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天下国家は何処へ?──佐野和史宮司の「神社新報」投稿を読む [神社人]


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天下国家は何処へ?──佐野和史宮司の「神社新報」投稿を読む
(令和3年5月6日、木曜日)
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神社本庁の土地売却をめぐる訴訟で、東京地裁は3月下旬、内部告発した職員の懲戒処分などを無効とする、被告神社本庁「全面敗訴」の判決を下しましたが、これに対して神社本庁は、4月中旬に開かれた役員会で、新たな弁護団を組織し、控訴審に臨むことを決議しました。控訴の手続きはすでに済んでいると伝えられます(「神社新報」4月26日号)。

他方、同じ「神社新報」4月26日号には、旧職員でもある、神奈川・瀬戸神社の佐野和史宮司による「裁判継続反対」の投稿が掲載され、また、地方からは控訴の即刻取り下げと本庁役員全員の退陣を求める要望書が鷹司統理宛に提出されたとも聞きます。

全国のお宮のほとんどを傘下に置く神社本庁は見るも無惨な分裂状態ですが、ことの本質について、私なりに迫ってみようと思います。


▽1 つたない新聞編集技術

テキストになるのは佐野宮司の投稿です。

まず、本論の前に、蛇足ながら指摘したいのは、新聞編集の拙さです。

投稿は「裁判問題について」と題されています。新聞の見出しになっていません。「裁判問題」って何でしょう。それについて筆者は何を言おうとしているのか、これでは皆目分かりません。読者の興味と意欲をかき立てる編集者の意思・努力が伝わってきません。新聞編集の基本を失っています。

技術的にも疑問符が付きます。佐野宮司は冒頭で、「地位確認訴訟の今後について意見を述べさせていただきたい」と明示しています。テーマは「裁判問題」ではなくて、「訴訟の今後」に絞られています。見出しの付け方が間違っていませんか。20年ぐらい前のレベルに逆戻りしていませんか。

それでも、この訴訟問題をめぐって多数の投稿・投書が寄せられ、しかもその多くがボツ扱いされていると伝え聞かれるなかで、佐野宮司の反対意見が掲載されたのは、編集部の英断といえます。そこは少なくとも評価されるべきです。

問題は中身です。

佐野宮司の「裁判継続反対」の理由は、以下の5点にまとめられるでしょう。


▽2 2つある「神社本庁」の概念

1、原告・被告双方の主張、判決の分析は略させていただく。裁判継続反対の最大の理由は、裁判が神社界にとって有害・無益だからだ。裁判の継続が斯界に悪影響を与えている。どちらが勝つにしても、神社界にとって損失が大きく、メリットはない。

2、神社本庁の本来の存在理由・目的を探れば、裁判の勝敗を超えた、本当の課題が見えてくる。神社本庁憲章にいう「神社本庁」とは、中央本部や事務局ではなく、古来の「大道」を継承し、「全国神社を結集」した、総体としての「神社本庁」である。

3、「神社本庁」には、法に基づく法人機構と、神国日本の伝統を継承してきた神社の総体の2つ概念があるが、存在理由は後者にある。前者は後者の目的を支持・充実させるための手段に過ぎない。両者には相互の信頼関係が保たれなければならず、教学的・神学的信念に立脚されなければならない。現に裁判を争っているのは中央組織としての神社本庁である。裁判の継続は、全国神社の総体たる神社本庁との関係において、教学活動を大きく阻碍するものと思慮される。

4、もとより全国神社の総体たる神社本庁は仮想空間のようなものかもしれないが、そこにこそ神社が「神国」の祭祀を厳修することの本義に通じるものがあると信じる。古来、全国の神社が継承してきた不文法を規範化したのが本庁憲章であり、だからこそ全国神社の総体たる神社本庁の指導力が発揮されなければならない。全国神社の神職が敬神尊皇の思いや祈りを共有し、強固にするために教学がある。

5、中央組織としての神社本庁が歴史と伝統に培われた教学を考慮せず、現行法規との整合性のみを是とし、法的強制力に頼るガバナビリティの構築に努めた結果が、各地の神社離脱や今回の裁判である。「教学の価値観の共有」によって神社界が団結し、展望を図るべきだ。裁判の継続は、「教学の価値観の共有」を否定し、「法的整合性のみを是とする価値観の強制」を目指すもので、わが国の神道文化に穴を穿つものとなりかねない。

佐野宮司の熱の籠った文章には、混乱ばかりが伝えられる今日、まだまだ良識が生きていることが確認されます。編集部もさすがに無視できなかったということでしょうか。


▽3 民族宗教の終わり!?

さて、私のような部外者が批判めいたことを付け加えるべきではないのですが、あえていくつか指摘させていただきます。

佐野宮司は、全国神社の総体としての神社本庁こそが本庁の存在理由であると訴えています。そして裁判の継続が神社界全体の活動を阻碍すると危機感を深めています。まったくその通りなのですが、忘れてならないのは、全国の神社はけっして神職の集合体であるところの神社界のものではないということです。神社とは誰のものなのかが問われているのです。

佐野宮司は神社本庁憲章を取り上げました。さすがです。しかしその前に、神社本庁設立の歴史を振り返るべきではないでしょうか。大戦末期、敗戦・占領を目前にして、神道界の大同団結によって先人たちが守ろうとしたのは、神社界の歴史と伝統ではありません。だからこそ、大日本神祇会、皇典講究所、神宮奉斎会の三団体が糾合したはずです。先人たちは歴史ある民族の信仰を守ろうとしたのです。天下国家のためにひとつになったのです。

佐野宮司は神職なればこそ神社界の将来を憂え、神社界の専門紙に寄稿し、神社界の読者に訴えているのですが、裁判の行方に心を痛めている多くの国民はけっして神社界の将来に注目しているのではありません。佐野宮司のロジックを借りれば、宗教法人法に基づく神職集団による神社界ではなく、日本人のさまざまな信仰の総体としての神社神道の将来に危機感を覚えているのです。神社界の内向き思考と天下国家への視点の揺らぎこそ、今日の混乱の原因ではないかと疑っているのです。

神社界は国民の浄財で支えられています。ムダな裁判にムダなお金を費やすべきではありません。処分されるべきものは処分し、和解すべきは和解すべきです。いまのままでは国民の信仰は神社から離れざるを得ないでしょう。民族宗教の終わりです。それこそが危機です。


【関連記事】神社本庁創立の精神からほど遠い「金刀比羅宮の離脱」〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2020-06-21
【関連記事】ある神社人の遺言「神社人を批判せよ」〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2010-07-14-1
【関連記事】相次いで亡くなった日韓の架け橋──高麗澄雄宮司と黄慧性さん〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2006-12-26
【関連記事】神社界のコメ援助、バングラに実り──豊かさ、貧しさとは何か(平成6年4月5日付「日本経済新聞」)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2004-04-05-2
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【関連記事】最北の神社に奉仕する──バングラ訪問が転機(「神社新報」平成8年7月15日号)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1996-07-15
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【関連記事】日照りのときは涙を流し──東京・川の手 2人の神職の物語(「神社新報」平成7年6月12日号から)〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1995-06-12-2

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神社本庁創立の精神からほど遠い「金刀比羅宮の離脱」 [神社人]

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神社本庁創立の精神からほど遠い「金刀比羅宮の離脱」
(令和2年6月21日)
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☆★So-netブログのニュース部門で、目下、ランキング16位(5938ブログ中)。また順位が下がりました。皇室論の真っ当な議論を喚起するため、「nice」をプチっと押していただけるとありがたいです。〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/〉★☆


香川県の金刀比羅宮が神社本庁から離脱することになったようです。理由は、同宮の説明では、本庁の不動産不正転売問題に基因する不信感と昨年の大嘗祭当日の祭祀に関わる不信感の2点です。前者の問題で本庁への信頼が大きく揺らいだところへ、後者が持ち上がり、関係悪化が決定的になったということでしょうか。〈http://www.konpira.or.jp/

天皇一世一度の大祀である大嘗祭は、尊皇の精神篤き神社人にとっても一大行事ですから、些細な不祥事とて絶対に許されません。何があったのでしょう。

昨年11月14日の大嘗宮の儀に際して、神社本庁は各神社に通達し、当日祭が斎行されました。問題はその際の「本庁幣の供進」でした。通達には「当日祭には臨時に本庁幣を供進する」とあったのに、当日まで、本庁幣がお宮に届くことはありませんでした。金刀比羅宮が「無礼」「不敬」と怒るのも無理はありません。

何か予期せぬ事故が起きたのか、といえば、不思議にも本庁に落ち度はなかったようです。「当宮(金刀比羅宮)に対する嫌がらせ」は誤解です。それなら何なのか。


▽1 電話一本で解決できない

金刀比羅宮の説明では、同宮の問い合わせに対して、神社本庁はいま話題の秘書部長名で「各神社庁を通じて本庁幣を供進している」「当日祭に本庁幣が供進されなかった神社が存在したのはまことに遺憾」(今年3月23日)と回答し、香川県神社庁からは「本庁幣は毎年度、1月下旬から2月上旬に各支部を通して交付している」(昨年12月12日)との回答があったのでした。

つまり、本庁は当日祭の幣帛供進を予定して事務手続きを粛々と進めたものの、県神社庁が「臨時の本庁幣」を毎年恒例の本庁幣と同様に取り扱った凡ミスだということでしょう。本庁が責められることではありません。

ただ、本庁の回答は、代理人弁護士を通じた金刀比羅宮の度重なる問い合わせに対して、何か月も要した巧遅そのもので、不信感を募らせ、亀裂を深める以外の何物でもなかったのでしょう。書面をやり取りするまでもなく、電話一本で解決できる日頃の意思の疎通を完全に欠いていたのではありませんか。

2万人しかいない神職の世界でいったい何が起きているのでしょう。日常的なお付き合いの盛んな業界のはずなのに。

歴史を振り返れば、神社本庁は昭和21年2月に生まれました。敗色が濃厚となった戦争末期に、敗戦後を見越した葦津珍彦らが、神道を敵視する外国軍隊に占領されることになれば、神社は壊滅状態に陥る。古代から続く民族の信仰を守り、危機を回避するためには神社関係者が団結する必要があると有力者を説得し、皇典講究所、大日本神祇会、神宮奉斎会が糾合して本庁が設立されたのでした。

 【関連記事】朝日新聞と神道人、それぞれの戦争 戦後期  第3回 新聞人の夢を葦津珍彦に託した緒方竹虎https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-04-14-3
 【関連記事】近代の肖像 危機を拓く 第445回 葦津珍彦(3)──先人たちが積み残したアジアとの融和https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-03-03
 【関連記事】葦津先生は「神社本庁イデオローグ」ではない!?──葦津珍彦vs上田賢治の大嘗祭「国事」論争 2https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-01-30

本庁が装束を着た神職だけの組織ではなかったことはとくに重要です。創立当時の初代事務総長は内務官僚だった宮川宗徳でした。「言論機関は独立機関たるべし」との宮川の英断で、翌年には神社新報が独立します。初代社長は宮川でした。葦津は編集主幹兼社長代行者となりました。

しかし苦難の占領期も過ぎ、半世紀以上が経ち、庁舎も代々木に移りました。職員の顔ぶれも一変し、宮川のような「背広の神道人」は見かけなくなりました。いまや神職の同業者組合と揶揄する人さえいます。当然、意識も変わったのでしょう。


▽2 大嘗祭のあり方は問いかけず

今回の離脱は御代替わり最大の儀礼である大嘗祭を契機としていますが、金刀比羅宮が問題視したのは神社祭祀に関わる神社界内部の事務手続きの不備であって、御代替わりのあり方そのものを心から憂い、大胆に問題提起しているわけではありません。

歴史にない退位の礼が政府によって創作され、譲位と践祚が分離され、皇祖神に践祚を奉告する賢所の儀が完了しないままに朝見の儀が行われ、代始め改元は前代未聞の退位記念改元となり、諸儀礼は国の行事と皇室行事とに真っ二つに二分されるというあり得ない惨状について、皇祖神を祀る神宮を本宗と仰ぐ本庁も神社庁も金刀比羅宮も悲憤慷慨しているとは聞きません。

30年前、平成の御代替わりのときも同様でした。本庁周辺では「大嘗祭が行われて良かった」という喜びの声が満ち溢れるばかりで、問題点を高いレベルで検証することは行われませんでした。語るに落ちる不祥事があっても有耶無耶にされました。日本人の宗教的伝統を守るとの創立時の高邁な精神はどこへいったのでしょうか。

本庁創立の中心にいた葦津珍彦が最晩年、病床で口述筆記した遺作は、稀有壮大な志に生きる明治の神道人の生涯を描いたものでした。天下国家を論じ得るスケールの大きな神道人の輩出を心から願ってのことだったでしょう。不動産不正転売問題といい、金刀比羅宮離脱といい、葦津ら先人たちの理想とはあまりにかけ離れていませんか。

 【関連記事】ある神社人の遺言「神社人を批判せよ」https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/archive/20100714


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ある神社人の遺言「神社人を批判せよ」 [神社人]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2010年7月14日)からの転載です


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ある神社人の遺言「神社人を批判せよ」
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 神道系大学を傘下に置く皇学館の理事長だった上杉千郷(うえすぎ・ちさと)さんが先月、亡くなりました。

 上杉さんは世界を股にかけて活動する数少ない神社人でしたが、一方でローカルな視点を失いませんでした。「田舎神主」という言葉があるように、地方にこそ神道の神髄があります。よき神道人の代名詞です。上杉さんこそは田舎神主の典型で、病床で「田舎に帰りたい」と願い、最期は故郷の岐阜で静かに息を引き取ったそうです。

 私にとっては公私にわたってお付き合いいただいた、私の人間性を知る数少ない一人でした。苦境にあるとき、どれほど精神的に応援し続けてくれたことか。

 最後にお会いしたのは病室でした。別れのとき、私の手をかたく握り、目を見つめながら、いつも変わらぬヒョウヒョウとした声で、「ひとつ、日本のために頑張ってくださいよ」と語られたのが忘れられません。

 上杉さんは特攻隊の生き残りです。敗戦後は「おつりの人生」と見定め、全力投球してきたとおっしゃっていました。だからこそ口にできる「日本のため」なのですが、私にはあまりにも荷が重すぎます。


▽1 イエロー・ペーパーをやれ!!

 上杉さんが生前、私に何度も提案されたことがあります。それは神社人批判の勧めでした。ご自身は神社界の重鎮なのに、野人に過ぎない私にくり返し迫りました。「斎藤君、S新聞をやったらいい。キミならできると思う」

 S新聞というのはいわばイエロー・ペーパーです。つい最近まで、宗教界のスキャンダルを暴き立てることを得意とする新聞がありました。しかし編集者の高齢化で自然消滅したようです。

 その新聞があったころは書かれる側にもそれなりの緊張感があった。いまはそれがなくなり、だれきっている。だからお前がやれ、と上杉さんは何度も語るのでした。

 私がスキャンダル嫌いなのを上杉さんは知っているはずです。人間の世界なら、どこにでもあるような醜聞を暴き、カネに換えるようなことを私がまったく好まないことを、上杉さんは百も承知のはずです。

 それならなぜ、「わが神社人を批判せよ」とくり返し迫ったのか?

 それはなにより、上杉さんが若き日に文字通り、命を捧げようとした祖国の60数年後の腐りきった現状に深い憂いがあるからでしょう。そして、改革の先頭に立ってほしいと期待する神社人が、実際にはいっこうに現れてこない現実に対する苛立ちからではなかったか、と私は想像しています。


▽2 抗議の声が上がってこない

 たとえば、私がこのメルマガなどで一貫して指摘してきた平成の宮中祭祀簡略化問題です。

 【関連記事】天皇陛下をご多忙にしているのは誰か──祭祀が減り、公務が増える。それは陛下のご意志なのかhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-04-01-2
 【関連記事】宮中祭祀を蹂躙する人々の『正体』──「ご負担軽減」の嘘八百。祭祀を簡略化した歴代宮内庁幹部の狙いは何かhttps://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2009-09-01-2

 多くの人々が支持してくれましたが、祭祀を専門とする肝心の神社人のなかから、強い抗議の声はいっこうに上がってきません。昭和の簡略化問題が表面化した昭和50年代末に、猛反発し、宮内庁に抗議した、当時の若い神職たちはいまは60代で、第一線で活躍しているはずですが、昭和の先例を踏襲する目の前の現象に対しては、何も感じないのでしょうか?

 それどころではありません。ある神社人などは、拙著に対してずばり、「宮内庁批判はよくない」と語ったほどです。私はまったく耳を疑いました。もっとも批判すべき君側の奸(かん)に対して、媚(こび)を売っているのです。これでは問題の解決など望むべくもありません。

 このメルマガが追及してきた空知太神社訴訟判決の問題もしかりです。

 【関連記事】市有地内神社訴訟で最高裁が憲法判断か?https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2009-09-17-1

 上杉さんが提案されたイエロー・ペーパーは劇薬です。劇薬を用いなければならないほど、病は深い、と上杉さんは考えていたのかどうか?

 これからこのメルマガで、少し考えてみたいと思います。


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相次いで亡くなった日韓の架け橋 [神社人]

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相次いで亡くなった日韓の架け橋
──高麗澄雄宮司と黄慧性さん
(2006年12月26日)
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 古代と現代の日本と韓国とをむすぶ、じつに印象深い2人の方が今月(平成18年12月)、相次いで亡くなりました。お一人は、埼玉県日高市にある高麗神社の高麗澄雄宮司さん。もう1人は、韓国の宮廷料理研究家・黄慧性(ファン・ヘソン)さんです。

 高麗神社のある日高市はかつては高麗郡でした。『続日本紀(しょくにほんぎ)』には駿河、甲斐など7カ国の高麗人1799人を武蔵国に移住させ、高麗郡を置いた、と記されています。霊亀3年(716)のことでした。

 祖国滅亡という悲劇のあと、朝鮮半島から亡命してきた高句麗の遺民によって神社は建てられたのでした。祭神は高麗王若光といい、高麗宮司さんはその末裔で、59代目とのことでした。

 ある年の暮れに神社を訪ねたとき、宮司さんは「オヤジのころ」の話を聞かせてくれました。

「オヤジは2つ、イヤだと思ったことがある、といっていた。1つは、村の駐在所に特高警察がいたことだ」

 神社にお詣りする人を警察は警戒していたようです。もう1つは

「朝鮮人は各警察署ごとに『協和会』に入らされ、警察署長が引率して参拝にやってきた」ことでした。

「警察はオヤジに『立派な日本人になるようにいってくれ』と頼んだ。そういわれるのがオヤジはイヤでイヤで仕方がなかった」

 戦時中の高麗神社は、「一方では監視され、一方では利用される対象だった」ようです。

 そのころ警察に連れてこられた在日の人たちがいまも参拝にやってくるのですが、宮司さんにいわせると

「むかしはいやだったが、いまはここに来るとホッとする、というんだ」そうです。

 神社には外交官や経済人もやってきます。時代が代わり、いまや高麗神社は在日の人たちの心の故郷となっているようです。それは祭神である高麗王若光の子孫が神社にいるからです。

「韓国人が日本人の悪口をいうのも腹が立つが、オレは日本人が韓国の悪口をいうのも腹が立つんだ」

「高麗郡建郡1300年まで長生きして、神社主催で盛大に祝おうと思うんだ」

 と語っていた宮司さんは、晩年は杖を必要とする不自由な体でしたが、誰の世話になることもなく生活し、亡くなる数分前まで近所の人と談笑して、その後、ひとり静かに旅立ったそうです。79歳でした。

 黄慧性さんは忠清南道の裕福な両班の家庭に生まれ、日本の女学校に学んだあと、長年、朝鮮の宮中料理を研究しました。重要無形文化財に指定され、ソウル大など各大学の教壇に立ち、後進の養成に尽くしました。

 韓流の人気ドラマに便乗して、「チャングムの母」と呼ぶ人もいますが、韓国文化にくわしい友人によれば、黄慧性さんこそチャングムその人でした。じつは友人が「韓国のお母さん」と親しんで呼ぶのが黄慧性さんです。友人が留学中、韓国人と韓国文化のすばらしさを学んだのは黄慧性さんとその家族との交流があったればこそでした。

 逆に、黄慧性さんの偉大さは日本と日本人をしっかりと理解し、評価していたことにあります。戦後、失われかけていた朝鮮の宮廷料理を研究できたのは、日本時代に朝鮮総督府が李王職を設け、宮廷文化を保存、記録していたからでした。

 何年か前、友人につれられてソウルを旅したとき、南山の宮廷料理の店で、優雅なチマチョゴリ姿の黄慧性さんが語った言葉が印象的でした。

「最近の人はすぐに栄養学的な意味を考えようとする」

 国王が毎日、食する宮廷料理には儒教的な意味づけがある、それが現代の韓国人には理解できない、と嘆くのでした。

 韓国の文化をきちんとした日本語で説明してくれた黄慧性さんは長い闘病生活のあと、日本と日本人を愛した多くの韓国人のあとを追うようにして、この世を去りました。86歳でした。

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神社界のコメ援助、バングラに実り ──豊かさ、貧しさとは何か [神社人]

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神社界のコメ援助、バングラに実り
──豊かさ、貧しさとは何か
(平成6年4月5日付「日本経済新聞」)
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 平成6(1994)年2月、私は全国の神社の宮司さんたち13人といっしょに、南アジアのバングラデシュという国を訪れた。
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 今上天皇の御即位を記念して、神社界の有志が集まり、「アジアに米を」実行委員会という臨時の援助組織が結成され、バングラの孤児院に日本の米を送る活動が始まったのは、平成3年3月のことである。

 天皇の即位の儀式である大嘗祭が基本的に稲の祭りであることにかんがみ、全国の農家から各神社に奉納されるお米や神前に捧げられる神饌米(しんせんまい)による援助活動を展開しようと計画したのである。

 わずか3年間の活動ではあったが、8カ所の孤児院に直接、送り届けたほか、井戸を掘ったり、稲作農家に農業機械やヤギをプレゼントしたり、あるいはマングローブの植林に参加したりした。

 平成6年のバングラ訪問はささやかな活動の成果を視察するとともに、現地の人たちと交流することが目的で、実行委員会の事務局をあずかっていた私にとっては8回目の渡航であった。


▽ 黄金のベンガル


 バングラは日本と同じ稲作の国だが、3度の食事も満足にとれない人が星の数ほどいる。「世界最貧国」といわれるこの国から、ちょうどそのころ繰り広げられていた「平成の米騒動」を眺めたとき、思わずため息が漏れそうになることがしばしばであった。国情があまりにも違いすぎるからである。

 日本には「豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに)」という古典的な呼び名があるが、この国には「黄金のベンガル(ショナル・バングラ)」という美称がある。収穫期に訪れると、一面に広がる水田がまさに黄金色に輝いて壮観である。

 この国の国歌は、アジアで最初のノーベル文学賞受賞者として知られるベンガルの詩聖タゴールが作詞作曲した歌で、この「黄金のベンガル」を心から称える賛歌である。

 バングラはアウス、アマン、ボロの3毛作が可能で、91年には日本の約3倍に当たる2860万トンの米が生産されたという。

 しかしどこでも3毛作が可能なわけではない。93年8月に神職志望の学生たちとバングラを訪れたときは雨期のまっただ中で、ブラーマンバリア県は広大な水田地帯が完全に水没し、まるで湖のようになっていた、ここでは「半年間は稲作ができない」という。

「大自然の恵みはアラーの神が与えてくれるのだから、人間がいたずらに策を弄してはならない」というような宗教的な発想からか、農業技術は未熟で粗放的である。反収はせいぜい日本の半分にとどまる。

 コミラ県では東パキスタン時代から政府の手で大規模な灌漑化が進められ、乾期のボロ稲生産が可能になったが、貧しい農民がみずから灌漑設備を整備することは不可能に近い。

 果てしなく広がる水田もひとにぎりの地主が所有し、農家の半数以上は所有面積が0・5エーカー(約2反歩)以下の零細農家、もしくは土地なし農民である。小作農は9割もの小作料を地主から求められるというケースもあり、土地なし農民の多くは農閑期には失業状態にあると聞いた。

 92年、93年と2年続きの豊作に恵まれ、完全自給を達成したばかりか、「5万トンの米を輸出するまでになった」という情報も伝えられたが、これは比較的天候に恵まれた結果であり、悲願の独立から20年、この国は毎年200万トンもの米を海外からの援助と輸入に依存してきた。「絶対的貧困ライン」を下回る人は国民の2、3割にものぼるというのだから、気が遠くなる。

 私がはじめてこの国を訪れたのは、1991年5月、巨大サイクロンの襲来で「死者13万人以上」という記録的な被害を受けた直後であった。

 被災から10日後のチッタゴンはゴーストタウンのように生気を失っていた。

 被災地の中心コックスバザール県チョコリア郡は、当時、水田とエビの養殖場が地平線と水平線の彼方まで広がっていた。1971年の独立後、日本の資本などが導入されて本格化した養殖は貴重な外貨を稼ぎ出したが、反面、「チョコリア・ションドルボン(美しい森)」と呼ばれた広大なマングローブ林は乱伐と新田開発、養殖場建設のため、わずかな歳月ですっかり消滅した。

 天然の防波堤を失ったチョコリアは、7メートルの高潮と強風の前にひとたまりもなかったという。

 被災地から避難してきたという土地なし農民の家を訪ねた。わらぶきの家は縄文時代か弥生時代の竪穴式住居のようであった。内部は6畳一間ほどの土間で、屋根が低くて立ち上がることもできない。家財道具らしいものはなく、それでいて「親子9人で住んでいる」という説明に、涙が出た。

 日本を代表する国際的NGO・財団法人オイスカがチョコリアで展開しているマングローブ植林の責任者イスラム・チョードリさんには、何度となく美味しいビリアニをご馳走になった。香辛料をふんだんに用い、マトンや鶏肉などを炊き込んだご飯で、最高のもてなし料理である。

 この料理に使われる香り米は最高級の米で、1キロ24タカ(65円)する。日本米に比べれば10分の1程度の値段だが、この国の国民の大半を占める貧しい人々にはとても手が出ない。

 この国の人々にとってご飯を腹一杯たらふく食べるというのが何にも勝る最大のぜいたくで、ダッカ郊外のオイスカ農業研修センターでは、若い研修生たちが洗面器一杯ほどのご飯に少しばかりのダールスープなどをかけて平らげていた。けれども、彼らも研修が終わって郷里に帰れば、そうもいかないらしい。

 バングラの空の玄関、ダッカ空港に降り立つと、野次馬や物乞いの群れがまたたく間に集まってくる。「ボクシーシ(お恵みを)」と手を差しのべる子供は裸同然である。哀れを誘うような目でこちらを見つめ、手を口元に運んで食べ物がほしいという仕草をする母親の腕には、痩せた赤ん坊が抱かれている。

 盲目の人や片腕の人、両足のない人もいるが、「この国では生まれたばかりのわが子の肉体に、親が人為的にハンディキャップを作り上げることもある」と聞いて、私は耳を疑った。「物乞いの子は一生、物乞いで生きていくしかない」というこの国の社会でのぎりぎりの選択なのだという。

 人口500万人の首都ダッカには当時、数十万人のトカイ(浮浪児)がいるといわれていた。女性の社会的地位が低いために、夫と死別したり、離婚したりすると、子供たちはたちまちトカイになってしまうらしい。


▽ 明るい子供たち


 しかし彼らはじつに明るい。「ボクシーシ」といって近寄ってきた少女に、逆に「ボクシーシ」と手を差し出したら、彼女はニコニコしながらよれよれの1タカ紙幣(2・7円)を握らせてくれたものである。

 フェリーの船着き場などでは、子供が乗船客を相手にコップ1杯の井戸水や野生のバナナなどを売って働いている。どの子供も目がキラキラ輝いてまぶしかった。

 フェリーで売られていたバナナは寸胴型の野生種で、種が入っていたが、人工的に熟成させた日本のバナナよりはるかに味わい深かった。バングラの子供たちはこのバナナのような野生の強さを持っている。

 ブラーマンバリアのイスラム系孤児院では、神社界の援助に刺激されたのか、子供たちによる稲作や野菜作りが始まった。以前、この孤児院では食事の回数が1日2回だったが、むしろ孤児院の子供たちは恵まれている。十分とはいえないが、衣食住、そして教育が与えられる彼らはこの国の選ばれたエリートなのであった。

 一方、「経済大国」といわれる日本は「米騒動」のさなか、今日明日の食べ物に困るわけではないはずなのに、「米不足」の情報に国民はつい動揺してしまう。そんな私たちのことをバングラの子供たちが知ったら、どう思うだろう--と私は考え込んだものである。



斎藤吉久注記

 文中に登場するイスラム・チョウドリさんはこの数年後、鬼籍の人となりました。マングローブ植林のためにやって来た日本の学生たちを、ダコイト(銃で武装した強盗団)が襲撃するという事件があり、凶弾に倒れたのです。即死だったそうです。私にとっては、親族ぐるみでおつき合いいただいた、もっとも思い出深いバングラ人であり、心から冥福を祈らずにはいられません。

 チョウドリさんの死後、コックスバザールには10年の歳月をかけた幅100メートル、総延長60キロのマングローブ植林が完成しました。オイスカのプロジェクトとして進められ、郵政省の国際ボランティア貯金などの支援を受けて展開された植林事業ですが、最初のきっかけはこの記事に書かれている今上天皇御即位記念の孤児院支援でした。

 当時、オイスカのバングラデシュ開発団長を務めていた岡村郁男さんが、私たちが資金提供した種籾10トンを被災地の農家に配っていたとき、「マングローブがあったときはこんな災害はなかった」という地元民の声を聞いて、「それじゃあ、みんなで植えようよ」と提案し、植林が始まったのでした。

 ささやかな援助が日本とバングラデシュの草の根の友好を象徴する大きな森に成長したことを、私は深い感慨をもって受け止めています。

 さて、ひるがえって、日本です。オイスカはいま東日本大震災の被災地で、津波で失われた防潮林の再生事業を進めています。

 震災のあと、福島の海岸をめぐって見たものは、波ですべてが失われたバングラと同じ風景でした。バングラでは毎年のように水害が繰り返されています。私たちも負けるわけにはいきません。

 もうひとつ、いっしょにバングラに出かけたくださった澁川謙一元神社新報社長が鬼籍の人となりました。御霊の安からんことを祈ります。
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アンコール遺跡修復に明治の土木技術──発明した服部長七の敬神愛国 [神社人]

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アンコール遺跡修復に明治の土木技術
──発明した服部長七の敬神愛国
(「神社新報」平成16年2月9日号から)
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(画像は岩津天満宮HPから)

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 カンボジアのアンコール遺跡は、高い文化的価値が認められながらも、崩壊の危険が指摘されてきた。ユネスコが救済に乗り出したが、貴重な文化遺産の保護には日本をはじめ国際協力が欠かせない。

 しかし、遺跡修復に明治時代に発明された日本の土木技術が応用されてゐることはほとんど知られてゐない。発明者が母親譲りの熱心な敬神家であったことも……。

 日本政府の遺跡救済チームが遺跡修復に採用したのは、「長七たたき(人造石)」といふ技術だ。修復といふからにはもとの技術を再現したい。コンクリートでは空気に触れて劣化する。けれども「長七たたき」なら、逆に空気を吸って強度を増し、100年経っても壊れないからである。

「たたき」は古くからある左官技術で、消石灰とサバ土(花崗岩が土壌化したもの)を混ぜ、水で練って叩き固める。土間や床下などに広く使はれるこの技術を明治時代に改良し、コンクリート工法が普及するまでの過渡期に、大規模な土木工事に応用したのが愛知・碧南出身の服部長七だった。


▽ 天神さまのお告げ

 江戸末期に左官屋の3男に生まれた長七だが、維新後、上京して日本橋で饅頭屋を営んでゐたとき、水道水の濁りといふ現実に直面、「市民に悪水を飲ませてゐるのは、恐れながら東照公千慮の一失。私も三河人、過失を補ひたい」との思ひから濾過技術開発に取り組み、勝手知ったるたたきの有効性に思ひ至る。

 これをきっかけに「たたき屋」となり、皇居・御学問所の土間、赤坂、青山の御所、大久保利通邸、木戸孝允邸などを手掛けて、長七は社会的信用を高めていく。手間や賃金を顧みない熱心な仕事ぶりが公の目にとまったからだといふ。

 最初にたたきを土木工事に用ゐたのは明治11年、愛知・岡崎の旧東海道にかかる夫婦橋の架け替へだった。そのとき長七は生涯忘れ得ぬ宗教的体験をする。落成の1日前の朝、不思議にも天地は黄金にまばゆく輝き、目を見開くことすらできない。不思議なことがあるものだと、長七は予定してゐた「肩抜き」といふ最後の作業を取りやめ、以前から崇敬してゐた天神様に参籠し、一心に祈願する。

「3カ年、梅を断つので、1週間の間に夢中のお告げを賜りたい」

 満願の払暁、1人の老人が枕元に現れた。

「橋の空気の当たるところに欠陥がある。水中にも注意するがよい」

 現場に駆けつけ、いぶかる工夫たちを説得、虱つぶしに検査させると、果たして欠陥が見つかった。すぐさま修復し、堅牢強固な橋を完成させた長七は、敬神の念をますます深めていく。

 渡り初めの3日後、明治天皇御巡幸の御先発として通行になった宮内省の官吏は、この橋に注目し、技術の巧みなることを賞賛したといふ。「たたき屋長七」の名声はいよいよ高まり、品川弥次郎子爵の有力な後ろ盾も得て、堤防工事、築堤工事、築港など手掛ける事業は全国に、そしてアジアに拡大していった。なかでも特筆すべきは、17年の起工から5年余の歳月を費やした国家的事業、宇品(広島)港築港工事である。


▽ 境内を終の棲家に

 長七は日本近代産業革命の卓越した担ひ手の1人であった。「自己の利益だけを求めず、公益を広めなさい」といふ母親の諭しに従ひ、ときに採算を度外視して事業に打ち込む姿勢は多くの信望を集めたが、国士的精神を貫いてゐたものは篤い信仰であった。

 65歳を機にいっさいの事業から手を引いた長七が終の棲家に選んだのは、崇敬する岡崎・岩津天満宮の境内である。大正8年に80年の生涯を閉じるまで、長七は天神様の境内整備に最後の情熱を傾けた。

「天満宮中興の祖」が逝って100年、たたきはコンクリート・ジャングルといはれる現代都市に甦ってゐる。化石エネルギーを必要とせず、環境に負担を与へないことから再評価されたためで、公共施設などに積極的に採用されてゐる。

 明治といふ多難な時代には、長七のやうな敬神愛国を地でいく日本人がいくらでもゐたのであらう。未曾有の国難にあるはずの現代はどうか。

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男女平等を説く神道講師「賀屋鎌子」──数千の聴衆を酔わしむ熱誠 [神社人]

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男女平等を説く神道講師「賀屋鎌子」
──数千の聴衆を酔わしむ熱誠
(「神社新報」平成12年11月13日号)
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 手元にある1冊の遺稿集の口絵に古びた家族写真が載っています。撮影は明治38(1905)年4月、向かって左のイスに腰掛けたまじめ顔の少年はのちに東条内閣の蔵相を務めることになる賀屋興宣で、中央に一人悠然と立っているのが兄の就宣、右の椅子に座っているのが2人の母親ですが、丸髷に留め袖というような、いかにも母親らしい身なりではなく、兄弟と同様、羽織袴なのが目をひきます。

 化粧っけのない顔、引き締まった唇、カメラに向けられた目は、慈愛に満ちているというよりはどこか厳しさが漂っています。けっしてふつうの家庭婦人ではないことが見てとれます。

 明治時代、神職のなかに日本の女性運動の先駆けがあり、その中心が山口県・二所山田神社の宮本重胤宮司であった、という知られざる歴史を以前、書いたことがありますが、その後、読者から宮本と同時期に神道講演講師として活躍した複数の女性がいたことを知らされました。

 その1人が、この賀屋興宣の母・鎌子です。


▢ 藤井稜威の妻で賀屋興宣の母
▢ 日露戦争では出征兵士を激励

 戦前は神社の神主といえば男性に限られ、女子神職は認められませんでした。しかし終戦直後の神社本庁設立と同時に女子神職の任用は制度化されました。電撃的転換の背景には何があったのでしょうか。

 元山口県神社庁長の宮崎義敬氏は、宮本重胤が明治後期に設立した大日本敬神婦人会が婦人を対象とした神道教化や婦人神職任用の実現、婦人参政権獲得、神前結婚式の普及などに大きな役割を果たしたこと以外に、

「山口県には神道講演講師として県内外で広く活躍した女性がかつて何人もいた。また、戦争末期には国のレベルでも、神職夫人などに3日間ほどの講習を受けさせ、代務者として神明奉仕を認めた時代があった。そうした神道夫人の実績が相まって、戦後まもなく女子神職任用が認められることになったのではないか」とおっしゃるのでした。

 山口県には「女性を登用する伝統的気風があった」ともいいます。「私自身、病身の父に代わって、小学校3年の時から出征兵士祈願祭などを奉仕できたのは、母のおかげだ。母は父の手ほどきを受け、祝詞作文から祭壇の鋪設(ほせつ)など自在にこなした」と宮崎氏は語ります。

 宮崎氏の子息で、神功皇后(じんぐんこうごう)神社禰宜(ねぎ)の宮崎宏視氏によれば、明治15年に神官と教導職の兼務が廃止され、次第に神道界が官僚化していったとき、山口県の神職たちはこれに満足しなかった。
 教化活動の核となる神風講社が数多く結成され、講習会が盛んに催された。神社非宗教論を主張して神社神道への攻勢を強めていた浄土真宗などに対する対抗意識が高まり、熱心な教化活動が展開され、明治後期には民衆教化のための講師会が発足する。
 大正・昭和になると、戦争や不景気で苦労する国民を励ますために、講演活動はいっそう盛んになり、講師養成のための山口国学院特設講演研究部が創設されるなどした──(「山口県における神道教化の流れ」=「山口県神道史研究」第4〜6号)。

 明治10年代、神風講社の結成のため、県下を巡講していたのが賀屋鎌子だ、と宏視氏は解説するのですが、どのような人物だったのでしょうか。

『神道人名辞典』など、いくつかの人名辞典に当たってみましたが、残念ながら賀屋鎌子に関する記述が見当たりません。子息の興宣が書き残した著作などを手当たり次第、片っ端からめくってみて、ようやく昭和38年に日経新聞に掲載され、のちに単行本化された『私の履歴書』に、わずかな思い出が記録されているのを発見しました。

『履歴書』によると、興宣は明治22年、広島にある母は・鎌子の実家で生まれました。父親は藤井稜威(いつ)です。鎌子の名は知らなくても、国学者である藤井を知る人は少なくないかも知れません。嘉永6年(1853)、山口県上関町・白井田八幡宮社家の生まれで、30歳の若さで神宮第15教区本部長となり、やがて広島国学院や国風新聞社を設立しました。藤井の実弟で、その養子となり、のちに賀茂家を継いだのが靖国神社宮司・賀茂百樹(ももき)です。

 興宣によれば、賀屋家のルーツは鎌倉時代に播磨の守護であった赤松則村とされ、江戸期には広島の浅野藩に仕え、江戸詰として江戸に居を構えていましたが、明治維新で広島に帰ります。そして興宣が生まれました。少年時代は「若様」と呼ばれる日々を送り、4歳のとき、母の伯父の家を継いで、賀屋姓を名乗ることになったといいます。

 興宣の回想には母親の記憶が2回、出てきます。

 1つは、むかし伊達という粋人の県令(知事)がいて、芸者学校を建てました。教師に選ばれたのが興宣の祖母と母・鎌子です。祖母は加賀百万石の奥女中を務めたことがあり、礼儀作法と書道、絵画の心得がありました。11歳の鎌子は作文や算術を教えました。はるかに年下ながらきびしい先生で、泣かされた芸者もいたようです。鎌子の月給は巡査並の4円だったそうです。

 もう1つのエピソードは、日露戦争当時のこと、出征兵士の大半が広島・宇品港から戦地に向かったのですが、多くの兵士が賀屋家にも分宿にやってきました。鎌子は若い兵士たちをもてなし、激励し、大いに感激させました。「かいがいしく立ち働いていた母の姿はいまでも目に浮かぶ」と興宣は振り返っています。

 しかし神道家としての鎌子に関する記述が見当たりません。「母は漢学者であり、社会事業やまた精神方面の講演をよくやっていた」という表現が見受けられる程度です。


▢ 講演行脚は数千回を超える
▢ 慈善事業や子弟教育に尽力

 図書館で資料をくまなく探して、手島益雄著『広島県先賢伝』(昭和18年刊。その後、51年に復刻)に鎌子が載っているのをようやく見つけました。面白いことに、郷土の偉人数百人を取り上げたこの紳士録に、鎌子の夫「藤井稜威」の名はありません。一方で、「賀屋鎌子」の方は「教育家」と「心学者」の2つの章に登場します。夫より評価が高いということでしょうか。

『先賢伝』によると、鎌子は文久元(1861)年、江戸藩邸で生まれました。維新後は藩公から拝領した広島市鷹匠町の旧藩鷹屋敷に移り住み、ここで暮らしました。

 手島は一度だけ、この屋敷に鎌子を訪ねたことがあるそうですが、客間の床の間には注連縄(しめなわ)が張られていました。理由を聞くと、「かつて旧藩主が鷹狩りの際、この座敷で休息した。その昔をしのび、敬意を表して」と説明されたといいます。

 手島は、鎌子の生涯を次のように描いています。

 ──早熟の鎌子は幼少のころから学問を好み、国学を藤井稜威に、石田梅岩の教えである心学を宮本愚翁および叔父の賀屋忠恕に学び、さらに漢学を考究した。
 賀屋忠恕は父・明の弟で、心学に志して平野橘翁に師事し、維新後は教務省神宮教院、京都明倫社などから諸国教授の引証を受けたほか、神宮教管長から権大講義に補せられ、神宮教会総理に任じられた。
 藤井家に嫁いだ鎌子だが、明治31年に夫が死去し、さらに実父・明が亡くなると、賀屋家相続のため復籍する(この点、興宣の『履歴書』とは事実関係が異なっています)。

 尊皇の志があつく、国体観念に徹し、国体の本義と民心の作興のため、鎌子は広島、山口、島根、岡山、愛媛などの各県を行脚して講演しました。その回数は数千回を超えたという。

 また慈善事業につくし、愛国婦人会の主唱者・奥村五百子と共鳴して、会の幹事となったほか、平和会、広島婦人慈善会を創立した。

 日清戦争・日露戦争のときは自宅を軍隊の宿舎にあて、兵士の接待・慰労に努めた。同時に皇国精神について講和し、感激・共鳴させた。無事に凱旋帰国した兵士で、その後、何十年も交際を続けた人も多い。

 さらには、自宅に私塾を開き、多数の子弟を教育した。質素勤勉にして、皇国精神の徹底と武士道的婦人のたしなみ以外、何ものもない一生で、大正4(1915)年に55歳で死去した──。

 以上のように手島は書いています。昭和18年の刊行だけに、いかにも戦争の時代を感じさせる表現ですが、鎌子のただ者ではない生きざまは見えてきます。しかし具体的な表情が見えません。


▢ 90日間で5万人が耳を傾ける
▢ 「国運の消長は女子の双肩に」

 神道講師としての賀屋鎌子の具体的な活動を記録していたのは、大日本敬神婦人会の機関紙「女子道」です。宮本重胤の孫で、二所山田神社の現宮司・公胤氏の協力で、何点かの資料を入手することができました。

 明治43年6月の号に重胤は、緑風の俳号で、鎌子との最初の出会いについて書いています。

「女史には謹厳な侵しがたい威厳と情愛とがあふれていた。互いに道を語るにおよんでは、百年の知己に会ったがごとく、意気投合した。斯道(しどう)の不振を慨嘆し、邪教の跋扈(ばっこ)をののしると、熱誠こもる語気が激して庭前の桜花はために散り、道を布く苦心を語っては、眉間に一抹の曇りが帯び、ために前栽の海棠(かいどう)がしなった」

 名文調の記事から、信念に燃える2人の対面の様子が鮮やかによみがえってきます。

 鎌子の地方講演はしばしば長期におよんだようです。45年7月の「女子道」には「個人消息」の欄に、「名誉会員の賀屋鎌子氏が山陰石見地方を巡教した。講演旅行は90日におよび、のべ5万人が耳を傾けた。女史の熱誠と精力を感じるにあまりある」という短信が載っています。

 熱誠があふれていたという講演の内容はどのようなものだったのでしょうか。鎌子は何を語ったのでしょうか。

 大正2年4月、大日本敬神婦人会の周北会員謝恩大祭が開催されたというニュースが「女子道」に掲載されています。会場は二所山田神社でした。午前中は宮本重胤幹事長が祭主を務める謝恩祭と重胤の講話、午後は総会式で、そのあと講話が続きました。講師は古守敏雄と鎌子です。

 婦人装束に身をつつみ、凛々しく足を運んで神拝したあと、鎌子が登壇、朗々と教育勅語を奉唱し、重々しく語りはじめました。「わが国民は神祇崇敬をもって第一の勤めとする。帝国の隆盛発止はこの風盛んになるか否かによる」。神代から当今に至るまでの歴史を引用して詳説し、とくに婦人に対して注意を喚起した鎌子は講演中、終始不動で、数千の聴衆を酔わしめた──と記事にあります。

 そのときの講話の大要が翌月の号に載っています。一口でいえば、講演は男女平等を説き、世の女性たちを鼓舞するものでした。

「本来、男女に尊卑の差はない。男女は飛ぶ鳥の両翼のごとく対等でなくてはならない。
 中古以来、男尊女卑の風が起こり、女性がそれに甘んじてきたのは情けないことだ。天照大神も天鈿女命(あめのうずめのみこと)も偉大な神様で、男子と対等で、しかも男子以上のお力があった。
 また女性には人を作る田地たる天職があって、国家にとって利のある人も、害のある人も、みな女性が生み育てた結果による。
 したがって国運の消長は女性の双肩にかかっている。良田に良種生ずるように修養を怠ることはできない。女性の本分を発揮し,その徳光を輝かせていただきたい」

 賀屋鎌子の情熱は、戦後の神道婦人の活動にも受け継がれました。大きな影響を受けた1人が先年、亡くなった山口・宇津神社禰宜、佐古幸嬰氏です。戦前から戦後にかけて、半世紀以上にわたって神道教化の第一線に立ちました。

「佐古女史が女学生のころ、鎌子女史が頭をなでながら『しっかり勉強して立派な神道講師になるんですよ』と励まされた。そんな思い出を私に話してくれたことがある。これが佐古女史の講師人生の出発点だったかも知れない」

 そのように語るのは、元神社本庁総長の櫻井勝之進氏です。鎌子以来、男女平等を神道的に説く女性神道講師の潮流が脈々と流れているのです。

 櫻井氏の郷里・島根県那賀郡の八幡宮を講演のためいくたびか訪ねた鎌子が、櫻井氏の名を詠み込んだ自筆の和歌を残しているそうです。「相当の筆力」だと聞きます。

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青鞜社に先駆ける神道人の女性運動──婦人神職の道を切り開いた宮本重胤 [神社人]

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青鞜社に先駆ける神道人の女性運動
──婦人神職の道を切り開いた宮本重胤
(「神社新報」平成12年11月13日号から)
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「女性と靴下が強くなった」といわれた「戦後」も今は昔、靴下の方は安い輸入物が増えたせいか、めっきり弱くなりました。一方、シドニー・オリンピック(2000年)での大活躍に見られるように、日本女性の強さはいよいよ衰えを知りません。

 たとえば、今年(平成12年)2月、大阪府に誕生した初の女性知事・太田房江氏は春場所の優勝力士に府知事賞を土俵上でみずから授与することに熱意を示し、「女人禁制」の伝統を固持してきた相撲協会をあわてさせました。

 結局、女性知事の「土俵入り」は水入りとなりましたが、9月には女性初の横綱審議委員に選ばれた脚本家の内舘牧子氏が「女性が土俵に上がることは大反対」と主張し、俄然、場外戦は女の戦いの様相を帯びてきました。「男女平等」の理念と伝統文化の衝突はどこまで行き着くのでしょうか。

 と、ここまで書いて、ふと気づくのは、「男女平等」という理念は近現代になって西欧のキリスト教文明から新たに移入されたものであり、日本の伝統的価値観とは対立する、というような「常識」が議論の暗黙の前提になっていることです。はたしてこの「常識」は正しいのでしょうか。

 一般には、日本の女性解放運動・婦人運動はヨーロッパの影響を受けて、平塚雷鳥(らいてう)らを先駆者として始まったといわれますが、じつはそうではありません。というのは、日本の伝統文化の典型である神社の神職たちが、平塚らよりも早く、しかも国境を越えて世界的に、女性運動を展開していたからです。まったく意外なことに、近代日本の女性運動は日本の伝統のなかから生まれたのです。


1、神社本庁の書庫に眠る資料。昭和初年に評議員会で激論

 全国各地に約8万社あるといわれる神社のほとんどは現在、宗教法人神社本庁に包括されていますが、その設立の歴史は案外、新しく、戦後まもなくのことでした。設立の母体となったうちの1つは神職団体である大日本神祇会(全国神職会[全神]が昭和16年に改称)です。

 その古い資料が東京・代々木にある神社本庁の書庫に、褐色に変色して眠っています。その資料のいくつかに、知られざる日本の女性運動史の断片が記録されていました。それまで男性に限られていた神職の資格を女性にも認めようという、いわゆる女子神職任用問題です。

 毎年5月に開かれる財団法人全国神職会の評議員会の「議案」にこのテーマが最初に登場するのは昭和5年のことのようです。A5変型、10数ページ、活版で印刷された「第七号議案 地方団体提出議案」の4ページに、「十五、神社用務に婦人任用の制度を設けられたき件」(原文は漢字カタカナ混じり)の1行があります。提案したのは、中国・四国地方の中州九県神職連合会です。

 翌6年にも提議されたようですが、残念ながら、いずれも議事録が見当たらず、具体的にどのような議論が交わされたのか、くわしいことは分かりません。

 昭和7年にも「中州九県神職連合会決議──広島県神職会提出」で議題に取り上げられました。「東京府渋谷町若木」に全国の神職たちが長年、待望した全国神職会館が竣工した年のことです。真新しい会館の講堂で熱い議論が交わされました。

「議事速記録」によると、評議員会第三日、議案はまず建議案第一部委員会に付されました。けれども、議論が沸騰して満場一致を見ることができず、採決の結果、「保留」のまま本会議に回されます。

 最初に宮本重胤(山口)が発言に立ちました。

「他府県にもお願いし、年々歳々、提案してきたが、いずれも保留となったのは遺憾だ。議論の余地はないのであり、婦人神職任用を可決していただきたい」

 しかし、これに対して、「保留」を望む慎重論が呈示されます。

「清浄を尊ぶのが神社の根本義であり、穢(けが)れにあるものが仕えるのは神社の忌むところだ。女子は出産、月経などによって穢れがあると信じられている。女子の任用は根本の建前を損なうものと考える。また、神職の任用について、いま全神の神社制度調査会で研究中である。最大の論点は、将来の神職は中等学校程度の学力が必要だということで、女子神職任用は時代の議論を無視し、神職の統制を乱すことになるのではないか」

 きびしい発言に議場はやや騒然となったと記録されています。争点は「穢れ」と「学力」の2点です。

 宮本氏がすかさず反論します。

「穢れを忌むというのはまったく仏教思想の現れである。日本では美夜須比賣(ミヤスヒメ)の熱田神宮、倭比賣(ヤマトヒメ)の伊勢神宮の斎宮といい、ことごとく婦人であるのはいうまでもない。朝廷でも今日、内掌典の制度が認められているのはご存じの通りだ。婦人の学力を云々するのは男尊女卑の思想にとらわれている。女学校の卒業生を神職に認めるということにしても差し支えない」

「穢れ」は外来の仏教思想であり、日本の伝統思想ではない、という反論は注目されます。宮本の発言中、何度か拍手も聞かれました。しかし、多数の同意を得ることは簡単ではありませんでした。

「私は賛成だが、生理期間の穢れを忌むのは中国からの思想であるというような議論になると、神職の斎戒・服喪の規定はまったく無視しても良いという意見にならないか。生理期間は遠慮するとか、別則を設けるものと思っていたが、そうではないのか」

 宮本がふたたび説明します。

「婦人は月経があるから奉仕できないという意見があったので、月経は忌むべきものではない、と申し上げた。もとより月経を忌むという思想は古いものではないと思う。美夜須比賣のお歌を見れば分かる」

『古事記』の倭建命(ヤマトタケルノミコト)のくだりに、美夜須比賣との相聞歌が載っています。か弱い腕を枕に寝たいと思うがあなたの着物の裾に月が出てしまった、と命が歌うのに対して比賣は、あなたのお出でが待ちきれなくて月が出てしまった、と答え、2人は結ばれます。

「月が出た」とは生理のことで、初潮を見た女性が一人前と見なされ、結婚の能力を備えたものと考えられたようです。宮本はここには穢れの観念はない、と主張したのです。

 本会議での議論は賛成意見がむしろほとんどなのですが、採決の結果、女性神職任用はこの年も「保留」となります。その翌年も、そのまた翌年の議案にも女性神職任用問題は載っていません。けれども、この時代に神職たちが公的な場で何年も継続して、このような議論を行っていたことは確かであり、そのことは注目されるべきです。


2、明治38年に敬神婦人会設立。異端視されて苦難の40年

 女子神職実現運動の歴史は、もっと古く明治30年代にまでさかのぼることができます。

 運動の指導者こそ前述した宮本重胤その人でした。明治14年生まれ、山口県都濃郡鹿野町(現在の周南市)・二所山田神社の宮司で、戦後は山口県神社庁長にまで上り詰めました。

 宮本はなぜ女性神職問題と取り組むようになったのでしょうか?

 孫で現宮司の公胤氏がまとめた論攷「『女子道』にみる『大日本敬神婦人会』の教化活動について」によれば、宮本重胤ははじめ村内や近隣の郷村で教化活動を展開していたのですが、熱心な会員の増加と発展に自信を得て、県内はもとより日本全国さらに海外への教化活動を目指すようになります。そして明治38年に創設したのが「大日本敬神婦人会」でした。

 明治になって「四民平等」政策が推進されましたが、男尊女卑の因習は以前、残っていました。宗教界は女性への布教・教化を怠っていました。一方で欧米の近代思想が流入し、女性の就業・就学率も高まってきました。重胤は時代の気運を敏感に察知し、女性を対象とする教化活動の展開を決意したようです。「女性の信心第一なり。女性の信心があれば、おのずと家庭のなかに信仰の輪が広がる」というのが重胤の口癖でした。

 敬神婦人会は機関紙「女子道」を発刊するとともに、委嘱講師による講演活動を展開しました。目的は女性に対する神道教化のほかに、女性神職任用の実現、神職婦人の意識高揚と団結、さらに女性参政権獲得、神前結婚式の普及など多方面にわたり、時代の最先端を行く運動内容でした。会員は国内のほか、ハワイ、アメリカ本土、朝鮮、満州、台湾、樺太に広がりました。

 今日、各神社に置かれている赤い箱の「おみくじ」で知られる女子道社は、このような女性運動の資金作りが設立の契機だったといいます。

 一般には日本の婦人運動の草分けとして平塚雷鳥らの「青鞜社」が知られていますが、その結成は明治44年ですから、大日本敬神婦人会はそれより6年早いことになります。また青鞜社の活動はわずか数年ですが、重胤の運動は日米開戦時まで続きます。

 同じ女性運動とはいえ、その内容も異なり、重胤は青鞜社に批判的でした。インテリの青鞜社が「自由」を標榜したのに対して、全日本敬神婦人会は庶民層の「良妻賢母」を理想としました。

 しかし、ことに重胤が一貫して主張し続けた婦人神職問題について、山口県神職会、中州九県神職連合会で合意を得るまでが苦労の連続でした。異端視され、きびしい批判を浴びせられた重胤は、教学的研究を深めていきました。

 大正時代末期になってようやく賛同者も増え、山口県神職会、九州神職会、中州九県神職会、全国神職会に提案できるようになりましたが、大正14年に全国社司社掌大会が東京の国学院大学で開かれたとき、内務大臣、神社局長ほか500名を前に女性神職任用について数十分、熱弁を振るったものの、聴衆はけげんそうな表情で野次も消え、重胤は反応のむなしさに落胆しました。

 全国神職会の評議員会に出席するたび、「女神主さん」と声をかけられ、苦い思いもしたといいます。昭和7年の評議員会で女子神職問題が「保留」になったあとは、人々の頑迷さに嫌気がさしたのか、「やめる」という言葉まで吐いています。

 しかししばらくすると、重胤は新たに「神職婦人修養会」を結成します。神職婦人を結集し、女性による女性神職任用の実現を図ろうとふたたび立ち上がるのです。

 40年間にわたる重胤の活動は機関紙「女子道」に記録され、8冊に閉じられて、神社に保存されているそうです。


3、神社本庁創立時に公認される。いまや1割を超えた女性神職

 女性神職が実際に誕生するのは戦後です。神職の広報紙・月刊「若木」が一昨年(平成10年)、その経緯と現状について取り上げています。

 記事によると、神社本庁の庁規起草案ともいうべき「神祇庁(仮称)庁規大綱(案)」は戦前の制度を踏襲し、神職任用の資格を「二十歳以上の男子」(原文は漢字カタカナ混じり、以下同じ)と定め、女性を排除していました。ところが実際に昭和21年の神社本庁設立総会で可決された神社本庁庁規は、第79条で「宮司の任用資格は階位のほか、年齢二十歳以上の男子たることを要す」と規定し、宮司以外なら女子でもかまわない、という解釈が可能になりました。

 ここに宮本重胤らの長年の夢は実現したのです。

 この間、どのような議論があったのか、明らかではありませんが、神道学者の小野祖教はその背景に男女平等の思想精神のほかに、出征し戦死した神職の後継者問題という「切実な問題」があった、と指摘しています(『神道の基礎知識と基礎問題』)。戦時中あるいは戦後、正規の神職に代わって夫人が日々、神明奉仕していた現実を認めないわけにはいかなかったのだともいわれます。

 それから半世紀が過ぎ、環境は変わりました。昭和20年代は100人に1人ほどであった女性神職が、30年代には50人に1人となり、40年代には30人に1人、50年代には20人に1人、平成に入ると神職全体の1割を占めるようになっています。文字通りうなぎ登りです。

 神社本庁のデータによると、昨年(平成11年)12月末日現在で、全国の神職数は計2万1572人で、うち女性が2351人と全体の1割を超えます。宮司の数で見ても、1万753人のうち女性は460人。25人に1人は女性宮司という計算になります(「定例評議員会議案」)。

 また神社本庁研修所が発表した「平成11年度階位検定白書」によれば、昨年度(平成11年度)の全階位検定合格者1200名のうち女子は228名で、2割におよびます。いまや検定試験で資格を得る神職の卵の5人に1人は女性なのです。

 宮本重胤の時代とはまさに隔世の感があります。

 女性神職の草分け的存在で、全国に先駆けて昭和33年に設立された宮城県婦人神職協議会長を一貫して務め、平成9年に女子神職としてはじめて特級身分を授与された奥海睦・金華山黄金山神社宮司は、時代の移り変わりを次のように語ります。

「私が女性の明階第1号と騒がれたのは40年前です。主人が亡くなって途方に暮れましたが、嫁の私に神社をついでほしいと氏子さんがいうので、子供を実家にあずけ、国大の3年に編入し、さらに夜学で文学や語学などを学びました。ニセ神主とマスコミに批判されたこともありますが、多くの人の理解と励ましに支えられました。いまは時代が変わりました」

 世界宗教と呼ばれる大宗教には女性聖職者の存在を認めないものもありますが、女子神職が当たり前になっている日本の伝統宗教ははるかに進んでいます。

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朝鮮を愛した神道思想家の知られざる軌跡──大三輪長兵衛、葦津耕次郎、珍彦の歩み [神社人]

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朝鮮を愛した神道思想家の知られざる軌跡
──大三輪長兵衛、葦津耕次郎、珍彦の歩み
(月刊「正論」1999年4月号から)
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「戦後唯一の神道思想家」といわれる葦津珍彦(あしづ・うずひこ)は、昭和から平成への御代替わりを見定めるかのように、即位の礼から1年後の平成4年6月、82歳でこの世を去りました。

 その葦津が人生の大半を過ごした古都・鎌倉の家に、昭和19年に朝鮮独立運動家・呂運亨(ヨ・ウニョン、여운형)から贈られた一幅の書が伝えられています。畳一畳ほどもある大きなもので、「万里相助」と墨字で書かれています。葦津は生前、これをときどき掲げては、力のこもった惚れ惚れするような行書体を静かに眺めていたといわれます。
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 日本の神道といえば、戦前の大陸侵略を導いた狂信的イデオロギーのようにしばしば考えられています。戦後の神社本庁設立、紀元節復活、靖国神社国家護持運動などに中心的役割を果たした葦津を、「国家神道イデオローグ」と見なす人さえいます。

 だとすれば、青年期にキリスト教の洗礼を受け、やがて朝鮮独立運動に身を投じ、上海の大韓民国臨時政府樹立に加わり、第二次大戦終結後には建国準備委員会を組織し、「朝鮮人民共和国」の副主席ともなった建国運動の中心人物の書が、なぜ葦津家になければならないのでしょうか。

 その謎を解くことは、知られざる近代日韓(日朝)関係史を明らかにすることであると同時に、韓国歴代大統領の来日のたびに日本政府の「謝罪」が繰り返されてきた、戦後の異様な日韓外交への痛烈な批判ともなるでしょう。


1、国王高宗に貨幣制度改革を一任された大三輪長兵衛

 葦津珍彦は生涯、日韓関係に強い関心を寄せていたといわれますが、そのきっかけは祖父・磯夫の実兄で、珍彦の大伯父に当たる大三輪長兵衛なる人物を抜きにしては語れません。

 大三輪長兵衛は天保6(1835)年、葦津磯夫は同11年、福岡・筥崎宮(はこざきぐう)の社家の家系に生まれました。じつの兄弟であるのに姓が異なるのは、事情があって長兵衛が若き日に実家を飛び出したことなどによるようです。

 その後、家督は次男磯夫が継ぎました。磯夫は明治維新後、筥崎宮の祠掌(宮司)に就任し、神祇官復興、教育勅語起草に関わり、晩年は福岡県神職会長を務めるなど、神社界の重鎮として活躍します。

 他方、「分家」の立場に甘んじ、「本家」の弟を、そして明治の神道界を経済的に背後でよく支えたのが、経済人として身を立てる長兵衛でした。

 天性の経済的才覚に恵まれた長兵衛は長崎からさらに経済都市・大阪に転じ、海運貿易などでたちまち成功を収め、幕府町奉行の御用をつとめたほか、諸藩に接近しました。維新後は土佐の板垣退助や林有造らの立志社と交わり、のちに大隈内閣で逓信大臣となる林とはとくに深い親交を結んだといわれます(『葦津耕次郎追想録』、宮本又次『大阪商人太平記』、澤田修二「大三輪長兵衛の生涯」など)。

 特筆すべき業績は、まず明治11(1878)年に第五十八国立銀行を創立したことです。翌12年には日本初の手形交換所を開設し、会長となりりました。14年には岩倉具視右大臣に商務局設置の必要を訴え、これが受け入れられて後年、農商務省が設置されます。20年には第五十八国立銀行の頭取となりました。
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 活躍の場は経済界にとどまりません。15年には、大阪初の女学校ともいわれる私立大阪女学校を自費で創立します。

 長兵衛はまた政界に進出し、14年には大阪府会議員に当選、15年には府会副議長、20年には府会議長に選ばれ、22年2月の帝国憲法発布式には大阪府会議長の資格で参列します。同年7月には初代大阪市会議長に就任しました。31年夏の衆院選に当選し、34年までは帝国議会議員の地位にありました。

 朝鮮国王とはじめて接触したのは、24年4月です。日本駐在の朝鮮代理公使・李鶴圭が国王高宗の命令で訪ねてきました。以前、朝鮮人の商人数名が米の売買で大阪にやってきて、日本人にだまされ困窮していたのを長兵衛が救ったことがありました。そのお礼の訪問でした。

 このとき長兵衛は東洋の危機が迫っていることを論じ、日清韓は唇歯輔車の密接な関係にあることを力説します。李鶴圭は感激し共鳴しました。その夏、今度は公使金嘉鎮が朝鮮国王高宗の招請状をもってあらためて来訪し、朝鮮の貨幣制度改革への協力を要請します(『人物の解剖 当代の実業家』明治36年)。

 同年秋、長兵衛は高宗に拝謁し、従二品嘉善大夫の位を授けられ、交換署会弁に任命されて、貨幣改革の一切を任されます。日本の一民間人が朝鮮国王にこれほど重用された例はほかにはないでしょう。翌25年、長兵衛は大阪府会議長、市会議長、第五十八銀行頭取の職を辞し、日本外務省の了解を得て、ふたたび玄界灘を渡ります。決意のほどがうかがえます。

 けれども改革は進みませんでした。才知をねたみ、名声を汚そうとする者があり、高宗との連絡が滞ることが多く、計画は挫折します。新式機械を導入し、新貨を鋳造したのですが、広く流通するには至らなかったようです。26年、長兵衛は病を得て、帰国します。長兵衛は辞職を願い出ましたが、国王は認めませんでした(宮本又次『上方の研究5』など)。


2、日韓議定書締結を斡旋して高宗からねぎらいの言葉を受ける

 当時、朝鮮では大院君(高宗の父)と閔妃(ミンビ、高宗の妃)の骨肉の争いが、外国を巻き込んでやむことを知りませんでした。朝鮮を去るとき長兵衛は、遠からずして京城(いまのソウル)に異変がおこることを予言しましたが、果たして明治27(1854)年5月、東学党が乱をおこします。清国は朝鮮政府の要請を受けてただちに出兵、日本もこれに呼応して、日清の対立が表面化しました。

 すかさず長兵衛は伊藤博文の委嘱を受け、野党指導者の林有造と竹内綱(のちの首相吉田茂の実父)を同行して訪朝します。「日本は政争に明け暮れ、対外戦争などできる状況にはない」と判断する高宗に対して、「戦争となれば国内は一致する」と説得し、日本との連携を強く勧めたようです。そして、長兵衛の予想は的中し、高宗の信頼は高まります。

 日清戦争に勝利した日本は、中国と従属関係にあった朝鮮の独立を清に認めさせたほか、遼東半島や台湾などの割譲を受けることになりましたが、ロシア、フランス、ドイツの三国干渉で28年、遼東半島の放棄を余儀なくされます。
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 この時期、長兵衛は京釜鉄道敷設権の獲得に奔走します。

 日清戦争中の27年8月に締結された日韓暫定合同条款では日本は鉄道・電信の特殊権益を認められていましたが、権利の独占に不満をもつアメリカやフランスが京城−仁川、京城−釜山間の敷設権を先に獲得していました。こうした状況下で鉄道敷設に苦心したのが竹内綱、尾崎三良そして長兵衛でした。

 34年6月に敷設された京釜鉄道株式会社(会長渋沢栄一)は2500万円の大資本を擁する当時日本随一の大企業で、長兵衛は尾崎、竹内らとともに取締役となります(『朝鮮鉄道史』昭和4年)。

 1897年(明治30)年2月、高宗は国号を「大韓帝国」と改め、皇帝として即位するのですが、長兵衛に対する信任は一貫して厚く、明治33年夏、京城竹洞の永嘉殿前に邸宅を下賜され、36年春には正二品資憲大夫、勲三等大極章を授与されるほどでした。

 晩年、病気がちであった長兵衛は明治36(1903)年10月、外務省政務局長・山座円次郎から「上京せよ」との電報を受け取ります。日露戦争の前夜です。国際情勢は風雲急を告げていました。小村寿太郎外相と山座局長に面会した長兵衛は、日韓議定書(攻守同盟)の締結斡旋を委嘱されます。長兵衛のほかに高宗を説得できる者はない、と政府は判断したようです。

 日韓議定書は日露開戦直後の37年2月に調印されます。翌3月、帰国を前にして皇帝に謁見した長兵衛は、ねぎらいの言葉を受けたといわれます。

 けれども、その後、日露戦争に日本が勝利したあと、38年11月に韓国を日本の保護国とする日韓協約(乙巳保護条約)が調印され、12月に韓国統監府が設置されます。外交権を奪われたことを不満とする皇帝は40年7月、オランダでの万国平和会議に密使を派遣し、条約の不当を訴えようとして失敗、退位します。

 こうした状況を最晩年の長兵衛はどのように見ていたのでしょうか。皇帝は最後まで長兵衛を信頼していたようですが……。

 41年1月、長兵衛は帰らぬ人となります。日本の皇室から祭祀料が下賜され、韓廷からは勲二等八卦章が授与されたといわれます。日韓併合の成立はその2年後です。


3、威圧政治の張本人に「日韓併合」反対を論じた葦津耕次郎

 日韓併合に反対を唱えたのが、磯夫の次男で、長兵衛の甥の葦津耕次郎です。
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 耕次郎は明治11(1878)年、やはり福岡に生まれました。日清戦争の前夜、「日本の安泰を期するには満州・朝鮮に王国を作り、俺が国王になろう」と途方もないことを考え、中国語や韓国語を習い、大阪の伯父長兵衛のもとで簿記を学んだあと、19歳でドン・キホーテのごとく海を渡ります(『葦津耕司郎追想録』)。熱情家にして豪傑肌の耕次郎ですが、型破りの行動は父・磯夫そして伯父・長兵衛の威光や人脈なしには考えられません。

 耕次郎は終生、熱心な信仰家でしたが、神職として一生を送ることはなく、若くして事業家となります。ただし、採算確実な事業には見向きもせず、つねに前人未踏の事業を開拓することに情熱を傾けました。満州軍閥の張作霖を説得して鉱山業を興し、あるいは工務店経営者となり、台湾から檜を移入し、全国数百カ所にのぼる社寺を建設しました。

 伊藤博文が初代韓国統監となって赴任する道すがらといいますから、明治39年2月のことでしょうか。耕次郎は九州日報社長の福岡日南をともなって、下関の春帆楼に伊藤を訪ねます。

「陛下の思し召しである日韓両民族の融合親和のために、命がけで働いていただきたい。真の融合親和とは軍艦や大砲、金銭の物質的力でできあがるものではない。あくまで思想、信仰、倫理、道徳の一致という根本方針に立たなければ、朝鮮民族を信服させることはできない。そのためには、朝鮮二千万民族のあらゆる祖神を合祀する神社を建立し、あなたが祭主となって敬神崇祖の大道を教えられねばならない。これが明治大帝の大御心(おおみこころ)である」

 県知事や軍司令官など高位高官が居並ぶ席で、耕次郎は1時間余りにもわたって弁じ立て、一方、枢密顧問官を兼任する伊藤は20代の若者の言葉に座布団をおりて傾聴したといいますから驚きです。伊藤は耕次郎に賛同し、実行を約束しました。

 のちの朝鮮神宮の歴史がここに始まるのですが、伊藤は42年10月にハルピンで安重根の凶弾に倒れ、その後、具体化した朝鮮神宮は耕次郎の思いとはまったくかけ離れた、いわゆる強圧的「植民地支配」のシンボルとなります。

 43年8月、韓国が併合されます。寺内正毅総督を支えて、これを実現したのは、憲兵司令官・明石元二郎です。

 耕次郎は明石と親しい間柄にありました。葦津家には耕次郎宛の明石の手紙が幾通も残されているといわれます。熊本第六師団団長時代の明石を耕次郎が訪ねたことがあります。話題が日韓併合に移ると、耕次郎は威圧政治の張本人に向かって、「併合はわが政府の失態だ」と声を張り上げました。「なぜだ」と明石は色をなして反発します。

 耕次郎は論じ立てました。「孟子にも、『これを取りて、燕の民喜べば、取るべし』とある。日韓併合で全道二千万の民が喜ぶのなら差し支えないが、日本の政治家は日本国民を喜ばせる方法さえ知っていない。ましてや韓国二千万の国民はみな悲憤慷慨(ひふんこうがい)している。にもかかわらず、あえてこれを併合し、わが国の馬鹿政治家に任せたぐらいでは、とても韓国の民を喜ばせ、信頼させることはできない」
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 明石は反論します。「理想としては君のいうとおりだが、いま日本は過渡期にある。徐々に整理していくほかはない」

 耕次郎はなおも声を励まし、「本末転倒だ。日本の政治が整わないうちに他国におよぶことは、他国を救うことができないばかりか、自国を滅ぼす」とふたたび批判しました。激論は終夜におよんだといわわれます。

 大正7(1918)年、台湾総督となった明石は、威圧政治の繰り返しを心配する耕次郎に、「今度は君の意見を尊重して、期待に背かないから」と語りました(『あし牙』)。

 珍彦が『葦津耕次郎追想録』の解説で指摘していることですが、これら耕次郎の談話が発表されたのが、「軍国主義」華やかなりし時代とされる昭和14(1939)年であることは注目されていいでしょう。大陸侵略の尖兵どころか、時代の良識が民族宗教である神道のなかに息づいていました。


4、日韓融和のため朝鮮神宮にまず朝鮮民族の祖神をまつれ

 併合から数代の総督を経て、斎藤実海軍大将が総督となり、朝鮮神宮設立のことが耕次郎の耳にも聞こえてきました。最初は年来の宿願が実現されることを喜んでいましたが、天照大神(あまてらすおおかみ)と明治天皇が祀られるというのです。「それはよくない」と耕次郎は斎藤に面会を求め、「朝鮮神宮を設立するなら、まず第一に朝鮮人の祖神を祀るべきだ」と主張しました。

 しかし斎藤は、「手続きが完了していて、いまさらどうにもならない」というばかりでした。

 京城・南山に朝鮮神宮が鎮座するのは大正14(1925)年10月です。祭神問題の議論はその春からん沸騰します。当時随一の神道思想家・今泉定助、靖国神社宮司・賀茂百樹、都城神社祠官・肥田景之ら神道人が「朝鮮の国土にゆかりの深い祖神を祀るべきだ」と主張し、とくに耕次郎はもっとも熱心に運動しました。

 北海道開拓をふくめて海外の神社に、地域を守られる「国魂神(くにたまのかみ)」を祀ることをしない「悪しき先例」となったのがこの朝鮮神宮だといわれます(『近代神社神道史』)。

 14年8月に耕次郎が書いた「朝鮮神宮に関する意見書」は、「皇祖および明治天皇を奉斎して、韓国建邦の神を無視するは人倫の常道を無視せる不道徳……必ず天罰と人怒を招来すべきものなり……日韓両民族乖離(かいり)反目の禍根(かこん)たるべし」と強い調子で批判しています(『あし牙』所収)。

 余談ですが、朝鮮神宮の遷座祭直前に、「朝鮮の始祖および建国功労者」をあわせ祀ることを望む内閣総理大臣宛の建議書を提出した耕司郎ら神道人有志のなかに、朝鮮神宮初代宮司・高松四郎の名があることは強調されるべきでしょう。

 鎮座式のあと、神道人と政府関係者がするどく対立しました。肥田の仲介で朝鮮神宮に関する懇談会が開かれると、席上、斎藤総督はこう弁明したといわれます。

「朝鮮神宮に朝鮮人の祖先を祀らず、日本の神だけを祀ったことに対して、不穏な事件でも起こりはしないかと思っていたが、無事に鎮座式がすみ、幸いであった。朝鮮人の先祖とされる檀君の事蹟を学者に調べさせたが、実在の神かどうかが明確ではなかった。実在の神と判明すれば、時機を見て祀るつもりである。遷座の日、朝鮮人はみな浄衣を着て、神輿(みこし)を沿道に迎えた。われわれの誠意を知り、日本人と朝鮮神宮に対して悪意を抱いていないという証拠である」

 耕次郎が立ち上がりました。
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「総督は恥を知る人なのか。政治とは何かを知る人なのか。学者というのは、耳目にふれるもの以上のことを考えられない馬鹿者である。学者の言葉に従って、どうして生きた政治ができるのか。数千万の朝鮮人が存在する以上、祖先が存在するのは動かせない事実だ。その祖神を大国魂(おおくにたま)として祀ればいいのだ。朝鮮政治の根本義として、ただちに祀るべきである」

 思い切った批判ですが、さらに続けて、耕次郎はこう語ります。

「総督は、神輿通過の際、朝鮮人が衣冠を改めて迎えたことをもって、日本の優位を誇るのか。朝鮮はわが国の保護下にある属国で、われわれより一等劣ると見ることができるかも知れないが、その朝鮮人でさえ、他国の祖を迎えるのに浄衣をまとった。他国の祖神を尊敬する道徳を知っている。この教訓が示すものさえ感じずに、安閑と眺めていたのか。恥を知る者のなすことではない」

 武断政治を排して、名総督と謳われたとされる斎藤は何と答えたのでしょうか、あるいは答え得たのでしょうか。

 耕次郎は最晩年の昭和11年春には、朝鮮の神社祭祀について宇垣一成総督に進言し、「目下、わが国の神社制度は支離滅裂、何ら精神の一貫するものはなく、且つその祭式は無精神にして虚礼虚儀に過ぎず、ともに範とすべきものなし」と厳しく断じています(『あし牙』)。

 しかし、朝鮮神宮に朝鮮民族の祖神が祀られることはその後もなく、ましてや日韓両民族の真の融和は実現されませんでした。そして昭和20(1945)年8月の日本の敗戦で、朝鮮神宮では祭神にお帰り願う前代未聞の昇神式が行われ、御神体は宮中に返還、社殿は解体焼却されました(森田芳夫『朝鮮終戦の記録』)。


5、呂運亨の独立工作に関与した葦津珍彦

 耕次郎の長男・珍彦は明治42(1909)年、福岡に生まれました。最初は無政府主義に傾倒する左翼的青年でしたが、父・耕次郎の姿を見て回心し、父親がおこした社寺工務店を引き継いで神社建築にたずさわる一方で、玄洋社の頭山満や神道思想家の今泉定助、朝日新聞主筆の緒方竹虎などと交わり、中国大陸での日本軍の行動や東条内閣の思想統制政策などを強烈に批判しました。
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 珍彦は朝鮮独立論者でした。「日本が東洋の解放をうたい上げたところで、朝鮮の独立を認めず、『満州国』をロボット化したのでは国際的信用を得られないのは当然で、朝鮮独立を進めなければならない」と主張しました。有力者のなかにも案外、同調者が多かったのですが、若造の空想論は当然のことながら発禁され続けたといわれます(「日韓民族の不幸な歴史」など)。

 珍彦が朝鮮独立運動家の呂運亨を知るのは昭和18(1943)年といわれます。神兵隊の前田虎雄が呂とともに訪ねてきて、今泉への取り次ぎを依頼したのです。

 珍彦によれば、呂運亨は大東亜戦争のさなか、政治路線の大胆な転換を考えたといいます。「存亡の危機に立つ日本が必要としている和平工作を助け、日本に朝鮮の独立を承認させよう」ともくろみ、日本政府および軍の中枢とも交渉したのですが、そのためには朝鮮総督・小磯国昭との会談は不可欠でした。小磯が精神的な師と仰いだのが、当時随一の神道思想家・今泉です。

 珍彦は呂を案内し、今泉を訪問しました。「日本はアジア解放の大胆な政策を断行し、総督政治の大転換を図るべきだ」と呂が力説し、前田は「日本権力の走狗のような親日家ではなく、呂と協力すべきだ」と訴えました。交渉は数回におよびました。

 東条内閣の厳しい軍政下では、呂の提案は困難であり、危険でした。一歩誤れば、敬神尊皇の師としての今泉の晩年を汚すことにもなりかねません。呂の人脈はモスクワの共産主義者や重慶の国民党政権ともつながっています。利敵の危険も否めません。今泉は熟慮し、「どうするか」と珍彦に問いました。珍彦は小磯への保証連絡を願いました。今泉が覚悟を決めます。珍彦は感激しながら、小磯宛の長い紹介状の文案を書き、今泉が無修正で清書したのでした。

 呂は喜び勇んで京城に向かいましたが、関釜連絡船で朝鮮軍憲兵に捕らえられます。しかし、小磯は最高の賓客として迎える準備をしていました。総督官邸で小磯は数時間にわたり、呂の論に傾聴しました。けれども会談が終わると、憲兵はそのまま呂を連行し、治安維持法違反で地下室に投げ込みます。当時、朝鮮総督と朝鮮軍司令官は同等の権限をもっていたのです。

 今泉らは救出に努めましたが、ことは進みません。正式に起訴され、朝鮮軍から総督府へ事件が回付されると、今度は小磯がすぐさま釈放します。しかし、それまでに一年が経っており、戦争はすでに最終局面を迎えていました。

 珍彦は釈放されたばかりの呂運亨を京城の朝鮮ホテルに訪ねました。19年夏に東条内閣が倒れたあとのことで、日本の敗戦と朝鮮の独立を確信する呂は、ホテルの一室で長時間、力説しました。

「敗戦となれば、対日弾圧が徹底され、日本は諸君の想像以上の存亡の危機に立つ。他方、朝鮮は形式上は独立するが、建国の人材に乏しく、極東の弱小国にとどまる。この明白な極東情勢こそ、日韓両民族が相助け、相和すべき天機だ。私はそのために全力を尽くす」

 今泉や前田らの友情に感銘する呂は、「自分の志を日本の支援者に伝えてほしい」と語って、珍彦に「万里相助」の書を与えたのでした。

 20年8月、日本はついに降伏します。京城の総督府はただちに呂運亨が指導する建国準備委員会に引き渡されましたが、2年後の夏、呂は李承晩派によって暗殺されます。
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 珍彦は呂運亨を沈才沈勇の革命的政治家として畏敬しました。敵国たる日本人とも深く交わって、世界の大動乱に対して、「日本にも信ずべき友あり」として、韓国のため、アジアのために戦い抜いた、と最高の評価を与えています(『今泉定助先生研究全集1』など)。

 およそ20年後、国交正常化から数カ月後の41年春、珍彦は韓国を訪問しました。朝鮮ホテルは呂運亨と語らった当時のままでした。1週間後のソウル滞在中、珍彦は大学教授や学生など30数名の韓国人と10時間余り討論しました。その印象を「韓国紀行」(『葦津珍彦選集2』所収)などに書いています。

 独立後の韓国は李承晩政権以来の徹底した反日教育で、「日本人ほど悪い奴はない」という国民意識に固まっていました。学生たちが自国の歴史に切々たる愛情を持っているのは好ましかったのですが、知識は明らかに偏っていました。近代の日韓対立史は詳しいものの、李朝内部の対立関係の知識は貧しいのです。抗日烈士の活躍には詳しい反面、反日戦線内の思想対決はよく知りません。憎むべき日本人の存在については詳細な知識を持ちながら、好ましい日本人の存在は知りませんでした。

 それは現代のハングル教育の結果でもありました。ハングルの教科書で歴史を学ぶ学生たちは、漢字の多い独立以前の歴史文書が読めないのでした。多くの知識が不足するのは当然でした、と珍彦はいいます。

 珍彦がもっとも畏敬する開化派独立党の指導者・金玉均については、日本に欺かれて反乱(甲申の変)をおこして失敗、日本に亡命したが見捨てられ、上海で惨殺された、と学生たちは日本人の背信と冷淡を語りましたが、終始、同情と支援を惜しまなかった福沢諭吉や頭山満など日本の民間支援者の存在は知りませんでした。

 日韓併合に対する恨みは深いけれども、それは伊藤博文に集中していました。抗日烈士・安重根を英雄視するあまり、伊藤以上の弾圧者である山県有朋、桂太郎、寺内正毅、明石元二郎らは過小評価されていました。

「諸君の歴史観では、よい日本人は一人もいなかったことにならないか?」

 珍彦が問いかけると、学生たちは黙ったままでした。

 珍彦が語りました。

──諸君は、日本人を信用できないとする史料ばかりをたくさん知っていて、日本人に好意を感じ得るような知識はまったく持っていない、といっていいように見える。そして、一面的な知識を列挙して日本人を非難する。
 無責任で軽率な日本人は「過去は悪かった。反省する。これから仲良くする」などという。しかし、日本人が四、五百年もの長い間、悪いことばかりをし、好ましいことを何もしなかったのだとすれば、わずか10年か20年、「反省した」として、日本人を信頼できるのか。韓国人はそれほど甘い民族なのか。
 諸君の知識がさらに補強され、過去の日本人にも好ましい点、信頼すべき点があったことを発見してくれなくてはならない。そうでないかぎり、相互の国民的信頼感はけっして生まれないと思う。

 珍彦はさらに、日韓近代史についての自分の考えを述べました。
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──諸君は、朝鮮亡国史として1907年の皇帝の退位と1910年の日韓併合を盛んに語るが、その10年前の1896年に李朝は滅びていたのではないか。閔妃暗殺事件のあと、高宗は皇太子とともにロシア公使館に逃れ、ロシアの海兵隊に守られて、みずから任命した金弘集首相以下、開化派反ロシア党の臣僚を惨殺させた。このとき朝鮮の独立は失われている。あとに残ったのは、どの狼が死肉を食らうかの問題だけだ。
 諸君は外国権力の責任を追及するが、外国が非道だから国が滅びざるを得ないというのではそもそも独立を保てない。むしろ諸君は、朝鮮内部の亡国理由を鋭く直視すべきではないか。
 李朝時代、知日派には真の憂国者がいくらでもいたが、親露派、親清派には真の憂国者があるを知らない。日韓併合時の首相李完用はもとは親露派だった。大勢が決したあとで、守旧派や変節派が「総督政治」の支柱となった。節義なく右往左往した韓国人自身を責めないで、「日本人が悪い」といっている間は、韓国の親の独立は実現されない。日本人といえば、悪い奴ばかりだと思い込んでいるのなら、和して交流する必要はない。

 珍彦の論に一理あり、と認める学生もいましたが、反発する者もいました。珍彦は反論する学生にも好感を持ちました。信実を求めたいという真剣さが感じられたからです。

 翌日、学生たちに見送られ、機上の人となった珍彦は韓半島の山々を眺めながら、父・耕次郎を思いました。まだ10代の父は暴政に苦しむ朝鮮の民衆を思い、即席の韓国語を学んで渡鮮し、銃と太刀とを携え、2頭の馬をひいて、朝鮮半島鶏林八道の隅々まで旅しました。

 明治にはそんな青年はいくらでもいました。珍彦は明治の青年たちの壮大な志と情熱を懐かしみながら、これからの日本の青年が対日不信に固まった韓国の青年と交わり、その意識を心底から揺り動かし、深い信頼と友愛を築き上げることは容易ではない。それは偉大にして困難な、男子畢生(ひつせい)の大業というべきものである。才知や打算ではなく、山をも動かさねばならぬ、というほどの情熱と大志が要求される──と書いています。


6、日韓の真の融和のために、二度と悲史を繰り返さないために

 葦津珍彦の膨大な近代史研究は、この韓国訪問前後から本格化します。葦津は、日韓併合はひとつの悲史だ、と理解します。東洋の解放という明治の理想が破れ、俗悪な帝国主義の野望に転落した典型が日韓併合だ、と葦津はいうのです(「天皇制と明治ナショナリズム」)。

 そうした歴史論を踏まえて、葦津は戦後日本の「謝罪外交」を批判します。戦争に敗れた日本人が卑屈な低姿勢で「陳謝」するのは相手の軽蔑を招くだけである。日本は過去を陳謝するより弁明すべきだ。過去の日本に非がなかった、と強弁するつもりはないし、重苦しい過去の重圧を十分、感じているが、それは二倍にも三倍にも増幅されて、全世界の前で糾弾、断罪されてきた。これ以上、追認するのは無意味であり、愚かだ──と葦津は主張します(『アジアに架ける橋』)。

「謝罪ゲーム」にうつつを抜かす為政者に代わって、葦津のいう、山を動かすほどの情熱と大志を抱く青年たちはいつの日か、現れるでしょうか。いや、星の数ほども育て上げなければならないでしょう。日韓の真の融和のために、そして二度とふたたび悲史を繰り返さないために……。


追伸 この記事は産経新聞社発行「正論」平成11年4月号に掲載された拙文に多少、修正を加えたものです。

 なお、この記事では、朝鮮神宮設立構想が葦津耕次郎の個人的な働きかけで始まったかのように書かれてありますが、じつは必ずしもそうではないようで、当時の神社界の広報誌をみるとかなり組織的な動きがあったことが分かっています。しかし神社建設の目的はあくまで日韓の融和が主体でした。
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阪神・淡路大震災から2年──津名郡支部長の闘い [神社人]

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阪神・淡路大震災から2年
──津名郡支部長の闘い
(「神社新報」平成9年1月13日号)
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 伊弉諾神宮(兵庫・淡路島)の本名孝至禰宜が津名郡支部長に就任したのは、阪神・淡路大震災直後の一昨年(平成7年)2月1日である。以来、多忙の日々が続いている。

 自衛隊のほか、神青協、天理教などによる、「人生観が変わる」ほどの献身的な協力で、瓦礫の後片付けが一段落したあと、支部長としての初仕事は、被災の実態調査だった。

 四国地区神青協の神職と手分けして、鎮座地を回り、2日がかりで現地調査した。

 郡内189社のうち、3分の1が被災し、20社が深刻な被害を受けた。被害総額は数十億円。

 いちばん心が痛んだのは、「所在が分からない神社が2社あった」ことだ。祭りは絶え、神職や氏子にも確認できない。

 神社本庁などからの義捐金の配分にも苦労した。本務、兼務、所管兼務に分類し、本殿、拝殿などそれぞれに基準点をつけ、被害を数値化する。不公平や間違いがあってはならない。何度も計算し直し、徹夜の作業が続いたらしい。

 希望が見えてきたのは、冬が去り、春の息吹が芽生えたころという。

「これなら復興できる」

 氏子の住宅建設の槌音が本格化したのは翌春だった。

「これからはお宮の復興が競争になる。そうなると早いですよ」

 いま切実に願うのは、常設の特別融資制度だ。

 大震災直後、神社本庁は特例貸付規定を設けて、被災神社を助成したが、「氏子が壊滅的被害を受けた地域では神社復興を考えるゆとりがなく、制度が十分に活かせなかった。助成が必要なのはむしろこれからだ」というのである。

 心配なのは、北淡町で大歳神社など5社が大がかりな震災復興土地区画整理の対象になっていることだ。

 町は車社会への対応と防災都市づくりのために幅15メートルの幹線道路建設が必要だとし、1割の土地の提供、移転などを求めている。

 支部では安易な社有地変更を危惧し、一昨年(平成7年)6月、「神社の保全と尊厳護持」のための請願書を提出した。

 区画整理は紆余曲折の末に昨年(8年)11月上旬に県知事の認可が下り、具体化されることになった。根強い住民の反対で先行きはまだまだ不透明だが、「町も柔軟になった。まったく協力しないわけにはいかない」。

 昨年11月末、困った事態が持ち上がった。

 昨夏、兵庫県は文化財と歴史的建造物の復旧に対し、「復興基金」による最高500万円の補助を決め、8月に申請を受けた。ところが県神社庁にも知らされず、半年間も蚊帳の外に置かれていたことが判明したのだ。

 県や町に照会して、担当者が慌てて説明に来るという始末で、その後、12月の2次申請に向けた作業に着手したが、「はなはだ遺憾」と唇をかむ。

 必要な情報が与えられず、行政の無能ぶりが暴露されたのが大震災だったが、官僚たちは懲りずに同じ轍を踏んでいる。

 震災以来、夫人と愛犬とのプレハブ暮らしが続く。自宅は全壊だった。

「アパートを借りるぐらいはできますよ。でも、まだ仮住まいの氏子がいるのに申し訳が立たない。お宮と氏子は運命共同体。神職は神様と氏子の両方に奉仕しなくてはならない。最後の1人が復興するまで続けますよ」

 闘いは当分、続きそうだ。

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