SSブログ

北海道・寒地稲作に挑んだ人々──なぜ米を選んだのか? [稲作]

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
北海道・寒地稲作に挑んだ人々──なぜ米を選んだのか?
(「神社新報」平成8年7月15日)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「北海道の米なんて、美味しくないっすよ」。美唄生まれの青年が自嘲して笑う。

 ところが最近は必ずしもそうではない。都内のある米穀店主は、「ゆきひかりが出てから美味しくなりましたね。きらら395なんて、昔のに比べたら美味しい米ですよ」。

 北海道では年間35万トン(平成5年)の米が生産されている。新潟66万トン、秋田54万トン、山形40万トン、茨城38万トンに次いで、全国第5位の生産量を誇る。

 中国・揚子江中下流域または東南アジア島嶼地域が栽培起源だといわれる米が、夏の短い雪国でこれほど大量に生産されているというのは驚くべきことである。それどころか、日本の米どころはいまや北国ばかりだ。

 そもそもなぜ日本人は、栽培環境の厳しい最果ての地で困難なはずの稲作に挑んだのだろうか? 北限の稲作を見てみたい──そう思って(平成8年)6月中旬、稚内行きの飛行機に飛び乗った。


▢ 「米作日本一」に輝く篤農家
▢ 「日本最北の純米酒」の美味

 日本最北端の稚内から南へ85キロ。途中、美しい雪化粧の残る利尻富士を右手に眺め、東京の山手線2つ分がすっぽり入るというサロベツ原野を過ぎると、天塩郡遠別町にいたる。

 ここが最北端の米作地帯だ。

 遠別川の河畔には、西欧風の赤い屋根に煙突という、いかにも北海道を思わせる家屋と日本的な田園風景とが融合して広がる。

 涼風に揺れる青々とした稲の葉。これが北限の稲であり、同時に世界最北の稲なのか、と思うと言い知れぬ感動がこみ上げてくる。

 遠別で水田耕作の試みが始まったのは、明治30年という。

 中村亀吉氏が小川の水を利用して米作りを始めたのが最初で、安定した収穫が得られるようになったのは、34年に福井出身の南山仁太郎氏が3反歩の水田を試作してからだとされる(『遠別町史』)。

 大正末には「北方稲作は冒険」と危惧する多くの反対者を納得させて土功組合が結成され、灌漑用水路が完成。米作りは本格化し、北限の稲作が確立される。

 その後、「米作北限界の輝く勝利であり、本町稲作の歩みに偉大な金字塔を打ち立てた」(前掲町史)のは、石黒初明氏である。

 昭和24年、朝日新聞は創刊70周年の記念事業として、農林省後援による「米作日本一の表彰」を行った。3500名の篤農家のなかから技術賞と北海道ブロック1賞に輝いたのが石黒氏で、北海百十九号という品種で、反収509・7キロ(町史によると11俵)を成し遂げた。

「北緯44度7分のわが国水稲栽培の北限界でこの収穫は驚異に値する。寒冷地稲作の奨励技術を取り入れたことはいうまでもなく、防風林を設け、客土と深耕ならびに堆肥の増施によって知力増進を図った」と当時の朝日新聞は伝える。

 石黒氏は25年、28年、29年にも入賞した。

「北限稲作は“彼に学べ”という言葉さえ普及している」と町史に記されている。

 遠別神社宮司の猿子(ましこ)尚弘氏は、「小さいころのことでよく覚えていない」としながらも、「研究熱心で、人付き合いのいい、指導力のある人だった」と懐かしむ。

 最北の米を食べてみたい、と思って、町の米穀店を訪ねたが、「売っていない」という。

 あるのは本州産の「コシヒカリ」や「あきたこまち」だった。

「農協ならあるかも」というのでAコープに行ってみたが、ない。若い女性店員に文句を言ってみても始まらない。

「町で生産されるのはモチ米の『はくちょう』という品種だけなんです」

 年間3710トン(平成6年)の米はそのままホクレンに収められてしまうらしい。

 遠別産のモチ米100%で造るという酒を代わりに買った。「日本最北の純米酒」は一徹者の厳しさと優しさが感じられた。


▢ 開拓使は西欧型農業を導入
▢ 聖書教育を進めたクラーク

 北海道が現在のような米どころとなるには、ある人物の苦労と涙の物語を紐解かなければならないが、その前に北海道の近代史を振り返ってみる。

 明治2年、開拓使設置。蝦夷地は「北海道」と改称される。

 同年、神祇官では大國魂(おおくにたま)神、大那牟遅(おおなむち)神、少彦名(すくなひこな)神を「開拓三神」として祭典が挙行され、北海道総鎮守・札幌神社が創祀された。

 この年、奥羽・北海道は凶作で飢饉が発生している。

 翌3年、黒田清隆が開拓次官に就任。4年、勅許を得て、渡米する。

「人たるや、いまだかつて皇国にあるを聞かず、よって弘くこれを海外に求」めるためで、「宇宙を一周して皇国の至宝を模索」しようとの意気込みだった。

 開拓顧問に招かれたのは、現職のアメリカ農務局長、67歳のホーレス・ケプロンだった。

 ケプロンは当時、アメリカ東北部で主流の、家畜と畑作との混合農業、すなわち19世紀初頭にヨーロッパに興った合理的農業の導入を考える。

 稲作中心の伝統的な日本農業からの脱却を図ったのである。

 開拓使御雇トーマス・アンチセルは「ここに稲田を作らんとするは、もっとも迂なるを知るべし」とし、この報告を受けて、ケプロンは「米はその地積を占めること大にして、かつ費多し。しかして養分に至っては食に供する他の穀類に劣れり」との理由から「各農作物の栄養分をあげ、北海道移民の主作物を変更すべきことを論じた」(『新撰北海道史』『北海道農業発達史』など)のだった。

 明治9年には札幌農学校が設立される。教頭に就任したのが、アメリカのマサチューセッツ農科大学学長ウイリアム・クラークで、1年間の休職を取り、来日する。

 開校式で、黒田は北海道開拓には従来の慣習的な農業に代えて、欧米の科学的農業を摂取し、北海道のみならず日本全国に普及させることが必要だと訴えた。

 生徒に徳育をも施すようにとの黒田の要請に、クラークは「聖書を読ませよう」と答えた。キリスト教禁制が解かれたばかりの当時、官立の学校で聖書教育が実施されることに、黒田は反対したが、やがて黙認する。

「聖書のみが人心の奥底に抜くべからざる道念の基礎を置き得るものと信ずる」とするクラークの信念が勝ったからだろうか?

 クラークがもっとも心血を注いだのが、徳育だ。

 横浜で購入した聖書が何十冊と用意され、1冊ごとに学生の名前が書き込まれていた。

 健康のために食育と性欲とを制し、従順勤勉の習慣を養うべきだと論し、職員や学生に「アヘン及び酒類の用を厳禁すること」(禁酒禁煙の制約)を誓わせ、クラークみずから実践した。

 寮の食事は昼以外は洋食である。開拓使の方針に沿い、寮の規約には「米飯を食すべからず」と明記されていた。例外はライスカレーだけだった。

 祈祷と聖書購読が授業前の日課となった。布教というより「学生の徳性を長養せんには宗教に如くものなし」との信念からだったともいわれるが、クラークの人格に傾倒した学生たちは、師の帰国を前に「我儕(わなみ)は信ず、聖書は唯一直接天啓の書なることを」という「イエスを信じる者の契約」に署名し、受洗した(『北大百年史』『恵迪寮史』)。


▢ 「北海道稲作の父」中山久蔵
▢ 明治天皇行幸で感涙に咽ぶ

 開拓使は西欧農業の導入に腐心し、稲作農業の展開には関心を持たなかった。

 それどころではない。明治8年に入植が始まる屯田兵村では、稲作禁止令が通達され、開拓使を引き継いだ北海道庁では「せめて昼食はパン食にせよ」という米食禁止令が出された。

 北海道で稲作に挑んだのは民間人で、とくに明治初期、石狩地方で米作りに成功した中山久蔵の名を忘れることはできない。

 札幌郡広島町島松。176万(平成7年)の人口を抱え、いまや日本第5位の大都市に変貌した札幌の隣町。道央自動車道の騒音が遠くに聞こえるほかは静かな佇まいの旧街道沿いに「青年よ、大志を抱け」のクラークの碑が建つ。

 かたわらには「北海道稲作の父」の記念碑。穏やかな顔のレリーフは久蔵その人。

 隣の木造建築は国史跡旧島松駅逓所、久蔵の旧宅である。

 久蔵は文政11(1828)年、河内国生まれ。仙台藩士に仕えたのち、42歳の厄年を迎えて北海道永住を決意し、単身、無一物で島松(シママップ)に入植、6000坪の開墾を始めた。

 ケプロン来日と同じ、明治4年のことである。

 粗末な小屋に住み、寒さと飢えと孤独に耐え、6年には渡島地方から取り寄せた芒(のげ)の赤い赤毛種で1反歩の水田稲作を試みる。

 5月に蒔いた籾はなかなか発芽しない。風呂の湯を沸かし、昼夜、苗代に流し入れ、かたわらを流れる島松川の水を暖水路で温めて水田に流すなどの苦労と粘りで、同年秋、2・3石の収穫を得る。

 西欧型農業の導入のため、クラークが札幌農学校に着任したのは、その3年後である。

 その翌年、帰国するクラークが学生らと別れを惜しんだ駅逓が、久蔵の自宅だったとは、何という巡り合わせだろうか。

 10年、東京・上野で開催された内国勧業博覧会に、島松の米が出品され、久蔵の名は全国に知らしめられた。

 12年には自作の種籾100俵を石狩、空知、上川などの開拓民に無償配布、稲作に絶望する農民を勇気づけるとともに、稲作が道内各地に拡大していく。

 14年、明治天皇は供奉総員800名、数百頭の馬を引き連れて、奥羽・北海道を巡幸された。

 9月2日朝、札幌発御後、行在所となったのが久蔵宅で、昼食を召し上がり、小憩された。

『明治天皇紀』は「胆振(いぶり)国に入りて島松御昼餐所中山久蔵の家に到りたもう。館主御座所を新築し、供張はなはだ到る、よりてとくにその賜り物を厚くせしめたもう」と記すばかりだが、『広島町の歩み』などによると、親しく米作の御下問に接し、7年間に収穫した稲穂などを天覧に供した。

「金三百円並びに御紋付き三つ組銀盃」を賜った54歳の久蔵は「ひたすら大恩の有り難さを拝し、感涙に咽びたり」とある。

 御巡幸を記念して行在所に神社が創祀され、巡幸記念祭は現在も続けられている。

 御巡幸を区切りとして、開拓使は幕を閉じ、北海道庁に引き継がれる。当初は稲作を試みた農民が投獄されることさえあったが、民間人の成功を無視できなくなった道庁は「稲作の推進」を決め、26年には稲作試験場を開設し、公的な米作りが始まる。

 開拓使設立から四半世紀を経て、ようやく寒地稲作は公認されることになった。

 同26年の新嘗祭には久蔵が育てた新穀が供進された。36年には緑綬褒章を受章する。

 大正4年、米寿を迎えた久蔵は、「明治初頭、私は2キロの種籾で百万石の収穫を上げてみせると大言壮語した。この分だと存命中に百万石達成は堅い」と語ったが、実際、北海道の米生産は久蔵が93歳の天寿を全うした大正8年の翌年、百万石を超える。


▢ なぜ米作に固執したのか
▢ 駆け足で過ぎていく近代

 不作の年、畑作を勧める札幌農学校の教師を、久蔵は怒鳴り返したという。政府の消極的方針にもかかわらず、久蔵らはなぜ米作に固執したのか?

 作柄を記録する『広島村史』には、干害、半作、水害、凶作の文字が無情にも並ぶ。克服すべき困難は想像以上のものであったろう。

 なのに、である。

 民俗学者の柳田国男は考えた。

 日本人の祖先は米作適地を求め、長い歴史をかけて北に移住し、ついには稲作にもっとも不適な雪国にたどり着いた。「ぜひともそうせずには居られなかった、深い動機」があったからだ、と。

 深い動機とは何か、國學院大學の坪井洋文氏によれば、「稲に対する信仰と先祖への信仰」だという。

「非合理的執念ともいえるほどの努力の積み重ねによって、たとえば国策に反してまでも北海道の稲作成功に成功を収めた」(『稲作を選んだ日本人』)というのだ。

 開拓使は、秋には切り株に神棚を置き、黒木の鳥居を建てて、神祭を斎行した。また棒杭に祭神名を墨書して、神社とした(北海道教育大学・村田文江、季刊「悠久」平成5年4月号)。

 深い信仰の支えなしには厳しい開拓事業は進まなかったのだろう。しかし「信仰」の一言で説明するには、あまりに過酷といえないか。いや、それが信仰なのかも知れない。

 広島町は今年(平成8年)9月、市政が施行される。人口5万4000人(平成7年)。いまや札幌のベッドタウンだ。

 交通量が多く、中心街は高速道路のなかに家並みがあるような喧噪ぶり。他方、のヴ今日人口は1%にも満たず、農地は減少の一途だという。

「農業では食っていけない」

 これが今日、稲作農業の悲観論の最大の根拠だが、経済合理性だけなら遠別にまで稲作が北進しただろうか?

 そもそも私たちの祖先は、米作には必ずしも適さないこの日本列島で、米作りを進めただろうか?

「北海道は歴史がない」とはよく聞かれるセリフだが、北国の短い近代史が知らぬ間に駆け足で過ぎ行こうとしている。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

水田耕作の発生──水稲と陸稲は起源が異なる [稲作]

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
水田耕作の発生──水稲と陸稲は起源が異なる
(「神社新報」平成8年3月11日号)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 水田耕作という稲作技術は、いつ、どのようにして、生まれたのだろうか?

 集落全体に及ぶような灌漑施設など、大がかりな生産装置は、むしろ工業的とさえいえるが、農業発達史上、斬新にして革命的な技術である、この水田で栽培される作物は、むかしも今も、稲のほかにはほとんど見当たらない。

 なぜ稲という穀物だけが、畑では生産されないのか?

 もちろん、ほかの穀物や野菜と同じように、畑作物としての陸稲はあるが、水田耕作こそが米生産の基本であって、陸稲は亜流だと私たちは思い込んでいる。稲は水田で作るものだと、ほとんど無意識のうちに決めてかかっている。

 現代の日本人だけではない。わが国最古の史書である『日本書紀』は、稲を「水田種子(たなつもの)」と呼び、粟や稗などの「陸田種子(はたつもの)」と呼んで、はじめから区別している。

 なぜであろうか?

 水田稲作が陸稲栽培より歴史的に先んじたはずはない。とすれば──。


▢1 宝満神社の舟田(ふなだ)に酷似した南印ケララ州の天水田


 昨年(平成7年)5月中旬、記者は南インドのケララ州にいた。

 州名は「ココヤシの国」という意味だと説明されるほど、インドには珍しく緑豊かな風景が続く。広範に広がる稲田を目にすることもしばしばだ。

 ケララ州は経済水準が高く、カルカッタ(コルコタ)やボンベイ(ムンバイ)などと違って、スラムを見かけることはない。ヒンドゥー寺院とイスラムのモスクが隣接しているケースもあるほどで、「北インドのような宗教対立はない」とインド人から説明を受けた。

 インド随一ともいわれる教育レベルの高さは、海外の文物をいち早く導入してきた土地柄であることと無関係ではなさそうだ。

 州都カリカットはヴァスコ・ダ・ガマが1498年に到達したところで、ヨーロッパ人による「インド侵略」の原点でもある。

 ガマが上陸したという海岸はどこまでも続く砂浜だが、上陸地点には海岸で唯一の岩山が突き出ている。

「コブラが出る」と脅されながら登ると、高さ約10メートルの頂上は100坪ほどの平地で、ヒンドゥーの祠が鎮まっていた。

「フィッシャーマンズ・テンプル(漁師の寺)」という名の通り、漁民たちの信仰を集め、沖合に出た漁師にとっては灯台替わりの目印なのだという。

 ガマが上陸の目印にしたのもこの岩山であったのだろう。

 州北部ワイナッド自然保護地区にあるバンガローに二晩、泊まった。

 電気も水道もないが、象や鹿など、大型の野生動物を間近に観察できるのは感動的だ。

 2日目、「ヴァイヨールカヴ・テンプル」という小高い山の上のヒンドゥーの古刹に参詣した。山腹から麓まで水田が広がっていた。

 ただし、日本ならあるはずの水路はない。上から下へ、自然に流れ落ちるだけのようで、いちばん低い田に水がため池のようにたまる仕組みになっているらしい。一頭の牛が代掻きをしている。いわゆる踏耕である。

 麓にも古刹があり、信仰対象でもあるらしい大木が枝を広げ、根元には小さな祠が置かれていた。

 麓の寺のかたわらに別の稲田があった。驚いた。種子島の宝満神社の「舟田」にあまりにもそっくりだったからだ。

 畦も水路もない。乾季は畑に、雨が降れば稲田になるという天水田のようで、雨季を直前に控えて、播種の準備が終わったところらしい。

 案内してくれたインド人によると、この周辺は少数民族の住む「トライバル・エリア」だという。どんな文化を持つ民族なのか、詳しいことは分からない。

 車窓から見るかぎり、稲刈りをする女性はインド特有のサリーを着ていない。面白いことに、稲刈りは男はやらないらしい。

 容貌は北インドのアーリア系とも、南インドのドラヴィダ系とも違うようだ。

 それにしても、なぜ南インドのトライバル・エリアに、はるか遠く宝満神社の「舟田」そっくりの天水田がなければならないのか。南インドと種子島とは何か関連があるのだろうか?

 宝満神社では代々、赤米が栽培されてきた。

 京大の渡部忠世先生によると、この赤米は東南アジア島嶼地域にもっとも広く分布する「ジャバニカの種類にもっとも近い」(『稲の大地』)という。

 ジャヴァニカ(熱帯ジャポニカ)は水稲でも陸稲でもない水陸未文化稲だから、必ずしも水田で栽培されるわけではない。農業先進地のジャワ島でさえ、20世紀初頭まで稲田の2割までが天水田だった。

 宝満神社の赤米が栽培される「御田(おた)」はいまはまぎれもない水田だが、「御田の森」の横に「舟田」と呼ばれる天水田があり、ひところは紋付き袴で正装した社人(しゃにん)夫婦がお田植えのあと舞を舞った。

 近畿大学の野本寛一先生によると、これは東南アジア島嶼地域で見られる踏耕の名残だという。

 種子島ではいま天水田をほかで見かけることはないが、以前は珍しいものではなかったようだ。島中で赤米が栽培され、人による踏耕は明治の後半まで残っていたという。

 島を一周してみると、宝満神社のある南部を除いて、水田はほとんどない。

 赤米は水田ではなく、畑作物として栽培されてきたのだろう。昭和30年代まで、全島で陸稲が盛んに栽培されたという。

 となると、東南アジアを仲介地として南インドの少数民族と種子島とを結ぶ線がないとはいいきれない。

 その日の夕刻、「面白いものを見せてやろう」とインド人の係官が保護地区の奥深くに、私を誘った。

 樹高30メートルはあろうか、空に向かってまっすぐに伸びる大木、「トライバルのご神木」であった。根元にもうけられた祭壇には、なんと一対の小さな狛犬のようなものまで並んでいる。

 天水田、巨木信仰、狛犬──この文化的類似はいったい何だろうか?

 何千キロも離れている南インドと日本だが、両者をつないでいる何かが確かにありそうだ。


▢2 「海上の道」を経由したのは水田耕作ではない


 本居宣長は『古事記伝』にこう書いている。

「皇御国(すめらみくに)は、よろずの物もことも、異国々より優れるなかにも、稲はことに、いまにいたるまで、万国にすぐれて美しきは、神代より深きゆえんあることぞ」

 宣長は、天孫の降臨に際して、天照大神が「斎庭(ゆにわ)の穂の神勅(しんちょく)」を授けたという『日本書紀』の神代巻の記述を、あくまで信仰者として受け止めていたのだろう。

 これに対して、黒潮に乗り、「海上の道」をたどってきた「天つ神」が稲作文化をもたらした、と考えたのが、民俗学者の柳田国男である。晩年のことだった。

 柳田は、『稲の日本史』で、稲作文化の起源と日本民族のルーツについて、大胆に発言している。「こめ」と音の似た地名が「海上の道」沿いに分布していることが根拠だった。

 研究者の間では稲作の起源と伝来について、①朝鮮半島南部経由、②中国江南地方から直接伝来、③「海上の道」経由──の3説が主張されてきた。

 とくに考古学では、朝鮮半島経由説が有力で、柳田が唱えた「海上の道」説は長い間、相手にされなかった。

 しかし近年、「日本に伝来した稲にはジャポニカとジャヴァニカがあり、ジャヴァニカは黒潮に乗って伝来した」とする学説が現れるにおよんで、柳田説が俄然、脚光を浴びている。

 以前、真偽のほどを国立歴史民俗学博物館の佐原真先生に質問し、言下に否定されたことがある。

「われわれ考古学者がこれほど発掘調査をしているのに、『海上の道』説を裏付ける水田遺構は発見されていない」というのだ。

 柳田が注目した沖縄・久米島でさえ、水田遺構はまったく発見されていないらしい。

 ところが、である。

 静岡大学の佐藤洋一郎先生は、

「ジャヴァニカは陸稲的な稲だから、必ずしも水田を必要としない。水田遺構が発見されないからといって、『海上の道』説を否定することはできない」と反論する。

 言い方を変えれば、「海上の道」を経て、伝来したのは、ジャヴァニカという水陸未分化稲であって、水稲ではない。

 逆に、水田稲作は「海上の道」を通って伝来したのではなく、ほかのルートを伝ってきたのではないか?

 ジャポニカとジャヴァニカ、水稲と陸稲とでは、伝来の道筋も時代もおそらく異なるのであろう。

 柳田は、大正6年の講演で、

「わが大御門の御祖先が、はじめてこの島へご到着なされたときには、国内にはすでに幾多の先住民がいたと伝えられます」(『山人考』)と語っている。

 水陸未分化稲の存在を知らなかった柳田は、「天つ神」が水田稲作を携え、「海上の道」を経て、大八洲に到来したと単純に考えた。

 しかし「海上の道」をわたってきたのは水田稲作ではなく、陸稲または水陸未分化稲の農耕文化だったのだろう。


▢3 日本書紀はなぜ稲種を「水田種子」と記したのか


「海上の道」沿いに位置する神社は、もちろん種子島の宝満神社だけではない。

 野本先生によると、三重県礒部町にある伊勢神宮の別宮・伊雑宮もまた黒潮上の神社だという。

 同社の「御田植祭」は日本三大田植祭の1つとして有名だ。6月下旬、裸の「舟子」たちが神田で泥をかけ合い、「ゴンバウチワ」に描かれた宝珠を激しく奪い合う。

 泥かけはやはり東南アジア起源の踏耕の名残という。

 近世まで外宮の禰宜職を務めた礒部氏(度会氏)は古代から南伊勢を支配していた半農半漁の豪族のようだが、伊勢の信仰と東南アジアとのつながりがあるのだろうか?

 水田遺構としてもっとも有名な、静岡市にある登呂遺跡は、1800年前ごろの弥生後期の遺跡だといわれる。

 発見は昭和18年、発掘によって世や維持代の稲作がはじめて確認された意義は大きい。12軒の人家と2棟の倉庫、8町歩ほどの水田で、約60人の村が形成されていたらしい。

 水田跡には木の杭や矢板で補強された畦道や水路が整然と築かれ、高度な灌漑技術には驚嘆せざるを得ない。

 これほど高度な水田稲作の技術は、どのようにして生まれたのであろうか?

 中国・北宋の時代にまとめられた歴史書『資治通鑑』には、「耕して天に到る」とある。この記述を文字通り解釈すると、稲作民族の勤勉さが麓から山頂へと水田を切り開いたかのように考えられがちである。

 だが、渡部先生によると、間違いだという。

 古代の稲作は、①山岳・丘陵地の畑と山間小湿地、②小河川の河谷盆地、③河川中流域の扇状地、④海岸平野、⑤デルタ上部、⑥デルタ沖積地へと、逆に山から麓へ段階的に展開したというのである。

 とすれば、海岸に近い登呂の水田技術はかなり新しいものといえる。

 しかも地理的には黒潮上に位置づけられる登呂遺跡だが、「海上の道」沿いに水田遺構が発見されていない以上、ほかの伝来ルートを考えなくなくてはならない。

 歴史的に、はじめて発見された縄文水田は、福岡空港のそばの板付遺跡(縄文晩期、2300年前)で、昭和53年のことだが、やはり人工的な水路や井堰、取排水口など、高度な技術には目を見張るべきものがある。

 いま日本で最古の遺跡といわれるのは、岡山・美甘村の姫笹原遺跡(縄文中期中頃、4500年前)だが、発掘されていないので、「整備された水田」なのかどうか、は分からない。

 高度な水田耕作が行われていたとしたら、その技術はいつごろ、どこで生まれたのか?

 水田耕作が稲の栽培と同時に始まったのなら別だが、そんな事実はありそうにない。

 それなら『日本書紀』はなぜ稲種を「水田種子」と記しているのだろうか? まるで最初から水田栽培を前提にしているかのようだ。

 こうした記述は日本の稲作がかなり高度な栽培技術を持つ「天つ神」の渡来によって伝来した事実をはからずも暗示しているといえないか?

 水田耕作という画期的な技術は2000年前には早くも東北の北部まで伝播したらしい。『日本書紀』が成立する8世紀前後には、日本列島には100万町歩もの水田が開かれていたといわれる。現在の耕地の3分の1がこの時期に開かれていたことになる。

 短期のうちに水田稲作が浸透したのはなぜか? 焼き畑または天水田でジャヴァニカの、おそらくモチ種を栽培する「国つ神」の稲作文化が浸透していて、そこへジャポニカのうるち種を栽培する「天つ神」の高度な水田稲作が伝来したのではないか?

 そうとでも考えないと、驚異的な伝播は説明できそうにない。


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

モチ米を食べる民族──東アジアのモチ文化 [稲作]


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
モチ米を食べる民族──東アジアのモチ文化
(「神社新報」平成8年2月12日)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


米にはウルチ米とモチ米とがある。

日本人は、ふだんはウルチ米のご飯を食べているが、神祭りや冠婚葬祭の際の供物や儀礼食にはモチ米の強飯(こわめし。赤飯)が登場する。古代には強飯が上流社会の日常食であった時代もあったようだが、そのころの強飯ははたしてモチ米だったのか、それともウルチ米だったのだろうか。

最近では強飯というものにお目にかかることがめっきり少なくなってしまったが、日本には古来、「モチ米文化」というべきものがあることはまぎれもない事実だ。しかしこのモチ文化は、どうも日本だけでのものではないようだ。


▢ 戸外の七輪で蒸す
▢ タイ米強飯の美味

そのことを実感したのは、昨年(平成7年)6月、タイ北部を取材していたときだった。

「ゴハン、ゴハン」

ランプーン県マコック村にある、日本の援助団体の研修施設で、土木工事を請け負っている、近所の農家の人たち3人から、片言の日本語で昼食に誘われた。

東屋のテーブルに弁当箱から取り出されたのは、タイ米すなわちインディカ米の、なんと強飯だった。もちろんモチ米である。

1人が食べ方を見せてくれた。指先でちょっと丸めるようにして、一口分をつまむ。どこか日本のお寿司をにぎる要領に似ている。次に肉や野菜の煮込み料理に少しつけ、口に放り込む。これまた醤油を付けて握りを食べるやり方にそっくりだ。

食べてみて驚いた。まさに絶品なのである。

一昨年(平成6年)春の「平成の米騒動」のころ、

「パサパサして不味い」

と不評だったタイ米への偏見を見事に打ち砕く美味だった。同じインディカ米とは思えないほど、粘りのある豊かな味わいなのである。

思わず

「アローイ(美味しい)」

を連発する記者を、3人はただ笑って見つめている。それからというもの、昼時に顔を合わせると、かならず食事に誘われた。

数日後、ミャンマー(旧ビルマ)およびラオスとの国境に近い、チェンライ県メースワイ村で一軒の農家に泊まった。

何となく神社の社殿を思わせる高床式の家で、隣の家の納屋には千木や鰹木のようなものまである。

翌朝6時前、おばあさんが戸外で朝ご飯のしたくをする。

七輪のような移動式カマドに深底ナベをかけ、薪を燃やして湯を沸かす。一晩、水につけたモチ米を竹のザルに入れ、ナベのうえに置く。ホウロウの皿を裏返してフタにする。

1時間後、蒸し上がった強飯はまな板のうえに伸ばして適当に冷ましたあと、赤ん坊の頭大のかたまりにまとめて、おひつに移す。

「手間がかかる」強飯だが、北部タイの人たちはこのモチ米(カオ・ニャオ)の強飯が大好きで、子供も大人も三段重ねのステンレス製の弁当箱などに詰めて、学校や職場に持っていく。

タイの人たちは3年前(平成5年)、日本に緊急輸入されたようなウルチ米(カオ・チャオ)を、みんなが食べているわけではない。バンコクなどの都市住民やインテリは別にして、とくに北部ではモチ米を好んで食べる。

バンコクで働くチェンマイやチェンライの出身者たちに聞くと、決まって、

「私はモチ米が好きだ」

と答えたものだ。

そうした需要に応えてか、バンコクの「銀座通り」シロム・ロードの入り口にあるロビンソン・デパートの地下食品売り場には、できたてを売る、強飯のコーナーがあった。

▽ モチ米の地酒

ランプーン市のマーケットで、ラオ・カオを2瓶、買った。タイ特有の米焼酎だ。値段は1本40バーツ。

これは市販される政府公認の酒だが、北部の山岳地域には同じ焼酎ながら「税金を払っていない」私醸酒がある。原料はモチ米という。

チェンライの教育長が

「醸造現場に案内してやろう」

と約束してくれたが、ついに機会は得られなかった。

酒評論家の穂積忠彦氏は、ラベルもなく、瓶もまちまちな山岳民族の焼酎を、オートメ化され、商業的に売られる日本の酒とは違う「虚飾のひとかけらもない酒」(『焼酎学入門』)と賞賛する。

しかも、これが沖縄の泡盛、日本の焼酎のルーツと聞けば、親しみも湧く。


▢ バングラの少数民族
▢ 儀礼を司祭する王様

ミャンマーを隔てて、タイの西隣の国バングラデシュには、もとはモチ米を食べていたと思われるモンゴル系少数民族がいる。

同国南東部コックスバザール県チョコリア郡ハルバン村を訪れたのは、やはり昨年(平成7年)6月。ここには織物を得意とするラカイン族(アラカン族)の家が50戸ほどある。

「モドゥ(焼酎)を造っている家がある」

というので、案内してもらった。

数年前の水害で竹の橋が流され、車で目的地にたどり着くことはできない。裸足になって歩いて対岸に渡るのだが、川に沐浴と洗濯にやってきた女性たちの顔つきが日本人そっくりなのに驚いた。しかも美人ばかりだ。

ラカイン族はベンガル人とは違って、高床式の住居に住む。台所も高床のうえにあって、焼酎のもろみが入った素焼きの甕が7個、薄暗い台所に並んでいた。

「モチ米(ビン・チャウル)を醸したもろみを、アルミナベを3段に重ねた蒸留器で蒸留して酒にする」

と説明してくれたのは、村で唯一の小学校の、若い校長先生だ。

昨年(平成7年)2月に長野県の僧侶の寄附で学校が創立、約200人の生徒が7人の教師から学んでいる。

人々の主食はベンガル人と同じ米だが、宗教は上座部仏教。元来、チョコリアはビルマ系仏教圏で、スリランカからタイへ伝わった仏教がアラカン山脈を越えて伝来したという。

仏教儀礼以外に祭りらしいものはなく、田植えや収穫期に神々に酒を捧げるような習慣もないと聞いた。

バングラには、人口の1%未満だが、ほかにもモンゴル系少数民族が住む。

最大勢力のチャクマ族は農耕民族で仏教徒、ラカイン族以上に日本人に似る。モチ米を主食とし、モチ米の焼酎を飲む。王様は宗教儀礼を司祭する祭祀王でもあるらしい。

▽ チャクマ王国

チャクマ王国の版図は、かつてはベンガル地方に広範囲に広がっていたが、イスラムの侵入で父祖の地を追われた。不殺生の教えを守り、戦いを好まないチャクマはイスラムの敵ではなかった。50万人のうちのほとんどはいまはチッタゴン丘陵地帯に住む。

丘陵地帯の奥にあるカプタイ湖は、バングラ屈指の景勝地として知られる。東パキスタン時代に建設されたダムによって生まれた巨大な人造湖だが、乾季になると水位が下がった湖面からチャクマ族のかつての王宮が顔をのぞかせるそうだ。

その後、日本の援助で水力発電所が建設されたが、過激な反政府運動を展開する者もいるというので、現在は外国人の立ち入りが禁止されている。

帰り際、ハルバン小学校の校長先生がひとつまみの米を分けてくれた。焼酎の原料でもあるその米は、ウルチ米でもモチ米でもなく、雑多な品種の寄せ集めであった。

しかしそれは当然のことだった。品種の選抜という近代農業の概念を無意識のうちに押しつけていた自分を、記者は恥じた。

このときはモチ米を口にすることはできなかったけれども、数年前にチッタゴン市内のベンガル人の自宅で、モチ米料理をご馳走になったことがある。珍しいことに、赤米のモチ米で、日本の赤飯を思い起こさずにはいられなかった。

しかし、チッタゴン以外のベンガル人はモチ米文化とは無縁のところにいる。ジャポニカのウルチ米でさえ、「粘りがある」と敬遠し、とくにお金持ちは「腹持ちがいい」ジャポニカ米は「労働者の食べ物」と称して、食べたがらない。


▢ 東南アジアの「モチ稲栽培圏」
▢ 日本の「モチ文化」はどこから

モチ米を主食とする民族は東アジアのほかの国や地域にもたくさんいる。

第二次大戦時、山砲第33連隊の大隊副官としてインパール作戦に参加した下田利一氏によると、インド北東辺境のマニプル人はモチ米を珍重するという。

大戦末期、日本軍はチャンドラ・ボース率いるインド国民軍とともにビルマからインドへと攻め入った。マニプル州の州都インパールを88日間、包囲したものの、第15軍は壊滅、6万5千人が戦病死するという大敗北を喫する。下田氏の連隊も3千人の将兵のうち、「生還したのは3人に1人」だそうだ。

北東辺境は民族的にも言語的にも、平野部のインドとはだいぶ異なる独自の文化圏を形成しているようだ。下田氏は数年前、現地を再来して、「大歓迎を受けた」。もてなし料理のなかには「赤米のモチ米料理も含まれていた」らしい。

▽ 謎解きのカギ

京大の渡部忠世先生は、「モチ米が主作物として栽培され、主食として消費される特異な地域」が、「タイの北部と東北部、それとラオスを中心として、周辺のビルマ、中国、ベトナムに一部」に広がっていると想定して、「モチ稲栽培圏」と名付けた(『アジア稲作の系譜』)。

フィリピンやインドネシアでもモチ米が栽培されているようだが、モチ米文化の中心が北部タイで、西端に位置するのがバングラ、マニプルなのであろう。

民俗学者の柳田国男が日本の稲作の起源地として想定していたらしい、クメール人の領土近辺がモチ文化の中心で、照葉樹林文化のセンターと重なるのも興味深い。

他方、バングラあるいはインド以西はモチ米ではなくてウルチ米を食べるのだが、ウルチ米の「ウルチ」の語源は古代インドのサンスクリット語「ヴルヒ」だという説がある。

これに対して、「稲」の字はもともとモチ稲の意味だとする説もあるが、タイ語の「カオ」とも関係があるらしい。

モチ米は自然界には存在しないから、人間が農耕を通じて選抜したと考えるのが妥当だ。

渡部先生は、稲作以前の根栽農耕時代からの「『ねばい』食物への持続的執着姓」がモチ稲栽培圏を成立させた、と指摘しているが、国立民族学博物館の佐々木高明先生は、さらに古い採集・半栽培段階におけるネバネバしたイモなどへの嗜好性がモチ文化成立の原動力だと考えているらしい。

いずれにしても、モチ稲栽培圏の東端に位置する日本には、この文化はいつ、どこから、どのように伝わったものなのか? 昭和20年ごろは水稲の2割、現在も水稲の5%、陸稲のほとんどはモチ種というほど、根強いモチ米嗜好は、いつ始まったのだろうか?

種子島の宝満神社の御田で栽培されている赤米は、東南アジア起源で陸稲的なジャバニカ(熱帯ジャポニカ)の系統だそうだ。地元では「モチ米ではない」と否定するのだが、食べてみるとけっこう粘りけがある。

なにかモチ米の伝来を解くカギが隠されているのかも知れない。

静岡大学の佐藤洋一郎先生は、

「ウルチとモチの伝来については、まったく分かっていないが、私はモチ米は『海上の道』を通って伝来したのが濃厚だと考えている。東南アジアから伝来したジャバニカはモチ米で、揚子江流域から伝わったジャポニカはウルチ米だったのではないか」

と語る。

民俗学者の篠田統氏によると、釉薬や陶釜が普及する平安中期以前、日本人はいまのような煮飯ではなくて、強飯を食べていたというのだが、その強飯はウルチではなくてモチ米だったのではないか。蒸す調理法から煮る方法に変わって、モチ米からウルチへと嗜好が変化したのかも知れない。


▢ モチ米文化が消えていく北部タイ
▢ 経済発展、農村社会崩壊とともに

渡部先生によると、タイは、かつては全域がモチ稲栽培圏だったらしい。しかもかなり後代まで、ジャポニカが盛んに栽培されていた。

それが18世紀以後、「ウルチ稲を好む」民族が中央平原に進出し、さらにウルチ米の輸出が盛んになったことで、バンコクのある中央平原や東北部の一部ではモチ米がウルチ米に置き換えられたという。

したがって、北部はモチ文化が残された最後の地域だが、その文化が風前の灯火の状態にある。その原因は日本の経済進出とも無関係ではない。

チェンマイに工業団地ができて以降、多くの日本企業が進出した。雇用機会が増えたことを喜んでばかりはいられない。小作農は勤労者となり、人々の生活スタイルは確実に変わった。

チェンマイ=チェンライ間の朝夕のラッシュはものすごい。猛スピードで走り去るクルマやバイクはほとんどが日本製で、小学生のような子供がハンドルを握っていることもしばしばだ。

「毎日のように起こる交通事故とエイズで、若い命が奪われていく」

とチェンライの教育長が嘆いていた。

その言葉は日本を責めているわけでは決してないのだが、心が痛む。しかし同時に、不殺生や不邪淫の戒律に厳しい上座部仏教のこの国で、なぜなのか、という疑問が残る。

「教育者の責任も問われるのでは?」

と矛先を向けたら、

「教えているつもりだが……」

と急に弱気になってしまった。

食文化で大きく変わったことといえば、電気釜の普及だ。まだまだ高嶺の花だが、モチ米を蒸すより調理が簡単で、時間も節約できる。現金収入の増えた勤労世帯が飛びつくのは当然だ。

最新型のマイコン炊飯ジャーならモチ米の強飯もお手の物だろうが、電気釜はそうはいかない。しかもキロ8バーツのモチ米より、10バーツのウルチ米の方がずっと高級感がある。

こうしてウルチ米がモチ米を駆逐していく。

「最近はお祭りなどの日にしかモチ米を食べない」

という人も少なくないらしい。

一昔前はモチ米ばかりだった北部タイの米生産は、モチ米が6割にまで急減したそうだ。モチ米文化だけではない、農村それ自体が崩壊しようとしていると聞いた。

工業化や経済発展はタイの人たち自身が望んだことでもある。人々が近代生活を楽しんでいることも事実であろう。

しかし、タイの人たちの憧れであり続ける日本が、経済発展の果てに経験したのと、同じ農村社会の崩壊や伝統的価値体系の喪失というものを間近に見るのはしのびない。

タイの経済がさらに発展し、強飯も炊ける炊飯ジャーを人々が容易に手に入れられるようになれば、モチ米文化は失われずにすむかも知れないが、話はそう簡単にはいきそうにない。


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

揺れる「稲作の起源」──「海上の道」説は復権できるか [稲作]

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
揺れる「稲作の起源」──「海上の道」説は復権できるか
(「神社新報」平成7年7月10日)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「平城の米騒動」が新聞紙面をにぎわせていたのは昨年(平成6年)2、3月ころのことですが、喉もと過ぎれぱナントヤラで、いまでは話題にものぼりません。前年の凶作で供給量にかぎりのある国産米をもとめて、春先の早朝、白い息をはきながら長蛇の列をつくった消費者たち──あの騒ぎはいったい何だったのでしょう。

あのとき目の仇のようにされたのは、タイから緊急輸入された計75万トンの「インディカ米」です。

「パサパサしてまずい」
「臭い」

とさんざんに酷評されたあげく、あろうことか、「ゴミ」となって捨てられたタイ米は少なくありません。

味の好みや調理法は民族固有の文化そのもので、嗜好に合わない、というなら仕方がありませんが、タイ米の故郷・インドシナ地域が、もしかして日本の稲作文化および日本民族のルーツのひとつだとしたらどうでしょうか?


▢ 「アッサム・雲南説」を覆す考古学・遺伝学の新説が次々と


昭和29年10月のこと、農学者の安藤広太郎氏は昭和天皇に御進講申し上げました。

テーマは「日本の稲作の起源と発達」。日本に稲が自生したとは考えられない、稲の原産地はインドのみならずインドシナ、中国・広東地方である、日本の稲作は江南地方から九州およぴ南朝鮮に伝わり、紀元前1世紀ごろに始まった──。

これが安藤説でした。

それから40年、稲作の起源はいま大揺れに揺れているようです。

京都大学の渡部忠世氏は昭和60年代、稲はインド起源の熱帯植物だ、とする当時の定説を否定し、アッサム・雲南がアジア稲(オリザ・サティヴァ)の栽培起源で、水稲でも陸稲でもない「水陸未分化稲」として始まった、という仮説を立てました。

この地域は稲の遺伝的変貰がもっとも多様で、インディカ、ジャポニカに「分化」する以前の稲が存在する、アッサムでは野生種(オリザ・ペレニス)の群落も発見された、との説が主張されました。

雲南は日本文化のルーツとして一躍注目され、稲作の起源論争に終止符がうたれたものと考えられました。

ところが、ここ数年、「アッサム・雲南説」をくつがえす考古学や植物遺伝学上の新学説がつぎつぎと提示されているといわれます。

たとえば、静岡大学の佐藤洋一郎氏は、

「最終氷期が終わり、地球が温暖化に向かいつつあった7000〜8000年前、長江の中流、下流域でジャポニカ型の野生稲から栽培品種が分化した」

という説を立てています。

20年前、中国・浙江省で発見された世界最古の稲作遣跡・河姆渡(かぼと)遺跡は放射性同位元素C14による年代測定の結果、7000年前のものと確認されています。最近は湖南省の彭頭山遺跡など、さらに古い遺跡が長江中流域で認められました。

雲南よりも古く、もちろん日本で最古とされる岡山・美甘(みかも)村の姫笹原遺跡(縄文中期中頃、4500年前)よりはるかに古いことが分かります。

長江流域にはジャボニ力を特微づける「雑種弱勢遺伝子」が集中的に分布し、河姆渡遺跡からは野生稲が出土します。これが「中国起源説」の根拠です。

けれども、日本の稲作が揚子江流域から直接、九州へ、あるいは朝鮮半島を経由して伝来したとはいいきれないといいます。長江地域の稲が温帯ジャポニカ(いわゆるジャボニカ)であるのに対して、それとは遺伝的に異なる熱帯ジャボニカ(ジャヴァニカ)が日本の遺跡から出土するからです。

アジア栽培種を雑種不稔、つまり交配が可能かどうか、の関係から、「日本型(ジャポニカ)」と「インド型(インディカ)」のふたつの亜種に分類できることを見いだしたのは、九州大学の加藤茂苞(しげもと)氏で、昭和3年のことでした。

「ジャポニカ」というと日本在来種のように聞こえますが、そうではなく、中国北部、朝鮮、日本など高緯度地域に広く分布しています。また、ジャポニカは丸くて粘りがあり、インディカはパサパサした長粒種、と簡単にわりきれるほど、単純でもありません。インディカにも単粒種やモチ米があります。

種(しゅ)が異なるのだ、という見方さえあるほど、両者は遣伝的に異なります。最近ではDNA分析によって識別され、ジャポニカに近い中間型のジャヴァニカ(ブル稲)の存在も認識されるようになりました。ジャワ鳥を中心に東南アジア島嶼地域、ベトナム、中国南部など、広範囲に分布する陸稲的な稲です。

宮崎大学の宮崎宏志氏は平成2年夏、宮崎・えびの市の桑田遺跡(縄文時代晩期)でジャヴァニカに属する稲の細胞成分(プラント・オパール)を大量に発見しました。宮崎氏によると縄文〜平安時代の日本の水田跡から出土するプラント・オパールにはジャヴァニカが含まれているといいます。

それどころか、渡部氏によると、大正末期まで沖縄に分布した在来種にも含まれ、いまも種子島の宝満神社の神田(おた)で栽培されている赤米は「ブルの仲間」だそうです。2メートル近い草丈、太い桿(かん)、長い芒がジャポニカとは異なることを示しています。

ジャヴァニカはいつ、どういう経路で日本列島に伝わってきたのでしょうか。

「熱帯ジャポニカは中国からではなくて、南方から渡来した可能性が高い」。

そうおっしゃるのは佐藤氏です。日本に最初に伝来したのはジャヴァニカで、民俗学者の柳田国男のいう「海上の道」を伝わってきたというのです。


▢ 晩年、柳田国男が注目した地名に久米氏北上の「痕跡」


柳田が『海上の道』に

「南から北へ、小さな低い平たい島から、大きな高い島の方ヘ進み近よった」

と書いたのは昭和27年です。しかし、朝鮮半島南部から北部九州に稲が伝来したとする「北方説」が考古学などでは支配的で、「海上の道」説は相手にされませんでした。それがいま、復権の可能性がでてきたのです。

「日本人は如何にして渡って来たか」。

柳田は晩年、稲作文化の起源と稲作をもたらした民族のルーツに強い関心をもっていました。

大正10年にはじめて沖縄の地を踏み、沖縄に強い関心を寄せるようになった柳田は、宝貝をもとめて黒潮にのって島伝いに北上してきた種族が、日本列島に稲作文化および穀霊信仰をもたらした、と考えました。

その論拠として、柳田が着目したもののひとつに、地名があります。日本本土の海岸地方から沖縄諸島にかけて、久米(くめ)、酌(くみ)、古見(こみ)という名の米作適地が多く点在し、

「大和島根の方では……久米といふ氏族の次々と移住して行った昔の痕跡を留めている」

というのです。

久米氏は古くから天孫族と密接な関係をもっていたようで、『日本書紀』には瓊瓊杵尊が天磐戸(あまのいわと)を引きあけて天降られるときに、「大伴連の遠祖天忍日命(あまのおしひのみこと)」とともに従った「来目部(久米部)の遠祖天#[木偏に患]津(あめくしつ)大来目」が登場します。

また『古事記』によると、神武東征の折、天皇に随行したのが「久米直(あたえ)等の祖、大久米命」だといいます。大和国宇陀の兄宇迦斯(えうかし)を征討した際、久米部が歌ったとされる久米歌に舞をつけたのが、大嘗祭の久米舞です。

久米部は皇家の藩塀だったようです。『日本書紀』には、橿原宮で即位された神武天皇が翌神武2年、論功行賞により

「大来目をして畝傍山の西(にしのかた)の川辺の地に居らしめたもう」

と記されてあります。

橿原市久米町には、久米氏の祖神・遠祖をまつる久米御県神社が鎮座します。

また『日本書紀』垂仁27年の条には、

「是年、屯倉を来米邑に興(た)つ」

とあります。これが日本最古の屯倉のようです。

久米直に率いられた久米部は軍事をつかさどり、平時は農耕に従事していよやうですが、5世紀になると急速に勢力が衰えます。

一方、愛媛には明治中頃まで久米郡がありました。古くは久味国で、郡司には久米直が任じられました。鳥取にも久米郡があって、かつては国造の大祖大米足尼(すくね)石川の名をとって、「大米郡」と称しました。岡山県にはいまも久米郡があります。

さらに、

「八重山群鳥のまん中に、古見または久米という稲作の大きな根拠地があった」

と柳田は書いています。沖縄本島の西方百キロに浮かぶ久米島は「球美(くみ)島」と呼ばれ、稲作が盛んな「米の島」だったといいます。


▢ 黒潮の上流に見えてくる日本人の「内なるアジア」


沖繩からさらに黒潮をさかのぼると、東南アジア島嶼地域というよりもインドシナのクメールが浮かび上がってくるようです。柳田の『海上の道』にはクメール人に関する記述は見当たりませんが、柳田・安藤両氏による稲作史研究会ではしばしば言及されています。

いまカンボジア国内には900万人、タイ東部に200万人、ベトナム南部に100万人のクメール人が居住します。久米郎のクメはクマであって、隼人の一族・肥人族だとする説がありますが、カンボジア人は自分たちを「クマイ」と呼ぶそうです。

インドシナ半島には1〜6世紀半ばにかけて、扶南というクメール最古の王国がありました。神話によると、メコン・デルタに渡来した模跌国のバラモン・混填(こんてん)が若き女王柳葉(りょうよう)と結婚して扶南を建国した、といわれます。

フランスの歴史学者ジョルジュ・セデスによると、人々は一種の山岳信仰を信じ、「山の王」と称する国王が山上で国家の儀礼をつかさどりました。それで中国人は古クメール語の「山(プム)」を転写して「扶南(ビュナム)」とよんだ、といわれます。

扶南はインドシナ半島のほとんど全域に宗主権を行使しました。庶民は神社の社殿にも似た高床式の杭上家屋で暮らしていました。稲作が盛んで、海上交易によって高度なヒンドゥー文化が栄えたといいます。しかし、6世紀後半に衰退・滅亡し、代わって真臘国(アンコール王朝)が登場します。

インドシナに扶南が栄えていたころ、いまのベトナム中部にはチャンパ(林邑)という国がありました。日本の宮中に伝わる雅楽・林邑楽は僧仏哲によって日本に伝わり、東大寺開眼法要でも奏されました。古代、インドシナ半島と日本列島との関係は、現代の私たちが想像するより、ずっと近いのでしょう。

タイの北部・東北部およびラオスなど、東南アジアの比較的高緯度地域には広範囲な「モチ稲栽培圏」があり、人々は甑(こしき)で蒸したモチ米を常食としています。タイでウルチ米を食べるのはもっぱらお金持ちやバンコクなどの都市生活者のようです。15世紀以前はほとんど全域でモチ稲が栽培されていた、と渡部氏はいいます。

神道では須佐之男命(スサノオノミコト)の高天原での農耕に関する罪を「天津罪(あまつつみ)」としていますが、オーストラリアの歴史家デヴィッド・チャンドラーによると、古代クメール人は稲を汚す行為を罪と考えていたようです。また、日本人が食事を「ご飯」と呼ぶように、カンボジア語の「食べる(シイ・バアイ)」は、まさに米を食べることの意味なのだそうです。文化的に非常に近いものがあるということです。

「海上の道」説を立証する考古学上の発見はまだありませんが、

「ジャヴァニカは畑でも栽培されるから必ずしも水田遺構が発見される必要はない。今後の研究に期待しているんです」

と佐藤氏は明るく話します。扶南を建国するはるか以前に、古代クメール人たちが日本列島に稲作を伝え、古代日本の建国に参加したことが実証される日が意外に近い将来、やってくるかもしれません。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

宝満神社のお田植祭 ──赤米をつくる種子島の神社 [稲作]

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
宝満神社のお田植祭
──赤米をつくる種子島の神社
(「神社新報」平成7年7月10日号)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 お祭りの前日、松原堅二宮司はいかにも慌ただしげに、1トン・トラックに乗ってあらわれました。

「神主だけじゃ食っていけないもんだから、色々やってます」

 仕事の合間をみて、お田植えの苗を用意するなど、明日にひかえた祭典の準備で、猫の手も借りたいという心境のようです。

 宝満神社は種子島の南端・南種子町茎永(くきなが)に鎮まっています。神武天皇の御母・玉依姫(たまよりひめ)を祭神とし、古くから神田で赤米が「神の米」として栽培されてきました。茎永の地名は赤米の草丈が高いところに由来するともいわれます。

 宮司家に伝わる『宝満宮紀』などによると、玉依姫は鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)とともに島の北端の浦田で農耕をはじめられ、その後、茎永に遷られたことになっています。赤米は、かつては全島で栽培されていたといわれます。

 翌日の午前九時ごろ、「今年はとくべつ寒い」と口々にいいながら、地域の男性ばかり20人が集まってきました。お田植にさきだって神事が斎行される御田の森は、女人禁制の聖地なのです。

 こんもりとした丘のうえにあるハマガシの神木の根元に、赤米の早苗2束のほか甘酒や赤米の玄米などを供えて、豊作を祈願します。甘酒は古くは赤米でつくられたようです。

 神事のあと、まず神前に供えられた稲苗が御田に植えられます。

♪ 峰の若松さがり枝……

 畦で古老が太鼓に合わせて田植歌を歌うなか、オセマチという1・8アールほどの神田の一角に、氏子たちは手際よく赤米を植えていきます。

 今年は新6年生の男子15人もおそろいの白のハッビ姿で参加しました。4、5年前、体験教育の一環で茎永小学校の児童に参加してもらうため、祭日は4月5日から3日に変更されたといいます。

 お田植えが引き続き、神田脇のお畑(はた)で直会(なおらい)か始まります。お下がりの甘酒をまわし飲みし、芋焼酎を酌みかわします。赤米のおにぎり、竹の子やツワブキの煮シメも欠かせません。おにぎりは笹に似たシャニギの葉に包まれています。

 明治の後半までは苗代づくりや田植の前に馬による踏耕(ホイトウ)が行われました。京都大学の渡部忠世教授によると、ホイトウは「まぎれもなく東南アジアの諸島嶼あるいはマレー世界ともいうぺき熱帯空間の技術」で、「南西諸島沿いに北上した別の稲作技術要素の残存」だそうです。

 8、9年前までは舟田と呼ぶ天水田で正装した社人(しゃにん)夫婦によるお田植舞が舞われました。種子島はもともと水田の少ない畑の島ですが、同社の舟田はここの赤米が水陸未分化米であることの裏づけでもあるようです。

 さらに近畿大学の野本寛一教授によると、「鹿児島・日置八幡のセットベ、高知・室戸の八幡宮の泥練り、伊勢・伊雑宮の泥かけと黒潮沿いに踏耕の名残をとどめる祭りがある。宝満神社の社人の舞は黒潮上にある飛び石のひとつであり、『海上の道』の証左といえる」そうです。

 ところがいまは肝心の社人のなり手がいません。耕耘機の導入でホイトウの馬はいなくなりました。時代の流れとともに祭りの形態は変わっていきます。とくに「今年は新入生が3人しかいない」と赤米伝承の将来を危惧する声も聞かれました。

 けれども、「祭りの心は子供たちに伝はっている」と、氏子総代を務める元同町助役の柳田幸雄さんは自信たっぷりです。「祭りは形式ではない。赤米を神さまの米として次の世代に伝えていくことが大切」といいきっています。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

竈神はどこへ──土間もヘッツイも姿を消したが [稲作]

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
竈神はどこへ──土間もヘッツイも姿を消したが
(「神社新報」平成7年4月10日号)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 前回は電気釜を取り上げた。

 東芝社内で「お釜の正吾」の異名をとったという、開発者の山田正吾さんは洗濯機、冷蔵庫、餅つき器、電子レンジ、ミキサーなど多くの家電製品の開発に携わった人で、日本の家電の歴史そのものといっていい。

 ところが「電化製品の普及は女性の家事労働の軽減になると信じていた」というフェミニストはいま自責の念にとらわれている。

「日本人の生活様式が変わり、女性の社会進出が進んだ反面、古き良き時代の文化が忘れられている。いまの女性は和服も1人で着られない。日本の女性を堕落させた張本人は私かも知れない」。

 台所の近代化とともに姿を消したかに見えるものがもうひとつある。それは女性が祭祀を司った竈神(かまどがみ)である。竈の神様はどこへ行ってしまったのか──。


▢ 竈に神が宿っていた
▢ オカマサマの民間信仰


 東京の東北端・葛飾区水元──。

 中川(古利根川)と江戸川に囲まれ、平安期から室町にかけては「葛西御厨(かさいみくりや)」、江戸期は天領で、ついこの間まで「葛西三万石」といわれる東京の穀倉地帯であった。

「2・26事件があった次の年」の1月、21歳の大川アグリさんは川向かいの八木郷村(いまの三郷市)から水元飯塚に嫁いできた。大川家は元禄期にさかのぼる旧家で、「水田が一町五反」「若い衆が3人」いた。

「霜が降りて寒い日」だった。

「早く起きて、毛布にくるまってリヤカーで髪結いに行ってね、そのあと氏神様とご先祖様のお墓に『お世話になりました』と挨拶に行ったんです」

 午後に花婿の栄三さんがやってきて、お披露目する。これが「ムコ入り」で、一足先に栄三さんが帰ったあと、アグリさんがタクシーに乗って「ヨメ入り」したのは夕方だった。

 県立松戸高女出の才媛を一目見ようと、「大勢、人が集まってきてね、恥ずかしかったです」。

 白無垢に角隠しのアグリさんは菅笠を頭にかざしながら家の門をくぐり、まず勝手口から母屋の釜屋に入る。広い土間に泥を固めた2つの釜が並んでいた。

 暗い土間に赤々と燃える釜は人知を越えた魔力を感じさせた。5升炊きの飯炊き窯を置く左側の竈の正面の柱に祀られたオカマサマに

「よろしくお願いします」

 と拝礼。そのあとあらためて表玄関から入り直して、座敷で親族総出の祝言が幕を開けた。

 翌日から朝早く起きてワラを燃やし、自家製のつぶし麦を三分入れたイギリメシ3升を竈で炊く、嫁の生活がいよいよ始まった。


▽ オカマサマの団子が楽しみ


 家族の楽しみの1つは新暦10月31日の「オカマサマの日」だった。

 オカマサマは翌年の縁談を決めるため、神無月には出雲に旅立たれるのだという。そこでこの日の夜にしん粉団子と野菜の煮物をオカマサマにお供えするのである。

 午後、石臼でひいた3升の米の粉を熱湯でこね、蒸籠でひとふかししたあと、照りと粘りが出るように若い衆が杵と臼でついた。

 お供え用の団子は「鉄砲玉ぐらいの大きさ」に丸める。

「オカマサマの団子は数ばかりといってね、小さいのを31個、作るんですよ」

 団子は重箱に三角に盛り、うえに小豆のさらし餡をのせた。

 黒いお膳にワラを編んだ釜敷きを敷き、そのうえに重箱を置く。里芋と人参の煮物を二皿、左右に置き、モロコシでこしらえた箸を2膳、添えた。

「神様のことは男の人の仕事というのが家例」で、大川家では栄三さんがオカマサマに灯明をともし、団子をお供えして拝礼した。儀礼が終わると家族みんなで団子を食べた。

「餡ころ餅なんか滅多に食べられないですから、みんな大喜びでした」

 1か月後の11月30日にオカマサマは出雲の国からお帰りになる。「帰りオカマ」ともいう。この日は30個のしん粉団子を供えた。

 翌日12月1日は「ハナヨゴレ」。お供えの団子や残った団子をお汁粉にして神棚と仏前に供え、そのあと家族でお汁粉をいただいた。

 あまりに美味しいので、子供たちが鼻を汚しながら食べるために、その名がついたと説明されている。

 オカマサマは農耕の神でもあった。

 5月下旬、近所や親戚の人たちも手伝って、田植えが始まる。田植えの終わるサナブリの日はご馳走で祝った。

 栄三さんは菅笠をかぶり、早苗3把を12に分けて、オカマサマに並べて供え、拝礼した。苗は暮れのすす払いまでそのままにしておかれる。

 柳田民俗学ではサナブリはサノボリで、田の神が田から上るのだと説明している。


▢ 失われたムラの民俗
▢ 引き継がれて家の神に


 竈神を祀るという民間信仰は、全国的なものである。

 竈の近くに神棚を設け、神札や幣束を納めるのが一般的だが、陸前ではカマオトコとよぶ恐ろしい顔のお面を柱に祀る。畿内では普段は使わない大釜のうえに松や榊を供える。

 地域によっては荒神様、土公神などと呼ぶ。

 民俗学者の郷田(坪井)洋文によれば、「いずれも火の神と農耕神の二面を持っている」。祭祀の司祭者は主婦であった。

 荒神とオカマサマを併祀する例も、岩手県気仙郡、福島県伊達郡、栃木県下都賀郡、長野県小県郡など、全国に及ぶ。とくに東日本に多いようだ。

 郷田は、もともと荒神とオカマサマは「異なった2種の信仰」で、「オカマサマがかつては日本全土にオカマの神として信仰され」、のちに火の神である荒神が田の神の「オカマサマの信仰と習合」したと説明する。

 葛飾では最近まで、年配の人たちは「東京に行ってくる」と表現したという。隅田川の東はかつては下総の国であり、葛飾が東京市に編入されたのは昭和7年である。

 戦後の耕地整理が完了し、中川にかかる飯塚橋が完成して、飯塚の渡しがなくなる昭和30年ごろから急速な宅地化が進む。いまでは水田を見出すことすら難しくなった。

 大川家でも委託生産する3反歩の水田が残るだけである。

 ご飯を炊くのも戦後はヘッツイの竈からタイル張りで三連式の文化釜に、20年前にはガス釜に取って代わり、5年ほど前には竈もなくなった。

 いまオカマサマは台所の片隅の神棚に祀られている。出雲への送り迎えは10年ぐらい前から行われていない。

 水元飯塚の氏神、冨士神社の森山高暉宮司は、

「竈土大神の御神札の頒布数が極端に減ったわけではないが、台所の神様になったり、神棚に納められているのがほとんどでしょう。ヘッツイのある家は見かけないし、
荒神様の祭りも最近は聞かないですね」と語る。

 農村の近代化、都会化のよってオカマサマを祀るムラの民俗は廃れてしまったのか、といえば、それほど単純ではないらしい。

 郷田は、田の神であるオカマサマが山(田)→家、家→山(田)の去来信仰を次第に失い、同時に田から屋敷へ、庭から竈へ、さらに納戸、屋根裏へと祀り場所を移動させて、固定した家の神が成立することを指摘した。

 また、神奈川大学の宮川登教授(民俗学)は、

「竈というモノが消滅したとしても、霊的な意識は消滅しないで、別なかたちで引き継がれるんです」と指摘する。

 実際、田の神であり、火の神であったオカマサマは家の神として引き継がれているようだ。


▢ 発生する都市の民俗
▢ いま釜炊きがブーム


 家庭からは姿を消したかに見える竈と飯炊き釜はじつはまだ廃れていない。それどころか、「ブームになりつつある」。

 道具街として知られる東京・浅草合羽橋の釜専門店・釜浅商店の店先にはさすがに泥のヘッツイはないものの、昔懐かしいツバ釜を乗せた薪用の組立釜が並んでいる。

「暮れが近づくと、幼稚園のイベント用などに組立式の竈が売れますよ。秋に雑誌で紹介されてからは、毎日のように問い合わせがあります。ツバ釜はこだわりを持つお寿司屋さんなどのほかに、最近は毎日何本か、かならず一般の人が買い求めていきます。ヘッツイがなくてもガスコンロ用の台がありますから」

 道具街のそばの矢先稲荷神社(高島邦夫宮司)では、組立式の竈を使った餅つき大会が毎年1月下旬に境内で催される。

「20年ぐらい前からですかね、町内会の青年部が始めたんです。ひと頃は600人ぐらいの子供が集まって賑やかでしたよ」

 境内で餅つき大会をする神社はむしろ都会で増えているらしい。ムラの民俗は失われていくけれども、それに代わって新しい都市の民俗が生まれているといえないだろうか。


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

異説・日本に「野生稲」──在野の植物学者・直良信夫の人と生涯 [稲作]

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
異説・日本に「野生稲」──在野の植物学者・直良信夫の人と生涯
(「神社新報」平成7年2月13日)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 日本列島で稲作が始まったのは、いつのころからなのだろうか?

 以前は縄文時代晩期(紀元前650〜300年)とされていた稲作の起源が年々塗り替えられ、昨年(平成6年)3月には縄文時代中期中頃(約4500年前)の土器片から稲の細胞成分が検出された、という発表に驚かされた。

 けれどもその稲のルーツは、といえば、アジア大陸から栽培種が伝来したというのが学問上の定説である。日本列島には栽培種と関係のある野生種が見当たらないからである。

 ところが、いまから1万年前以上前の、氷期と間氷期が繰り返されていた洪積世末期に野生の稲が存在していた、と “異端の学説”を唱える考古学がたった1人だが、いる。事実だとすれば、日本で独自に稲作が起こった、という可能性も出てくるのだが──。(文中敬称略)


▢ 洪積世末期地層から「稲籾の化石」出土


 40年前の昭和29年12月19日、当時、早稲田大学講師だった直良信夫(なおら・のぶお)は自宅近くでとんでもない発見をする。東京・中野の工事現場で掘り起こされた洪積世の地層から「野生の稲籾の化石」を採集したのである。

 その日、結核で武蔵野療養園に入院していた長女・美恵子を見舞った帰り道、獅子舞で知られる江古田3丁目の氷川神社の前の道を歩いていた。東福寺を過ぎ、江古田川にかかる東橋の近くまで来たとき、都営アパートの建設予定地で地質調査のために櫓が組まれ、畑地が掘り返されているのが見えた。

 地下2メートルの試掘孔からイラモミやカラマツなど寒系植物の化石が多数、掘り出されている。洪積世最末期の「江古田植物化石層」に違いない。危うく埋め戻されるところであった。

 直良は現場主任にペコペコ頭を下げ、ネズミ色の土をリンゴ箱数個に詰めてリヤカーで自宅に持ち帰った。

 すると、土の塊から化石化した稲籾がたった1個だが、現れた。

「小穂現長7・3ミリ、幅2・6ミリ、厚さ1・4ミリ」

「芒(ぼう。のげ)はその基部で破損」していたが、有芒種で、「面はなめらかで光沢のある漆黒色をしていた」。

 外見では、栽培種のジャポニカとインディカ種の中間のようであった。

 洪積世から稲の化石が発見されたのは、世界にも例を見ない。平均気温がいまよりも10度も低い寒冷な時代、ゾウやシカが日本列島をのし歩いていた時代に、熱帯産といわれる野生の稲がたくましく生きていたのである。

 直良は「熱いものを感じた」。

 江古田川・妙正寺川流域に広がる「江古田植物化石層」は、昭和12年春、水道工事の際に発見された。

 関東ロームの高台を削った谷底には、白い粘土層が厚さ2メートルも積もっている。1万6千〜1万1千年前、最終氷河期の針葉樹の化石を含んでいて、洪積世と沖積世を区切る重要な基準値層となっている。

 命名したのは共同で研究した京大の三木茂だが、間違いなく直良の発見である。

 直良は脱稿していた『日本古代農業発達史』に野生稲の発見を加筆し、昭和31年に発表している。

 だが、江古田植物化石層の発見は早くから認知されているのに対して、野生稲の化石については今日なおほとんど顧みられていない。

 旧石器時代に野生稲が存在したとする破天荒な発見をした直良とは、いかなる人物だったのか。


▢ 「明石原人」を発見。エリート研究者は冷たく


 直良(旧姓村本)は明治35年元旦、大分・臼杵の「恥ずかしいような極貧の農家」に生まれた。先祖は対馬宗家の流れを汲む庄屋だが、零落して祖父のとき稲葉5万石の藩士村本家に養子入りし、明治維新でふたたび没落した。

 8人兄弟の2番目、「冷や飯食い」「犬の糞」といわれる次男坊だった。2キロ離れた小学校に行く道すがら、天秤棒を担いで畑の野菜を売って歩き、下校時は畑の肥料にする馬糞を拾いながら帰った。

 父親は

「貧乏人の子は自分の名さえ書ければいい」

 が口癖で、直良は尋常高等小学校の高等科1年が終わると、口減らしのため東京の伯母のところに養子に出された。

 しかし伯母との折り合いが悪く、卒業とともに帰郷し、活版所に丁稚奉公した。その後、本屋に勤めたが、学問への情熱は募るばかりで、ふたたび上京する。

 恩師の家に下宿し、昼は給仕として働き、夜は岩倉鉄道学校で勉強した。猛勉強の結果、2年生のときに特待生となった。

 卒業後、農商務省臨時窒素研究所に勤めたが、肺結核で退職する。「両肺が水を吸った海綿のように腐り」かけていた。

 大正12年の秋、無念の思いで帰郷する途中、姫路に途中下車する。

 姫路には憧れの思い出の人がいた。寺の離れでこっそり勉強していた小学生の彼を、

「しっかり勉強して世界一偉い人になるのよ」

 と励ましてくれた奈良女子師範出のうら若い美貌の女性教師・直良音である。縁とは不思議なもので、翌年春、彼は10歳年上の音と結婚し、直良姓を名乗る。

 明石に移ると、医者が止めるのも聞かず、直良は鍬を手に、毎日、海岸を歩き回った。ゾウやシカの化石が数多く発見されると知ったからだ。独学で考古学の研究が始まった。

 数年間に石器や骨器10数点を発見、昭和6年4月18日には決定的な発見をする。西八木海岸の崩壊した洪積層土のなかから数十万年前のものと思われる人間の腰骨が出てきたのだ。

「身体の震えがしばし止まらなかった」。

 日本列島最古の人類「明石原人」の発見である。

 これで年来、主張してきた旧石器時代人の存在が証明できる。しかし在野の研究者に対する官学出のエリート研究者の目は冷たかった。

「日本に縄文時代より古い人骨があるはずがない」

「投身者の遺骨だろう」

「直良は山師だ」

 学歴のない悲しさである。直良は線路の土手で、「男泣きに泣いた」。

 やりきれない思いで7年の秋、直良は明石を引き払う。

 明石原人が世に認められるようになったのは、終戦後の23年で、発見から18年後のことであった。しかしそのとき人骨は不運にも20年5月25日の東京大空襲で住まいもろとも灰燼に帰していた。

「東京で勉強したい」

 上京した直良は早稲田大学理工学部の徳永重康の助手となり、19年に徳永が他界すると講師となった。戦争で教壇に立つ人が少なくなっていたのである。

 戦争は直良の生活を一変させた。空襲で焼け出されたうえに、妻が肋膜で倒れたのである。終戦後も困窮の日々は続いた。妻の腰巻きを洗い、庭の畑を耕し、大学で講義する。身体の休まるときはなかった。

 栄養不足でヒビやアカギレが全身を覆い、体調は思わしくない。正月の祝い物が買えず、自転車を売って年を越したこともある。

 そのうえ長女が結核を患い、妻は高血圧で寝たきりとなった。

 俸給だけではやっていけない。原稿書きで補おうと、睡眠時間は4時間に減らされた。

 そんな生活のなかで、稲の野生種は発見された。

 32年に『日本古代農業発達史』で文学博士の学位を取得する。病床の妻や子は涙を流して喜んだ。

 35年には助教授を飛び越して教授となる。だが、それもつかの間、40年には最大の理解者であった音が他界する。


▢ 最初で最後のナチュラリスト。著作60冊以上、論文400編


 葛生原人の発見、釣り針のルーツの解明、ニホンオオカミの消滅の謎解きなど、直良の業績は数知れない。活躍した分野は古生物学、考古学、地史学など、多方面にわたる。

 著作は60冊以上、論文は400編。珠玉のエッセイを残し、スケッチは芸術の域に達している。

 事実から真理を追究する、あくなき探究心は心を打つものがある。1人の研究者が一生涯のうちによくもこれほどの量の研究ができるものだと感心させられる。

 国立歴史民俗博物館の春成秀爾は、「学問の分化が進んでいった時代に育った最初で最後の偉大なナチュラリスト・博物学者」と直良を評価する。しかしすんなりとその価値が認められたのは、江古田植物化石層ぐらいである。

 直良は後年こう語っている。

「人より少し先を走ると誉めそやしてくれるが、あまりに先を走ると馬鹿にされ、キチガイ扱いされる」

 直良は少なくとも10年、生まれるのが早すぎたようだ。

 晩年、直良は音の故郷である、神々の聖地・出雲で暮らし、昭和60年、挫折と栄光の83年の生涯を閉じた。

 発見された「野生稲」の化石はいま、ある博物館の倉庫に眠っているらしい。

 直良が子供とフナやクチボソを釣った妙正寺川は改修されてコンクリートの川となり、道路や橋なども昔日の面影はない。

 江古田植物化石層からその後、「野生稲」は発見されていない。


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

餅なし正月の謎──畑作民が伝える国つ神の儀礼 [稲作]

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
餅なし正月の謎──畑作民が伝える国つ神の儀礼
(「神社新報」平成7年1月16日)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「いちばん大変だったのは昭和41年ごろですね。
 正月用に1人2キロのモチ米の配給があって、お客さんはみな『餅にしてくれ』っていうもんだから、暮れの25日の晩から30日の朝まで不眠不休で、のし餅を作って配達して、忙しかったですよ。
 正月三が日は疲れ果ててもうバタンキューってなもんです。家族みんな寝正月でした」

 と笑うのは、東京・北青山の米穀店主・宮崎昭次さん(59)。アルバイトを6人雇い、1週間足らずで約1千軒分、150俵の餅をついたという。

 日本の正月といえば餅──食を通じて日本文化の深層を探るシリーズ「続・クイモノロジー」第1回のテーマは餅である。


▢ 餅を忌避して400年
▢ 東京の旧家の新年

 かつて1日は夕方から始まった。年が明けるのは大晦日の夕方で、このとき神棚に餅を供え、翌朝、雑煮にして食べたのが雑煮餅の始まりという。

 餅は稲の象徴であり、神そのものである。餅を食べることは神霊を体内に鎮め、生命を再生させる儀礼であった。

 ところが、正月に餅をつき、神仏に供え、食べることを禁忌する一族や地域もある。「餅なし正月」または「イモ正月」という。

 たとえば東京にもある──。

 といったら、「ほお、地方によって違うんでしょうね」と宮崎さんが目を丸くした。

「足立郡四ッ谷(よつや)村といえる一里、しわす28日に家ごとにもちいを搗きて、翌年正月元日の雑煮はさらなり。もちいを喰うこと深くいましめ、慎みて……」(雀庵長房著『さえずり草』)

「四ッ谷村」はいまの足立区青井2丁目あたり。

「当村の開墾は文禄慶長のころのことにて、次郎左衞門、権右衛門、庄兵衛などいう者、開けりという」(『新編武蔵風土記』)

 萱や葦の生い茂る荒野を新田開発したのが、鶴飼、市川、高橋兄、高橋弟の4軒だったので、「四ツ家(よつや)」の地名が生まれた。「足立区」の成立前は、綾瀬村次郎左衞門新田と呼ばれた。

 数十軒の本家・分家がいまも餅なし正月の風習を守っているという。

「30日にお飾りを下げたあとは、正月11日に蔵開きするまで、餅は食べないんです」

 そう教えてくれたのは、鶴飼友之助さん(80)。次郎左衞門を祖とする鶴飼家の分家でもっとも古い12代目の当主である。

 餅なし正月の禁忌は厳しい。

「かくせざれば火の神の祟りありとてなりとぞ」。隣村に引っ越した子孫が雑煮で正月を祝ったところ、火事になり、「一村いよいよ厳かに慎むことなりとぞ」と雀庵は江戸末期に書いている。

「親戚の菓子店から暮れに大福餅をもらい、子供が口に入れたのを慌ててはき出させた、なんていうこともありました。どうしても食べたい場合は、垣根の外で食べましたよ」


▢ 祖先は南部藩の家臣
▢ 新田開発の苦労を偲んで


 厳格な習わしが4世紀にもわたって守られてきた背景には、何があるのか?

 一説には、将軍が鷹狩りにやってきた折りに失火したため、村中お咎めを受けたのが始まりともいう。

 しかし友之助さんは否定する。しかも、『地誌書上(かきあげ)』では次郎左衛門は「相州鎌倉の人」とあるが、「先祖は南部藩の家臣だった」という。

 友之助さんは「10年前の夏、青森の八戸に行ったとき、鶴飼の姓が多いのに気がついた」。電話帳で調べたら65軒。本家は20キロ離れた岩手県軽米町にあることが分かり、さっそくレンタカーで訪ねた。

 県境にある軽米は、山間の町である。久慈平岳(くじひらだけ)西麓の上館地区には鶴飼という集落がある。久慈平岳は戦前は鶴飼嶽と呼んだらしい。

 町全体で鶴飼姓が40軒。

「本家といわれる家は床の間だけで3間もある、大きな酪農家で、四ツ家の鶴飼よりも古い家柄でした」

 主は、

「200年前に火災で記録を失いましたが、もともとは南部藩の家臣です」

「先祖がお供をして京都に行ったという話は聞いていますが、そのあとどうなったか……」

 と話したという。

 近世、南部藩の藩祖は26代南部信直(のぶなお。1546〜99)。南部氏の一族・石川高信の長男で、本家南部晴政の養子。世継晴継早世のあと、天正10(1582)年に南部氏を継ぐ。お家騒動のさなかで、統制力は弱く、九戸、八戸、津軽は半独立状態にあった。

 天正17年に津軽の大浦氏が独立。翌18年、信直は小田原で秀吉に拝謁して7郡の本領を安堵したのもつかの間、19年、九戸の乱が起こる。葛西・大崎一揆などに乗じて、九戸政実が反旗を翻したのである。

 小軽米左衛門佐久俊と蛇口蔵人吉広を除いて、九戸地方の地士は九戸氏と結んだ。信直は秀吉に援助を求め、みずから上洛する。秀吉は10万の大軍を派遣。九戸城は落城し、降参した一族郎党5000人が「なで切り」にされた。九戸氏ほか九戸党の多くは滅亡した。

 そのころ軽米は軽米兵右エ門の館があり、上館には工藤右馬助の館があったとされる。ともに九戸の乱で滅んだ。

「鶴飼はもとは隠し念仏の里で、上館地区のなかで独立した集落を形成していました」

 と上館・八坂神社の一條善人宮司。次郎左衞門が信直方だったか、九戸方だったかは、分からない。

 乱のあと、信直は病をおして上洛し、文禄慶長の役に参じて、肥前名護屋に赴く。

 家康が江戸に入府したのは天正18(1590)年のことである。当時の江戸は未開の原野または沼地で、利根川の氾濫で洪水が頻発していた。家康は河川改修と新田開発に取り組んだ。

 次郎左衞門新田が開かれたのもこのころである。

「ちょうど時代が変わるときです。いまさら岩手に帰っても、と考えて、先祖は刀を捨て、江戸にとどまったらしい。この辺は1メートル掘ると貝殻ばかりです。正月の餅どころではなかったはずで、苦労を忘れないために、餅を食べないようになっのでしょう」

 と友之助さん。

 鶴飼本家に残る慶長19(1614)年の年貢割付状は「下田壱町五反三歩」
について仕付はしたが、米ができないため貢租を免除する、と記している。

 新田開発を保護奨励するため、一定期間、年貢諸役が免除されるのが常だったとはいえ、その苦労がしのばれる。


▢ 焼き畑民的農耕文化の痕跡
▢ 風化するサトとヤマの民俗


 友之助さん宅では、正月に、雑煮餅の代わりにヤツガシラの芋雑煮を食べる。ヤツガシラを餅のかたちに似せて四角に切り、小松菜を入れて味噌汁にし、三が日の朝にかならずいただく。元日と3日の夜は白いご飯。2日の晩は赤飯に塩鮭と小松菜の煮物を神棚に供える。

 軽米の鶴飼地区には餅なし正月の習俗はないが、岩手の他の地区には餅を食べないところもあるらしい。

♪ 南部よいとこ粟飯(あわめし)稗飯(へめし)

 南部盆唄に歌われるように、県北地方の主食は稗で、水田のない農家は粟を混ぜた従兄弟(いとこ)飯を炊いた。飢饉が頻発する、厳しい土地柄であった。

 餅なし正月の儀礼は米が食べられないような「貧しい文化」だというのではない。その逆である。

 餅なし正月が餅正月と同等の価値をもって全国的に存在することを突き止めたのは民俗学者の坪井洋文で、餅なし正月は「焼き畑民の歴史的経験の痕跡ではないか」と指摘した。四ツ家の例はむしろ歴史的に新しく、餅なし正月は稲作以前の縄文文化の名残だという。

 かつて柳田国男は、日本文化の基礎に稲作文化を起きながらも、その前提として複数の「種族」の存在を認め、

「先住者=国津神集団」
「渡来者=天津神集団」として概念化した。

 坪井は、

「ヤマ=国津神の領土=餅なし正月的文化空間」
「サト=天津神の領土=餅正月的文化空間」として「畑作文化類型」と「稲作文化類型」を対比させ、日本文化は稲作文化が一義的に発展したのではなく、稲作文化と畑作文化が接触することによって、多様で豊かな文化が生まれた、と指摘した。

 しかしいまや「稲を選んだ日本人」の文化も、「稲を選ばなかった日本人」の文化も危機的状況にあるといえないだろうか。

 いま都内で年末に餅をつく米穀店はほとんどない。

「いまはオートメーションですよ。餅なんて年中ありますからね。正月だから餅を食べるという感覚がなくなっちゃいました。私の田舎でも孫が食べないからと餅つきもしないんですよ」

 と宮崎さんが嘆く。

 他方、餅なし正月が四ツ家のように守られている例は少なくなっているらしい。

 私たち日本人はサト(田)という文化空間もヤマ(畑)という文化空間も風化させてしまうのだろうか。

 坪井は「異質な文化の同時併存」が「日本文化の特質であり活力であった」といっているのだが……。


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

神として祀られる「赤米」 ──国境の島に咲く赤い花は雨に濡れて [稲作]

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
神として祀られる「赤米」
──国境の島に咲く赤い花は雨に濡れて
(神社新報「クヒモノロジー食と日本人4 赤飯はなぜ赤い その2」。1989年10月2日)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 前回は、ハレの日の食物である赤飯のルーツは、古代米といわれる赤米(あかごめ)にある、とする柳田民俗学の学説を紹介した。

 しかし赤米といっても、あまりご存じでない読者も多いのではないだろうか?

 そこで今回は、この赤米について、さらに詳しく探ってみたい。同時に、古来、大陸文化の中継点として知られる、国境の島、対馬の古社・多久頭魂(たくずだま)神社に伝わる赤米神事もあわせて紹介する。


□ 貢ぎ物として平城京へ
□ 白米に圧されて姿消す

 赤米は文字通り赤い米である。果皮と呼ばれる外層部分にアントシアン系の赤い色素が蓄積されるため、玄米は赤い色をしている。完全に精白すると色素は糠(ぬか)となって除かれる。

 茨城県つくば市にある農水省農業研究センターの横尾政雄氏によると、「白米ほどではないが、赤米にもたくさんの品種がある」という。

 実際、生物資源研究所のジーンバンク(遺伝子銀行)には、外国種も含めて、100品者以上の赤米が登録されている。品種特性も千差万別で、ウルチもあればモチもある。

 赤米の栽培は古くから行われ、その赤い色ゆえに特別視されたらしい。

 奈良時代には各地で栽培され、『本草綱目啓蒙』には「白粒よりは赤粒の者実多きゆえ、多くはこれを栽ゆ」(原文は漢字カタカナ混じり)と記されている。

 神祭りの際の赤飯や貴族の日常食に用いられ、平城京跡から出土した数多くの木簡には、尾張、播磨、但馬から赤米が都に貢ぎ物として運ばれてきたことが示されている。

 しかしその後、食味評価の高い白米の栽培が増えるに連れて、赤米は徐々に姿を消していった。


▽ 渡来した「大唐米」

 10世紀頃になると、代わって粒の長いインディカ・タイプの赤米が渡来した。大唐米(だいとうまい)とか唐法師(とうぼし)と呼ばれる赤米である。

 生命力が旺盛で多収でもあったので、急速に普及した。粘りが少なく、味が劣るため、貴族は口にしなかったが、自分で作って食べられるのが農民には魅力だった。

 大唐米の栽培は、15、16世紀にピークに達するが、やはり白米増産のあおりを受けて、その後は減少傾向を強めていった。

 江戸時代の地方の記録や農書などに赤米の記載があるそうだから、近世になっても赤米はまだ全国的に栽培されたのであろう。

 井原西鶴の『好色一代女』には、「朝夕も余所はみな赤米なれども、此方は播州の天守米」とある。庶民の食卓には赤米がしばしば登場したらしい。

 明治時代の半ばから、政府は多収性の白米の生産を奨励し、品種改良を強力に推し進めた。赤米は雑草同然になり、水田から追放される身の上となった。


□ 多久頭魂神社の赤米神事
□ 神田に植え続け千数百年

 ところが、いにしえの昔から現在に至るまで、神田に赤米を植え続けている神社がある。

 岡山県総社市新本にある2つの国司(くにし)神社、長崎県下県郡厳原(いずはら)町豆酘(つつ)の多久頭魂(たくずだま)神社、鹿児島県熊毛郡南種子町茎永の宝満神社の4社である。

 9月半ば、多久頭魂神社(本石正久宮司)を訪ねた。生憎の雨だった。

 同社が鎮座する豆酘は、玄界灘に浮かぶ対馬の南端に位置する、世帯数660、人口約2000人の半農半漁の小さな集落である。

 厳原町に住む元・純真女子短大助教授(民俗学)の城田吉六氏によると、豆酘の赤米栽培は5世紀にさかのぼるという。

 高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)をまつり、観音寺豆酘寺が建てられ、同時に神田が開かれたのが発端だというのである。


▽「頭仲間」が交替で耕作

 三方を山に囲まれ、前方は豆酘湾、わずかに残った平地に水田が広がる。一面だけ赤く見えるのが神田である。花が赤いから、すぐに分かる。近寄りがたい神々しさがある。

 室町時代から同じ場所にある。広さは1反4畝2歩。別名「仏の座」「寺田」と呼ばれる。女人禁制である。

 赤米を耕作するのは「頭仲間」という集団で、1年交替で耕作を担当する。その年の当番を「受け頭」という。種籾は門外不出で、収穫された赤米は「神」としてまつられる。神事用に用いる以外の赤米は受け頭が食用にする。

 食糧が乏しく貧しかった時代には、人々にとって赤米は命を支えてくれる大切な神様だったのだろう。

 神事はむろん1年間続く。行われている神事は、室町期のものとほとんど変わりがない。神事を引き継いでいるのは、供僧集団である。鎌倉期以来の家柄とされる9軒の家からなる。世襲である。


□ 神事のハイライト「神渡り」
□ 種籾の米俵を伏して拝む

 赤米神事のハイライトは旧暦1月10日の深夜に行われる頭受け神事「神渡り」である。

 前年の秋に収穫された赤米はすでに新しい俵に詰められ、受け頭の奥座敷の床の間に吊され、神として祀られている。

 奥座敷はいわば聖域であり、不浄の者や女性の入室は家族といえども許されない。

 月が山の端にかかる深夜丑の刻に神渡りは始まる。種籾がその年の受け頭に引き渡されるのである。

 奥座敷の床の間から下ろされた俵を「お守り申す」役が背負い、その上から麻の裃を掛け、前年の受け頭からその年の受け頭の家まで、しずしずと運ばれる。

 神渡りは完全な沈黙と闇の中で行われる。聞こえるのは松明がパチパチと燃える音だけである。行列が通ると、人々は戸外に出てきて、土下座して米俵を拝する。

 雨や風の夜であっても、不思議にも収まる。まさに雲が動くという雰囲気である。


▽「受け頭」は緊張の連続

 今年の受け頭は本石伸五郎さんである。

 玄関の前には忌竹が立ち、注連縄が張られている。受け頭になると、かなり緊張した1年を送る。あらかじめ屋根を葺き替えたり、襖や障子を張り替えたり、「結婚式を挙げるのと同じように準備して受け頭になる」という。

 厳しい精進潔斎も要求される。赤米は人々の篤い信仰に支えられ、守られてきたのだ。

 赤米が栽培されているのは、もちろん日本ばかりではない。中国大陸では雲南を中心に栽培され、東南アジアの稲作圏には赤米を特定の儀礼に用いる民族や種族が見受けられる。


□ 文化人類学からの反論
□ 小豆を加えるのはなぜ

 さて、赤飯である。

 かつての赤米が儀礼用として残されたのが赤飯のルーツであるとするのが、柳田民俗学の考え方である。

 だが、これには異論もある。

 そもそも赤米が白米に先行するとは必ずしも断言できない。また、色づけするだけならば、小豆の煮汁だけで足りるはずである。なぜ煮た小豆を加えて蒸すのであろうか?

 文化人類学者のなかには、小豆栽培とその利用という観点から柳田説を批判する人もいる。次回は、この仮説を紹介しながら、赤飯の謎にさらに迫ってみたい。


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。