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赤飯──なぜ赤いのか [食文化]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 赤飯──なぜ赤いのか
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 モチ米に小豆(あずき)を混ぜ、蒸籠(せいろ)で蒸し上げる赤飯を、神祭りのお供えにしたり、冠婚葬祭の儀礼食として食べる習慣は、ほぼ全国に共通します。

 ご存じのように、米にはウルチ米とモチ米とがあります。米の胚乳に含まれるデンプンにはブドウ糖分子が直線状につながったアミロースと枝状につながったアミロペクチンの二種類があり、ウルチ米が両者を含むのに対して、アミロペクチンのみを含むのがモチ米です。蒸してつくと粘りが出るのはこのためです。

 現代の日本人はウルチ米を炊いて常食としていますが、赤飯はモチ米を蒸すのが第一の特徴です。

 米を蒸すといえば、先月(十一月)二十三日の夕刻から夜半まで、天皇陛下は宮中最大の重儀とされる新嘗祭をみずからお務めになり、米と粟(あわ)の新穀を神前に供え、国の平和と国民の平安とを祈られました。

 供え物の御饌(みけ)には御飯(おんいい)と御粥(おんかゆ)の二種類があります。御飯は米と粟をそれぞれ蒸した強飯(こわめし)で、御粥は水で炊いた、いま私たちが日常的に食べる煮飯(にめし)です。

 万葉集の山上憶良(やまのうえのおくら)の歌に「甑(こしき)には蜘蛛(くも)の巣懸(か)きて飯炊く事も忘れて」とあることから、奈良・平安の時代には甑で蒸した強飯が、とくに上流社会では常食とされたといわれます。いまも東南アジアに行くと、モチ米の強飯をふだんから食べている地域がありますが、古代の日本ではモチ米だったのかどうか。

 赤飯の呼び名は鎌倉末期の『鈴鹿家記(すずかけき)』などに現れはじめ、室町以降、盛んに使われるようになり、ハレの日の食物として作法も定まっていったようですが、最大の疑問はなぜ赤飯は赤いのか、です。

 柳田国男の民俗学では、古代の日本人は赤米(あかごめ)を栽培し、儀礼などに用いた。その印象が白米を小豆で染める習慣を生み、神祭りなどに用いられるようになった、と説明しています。

 赤米というのは果皮と呼ばれる外層部分に赤い色素が蓄積されるため、玄米では赤い色をしている米のことです。完全に精白すると、色素は糠(ぬか)として除かれます。白米ほどではありませんが、たくさんの品種が知られ、ウルチ米もあれば、モチ米もあります。

 赤米は赤い色ゆえに特別視され、古くから栽培されて、神祭りの際の赤飯や貴族の日常食に用いられたようです。古代から現代まで、赤米を神聖視し、神田に植え続けている神社が全国に四社あります。

 しかし柳田が説明するように、古代人が赤米を食べていた名残が赤飯だとすれば、白米を着色すれば十分のはずで、小豆を豆ごと加える必要はありません。

 なぜ小豆を加えるのか、といえば、不思議な力が宿っていると考えられたからです。小正月の朝、一年の邪気を祓うため小豆粥を食べる習慣が残されている地方はかなりあります。小豆粥を用いて作物の豊凶を占う神事を行う神社は少なくありません。


以上、「教育再生」22年12月号から転載。
タグ: 食文化
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韓国食は国際化できるか、ほか [食文化]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年11月29日木曜日)からの転載です


〈〈 本日の気になるニュース 〉〉


1、「中央日報」11月28日、「韓国料理の国際化」
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=93275&servcode=100§code=120
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 洪承一経済部長が、韓国の食文化の国際化について書いています。寿司に代表される日本食が世界に広がっていること、東京が世界の食文化のるつぼになっていることと比較し、「各国が伝統メニューの異種交配で料理戦争を繰り広げているところに、韓国料理があまりにも昔のものだけにこだわると、海外同胞や韓国人観光客だけで賑わうコリアタウンの料理に落ちぶれるのではないだろうか」と問いかけています。

 結論的にいえば、韓国料理が国際化できるかどうかはたぶん、韓国人自身が国際化できるかどうかにかかっているのだと思います。「昔のものにこだわる」のではなく、「韓国」という自分にこだわると、国際化は難しいでしょう。自分が世界の中心であるかのような発想から脱せないなら、国際化は無理なのでしょう。

 以前、韓国文化にくわしい友人に連れられて、ソウルの食を取材したことがありました。南山にある宮廷料理のレストランで、宮廷料理研究の第一人者、人間国宝の黄慧性(ファン・ヘソン)さんの説明を受けながら、宮廷料理をいただいたときには、韓国の食文化のすばらしさを実感しました。

 友人が「韓国のお母さん」と呼ぶ黄先生が宮廷料理を研究できたのは、日本時代に朝鮮総督府が李王職という職制を定め、宮廷文化を保存、記録していたからです。黄先生が立派なのは、研究それ自体もさることながら、日本および日本人の業績を客観的に評価していたことです。

 中央日報の記事が韓国食文化の代表として取り上げているキムチにしても、日本との関係なしには生まれなかったといわれます。キムチに欠かせない唐辛子は日本を通じて伝えられ、「倭芥子(ウェゲジャ)」と呼ばれる、と『芝峰類説』(1613)という文献には書かれています。

 韓国料理といえば、いまでは多くの人が焼肉を思い浮かべるほど、韓国と肉食は切り離せませんが、一貫して食肉の歴史が続いてきたわけではありません。鄭大聲『食文化の中の日本と朝鮮』によると、4〜6世紀に朝鮮全土に仏教が広がると人々は肉食を忌むようになりました。10世紀に成立した高麗朝は仏教国家でしたから、肉料理は支配階級の食膳から姿を消しました。

 しかし元が勢力を拡大し、13世紀半ばから1世紀以上にわたって支配すると、食肉のタブーがなくなり、肉食が復活しました。15世紀になると、李氏朝鮮の排仏政策で肉食が完全に解禁されます。

 美味しい肉料理に欠かせないのが胡椒ですが、朝鮮で胡椒が知られるようになったのは14世紀末で、琉球からもたらされました。日本から大量に輸入された胡椒ですが、16世紀初頭に日本人居留民の騒動「三浦倭乱」を機に交流が途絶えると、胡椒の輸入が止まります。

 そんなとき秀吉の朝鮮出兵が始まり、唐辛子が伝来したのでした。戦乱で疲弊した朝鮮が高価な胡椒を輸入することは困難で、輸入の見返りに綿布や銀、大蔵経などが当てられるほどでした。しかも国交を回復した日本は鎖国令を出していました。こうして胡椒の代替物として唐辛子が大きく浮かび上がったのでした。

 やがて優れたキムチの文化が作り上げられるのですが、そのきっかけに関する歴史を韓国人の口から聞くことはほとんどまれでしょう。
 
 ごく当たり前のことですが、日本人が韓国の食文化に親しんでいるように、韓国には日本の食文化が浸透しています。

 10年以上も前からあるにはあった豚カツ屋やうどん屋がこの5年ほどのあいだに急にソウルに蔓延するようになりました。のり巻き専門店や回転寿司もあります。

 のり巻きとはいっても、酢飯の苦手な韓国人にあわせて、すし酢の代わりにごま油を用い、韓国海苔で巻きます。中の具は牛肉のそぼろや韓国ソーセージなどで韓国風にアレンジしています。

 「見た目は日本だけど、食べると韓国。日本のすり寄りながら、きっちり韓国を自己主張している」と韓国通の友人は笑います。

 「韓国人は食に関して保守的で、家庭ではほとんど洋食を食べない。せいぜいカレーライスどまり。日本人と違って、韓国人は外国文化を自分流に加工するのが下手だから、日本食の浸透は注目される」

 中央日報の記事がまさにそうですが、韓国人はなぜ日本という鏡を通してしか自画像を描けないのでしょう。なぜ、あたかも自分が世界の中心で、自分だけが正しいというあらまほしき幻影を追い求めるばかりで、客観的に歴史を理解することができないのでしょう。

 日本が嫌いだ、と口ではいいつつ、実際は日本が大好きな韓国人の食文化は、少なくとも日本では完全に受け入れられています。


2、「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」11月29日、「これは狂気の大胆さか、目先の利益に視野狭窄になった結果か? 台湾の対中国投資は世界最大規模。国内産業の空洞化、失業率の大膨張」
http://www.melma.com/backnumber_45206_3916265/
 
 台湾の国内産業が驚くばかりに空洞化しています。過度に中国に投資した結果のようです。李登輝前総統はかねて、過度の対中投資は、やがて中国の人質化してしまう、と強い懸念を表明していたようですが、ルビコン川を越えてしまったのでしょうか。


3、「花岡信昭メールマガジン」11月29日、「ついに落ちた防衛次官」
http://www.melma.com/backnumber_142868_3916109/

 不埒な次官を生んだ土壌は何か、と花岡さんは問い、自衛隊は軍ではないとする奇妙な解釈をしてきた平和惚けの一環と断じています。

 こういう人が危機管理の元締めだったというのでは、背筋が寒くなる、とはまさにその通りなのですが、それをチェックできる人間が小池大臣以外、中にも外にもいなかった、というのがじつに情けないことです。


 以上、本日の気になるニュースでした。


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赤飯は古代食の名残り──「ハレの食物」そのルーツを探る [食文化]

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赤飯は古代食の名残り
──「ハレの食物」そのルーツを探る
赤飯はなぜ赤い その1
《神社新報 クヒモノロジー食と日本人3 平成1年9月25日》
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クヒモノロジー第二弾は赤飯である。いふまでもなく、モチ米に小豆を混ぜ、蒸籠で蒸し上げた食べ物で、別名「オコハ」ともいふが、東北では「フカシ、オフカシ」、岡山では「オムシ」、沖縄、奄美では「カシキ、カシチー、カミイチ」または「ウブク」と呼ぶ。冠婚葬祭のとくにおめでたい席で食べるのがふつうだが、一体なぜさうした習慣が形成されたのだらうか。


▢赤飯は「ハレの食物」
▢不祝儀に食べる地方も

神祭りや冠婚葬祭の供物や儀礼食として赤飯を食べる習慣は、現在ではほぼ全国的といっていい。

いはゆるハレの食物であるが、なかには吉事だけではなく、凶事の場合にも赤飯を供する地方もある。また、不祝儀の場合は白大豆を加へたり、モチ米だけの白蒸し(しらむし)にする地方、黒豆を入れた紫がかった「黒豆おこは」を食べる地方もある。

他方、ハレの日の食事に必ず赤飯が出されると考へるのは間違ひで、地方によっては寿司、餅あるいは粥がハレの食事の主役を演ずる。また米の生産が少なかった地方ではウルチ米だけを炊いた白飯がハレの食物となることもある。

考へてみれば、全国津々浦々で3度の食事に白い米を満足に食べられるやうになったのはそれほど古いことではない。

▢砂糖を入れる津軽の赤飯

一口に赤飯といっても、地域によっていろいろなバリエーションがある。

岡山県山間部ではモチ米とウルチ米を混ぜて炊き、その比率が3対7なら「小豆飯」、8対2なら「鍋おこは」と呼ぶ。鍋おこはは日常的なちょっとした行事の際に作る。

新潟県蒲原地方では、モチ米にひじきを加へ、醤油で味付けした「炊きおこは」が人気があり、運動会などに作る。

青森県津軽地方では蒸し上がった赤飯を桶にあけ、砂糖をかき混ぜたのち、もう一度蒸し直す。かなり甘みの利いた赤飯になる。

小豆は皮が破れやすいことから、腹切りに通じることを忌み、代はりに大角豆(ささげ)を使ふ地方はかなり多い。食紅で色づけする所もある。重箱に詰めたときに南天の葉を飾りにあしらふ場合もある。


▢宮中では「赤の御膳」
▢諒闇中は召し上がらず

鎌倉末期の書物『厨事類記』によると、宮中では3月3日、5月5日、9月9日の節句の御膳に赤御飯をすすめるのが恒例だったといふ記述があるが、現在ではこの習慣はない。

天皇誕生日、入学式や卒業式の折に赤飯を召し上がるのは一般国民と同じだが、現在(この記事が書かれたのは昭和天皇崩御の年である)は諒闇中なので召し上がらない。

陛下に差し上げる小豆御飯は女房詞で「赤の御膳」「こはご」と呼ばれる。

▢「五穀飯」は韓国の「赤飯」

韓国の食文化に詳しい食文化研究家・槇浩史氏によると、韓国には日本のやうな小豆御飯はないが、赤飯に似た「五穀飯(オーゴッパン)」をハレの食膳で食べるといふ。

①米(ウルチ米とモチ米)、②黍、③粟、④小豆、⑤黒豆をいっしょに炊いたもので、悪鬼を払ひ福を呼ぶ意味で、旧暦1月15日の小正月や冬至に食べるといふ習慣がいまでも続いてゐる。

日本のやうに配るのではなく、福を分けてもらふ意味で、逆に近所の人が鍋をもってやってくる。結婚式に五穀飯を食べる風習はない。


▢「蒸す」から「炊く」へ
▢万葉人は蒸し飯を食べた

現代の日本人が日常的に食べてゐるご飯は「炊く」けれども、赤飯は「蒸す」のが特徴である。

米は生食には不向きで、焼いて食べたのがもっとも古い方法であるらしい。次に現れたのが蒸すといふ調理法で、奈良・平安時代はご飯といへば、甑(こしき)で蒸した強飯(こはめし、こはいひ)だったといふ。

『万葉集』の貧窮問答歌で、山上憶良は「竈には火気(ほけ)ふき立てず 甑には蜘蛛の巣懸きて 飯炊(いひかし)く事も忘れて」と詠ってゐる。穀物が手に入らないので長らく甑が用ゐられてゐないといふ嘆きである。

▢進歩した作陶技術

蒸す方法から炊く方法に変はったのは平安時代からだといはれる。

蒸す方が炊くよりも調理法が煩雑なうへに、余分な手間とより多くの燃料を要する。それにもかかはらず敢へて蒸す理由は、素焼きの土器で炊くと土器の胎土が溶けて崩れてしまふからだといふ。また蒸し飯の方が保存が利くため、調理の省力化にもなったといはれる。

ところが平安時代になると作陶技術が進歩して、土鍋にも釉薬が用ゐられるやうになり、煮炊きしても胎土が崩れる心配がなくなった。炊飯の欠点が克服されたので、蒸し飯にしがみついてゐる必要がなくなったわけである。

斎藤吉久註=これはある食文化研究家の説ですが、いまは否定されているようです。素焼きの土器の胎土が簡単に崩れることはないそうです)


▢ハレの食事の変化
▢昔は姫飯がハレの食物

蒸し飯は古くは上流社会の日常食だったが、やがて庶民が真似をして食べるやうになったとされる。

万葉の時代は、いまとは逆に水を加へて煮た「姫飯(ひめいひ)」や「粥」がハレの日の食物として供されたらしい。現在、神祭りや物日に粥を食べる風習が各地に残されてゐるのは、この時代の伝統が引き継がれたものと考へられてゐる。

しかしその後、姫飯や堅粥(かたがゆ。現在の白飯)が日常食として一般化していくと、今度は以前の蒸し飯を「こはいひ」「こはめし」「むしいひ」と呼んで、物日に食べるやうになった。

赤飯の呼び名は鎌倉末期の『鈴鹿家記』などに現れ始め、室町以降、盛んに使はれるやうになり、ハレの日の食物として作法も定まっていった。ただこれが現在のやうに小豆を入れたものなのか、あるいは赤米(あかごめ)、大唐米(だいとうまい)と呼ばれる赤い色の米を使ったのかは必ずしも判然としない。

江戸中期になると、モチ米を蒸して吉事には赤飯とし、凶事には白蒸しのまま親類などに配るといふ習慣が江戸、京都、大阪に広まっていった。これが明治以後の赤飯のルーツとされてゐる。

▢柳田国男の赤米先行説

忘れてはならないの赤飯のもうひとつの特徴は、小豆を加へて赤く色づけするといふことである。白いはずの米をなぜわざわざ赤く染めるのだらうか。

柳田民俗学は次のやうに答へてゐる。すなはち赤い飯が白い飯に先行し、日本人は白い飯を食する以前に赤い米を栽培して儀礼用、常食用としてきたので、その印象が白い米を小豆で染める習慣を生み、神祭りの供物、儀礼食として伝へられてゐるのだと説明する。

これが柳田国男の「赤米先行説および儀礼への固定化説」である。

現代の日本人にはあまり馴染みのないこの「赤米」とはどのやうな米だったのだらうか。次回はこの謎の古代米「赤米」について探ってみよう。(つづく)


斎藤吉久註=この記事を書くに当たって、食文化、民俗学など多くの先学たちの研究・文献を参考にさせていただきました。参考資料として掲げることはしませんが、心からお礼を申し上げます。


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夏バテ予防はウナギに限る ──なぜ暑気払いと結びついたのか [食文化]


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夏バテ予防はウナギに限る
──なぜ暑気払いと結びついたのか
(「神社新報」平成元年7月24日)
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 毎年、土用の丑の日が近づく今ごろになると、ウナギの蒲焼きの匂いがたまらなく恋しくなります。

 本当は産卵前の秋がいちばん美味しいという鰻通もいるのですが、いったいどうして、ウナギの蒲焼きが夏の暑気払いと結びついたのでしょうか?


□ 170年前の「バレンタイン・チョコ」
□ 商策に始まった土用のウナギ喰い


 土用の丑の日にウナギを食べる習慣は、江戸後期には行われていたようです。蒲焼き屋の存在を伝える資料も残されています。

 文政7(1824)年に大阪で出版されたショッピング・ガイド『江戸買物独案内』には、江戸市中の商店2622店が名前を連ねていて、うち「飲食之部」には「鰻蒲焼き屋」が22店、掲載されています。

 なかでも神田和泉橋通の春木屋善兵衛は、「丑ノ日元祖」とはっきり謳っています。

 そもそも「丑の日鰻」の起こりは、バレンタイン・デーのチョコレートと同じように、商業政策によるもので、とくに必然性はないといわれます。

 一説によると、丑の日鰻の習慣は、本草学者、発明家として知られる、かの平賀源内が著書の『里の苧環(おだまき)』のなかで、丑の日にウナギを食べるととりわけ滋養効果が高いと書いたことに始まるとか、うなぎ屋に看板を書くことを頼まれ、「本日土用丑の日」と大書してやったら、馬鹿受けしたのが発端だといいます。

 また一説には、江戸・天明期の文人、大田南畝(蜀山人)が丑の日にウナギを食べると病気にならないという意味の狂歌を詠んだのが始まりだともいいます。

 しかし、『たべもの史話』などの著書で知られる、食文化研究家の鈴木晋一さんによると、「いずれも確証はなく、むしろ宣伝効果を盛り上げるために、時の有名文化人の名をかたったというのが真相ではないか」といいます。


□ 姿は変われど名は同じ
□ 完成した蒲焼きの料理法


 日本人とウナギのつきあいは、たいへん長いようです。縄文遺跡からウナギの骨が出土しているほどです。

 時代が下り、万葉集に収められた大伴家持の「痩せたる人を嗤笑う歌二首」には、「夏痩せに良しというものぞ、鰻取り寄せ」とあります。滋養効果を期待する薬食いのたぐいで、美味しい料理というものではなかったようです。

 料理として「蒲焼き」の名が史料に見いだされるようになるのは室町時代初期で、京都・吉田神社の社家・鈴鹿家の記録である『鈴鹿家記』には、「鰻鮨(なます)」と「宇治丸かばやき」の料理法について記載があります。

「一、宇治丸かばやきの事。丸に炙(あぶ)りて、後に切るなり。醤油と酒と交ぜて付けるなり。また、山椒味噌付けて出しても吉なり」

 今日の蒲焼きの原形をここにうかがうことができます。

 なぜ「蒲焼き」と呼ぶのか、というと、鰻を焼くときの形、あるいは焼いた形が、植物の蒲(ガマ)の穂に似ているため、といわれます。まさに『鈴鹿家記』に「丸かばやき」とあるのは、室町時代はウナギをさばいてから焼く料理法ではなかったのでしょう。

 ウナギを割いてから焼く手法が開発されたのは、江戸初期になってからでした。

 江戸中期の百科事典『和漢三才図会(さんさいずえ)』(正徳2[1712]年)には、ウナギを割いて腸(はらわた)を取り、四つないし五つに切って焼くことが明確に書かれています。

 これによって、江戸後期の国学者・斎藤彦麿が『傍廂(かたびさし)』(嘉永6[1853]年)に書いたように、蒲焼きは『鈴鹿家記』のころと違って、「鎧(よろい)の袖、草摺(くさずり)には似れど、蒲の穂には似もつかず」となり、同時に、味は一大変身を遂げ、「無双の美味」となったのです。

 それは、割いて焼く手法に加えて、調味料が格段に進歩したからです。醤油とミリンが普及し、一般化したからです。


□ 丑の日鰻は「黒の信仰」から
□ 暑気払いの栄養学的意味


 なぜ暑気払いにウナギなのか、ウナギの本場として知られる某県の神職さんに取材を試みました。

「黒いからです」

 黒い食べ物は体にいいと信じられたということのようなのですが、これでは記事になりません。自分で徹底的に調べ上げる、私なりの調査報道の手法を身につけることになったのは、このときでした。

 夏バテ予防には、古来、さまざまな方法が伝わっています。

 丑の日に「ウ」の字のつく、ウナギやウリ、牛肉を食べると長生きができると信じられたといいます。ほかに土用餅を食べるというのもあります。菖蒲や薬草を入れた風呂に入るという予防策もありました。

「ウ」の字のつく食べ物というより、「黒の信仰」が背景にあると説明するのは、『梅干と日本刀』『こめと日本人』などの著作で知られる、考古学者の樋口清之・國學院大学名誉教授です。

 土用とは本来、立春、立夏、立秋、立冬の前の18日間を意味します。春夏秋冬に五行のなかの「木」「火」「金」「水」を当て、季節の最後の18日間を「土」とし、各季節が「土」に始まって「土」に終わるように定められています。

 暦とともに中国から伝わったものです。

 樋口先生によると、中国思想の影響から、万物の根本である「土」を大切にすれば、万事うまくいくと考えられるようになったというのです。

 そして土色の黒がそのシンボルとなり、色のくろい食物を摂取すると健康になると考えられたというのです。

 以前から滋養食として食べられていたウナギは色が黒く、それ以降、ウナギは黒いから健康によいとする発想の転換が起こりました。

 そして、ナマズ、ハモ、トリ貝など、黒みがかったもの、野菜ではナス、ニガウリ、スイカを食べると健康になれるという信仰がさらに広がっていきました。

 それなら、栄養学的には意味があるのでしょうか?

 本多京子・日体大講師(栄養学。当時)は、「ウナギのように良質の動物性脂肪やタンパク質、ビタミンAをたくさん含む食品を真夏に食べることは、たしかに意味がある」と指摘します。

 カンカン照りの日に大量の汗をかくと、1リットルあたり3グラムの塩分が失われます。塩分に含まれる塩素は胃酸の原料で、胃酸が低下すれば食欲不振が起きます。

 それで素麺などさっぱりしたものばかり食べていると、やがてタンパク質や脂肪性ビタミン、鉄分の不足を招きます。そのツケが秋に現れるのが、夏バテなのでした。

 土用鰻はきわめて理にかなっていることになります。


□ 「土用」がない中国
□ 韓国では丑の日に牛肉スープ


 四川料理の元祖として知られる赤坂四川飯店の陳建一さんによると、少なくとも四川省では、今日、土用の風習自体が失われてしまったそうです。

 ウナギは中国語で、鰻魚(マンユイ)といいますが、それほど量が獲れず、高級魚となっています。たとえていえば日本のフカヒレに相当し、もちろん鰻魚を夏バテ予防に食べる習慣はありません。

 お隣の韓国では、夏負けを防ぐため、どの家庭でも丑の日(ボンナリ)に牛肉をたっぷり入れた辛いスープ料理「ユッケジャン(牛芥醤)」を食べる習慣があったといいます。

 これは都内で韓国料理学園の園長を務める趙重玉さんから聞いた情報です。

 土用の時分は韓国も猛暑で、人々は汗を流しながら、ユッケジャンを食べます。そのあとマッカウリという黄色いウリを食べるのだそうです。

 さて、希代の美食家として名を馳せた陶芸家の北大路魯山人は、『魯山人味道』のなかで、

「鰻を食うなら毎日食っては倦きるので、三日にいっぺんぐらい食うのがよいだろう」

 と書いていますが、せめて一年に一度ぐらいは、美味しい蒲焼きを賞味してみたいものです。


筆者注 この記事は「神社新報」平成元年7月24日号に掲載された拙文を若干、修正したものです。

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