に隠棲し、21年3月に巣鴨拘置所に収監されるまで、読経三昧の晩年を過ごした。

 東京裁判が始まり、松井氏は「南京虐殺」の責任者として、絞首刑の宣告を受ける。

 23年12月23日午前零時、松井氏ら「A級戦犯」7人の処刑が巣鴨拘置所で開始された。土肥原賢二、松井、東條英機、武藤章の4氏が絞首台の前に並ぶ。

「松井さん、万歳をやってください」と東條氏。「天皇陛下万歳──」。松井氏に3人が唱和した。

 東京裁判は昭和天皇の誕生日に起訴され、皇太子殿下(今上天皇)の誕生日に死刑が執行された。報復裁判といわれる所以である。

 不思議なことに、処刑の責任者であるH・ウォーカー少将は3年後の同じ12月23日の午前零時、朝鮮半島で事故死する。

 7人の遺体は横浜・久保山火葬場で荼毘に付され、遺骨の大部分は太平洋にばらまかれた。遺族は遺骨の引き取りを願ったが、許されなかった。

 だが、一部は密かに持ち出され、観音像の下に納められたともいう。

 34年、観音像の傍らに自然石の「七人之碑」が建てられた。題字を揮毫したのは、元首相の吉田茂氏である。裏面には7人が処刑の直前に手鎖のまま書いた署名が刻まれている。

「あとのことは頼むよ」という言葉を残して、松井氏が伊豆山を去ったあと、組織的な支援が期待できないなかで、3人の子供を育てながら、苦労して観音像を守ってきたのは、伊丹忍礼・妙真夫妻である。

 46年の冬、過激派が「七人之碑」に時限爆弾を仕掛けた。「碑」は吹き飛んだものの、隣に建つ「B・C級戦犯」の碑で導火線がショートし、観音像は大破を免れた。導火線は「南無妙法蓮華経」の「法」のところで切れていた。

「ドイツにいい接着剤があるというので、取り寄せて、母が破片のひとつひとつをつないだんです」

 両親の遺志を受け継ぎ、清貧の日々を送る三人姉妹の長女・妙徳さんが引き込まれそうな優しい微笑で語る。

 松井氏の辞世の歌に、次の2首がある。

天地も人も恨みず一すじに 無畏を念じて安らけくゆく

世の人に残さばやと思ふ言の葉は 自他平等に誠のこころ

 興亜観音は今日も、慈愛の眼差しを中国大陸に向けて、合掌している。(朝日新聞法廷記者団『東京裁判』、田中正明『〝南京虐殺〟の虚構』などを参照した)

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