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2 「密約」問題で大騒ぎする愚 by 花岡信昭 [鳩山由紀夫]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 2 「密約」問題で大騒ぎする愚 by 花岡信昭
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◇ 鳩山政権の幼稚さ ◇

 日米の「核密約」問題は、有識者による報告書が出たのだから、これで打ち止めにすべきだ。自民党政権時代の「ウソ」を暴き立てるのが、鳩山政権の目的のように見えるが、声高に騒げば騒ぐほど、政権の幼稚さが際立つことになる。

 この種のことは、外交秘話として歴史の中におさめておくことだ。それが賢明な政治というものだ。

 だいたいが、日本の安全保障はアメリカの「核の傘」を基盤としているのである。その有効性に傷をつけてはならない。

 密約の存在を一部にしろ認めるのは結構だとしても、これによって、「非核3原則」で日本の外交、安保政策の枠をがちがちに縛り付けるのは、愚策以外のなにものでもない。いざ有事というときに、アメリカの核の傘が有効に機能しなかったら、どういうことになるか。そのほうがはるかに恐ろしい。

 日本政府はこれまで、米側から事前協議の申し出がなかったから核持ち込みはなかったと判断する、という基本方針を取ってきた。これでいい。これが政治の巧緻というものである。

 実態としては、アメリカの核は潜水艦発射ミサイルが主体となっているから、今後、核の持ち込み、一時寄港が現実のものとなることはまずない。もっとも、有事となれば別だ。そのときには、最大限の力を発揮してもらわないと困る。

◇ 一時寄港容認を止めた宮沢 ◇

 宮沢喜一氏から生前に聞いた話を思い出している。外相当時のことだ。外務省内で「非核3原則を2・5原則にしたい」という構想が検討されていることを知ったという。一時寄港は認めようというものだ。

 リベラルの代表格の宮沢氏らしいところだが、これを聞いて、ただちにやめさせたという。その理由がいかにも宮沢氏のリアリズムを象徴している。

 「2・5原則への変更を言い出したりしたら、反対派がデモ船を大量に動員して東京湾を埋めるだろう。これを1週間もやられたら日本経済はもたない。いま、国論を二分するような話を持ち出す時期とは思えない」

 宮沢氏の指示により、外務省内でひそかに検討されていた「2・5原則への変更」は立ち消えとなった。

 非核3原則にしろ、武器輸出規制にしろ、日本の安全保障をあやうくする縛りが多すぎる。こういうことをやっている先進国がどれだけあるか。外交、安保政策の裁量の幅を自ら狭めてしまっては、抑止力もなにもあったものではない。

 民主党政権に発想の大転換を求めてもムダであることは百も承知しているが、一見、「よいこと」のように見える方針が実はもっともあやういのだ。


【産経配信記事】
日米密約「3密約を認定」有識者委員会

日米4密約問題を調査した外務省有識者委員会(座長・北岡伸一東大教授)は9日、報告書を岡田克也外相に提出した。昭和35(1960)年の日米安全保障条約改定時の核持ち込み容認と、47年の沖縄返還時の原状回復費肩代わり、朝鮮半島有事の米軍出動をめぐる合意の3つを密約と認定。44年の沖縄返還決定時の沖縄核再持ち込み合意については、政府内で引き継がれていないことなどを理由に密約としなかった。

 政権交代を受け、岡田外相は「国民の理解と信頼に基づく外交」実現に向けて取り組んだ。被爆国でありながら米国の「核の傘」に依存してきたことを背景に形成された一連の密約を同委員会は「政府のうそと不正直」(報告書)と評価した。ただ「持ち込ませず」などとした非核三原則と矛盾する密約の内容を今後、鳩山内閣が対米外交上、どう扱うのかが焦点となる。

 【日米密約有識者委員会のメンバー】
 北岡伸一東大教授(座長)=日本政治外交史▽波多野澄雄筑波大教授=近代日本外交史▽河野康子法政大教授=戦後日本政治史▽坂元一哉大阪大教授=日米関係論▽佐々木卓也立教大教授=米国外交史▽春名幹男名古屋大大学院教授=国際報道論


 [斎藤吉久から]花岡さんのご了解を得て、花岡信昭メールマガジン780号[2010・3・10]から転載しました。読者の便宜を考慮し、若干の編集を加えてあります。
http://www.melma.com/backnumber_142868_4787601/

 以前、書いたように、鳩山首相の「友愛」は「友愛の元祖」クーデンホーフ・カレルギーとは違って、現実的感覚がまるで欠けています。密約問題もしかりで、市村眞一先生が指摘したとおり、まさに書生論です。政治とはいえません。政策の優先順位を完全に見誤っています。


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2 鳩山首相の辞職を要望する by 市村眞一 [鳩山由紀夫]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 2 鳩山首相の辞職を要望する by 市村眞一
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◇1 歴史家トインビーの「宰相の4要件」

 鳩山氏の首相就任以来の発言と行動を見て、この人を日本国の首相に留めてはならぬと判断する。理由は以下に詳論するが、一日も早く首相の職を辞してもらいたい。日本国のため、民主党のために。

 良き宰相たるには、持つべき素質と条件がある。鳩山氏は、その要件を著しく満さない。もちろん、過去にも同様な首相は多い。鈴木善幸氏など一例である。ではその要件は何か。管見の及ぶところ、歴史家トインビーが、1924年以降の世界の指導的政治家を対比検討して要約した宰相の条件が見事である。

「成功した政治家の多くは、体力と財力に恵まれていたが、この2つは絶対ではない。ルーズベルトはひどい肉体的ハンディがあり、晩年のレーニンも同様であった。ロイド・ジョージの生れは貧しかった。歴史的に見て、政治家が成功する最も確実な条件は、それよりは次の4つである。
 〈1〉勇気と国民を奮い立たせる能力のあること、
 〈2〉私的偏見のないこと、
 〈3〉他人の考えや気持を敏感に捉える直感力、
 〈4〉あくまで、確実で限られた目標を追求すること。」

 つづけて、トインビーは、アタチュルク、チャーチル、ガンディ、ホーチミンが、国難に際し国民を奮い立たせた非凡の力量を称えたあと、私心のないことに言及する。

「トルーマンは、私的偏見がなく、正直で誠実な強い意志の持ち主として、いまでは非常に高い評価を受けている。社会的にも、個人的にも、依怙贔屓(えこひいき)が少ないことは、現代の政治家や政党が生き残る必須の条件である。政党が、組合や大企業や私利私欲の走狗(そうく)と化したのでは、もうお終(しま)いである。政治に策略はつきものである。かの禁欲的聖人のガンディもなかなか抜け目のない政治家でもあったが、しかしその策略は卑劣なものではなかった。同じ革命政治家のなかでも、トロッキーは幻想家として失敗し、レーニンとスターリンは現実主義者として成功した。」

 この名言に照らせば、鳩山氏の能力と知識は4条件のどれも満さないが、致命的なのは、とくに第4条件、次いで第2条件である。なお同氏には、トインビー条件以外にも問題があるが、それは後述する。


◇2 現実を直視できぬ政治家は必ず失敗する

 トロッキーも、スターリンの死後ゴルバチョフまでのソ連指導者も、毛沢東とその追随者も、自国を取り巻く国際環境と力関係を冷静に認識できなかった。

 鳩山首相も、日本を取り巻く現実の把握が非常に甘く、日本の経済力と政治力の限界を知らない。それは首相が「VOICE」誌の昨年9月号に書いた「私の政治哲学」を読み、また、いまの予算編成の過程と普天間問題処理のもたつきを見れば明々白々である。

 トインビーのいう幻想家に近い。超楽観的な歳入見通しを立て、俗受けするマニフェストを掲げ、予算編成がとどのつまりに来るまで決断せず、結局、謝罪してけろりとしていることが、彼の力と素質を物語る。

 その思考を一言で表せば、「希望的観測思考」Wishful Thinkingである。必ずや、普天間問題でも同じ失敗を繰返すであろう。予算は国債増発で一時を糊塗できるが、普天間問題はそうは行かない。

 政権交代時に日米間で交渉中なら話は別だが、それはすでに日米両政府間で「グアム協定」に関連して合意し、国会で議決され、米国務長官と日本の中曽根外相がサイン済みだ。それを鳩山首相は先延ばした上、5月末までに普天間の移設先を決めると何度も明言する。

 しかし二つの困難なハードルをどう越えるのか。第一は、辺野古以外の移設先の特定と受入れ先の同意、第二は、それへの米政府の同意である。官房長官も外相も防衛相も、行き先が決まらぬ事態を心配して色々発言するが、首相のみは、未だに交渉を始めもしないで、どこかに決め得るかのごとく希望的観測を語る。

 しかも「覚悟」して事に当っていると言う。記者が決まらぬ時の覚悟かと問いつめても、言を左右にして答えない。それは典型的に、現実を直視できぬ幻想家の優柔不断な姿である。

 だが予算と同様、とどのつまりが3、4カ月後に必ず来る。そのとき謝ってすむものではない。沖縄の反発にどう対処するのか、日米関係への打撃への責をどう負うのか。もしそんな事態を惹き起せば、首相の職を辞してもらいたい。いったん決まっていた重大問題を再発させ、混乱させた見通しの悪さと誤った判断の責は、辞職でつぐなうほかはない。


◇3 「私の政治哲学」の現実離れ

 首相がこのようにトインビーの第4条件を満さぬことは、炯眼(けいがん)なる読者なら、先の「政治哲学」からも読みとれたはずである。それは一政治評論としては有意義な内容だが、近く首相の座につく人の論としは余りに「現実離れ」で、厳しく言えば「書生論」だからである。

 首相は書く。祖父が尊敬したクーデンホーフ・カレルギー伯の「友愛」の理想に共鳴し、共産主義とナチズムという左右の全体主義の行きすぎた「平等」の追求にも、アメリカの市場原理主義の行きすぎた「自由」の追求にも反対である。個人・家族・地域・民族国家のなかでの友愛と民主政治の徹底をもとめ、国内では「地域主権」国家の建設を、国際的には民族国家の枠を越えて、欧州連合のような「アジア共同体」を目指したい、と。それに必要として、憲法の改正までも提言する。

 しかし、首相がみずから最後にクーデンホーフ・カレルギー伯の言葉を引用して書いたように、「すべての偉大な歴史的出来事は、ユートビアとして始まり、現実として終った。そして1つの考えがユートピアにとどまるか、現実となるかは、それを信じる人間の数と実行力にかかっている」のである。

 政治家に問われるのは、まさに実行力である。首相は実行の手筈や工程表を語らねばならぬ。希望的観測を語ってはならない。そこが解っていない。

 二酸化炭素削減25%を、いかに実現するかの論議や委員会への諮問もなく、突然、首相が国際的約束を言うが如きは狂気の沙汰に近い。そして評判がよいと言って喜ぶとは、軽薄の至りであろう。問題対策の法令や規則を作るのが政治的実行力であり、そうでなければ「幻想家」にすぎない。


◇4 「人ノ其ノ言ヲ易(やす)クスルハ、責ナキノミ」

 首相の言動の軽さは目に余る。

 もっともひどいのは、前に「秘書の罪は議員の罪である。私ならバッジをはずす」と、大見得を切っておきながら、今回の脱税問題で己の秘書が2名も起訴されても「自分はまったく知らなかった、私は私腹は肥やしていない」と言い訳して平然としている。こんな食言は通らない。

 親からの援助の詳細を知らずとも、巨額な入金を察せず、その会計処理を監督できない人に世界一の借金国の経理を委せてよいのか。また巨額の政治資金があればこそ、彼は首相の座を得た。それは権力欲という私腹を満たしたと言えないか。

「武士に二言なし」とは、わが国のエリートの矜持(きょうじ)である。シナでも孟子は表題のごとく言った。言信なくば、それだけで指導者失格である。

 さらに首相には「ぶれ」や逡巡(しゅんじゅん)が多い。それは国を軸がぶれる駒にしてしまう。

 西郷南洲遺訓は言う。「昨日出でし命令の、今日忽ち引き易ふると云ふ様なるも、皆、統轄するところ一ならずして、施政の方針一定せざるの致すところ也」と。旧陸軍の作戦用務例はいう「遅疑逡巡ハ、指揮官ノ最モ慎ムベキモノトス」と。

 首相は日本の指揮官である。とくに外交防衛政策に定見がなくては、一国を指導できない。首相は「政治哲学」のなかで、日米同盟は日本外交の基軸だと書きながら、駐留米軍が果している役割にも日米安保条約が片務的になっていることにも触れない。そればかりか、数年前に「駐留無き安保」を主張していたことを否定もしていない。

 今回問い正されて初めて「現実に首相になってはこれを封印する」と語った。そこには、アメリカへの極端な「甘え」がある。しかも平然と、緊密対等な日米安保と主張する。だが首相は、わが自衛隊が戦場で米軍に守られるが、米軍を守らないことを問わない。それで対等か。首相は憲法解釈を変えて、集団安保を認める気はさらさらない。対等とは何ぞ。


◇5 深まる日本国への打撃

 首相は、いまの金融危機をもっぱら米国の市場原理主義の責めにする。だが、その前の97年のアジア金融危機も、日本の「失われた90年代」の長期不況も論じない。それらは決して市場原理主義のせいではない。首相の議論は単純すぎ、また反米のトーンが強すぎ、世界経済の他の大切な要因を見落としている。

 これらから判断して、首相は国際政治と経済問題の助言者の選択を誤っている。とくに首相の防衛問題の意見がぶれたのは、対米関係と沖縄問題についての助言者が適切でなかったからであろう。もし報じられるがごとく、寺島実郎氏が助言者なら、別人の意見に早急に耳を傾けるべきである。しかし人選は所詮、首相の責任である。

 国内問題での「地方主権」論もきわめて未熟である。私自身、分権問題には多年、専門的考察を重ねてきたが(拙論「アジアの発展と地方分権政策」『東アジアへの視点』平成21年3月参照)、この難問につき、首相が専門家の助言を求められた痕跡がない。

 以上から、鳩山首相が長く首相の座に留まられれば留まられるほど、日本国への打撃は深くなると判断する。その辞職を要望する所以である。


 ☆斎藤吉久注 市村先生のご了解を得て、3月1日発行「日本」4月号(日本学協会)〈http://members.jcom.home.ne.jp/nihongakukyokai/〉から転載させていただきました。適宜、若干の編集を加えてあります。

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1 天皇論、中国論、現実的感覚がない by 斎藤吉久──鳩山首相の「友愛」を考える その2 [鳩山由紀夫]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2010年2月23日)からの転載です


 前号は建国記念日の陛下の御拝が掌典による御代拝となったことについて書きましたが、先週末、いつものように、宮内庁のホームページにこの週のご日程が掲載されました。
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/h22/gonittei-1-2010-1.html

 けれども、たいへん興味深いことに、2月11日のご日程が記載されていません。

 2点、指摘したいと思います。(1)「御代拝」は陛下のご日程と認識されていないこと、(2)建国記念の日の拝礼が軽視されていること、の2点です。


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1 天皇論、中国論、現実的感覚がない by 斎藤吉久
──鳩山首相の「友愛」を考える その2
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▽1 ご日程に載らない「御代拝」

 まず1点目。どうも御代拝は陛下の祈りだと認識されていないように見えます。

 なるほど建国記念の日の陛下の御拝は、掌典の御代拝に代わりました。けれども「掌典の御代拝」は「掌典による御代拝」であって、主体はあくまで陛下です。「掌典の代拝」ではありません。

 同様にして、侍従によって毎日、行われる毎朝御代拝もご日程には掲載がありません。毎日のことだから、というより、「侍従の代拝」という意識が感じられます。「陛下の御代拝」ではなく、「侍従の代拝」という理解なればこそ、側近たちは昭和50年8月の長官室会議で「庭上よりモーニングで」(入江日記)と簡単に形式を変えたのでしょう。

 視点を変えれば、「行動する天皇論」という近代的な発想が背後に透けて見えます。それは明治学院大学の原武史教授が、もはや農耕社会ではない現代において、農耕儀礼である宮中祭祀の廃止を検討したらどうか。皇太子は格差社会の救世主として行動すべきだ、と提案したのと共通します。橋本明さんの廃太子論とも通じます。いみじくも宮内庁HPのURLは、ご日程が activity と表現されています。

 皇室自身の天皇観では、行動するのが天皇なのではありません。国と民のためにつねに祈られるのが天皇です。三殿にお出ましにならなくても、侍従や掌典による御代拝となっても、陛下は祈らないわけではありません。しかし祈りより行動が優先されている。だから、ご日程に掲載されないのでしょう。


▽2 「建国記念の日」を避けている

 2番目。陛下は初代神武天皇に由来する建国記念の日を重く受け止められ、この日の御拝を欠かさず続けてこられましたが、その祈りが軽視されているように私には見えます。

 今回の経緯を振り返ると、宮内庁発表によれば、陛下は2月2日にご気分を悪くされ、翌日からの葉山行幸をお取りやめになりました。ノロウイルス感染症とのことで、ご療養のため、(1)2月10日の都内美術館行幸を延期する、(2)翌11日の宮中三殿御拝は掌典の御代拝とする、(3)12日の世界らん展のお出ましを控える、という対応がなされました。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/kohyo/kohyo-h22-0202.html

 この発表からすると、陛下が3日のあいだご静養されたのかといえば、そうではありません。2日の日にも、ご静養期間とされたはずの3日から7日にもご執務がありました。さらに8日にはご進講やお茶、10日には認証官任命式や拝謁、12日には信任状捧呈式、13日には反正天皇千六百式年祭の儀が皇霊殿で執り行われました。

 このような忙しいご日程で、陛下は十分な療養ができたのでしょうか? 大いに疑問です。逆にこれで十分だったのだとすれば、なぜことさらに建国記念の日の御拝を御代拝としなければならなかったのでしょうか? つじつまが合いません。

 建国記念の日を、宮内庁あるいは政府が避けているのではないか、と思わざるを得ないのです。


▽3 浮世離れした「宇宙人」宰相

 さて、延び延びになっていた鳩山首相の「友愛」について、簡単に考えたいと思います。テキストは「Voice」平成21年9月号に掲載されたエッセイ「私の政治哲学」です。
http://www.hatoyama.gr.jp/masscomm/090810.html

 前回、2月2日発行の116号では、カレルギー全集を資料として、首相の「友愛」は、隣国の共産党独裁に対する現実的感覚が欠けている点で、「EUの父」リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの「友愛」とも、祖父・鳩山一郎元首相の「友愛」とも異なる、と指摘しました。
http://www.melma.com/backnumber_170937_4750317/

 今回、取り上げる「Voice」掲載の論考は、カレルギーの引用がちりばめられた、読み応えのあるもので、鳩山氏は、カレルギーの「友愛」は左右の全体主義との激しい戦いを支える戦闘の理論だった。鳩山一郎は、一方で社共両党に対抗しつつ、他方で官僚派吉田政権を打ち倒し、党人派政権を打ち立てる旗印として「友愛」を掲げた。冷戦が終わり、全体主義国家が終焉した現代、「友愛」は「自立と共生の原理」と再定義される、と解説し、市場至上主義からの転換、地域主権国家への変革、東アジア共同体の創造を訴えています。

 しかし、この論考には、天皇論、中国論、そして現実的感覚の3つが欠けています。

 たとえば、鳩山氏はグローバリズムの席巻によって衰弱した日本の「公」の領域を復興し、あるいは新たな公の領域を創造し、人と人とが助け合う「共生の社会」を創るのだと訴えるのですが、古来、日本では「公」とは皇室の意味であり、多様な国民が共存する日本社会の中心こそ天皇のはずですが、エッセイには天皇の「て」の字もありません。「伝統や文化」を謳いつつ、それらを体現しているはずの天皇には言及がありません。

 2番目は、前回も触れましたが、ヨーロッパでは崩壊した共産党独裁国家が、アジアでは軍事的、経済的脅威として存在していることが、アメリカ発のグローバリズムほどには注目されず、したがって分析もされていないことです。アジアではけっして冷戦は終わっていないのに、視野にないのです。

 また、ヨーロッパの統合は、冷戦の終わりのほかに、キリスト教という共通基盤があることが重要な要因として指摘できます。しかしアジアの多神教世界には共通する精神的基盤がありません。政治的、経済的な共生の必要性が意識として共有できているわけでもありません。ヨーロッパ統合という一神教モデルは、諸宗教が混在するアジアのモデルになり得るかどうか疑問です。

 というように見てくると、鳩山首相の「友愛」は現実的感覚に欠けている、という印象を免れないのです。政治は現実そのものなのに、とくにいま喫緊の課題として解決されるべき現実が目の前に山積しているのに、「友愛」論はいかにも浮世離れしています。それこそが「宇宙人」宰相と呼ばれるゆえんでしょうか? いや、これは政治とはいえないのではありませんか?


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1 「EUの父」と似て非なり by 斎藤吉久──鳩山首相の「友愛」を考える その1 [鳩山由紀夫]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2010年2月2日)からの転載です


 まずお知らせです。1日発売の「THEMIS」2月号に、「中国は『皇太子ご夫妻&小和田家』懐柔に動く」という記事が載っています。私のコメントも取り上げられています。お買い求めのうえ、お読みいただければありがたいです。
http://www.e-themis.net/

 さて、天皇の祈りを中核とする日本の多神教的、多宗教的文明には、(1)主体性を見失いがちである、(2)一神教文明に対する抵抗力が弱い、という2つの短所があり、奇しくもこの2つが同居しているのが「小鳩」政権で、先週はこのうち、一神教的な憲法論に同化している小沢一郎幹事長の「豪腕」についてお話ししました。

 今週は鳩山由紀夫首相の「友愛」についてお話しします。前号メルマガの最後に、ごく簡単に申し上げたように、首相の「友愛」は、その原点といわれる「EUの父」リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵の「友愛」とも、祖父・鳩山一郎元首相の「友愛」とも異なると私は考えます。

 国家元首でもない中国国家副主席の「天皇特例会見」を演出したのも、普天間基地移設問題をめぐって混乱を重ね、日米関係を最大の危機に陥らせている原因もそこにある、と私は思います。

 キーワードは共産主義、もしくは共産党独裁に対する現実的感覚の欠落です。その点、鳩山由紀夫首相が昨秋、北京で温家宝首相と会談し、「東シナ海を『友愛の海』にしよう」と呼びかけたのは、きわめて象徴的だと考えます。


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1 「EUの父」と似て非なり by 斎藤吉久
──鳩山首相の「友愛」を考える その1
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▽1 クーデンホーフ=カレルギーを鳩山一郎が翻訳

 鳩山由起夫首相の「友愛」は直接的には、祖父である鳩山一郎元首相の政治哲学を引き継いでいます。

「友愛社会の実現」を目的とする日本友愛青年協会なる財団法人があります。鳩山一郎元首相の唱えた「友愛」を基調に、次代を創る青年の育成を目的として、昭和28年に創設された友愛青年同志会を母体としています。
http://www.yuaiyouth.or.jp/index.html

 現在の代表者は鳩山由紀夫理事長(休職中)その人です。名誉会長は首相の母安子氏、副理事長には鳩山邦夫元総務相と長姉・井上和子氏の2人の名前が並んでいます。興味深いことに、協会の主な活動には日中友好事業が含まれ、100億円のいわゆる小渕基金から助成を受けて、植林訪中団を毎年派遣しているようです。

 さはさりながら、「友愛」は鳩山一郎元首相の独創ではありません。

 ほかならぬ協会のホームページに説明されているように、昭和27年に、鳩山一郎氏が汎ヨーロッパ運動の主宰者であるリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの著書から発想を得たのが最初です。

 鳩山由紀夫首相は「Voice」昨年9月号に掲載された「私の政治哲学」で、「祖父鳩山一郎が、クーデンホフ・カレルギーの著書を翻訳して出版したとき、このフラタナティを博愛ではなくて友愛と訳した。それは柔弱どころか、革命の旗印ともなった戦闘的概念なのである」と解説しています。
http://www.hatoyama.gr.jp/masscomm/090810.html#header


▽2 日本女性を母に、東京で生まれた

 汎ヨーロッパ運動が評価され、再三、ノーベル平和賞候補に挙げられたというリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯は、日清戦争のさなかの明治27(1894)年、東京で生まれました。

 父親のハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギーはオーストリア伯爵で、外交官でした。東京駐在公使のおり、見初めたのが光子(旧姓青山)で、2人は結婚します。リヒャルトは次男で、日本名をエイジロウといいました。

 夫ハインリヒが母国に帰国するとき、光子は昭憲皇太后の拝謁をたまわり、「外国に嫁いでも日本婦人たることを忘れぬように」とお言葉を得たことを、生涯、肝に銘じたといわれます。

 日本人の母を持ち、日本で生まれたことが、リヒャルトの汎ヨーロッパ運動に少なからぬ影響を与えたことは十分、想像されます。

 興味深いのは、鳩山一郎がリヒャルトに関心を持つはるか以前、俗に「右翼の総帥」といわれる頭山満がリヒャルトの存在に注目していたことです。

 クーデンホーフ・カレルギー全集第1巻の巻頭にある木村毅の解説によれば、支那事変(日中戦争)が泥沼化していたころ、作家たちとともに従軍した木村は、軍の依頼を受け、占領地・漢口の放送局で、重慶に向けた和平提案のマイクの前に立ったといいます。


▽3 頭山満「大アジア主義」との共通性

 しばらくして、「不思議な反応」があらわれます。重慶ではなく、日本の内地から、頭山の使者なる人物が漢口に飛んできました。「この際、クーデンホーフ・カレルギーを呼んできて、アジア共同体の提案を重慶させたらどうか?」。文学者の木村毅は「奇抜な案に驚いた」と回想しています。

 しかし、なんら驚くには値しません。敗戦後、占領軍は頭山らの玄洋社を「侵略戦争推進団体」と決めつけて解散させ、戦後のアカデミズムやジャーナリズムは頭山を敬遠してきましたが、近年、歴史の封印が解かれ、頭山が孫文などアジアの革命家を支援していたことが一般に知られるようになっています。
http://homepage.mac.com/saito_sy/war/JSH180417toyama.html

 右翼人士こそ「侵略戦争」推進の張本人だ、といまなお信じ込んでいる人たちには意外かもしれませんが、昭和13年当時、香港を舞台とした朝日新聞による日中和平工作の背後には民族派の存在がありました。上海戦線での軍の暴走を食い止めようとしたのも彼らでした。
http://homepage.mac.com/saito_sy/war/H1002asahi.html

 それどころか、リヒャルトの汎ヨーロッパ運動は頭山の大アジア主義と通じるものがあります。

 木村毅が解説するように、リヒャルトは、日本帝国が勃興し、日露戦争に勝利したことがアジア解放の一大転機になった。ヨーロッパ諸国が身勝手にも、アジアを植民地支配の対象としか見なかったときに、日本という一大国家が誕生したうえに、ヨーロッパのアジア植民地より大きな勢力を築いた。こうして白人による世界支配は打破された──と考えていました。


▽4 「全体主義国家の黎明は消えた」

 戦前から自由主義者、反共主義者として知られていた鳩山一郎がリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの思想に感銘したのは、『自由と人生』(原題は『全体的人間対全体主義的国家』)の最終章にかかげられた友愛思想と友愛革命の提唱に対してだったといわれます。

 戦後、公職追放の境遇にあった鳩山一郎はリヒャルトの英訳本と出会い、翻訳し、『自由と人生』と題して、27年に出版しました。その際、英語の「fraternity」を「友愛」と訳したのでした。翌年には友愛青年同志会が結成されます。

『自由と人生』の最終章「友愛革命」は、次のような文章で始まっています。

「全体主義国家を克服するに必要な第一歩は、ボルシェヴィズムの全敗と、階級闘争の破産というかたちで開けてきた。
 この事実はいまだ大衆の意識に浸透してはいない。しかれども真理は自然にその道をひらくものだ。その進行は、虚構や宣伝によって妨害することはできても、結局、それを停止することはできない」

 また次のような文章もあります。

「ファシズム誕生が、ボルシェヴィズムの誕生につづいたように、ファシズムの最後が、ボルシェヴィズムの最後に続いて到来するであろう。しかしてそれはまさしくその使命を完遂するであろう。全体主義国家の黎明は消えた。そしてやはり全体主義的人間の曙も終わるのである」

 前述した鳩山由起夫首相の説明にあるように、「友愛」はきわめて「戦闘的」です。


▽5 共産主義と妥協した鳩山一郎

 リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーが「友愛革命」で戦いを挑んだのは、いうまでもなく、全体主義に対してです。

 鳩山一郎が「友愛」に注目したのも、そこにあるのでしょう。鳩山の「訳者の言葉」には次のような文章が見いだせます。

「民主主義と共産主義とは妥協協調できるであろうか。…(中略)…中国では国民党と中共が、死か生かの決戦態勢をとることとなり、また欧州では、欧州復興会議その他において円満に解決を見ざる事実が頻発するを見ると、客観的情勢は民主主義と共産主義とが、果たして妥協できるかどうか怪しくなってきたと思う」

 自由主義、民主主義の精神を理解し、実行するために、『自由と人生』を翻訳したと鳩山は説明しています。

 また友愛青年同志会の綱領には次のように書いてあります。

「われわれは自由主義の旗のもとに友愛革命に挺身し、左右両翼の極端なる思想を排除して、健全明朗なる民主社会の実現と自主独立の文化国家の建設に邁進する」

 しかし、29年暮れに首相となった鳩山は31年秋、モスクワに飛び、ブルガーニン首相との日ソ共同宣言に署名します。鳩山一郎は「友愛」の戦闘精神を失い、共産主義と妥協したのです。リヒャルトとの決定的な違いです。

 およそ10年後の42年、リヒャルトは来日し、次のように講演しました。

「中国において共産主義は、キリスト教がついに打ち克ち得なかった2000年以上の歴史を持つ儒教の哲学と伝統を、10数年の短い間に破壊征服してしまった。中国がその偉大な伝統と精神を捨て去った今日、日本は神道、仏教、儒教などの東洋の精神が失われていない唯一の国、ヨーロッパ文明と東方文化を融合して両者の架け橋となり得る唯一の国であり、日本こそ人類の将来を託するに足る大きな希望の国である」

 このように日本の価値を高く評価する一方で、リヒャルトは警告を忘れませんでした。

「現代の日本が直面している危険は、第3次世界大戦や共産主義の脅威のほかに、日本自身が物質的な繁栄を謳歌しているあいだにその魂を失うことであり、国民的伝統を捨てて、西欧の物質的文明国家に変貌して、ある点で西欧文化に優っている文化的価値を失うにいたることである」


▽6 中国共産党の独裁が見えない

 リヒャルトの汎ヨーロッパ主義は今日のEU構想の先駆けとなりました。しかし欧州統合を深化させた大きな要因として忘れてはならないのは、リヒャルトが戦闘の対象とした共産主義の崩壊です。

 鳩山由起夫首相の「私の政治哲学」によると、この冷戦の終わりこそ、鳩山首相に自民党の歴史的役割の終焉を痛感させ、祖父一郎が創設した自民党を離党させ、やがて民主党を結成させるきっかけとなったようです。

 鳩山首相は、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーや鳩山一郎が対峙した全体主義国家が終焉した。したがって「友愛」精神を「自立と共生の原理」と再定義したのだ、と説明しています。首相の「アジア共同体」構想もそこから導かれ、あまつさえ夢物語のようなアジア共通通貨の実現さえ提唱されています。

 しかし鳩山首相は肝心なことを忘れています。ヨーロッパではたしかに共産主義は崩壊しましたが、アジアではリヒャルトが懸念した中国共産党の独裁がつづいています。鳩山一郎はまだしもスターリンという存在が見えていたのに、鳩山由起夫首相は、マルクス主義がグローバリズムとともに頓挫した、と断定しています。共産党独裁がその視野から消えているのです。

「東シナ海を『友愛の海』に」と主体性もなくすり寄る提案は、全体主義国家と対峙し、「日本よ、ヨーロッパと東洋の架け橋になれ」と訴えた、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの「友愛」とは、もはやまったくの別物といわねばなりません。

 首相は、「友愛」は「愛」(love)とは違い、柔弱ではない、と「私の政治哲学」に強調していますが、柔弱どころか危険な臭いが濃厚です。


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「小鳩」政権に同居する多神教文明の欠点────主体性なき「友愛」と一神教的「豪腕」 [鳩山由紀夫]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2010年1月19日)からの転載です


 阪神大震災からちょうど15年になる日曜日、犠牲者をいたむ追悼式典が神戸市内の県公館で行われました。皇太子殿下が妃殿下を伴われて、ご臨席になったのは、皇室にとって久しぶりに明るい話題となりました。

 しかし気になることが1点ありました。5年前、両陛下がご臨席になった10周年式典もそうでしたが、式典の後半で、モーツアルト作曲の「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が「献唱歌」として歌われたことです。
http://homepage.mac.com/saito_sy/yasukuni/SRH1802mokutou.html

 追悼式典は官民合同の県民会議が推進する15周年事業の一環ですが、会長は県知事で、事務局は県庁に置かれています。県の予算が使われ、県の施設で行われた式典で、イエス・キリストを賛美する「聖体賛歌」が流れたのです。

 指摘したいのは、完全なダブル・スタンダードが続く日本の宗教政策です。宮中祭祀や神道に関しては厳格な政教分離主義が採用される一方で、ほかの宗教に対してはゆるやかな分離主義がとられています。要するに宗教差別です。

 宮中祭祀が昭和40年代以降、簡略化されたのは、拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』に書きましたように、入江相政侍従長の祭祀嫌いにくわえて、天皇の祭祀は宗教だから公務員は関わることができない、と考える厳格主義が蔓延したからです。

 たとえば、天皇に代わって側近の侍従を三殿につかわし、拝礼させる毎朝御代拝(まいちょうごだいはい)は、昭和50年8月の宮内庁長官室会議で、神殿からなるべく離れた庭上から、装束ではなくモーニングで、と「改正」(卜部日記)されました。

 ところが、仏教、キリスト教には厳格主義はとられません。関東大震災・東京大空襲の犠牲者を慰霊する東京都慰霊堂の追悼行事は仏式で行われています。長崎の二十六聖人記念館およびレリーフは市有地に建てられています。小泉政権時代には首相官邸でイスラム行事「イフタール」が行われました。

 信教の自由を保障することは重要であり、天皇の祈りこそは古来、日本の多神教的、多宗教的文明の核心ですが、政府のダブル・スタンダード政策は世界に類例なき文明の根幹を揺るがしています。


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「小鳩」政権に同居する多神教文明の欠点
──主体性なき「友愛」と一神教的「豪腕」
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▽アメリカのユニクロは日本のユニクロと違う

 さて、作家の村上龍さんが編集長をつとめるメールマガジンJMM(Japan Mail Media)に、ニューヨーク在住の肥和野佳子さんが昨年末、日本では人気を独占したユニクロのヒートテックがアメリカでは必ずしもそうではないことについて、リポートしていました。
http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/report/report27_1885.html

 セントラル・ヒーティングが完備されているアメリカでは、暖かい下着の需要が低いだけではありません。アメリカ人の客のニーズに合わせたサイズの大きい品揃えがされていないこと、さらに店員の質が低いことを、肥和野さんは指摘しています。

 需要の多いXL、Lサイズが客の手の届かない上の棚につるされている。たまりかねた肥和野さんが指摘しても、店員は上の空のようで、同じユニクロでも、お客様第一で対応する日本のユニクロとは雲泥の差だというのです。

 なぜそのような日米の違いがあらわれるのか? 国際税務のスペシャリストである肥和野さんのリポートはそれ以上、追究していませんが、品揃えや社員教育では乗り越えられない、もっと深い理由がありそうです。

 つまり、文明の本質に関わることです。


▽常識論的なデール・カーネギーの法則

『人を動かす』『道は開ける』などの世界的ベストセラーで知られる、アメリカの実業家デール・カーネギーは、人間関係論に関するさまざまな法則を明示しています。けれども面白いことに、それらは私たち日本人には常識的なことばかりです。たとえば、次のように、です。

 人の批判をしない。
 誠実に対応する。
 自己主張せず、聞き役になる。
 相手の意見を尊重する。
 自分の誤りを認める。
 人の身になって考える。
 人を誉める。

 ひと言で言えば、他者の立場、他人の価値観を認める思いやりでしょう。

 カーネギーを最初に読んだとき、何をいまさら当たり前のことをいっているんだろう、なぜこの程度の常識論がベストセラーになるのだろう、と思ったのは私だけでしょうか? 「人を動かす3原則」などといえば、いかにも新発見のように聞こえます。けれども、その中身は日本人ならだれでも知っている処世訓であって、日本のユニクロの社員ならずとも、ごくふつうに実践していることです。

 自分の価値観を絶対視せずに、他者の価値観を認め、他者の価値基準に立って考え、行動する。価値の多様性の容認を日常的に実践するという、日本人には当たり前のことが、アメリカでは当たり前ではない。だからカーネギーはいまも売れ続けているし、アメリカのユニクロは日本のユニクロとは違うのでしょう。


▽マンスフィールド大使の天皇論

 アメリカだけではありません。アジアの国々、さらに遊牧民の文化を伝える国に行くと、たとえば、タクシーに乗ったら、メーター料金を乗客の人数分、かけ算して支払うよう要求された、というような体験談をよく聞きます。

 けっして笑い話ではありません。市場(いちば)でのちょっとした買い物でさえ食うか食われるか、気が抜けません。値切り交渉は不可欠で、いかにうまく客を出し抜いて、一銭でも利益を得るか、があからさまです。お客様のために、などというぬるま湯の対応は期待できません。飲み屋で酔いつぶるのはご法度です。

 客はむしり取るための存在に過ぎません。お客様第一主義が当然と考えている日本人は、あまりの違いに戸惑い、疲れ果て、たいていは白旗をかかげることになります。

 それは彼らが貧しいからではけっしてありません。民度が低いからではありません。社員教育の不徹底でもありません。経済行為の背後にある基本的な倫理、文明のかたちが違うからです。

 安倍晋三元首相の『美しい国へ』に、アメリカのマンスフィールド大使と安倍晋太郎外相の逸話が紹介されています。マンスフィールド大使が「日本の経済発展の秘密とは何か?」を問いかけ、安倍外相が「日本人の勤勉性」と答えたのに対して、大使は「天皇です」と述べたというのです。

 子息である安倍元首相は、天皇という微動だにしない存在があり、社会の安定性を失わなかった、だから経済が発展した、と説明していますが、それならなぜ天皇の存在は微動だにしないものであり続けてきたのか? 天皇とはどのような存在なのか? より重要なのはそこでしょう。


▽他者のために祈る天皇

 唯一の価値体系しか認めないのが一神教世界です。まず絶対神の存在があり、それを信じる個人としての自分がいます。自分の神が唯一にして絶対であれば、信じる神が異なることによって、ときに殺戮と破壊が正当化されます。

 してみれば、一神教世界にあって、たとえビジネス社会に限定されるとしても、カーネギーが他者の価値観を認めなさい、と説くことは、まるで宗教革命です。

 ところが日本の天皇は、それどころでありません。ご自身ではなく、もっぱら他者のために祈ることをご自身の第一の務めとされています。国と民のためにひたすら祈ることが天皇の天皇たるゆえんです。天皇の祈りこそは、価値の多様性を前提に、多様なる国民を多様なるままに統合する、多神教的、多宗教的な文明の中心です。

 歴代天皇こそ、さしずめカーネギーの法則の実践者です。公正かつ無私なる天皇の祈りが社会を安定させ、それを基礎に日本の経済は発展してきたのではありませんか? 日本最古の紙幣は、安土桃山時代末期に、皇祖神をまつる伊勢神宮の神職(御師)たちが発行した「山田羽書(やまだはがき)」で、伊勢の信仰を基盤に流通し、藩札の原型となったことは、きわめて象徴的です。
http://web.mac.com/saito_sy/iWeb/SAITO%20Yoshihasa%20Website/7E4F1627-B85B-11DC-9C5F-000A95D44250/7E91AEA2-78B3-11DD-A1F4-000A95D44250.html

 けれども日本の多神教的、多宗教的文明には2つの重大な欠点があります。主体性を失いがちになること、原理の異なる文明に対する抵抗力が弱いことです。

 面白いことに、この2つの欠点が同居しているのが、「小鳩」政権です。鳩山首相の「友愛」精神には国家の中心軸が見当たりません。小沢幹事長の「豪腕」は、天皇の文明とは異質の一神教文明的、戦後民主主義的な多数派の専制によって、天皇をも自由に動かそうとします。


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