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まこと──神と人に奉仕する心 [神社人]

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まこと──神と人に奉仕する心
(「神社新報」平成8年9月9日号から)
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 冬は吹雪で陸の孤島のように孤立する。砂地や湿地ばかりで、陸路での参詣は想像以上に困難を極めた。大正時代は、奥羽線が通る大釈迦から丸一日歩かなければお詣りができなかった。

 そんな神社が今日の隆盛を誇るまでになったのには、理由がある。

 高山稲荷神社(青森県車力村)の近代史は苦難に満ちている。安東水軍の時代にまで遡る古社ともいわれながら、明治初年の「神社明細帳」の記載から漏れてしまったことがことの発端だ。

 あまりに人里から離れているために、調査が及ばなかったらしい。

 村人が県に陳情を重ねても却下されるばかりで、神社とは認められなかった。それでも参拝者は後を絶たない。村人は消沈するどころか、ますます熱心に運動を続けた。

 明治25年には、政府の許可がないまま、浄財を集めて新社殿を造営した。だが社格申請をと思っていた矢先の翌年暮れに、火の不始末で焼失、人々の苦労は泡と消える。

 責任を感じたのは、現宮司の曾祖父に当たる工藤吉右衛門だ。

 明治の初頭から海岸に移り住み、漁業に携わり、ときに海難者の救助に務めながら、参拝者相手の木賃宿を営んでいた吉右衛門は、

「一身をかけて、お宮を復興しよう」

 と堅く決意したという。

 その熱意が通じたのか、1年も経たずに仮社殿が建つ。

 吉右衛門の願いを引き継ぎ、苦労の末に、神職の資格を取得した娘婿の行省は、神宮奉斎会の一員として神宮大麻を頒布しながら、信仰を語り、神習教の布教者となって、各地を旅して神徳を説いた。

 多くの人々の粘り強い努力が実り、大正5年、ついに「無格社」という社格が与えられる。初代社掌(宮司)となったのは、行省である。

 昭和5年には神宮用材の下付を得て、昭和の造営が成る。15年前までは正式な神社として扱われなかっただけに、関係者の喜びはいかばかりであっただろう。

 神道の原理は「まこと」だといわれる(小野祖教『神社神道講話』)。神社復興に捧げる吉右衛門、行省の行動原理はまさに「まこと」であろう。

 だが、「まこと」をもって奉仕したのは2人だけではない。

 明治22年、アメリカの帆船チェスボロー号が台風に遭遇し、七里長浜の沖で遭難した。乗組員23名のうち助かったのはわずかに4名だった。

 このとき吉右衛門夫人は、絶望と思われた意識不明の船員を人肌で温め、蘇生させた。

 神社のかたわらの高台に、大きな「遭難慰霊碑」が建っている。「郷土の偉人はん」は小学校の道徳の副読本にも取り上げられたという。

「まこと」をもって神と人に奉仕する生き方はその後も受け継がれる。

 しかし危機は再びやってきた。戦争である。2代宮司文吉の長男・次男は戦陣に散った。参拝者もめっきり減り、財政は逼迫した。

 難問が、復員した三男伊豆を待ち構えていた。

 伊豆は窮乏を救うために製塩を始めた。ドラム缶を釜に、海岸の流木を薪にして、海水を煮詰める。最初はドロドロの塩しかできなかったが、やがて純白の塩づくりに成功し、多くの人が物々交換にやってきた。

 たちまち白米が庭積みされるようになり、神社は危機を免れた。

 23年には念願の拝殿新築が実現する。電気は、伊豆みずから電信柱を担いで引いたという。

 世の中が落ち着くと参詣者が増える。伊豆は人々をもてなすため、実弟と裏の海で漁をした。新鮮な魚は高山の名物として喜ばれた。

 参拝者はいまも家族同様、宮司夫人の手料理で歓待される。といっても腕前はプロ級。浴衣は夫人らが、一針一針、心をこめて縫い上げるそうだ。

 神職も職員も参拝者を温かく迎え、悩みや喜びを分かち合うことが大切だ、と工藤伊豆宮司はある対談で語っているが、実際、参詣者は実家に帰ったような安堵感を覚え、宮司の温顔に懐かしい父親との再会を感じている。

 明細帳にも記載されない苦難の時代から今日までの発展の源泉は、代々、受け継がれてきた、こうした「まこと」の実践なのだろう。(『高山稲荷神社史』、社報「たかやま」、季刊「悠久」などを参照)。

最北の神社に奉仕する──バングラ訪問が転機 [神社人]

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最北の神社に奉仕する──バングラ訪問が転機
(「神社新報」平成8年7月15日号)
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「これを見てくださいよ」

 渡井民元宮司が拝殿横の重い扉を開けると、漆の香りとともに、大御輿が3基、姿を現した。

 1基は大正4年の作、もう1基は昭和24年。傷んでいた両方を修理したうえに、さらに1基が昨年(平成7年)、新調された。

 昨年7月の霊祭では、担ぎ手のかけ声が元気よく町にこだましたという。

 日本最北端・稚内市の北門神社。創建は天明5(1785)年、厳島神社に次いで、市内では2番目に古い。

 境内横から坂道を上り詰めた稚内公園には、昭和史のドラマが詰まっている。

「氷雪の門」は樺太で亡くなった人々の慰霊碑。過酷な自然に耐えて築き上げた郷土と肉親と財産を失い、ひたすら祈る女性の姿だという。

「9人の乙女の像」は、敗戦後の8月20日、ソ連軍の攻撃を受け、窓越しに砲弾が炸裂するなか、自決した真岡郵便局の電話交換手たちの慰霊碑だ。

 昭和43年、この地を訪れた昭和天皇は、乙女の像の前で深く頭を垂れ、冥福を祈られたという。

樺太に命を捨てしたをやめの心を思へばむねせまりくる

 戦後、樺太はソ連領サハリンとなり、稚内は日本最北の都市となった。人口4万6千人を抱えながら、本務の宮司が不在だったこの町に渡井氏が赴任したのは、一昨年(平成6年)9月のことである。

 渡井氏は東京・渋谷の生まれ。国学院大学卒業後、25年間、北海道神宮に奉職した。転機のきっかけは「バングラ訪問」という。

 神社新報社内に事務局を置いて、御大典記念事業の1つとして展開された「アジアに米を」救援事業で、平成6年2月、中野尹亮・北海道神宮宮司の代理として、現地視察旅行に参加した。

「どんなところでも生活できるんだと思いましたよ」

 貧しい国で中年の域をはるかに越えた日本人のボランティアが、現地の青年たちに農業を指導していた。自然環境も文化も異なる国で、どっかりと腰を据え、自分のためではなく、人のために、たくましく生きている姿に、強く勇気づけられたらしい。

 帰国後、北門神社が宮司を必要としていることを知った渡井氏は、「自分が行こう」と考えた。中野宮司は驚いた様子だったが、「1人でやってみたい」との志に共鳴してくれたという。

 初仕事は神輿の修理と新調だった。

「今度の宮司はちょっと違うぞ」

 神社から疎遠になりかけていた、とくに若い氏子たちは好感をもって迎えてくれた。

「神社の原点は祭りです。魂を揺さぶるような祭りで、エネルギーを町中に広げていければと思っているんですよ」

神社を復興する──大連神社を守り抜いた神職「水野久直」 [神社人]

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神社を復興する
──大連神社を守り抜いた神職「水野久直」
(「神社新報」平成8年5月13日号から)
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 下関・赤間神宮の社殿の裏手に、大連神社が鎮座している。

 なぜここに旧満州・大連市の総氏神が鎮まっているのか。そこには死を賭して御霊代を守り抜いた1人の神職の物語が秘められている。

 大連神社が鎮祭されたのは、明治40(1907)年のことである。昭和の造営で境内は3万坪に拡張し、新社殿が竣工したのもつかの間、創建40年目で敗戦の結末を迎える(『明治天皇御尊像奉遷記』など)。

 主任神職(社司)の水野久直は、御神霊と明治天皇御尊像を断じて守護する、と心に決めたという。奇しくも創建の年に生をうけた水野は、神社を守り抜くことが自分の使命と固く信じていた。

 怒濤のごとく進駐するソ連軍、町では略奪も始まった。神社にも兵士がやってきた。しかし雅楽を聴かせると喜び、日曜ごとに演奏会を開くことになる。

 評判は司令部にまで届いた。危機を救った舞楽装束はのちに伊勢の神宮に納められ、神宮の窮乏を救う。

 ソ連軍との友好関係は長くは続かない。職員のたび重なる連行、留置ののち、接収の申し入れをうけて、水野は奉遷を決意する。

 前代未聞の引き渡しが日ソ間で調印されたのは、22年3月のことだった。

 水野は白衣に紫の袴、数貫目におよぶ御霊代の唐櫃を背負い、錦御旗を手に神社を出発した。職員には、

「引き揚げではない。御遷宮である」と訓示した。

 最大の危機は、大連収容所での荷物検査だった。思召しで奉献された御神宝の明治天皇御尊像が取り上げられでもしたら、神職として生きて帰ることはできない。水野は死をも覚悟した。

 気迫が通じたのか、司令官たちは胸に手を当てて御尊像に最敬礼し、立ち去った。危機が去って、水野は御尊像にひざまずいた。涙が頬をぬらした。

 御尊像はいま明治神宮に奉納されている。

 乗船は2日後である。装束姿で御霊代を背負う水野らを、ソ連軍将兵は礼を尽くして見送った。

 職員たちは甲板で大連神社をはるかに眺めつつ、最後の奏楽を奉納した。君が代の演奏は引揚者を巻き込んで、涙の大合唱となった。

 夕日を浴びる南山がこみ上げる涙で曇った。聖寿万歳が高らかに三唱された。

 帰還後、水野は、空襲で灰燼に帰した赤間神宮の復興に関わった。

「無一物で帰還したのだから、無一物の神社の再建に尽くしたい」

 水野は心に誓い、文字通り夜も寝ずに尽力した。

 宮司に就任したのは23年である。24年に赤間神宮が復興されたのち、大連神社再建に着手し、全国的な募金が始まった。

 目標は100万円。だが3年間で集まったのは、わずか27万円。敗戦の痛手から立ち直っていないうえに、いわば「満州の亡霊」の再建を人々が快く思わなかっただろうことは想像に難くない。

 それでも造営事業は進んだ。29年10月、福岡・筥崎宮に仮奉安されていた大連神社の御霊代は水野が捧持し、雨のなかを奉遷し、引揚者たちの支援で竣功した1間四方の仮殿に遷座した。

 敗戦から9年、内地奉遷から7年、御霊代を命がけで守り抜いた敗戦後の混乱の日々が、水野の脳裏を駆け巡ったことだろう。

「そのとき、その瞬間が、一日一刻が、私にとって命がけの神明奉仕だった」

 支えとなったのは、師と仰ぐ頭山満の教えだった。神主には社会的権威も地位もない。自覚すべきなのは、「装束の尊さ」であり、装束こそが日本精神の表現にほかならない(『魂は消えじ』)。

 頭山の教えは水野にとって、実感でもあったろう。幾多の危機を救ったのは、まさに装束だった。

 戦後の神社復興のために尽力したのは、むろん水野だけではない。

 夫人と2人、海水を煮詰めた塩を売って、神社の財政危機を乗り切った神職もいる。地元の排斥運動に阻まれながら、四散した社有地を取り戻し、荒廃した一の宮の再興を気負わずに実現した宮司もいる。

 内に秘めた信仰が民族の精神史の断絶を救ったことは間違いない。

 敗戦から50年、日本は国の滅亡どころか、世界的な経済大国に変貌した。可能にしたのは、東西冷戦構造と日米安保体制であろう。だが、冷戦の終結とともに、いま日本社会のほころびが日々、暴露されている。文明の終焉を予感させるほど、目を覆うばかりだ。

「民族が滅びるのは、他者の殺戮によるのではなく、自滅するのだ」

 ユダヤ人指導者ナフム・ゴールドマンの言葉を、私たちはかみしめる必要があるだろう。

 大連神社は来春(平成9年春)、鎮座90年、内地奉遷50年を迎える。

「最近は幼少期を満州で過ごした人たちの参拝が多い」といわれる。喜ばしいことだが、半世紀の移り変わりを御祭神はどのように見ておられるのだろう。

日照りのときは涙を流し──東京・川の手 2人の神職の物語 [神社人]

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日照りのときは涙を流し
──東京・川の手 2人の神職の物語
(「神社新報」平成7年6月12日号から)
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「日照りのときは涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き」

 病床にあった晩年の宮沢賢治が「雨にも負けず」を手帳に書き付けた昭和6年の秋、東北・北海道は大飢饉に襲われていた。

 この詩は大自然の猛威に対する人間の無力、そしてそれゆえにこそ、神々に無心に祈ることの尊さを教えてくれる。

 一昨年(平成5年)は冷夏と長雨に泣き、昨年(同6年)は猛暑と水不足に苦しんだ日本列島──。女心どころか、気狂いしたかのような異常気象に、人はなす術を知らない。

 科学万能の時代にあって、いまだ人間は台風を避けることもできず、逆に雨粒一滴も降らすことはできない。

 人間は水がなくては生きてはいけないが、その水が神々の手に委ねられていることは、昔も今も変わらない。

 命の支えである一方で、ときには尊い人命をも奪い去っていく水──。

 今回は、この水について、「水干ともに患う」といわれた東京・川の手に生きた、2人の神職の生き方を通して、考えてみたい。


▢1 関東平野を沃野に一変させた伊奈氏三代の治水工事

 私たちの身体は体重の3分の2までが水だという。生命を維持するには、食物と水が不可欠であるが、面白いことに、食物だけを摂取した場合よりも、水だけを摂取した場合の方が、長く生命を保つことができるらしい。

 まさに「生命の水」である。

 古来、日本人が水を神とあがめ、清らかな湧水や井戸水を重要な神饌として天神地祇に捧げてきたのは、「生命の水」なればこそだろう。

 水はまた田畑を潤し、豊穣をもたらす稔りの源泉である。ゆえに水禍を防ぎ、旱魃に備えることが人類の永遠のテーマとなる。

 現代人は、蛇口をひねれば安全な水を簡単に手に入れることができると、ともすれば思い込みがちであるが、それは単なる現代文明の幻想に過ぎない。

 たとえば、関東平野の中央を流れる利根川は、日本でもっとも流域面積の広い、日本を代表する河川であるが、ひとたび氾濫すれば、手に負えなくなる暴れん坊で、「板東太郎」と異名をとったほどである。

 そのため天正18(1590)年に江戸に入府した徳川家康は、新田開発とともに、河川改修に取り組むこととなった。

 もっとも代表的なのは、当時、江戸湾に注いでいた利根川を鹿島灘に東遷させるという大工事だった。

 工事を指揮したのは、関東郡代・伊奈忠次、忠政、忠治の三代である。

 伊奈氏三代の闘いは、65年におよび、関東平野を貫く河川の流れは一変し、氾濫原は沃野に生まれ変わった。


▢2 無私無心なればこそ天つ神に通じた祈雨

葛飾区高砂の毛なし池(葛飾区のHPから)
葛飾区高砂の毛無池.jpg
 時代がくだり、江戸から東京に変わったばかりの明治6年、東葛飾郡(いまの葛飾区)の人々は酷暑に苦しんでいた。

 なにしろ雨の降らない日が何十日も続き、大地は乾き、水田は干上がってひび割れた。

 4年前は冷夏と水害に見舞われていただけに、農民たちは恨めしそうに、空を仰いでいた。

 古利根川の下流・中川のほとり、高砂の毛なし池に鎮まる神社に、人々はワラにもすがる思いで、雨乞いをすることを決めた。

 天水分神(あめのみくまりのかみ)をまつる同社には、旱魃のときに神池の水を田畑に注いで祈願すると雨が降る、という言い伝えがあったからである。

 同社に残された記録によれば、8月14日から3日間、氏子一同による祈雨が斎行された。

「頃日絶久不雨降天津日乃光不得堪植田蒔苗鳥獣虫草木至迄焦損凋枯為諸人等憂吟以為使無天都水仰待」

 霊験あらたかというべきか、16日の夕刻、待ちに待った雨が降ってきた。

 けれども、乾ききった大地はまたたく間に雨水を吸い込んでしまう。氏子たちは肩を落として帰っていった。

 同社の神職は、その晩からたった1人で社殿にこもり、以前にも増して一心に祈ったという。

 すると、28日の満願の朝、雨雲が辰巳(東南)と戌亥(西北)の方角から湧き出で、徐々に空を覆っていった。

 黒雲はちょうど神池の真上でぶつかり、雷鳴とともに、ついに大雨が降ってきた。

 身命を賭した祈りは天つ神に届き、大地は生き返ったと伝えられている。

 残念ながら、この神職の雨乞いの伝承を証明する史料は見当たらない。東京気象台が観測を始めるのは、2年後の明治8年6月からである。

 しかし葛飾ではないが、弘化2(1845)年から明治12年までの35年間、東京・町田市馬駆の天気を連日克明に記録した『佐藤晴雨日記』というものがあり、これによると、「明治六癸酉(みずのととり)」は、

「7月2日朝曇、午前8字(ママ)小雨」

 のあとは40日以上も干天が続いている。二度、三度と村で雨乞いが行われているほどだ。

 その後、ようやく

「8月16日晴、午後5時雨、16日夜雨」

「17日晴、午前9字(ママ)大雨、直に晴」

 と待望の雨が降り、

 そしてまさに

「28日雨、28日午前6字(ママ)7時小雨」

「29日雨在り」

「30日雨有り」

 と3日間、雨が続いたことが確認される。

 葛飾区の神社に伝わる雨乞いが雨を降らせたなどとは断定できないが、少なくとも東京地方でこのとき雨が降ったらしいことは確認できる。伝承はけっして作り話ではない。

 同社の神職は、天保3(1832)年の生まれで、もとは「百姓」だった。

 神仏分離のとき、別当寺の本寺の願い出によって、「兼神道執心罷在候」のため、「百姓株悴(ママ)権次相譲」、改名のうえ、明治3年、神職となったと当時の文書が伝えている。

 3年前までは自分も「百姓」だっただけに、旱魃の恨めしさを痛いほど感じていたに違いない。

 ことに榛名山への信仰が人一倍篤く、下駄履きのまま、ひょいと家を出たかと思うと、歩いてお山に向かい、ひと月も帰宅しないことがしばしばだった。

 正妻のほかに内妻が2人いたという俗臭さを持っていた反面、修験の山で魂を磨くことを怠らなかったのだろう。4代目に当たる現宮司はこう語る。

「雨乞いのような祈祷は結果がすぐ見えるし、神職の資質と信仰が問われる。願主と心を1つにして、神様の前に自分を無にしなければ、とてもできることではありません」

 いうまでもなく、斎戒には、外清浄と内清浄がある。内清浄を軽視すれば、明鏡止水の境地に到達できようはずはない。

 初代宮司は自分の死亡日時を予言し、みずから霊璽を墨書し、木像を刻んだ。そして予言通り、明治35年2月27日の午後11時、71歳で帰幽した。

 常人離れした霊力を備えていたのであろうか。残念ながら、その人となりを直接知るのはすべて鬼籍の人で、これ以上詳しいことは分からない。


▢3 神と自然と人にかしづく句作が不断の「心の禊ぎ」

 さらに時代はくだり、昭和38年3月、葛飾区高砂から江戸川区を貫いて江戸川に注ぐ中川放水路(新中川)が完成した。人工の川である。

「ともすれば、たぎりあふれて堤を崩し、町々の産業(なりわえ)をそこなうのみならず、都の東の江戸川区、葛飾区、足立区、また埼玉(さきたま)の県(あがた)の一部をもしたして、濁り江の水のちまたとなすこと、免れ得ぬならいを憂(うちた)み、思おい」

 河口近くの今井水門完成後の通水式に、江戸川区のある神社に奉仕する宮司が奏上した祝詞の一節である。

 海抜ゼロメートル地帯の江戸川区は、たび重なる水害に苦しんできた。だからこそ、25年にわたる工事の末に完成した放水路は、

「都の東の人らは申すにおよばず、埼玉の県の人たちに大きな利益と恵みを授けたまえる」ものだった

 しかし宮司自身はもうひとつ別の思いも抱いていたらしい。

 そのむかし、宮司が奉仕する村の鎮守は、果てしなく広がる蓮田に囲まれた、静かな田園だったという。明治32年生まれの宮司は、ネコヤナギが芽吹き、ヨシキリがさえずる、美しい豊かな自然のなかで育った。

 宮司は「鳴瀬」と号する俳人で、蓮を好んで詠んだことから、「蓮の鳴瀬」の異名をとった。

「私の俳句は『泥臭い』ですよ。土の匂いがぷんぷんするんです」

 田園詩人の俳風は、青年時代、百姓仕事に従事したからだけではなく、戦後、江戸川、葛飾の神社数十社を兼務して磨きがかかった。

 同じ区内でも自然は多様で、湿地もあれば、砂地もある。粘土もある。土が人を育て、村独特の気風、習慣、言葉遣いまでが形成される。

「それが産土(うぶすな)なんだよ」

「土をバカにしてはならない」

 宮司の口癖だったという。

 神と自然と人にかしずくように前屈みで歩く「鳴瀬の畏(かしこ)み歩き」は有名だった。自然に神々が宿り、人間は神の宮であるという信念を実践した。

 市井の人と分け隔てなく、気さくに偉ぶらずに交わった。おカネに執着しないから、大事にしていたバイオリンを惜しげもなく乞食に与えてしまう。不幸な境遇に耐えかねて自殺しようとまで思い詰めた女性に、句作を勧め、死を思いとどまらせたこともある。

 よく通る、透明感のある、いい喉だった。詩情あふれる祝詞は氏子を魅了し、とりわけ弔辞は参列者の涙を誘わずにはおかなかった。他方、宴席ではちょっと淫猥な自作の歌が人気を博したという。

 人徳ばかりではない。節分祭の神事芸能など、お宮の行事を作れば、たえず人が自然に集まってくる。境内には自然があふれ、人々の「心のオアシス」だった。

 けれども今井水門が完成したころから、区内の歴史的な地名が新しくなり、同時に蓮田は消え、都市化が進んだ。

 そんなとき宮司は自宅で転び、足を負傷した。リハビリすれば歩けるようになるものを、あっさりと車イスの生活を選び、二度と外の世界を見ようとはしなかった。

 医者嫌いのせいもあろうが、蓮田のなくなった古里を見たくはなかったのではないか。

 宮司にとって神々は身近にいた。それは美しく、ときに荒ぶる自然であり、また人間の誠の心であった。ものぐさで、たまにしか禊ぎをしなかったのは神職として誉められたことではないが、「水垢のついた句は作らない」を信条とする句作は不断の「心の禊ぎ」だったのだろう。

 晩年、宮司はこう詠んだ。

神に仕へなぜか寂しき麻暖簾

「なぜか寂しき」にどんな思いをこめたのだろう。

 昭和55年の春、郷土の自然と人をうたった30冊の大学ノートいっぱいの俳句を残して、宮司は80年の生涯を閉じた。

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